« 2017年6月 | トップページ | 2017年8月 »

2017年7月31日 (月)

「パワーレンジャー」 メタモルフォーゼ

日本のアニメや漫画、特撮のコンテンツが海外でリメイクされると、「何だこりゃ」ということが多いですよね。
解釈や文化的な背景の違いから、そういうことが起こるのだと思うので、いたしかたないところなのかもしれません。
本作「パワーレンジャー」は日本でおなじみの「スーパー戦隊」(「恐竜戦隊ジュウレンジャー」)シリーズをベースにアメリカで完全新作として制作したものです。
アメリカでは日本の「スーパー戦隊」シリーズの日本人出演者部分をアメリカ人に差し替えたものを「パワーレンジャー」シリーズとして放送し、人気を博しています。
今回この作品を見に行くときは、冒頭に書いた「何だこりゃ」となることを半ば覚悟して見に行きました。
しかし、蓋を開けてみると思いのほか見ごたえもあり、(もちろん日本の「スーパー戦隊」とは違うのですが)よくできた作品に仕上がっていたと思います。

「パワーレンジャー」シリーズは初期は定着していくのに苦労したという話を聞きます。
まず「変身」という概念が実はアメリカではわかりにくいものであるということがありました。
アメリカのスーパーヒーローを見ると、見た目は変わることはあってもそれはスーツを着ていたりということで、ヒーロー本人の能力が変身前後で大きく変わるということがまずありません。
スーパーマンはクラーク・ケントの時もそのスーパーパワーは持っているし、アイアンマンことトニー・スタークはあくまでスーツの力で強化されるわけです。
ウルトラマンにせよ、仮面ライダーにしろ、日本の「変身」は能力からまるで姿形まで変わってしまいます。
その点がアメリカのスーパーヒーローからすると大きく違います。
しかし長年にわたり「パワーレンジャー」は放送し続けることにより、日本的な「変身」という概念もなじみ深いものになっていたようです。
「パワーレンジャー」シリーズでは変身をするときに「モーフィン」という掛け声をかけます。
この「モーフィン」という掛け声は「metamorphose(メタモルフォーゼ)」という言葉からつくられたモーフィングからとられたと言われています。
この「metamorphose」とは「変態」という意味です。
ここでいう「変態」はいわゆるHENTAIという意味ではなく(笑)、蝶が成長に従い、青虫から蛹、そして蝶と形態を変えていくことを指しています。
今回の映画「パワーレンジャー」がよくできていると思うのは、この「変態」という概念を映画の核に上手に据えているところでした。
「なりたい自分になればいい」というセリフが劇中で出てきます。
今回の「パワーレンジャー」のメンバーはいずれも挫折を経験したり、周囲にうまく溶け込めない悩み事を持つティーンエイジャーたちです。
かれらは日々学校生活をしていく中で、自分らしくいられないという悩みを抱えています。
周囲に合わせて変わっていかなければならない、大人にならなければならないという悩みは誰でも10代のころは持ちますよね。
けれどやはり自分がなりたいものになっていかなけば、ストレスをかかえていくだけ。
劇中でメンバーはなかなか変身ができません。
それは皆が気持ちを一つにできないからということもありますが、自分自身がなりたい自分になりたいと本当に願うか、そのための努力を惜しまないかという覚悟ができるかどうかにかかっているとも言えます。
仲間たちの支えもあり、メンバーはひとりひとりその覚悟を決めていき、やがて変身ができるようになります。
それは蛹が蝶に変わるほどの大きな変化です。
まさにメタモルフォーゼです。
日本特有の「変身」という概念を理解し、それをティーンエイジャーの成長と合わせて描いた本作は、よくある表面的な模倣に終わるリメイク品とは一線を画すように思えました。
アクション・特撮パートにおいては最近のハリウッドムービーらしいていすとでしたが、それはそれでかっこがいい。
最後の合体ロボが「トランスフォーマー」的なのはご愛敬というところでしょうか。
なにか続編がありそうな終わり方。
次は追加戦士でグリーンが登場か?

| | コメント (0) | トラックバック (1)

「メアリと魔女の花」 科学の暴走

「借りぐらしのアリエッティ」「思い出のマーニー」の米林宏昌監督の最新作です。
スタジオジブリが制作部門を閉じたため、新たに設立されたスタジオポラックという制作会社によって作られています。
米林監督は宮崎監督に認められたアニメーターだけあって、本作品も手描きアニメの味わいが感じられるテイストになっています。
「思い出のマーニー」よりはエキサイティングな印象を持ちました。

