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2016年4月30日 (土)

「ちはやふる 下の句」 彼女はちはやぶる

上の句では、主人公千早が集めたかるた部員たちが団体戦を通して、本当の仲間になっていく過程を描いていました。
今回の下の句では、いろいろなことで焦る千早が個人戦と戦うことで仲間のことを見失い、しかし再びその絆を得るところが語られます。
自分にかるたの楽しさを教えてくれた新にまたかるたをやってほしいという想い、また自分の実力では到底かなわないクイーンの存在による焦り。
千早はなかなか思いどおりにいかないことに苛立ち、自分自身の周囲に目を配ることができなくなっていました。
個人戦では仲間に頼ることはできない。
だからこそ自分の力でなんとかしなくてはいけない。
そんな想いが彼女を空回りさせていました。
もちろん個人戦を戦うのは、個人です。
誰も試合では助けてはくれません。
クイーン詩暢は自分は一人で黙々とかるたを続けてきたから、強いと言っています。
けれど、そこで戦う千早の力には仲間たちから得たものが活かされている。
肉まんくんはサウスポー対策を伝授し、奏は歌の意味を教え、机くんは相手のデータを分析する。
そして太一と新はかるたが最も楽しかった時の思い出を。
それら仲間たちから得たことが、千早の力になっている。
それを千早は自覚します。
だからこそ彼女は「ちはやぶる」。
やみくもに荒れ狂うのではなく、今の自分は自分の力だけではないと自覚ができたからこそ、芯の通った猛々しさを持つことができたのでしょう。
競技シーンで彼女がそれに気づいた一連のシークエンスは、脚本も演出も良かったですね。
ラストシーンはこの先、彼女たちが歩んでいくであろう未来が描かれていました。
その時のみんなが心底かるたを楽しんでいそうなところが印象的でした。
もっとこの先が見たいなと思ったのですが、続編が作られるようですね!
あのシーンに至る過程が早く観てみたいです。

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2016年4月29日 (金)

「レヴェナント:蘇りし者」 映画圧を感じる

今年のアカデミー賞を総なめにした「レヴェナント:蘇りし者」を観てきました。
アレハンドロ・G・イニャリトゥは昨年の「バードマン」に続いて2年連続の受賞です。
イニャリトゥ監督の「バードマン」にせよ「バベル」せよ難解なイメージがあるので、身構えて観に行きましたが、思いの外ストーリーはわかりやすい作品となっていました。
彼の作品を観るとき、作品に織り込まれた監督の意図をなんとか読み解こうというようなスタンスで鑑賞していました。
しかし本作については、どちらかといえば主人公ヒュー・グラスが歩んでいく険しい道のりをじっくりとドキュメンタリーのように撮っているので、知らず知らずのうちに考えて観るという感じではなくなり、引き込まれるといったような見方になっていました。
書く力が強いことを筆圧が強いと言いますが、本作は作品から感じる圧力が強い印象があります。
映画圧が強いとでも言いましょうか。
観ていてひしひしと圧力を感じ、目をそらしたり、気を抜いたりできない感じがしました。
もともとイニャリトゥ監督の作品は目をそらした途端わからなくなるので気を抜けないのですが、そういった感じとも違います。
骨太のストーリー、ストイックなディカプリオの演技、自然光だけを用いた美しい映像、監督得意の長回しも相まり、150分以上の長尺でありながらも目を離せない作品になりました。

本作は「生」をとことんストレートにテーマにした作品です。
肉体的にも精神的にもボロボロになっても、それでも生きていく。
死んだほうが楽かもしれないと思いそうな状況であっても。
妻も子も殺されている。
彼らの復讐をするために生きていこうという気持ちはあったでしょう。
けれど生きるということが生命の本質であるからこそ、本当に最後に心臓が止まるその時まで、生きることをあきらめないという気持ちが彼にはあったように思います。
死ぬことのほうが楽かもしれないのに、生きることを選択する。
生きるという過酷な道を選ぶのは、己よりも早くそれを絶たれた妻と子へ、自分が安易に死を選んでしまうことが恥ずかしいという気持ちがあるのではないでしょうか。
自分が死を軽々しく選ぶことは、彼らの生を軽くしてしまうという気持ちがあるのではないかと感じました。
グラスは復讐を遂げますが、最後は相手の運命を神に委ねるという選択をしたように、復讐することのみに生きていたのではないような気がしました。
自分が生に執着する、それが妻と子の生を価値のあるものとするという思いがあった。
そのように感じました。

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「手裏剣戦隊ニンニンジャー 」  オーソドックスな安定感

