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2018年10月14日 (日)

「SUNNY 強い気持ち・強い愛」 コギャル文化の特殊性

公開開始後ずいぶん経ってから劇場に行きました。
お客さんは7〜8割くらいは女性だったと思います。
1990年代「コギャル」と呼ばれた女子高生たちがイキイキと文化を牽引していた時代。
そんな時代に「SUNNY」という仲良しグループを結成していた女子高生たち。
それから20数年経ち、彼女たちは一人の仲間をきっかけにして再開します。
隣に座っていた女性は、かなり前半から泣いていました。
確かに、主人公ががんを宣告された友人に出会い、それから他の仲間たちを探していく中で、心に響くエピソードはあります。
けれど泣くほどではなかったと感じたのですが、よくよく考えてみると「あの時代」を自分ゴトとして受け止められるか否かがこの作品の評価につながるのではないかと思いました。
隣の女性は(しっかり顔を見たわけではないですが)30〜40くらいの方だったように思います。
ちょうど主人公くらいの年齢だったのかもしれません。
彼女はちょうど「あの時代」を生きていた人だったのかも。
私は90年代は社会人になったばかりの頃で、「コギャル」と呼ばれた女子高生たちのスタイルは、自分からしてすでに異世界な文化に見えました。
彼女たちの象徴的なアイテムとしてルーズソックスがありますが、なんであれがカワイイのかがわからなかったですからね。
足首の太さを隠すためじゃないかと邪推したものです。
本作に登場する女子高生たちを見ていても「確かにこんな感じの娘たちはいたな」とは思いますが、自分が懐かしむような感覚は持てませんでした。
映画で過去のある時代を描く話というのはいくつもありますが、それによって共感性がないというわけはありません。
例えば自分自身は80年代がティーンだったわけですが、60年代を描いているからといって感動しないわけじゃない。
何かしら時代とは関係がない共通の感覚があって、それが共感性を引き出すのだと思います。
しかし、本作でいうと「コギャル」という存在が文化的にかなり特殊であるというように描かれていて、他の時代を生きた人からすると、その特異性により共感が阻害されているのではないかと感じました。
もちろん普遍的な人の気持ちが描かれていないわけではありません。
ジンとくる場面もいくつかありましたが、でもコギャルの圧倒的な存在感にちょっとひいてしまう感じがしました。
唯一登場キャラクターで共感しやすかったのは奈々でした。
彼女はコギャル文化の中に生きながらも何か冷めたところも持っている子であったので、逆に自分からするとわかりやすく、なじみやすいところがありました。
演じる池田エライザは演技をするのはほとんど初めて見ましたが、いいですね。
モデルをやっている女子高生という役柄ですので、それにあった存在感がありましたし、少し影のある役も似合っていたと思います。
「コギャル」文化の特殊性が際立っているため、個人的には共感が薄かったと書きましたが、この時代をリアルタイムで高校生として過ごしていた方が見たら、違って捉えるのでしょうね。
自分の奥さんはこの時代を生きた人なので、見せて感想を聞いてみたいと思いました。

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2018年10月 1日 (月)

