「この世界の片隅に」 当たり前のこと、大切なこと
昨年後半よりしみじみと話題になってきていたアニメ映画「この世界の片隅に」を見てきました。
ほのぼのとしたタッチの絵柄ではあるのですが、描いているのは太平洋戦争の頃で、なかなかに深そうなテーマであるので、観にいくのを躊躇していたところもあるのですよね。
結果的には最後に滝の涙になってしまいました。
主人公のすずは戦争という時代の中でも、日々ご飯を作ったり、着物を縫ったり、家族や旦那さんのお世話をしたりととても日常な生活を毎日繰り返しています。
配給がどんどん厳しくなって手に入るものが少なくなってきたり、空襲警報のサイレンが鳴り響くタイミングが間がなくなってきたりと戦争が間近になってきているわけですが、それでも日々の生活を暮らすための日常的な仕事は代わりません。
それを家族のためにしっかりと行っていくことが、すずの生活の全てであったのですね。
けれどもそういったすずの世界の外では戦争が着実に進んでいます。
幼馴染の晢が一時帰ってきた時はそういった変わらないすずの姿を彼は愛しく感じました。
多分彼が戦っている南方は非人間的な行為も行われていたことでしょう。
だからこそ晢は変わらない日常の象徴であるすずが愛おしく感じたのでしょうね。
夫の周作にしてもすずがいる場所が彼の戻るべきところでした。
しかし、すずのお母さん(おばあさんだったか?)がこのような意味のことを言っていたと思うのですが、「(戦争になって)驚くようなことが起こったが、それに驚かなくなってきている」、つまりは非日常的な戦争が次第に普通の生活の中にも次第に侵食してきているということなのですよね。
すずが営んできていた普通の生活、それは呉への空爆で決定的な変化を強いられます。
すずは姪の晴美を目の前で失い、そしてまた自分の右手も失ってしまいます。
彼女の右手は大好きな絵を描くための手、そして家族のお世話をするための手。
右手は平和で日常的な日々を営むことの象徴でした。
それは強引に奪われてしまいました。
自分にも子供ができたからか、日々の当たり前のような生活がとても愛おしい。
そういった普通の日々がずっと続いてもらいたい。
世の中に影響力があるような大それた人物なんかでなくてもいい、この世界の片隅で当たり前の生活を送れていればそれでいいと感じます。
それを強引に終わらすようなことが起こらなければいいと、強く感じました。
すずが玉音放送を聞いた後に怒りに囚われたのは、そんな大切な日常を奪ったのにもかかわらず、あっさりと配線を認めてしまった人々へ思わず沸き立ったものなのでしょう。
自分の右手、晴美のいのち、母や兄のいのち、そんな掛け替えのないものがなくなったのに・・・。
戦争はとかくマクロな視点で語られます。
それは仕方がないことではあると思います。
しかし、とてもミクロな視点で眺めることもかたや大切なのですよね。
そこに普通に生きる人々がどのようになっていくのか。
どう感じるのか。
当たり前はいつも同じようにあるから、その大切さを感じにくいものですが、なくなった時それがかけがえのないものであることがわかる。
この映画を観て、自分の周りにある当たり前のこと、そしてそれがどんなに大切なものであるかを改めて感じました。
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