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2018年10月31日 (水)

「音量を上げろタコ!なに歌ってんのか全然わかんねぇんだよ!!」 そもそもメジャー狙いが間違い

公開後の評判がものすごく悪い本作、私はたまたまですが初日に観に行っていました。
三木聡監督の作風はちょっと独特なところあります。
不条理な設定や展開だったり、ちょっと世間からズレているキャラクターだったり。
本作でいうと主人公が住んでいる怪しげな人が集まっているエリアとかなどは現実的ではないですよね。
けれど、それが現実の吉祥寺の近くにあるような風に描いている。
何か日常とそこからちょっと斜めにズレているところが同居していう不可解な感じが三木ワールドだと思います。
この独特の不可解さというのは、なかなか一般ウケはしにくいでしょう。
深夜枠で放送するにはいいけど、ゴールデンタイム枠では無理という感じと言いましょうか。
この作品の評判がすごぶる悪いのは、こういう一般ウケしにくい三木ワールドなのにも関わらず、メジャーな売り方をしてしまったということでしょうか。
元々はこういう三木ワールドのテイストにはぴったりな阿部サダヲさんですが、今ではすっかりメジャーな俳優の一人です。
また吉岡里帆さんは今を時めく女優さん。
この二人が主演ですから、メジャーな売り方をしたくなるのはわかります。
けれどそういうメジャーな売り方をしてしまうと、三木ワールドの味わいがわからない人も見てしまうわけです。
普通の邦画を見慣れている人にとっては、なかなかこの作品はうまく味わいにくい。
最近の邦画は予定調和というか、見る側にあまり負担をかけない素直な作り方をしているものが多いですよね。
そのような作品は映画を見慣れていない人が劇場に足を運んでくれるようにするにはいいとは思うのですけれど。
けど、この作品というか、三木監督自体はそういうタイプの監督ではないと思います。
なんというか、歌舞伎町の裏の方でとてもおいしくて知る人ぞ知るの店が、間違って新宿の駅ビルに店を出してしまい「コレジャナイ」と一見のお客に言われてしまった感じというか。

作品の話ではなく、売り方の話をしてしまいましたが、個人的には三木監督の作風はキライじゃないので全くダメということではありません。
とはいえ今までの三木作品に比べると逆に切れ味が少ない感じがしました。
もっと世間とのズレた感があったほうが好きです。
作品もちょっとメジャーな方にずらしたのだけど、中途半端だったというところでしょうか。
三木監督にはTOHOシネマズでかかる映画ではなく、テアトルとかでかかるような作品を目指して欲しいです。

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2018年10月20日 (土)

「食べる女」 女ってたくましい

女性は誰もが「おいしいもの」に目がない。
何人か女性が集まって話していると中身の多くは食べ物の話だったりする。
すなわち「どこの店が美味しかった」とか、「今度どこそこに食べに行こう」とか。
あとは恋バナ。
自分を含め男性だけで集まった時に、食べ物の話でずっと話題が続くなんてことはほぼない。
恋バナもしかり。
根本的に女性と男性は興味関心ごとが違うのではないかと思ってしまう。

当たり前だが「食べる」ことはすなわち「生きる」こと。
食べなければ生き続けることはできない。
恋というのは、セックスにつながり、それは子を産むということにつながる。
これも生命の根本。
いずれもそれを行うことにより心と身体を満たすもので、人間の根源的な欲望だ。
非常に女の人の興味関心というのは、生命というものの本質につながっているような気がする。
それに比べると、男性の興味関心は生きるという根本よりももっと社会的な地位とか名誉とかそういった上っ面なことのようなことが多いように思える。

本作は食べること、そして男と良い関係(セックスを含め)を作るという女性の根本的な欲望について、何人かの女性の生き方を通じて描いている。
彼女たちの生き方は欲望に素直であり、それだから堂々としている。
色々と悩み欲望に素直じゃない女性もいたが、結局それを受け入れることで素敵に輝くように見えた。
そのような女性たちに比べ本作に登場する男たちは何故かいわゆる男性らしいたくましさは感じない。

