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2018年6月23日 (土)

「空飛ぶタイヤ」 己の良心との戦い

三菱自動車によるリコール隠し事件から発想を得た池井戸潤さんの同名小説の映画化作品です。
池井戸さんの作品は、圧倒的な権力に対して人々が一矢報いるとことにより読者も溜飲が下がる思いになるということが共通していますが、まさにこの作品もそうですね。
大手自動車メーカーのリコール隠しに対し、中小の運送会社の社長、メーカー内の社員、取引先の銀行、マスコミの記者らが妨害にも負けずに地道に原因を究明し、最後には一番の黒幕の罪を明らかにします。
大人になり社会の中で生きていると理不尽なことというのはあったりするものですが、大きな力に勇気を持って戦いを挑む物語に皆が心を動かされるのは、自分もそうありたいと皆思いつつも、なかなかできないという現実もあるのでしょうね。
「長いものには巻かれろ」という諺がありますが、諦めてそうなってしまうことも多々あることですしね。
しかし、自分の行為が具体的にどこかのだれかを傷つけてしまうかもしれないという想像力は失いたくないものです。
顔の見えないクレーマー、その他大勢のよく見えない客というものを対応しているという気持ちではいけません。
当然のことながら一人一人のお客様の顔は見えないわけですが、それを想像することができるという気持ちはメーカーに勤める人間としては持っていなくてはいけないことだと思います。
そうなくなってしまうと、本作の常務用のようになっていってしまう。
そしてそれは本人だけではなく、会社自体も傷つけることになるという意味でさらに罪深い。
真面目に働いている社員ですら、巻き込んでしまうわけですから。
三菱自動車、東芝など経営サイドの不祥事は一人一人のお客様の顔が見えなくなってしまい、社内の権力争いなど本質的ではないところにばかり目がいくようになってしまったからなのでしょう。
メーカーはお客様あってのものという意識をずっと持ち続けなければいけません。
また上や得意先に対して間違っていると思ったときに物申すというのは、死ぬほど勇気がいることであるのは間違いありません。
しかし、それを見過ごしてしまった後に、例えば本作のように誰かが傷ついてしまった時に味わう後悔は一生拭えないものになってしまうことでしょう。
その苦しさに比べれば、いっときの勇気を振り絞ることはとても大事なことなのですよね。
おそらく自分でも死ぬほど悩むと思いますが・・・。
赤松運送の社長赤松は会社が潰れるかもしれない状況の中で、譲れないと思い財閥系メーカーと戦います。
またメーカーの中の沢田をはじめ何人かの社員は自らの会社の不正を知り、告発をしようとします。
自分の地位がそれによって失われるかもしれなくても。
彼らは権力と戦っているわけですが、己の良心とも戦っているとも言えます。
大金を積まれたり、ポストを用意するので、口をつぐんでくれと言われたり、また逆に脅かされたり。
それでも自分自身の中にある良心が戦いを諦めることを許してくれない。
自分の良心と弱さの戦いです。
企業で働く人間はもしかしたら、自分も同じような立場になってしまうかもしれないという恐ろしさと、その時に自分も戦うことはできるのかということを問いかけてくる作品でした。

企業人としての自分に対して問いかけをしてくる作品でありましたが、もう一つ家庭人としても問いかけがある作品でした。
日常の中で突然愛する家族がなくなった時、自分はどうするのか。
どう感じるのか。
本作の事件の被害者のお子さんの作文を読んだ時、やはり涙が出てきました。
家族がいる人ならば、これを聞いたら多くの人は心を揺さぶられることでしょう。
だからこそ、企業人は一生活者としての感覚を大事にしなくてはいけないと思います。
当たり前のことですが、企業人も生活者のひとり。
それを常に忘れずにありたい、と再確認させてくれる映画でした。

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2018年6月10日 (日)

「デッドプール2」 無駄遣いな笑い(いい意味で)

やはり他の映画よりも外国人の観客が多かったような・・・。
字幕を観ながらの鑑賞だと、英語を話す彼らと微妙に笑うタイミングが違うのですよね(苦笑)。
マーベルの中でも「アベンジャーズ」や「X-MEN」とは異なる方向を目指している異端児作品、「デッドプール」の続編です。
映画のマニアックな小ネタや、悪ノリお下品トークなどがふんだんに入り笑わされてくれた前作でしたが、本作もそのノリは継続しています。
個人的には前作よりも楽しめたかもしれません。
「デッドプール」の世界観に慣れてきたからかな。
前作ではまだ慣れておらず、どのように受け止めていいかがわからなかったところもありました。
本作はいくつも笑えるところや、面白かったところがあります。
なんというかむやみに無駄遣いな笑いがいいですよね。
いくつか自分のツボにはまったところを書いていきましょう。

まず笑わせてもらったのは「007」風のオープニング。
そもそも「007」っぽいオープニングってなんなんでしょうね。
ムードがある音楽と超スローモションな映像。
女性の肉体と武器のモチーフ。
幾何学的で抽象的なレイアウト・・・。
いろいろあると思うのですが、スタイルがあるからこそ出ているのがデッドプールでも「007」っぽいって見えるのですよね。
ところどころ「フラッシュダンス」も織り込んでくるし・・・(笑)。

せっかく集めたXフォースの面々が次から次へと脱落していくのも面白い。
ピーター以外は何かしらの超能力を持っているはずなのに、それを発揮するまもなく、あっさりと・・・。
まさに無駄遣い。
ピーターも実は何かあるのかなと思ったら、本当に何もなかったでしたねえ。
やっぱり無駄遣い。