今年の初めから海外に長期出張に行っていたため、録画していたものをやっと見終わりました。
リアルタイムから3ヶ月遅れですね。
ちょうど最終コーナーを回っていたところで、リアルタイム視聴じゃなかったのでちょっと気分的には盛り上がりに欠けてしまいました。
前作の「烈車戦隊トッキュウジャー」が設定的にかなりトリッキーなものであったのに比べ、本作は本来のスーパー戦隊らしいオーソドックスな仕上がりであったと思います。
主人公のレッドがポジティブで作品全体を明るく前向きなトーンにしていたのも戦隊らしさにつながっていますし、主人公たちがラストニンジャの称号を得ること、そして人間を支配しようとしている牙鬼軍団と戦うという設定もシンプルで子供たちにとってもわかりやすいものであったと思います。
忍者というモチーフはスーパー戦隊シリーズとしては、「カクレンジャー」「ハリケンジャー」に続いて3回目の登場。
個人的に「忍風戦隊ハリケンジャー」は好きな作品であったので、これを越えられるかどうかというところがポイントでしたが、見終わった感想としてはちょっと及ばずというところであったでしょうか。
冒頭にオーソドックスと書きましたが、主人公たち戦隊側のキャラクター構成としては極めて真っ当なものでした。
ポジティブで積極的なアカ、クールでアカにライバル心を持っているアオ、人柄が良いキ、とても頭が良く冷静なモモ、しっかり者のシロ。
バランスがとても良いとは思いますが、もう少し冒険があってもよかったかなと思いました。
その点、「ハリケンジャー」は味方も敵も個性的なキャラクターが多く、それだけで楽しく観れたものでした。
しかしそれは「ニンニンジャー」が面白くなかったということではなく、オーソドックスな戦隊ものとして楽しめました。
特に最終回前の数話は非常に盛り上がっていたと思います。
わたくし的に好きだったキャラクターはラストニンジャ好天の息子であり、アカニンジャー天晴の父親でもある旋風(つむじ)ですね。
彼は若いころ忍者の修行をしていましたが、ある事件でニンタリティ(忍者のパワーの源)を奪われてしまいました。
そのため彼は忍者になることを断念し、ニンニンジャーたちのサポートに徹するようになったのです。
歴史に残る父親、そしてそれを超えることができそうな息子の間にあり、コンプレックスも持っているだろう旋風が、懸命に彼らをサポートする姿を描かれるエピソードが何回かありましたが、この話はよかったですね。
実は彼がニンタリティを奪われた事件も、ラストの因縁にも絡むことになり、重要な役回りであることが明らかになります。
最後、彼もまたニンジャに変身できたところはちょっとジンとくるものがありましたね。
親子三代揃い踏みのアカニンジャーは見応えがありました。
この辺は今までのスーパー戦隊にはない画でしたね。
さてすでに次回作である「動物戦隊ジュウオウジャー」も始まっています。
こちらもどちらかというとオーソドックスなテーマと作りになっているかなと思います(今のところは)。
どのように展開していくのでしょうか、オーソドックスなまま走り抜けるか、はたまたトリッキーな設定が登場してくるか。
期待していたいと思います。

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2016年4月23日 (土)

「アイ アム ア ヒーロー」 日常から非日常へのグラデーション

さすがR15+指定、血みどろでしたねえ。
正直、血がたくさん出てくる映画は苦手なのですが、気になって見に行ってきました。
原作のコミックは例によって読んだことがなかったのですけれど、面白いという評判は聞いていました。
読んではないのですが、唯一覚えていた漫画の印象的なカット(英雄がショットガンを持ってたたずんでいる姿)が予告でもイメージ通りに再現されていたので、気になったのですよね。
ジャンル的にはゾンビ映画になるのでしょうか。
海外ではこの手の作品は大作から、こじんまりしたものまでたくさん種類がありますが、日本ではこのくらい本格的なゾンビ映画はあまりなかったような気がします。
本作で特徴的だなと思ったのは、佐藤監督がパンフレットのインタビューでも語っていましたが、日常から非日常へのグラデーションの描き方かなと思いました。
恋人やアシスタント仲間がZQN化してしまい、状況が掴めぬまま主人公の英雄が街に出たあたりからの描写に特徴を感じたんですよね。
最初は見慣れた普通の街。
そこには何も知らずに歩いている人たちがいます。
しかし、次第に何かから逃げ出している様子の人々が混じり、ついにはZQNたちが人を襲っている場面に英雄は出くわします。
そして彼も襲われ、逃げていく中で町中がパニックに陥っていく様が描かれていきます。
普段と違う、なんかおかしいという嫌な予感がだんだんと現実感を増していくぞわぞわとした感じ。
そのぞわぞわがリアリティを持ち始め、タクシーでのアクションシーンになだれ込んでいくのですが、ここまでの流れ、監督が言う日常から非日常へのグラデーションがいいなと思いました。
あとZQNたちが人間としての最後の記憶だけを持っていて、繰り返しそれを行ってしまう姿というのも印象的でした。
彼らが行っているのは日常的な行為、だけれど人を食らうという非日常的なことも同時に行う。
この日常感と非日常の混在というのが、居心地の悪いぞわぞわ感をかもします。
悪夢が現実となっていってしまうという流れがある一方、夢が現実になっていく姿も描かれます。
英雄が持ち込みをしていた漫画は、自分自身を投影したもの。
つまらない自分が、誰かを守るためのヒーローになる。
しかし、現実には彼自身が自ら積極的にそのようになろうとしていたわけではありません。
夢は夢のままであったはずです(恋人が喝破したように)。
けれど悪夢が現実となってしまった状況の中で、彼は誰かを救わなければならない立場になります。
そのような状況でも、迷いビビり、人を救えないと嘆く英雄。
人間なんてそんな簡単に変われるもんじゃないと思う気持ちというのは、ヒーローらしからぬもので、とても共感性があります。
ロッカーから飛び出そうとしても、いろんなことを想像してしまい、踏み出せない英雄の姿は、多くの人が共感するのではないでしょうか。
新しいことをやりたい、チャレンジしてみたい、そういう気持ちはあっても失敗することが怖くて踏み出せない。
そういうことってあります。
それが夢につながることであっても、踏み出すのにものすごく勇気がいる。
英雄はヘタレですけれど、その一歩を踏み出せたところ、勇気を振り絞れたところが、誰かを守れる人間になりたいという彼の夢を実現への道に繋がったのでしょう。
追い込まれた時、人の本質が出てくる。
覚悟を決められるか決められないか。
英雄は最後には覚悟を決められる本質を持っていた。
ヒーローになれる本質を彼は持っていたのでしょうね。