主人公敦子の家の庭にある枯れ井戸は「女」そのものを象徴しているのだと思う。
枯れているように見えても、底の下には脈々と水が流れている。
年を取っても、男なんてもうウンザリと思っても、幸せすぎる環境でも、心底おいしいと思える恋を、男を求める心はやはり脈々と女の身体の奥底にはあるのだ。
それは女の性でもあり生でもある。
根源的なことだからこそ、強い。
たくましい。
そもそも小学生の女の子たちから物語はスタートし、彼女たちが脈々と流れる地下水の話をする。
そもそも女という存在が、そういった生きることに基づく性を生まれながらに持っていることの象徴でもあるのかとも感じた。
どんな状況でも、女性たちは生に基づく欲望に忠実な限り、たくましく生きているのだと思った。
これは男性にはないたくましさなのだと思う。

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2018年10月14日 (日)

「SUNNY 強い気持ち・強い愛」 コギャル文化の特殊性

公開開始後ずいぶん経ってから劇場に行きました。
お客さんは7〜8割くらいは女性だったと思います。
1990年代「コギャル」と呼ばれた女子高生たちがイキイキと文化を牽引していた時代。
そんな時代に「SUNNY」という仲良しグループを結成していた女子高生たち。
それから20数年経ち、彼女たちは一人の仲間をきっかけにして再開します。
隣に座っていた女性は、かなり前半から泣いていました。
確かに、主人公ががんを宣告された友人に出会い、それから他の仲間たちを探していく中で、心に響くエピソードはあります。
けれど泣くほどではなかったと感じたのですが、よくよく考えてみると「あの時代」を自分ゴトとして受け止められるか否かがこの作品の評価につながるのではないかと思いました。
隣の女性は(しっかり顔を見たわけではないですが)30〜40くらいの方だったように思います。
ちょうど主人公くらいの年齢だったのかもしれません。
彼女はちょうど「あの時代」を生きていた人だったのかも。
私は90年代は社会人になったばかりの頃で、「コギャル」と呼ばれた女子高生たちのスタイルは、自分からしてすでに異世界な文化に見えました。
彼女たちの象徴的なアイテムとしてルーズソックスがありますが、なんであれがカワイイのかがわからなかったですからね。
足首の太さを隠すためじゃないかと邪推したものです。
本作に登場する女子高生たちを見ていても「確かにこんな感じの娘たちはいたな」とは思いますが、自分が懐かしむような感覚は持てませんでした。
映画で過去のある時代を描く話というのはいくつもありますが、それによって共感性がないというわけはありません。
例えば自分自身は80年代がティーンだったわけですが、60年代を描いているからといって感動しないわけじゃない。
何かしら時代とは関係がない共通の感覚があって、それが共感性を引き出すのだと思います。
しかし、本作でいうと「コギャル」という存在が文化的にかなり特殊であるというように描かれていて、他の時代を生きた人からすると、その特異性により共感が阻害されているのではないかと感じました。
もちろん普遍的な人の気持ちが描かれていないわけではありません。
ジンとくる場面もいくつかありましたが、でもコギャルの圧倒的な存在感にちょっとひいてしまう感じがしました。
唯一登場キャラクターで共感しやすかったのは奈々でした。
彼女はコギャル文化の中に生きながらも何か冷めたところも持っている子であったので、逆に自分からするとわかりやすく、なじみやすいところがありました。
演じる池田エライザは演技をするのはほとんど初めて見ましたが、いいですね。
モデルをやっている女子高生という役柄ですので、それにあった存在感がありましたし、少し影のある役も似合っていたと思います。
「コギャル」文化の特殊性が際立っているため、個人的には共感が薄かったと書きましたが、この時代をリアルタイムで高校生として過ごしていた方が見たら、違って捉えるのでしょうね。
自分の奥さんはこの時代を生きた人なので、見せて感想を聞いてみたいと思いました。

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2018年10月 1日 (月)

