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2017年8月27日 (日)

「ナミヤ雑貨店の奇跡」 自分の人生の意味

こちらは試写会で鑑賞しました。
原作は東野圭吾さんですが、未読です。
まずは見終わった時の感想ですが、脚本がパズルように絶妙なバランスで組み立てられているなということです。
本作は誰か一人の主人公の物語というよりは、何人かの登場人物の人生が絡み合いながら描かれるアンサンブルになっています。
そして現代や過去のエピソードが重なり合いながら描かれるので、かなり複雑な構成です。
けれどもそれでもちゃんとわかるように組み立てらているのですよね。
一緒に行った方は「原作読んでいるから自分はわかったけど、未読で理解できた?」と言いました。
途中ちょっと戸惑うことはありましたが、十分理解できます。
原作からはカットされていたり、加えられたところもあるようですが、2時間強でよく収めたなという感じがしますね。
脚本は斉藤ひろしさんで、この方は「黄泉がえり」を書いた方なので、複雑な物語をわかりやすく構成するのが上手な方なのだなと思いました。

先に書いたように原作は読んでいません。
東野圭吾さんの作品をたくさん読んでいるわけではないのですが、映画化された作品を中心に少し読んだことがあります。
彼の作品に共通しているのが、自己犠牲ということなのではないかなと思います。
自己犠牲というと重々しいのですが、自分の人生がどこか誰かのためになっていると感じられる人生というのは、とても幸せなことだということです。
自分の人生というものは自分のものではあるのですが、自分だけで自分の人生ができているわけではありません。
誰かの人生の影響を受けるし、誰かに影響も与える。
どうせ生きて死んでいくのであれば、誰かの人生に良い影響を与えることができたのならば、いい人生であると言えるかもしれません。
自分だけのための人生は虚しさが残るかもしれませんね。
本作の登場人物たちは、結果色々ですが、共通しているのは自分が誰かのために良い影響を与えられて、そして自分の行為が誰かのために役立ったということを実感することができたということだと思います。
悲劇的な結末を迎えた人もいれば、幸せな人生を送った人もいる。
まだまだ人生これからの人もいる。
けれど誰かによって生かされて、誰かを生かしているということに気づくことができた。
これは幸せなことですよね。
自分の人生が何か意味がある、と思えるから。
人生が虚しいと感じてしまうのは、自分がいる意味を感じられないからかもしれません。
どんなに小さなことでも人の役に立てるということは、自分の人生を豊かにすることなのだなと改めて感じました。

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「スパイダーマン/ホームカミング」 ティーンエイジャー・ヒーロー

