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2017年11月19日 (日)

「GODZILLA 怪獣惑星」 意外にもハードSFな仕上がり

アニメーションでゴジラ映画?
それでもって未来の設定?
予告を観た時は「エッ?」となりましたが、意外や意外、最近の日本では珍しいハードSFの傑作として仕上がっていました。
こういう世界観だと実写よりもアニメーションの方が向いていそうな感じがします。
思い切ったSF設定ですけれど、昨年「シン・ゴジラ」があったから、あえて違う切り口というのも良かったのではないでしょうか。
前半は本作の設定や世界観を伝えるものとなっていて、かなりハードSF色が強いのであまり慣れていない方にはしんどいかもしれません。
後ろの席の女の子は「ずっとゴジラが出てこなかった!」と言っていました(笑)。
そもそもゴジラはあまり最初から出てこない作品が多いですけれどね。
どうしてもゴジラ映画は「こんなのゴジラじゃない!」という意見は出やすいですが、ここまで跳ねているとそういう文句はつけにくい。
作られる方は勇気がいったとは思いますが。
脚本は虚淵玄さん。
いやー、ストーリーが虚淵さんっぽいですよね。
「色々課題が解決されてめでたしめでたし」という感じには絶対にならない。
あれだけ苦労して戦ったのにね・・・。
細い設定の作り込みも虚淵さんらしいです。
最近のゴジラ映画のトレンドとしては、ゴジラが圧倒的な破壊者として描かれることが多いですが、本作のゴジラは中でも圧倒的。
勝てる気がしない。
それなのに、さらに・・・。
エンドロールが終わって、おまけ映像がありました。
そこで初めてこれがシリーズ作品だとわかりました。
そりゃあんな終わり方じゃね・・・。
エンドロールでは虚淵さんが脚本とシリーズ構成となっていたので、「シリーズ?」と思ったんですよね。
シリーズは3部作になるとか。
そういえばメカゴジラもちらりと出ていたし。
なるほどね。
2作めのサブタイトルは「決戦機動増殖都市」ということ。
神林長平の小説のタイトルみたいです。
虚淵さんぽくもある。
やはりハードSFっぽいテイストを感じます。
楽しみに待ってます。

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2017年11月13日 (月)

「ザ・サークル」 SNSとの付き合い方

「いいね!」とか「インスタ映え」とかSNS発の言葉が一般的になることがよくあります。
現代人なので、当然SNSもやっていますが、毎日毎日何かをアップするほどこまめではありません。
数年前にやり始めた頃は割とまめだったのですが、面倒になってしまって。
いわゆるSNS疲れってやつでしょうか。
誰かのリアクションがあると嬉しくはなるので、色々アップしていたのですが、そのために何かをするという逆転みたいなことに違和感を感じてきたのですね。
ま、仕事もプライベートも忙しくなってきたというのが主な理由ですが。
最近は一ヶ月に一回上げるかどうかですかね。
人の記事も毎日はチェックしてはいません。
気が向いた時だけという感じでしょうか。
あんまり他人のアクティビティは気にならない性分なので。
毎日色々とアップする方もいて、それはそれで好きならばいいとは思いますが、この作品で描かれているように、そういうことを強要される(ま、映画の中でも強要ではなくてマイルドに強いられていますが)のはちょっと違和感を感じますね。
誰かの反応があるというのは嬉しいことですし、人間なので自己を認めてられることの満足感はあるのもわかります。
実際自分の記事に何か反応があれば嬉しいですしね。
ただそのために色々と気にしたり、自分の時間を取られすぎるのも本末転倒な気もします。
また人の記事をチェックするのに時間を取られるのも、なんだかなとも思います。
本作での公開されたメイの行動を大勢の人が見るというのも不思議な感じがします。
「トゥルーマン・ショー」の現代版という感じですよね。
誰かの生活を覗き見るために自分の時間を使っていると考えると何か無駄なような気もします。
その時間で、自分の好きなことやったほうがいいかなと。
隠し事ができない環境になれば、誰も悪いことをしなくなるだろうという考えもわかります。
公開されるかもしれないということは、抑止力にはなるでしょう。
しかしそのために犠牲にするものも大きいですよね。
本当の自分だけの時間がなくなるという犠牲が。
全ての人の生活を覗き見ることができるようになるということは、自分の生活も全ての人に覗き見られるということになります。
人のことを知ることと、自分のしたいことをする時間。
オープンネスとプライベート。
どちらか一方が100%正しいということはなくて、頃合いのいいバランスを見つけることが良いのかなと。
そのバランスも人ごとに違っていても良くて、それを選べるのがいい社会な気がします。
公人の立場の人はかなりオープンでなくてはいけないとは思いますが、パパラッチみたいなものもどうかなと思います。
やはりバランスですかね。