「散り椿」 日本人の美意識

この作品の前に観たのが「マンマ・ミーア! ヒア・ウィー・ゴー」。
それぞれの作品が持つ価値観が、あまりに違うのでギャップに戸惑います(笑)。
本作はまさに日本人が(かつて持っていた)生き方の美意識を描こうとしていると言えるでしょう。
大義のために自分の命を犠牲にしようとする。
愛する人の想いを叶えるために自分の人生を賭ける。
友を救うために自分の命を捨てる。
誰かのために自分の想いを伏せる。
本作に登場する人物は皆、人のために自分の大切なものを犠牲にします。
それは自己犠牲的であり、極めてストイックな生き様です。
自由であることを重要視する現代に生きる人から見れば、それはとても不条理に見えるかもしれません。
人に縛られ、家に縛られ、藩に縛られる。
全く自由とはかけ離れているようにも思えます。
しかし、果たしてそうでしょうか。
彼らは皆、その生き方を自分で選んでいます。
人のため、大義のために自分の人生を賭ける。
それを選んでいる。
それはある意味、自由であるようにも思えます。
不自由な生き様に見えながらもその生き方に美しさを感じてしまうのは日本人だからでしょうか。
本作で描かれる映像は一言で言えば「静」でしょう。
人々の佇まいも静かです。
彼らが暮らす家にも街にも自然にも、余計なものはありません。
時代劇ですので殺陣も当然ありますが、極めて抑制的です。
チャンバラではありません。
主人公新兵衛が振るう剣は、一瞬。
瞬間的剣を抜き、相手を斬る。
まるで無駄がありません。
人々の想いもあからさまではありません。
言葉少なに自分の心よりも相手の想いを尊重する生き方。
これも抑制的であると言えるでしょう。
しかし重ねて書きますが、抑圧的ではないのですよね。
本作で描かれているのは余計なものを全て排除した時に残っている人の純な想いと言えるでしょう。
無駄なものが削ぎ落としているからこそ、それが純粋で美しく見える。
それが日本人の美意識なのかもしれません。

冒頭に書いた「マンマ・ミーア! ヒア・ウィー・ゴー」と比べると全く逆で面白くもあります。
「マンマ・ミーア!」で描かれるのは自分がやりたいように人生を謳歌する自由さが描かれ、劇中ではアップテンポな音楽が流れ、ポップな色彩に溢れています。
対して「散り椿」では、人のために自分の人生を賭けるストイックさが描かれ、劇中の音楽は静かで、色彩のトーンも無彩色のように抑えられています。
どちらの生き方が良いかどうかではなく、作品それぞれの価値観が映画を表現する全てのものに反映されていることが興味深かったです。
このような視点も非常に面白い見方ではないかと思いました。

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「マンマ・ミーア! ヒア・ウィー・ゴー」 奔放な娘

大ヒットしたミュージカル映画「マンマ・ミーア!」の続編です。
前作が公開されたのがちょうど10年前。
もうそんなに経ってしまったんですね。
始まってちょっとびっくりしたのは前作でメリル・ストリープが演じていたドナが亡くなっているという設定でした。
あれ、予告に出てこなかったっけ?

前作を観たのが10年前だったので、あまり内容を覚えていなかったのですが、女子話で盛り上がっている印象で、そのためかちょっと置いてかれていってしまったような気分だったように思います。
洋楽は全く詳しくないので、ABBAと言われても聞いたことあるなーという感じでしたし。
ですのでミュージカル映画は好きな方なのですが、それほど乗れなかったように記憶しています。
その印象は本作でも同様でした。
本作はドナの遺志を継ぎ娘のソフィアがホテルを改装オープンしようとする現代パートと、ドナが初めて島を訪れてソフィアの3人の「父親」に出会うかこの話を平行に描いています。
前作のドナと友人たちはかなりかしましい感じがありましたが、過去パートで描かれるドナと友人たちも若さもあってか、さらにかしましい。
時代の影響もあるのかもしれないですが、若かりしドナは非常に奔放で自由。
新しいものを見てみたい、自分にふさわしい場所を見つけたいという気持ちで世界をめぐり、ギリシャのある島にたどり着きます。
そこで将来ソフィのパパとなる3人と出会うわけです。
3人がパパ候補ということは、それなりのことはなされているわけで。
ほんと奔放です。
けれどドナは流されるわけではなく、すべて自分の意思と感情に基づいて行動をしています。
誰かのためではなく、自分のため。
それはそれで有意義な人生ですよね。
自分自身が共感できるか、というとそうではないのですけれど。
ですのでキャラクターに共感できて面白かったという印象は持ちませんでした。
これは前作と同様です。
男性と女性では本作の受け止め方は違うのかな。
監督はロブ・パーカーで、私は全く知らない方でした。
ミュージカルは初めてなのかな、ミュージカルパートの演出はいまいちだったような気がします。
ちょっと古臭かったかな。

あと久しぶりにアンディ・ガルシアを観たら、すごいカッコいいおじいさんになっていましたね。
こういう風にカッコよく老けられるといいです。
若い時よりもカッコ良い感じがしました。

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