「機動戦士ガンダム 鉄血のオルフェンズ」 生と死の生々しさ
こちら「ガンダム」らしくないとも言われていますが、個人的には独立した作品として毎回かなり引き込まれて観れました。
そもそも「ガンダム」らしいっていうのは何なのかということにもなりますけれども。
「鉄血の」とタイトルにあるように、本作は日曜の夕方に放映されていたにしては、「鉄」と「血」を生々しく感じる作品となっていました。
ガンダムオルフェンズを始めモビルスーツが登場して戦い合いますが、本作ではビームライフルやビームサーベルなど「ガンダム」らしい兵器は出てきません。
モビルスーツが持つ兵器は金属の大刀や鉈、銃を持っていたとしてもビーム兵器などではなく、弾丸・砲弾が発射される実弾兵器です。
大刀を叩きつけられた(斬るではない)敵のモビルスーツはひしゃげ、潰れます。
実弾が当たれば、ガツンと金属がぶち当たったような重い金属音がします。
そして中にいるパイロットはコクピットの中で、潰されて血を吐きながら死んでいきます。
ファーストガンダムでサイド6でジオンと連邦の戦いをテレビ中継で人々が見ていたシーンがありました。
あれは戦争というものの生々しさを相対的に表現するシーンであったと思いますが、それでもロボットのテレビアニメを見ている方としては、あのテレビ中継を見ているような気分は少なからずあるでしょう。
そういう自分たちに、本作は戦うということの生々しさを「鉄」と「血」を描くことによりダイレクトに伝えてきました。
主人公三日月は子供でありながら、人を殺すことに躊躇がありません。
なぜなら生きるためにはそうしないと生きてこれなかったから。
人を殺したら、かわいそうとか悲しいとかそういうレベルではないのです。
死を感じない主人公だからこそ、よりいっそう死(と生)の生々しさを感じさせました。
しかし彼は自分のためだけに人を殺しているのではありません。
彼は自分が信じている仲間のために殺している(というより自分の命すら大事に思っていない)。
彼ら鉄華団は理念とかで繋がっている、甘っちょろい仲間たちではありません。
もっと深い何か、それこそオルガがよく口にする家族というものに近いかもしれません。
思想などではなく、血で繋がっている仲間たち。
血は仲間のために己の命をささげる覚悟を持っているという関係性の象徴。
劇中鉄華団が結成される時、オルガとその兄貴分の名瀬がヤクザのように盃を交わし合いますが、これも血の結束の象徴でしょう。
そんな仲間たちであっても、いやそうやって命をささげる覚悟を持っている彼らたちだからこそ、仲間たちに容赦なく死が訪れます。
オルガの片腕であったビスケットの死は結構衝撃的でありました。
死の容赦なさというのが感じられたからだと思います。
それでも彼らは仲間たちのために命をかける。
自分の命よりも大事であるものがあると彼らには思えているからでしょう。
途中より鉄華団にメルビットという女性が参加しますが、彼女の視線は見ている我々の常識的な視点の代表です。
子供なのにそのように死にに行こうというのは間違っていると彼女は言います。
けれど彼らにとっては死や生よりも大事なものがあるということなのです。
彼らには迷いはない。
正しいか正しくないかというより、自分の生を越えて信じられるものがあるというのは羨ましいことかもしれません。
多分彼らが悩むことなく自分をかけることを持っているということに自分は惹かれたのかもしれません。
生きていれば、ささいなことで悩むことばかりです。
そんなことなく迷うことなく進む彼らが眩しく見えました。
本作、第2シーズンが秋から始まるそう。
楽しみに待っていたいと思います。
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