あとはデッドプールが下半身を吹き飛ばされつつも、それが再生していく過程ですね。
下品と言えば下品なんですけれどね。
「クララが立った!」的なところはバカバカしくてサイコーでした。

もちろん「グリーンランタン」ネタも相変わらずで良かったです。
ライアン・レイノルズ的には無くしてしまいたい黒歴史なのですね。
いつまでもネタに使えるいい作品ではありますが(苦笑)。

新登場のキャラクターについてもケーブルはただの悪役かと思っていたら、存外いい奴でしたね。
ジョシュ・ブローリンは「インフィニティ・ウォー」のサノスといい、ただの悪役ではない味わい深い役が多いですね。
続編が作られるとしたら、Xフォースのメンバーとしてレギュラー定着ですかね。

あとドミノも良かったですね。
運がいいのが、超能力っていう。
デッドプールとは別の意味で絶対やられないというのが、新しいアイデアだと思いました。
だからこそアクションなど今までとは一風変わったアクションになっていたと感じました。

おちゃらけたところだけでなく、ストーリー的にもちょいといい感じのところがあるのもいいアクセントでした。
最初にデッドプールが「ファミリー映画だ!」と言ったところは、?と思いましたが、終わってみると確かにファミリーをテーマにした作品になっていました。
デッドプールが誰かのために戦うようになるとは思わなかったですが、作品に深みが出たと思います。

デッドプールがトニー・スタークにアベンジャーズに入りたいといって断られたというネタがネットに出ていましたが、それも20世紀フォックスがディズニー(マーベルが傘下)に買収されたら、実現しちゃうかもしれないですね。
されなくても、スパイダーマンみたくコラボしてもおもしろいかも!?

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2018年6月 9日 (土)

「仮面ライダーアマゾンズ THE MOVIE 最後ノ審判」 二人の背負う十字架

「仮面ライダー」シリーズの劇場版となりますが、いわゆるテレビで放映されている平成仮面ライダーシリーズとは異なり、非常に大人向けの内容となっています。
そもそも「仮面ライダーアマゾンズ」とはアマゾンプライムでのネット配信用に作られたシリーズで、そのため色々なテレビでの表現上の制約(残酷描写など)から解き放たれて、かなりチャレンジングな内容となっています。
脚本は小林靖子さんで、仮面ライダーシリーズでは「仮面ライダー龍騎」で脚本を担当、13人の仮面ライダーが登場し、お互いに最後の一人になるまで戦い合うという当時としては非常にセンセーショナルな内容でした。
最近では「進撃の巨人」のアニメのシリーズ構成を担当しており、ご存知の通り、こちらも色々な意味でのセンセーショナルさを持っている作品でした。
本作で登場する怪人はアマゾンと言われる人工生命。
彼らは人間の科学によって生み出されたあたかも人間のような姿形をした生命ですが、彼らは人を喰う。
研究所から脱走したアマゾンズは人間社会の中に隠れ、人を喰らいます。
彼らを狩るために、アマゾンズを開発した科学者、鷹山仁は自らにアマゾン細胞を注入し、アマゾン化、アマゾンアルファとなります。
また人間とアマゾン細胞から生み出されたアマゾン、水澤悠はアマゾンでありながらも人を喰うことを厭います。
実はアマゾンの中にも人を喰わず、静かに暮らしたいと考える者もいたのです。
悠はアマゾンオメガとなり、人もアマゾンも守ろうとします。
「仮面ライダーアマゾンズ」はこの二人の物語です。
鷹山はアマゾンが誰であろうと(自分の子であろうと)、彼らを抹殺するという強迫観念を持っています。
彼のアマゾンへの行為は苛烈であり、彼の新年は半ば狂気のようになっています。
それが彼らを生み出してしまった自分の責任であると考えているのです。
彼は「生み出した者」として、十字架を背負ってしまったのです。
そして悠はアマゾンとして「生み出されてしまった者」です。
彼が人を喰うこといかに厭っても、その本能は抑えられない。
そのように生まれてしまったことに彼は責任はないのですが、しかしそういう自分を受け入れなければいけません。
彼はまた違った意味での十字架を背負っているのです。
このシリーズは善と悪との戦いを描いているわけではありません。
生き物が生きるか死ぬかという極限の中に追い込まれ、そのような状況においても尚、生きることを求めてしまうという生命が持つ業を描いているように思います。
劇場版においては鷹山も悠もそれぞれが持っていた「越えてはいけない一線」をも越えます。
鷹山は人を喰うアマゾンを滅ぼすために、アマゾンを抹殺しようとしていたわけですが、その彼が人間を殺してしまう。
また食らうことを忌避していた悠は鷹山を止めるため、アマゾンを喰らいます。
そこまで二人は追い込まれるわけです。
そこまでして二人は生きること、自分が存在している意味を果たそうとするわけです。
「越えてはいけない一線」を越えることは自分が守るべきことと矛盾が起こるわけですが、その矛盾を抱えることを承知で(さらに業を抱えることを承知で)、彼らは戦いに向かいます。
まさに生きるためにはなんでもする、生命の本質を彼らは体現しているのです。
スッキリとした答えが出る作品ではありません。
悶々とするところもあります。
それは理性や倫理、ルールという枠組みで見る味方に慣れているからかもしれません。
生命とはもっと生々しいものであるのでしょう。
「仮面ライダー」シリーズとしては非常に異質感のある作品です。
しかしある種の型ができてきているテレビシリーズに対するアンチテーゼでもあるのでしょう。
そういう作品を作れる「仮面ライダー」はまだまだ懐が深く、可能性を持っているシリーズであると感じました。

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