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2016年7月29日 (金)

「インデペンデンス・デイ: リサージェンス」 虚しい拡大再生産

前の「インデペンデンス・デイ」が公開されてから、もう20年経っているんですね。
久しぶりの続編「インデペンデンス・デイ:リサージェンス」も監督は前作と同じくローランド・エメリッヒです。
まあ、この方の作風は相変わらずで、作品は相変わらず大味です。
前作ではホワイトハウスを上空を覆う巨大UFOが光線で攻撃するというビジュアルが印象的でした。
あの時代はああいう映像はあまりなかったので、とても印象的でした。
地球を何度も破滅させている男エメリッヒは今回も派手に異星人の攻撃を描いてはいるのですが、観客サイドもそういう映像を見慣れてしまっているところもあり、前回ほどの強い印象は持てませんでした。
今となってはよくあるビジュアルといった感じです。
UFOも地球を覆うほどに巨大になり、破壊度も規模が大きくなっているのですが、インフレを起こしているだけであって、目新しさは感じないのが残念なところです。
あとは異星人の設定も、数々のエイリアンものを焼き直ししているようで新鮮味がありません。
ハリウッドは、異星人をアリやハチのような社会性のある昆虫をモチーフとした設定で描くことが多いですよね。
「エイリアン2」の時はとても新鮮でしたが、もうこの手の設定は食傷気味です。
映画的にはボスキャラを倒せば全て解決するという使い勝手の良さがあるとは思うのですが、いい加減に使い古されてしまった設定であるような気がします。
そろそろ新しいアイデアが出ないものですかね・・・。
エメリッヒなので、キャラクターが類型的で薄っぺらいのは相変わらず。
それでも前作の「インデペンデンス・デイ」では大統領の演説から、それぞれの人々が自分を犠牲にしても地球を守りたいという気持ちがあって、それにより異星人を撃退するという終盤に、カタルシスを感じたものです。
続編である本作はそのようなカタルシスも感じないのですよね。
前作と同じ構造でただ規模を大きくしているだけの、虚しい拡大再生産のような感じがします。
こういう展開になると予想していたので、がっかり感も少なかったんですけれど、それでも残念な出来でした。

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2016年7月18日 (月)

「アリス・イン・ワンダーランド/時間の旅」 過去は変えられない

てっきりティム・バートンが監督かと思ったら、彼は製作だけだったのね。

前作はアリスが人と違う自分に自信を持って行動できるようになっていく、彼女の成長物語でした。
今回オープニングから彼女は父親の事業である貿易を継いで、若い女性でありながら自ら決断して生きていっている女性になったことがわかります。
つまり前作で彼女は未来を自ら選択していく勇気を身につけていくこと学んだわけですね。
そして本作では、未来というよりは過去に目を向けたお話となっています。
主人公はアリスで彼女の行動を物語は追っていくのですが、過去を描かれるのはマッドハッターであり、赤の女王であり、白の女王です。
ワンダーランドの住民は奇妙なキャラクターが揃っていますが、その中でもこの3人は特別変わっています。
そんな風変わりな彼らでさえ過去はありました。
というよりも、過去が彼らを作っている。
マッドハッターの奇妙奇天烈で陽気な性格の裏には、過去に家族を失った悲しみがあります。
赤の女王があんなにひねくれ、残忍であるのも、昔から自分だけが不幸な目にあい、誰にも愛されないという苦しみからきています。
誰でも過去に縛られ、過去により自分が作られている。
アリスはマッドハッターの亡くなった家族を救うため過去に飛び、またそこでは赤の女王の不幸な事故を回避しようとしますが、うまくいきません。
彼女は過去はどうやっても変えられないということを知ります。
起きてしまった過去をどんなに嘆き、どんなに悔やんでも、それは変えることはできません。
人はそれを受け入れるしかない。
アリスも父親を失ってしまったことを悔やんでいたのでしょう。
時間は大切なものを奪っていくと彼女は言っていましたが、そこには父親を失い、なすすべがないことへの苛立ちを感じます。
彼女がマッドハッターのために過去へ旅立つのも、自分の思いを重ねていたからかもしれません。
しかし過去は変えられないという認識を彼女は改めてもち、その上でそれを受け入れて自分の未来を選択していくことを学びます。
過去を受け入れた姿は、赤の女王と白の女王の和解にもうかがえます。
この先ワンダーランドも、アリスの人生も前向きで幸せなものになっていくのでしょうね。

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2016年7月10日 (日)

「エクス・マキナ」 人間の悪夢の始まりか?

