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2016年5月29日 (日)

「殿、利息でござる!」 つつしみの掟

タイトルからもっとコメディ色が強い作品かと思っていたのですが、どちらかといえば泣かせるタイプの作品に仕上がっていました。
自分としては「超高速参勤交代」くらいをイメージしていたのですが・・・。
ま、泣かせタイプの作品だったら、もう少しストレートに泣かせて欲しかった気もしますが。

現代の日本では「つつしみの掟」というものは無くなって久しい感じがします。
面接で学生時代に打ち込んだことを「盛って」自己アピールする就活生。
自撮りした写真をSNSにアップして、いかに「リア充」しているかを伝えようとしたり。
仕事でも成果主義が導入されたあたりから、目立つ仕事の方が評価されやすくなったりもしています。
誰も彼もが自己アピール。
それ自体は悪いことではないのですけれど、度を過ぎていくと周囲との軋轢が生まれギスギスとしていきます。
それはそうで、強いエゴ同士が接触すれば、それは何か摩擦が生まれますよね。
昔は大したことをやった人も、自分の成果だと主張するのではなく、「謙譲の美」であまりアピールしないものでした。
それは皆が自己主張することによりギスギスとした関係が生まれてしまうことに対しての生活の知恵なのかもしれません。
自己主張すること自体は悪いことではないけれど、それを過度にやりすぎるといやらしさが出てきます。
そのいやらしさが日本人的な美の感覚とは違うのでしょうね。

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2016年5月22日 (日)

「スポットライト 世紀のスクープ」 溢れる情報にスポットライトを

観終わって、内容を的確に表現をしたタイトルにしているなと思いました。
もちろんタイトルの「スポットライト」は、主な舞台となる新聞社ボストングローブの特ダネ専従班「スポットライト」チームのことなのですが、作品そのもののテーマにも通じることだと感じました。
本作でスポットライトチームが追うのは、ボストンのカトリック教会の神父が行った子供への性的虐待。
しかもその事実を教会組織が長年にわたり隠蔽を行い続けてきたという可能性がある。
新聞記者たちがインタビューを重ね、資料を探っていく中で、次第に明らかになっていく事実。
本作は分類すれば社会派のミステリーとなりますでしょうか。
記者たちが証言や証拠を集め、次第に事件の核心に迫っていく様は緊張感があります。
しかし、本作のポイントは通常の社会派ミステリーと異なるところにあると考えます。
それがタイトルにも関わる話となります。
記者たちが事件を追っていく中で明らかになっていく情報は、実はすでに公にされていたり、新聞社に様々な人間が提供していたものだったりしていたのです。
それを揉み潰したとかそういうことではなく、単にその情報の重要性、意味に気づくことができていなかったということなのですね。
現在様々な情報が世の中には溢れています。
マス媒体だけでなく、個人が発信するインターネットなどなど。
企業で言えば、ビックデータの活用などと言って莫大な情報がある。
けれど、それら情報・データから意味のある解釈ができるかというと、意外とそうでもなかったりします。
実は莫大な情報から意味のある解釈をするには、そこには課題の設定、仮説や予想といったものが必要であると思います。
ボストングローブにいくつかの情報が持ち込まれてた時、記者たちもカトリック教会に課題があるという認識には至っていなかった。
だから数人の神父の異動や休職、弁護士からの情報も、ただの情報以上のものではなかった。
その情報が実際意味することに気付けなかったのです。
しかし、課題意識を持ってそれらの情報を見直したとき、そこに仮説が浮かび上がってくる。
まさにたくさんの情報の中にスポットライトを当てた状況になるわけです。
焦点が定まってくれば、さらに必要である情報は明らかになってきます。
それで仮説がどんどん補強され、強い物証が出てくれば事実となります。
必要なのは課題を持ち、思考をフォーカスさせること。
それにより莫大な情報にスポットライトを当てることができる。
情報で溢れかえる世の中で、真実を見つけていかなければならない、現代社会の生き方にヒントを与えてくれる作品ではないかと思います。

