« 2016年5月 | トップページ | 2016年7月 »

2016年6月26日 (日)

「植物図鑑 運命の恋、ひろいました」 ファンタジーな恋愛

「図書館戦争」「阪急電車」などで知られる有川浩さんの恋愛小説「植物図鑑」の映画化作品です。
こちら有川作品の中でもベタ甘度が高い作品で、読んでいてもちょっと照れるところがありました。
基本的に甘い恋愛映画は得意ではないのですが、好きな有川浩さんの作品なので、観に行きってきました。
やはり、ベタ甘でしたね。
なんというか、これが現代女子の理想の恋愛なのかな。
主人公さやかと同居することになるイツキは、現代的な草食男子(で、イケメン)。
料理など家事もなんでもできてしまい、それでもって優しい。
男臭い野暮なところも一切なし。
はるか昔、男性の方が理想の妻に求めていたような理想像がイツキに現れているかもしれませんね。
理想の妻が本当にはなかなかいないように、こんな男性も滅多にいないと思いますが。
そういう意味ではファンタジーです。
劇場は意外に入っていましたが、ほとんどEXILEのファンかしら。
途中でさやかとイツキにキスシーンとか二人がいちゃつくシーンがありましたが、きゃーとか声をあげてましたから。
あと、女子が憧れそうなのが野草で調理する一連のシーンですかね。
こういうスローライフ的な生活に憧れる人も多いですが、実際やるとなるとなかなかこれはこれで大変。
現実的には難しいですよね。
こういうところもファンタジーだなあと思いました。
主演は高畑充希さんで、彼女は映画は初主演だということで。
演技は前からうまいとは思っていたので、主演ぶりは全く問題なしですね。
個人的にそれほど美人さんとは思っていなかったのですが、本作ではとってもキュートで可愛く見えたのですが、やはりこれは女優としての才能かな。

| | コメント (2) | トラックバック (6)

2016年6月20日 (月)

「マネーモンスター」 変わっていく関係性と変わらない関係性

意外にもジョディ・フォスターが監督をする映画を見るのは初めて。
思っていたよりも、テンポよくエンターテイメントな作品を撮るのですね。
金融工学の話が最初に色々と出てくるので素人にはちょっととっつきにくい印象がありましたが、そこさえ耐えられれば、ストーリーは先が予想できない展開で楽しめます。
ストーリーの流れが非常によく、上映時間は短いのですが密度が濃い感じがしました。
脚本が非常によくできていると思います。
登場するキャラクターも魅力的で、彼らの関係が物語が進む中で次第に変わっていくところが興味深いですね。
例えば、主人公のリー、そしてテレビ局の立てこもり犯であるカイルの関係です。
銃と爆弾で武装した犯人と人質ですから、利益相反の関係性であるのですが、次第にカイルがなぜ立てこもりをしたのか、そしてその背景にある企みの姿が明らかにつれ、リーはカイルに同情にも似た共感性を持っていきます。
またリーはカイルがデッドマンスイッチ(スイッチから手を離すと爆発する仕掛け)を仕掛けた爆弾ベストを着せられており、その受信機を警察は狙撃しようとします。
その際、リーが重傷を負う可能性あり、それを知ったリーは犯人であるカイルを盾にしようとします。
二人はそのためテレビ局を出たあとも行動を共にするのですが、それもひとつの犯人と人質の共同関係の様なものになります。
関係性が変わっていくキャラクターでいえば、他にもいて、アイビス社の広報担当者ダイアンもそうと言えます。
アイビス社とは、カイルが立てこもる原因となった株の暴落を引き起こした会社ですが、その広報担当者である彼女の立場としては、カイル、そして虚偽の情報をつかまされたリーたちと敵対関係にあるわけです。
しかし、社内で情報をたどっていくうちに、社長が不正を行っている可能性に気付いていきます。
次第にダイアンと、テレビ局プロデューサー、パティの間柄も共闘関係のようになっていきます。
逆に変わらない関係性もあります。
主人公リーと、番組プロデューサーパティの関係です。
リーがあまりに自分勝手に番組を進めるために、降板し別の局にパティは転籍しようとしていました。
しかし、事件発生後、リーとパティは揺るぎない信頼関係で事件をしのいでいきます。
事件のさなかでありながら、常に冷静さを失わず、全体を見通すことができるパティ。
臨機応変に状況の変化に合わせて、場をコントロールすることができるリー。
まったく違うタイプの二人ながら、相手が何を考えているかを察しあうことができる。
まさに阿吽の呼吸ですね。
二人の間にある信頼関係は物語が進んでも変わりません。
変わっていく関係性と変わらない関係性、これがこの作品の見どころであるかなと思います。