「スパイダーマン」シリーズの二度目のリブート作品になります。
「アメイジング・スパイダーマン」(以下「アメイジング」)シリーズは三部作シリーズだと聞いていたのですが、結果打ち切りとなりました。
理由はサム・ライミ版(以下オリジナル)よりも興行成績が悪かったからか、また長いものには巻かれろ(「アベンジャーズ」)ということか、その両方か・・・。
個人的には「アメイジング」はあまり評価をしていなかったので、この結論は歓迎ですけれども。
私は断然オリジナルが好きなのですが、「大いなる力には、大いなる責任が伴う」という作品の中で語られる言葉を体現している物語だからです。
ピーターは得てしまった力を誰かのために使う、しかしそのためには様々な犠牲を払わなければならないというジレンマに常に悩みます。
今でこそ悩むヒーローというのは当たり前になりましたが、その先鞭をつけたのがオリジナルだと思います。
けれども「アメイジング」はオリジナルのピーターよりも、現代的でかつ幼く描かれています。
なんというか、チャラいんですよね。
原作はどちらかといえば幼いとは思いますし、多数出てきた他のスーパーヒーローたちとは異なり10代らしさというのは差別化ポイントであったりします。
けれどもストーリーとしてはオリジナルのように「大いなる力には、大いなる責任が伴う」ということがテーマにはなっており、「アメイジング」のピーターのキャラクターとのマッチングがよくなかった気がします。
それなのに「アメイジング」の2作目のラストは非常に悲劇的な結末であり、ピーターに自覚を持たせるということだったのかもしれませんが、後味が悪かった感じがします。
今回の再リブートの「スパイダーマン」もさらにティーンエイジャー化が進んでいます。
しかし、今回は成功していると思いました。
あえて「スパイダーマン」が対するのは自分の手の届く範囲の事件です。
原作の「スパイダーマン」は「親愛なる隣人」という愛称がありますが、これは世界を救うヒーローのように遠い存在ではなく、身近な事件の中で人々を救っているのがスパイダーマンであるということを言い表せています。
ティーンエイジャーは大人になりかけていると言っても、見えている範囲はやはり自分の身近なところになります。
今回10代であるスパイダーマンを描くという時に、世界を救うという大きなテーマとせず、身近に起こった犯罪ということにしたのは、距離感が近いヒーローであるということを表現するには良かったと思いました。
「大いなる力には、大いなる責任が伴う」オリジナルや「アメイジング」ほどの葛藤ではなく、今回のスパイダーマンの葛藤も10代らしいものです。
自分が追いかけている犯罪者が好きな女の子の父親だったら?
犯罪者を捕まえたら、女の子は悲しむ。
けれど野放しにしたらたくさんの人が悲しむ。
人の生き死や人生をかけたほどの重さではありませんが、それでも10代にとっては人生を左右すると思えるほどの葛藤です。
その頃合いが今回のティーンエイジャーのスパイダーマンという立ち位置にあっていると思いました。
今後はスパイダーマンは身近な事件を解決していく「親愛なる隣人」でいるのでしょうね。
「アベンジャーズ」には適宜絡んでいくのでしょう。
それはそれで楽しみ。

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2017年8月26日 (土)

「カーズ/クロスロード」 成長を見守る喜び

人気のピクサーのアニメ「カーズ」の第三作目です。
一作目はマックイーンが主人公で、二作目では彼の友人のメーターが主役。
今回の三作目では再びマックイーンが主役になっています。
三作目まで観ると、二作目はサイドストーリーのような感じに見えてきますね。
それで一作目、三作目を一つのシリーズとして見ると、マックイーンの人生の物語のように感じられます。
まるで「ロッキー」もしくは「スターウォーズ」を見ているような。
才能ある若者が自分の道を見つけられないでいるときに師に出会い、自分の進むべき道を見つけて栄光を勝ち取る。
しかし、その栄光は永遠には続かず、やがて若者も歳をとり、再び自分の進むべき道を決めなくてはいけない時期がやってくる。
そのとき才能ある若者に出会い、彼は自分の持っているものを全て教えようとする
「ロッキー」シリーズであれば、師はミッキーで、弟子はドニー(「クリード」)、「スターウォーズ」であるならば、師はヨーダで、弟子はレイになるでしょうか。
これは映画に限らず誰しもが直面する普遍的な話なのですよね。
自分の行く道に迷い、そしてまた退くときに迷う。
退くときに自分が身につけていた技術、知恵、または想い(実はこれが一番大切)というものを、後進たちに引き継げればいかに幸せか。
それはすなわち前線に立っていなくても、自分もそこにい続けていられるような気がするから。
この気分は自分でもわかるんですよね。
この歳になると、現場の仕事はなくなりマネージメントに仕事は写ってきています。
若手と一緒に仕事をしますが、彼らに自分の得てきたものをなんとか伝えたいと思うようになってきました。
それで彼らが活躍して成果を出せればとても嬉しいし、そういうことに喜びを感じることができるんだとも思うようになりました。
おそらくマックイーンもクルーズの中に才能を見つけ、彼女が成長して成果を出せることに喜びを感じられるようになったのでしょう。
ピクサーのアニメって、見た目は子供向けなのですけれど、それが描いている本質の部分はとても大人の心をがっちり捕まえるものになっているのですよね。
だから多くの人に見られる作品になっているのだと思いました。