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2016年5月21日 (土)

「64-ロクヨン-前編」 報道の役割とは

例によって原作は未読ですが、横山秀夫さん原作の作品らしく骨太のドラマとなっていました。
本作は出演者も上手な俳優さんがたくさん出演されているので、その点でも見ごたえがありますね。
最近の邦画は前後編を間をおかずに公開するパターンが多いですが、本作もそのような構成となっています。
前編は過去の誘拐・殺人事件が新たな展開を向かえるところで終わります。
おそらく後編は犯人、動機といった事件そのものの謎を追うミステリー色の強い展開となると思いますが、前半は事件というよりは警察・新聞社の組織、そしてそこに生きる人々を広報官三上を通じて描いています。
「クライマーズハイ」でも見られましたが、そのあたりは元上毛新聞の新聞記者であった原作者の真骨頂ですね。

警察や新聞社に限らず、組織に属する人間は、組織の意思と個人の意思との間で苦しむことがあります。
得てして組織はそれ自体が意思を持つかのように振る舞い、その組織の構成員を縛ります。
組織の面子を気にし、それに反することによりはじき出されることを恐れ、保身のために動く人もいます。
これは変じゃないか、間違っているかもしれないという疑問を持つことがなく動いてしまう場合もあり、それは組織文化として非常に危険です。
本作で描かれている隠蔽がそうですね(東芝事件とか、最近の三菱自動車の件などもこれでしょう)。
そしてまた組織の意思のように見えて、トップの方の個人的な思惑が絡んでいることもあるので厄介です(派閥争い的な)。
そういう状況の中で、個人としての矜持を通そうとすると、組織からはじき出されてしまうことがあります。
本作の主人公の三上のように。
どちらの方がいい生き方なのかというのは一概には言えません。
しかし、組織の中で個人の矜持を通そうとすることは難しいがゆえに、このような主人公に強く共感し、声援を送りたくなってしまうのかもしれません。

また別の視点で、権力に対する報道という点でも問題提起を行っています。
かつての日本では報道が公権力の影響を受け戦争を推進していく一つの力となった反省から、報道は公権力が暴走することを防ぐという強い使命を持っています。
それ自体は報道の機能として正しいスタンスであると思います。
しかし、それが公権力への抑止力ということから、ただ対立することが目的化していくという変質が起こっているのではないかと本作は指摘しているような気がします。
これは報道に限らず、野党などもそういう感じがしますが。
何のための戦いなのか。
それは国民のためであるべきであるのに、いつからか戦うことが目的化してしまっている。
これは瑛太さん演じる秋川に象徴されています。
仮想敵(警察)がいなくては自分の存在意義が見出せない。
三上は、いつまで戦い続けるのか、と問います。
戦いが目的でははずだろうと。
報道は様々な情報を集め、それを国民に提示し、皆でより正しい答えを導き出せるようにするのが役割ではないかと考えます。
そういう基本的な役割をもう一度認識するべきであると言っているような気がします。

前編では組織と個人、そして報道の役割といった社会的な課題をエンターテイメントの中でしっかりと提起していました。
後編ではどのような展開が待っているのでしょうか。
期待して待ちたいと思います。

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2016年5月 8日 (日)

