「GODZILLA 星を喰う者」 文明は何のために存在しているのか
いわゆるアニゴジシリーズ第3作にして最終章となる「GOZILLA 星を喰う者」です。
このシリーズはゴジラを扱いながらも従来の特撮とは異なった解釈で人を超越するゴジラという存在をハードSFテイストで描いています。
また脚本が虚淵玄さんが担当しているので、ある種、哲学的であり、また一面無情なテイストがあります。
虚淵さんのテイストに慣れている人にとっては馴染みのある感触ですが、初めての方は少々面食らうかも知れません。
1作目、2作目と見てきてこのシリーズは何をテーマにし、そしてどこに帰結するのかということが全く見えませんでした。
これら2つの作品ともにラストは鑑賞前に予想していた展開とは全く異なる方向に物語は転がっていきました。
そういう点においては3作目である本作も同様です。
しかし、シリーズをすべて見終えるとこれら作品のテーマが浮かび上がってきます。
それは「人間は、そして文明は何のために存在し、生きていくのか」です。
虚淵さんらしいテーマであると思いました。
エクシフはその発達した超科学により、未来を完全に予想することができるようになりました。
彼らの結論は宇宙は有限であり、それゆえ生命がどんなに栄えているように見えても、いずれは必ず滅んでしまうというものでした。
これは何を意味するのか。
いや、これをどう受け止めるのか。
初めてこの結論に達したとき、エクシフたちは大きな絶望と直面することになったのでしょう。
この結論は自分たちが存在することの意味は何もなく、宇宙の行く末にもなんら影響を与えられないということですから。
存在意義を否定された彼らは、そのままでは終わりません。
いや、終われなかったのかもしれません。
彼らは自分たちが存在していた意味を自ら作り出します。
自分たちとは異なる次元にいる存在、神とも呼べる存在であるギドラと接触することを彼らの超技術で可能とし、その神に自らを捧げることで自分たちの存在意義を作り出したのです。
彼らは自ら神を作ったと言えます。
その後、彼らは宇宙を放浪し、数知れない生命・文明を見てきました。
そしてそれらがいずれは自らの文明を滅ぼすほどの存在を生み出してしまうことを知ります。
人類にとってはそれはゴジラであるし、ビルサルドにとってはメカゴジラであるのでしょう。
文明はいずれ自らを喰らうモンスターを産み、そして最終的には神に喰らわれる。
これがエクシフの生命観であり宇宙観となっていったのです。
しかし、すべての生命がいずれ滅びることになったとしても、すべての生命・文明が無意味であったのでしょうか。
エクシフは結果こそがすべてと考えているように思えます。
しかし、滅びるのが運命としても、そこに至る過程のすべてがすべて無駄であったとは言い切れません。
生命が生まれ、文明を発展させる過程の中で、人々は確かに笑い、喜び、幸せな時を過ごしたわけです。
それが無駄であるわけはありません。
ハルオの生命が引き継がれていくように、生命の営みは連綿と続いていく。
その過程こそに意味がある。
文明は必ず滅ぶ。
そうであるなら存在する意味がないのか。
人は必ず死ぬ。
そうであるなら生きることは意味がないのか。
そうではありません。
生まれてから死ぬまでの過程、すなわち人生こそに意味ある。
そうであるならば文明もその過程にこそ意味があるのだと思います。
人生も山谷があるように、文明にも滅びに瀕する時がある。
それを乗り越え、繋いでいく過程こそが重要なのです。
いつかは文明も滅びる。
だから意味がないとは言わせない、言わせたくないとこの作品は訴えているように感じました。
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