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2018年9月 2日 (日)

「検察側の罪人」 法の限界

正義というものは、一人一人で少しづつ異なっているものです。
それぞれがそれぞれの正義を押し通そうとした時、様々な争いが生まれるわけで、正義をある基準で定めたものが法律ということなのかもしれません。
しかし、法律も万能ではなく、全ての人々の正義を満たせるものではなく、また曖昧さも持ち合わせているものなので、解釈でも人により差が出てくるものです。
「検察側の罪人」という作品では、正義の基準を守るべき人々が己の正義の基準を優先させて一線を越えていってしまうことを描いた物語です。
まずは木村拓哉さん演じる最上検事。
彼の執務室に飾ってあったのがガベルです。
これは洋画を見ていると裁判のシーンで見慣れている、判事が判決を申し渡す時にコンコンと叩く小槌です(日本の裁判所では使われていませんが)。
検察官の仕事は立件することですが、もちろん立件したからといって罪が確定するわけではありません。
裁くのはあくまで裁判所です。
しかし、最上は、いつしか裁くことができるのは自分であるという錯覚に陥っていたのかもしれません。
判決を言い渡すことの象徴であるガベルを飾っていることがそれを表しています。
また訴追することは検事の仕事ですが、それはあくまで検事という立場に与えられた権限です。
当然のことながらそれはその個人に付託されたものではありません。
そしてまた刑を執行することも検事の仕事ではありません。
法律の壁によって犯罪を犯した者を裁くことができないと感じた時、最上は自らの手で罪を償わそうとします。
心情的に彼の気持ちはわかります。
一人の少女が、ただ欲望を晴らすためだけに殺された。
許されていいわけがありません。
しかし、法律を逸脱してしまっては、社会の基準が崩れて行ってしまう。
その基準が崩れていってしまうと、社会は混乱していってしまうでしょう。
状況的には罪を犯していると思われるのに、それを証明することができない場合は罪を負わせることはできません。
これを崩してしまうと法治国家ではなくなります。検察官としての正義とは、あくまで法律に則って罪を問うというものでなくてはいけません(法の解釈である程度の幅はあると思いますが)。
「俺の正義の剣を奪うのがそれほど大事か」と最上は言いますが、これはすでに一線を越えてしまった者の危険さを伺わせます。
沖田については物語では最上に対抗するヒーローのような役回りとなっていますが、彼も自分が信じる正義のためにルールを逸脱しているという点は同様のことがあると思います。
検事などの職務には、仕事の中で知り得た秘密は例え辞めたとしてもそれを漏らしては行けないというルールがあります。
沖田は最上の暴走を止めるために、そのルールを破っています。
これもまた自身の正義を行うために、決められたルールの一線を越えているわけです。
また橘にしても、同様です。
彼女は友人が味わった冤罪による苦しみから、検察という組織が持つ冤罪を作り上げる体質を告発したいというために検察庁という組織に入庁しました。
彼女が目にしたのは、彼女が予想とした通りのいくつかの歪んだ検察の体質でした。
当然彼女も検察庁の人間ですから、知り得た秘密を外部に漏らすことはできません。
しかし、彼女はマスコミと接触していました。
検察の闇を暴くためということであれば、本来なら内部告発などという手法をとるべきなのだと思います。
おそらくそうするともみ消されたりなどということがあると思ってのことなのだろうと思いますが、やはりこれもルールを逸脱しているのです。
社会のルールをであるところの法を守る人々である検察官が、それぞれの考える正義を行うために、その一線を越えてしまう。
それらは正しいことを行いたいという思いから発せられている。
そういう思いを全て満たしきれない法律の限界もあるのかもしれません。
しかし法に変わる方法を我々は持ち合わせていないのです。

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