「魔法」と「科学」という概念は対立したものと語られることが多いのですよね。
科学は論理的であって未来的、魔法はオカルティックで非論理的であるといったように。
しかし、魔法というものはその現象が起こる理由が「今は」解き明かされていないものであると考えることもできます。
SF作家アーサー・C・クラークの言葉に「十分に発達した科学技術は、魔法と見分けがつかない」という言葉があります。
つまり十分な科学に関する知見がなければ、科学も魔法に見えるということとも言えます。
逆に言うと魔法でも科学とは違う論理で体系化できるものとも言えます(魔法の論理がわからない人から見れば、魔法以外のなにものでもないわけですが)。
この物語で描かれている魔法は、我々の科学とは異なる論理で体系化された科学なのですね。
だから魔法使いであるマンブルチューク校長と魔法科学者ドクター・デイが共同で「変身魔法」を研究しているというのも納得できるわけです。
本作品の世界(というよりエンドア学園)において、「魔法」は「科学」であると言えます。
つまりこの物語の中の魔法は我々の科学技術の象徴と言えます。
ラストでピーターにかけられた変身魔法が暴走してしまうときマンブルチューク校長の「溶け出ていってしまう!」といった叫びがあったと思いますが、これは原発のメルトダウンの比喩であると想像できます。
すべての魔法を使うことができる者を生み出す究極の変身魔法は、究極のエネルギーと言われた原子力を象徴しているように思われます。
また動物たちやピーターを使った変身魔法の実験は、遺伝子操作を思わせるようなところもあります。
遺伝子操作についての技術は日々進んでいますが、そのリスクがすべて明らかになっているわけではありません。
科学を進化させ究極を求めるあまり、それによってもたらされるかもしれないリスクに関して、科学者が無関心であることへの警鐘を鳴らしている作品と言えるかもしれません。
「科学技術」の暴走というテーマは、宮崎駿監督の作品でもいくつかで語られる話です(「未来少年コナン」「風の谷のナウシカ」等)。
そういう意味で米林監督はジブリの正当な後継者と考えられますね。
しかし、宮崎さんもまた新作を作るという話が出ているようです。
こちらはこちらで気になりますね、

| | コメント (0) | トラックバック (1)

2017年7月18日 (火)

「パイレーツ・オブ・カリビアン/最後の海賊」 最後の自由人

予告編でちらっとキーラ・ナイトレイが出てたので、初期作品との関係があるのかなと思ったら、最初にオーランド・ブルームまで出てきてびっくりしました。
1作目は2003年だから15年も経っているんですよね。
キーラ・ナイトレイはその間も美しさをキープしているので、驚きです。
そういえば、若かりし頃のジャック・スパロウもでてきましたが、あれはCGですよね?
ジョニー・デップの演技をモーション・キャプチャーしたのかしらん。

本作は雰囲気的には1作目に近い感じがしましたね。
ヘンリー・ターナーとカリーナ・スミスの関係は、ウィルとエリザベスの関係を彷彿とさせます。
また本作はヘンリー、カリーナそれぞれの親子の物語と、ポセイドンの槍という宝物探しの話が絡み合いながら進んでいき、それに宿敵であるサラザールという海賊ハンターが絡みます。
以前ジャック・スパロウは狂言回しである、といったことを記事に書いたことがありますが、まさに本作もそのような立ち位置でした。
ジャックは物語をかき回して、推進する役割ですが、あまりそれらの物語に積極的に関与していくわけではありません。
ラストでヘンリーとカリーナ、ウィルとエリザベスが大団円をむかえますが、ジャックはそれを見て「くだらない」と言って、自由に航海を続けます。
彼にとって自由で縛られないことこそが最も重要であり、恋人や妻であっても、それは己を縛るものでしかないと感じるのでしょう。
そういえば、仲間が去ると言ったときも、それに対しては何も言わず、仕方ないなといった感じでしたよね。
英語タイトルの副題は「Dead Men Tell No Tales」で「死人に口なし」という意味ですが、日本語の副題は「最後の海賊」でした。
まったくオリジナルと関係ないタイトルですが、大航海時代を経て人々が定住し安定を求め、海賊自体もいなくなっていく時代の中、ジャックだけが自由を求め続けているという意味で、ジャックが「最後の海賊」であるというようにもとれます。
ジャックは最後の自由人なのかもしれませんね。

エンドロール後には恒例のおまけが(これだからこのシリーズは最後まで席を立てない)。
無事エリザベスのもとに戻ったウィルのところに謎の影が・・・。
続編が作られるという話もあるようですが、今度はウィルやエリザベスを中心に物語は進んでいくのでしょうか。

| | コメント (1) | トラックバック (5)