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2017年11月11日 (土)

「ブレードランナー2049」 自分は何者であるのか?

映画のみならず様々な作品に影響を与えた「ブレードランナー」の続編になります。
本作見る前にオリジナルを観ておかなくてはと思っていたのですが(なんせ35年の前の作品ですから)、結局見ないままに鑑賞。
ついていけるかと不安がありつつもなんとか大丈夫でした。
監督はリドリー・スコットではなく、ドゥニ・ヴィルヌーヴになりました。
リドリー・スコットは製作総指揮として関与しています。
オリジナルの「ブレードランナー」が伝説と化しているのは、サイバーパンクの走りのような世界観、そしてエッジーな映像が80年代当時としては非常にクールであり衝撃的であったからだと思います。
今回はドゥニ・ヴィルヌーヴが監督となりましたが、彼も彼独特のエッジーな映像を撮る人(リドリー・スコットはまた違いますが)であるので、非常に「ブレードランナー」の世界観とマッチすると感じました。
ドゥニらしく、また「ブレードランナー」らしい映像となっていました。
ドゥニ・ヴィルヌーヴの作品はなんだかんだとよく観ているのですが、エッジの効いた映像、無機質な手触り、解釈を要求する物語といったところがあり、一般受けしにくい監督であるなと思っていました(映画マニア的には見応えあるのですが)。
しかし「メッセージ」あたりからバジェットが大きい作品を撮るようになり、いい感じで一般的にも大丈夫な塩梅を掴んできたようなところがあります。
インディペンデントの監督がメジャーをやると、その監督らしさがなくなって他のブロックバスター映画と同じような雰囲気になってしまうことが多いのですが、ドゥニ・ヴィルヌーヴの場合は彼らしさを保ちながらも、一般的にも受け入れられる作品に仕上げているように思います。
選んでいる作品も彼の個性に合っているものを選んでいますよね。
「ブレードランナー」はまさにドゥニ・ヴィルヌーヴにぴったりだと思います。
なので、続編を彼が撮ると聞いて全く心配はしていませんでした。
期待通りの仕上がりです。

ストーリーとしても非常に面白かったです。
ネタバレになってしまうので細かくは書きませんが、提示された謎が解決されたと思いきや、それがまたひっくり返るというのが、なかなかに面白い。
アクションなどは多いわけではなく、またかなり長い作品の割には、退屈することもなく、最後まで見せてくれました。
ドゥニ・ヴィルヌーヴの映像美と巧みなストーリーテリングのためだと思います。
「ブレードランナー」という作品は、自分が何ものであるかというアイデンティティの揺らぎがテーマであると考えます(原作のフィリップ・K・ディックの作品は唯一信じられる自分というものが信じられなくなるというテーマが多い)。
主人公のKは最初からレプリカントであることはわかっています。
彼のタイプは人間に従順であり、かつてのレプリカントのような反乱的な要素はありません。
そういう意味では彼は何者でもない。
ただの道具であると言えます。
しかし操作を通じて、何者でもないという彼のアイデンティティが揺らぎ、何かであるかもしれないという予感が彼を不安にします。
前作のデッカードとは逆の揺らぎであるとも言えます。
Kの揺らぎに観客は共感し、そして最後の結末に切なさを感じます。
ただ彼は彼として何者であるかはわかったのではないかと思いました。