「テラフォーマーズ」 火星でどつき合い

三池監督は嫌いではないのだが・・・。
どうにもこの作品はあまりいいところを見出せなかった。
昆虫人間とテラフォーマーズが延々どつき合いをしているだけの映画にしか見えなかったのですよね。
三池さんにあまり深い意味合いのストーリーとか、キャラクターの心情の描写とかは元々求めているわけではないのです。
ただそれならそれで、キャラクターの個性がもっとエッジが立っていればいいとは思いますが、そうでもない。
登場人物が多いため、それぞれのキャラクターを描く時間がなかったのでしょうか。
小栗さんの演じる博士は見かけはエキセントリックではありますが、ちょっとクセを出そうとしているのが痛々しい感じもしますしね。
舞台設定は面白いと思うのです。
火星をテラフォーミングする時に送り込んだゴキブリが超進化して人類の敵になるとか、人間の遺伝子に昆虫の遺伝子を混合して戦闘力を強化するとか。
それならばこの設定をもっと活かしてほしかった。
余計な舞台設定を説明するのはうっとおしいというのは三池さん流なのかもしれないのですが、それだったらこの作品は向いていないかもしれません。
昆虫人間とゴキブリ進化体の殺し合いを見せられ続けても、ねえ。
最近の「仮面ライダー」の劇場版の方がもっとしっかりストーリーができてます。
もう少しストーリーでハラハラさせられる工夫はできた感じがしました。
あえて、しなかったのか、わかりませんけれども。
原作は面白いと評判のようですが、映画だけが面白くないのか、それとも原作もこんな感じなのか・・・。
変な意味で興味が出てきました。

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2016年5月 6日 (金)

「シビル・ウォー/キャプテン・アメリカ」 さすがのマーベル

キャプテン・アメリカ、アイアンマン、今まで数々の脅威から世界を救ってきたスーパーヒーローたち。
彼ら一人一人が常人を超える凄まじい能力を持っている。
しかし、彼らがもし暴走をしたら・・・。
世界は破滅してしまうかもしれない。

アベンジャーズたちは人々を救ってきたが、その一方で決して少なくない人々が命を失ってしまっていた。
そのために彼らを危険視する意見が国際的にも増えたため、彼らを国連の管理下に置いた上で、活動を認めるという協定が結ばれようとしていた。
しかし、そのことに対してアベンジャーズ内でも意見が対立、特にスティーブ・ロジャース(キャプテン・アメリカ)とトニー・スターク(アイアンマン)は異なる考えを持つようになった。
その上ウィンター・ソルジャーことバッキー・バーンズの事件が起こり、彼らの対立はより激しさを増してしまう。
「スパイダーマン(サム・ライミ)」「アイアンマン」以降のスーパーヒーローものは、かつての「スーパーマン」や「バットマン(ティム・バートン」の時のようなファンタジーではなく、リアルさを持つようになっている。
それはスーパーヒーローの人物像であったり、物語の整合性といった部分にまで細かく描かれることによると思う。
そういった時に出てくる当然の疑問として「街中で派手な戦いがあった時、一般市民はどうなっているのか?社会はどう対応するのか?」ということがあげられると思う。
昔のスーパーヒーローものはそういう部分については「見なかったこと」にしていたものだが、あえてこの疑問に真剣に向き合うと興味深い物語が生まれてくる時がある。
日本の作品だが、「平成ガメラ」などはその好例だし、平成仮面ライダーの一作目である「仮面ライダークウガ」もその疑問に真剣に向き合ったものだと思う。
あまりうまくいかなった例としては、このテーマを消化しきれていない「バットマンVSスーパーマン」があげられる。
本作の一つの見所としてあげられるヒーローVSヒーローという構図、これは彼らがなぜ対立するのかということがしっかりと描かれていないとただのイベントとなり、大人が鑑賞には耐えられなくなってしまう。
この点が「シビル・ウォー」は非常にうまく描かれている。
意見の対立としては、国際機関の管理を受け入れるか、受け入れないかという点である。
トニー・スタークは受け入れ派、スティーブ・ロジャースは受け入れない派となっている。
スタークは元々傲慢不遜があり他人への配慮が足りないところがあったが、実は彼自身もそういう欠点は自覚している。
だからこそ「アイアンマン」で自分が売っていた武器が人殺しに使われることにショックを受けるのであり、また本作でも彼らの活動による被害者の母親の言葉に傷つく。
彼は自分自身がいつもすべての人にとって最良の答えを導くかどうかに自信がないのかもしれない。
スタークは自分が暴走してしまう危険を認識しているからこそ、良心としてのパートナー(例えばポッツとか)を欲するのだろう。
そういう彼にとって、制限が課せられることであっても、人を超えた力が暴走することを阻止しなくてはいけないという思いが強いのかもしれない。
対して、スティーブ・ロジャースはスタークのような自信のなさは感じられない。
彼は生まれながらのリーダーであり決断者で、最良の行動をとることに迷いがない。
そしてまた自らが所属をしていた組織(かつてのアメリカ、そしてSHIELD)が決して最良の行動をとるわけでもないということも知っている。
力があるものはその責任を感じつつ、自らその責任を取る覚悟で決断しなくてはならないと考えている。
その責任から逃げてはいけないと。
どちらの考えが正しいかと、本作では安易に結論づけているわけではない。
簡単に結論づけられるものでもないだろう。
ちょっと極端かもしれないけれども、軍の「シビリアン・コントロール」の問題にも関係があるようにも思う。
「シビリアン・コントロール」を強めると、有事の時に軍の動きの判断が遅れてしまい、対応ができなくなってしまうという危険性。
逆に弱めると、軍事力を持った組織が暴走してしまうのではないかという危険性。
まさに新安保法についても色々な意見があり、なかなか結論づけられるものではない課題ではある。
そういう結論づけられない難しい課題であることを本作は真剣に語っているところが、大人の鑑賞に耐えうる作品になっているところだと思う。
「バットマンVSスーパーマン」はこの問題を「母親の名前が同じ」というわけのわからん理由で、超越してしまったところがご都合主義で安易な感じがしたのだ。
スーパーヒーローは管理されるべきか、否かという課題はマーベル・ユニバースでもしばらく引きずられるテーマとなるのだろうか。

