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2016年8月31日 (水)

「秘密 THE TOP SECRET」 パンドラの箱

<ネタバレ注意の記事になっています!>

この作品で描かれる事件の発端は、主人公である第九室長薪と連続殺人犯貝沼の出会いである。
重要なシーンであるので、ここを一度思い出したい。
貝沼は教会のミサに参加していた。
彼がキリスト教信者であるかは描かれていないが、身なりが貧しく、ミサ後教会の施しを受けたところを見ると、信者ではなく施しをもらいに来ていたのではないかと思われる。
ミサが終わった時、彼は椅子に忘れられていた財布を見つけ、持ち主に渡そうと立ち上がる。
しかし彼は足が悪いのかゆっくりとしか歩けず、持ち主を見失ってしまう。
その時、彼はちょっとした逡巡の後に財布を懐に入れてしまう。
おそらくそれほどの悪気はなく「まあ、いいか」「ちょっと得したな」というくらいだったのかもしれない。
しかしその一連の行為を見ていた薪は、警察であることを告げた上で、貝沼に罪を犯さないようにと言い、財布を預かる。
その上に貝沼がそういった行為をした背景をわかったように、金の施しを与えたのだ。
映画の中で描かているのはこう言った描写である。
これがどうしてその後の陰惨な事件の連鎖につながっていくのか。
おそらく、貝沼は薪に行為を見咎められ、施しをされた時に、財布を懐に入れてしまう逡巡と罪を犯そうとしているという自覚を全て、薪に見抜かれてしまったという気持ちになったのであろう。
誰でもある行為を行うときに心の中で善悪のせめぎ合いがあったりするものだ。
例えば、100円を拾ったときに誰も見ていなかったら交番に届けず、ラッキーと言ってポケットに入れてしまったり、電車で疲れて座っている時に目の前に老人が来ても寝たふりをしてしまったり。
罪の意識を感じながらもちょっとしたことをしてしまうということは誰でもあるだろう。
ただそれを誰かに「お前は気づいて席を譲らなくてはいけないと思ったのに譲らなかっただろう」と言われたら、顔から火が出るほど恥ずかしく感じるだろうし、言った相手に対し不快な気持ちも抱くことだと思う。
誰でも頭の中でちょっと人には言えないような恥ずかしいこと、不道徳なことを考える。
しかし普通は理性的に考えて大それたことを実行することはない(100円をポッケに入れてしまうことはあったとしても)。
貝沼は薪に指摘された時、自分の心にある恥ずかしい部分を露わにされたことに怒りを感じたのではないだろうか。
その相手である薪は悪意があるわけではなく、非常に純粋な気持ちで言ったということも貝原にはわかったであろう。
しかしだからこそ自分とは異なる、純粋な精神を持つ薪に苛立ちを感じたのではないか。
その純粋さを汚したいという衝動を貝原は持ったのではないかと思う。
そしてさらに薪が人の脳の記憶を読む技術を開発していることを貝沼は知った。
それはある意味人間の本分を超え、神の領域にも足を踏み出すこととも言える。
純粋な精神がさらに神の高みに登っていく。
貝沼の中に、薪を堕落させたいという衝動がより強くなっていったのだろう。
この作品には鍵というモチーフが各所に出てくる。
鍵とはみてはいけないものをしまっていくということ、禁忌の象徴。
薪は人の心がしまってある箱の鍵を開けてしまった。
その禁忌を破った時に出てくるのは絶望か、希望か。
まさに人間の心、記憶はパンドラの箱である。
貝沼から続く陰惨な事件は絶望である。
箱の中にあった暗い心を見てしまった人々は自殺をしたり、発狂したりした。
あまりの闇に触れた時、人は自分の心にも同様の闇が存在することに気づいてしまうのではないか。
自分自身すら気づいていなかた闇に絶望する。
おそらく開けてはいけない鍵なのだろう。
しかしパンドラの箱と同様に、そこにあるのは絶望だけではない。
物語の最後に出た幸せそうな風景。
これは盲目の少年のパートナーである犬が見ていた映像の記憶である。
犬が見ていたのは幸せそうな人々の光景であった。
人の世は絶望だけではなく、希望も確かに存在する。
それだけが救いであり、薪が生きていけるのもこれがあるからではないだろうか。

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「劇場版 動物戦隊ジュウオウジャー ドキドキサーカスパニック!」 新しい戦隊のリーダー像