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「マイティ・ソー バトルロイヤル」 思いの外、コミカル

オリジナルの副題は「ラグナロク」。
よくファンタジー系のアニメや小説などでよく出てくるフレーズですが、これは北欧神話の中に登場する言葉で「神々の黄昏」と訳されることが多いです。
北欧神話で語られる物語(オーディンなどが登場する)で、彼ら神々たちの世界の終わる最後の戦いをラグナロクというのです。
本作ではスルトがアスガルドを焼き尽くしますが、北欧神話でもストという巨人がアスガルドを滅ぼすのです。
英語の副題から察するに見る前からアスガルドの終焉が描かれることは想像できました。
そういう意味では重い話かと思いきや、ソーとハルクの掛け合いのあたりとか、ロキのコメディリリーフ的な感じとか、コミカルな部分もいくつかありました。
雰囲気的には「ガーディアンズ・オブ・ギャラクシー」の一作目のような印象が近いかもしれません。
個人的にはもう少しシリアスなタッチが好きなので、好みではなかったのですが、マーベル映画は懐が深いということで。
見た作品の印象でいうと「ラグナロク」というよりは「バトルロイヤル」という副題の方がしっくりきます。
なんというか昔の「フラッシュ・ゴードン」(知っている人いるか?のようなノリを感じるのですよね)。
アメコミ的であるといえば、アメコミ的ではあるのですけれど、何か懐かしい感じもします。
今後の展開としてはアスカルドを失った神は今後どうなってい久野かとか、ハルクはバナーに戻れるのかとか、色々気になるところはありますね。
次の「アベンジャーズ」もまた見なくてはいけません。

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2017年11月 4日 (土)

「猿の惑星 : 聖戦記」 断絶社会の風刺

最近、「ダイバーシティ」という言葉をよく耳にします
「多様化」という意味で、年齢や性、宗教、障害があるなしなど様々な違いを受け入れて、どんな人でも生きていきやすい社会を目指すということですね。
しかしそういうことをあえて言わなければいけないということは、現実にはそのような多様化はまだまだ実現に至っていないというわけなのですよね。
自由の国アメリカでも最近では様々な格差、断絶が問題になっています。
アメリカに限らず、日本でもそうですし、世界的に、異なる見かけ、価値観を受け入れにくい社会になってきているということです。
本作「猿の惑星 : 聖戦記」はまさにこういった社会を風刺している作品となっていると言えるでしょう。
人間と同じように知能を持つようになった猿たちを人間は恐れます。
自分たちより劣っていたと思っていた者が、自分たちの地位を脅かそうとしていると思う。
そこには本能的な恐れがあることは致し方がないことだと思います。
そもそも人間が自分たちと異なる者に敏感なのは自分たちの種を守りたいという本能からなのでしょう。
人間と猿という違う種族の間の物語と見るとSF的であるのですが、これを異なる価値観、出自の者の間の物語と見ると、先ほど書いたような現代の断絶社会の風刺に見えるのですよね。
特に今回の作品では人間が人間らしさの象徴である言葉を話す力を失っていってしまうというのがショッキングです。
人間が猿とは違うと感じる最も根本的な力を失ってしまう。
それにより自らの地位が失われていくという恐怖を感じる。
このことは例えば、移民の増加により職を奪われていってしまうと考える人々の恐怖に近いものかもしれません。
そのために彼らを排斥しようとし、そしてまた彼らは自分たちを守ろうとする。
これはアメリカやヨーロッパで起こっている移民の問題だけではなく、例えば日本では世代間の断絶(高齢者VS若者)みたいなものとしても捉えられるかもしれません。
こういう断絶社会の戦いはどちらかがどちらかを征服するか、融和するしかありません。
願わくば融和してほしいものですが、なかなかにこれは難しいのは今までの人類の歴史が物語っていることでもあります。
なので本作も人類と類人猿の戦いの結論めいた答えは描いてはいません。
ただ悲観的かといえば、人間の少女が類人猿たちと暮らしていける可能性も描いているので、微かな希望も感じます。

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