さて、ここからは散文的に。
マーベルの主要キャラクターでありながら、大人の事情でアベンジャーズには参加できなかったスパイダーマンが本作に登場しました。
「アメイジング・スパイダーマン」が低調のためシリーズ打ち切りとなったソニーが折れたのでしょうか(新シリーズがリブートされるようだが)。
本作のスパイダーマンはサム・ライミ版、マーク・ウェブ版よりも、年下の設定なのでしょうか、けれどそれが大人なヒーローたちの間で特徴的に描かれていて興味深かったです。
これからレギュラーになっていくのでしょうか。
あと驚いたのはアントマンのまさかの巨大化。
なるほど小さくなるテクノロジーは大きくなるテクノロジーに応用できるのですね。
派手なヒーローが多い中、ミクロサイズのアントマンがどうするかと思ったら、この手があったかと驚きました。
「帝国の逆襲」的なバトルも良かったですよ。
ブラックパンサーもなかなか存在感ありました。
シンプルなヒーローでありながらアクロバティックな体術で戦うので、ピンでも面白そうな作品ができそうではないでしょうか。

あとマーベルが上手だなと思ったのは、上手な退場のさせ方。
ウィンター・ソルジャーは自分自身が利用されるのを防ぐため冷凍睡眠に入り、ウォーマシンは戦いにより重傷を負う。
死んでしまうとかいつの間にか居なくなるといった安易な手法ではなく、そのヒーローを物語の中でうまく退場させるのがうまいと思いました(「アベンジャーズ エイジ・オブ・ウルトロン」)のハルクなども)。
「キャプテン・アメリカ」も本作で3部作簡潔で、クリス・エバンスは今後の「アベンジャーズ」への出演にはサインをしているということですが、登場場面は少なくなるかもしれないですね。
そうであっても、彼はアメリカの奥地にいるのだろうということで納得ができるわけです(スタークがピンチの時にやってくるという感じかな)。

いろんな視点で堪能できた作品でした。
それにしても「バットマンVSスーパーマン」は・・・。

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2016年5月 2日 (月)