動物をモチーフとしていて、描かれているエピソードもオーソドックスである「動物戦隊ジュウオウジャー」。
安定感のある典型的な「スーパー戦隊」であるので、テレビ本編も安心して観ていられます。
その「ジュウオウジャー」の恒例の夏の劇場版ですが、やはりテレビと同様に安心して観られる「スーパー戦隊」の映画に仕上がっています。
劇場版だからといって、トリッキーなエピソードではなく、子供達でもとてもわかりやすいお話になっていると思います。
個人的に今回の「ジュウオウジャー」はメンバーキャストがとてもいいかなと思います。
一人ひとり見ていくと、まだ経験が少ない方もいるので演技的には気になるところもあるのですが、メンバーが揃っている時の雰囲気がとても良い。
5人でいる時の和やかな感じが良くて、そのあたりも観ている時の安心感につながっているのかもしれません。
割と個性豊かな4人のジューマンたちをまとめているジュウオウイーグルこと大和はわかりやすい強烈なリーダーシップを持っているタイプではありません。
かといってひとり突っ走ってしまうタイプでもない。
どちらかといえば、メンバーのことをよく理解して、というより理解しようとしてくれる、包容力のあるリーダーなのではないかなと思うのですね。
リーダーが引っ張ることによりまとまるチームというよりは、懐の深いリーダーに人々が集まってくるチームというイメージでしょうか。
よくよく考えてみると、大和は今までのスーパー戦隊にはなかったタイプのリーダーなのかもしれません。
そして今の時代求められているのもこういうリーダーなのかもしれないなと感じました。

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「劇場版 仮面ライダーゴースト 100の眼魂とゴースト運命の瞬間」 テレビ本編をなぞっているような 

仮面ライダーの夏の劇場版はとてもよくできている時と、それほどではない時の差が結構あるような気がしている。
今回の「ゴースト」の劇場版はどうだったかというと、後者の印象であった。
もともと今回の「仮面ライダーゴースト」についてはテレビ本編についても個人的にはあまり乗り切れていない感があり、劇場版への期待が薄かったということもあるが・・・。
映画全体的にドラマが薄いというか、既視感があるような印象があった。
テレビ本編をなぞっているという感じで、劇場版らしいイベント感、スペシャル感がもっとあっても良かったように思う。

まず「仮面ライダーゴースト」は「主人公がすでに死んでいる」という設定が最もユニークな点だと思うのだが、テレビシリーズでも活かしきれていないような気がしている。
テレビのオープニングにタケルのタイムリミットは毎回提示されるのだが、それがいわゆるタイムリミットサスペンス的には描かれておらず(第1シーズンの最後はそうだったが)、効果的であるとは言い難い。
第1シーズンで使ってしまったので、2度目は使いにくいとも言えるが、それだと構成そのものが要検討であったように思う。
また主人公タケルが自分の命よりも、他人の命を大切にする心優しい青年であることはテレビ本編の中盤でもカノンの復活のエピソードの時に描かれている。
自分の存在よりも人を大切にするという彼の行為によって、誰の命であっても大切であるということを伝えられているように思う。
ただ、このような構成が「ゴースト」では何回かきりのいいタイミングで繰り出されてくるので、ちょっと既視感が出てしまうような気がする。
今回も出てくる登場人物は違うものの、タケルが自らの命を捧げて他人を救おうとし、命の大切さを伝えるということがテーマであるので、やや食傷気味にはなった。
劇場版の敵であるアルゴスは世界の人々をゴースト化しようとする。
人々を均質化し、生や死のない平和な世界を作ろうとする試みであるが、これはテレビ本編の敵となるアデルも人々の魂を自らに取り込み平和な世界を目指しているが、基本的には狙いは同じであり、テーマのかぶりが感じらるのも既視感につながっているのかもしれない。

劇場版でタケルとアカリが約束するのは「一緒にごはんを食べる」ということであった。
テレビ本編でもタケルとアカリは約束をするというエピソードがあり、これもかぶっているように思う。
公開時のタイミングがずれていれば気にならなかったと思うが、本編も最終盤の盛り上がりのところであるので、劇場版とエピソードが似通っていることは気になった。
御成が言っていた「生きることとは食べること」というのはいい言葉で、これをもっと膨らませてエピソードを作れれば、「ゴースト」のテーマである生の大切さということをもっと表現できたのではないかと思った。

劇中登場した「仮面ライダーエグゼイド」はかなり驚いた。
なるほど、こうきたかという感じ。
このところ正統派のライダーが多かったので、こういう変化球はちょっと期待してしまう。

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2016年8月 7日 (日)

「シン・ゴジラ」 これってエヴァンゲリオン?