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2017年8月22日 (火)

「劇場版 仮面ライダーエグゼイド トゥルー・エンディング」 大切な人のためにできること

現在放映中の「仮面ライダーエグゼイド」の単独映画です。
テレビのほうは来週(8/27)に最終回を迎える予定ですが、その前後にまたがる形での劇場版を公開するという珍しい状況になっています(例年は9月末がテレビの最終回でした)。
今まで「仮面ライダー」の劇場版は公開がテレビ本編終了の直前であることが多いことから、テレビの展開との整合性を避けるためパラレルワールドとかアナザーストーリーという設定であることが多いのですが、本作は「トゥルー・エンディング」とタイトルにあるように、テレビ本編と地続きの世界観となっています。
時系列としてはテレビ本編の最終回の1年後という設定のようです。
この劇場版で特徴的なのは、映画に登場する少女まどかが小児脳腫瘍になっており、余命がないかもしれないという設定でしょう。
テレビシリーズ「仮面ライダーエグゼイド」は医療とゲームをモチーフとして作られている作品です。
医療を題材としていますが、テレビシリーズは基本的に子供たちを対象にしているため、直接的に「死」というものを描いているわけではありません(なかなか難しい匙加減であったと思いますが)。
しかし劇場版ではあえて踏み込んで具体的に死を感じさせる病気を具体的に取り上げています。
まどかは手術が非常に難しい脳腫瘍を患っています。
そのような中、突如現れた仮面ライダー風魔は人々とまどかをVRゲーム空間に引き込み、そこで現実とは異なる仮想現実を作ります。
実は仮面ライダー風魔こそ、まどかの実の父親の南雲影成であり、彼は余命いくばくもないまどかが最後は苦しまず楽しい時を過ごせるように仮想空間を作ったのでした。
けれどもその仮想空間は他の人々の人生を犠牲にして成立しているため、仮面ライダーエグゼイドらはそれを阻止すべく戦い、やがて仮想空間はっ消滅します。
けれども消滅する仮想空間のなかで、まどかひとりだけはそこにとどまろうします。
彼女の病気は天才外科医である鏡飛彩の手術により治せるのですが、そのためには意識が現実世界に戻らなければなりません。
まどかは彼の実の父親が彼女のために仮想空間を作ったと知っており、父親が喜ばせるためにそこにとどまろうとしたわけです。
やり方が間違っているにせよ父親がわが子のことを想い、また子も親のことを想う。
テレビシリーズとは異なり死というもの間近に描き、そういう状況においても親と子がそれぞれに想い合うというところに、ほろりときてしまいました。
自分に子供ができたからかもしれません。
親が子供のためにすべてを犠牲にしても何かを行おうとする、そういうことを描く物語は今までもいくつも見たわけですが、それを頭ではわかっていても、子供がいなかったときはそれを実感として感じられていたかというと疑問です。
やはり実際に子供ができると、理屈を抜きにしてそのように子供を想うということが身に染みてわかるようになりました。
また子供からもそのように自分のことを想ってもらえたと感じられたとき、どんなに幸せな気持ちになるかということも。
「エグゼイド」という作品は登場人物が多く、物語も複雑なので、テレビシリーズも劇場版も表面的にはとっつきにくいところがあります。
またゲームという題材の側面からくるポップさ、トリッキーさみたいなところも目立つのですが、その根本は医療からくる命の大切さ、人々がそれぞれを想う気持ちにあるように思います。
大切な人のために自分は何ができるのか、ということ。
それが「エグゼイド」のテーマかなと。
そのテーマが強く出ていた劇場版となっていました。

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「宇宙戦隊キュウレンジャー THE MOVIE ゲース・インダベーの逆襲」 短いながらも密度が濃い