2017年7月 8日 (土)

「22年目の告白 −私が殺人犯です-」 フィンチャー的なエッジ

知人のオススメがあったので、見にいってきました。
最初から最後まで緊迫感があり、またストーリーも二転三転あったので、飽きることなく見ることができました。
見終わった後、パンフレットを見て知ったのですが、本作の原案は韓国の映画なのですね。
確かにずっと緊張感が続く感じは韓国の犯罪・事件ものの作品に通じるものがあります。
なんというのですかね、いけないものを見せられてしまいそうな緊張感とでもいうのでしょうか。
入江悠監督の作品は今までは「ジョーカー・ゲーム」しか見たことがありません。
「ジョーカー・ゲーム」はこれといって評価する点があまりなかった記憶があります。
ハリウッドのアクションムービーのようなものを作ろうとして失敗してしまったようなイメージです。
しかし、本作は見ごたえがあり、またモダンなエッジが効いていて良かったですね。
韓国映画とか、デイビッド・フィンチャーのような緊張感があります。
こういう緊張感が出せる監督はあまり日本には他にはいないような気がしますので、今後の作品に期待です。

前にも書いたのですが、藤原竜也さんはこういった日常ではない役柄が似合いますね。
藤原さんの演技はナチュラルというよりは、芝居的な演技だと思います。
日常的ではない役柄は下手に演じると、設定自体が嘘くさく感じられてしまうものですが、藤原さんが演じると(あえて言いますが)オーバーな演技により、しっかりと定着できる感じがするのですよね。
割と力技で定着させるイメージなのですが、なかなかこういったことができるタイプの役者さんはいないような気がします。

| | コメント (0) | トラックバック (1)

「ハクソー・リッジ」 信念を貫く

いくら自分なりの考えを持っていようと、報道や社会の大きなうねり、周囲の人々の意見などによって、容易に流される。
むしろ流されることの方が多いと思う。
選挙などで雪崩を打ったように一方の勢力に票が入ることもあるし、または誰かへのバッシングなども一気に高まることもある。
社会の空気とか、うねりとかそういう見えない力があって、それに抗うことはなかなかに難しい。
特に戦争などといった状態であれば、さらにそうだ。
後から歴史を紐解けば、なぜそのようなことになったのだろうと思うことがあっても、その時に生きる人々、社会の中においては、大きなうねりに逆らうことは困難なのだろう。
本作「ハクソー・リッジ」では第二次世界大戦の激戦の中でも決して銃を取らず、人の命を奪わず、衛生兵として人を救い続けたデズモンド・リズの物語である。
戦場においては人の命を奪うことというのは兵士にとっては避けられないものである、ということは多くの人の理解であろう。
戦争という事態が良いか悪いか別にして、そういう状態になった場合、兵士の役割を否定できるものではない。
しかし、デズモンドは兵士が国を守るために戦い、人を殺さねばならないことそのものは否定はしないが、自分自身は人を殺すことを拒絶する。
人によってはそれは虫が良い話に聞こえるかもしれない。
けれども彼は自分の命をかけて、戦場に赴き、人を救おうとする。
己だけ人を殺すことの禁忌を避けているようにも見えなくはないが、彼が歩もうとする道もまた簡単なものではない。
多くの人の非難、奇異に見る目を受け、自分の信念を貫き通す。
彼の信条自体が良いか悪いかという議論は置いておいて、強い社会のうねりがある中で、それとは異なる自分の信念を貫くというのが、いかに困難であるかは容易に想像がつく。
これは戦場という場の話だけではないと思う。
東芝事件にしても電通事件にしても、社内で問題がある行為を許容する空気ができていた場合、それに一人の社員が異を唱えることがいかに難しいかがわかるだろう。
そう考えるとデズモンドが自分の信念を守るということに対して、強い胆力を持っていたということが実感できる。
さらに当時においても米軍はそういった一般の兵士とは違う価値観を持つ者(良心的兵役拒否者)を許容する懐の深さを持っていたということである。
最近でこそ逆に価値観の許容が狭められている気もするが、それでも日本よりは懐は深いのではないだろうか。
デズモンドが信念を貫き通すには、異なる価値観を受け入れる度量がある組織があるということが必要であったのかもしれない。
対して、当時の日本軍においてはそのような多様な価値を受け入れる余地はなかった。
現代においても日本の組織はまだまだそのような度量があるようには思えない。

| | コメント (0) | トラックバック (3)

« 2017年6月 | トップページ | 2017年8月 »