| | コメント (2) | トラックバック (22)

2016年6月19日 (日)

「10 クローバーフィールド・レーン」 既視感のあるごちゃ煮

J・J・エイブラムス製作でタイトルに「クローバーフィールド」とあり、事前にあまり情報が出ていなったという点で、「クローバーフィールド/HAKAISYA」と類似していて、関連が気になる作品です。
実際観てみると、本作と「クローバーフィールド/HAKAISYA」は関係があるようにも見えるし、ないようにも見えます。
「クローバーフィールド/HAKAISYA」の巨大生物は何物であるかはわからないのですが、本作における襲い来る物もその背景は謎なので、世界各地を異生物が同時に襲ってきたという設定で繋がっているかもしれません。
とはいえ何もわからないので、違う物語かもしれません。
こういう何だかわからないシチュエーションでもサバイバルを描く物語を「クローバーフィールド」というそれだけでは意味がない言葉でくくっているだけかもしれません。
個人的には「クローバーフィールド/HAKAISYA」との関連性を云々するよりは、個別の作品として観るほうがいいのではないかと思います。
主人公が何物かに襲われ、サバイバルするという物語ですが、本作はその相手は怪物というよりは、人間であると言っていいでしょう。
主人公ミシェルにとって、気がついた時にすでに囚われていたシェルターの主人と、そのシェルターの外にいるかもしれない異生物というのが恐怖の対象となります。
本作の印象は過去の様々な作品がミックスされている印象がありますね。
サイコなホストによって監禁まがいのことをされ、そこをそこをいかに脱出するかという物語(「ミザリー」とか)や、謎の異生物に襲われサバイバルをしていく物語(「サイン」とか「宇宙戦争」とか)などが、ぐちゃぐちゃっと一緒に合わさっている感じです。
よくよく考えればJ・J・エイブラムスが名を挙げた「LOST」も、そういう不可思議な物語のごちゃ煮的なセンスはあったわけで、こういう謎を謎のまま解明せず、引っ張っていく物語が好きなのかもしれません。
物語中で謎が提示されると、その謎が解明されることを観る側は求めるので、そこに物語のエネルギーは割かれることになります。
また解明されないとある種のフラストレーションも観客は持つことになりますよね。
そういうフラストレーションも含め、観客に尻の座らない感じを持たせ、主人公の不安定な状況を同じように感じさせているのかもしれません。
とはいえ、既視感のあるものをごちゃっと合わせて観せられたような感じはしました。

「奴らはあらゆるフォームでやってくる」って日本版の宣伝コピーは的外れな感じがしますね。
全く意味がよくわかりません。

| | コメント (0) | トラックバック (20)

2016年6月18日 (土)