「散り椿」 日本人の美意識

この作品の前に観たのが「マンマ・ミーア! ヒア・ウィー・ゴー」。
それぞれの作品が持つ価値観が、あまりに違うのでギャップに戸惑います(笑)。
本作はまさに日本人が(かつて持っていた)生き方の美意識を描こうとしていると言えるでしょう。
大義のために自分の命を犠牲にしようとする。
愛する人の想いを叶えるために自分の人生を賭ける。
友を救うために自分の命を捨てる。
誰かのために自分の想いを伏せる。
本作に登場する人物は皆、人のために自分の大切なものを犠牲にします。
それは自己犠牲的であり、極めてストイックな生き様です。
自由であることを重要視する現代に生きる人から見れば、それはとても不条理に見えるかもしれません。
人に縛られ、家に縛られ、藩に縛られる。
全く自由とはかけ離れているようにも思えます。
しかし、果たしてそうでしょうか。
彼らは皆、その生き方を自分で選んでいます。
人のため、大義のために自分の人生を賭ける。
それを選んでいる。
それはある意味、自由であるようにも思えます。
不自由な生き様に見えながらもその生き方に美しさを感じてしまうのは日本人だからでしょうか。
本作で描かれる映像は一言で言えば「静」でしょう。
人々の佇まいも静かです。
彼らが暮らす家にも街にも自然にも、余計なものはありません。
時代劇ですので殺陣も当然ありますが、極めて抑制的です。
チャンバラではありません。
主人公新兵衛が振るう剣は、一瞬。
瞬間的剣を抜き、相手を斬る。
まるで無駄がありません。
人々の想いもあからさまではありません。
言葉少なに自分の心よりも相手の想いを尊重する生き方。
これも抑制的であると言えるでしょう。
しかし重ねて書きますが、抑圧的ではないのですよね。
本作で描かれているのは余計なものを全て排除した時に残っている人の純な想いと言えるでしょう。
無駄なものが削ぎ落としているからこそ、それが純粋で美しく見える。
それが日本人の美意識なのかもしれません。

冒頭に書いた「マンマ・ミーア! ヒア・ウィー・ゴー」と比べると全く逆で面白くもあります。
「マンマ・ミーア!」で描かれるのは自分がやりたいように人生を謳歌する自由さが描かれ、劇中ではアップテンポな音楽が流れ、ポップな色彩に溢れています。
対して「散り椿」では、人のために自分の人生を賭けるストイックさが描かれ、劇中の音楽は静かで、色彩のトーンも無彩色のように抑えられています。
どちらの生き方が良いかどうかではなく、作品それぞれの価値観が映画を表現する全てのものに反映されていることが興味深かったです。
このような視点も非常に面白い見方ではないかと思いました。

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「マンマ・ミーア! ヒア・ウィー・ゴー」 奔放な娘

大ヒットしたミュージカル映画「マンマ・ミーア!」の続編です。
前作が公開されたのがちょうど10年前。
もうそんなに経ってしまったんですね。
始まってちょっとびっくりしたのは前作でメリル・ストリープが演じていたドナが亡くなっているという設定でした。
あれ、予告に出てこなかったっけ?

前作を観たのが10年前だったので、あまり内容を覚えていなかったのですが、女子話で盛り上がっている印象で、そのためかちょっと置いてかれていってしまったような気分だったように思います。
洋楽は全く詳しくないので、ABBAと言われても聞いたことあるなーという感じでしたし。
ですのでミュージカル映画は好きな方なのですが、それほど乗れなかったように記憶しています。
その印象は本作でも同様でした。
本作はドナの遺志を継ぎ娘のソフィアがホテルを改装オープンしようとする現代パートと、ドナが初めて島を訪れてソフィアの3人の「父親」に出会うかこの話を平行に描いています。
前作のドナと友人たちはかなりかしましい感じがありましたが、過去パートで描かれるドナと友人たちも若さもあってか、さらにかしましい。
時代の影響もあるのかもしれないですが、若かりしドナは非常に奔放で自由。
新しいものを見てみたい、自分にふさわしい場所を見つけたいという気持ちで世界をめぐり、ギリシャのある島にたどり着きます。
そこで将来ソフィのパパとなる3人と出会うわけです。
3人がパパ候補ということは、それなりのことはなされているわけで。
ほんと奔放です。
けれどドナは流されるわけではなく、すべて自分の意思と感情に基づいて行動をしています。
誰かのためではなく、自分のため。
それはそれで有意義な人生ですよね。
自分自身が共感できるか、というとそうではないのですけれど。
ですのでキャラクターに共感できて面白かったという印象は持ちませんでした。
これは前作と同様です。
男性と女性では本作の受け止め方は違うのかな。
監督はロブ・パーカーで、私は全く知らない方でした。
ミュージカルは初めてなのかな、ミュージカルパートの演出はいまいちだったような気がします。
ちょっと古臭かったかな。

あと久しぶりにアンディ・ガルシアを観たら、すごいカッコいいおじいさんになっていましたね。
こういう風にカッコよく老けられるといいです。
若い時よりもカッコ良い感じがしました。

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