昨今A.I.(人工知能)が現実世界でも注目を浴びている。
昨年Googleの人工知能AlphaGoが韓国のプロの囲碁師を破ったのは記憶に新しいところ。
その他にもMicrosoft、IBMなどの大手のIT企業も急速に人工知能の研究を進めている。
人工知能がこの後発達を続けていき、いつか人間の能力を超える事態となることをシンギュラリティ(技術的特異点)と言い、ジョニー・デップ主演の「トランセンデンス」でもそれは描かれた。
オックスフォード大学が昨年発表した「文明を脅かす12のリスク」の中でもその一つとして人工知能の進化が挙げられている。
さて人工知能が「知能がある」とどのように我々人類は確認することができるのか。
その一つの有名な方法が「チューリング・テスト」である。
これを考案したアラン・チューリングは映画「イミテーション・ゲーム」でベネディクト・カンバーバッチが演じていた。
本作「エクス・マキナ」の主人公であるケイレブが、会社のCEOネイサンに依頼されたのも、彼の人工知能が本当に知能を持っているかどうかを確かめるチューリング・テストの試験者になってほしいということであった。
こちらの作品については、事前に全く情報を持たないまま(予告すら見なかった)での鑑賞であった。
人に勧められて観たのだが、インディペンデントな映画が好みの人であったので、わかりやすい物語ではないだろうと踏んで本作を観た。
見始めて、おそらくこの作品は人間とは何か、知性とは何かということを問う作品であるだろうという予測を持った。
最初に思ったのは、主人公ケイレブは人工知能の試験者であるが、実は彼こそが人工知能そのものであるというストーリー。
なぜならば、試験対象であるエヴァが途中からケイレブへの質問を投げ始めたからであった。
チューリング・テストは試験者が、ディスプレイの向こうにいるはずの人間もしくはコンピューターに質問を繰り返し、その応答によって人間であるか人間でないかを判断するテストである。
この場合、逆にケイレブがテストをされているように見えたのだ。
しかし、この作品が一筋縄でいかない。
主人公ケイレブ自身もやがて次第に混乱していき、自分が人間であるかどうかが自信がなくなっていくというシーンが出てくるところがある。
依頼者ネイサンが何か隠し事をしているように見えること、そして自分自身が始終観察されているようであること、それらによって自分自身が試験対象者であるのではないかと疑い始めるのだ。
我々普通の人間は、自分自身が人間であるかどうかということに疑いを持たない。
ケイレブはエヴァに対しチューリング・テストをしていくにつれ、彼女に対して人間的な感情を持つに至る。
彼はエヴァがチューリング・テストに合格し、知性があると認めている。
そのように人工知能が軽やかに知性(人間性)を獲得したのを自分の目で見た時、自分自身が当たり前のように持っていた「人間であること」という特殊性が、それほど特殊でないと感じてしまったのかもしれない。
だから自分自身が人間であることに不安感を持ったのではないか。
それでは知性を獲得したエヴァが、人間性を持っているのかどうかという疑問が出てくる。
人間性とは何かというのは一言で言うのは難しいが、人と人との間にある共感性のようなものは含んでいると思う。
知性と人間性は必ずしも同じことではない(チューリング・テストはその辺りは曖昧)。
ケイレブはエヴァに知性も感じ、自分と同じような人間性も感じた。
だからこそ彼はエヴァに同情をしたのである。
しかし、エヴァが同様にケイレブやネイサンに共感性というものを持っているかどうかはわからない。
人間が、他の動物には人間並みの共感性は持ち得ないとのと同じように、人工知能も人間に対して共感性は持たないのかもしれない。
エヴァが別荘を脱出するときの行動にはそのようなことを感じた。
もしそうであるならば、人工知能が人間を超えるシンギュラリティは、人間の悪夢の始まりなのかもしれない。

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