「高台家の人々」 コミュニケーションの努力

綾瀬はるかという女優はコメディがよく似合う。
「海街Diary」で見せたような真面目な感じの女性も演じれば、「八重の桜」のような凛々しい役もやる。
そういう点では演技の幅は広い女優さんなのだと思う。
しかし、中でもとりわけコメディ映画に出演している時の彼女はしっくりときているように感じる。
テレビ番組などに出演している時の彼女を見てみると、結構な天然キャラのようなので、本人的にも自然にやりやすいのかもしれないのだが。
背も高くスタイルも良い彼女は、女性から見ても理想のプロポーションと言われることが多いが、役柄的に女を押し出すような役柄はあまり演じてきていない。
彼女の顔の造作はモデル出身の人のような整ったような美しさはそれほど感じられない。
どちらかといえばかわいいタイプの顔立ちだし、愛嬌のある顔だと思う。
完璧に整った容貌の女優は、それゆえに役柄が限られてきてしまうのかもしれないが、綾瀬はるかの場合はその容姿と愛嬌のある顔立ちのギャップが様々な役をこなせる要因になっているかもしれない。

さて本編の方の話。
好きな人に自分の心のすべてを見せられるか、というのがテーマになりますかね。
やはり個人的はいくら好きな人でも無理!となっちゃいますね。
自分自身でもコントロールできない内面をさらすというのは、裸で街中を歩くようなことに近いと思う。
相手によほどの包容力があり、そしてそれを100%自分で信頼しきれるかということにかかっているかと思うのだけれど、そういうことはない。
なぜなら相手の心を100%はわからないから。
信頼感というのは、相手はこう考えてくれているはずだいう自分の思い込みの上に成り立っている、脆いものなのかもしれません。
脆いからこそ相手の気持ちを理解しようと努力をするのかもしれないですね。
自分の側からも伝えようとしますし。
そのコミュニケーションの努力というのが、信頼感を築くのでしょう。
本作の木絵と光正も、人の心を読む力がある云々ではなく、後半は相手がどう思っているのかをお互いに考えあうということをしていました。
それがコミュニケーションの努力。
だからこそ最後は二人は本当に信じあえるようになったのでしょうね。

| | コメント (0) | トラックバック (10)

2016年6月16日 (木)

「64-ロクヨン-後編」 子への思い、届かぬいたたまれなさ

<ネタバレ部分があるので、注意してください>

前編は昭和64年に発生した誘拐事件「ロクヨン」を模倣した事件が発生したところで終わっていました。
事件が始まってすらいないところではあったので、後編も気になって公開後すぐに観に行ってきました。
模倣事件は誰が行っているのか?
誘拐された子供は助けられるのか?
そもそも「ロクヨン」の犯人は見つかるのか?
といった謎が解けていくのも見どころではあるのですが、それよりも親が子供を思う気持ちの深さ、そしてそれが届かぬ時のいたたまれなさに感じ入りました。
「ロクヨン」で娘を殺害されてしまった雨宮は十数年にもわたり、一人で犯人を追っていました。
毎日のように一軒一軒電話をかけ、自分だけが知っている犯人の声を探していたのです。
それは気の遠くなるような作業であったでしょう。
しかし、それは彼にとって唯一、愛娘と繋がっていられる行為であったのでしょう。
雨宮は年月が経ち、娘のことを忘れてしまっていきそうになることが恐ろしいと言ってしました。
彼がいかに娘を想っていても、それを直接伝えることはもうできません。
声をかけてあげたくとも届かない。
そのいたたまれなさといったら。
彼ができる唯一のことは一つ一つ電話番号を潰していくことだけ。
そうすることによって、彼は娘と繋がっていたいと思ったのかもしれません。
また、主人公三上にしても、そのいたたまれなさを抱えています。
彼に反抗的な娘に手を焼き、その気持ちを理解できないという悩みがありました。
しかし、彼は娘と正面を切って向かい会おうとはできず、その結果娘は失踪をしてしまいます。
彼も娘を愛していないわけではなく、それだからこそ娘がいなくなった時、喪失感を感じ、自分が間違ったことをしてしまったのでないかという思いを持ち続けています。
だからこそ三上は、雨宮の本当の思いを理解した時、彼が持ついたたまれなさに共感したのではないかと思います。
そして雨宮も三上が心の中に抱えている思いを察したのではないでしょうか。