本作は「スーパー戦隊」シリーズの第41作 「宇宙戦隊キュウレンジャー」の劇場版作品です。
「キュウレンジャー」ではいままでのシリーズとは異なる新しい試みが行われていますが、中でも一番インパクトがあったことはメンバーが最初から9人いるというところでしょう。
今までの「スーパー戦隊」シリーズでは、チームの初期メンバーは3人や5人であることが多く、途中で追加戦士が1人もしくは2人加わっていくというのが通常でした。
けれども「キュウレンジャー」では初期メンバー9人、加えて現時点では3人の追加戦士が加わり、総勢12人という大所帯となっています。
これだけの人数がいるとそれぞれのキャラクターの描き分けが難しいと思うのですが、この作品においては非常にうまく個性を出せているように思います。
ヒューマノイドや、獣人や、ロボットや、子供・・・、見た目も性格も個性あるキャラクターが配置されていますが、これは大人数であるからこそしっかりと計算されてキャラクターが丁寧に設計されているという印象を受けます。
人数が増えることにより、物語の展開にも今までの「スーパー戦隊」シリーズとは異なるものが見られます。
わかりやすいところでいえば、劇中の事件の進行に合わせてメンバーが複数の別チームに分かれて行動し、やがて合流していくという新しい展開があげられます。
この劇場版でもケルベロスの力を手に入れるために、キュウレンジャーは3チームに分かれ、3つの石(三頭のケルベロスなので3つ集めなければいけない)の探索を行います。
3チームの行動が同時並行的に描かれるので、物語が立体的になった印象を受けました。
事件に対応すべく出撃するチームのメンバーは毎回くじ引き(!)で選ばれるという設定になっていて、そのため毎回メンバーが変わる(レッドのシシレッドは強運の持ち主のため毎回メンバーに選出されるという設定)ので、キャラクター同士の絡みも変化が出てきます。
そのため12人いるキャラクターの個性がしっかりと出しやすい仕掛けになっています。
劇場版は30分程度の尺しかないのですが、3チームを並行で描くというアイデア、さらにはタイムリミットシチュエーションによって、短い尺ながらも密度の濃い物語の展開があったと思います。
最近の「スーパー戦隊」シリーズの劇場版の中においてもレベルの高い作品に仕上がっていたと思いました。

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2017年8月13日 (日)

「ザ・マミー/呪われた砂漠の王女」 他のユニバースと異なる個性を出せていけるか?

予告編を観ていた時に「ダーク・ユニバース始動!」とかいうコピーが出てきて、「?」と思っていました。
マーベルが「マーベル・シネマティック・ユニバース」という考え方を導入し、連作ヒットを飛ばしていることから、最近は他社もそれに追随するコンセプトのシリーズを展開し始めています。
DCの「DC/エクステンディドユニバース」しかり、レジェンダリーの「モンスターバース」しかり。
ハリウッドでシリーズ物ばかりが作られるようになって久しいですが、ユニバースコンセプトはただのシリーズ物よりも拡張性が高いところが利点です。
続編だとやはりストーリーの整合性を保つのが難しく、またどうしても次回作が作られるまでの時間がかかります。
ユニバースコンセプトは、作品ごとの整合性は続編よりは緩いですし、複数の作品を並行して制作することが可能なので単なる続編よりも早いタームでリリースできます。
集客が手堅いシリーズ物をハイペースで送り出せるわけですから、映画会社的には放っておけないですよね。
しかし、マーベルとかDCとかもともとコミックで展開しているものではなく、「ダーク・ユニバース」という聞きなれない言葉だったので「?」となったわけです。
しかし、最初のユニバーサル映画のタイトル後の「ダーク・ユニバース」というタイトルを見て、合点がいきました。
なるほど、昔の「ユニバーサル・ホラー」をクロスオーバーさせようというわけかと。
「ユニバーサル・ホラー」というのは「魔人ドラキュラ」「フランケンシュタイン」「透明人間」「大アマゾンの半魚人」などのモンスター映画です。
それぞれ何度もリメイクされているので、観たことある人も多いですよね。
それらの作品は独立したものですが、今回の「ダーク・ユニバース」ではそれぞれをリンクさせていこうということでしょう。
マーベルやDCよりはちょっとカルトっぽい趣味ですけれども。
二番煎じ、三番煎じなので、これからユニバーサルらしさを出していけるかどうかがポイントですね。
他のユニバースに比べては、もともとホラーをベースにしているので、全体的にダークなテイストになっていますから、この辺りを個性としていきたいのでしょう。
本作の元は「ミイラ再生」ですが、これは「ハムナプトラ」として既にリメイクされていますが、全然テイストは異なります。
「ハムナプトラ」はどちらかというと陽性でしたが、本作はダーク。
トム・クルーズが出ていることにより、メジャー感は醸し出されますが、彼がいなかったら結構マイナーな作品になりそうな感じがしますね。
ミイラっていうところからシリーズを始めるのも、割と渋い。
ただこれもいろいろ考えたんでしょうね。
ドラキュラとか狼男とか、フランケンシュタインだと今まで何回も映画化されていて、それらがメジャーなので、今までと同じと見られたくなかったのかなと。
あえて渋い題材から入って、ただマイナーにはしたくなかったので主演は超メジャー級を当ててくる。
割と戦略的なのではないかと思いました。
映画としては可もなく不可もなくというところです。
よかったのはラッセル・クロウが演じていたジキル博士。
これは「ジキル博士とハイド氏」が元ネタですね。
このキャラクターは面白そうです。
彼がメインでの映画もいけそうですよ。
割とそういう渋いところで攻めていってほしいなと思いました。