「仮面ライダー電王」<平成仮面ライダー振り返り-Part8> その後に影響を与えたエポックな作品

平成仮面ライダーシリーズは現在(2016年)に放送されている「仮面ライダーゴースト」で17作目。
改めて過去の作品を振り返っていると10作目である「仮面ライダーディケイド」がちょうど境目になっているように思えます。
「ディケイド」は意識的にそれまでの平成仮面ライダーを総括していて、その後の第2期とも呼べる現在につながるライダーはある意味手堅く作られているように感じる時もあります。
もちろん2人で一人のライダーとなったり、車にライダーが乗ったりと設定上今までにないチャレンジをしているのですが、第1期(「ディケイド」まで)はひっくり返るほどに驚いたことがしばしばあったので、物足りないところもあります。
現在は成功の方程式ができていて、周囲から期待もされているので、なかなか冒険しにくいというところもあると思いますが。
驚くことが多かった第1期の中でも飛び抜けて驚いたのが、こちら「仮面ライダー電王」ではないでしょうか。
仮面ライダーが電車に乗って、時を旅するって設定をオンエア前に聞いた時、どんな風になっちゃうのか想像できなかったものでした。
何しろ主役の仮面ライダーがあまり格好良くない(笑)。
おもちゃ大丈夫かと心配になってしまいました。
(蓋を開けてみると、電車が顔の線路を走ってきて仮面を作って変身するというトンデモなくインパクトのある変身シーンで、かっこいいとか悪いとかいう次元を越えてしまった)
当時のレビューを読むと、最初はそれほど話に乗り切れなかったと書いているので、長年のライダーファンだからか固定観念があって戸惑ったのかもしれません。
しかし「電王」はそういった特撮ファン以外の人にも当たって、一般的にもブレイクしたライダーでした。
今、若手の俳優の中でも演技派の筆頭でもある佐藤健さんも本作で一気にメジャーになりました(本作を見直してみても、彼の演技はうまい)。
最初乗り切れなかったのは、時を旅するという設定のため、今までの仮面ライダーよりもちょっと全体の話が複雑に感じたところでしょうか(例えば特異点の設定とか)。
しかし今見直してみると、かなり最初の頃からしっかりと設定を考えているように感じました。
もちろん「仮面ライダー」シリーズなので、最初からきっちりとゴールを決めているとは思いませんが、ところどころにおいていた伏線をきれいにさらっていったと思います。
ヒロインのハナ役の白鳥百合子さんの途中降板とかアクシデントもありましたが、苦肉の策のコハナの設定も最初から考えていたかのようにしっくりきました(この辺はさすが小林靖子さん)。

また「電王」はその後の平成仮面ライダーの展開を考えると重要な役割を担っています。
今でこそ「ライダー大戦」とか「オールライダー大集合」いった映画、テレビシリーズのイベント回などで、ライダーもしくはスーパー戦隊とのクロスオーバーというのは当たり前になっています。
けれども「電王」当時はそのようなことは考えられませんでした。
しかし、「電王」で時間を自由に行き来することができる設定(デンライナー)ができました。
これはその後のクロスオーバーしていくには非常に使い易い便利な設定ということに制作サイドは気づいたのでしょう。
そして「ディケイド」で自由に空間(時空)を行き来できる設定が取り入れられ、ライダー世界がクロスオーバーすることとなります。
今でこそクロスオーバーが当たり前なので、細かい設定(なぜライダーが同じ空間にいるか)などということを説明することが必要なくなってしまいましたが、なんでもありのその素地を作ったのが「電王」であると言えます。
そういう意味で「電王」はこの作品が面白いということだけではなく、平成仮面ライダーシリーズ全体に影響を与えたということで極めてエポックであると思います。
そういう視点で冒頭の話題になるのですが、最近の平成仮面ライダーシリーズは単体で面白い、面白くない云々ではなく、今後のシリーズに影響を与えそうなインパクトがある作品がないなと感じるところがありますね。
一期10年と考えると第2期もそろそろ終盤。
エポックな作品の登場を期待します。

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