また本作では、人は自分の強い思いに支配された時、他人の気持ちを思いはかることができなくなってしまうということも浮かび上がってきます。
「ロクヨン」の犯人は後編で割とあっさりとわかります。
そもそも模倣事件自体が、彼が犯人であることを明らかにさせるために仕込まれたことであるわけです。
かつて自分が行ったと同じように娘を誘拐された時に、犯人は自責の念にかられるのか。
彼は自分の娘を助けるために大金も用意します。
そのために自分は何でもやるとも言います。
彼は模倣犯に対し、娘の命を懇願した時に、かつての自分の姿は思い浮かばなかったのでしょうか。
自分が娘を思う気持ちが何ものにも勝ってしまう。
同じことは、三上にも言えます。
三上が犯人を追い詰めた時、彼は雨宮に共感し、その思いを果たしてあげるためと考えていたのでしょう。
娘のためという雨宮の思いを遂げること、それは三上自身にとっても思いを果たすことと同じになっていたのかもしれません。
だからこそ、三上は禁じ手とも言える手法で犯人を追い詰める。
そして、それにより犯人の娘の気持ちをも傷つけてしまいました。
それは犯人が他人の気持ちをわからずに犯行を行ったことと、同じことであるようにも思えます。
いかに親の子供に対する思いが強く、そのためであるならば他の人間を傷つけてしまうこともしてしまうという業の深さを描いているようにも思いました。

| | コメント (2) | トラックバック (25)

2016年6月12日 (日)

「ズートピア」 多数決の怖さ

カウンターでパンフレットを買うとき「ズーラシア」くださいと言ってしまった。
動物園じゃないってーの。
本当のタイトル「ズートピア」は動物園(Zoo)とユートピア(Utopia)の造語ですよね。
この作品を観に行ったのは、時間が合うのがこれしかなかったからという極めて消極的な理由からであったのですが、見てみてびっくり、意外にもテーマがしっかりしていて、かつエンターテイメントとしても楽しい名作でありました。
見る前はいろんな動物が出てくるドタバタのエンターテイメントかと思っていたのですが、社会的な問題も内包していて意外と深い。
肉食動物から草食動物までが、平和に暮らしていける街というのが、ズートピア。
ある意味、理想郷ですよね。
観た方はわかると思いますが、これはメタファーみたいなもので、ズートピアは人間にとっての理想郷とも言えます。
あらゆる人種、文化、宗教、そういった壁を越えて、人々は仲良く暮らしていける街。
生まれながらの身分などもなく、差別もなく、みんなが自分がなりたい自分になれる社会。
人間が思い描く理想の社会がズートピアに表されています。
しかし理想郷に見えたズートピアで、行方不明事件が発生し、それが実は社会的な問題に深く根ざすということとなっていきます。
後半、ズートピアにおける少数派である肉食動物(ライオンやキツネ、ジャガーなど)は、その精神の奥底に野生を持っており、それがいつ爆発するかわからないということで、社会的な差別を受け始めます。
肉食動物たちの力は草食動物たちよりも何倍も強いものですが、圧倒的な人口の差により、肉食動物たちの居場所がなくなっていきます。
これはある種の差別です。
レッテル貼り、偏見です。
危険な行為をした肉食動物がいたとして、だからと言って全ての肉食動物が危険だとなぜ言えるのか?
冷静に考えばこういう疑問が出てくると思うのですが、社会的な流れができてしまうとなかなかそういう疑問は出てくることがありません。
このあたりが民主主義の根幹でもある(多数決)の怖さでもあるのです。
誰かがなんかおかしいと思っていても、それが大衆の数によってかき消されてしまう感じ。
ポピュラリズムの怖さとも言えましょう。
それを巧みに扱っていたのが、ズートピアの副市長であったわけですね。
よく考えれば、かつてのナチスのヒトラーも選挙で選ばれたわけですし、彼がやった行為に対して疑問を持った人もいたとは思うのですが、大きな流れに飲み込まれてそれを止めることはできなかった。
そういった民主主義が孕む危険性についても考察されている感じがしましたね。
ユートピアというのはただそこにあるのでなく、ユートピアでい続けられるにはしっかりと人々が差別やレッテル貼りといったことへ自分自身を諌めることができるようになっていなくてはいけないのだろうということなのでしょう。
とはいえ、ディズニーなので深刻なテーマを掲げただけではなく、ちゃんとハッピーエンドになっています。
レッテルで人を見るのではなく、お互いにその人そのものを見てあげる。
そうすれば人は夢を持ちなりたい自分になれ、またお互いに信頼しあうことができるのでしょう。