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2017年8月 6日 (日)

「忍びの国」 一にも二にも大野くん

この作品、一にも二にも大野くんに尽きると言ってもいいでしょう。
主人公無門は怠け者で、妻の尻にいつもひかれている男ですが、忍びの国と言われる伊賀の中でも群を抜いた実力の持ち主です。
戦いにおいてもその飄々とした態度は変わることがなく、それゆえ真剣な相手と対照的で、そこから無門の実力が破格であることが伝わります。
彼は相手に負けることがイメージできないので、余裕がある状態が普通なのでしょう。
この無門というキャラクター、映画を見てしますと大野くん以外の人は想像できないくらいにはまっています。
飄々としてとぼけた感じ、妻に全く頭が上がらないダメな旦那、しかしいざ真剣になった時の切れ味。
またダンスを踊るかのように軽やかに相手の技を見切り、受け流すのは、さすが嵐の中でもトップクラスのダンスの妙手ならではでした。
本作の魅力は無門というキャラクターに負うところが多く、だからこそそれを具現化している大野くんに寄るところが多いと思います。

当時の伊賀には大名はおらず、権力の空白地帯のようなものでした。
土地は豊かではなかったので、あえてそこを取りに行く大名もいなかったのかもしれません。
そこに暮らす者たちは、畑を耕すことだけでは暮らしていけず、独自に発達させてきた忍びの術を他国に売る(雇われてスパイをする)ことにより生活を立てていました。
そのためか、他国のようなルールは通じず、まさに獣が生きるが如く自分の欲に忠実に生きていく人々の集まりとなって行きました。
それゆえ他国からは「虎狼の徒」と呼ばれ蔑まれました。
無門自身も忍びの価値観で育ってきたため、そのことに疑問を持つことはありませんでした。
しかし、最愛の妻を失った時、初めて忍びの価値観に疑問を持ちます。
この物語は弱小国伊賀が信長勢に一矢報いることを描くのではなく(映画を見始めた時はそう見えますが)、人を人とは思わない人々の国が滅びていく様を描いています。
己の欲のみを追求することを望み、他者を思いやる気持ちを持たない人々。
普通でいえば悪役になる人々を内から描き、それを最後にひっくり返して見せるところがうまいところです(これは原作によるものですけれど)。

演出的にはちょっとゆるい感じがしたのと、大野くんが良かっただけにもう少しアクションの合成などを頑張って欲しかったのが不満です。

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