すでに観た周りの人の間では評判がいいらしい。
しかし、個人的にはこれは「ゴジラ」なのだろうか、はたまた「怪獣映画」なのだろうかとちょっと気にかかってしまった。

まずはおそらく多くの人が指摘しているであろう「エヴァンゲリオン」との類似性に触れたい。
監督が同じなので、作風が似ているのは当たり前ではあるのだが、自然とそうなっているのではなく意識的に行っているように感じた。
それを強く感じたのは、音楽である。
伊福部昭の「ゴジラ」のスコアを使っているところに庵野監督のオリジナルへのリスペクトを感じ、旧作ファンとしては嬉しさを感じたのではあるが、驚いたのは「エヴァンゲリオン」の楽曲を本作劇中で使っていたことであった。
「エヴァンゲリオン」の楽曲は個性的なものが多いが、その中でもとりわけ印象的なのはネルフが使徒迎撃作戦(例えばヤシマ作戦とか)を実行するときに流れることが多い、「ダンダンダンダン、ダンダン」という打楽器の出だしではじまるあれ(Decisivle Battel)である。
この楽曲は「シン・ゴジラ」では対策本部がゴジラに作戦実行を行う時に、しばしばアレンジを替えて使われている。
アレンジは変わっていても曲の印象は「エヴァンゲリオン」のそれと変わらない。
このことにより本作のゴジラ対策本部はネルフと同じような存在であるように見えてくる。
本作の対策本部は非常に官僚的でありつつも、ある意味の臨機応変さを持った現場力もある組織に見え、それはネルフとの特徴に一致する。
これは同じ曲を使うことによって意図的にそう見せようとしているように感じる。
対策本部=ネルフとするのであれば、ゴジラ=使徒という図式も「シン・ゴジラ」の中に見えてくる。
実際、今回のゴジラは第一形態から第四形態まで次第に進化していくが、これは使徒が第一形態→第二形態と進化する存在であったことを連想させる。
また本作のゴジラはなぜか東京を目指し、そしてその理由が何であるかは物語の中ではわからない。
「エヴァンゲリオン」においても使徒は第三新東京市を目指すが、当初はその理由は謎のままであった。
この点においても「シン・ゴジラ」と「エヴァンゲリオン」の類似性を感じる。
本作のゴジラは異質感をまとっている。
第一形態は得体のしれない気色の悪い姿をしていて、挙動も生理的に不快感がともなうが、これは人とは相いれない存在であることを意味しているように思う(ぎょろりとした目はこれもエヴァに通じる)。
これも使徒の形態が、従来の怪獣的なモンスターとは異なることによる、異質感を持っていることと通じるものがある。
本作でも最終形態は我々が見慣れた「ゴジラ」になっているが、まったく人間とは相いれないという点では変わらない。
もともとゴジラという存在は「荒ぶる神」と劇中で言われるように、人間とは相いれない存在ではあった。
が、それを傲慢となってしまった人類への神か、地球かからの警告であるという解釈をするならば、まだ人間とゴジラは近しい存在とも言える。
しかし、本作における「ゴジラ」は何も人類とのつながりを感じられない異質感というものが際立っている。
この異質感がエヴァにおける使徒に通じるように感じられてならない。

Photo

↑バンダイからこういうフィギュアも出るようなので、ゴジラ=使徒という図式はやはり意図的なものであるのだろう。

庵野監督は「エヴァ」で行っていたことを再度、ゴジラという題材で行っているように感じてしまうのだ。
そもそも「エヴァンゲリヲン」の劇場版の最終章はどうなるのかまるで聞こえてこない。
もともとのテレビシリーズの「エヴァンゲリオン」も明確的な物語の週末を描いていないのだが、劇場版の方も本当に終わるのかという疑問が残る(2作目のポジティブなトーンでこの監督は変わったと思ったのだが、3作目でやっぱり変わってないと思った)。
「シン・ゴジラ」にしても「エヴァ」的な思わせぶりな終わり方である(次回作があってもより「エヴァ」っぽい話になる予感がある)。
もしかすると庵野監督は物語を終わらせられない人なのではないか。
これは個人的な感覚でいうと、エンターテイメントの監督としては如何なものかとも思う。
まずは「エヴァンゲリヲン」をしっかりとまとめ上げてほしい。

ここからは個人的な好みの問題になってしまうのだが、自分が育ってきた世代の趣味でいうと、「怪獣映画」やその他のエンターテイメント映画に求めるものは、カタルシスなのである。
もちろんいろんな屁理屈を込めたり、思想が入っている映画を解釈する行為も好きなのだが(上記を見ればわかる通り)、でも怪獣映画にはカタルシスは求めたい。
「シン・ゴジラ」にはカタルシスはなく、見ていると「エヴァ」にも通じる閉塞感ばかりが強まっていく。
こういう閉塞感を自分は怪獣映画には求めていない。
個人的には怪獣映画のベストは平成「ガメラ」の第1、2作。
これにはカタルシスがあった。
もし怪獣が東京に来たらということをリアルにシミュレーションしたという点で平成「ガメラ」と「シン・ゴジラ」は同じであるが、目線が異なる。
「シン・ゴジラ」は圧倒的に政府サイドの目線で描かれる。
それは非常にリアリティがある描写ではあるのだが、ゴジラがモニター越しのリアリティがない存在のようにも見える(テレビで見る福島原発とか、地震の後の街の様子のような)。
対して「ガメラ」は中山忍演じる鳥類学者と螢雪次朗演じる警察官が一般人からの目線となっている。
ガメラやギャオス、レギオンへの一般人からの目線が描かれているので、それは別の意味でリアリティのあるシミュレーションになっている。
「ガメラ」で描かれている怪獣は自分ごと化できるが、「シン・ゴジラ」のゴジラは自分ごと化しにくい。
だから怪獣が倒された時もカタルシスがないのだ。

否定的なことばかりを書いてきたが、特撮パートはなかなか迫力があった。
今回のゴジラはCGで作ったと聞いているが、そうは思えないほどに着ぐるみ感が出ていた。
電車爆弾をゴジラに突っ込ませるシーンもCGなのでしょうか?
いい意味でミニチュア感がでていて、古くからの特撮ファンとしてはうれしかったです。

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