通常、この手の動物がたくさん出てくるおとぎ話だと、肉食動物=強者、草食動物=弱者というイメージがあったわけですが、そのマインドセットを逆転させたところがアイデアだったかなと。
そこで浮かび上がってくるのは多数決の怖さであるわけで、よく考えられた作品であると思いました。

| | コメント (0) | トラックバック (20)

2016年6月11日 (土)

「デッドプール」 ある意味大人なヒーロー

マーベルのヒーローだと言うから、いずれ「アベンジャーズ」に参加してくるのかと思ったら「X-MEN」の系列だったのね。
そちらの方でクロスオーバーがあるのかしらん?
「X-MEN」では生真面目で深刻な背景を持っているキャラクターが多く登場するので、デッドプールは完全に異端児ですよね。
かき回してくれたらそれはそれで面白そうですが、なかなか扱いが難しそうなキャラです。
実はこの作品に海外に出張していた時に現地で上映していたので、英語の勉強で観ようかと思ったりしたのですが、なんだかんだと忙しくて時間が取れませんでした。
いや、観てもさっぱりわからなかっただろうなあ。
スラングだらけですものね。
観た現地の人は絶賛していました。
デットプールを一言で言えば、ヒーローらしくないヒーロー。
超人的な能力を持っているという点ではヒーローなのですが、その言動と精神はおよそヒーローらしくない。
人を守るために戦うとか、平和のために戦うとか、そういうことは一切考えてない(といって悪さをするわけではないけれど)。
最近のヒーローが持っている内面的な葛藤とは無縁です。
悩みと言えば、醜い姿になり大好きな彼女に振られてしまうのではないかということだけ(それが彼が戦う原動力だったりするわけで)。
キャプテン・アメリカはきっと彼と会ったら顔をしかめることでしょう。
デッドプールは「X-MEN」の世界観に属するキャラのようですが、冒頭にも書きましたがこの世界のキャラは深刻な背景を持っている者が多いですよね。
「X-MEN」シリーズ自体が、差別ということをテーマにしているわけですし。
それだからこそ物語が重厚になるのだとは思いますが、息苦しい感じもちょっとするのも確か。
そういうマジメなヒーローに対して、おふざけに徹するヒーローというのはとっても新鮮でした。
ある種の爽快感がありましたね。
子供向けと思われていたヒーローものが大人の鑑賞にも耐えられるようになって久しいですが、それは登場人物の内面を描くことの深みが出てきたからだったり、ストーリーがテーマを持って語られるようになったからだと思います。
本作「デッドプール」は別の意味で大人のための映画(?)になっていますよね(間違って子供さん連れてきたら、びっくりするかしらん)。
エンドロール後のおまけを見ると、次回作もあるようですが、どんな感じになるのでしょう(「デットプール」なので予告までフェイクという可能性もありますが)?
期待したいのは「X-MEN」の面々との共演。
マジメなヒーローたちをかき回してもらいたい。
しかし、デッドプールの主観で語られない形式は、彼にはなじまないですかね。
第4の壁も突破しにくいですし。
個人的に一番ウケたのはウィルソンが手術の前に言った「グリーンのコスチュームはやめてくれ!」でしたね。
グリーン・ランタンはどこに行ったのだろう?

| | コメント (4) | トラックバック (28)

« 2016年5月 | トップページ | 2016年7月 »