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「エヴェレスト 神々の山嶺」 魅入られた男たち

「なぜ山に登るのか?」
「そこに山があるからだ」
これは本作でもキーマンとなるジョン・マロリーの言葉です。
そしてこの作品に伝説のクライマーとして登場する羽生は「ここに自分がいるからだ」と答えます。
まさに山に登ることこそが、彼にとってのレゾンデートル(存在意義)であるということでしょうか。
エヴェレストのような山へのアタックはその道程も一般人が想像できないほどに苦しく(自分は高尾山の登山くらいでヒーヒー言っている)、そして命を失う危険性も高いのに彼らはなぜ山に挑むのでしょうか。
山を攻略するためには、自分の頭脳、体力、それこそ己の全てを出し切らなければならないのでしょう。
己の命すらも。
しかし全身全霊、すなわち命をかけることは、普通の生き方では感じられない充実感があるのかもしれません。
一度それを経験すると、そこでしか生を感じられないということも起こり得るのかもしれませんね。
羽生の姿を見ていると、まさに地上で普通に暮らしている時の姿は周りのものへの関心が極端に少ない感じがします。
彼にとっては普通に地上で生きていることの方が非現実的なのかもしれません。
山にあってこそ自分の生を感じられる。
まさに山に魅入られた男なのかもしれません。
そしてもう一人、本作には深町というカメラマンも登場します。
彼は若く、功名心も高い男でした。
彼にとっての山は自分がカメラマンとして名を上げるための舞台であったのでしょう。
しかし、深町は取材の中で羽生に出会います。
深町にとって羽生は最初は不可解で理解しがたい男であったと思います。
けれども彼の生き様を知っていくにつれ、深町自身も己の生を感じられるようになったのかもしれません。
「なぜ人は山に登るのか?」
その問いは「なぜ人は生きるのか?」という問いにもつながるかもしれません。
生きることにも、様々な苦難があり、逃げ出したくなるようなことも多々あります。
それでも多くの人は生き続ける。
深町は自分が命を落としそうな経験を経て、おそらく「なぜ人は生きるのか」という問いを自分の中に抱くようになったのでしょう。
その答えを自分なりに出さなければ、一歩も先に進めない。
生きていくために、問いの答えを出すために、彼は羽生を追います。
彼は羽生に魅入られました。
それは生きること、登ることに魅入られたということなのかもしれません。
命をかけて山を登ること、それは命を捨てるということではなく、自らの命を極限の状況で実感するということなのでしょうね。
思えば自分の生を本当に実感できるということは、普通の生活ではなかなかないものです。
その実感ができた時、人は魅入られてしまうのものなのでしょうか。

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2016年4月17日 (日)

「機動戦士ガンダム 鉄血のオルフェンズ」 生と死の生々しさ

こちら「ガンダム」らしくないとも言われていますが、個人的には独立した作品として毎回かなり引き込まれて観れました。
そもそも「ガンダム」らしいっていうのは何なのかということにもなりますけれども。

「鉄血の」とタイトルにあるように、本作は日曜の夕方に放映されていたにしては、「鉄」と「血」を生々しく感じる作品となっていました。
ガンダムオルフェンズを始めモビルスーツが登場して戦い合いますが、本作ではビームライフルやビームサーベルなど「ガンダム」らしい兵器は出てきません。
モビルスーツが持つ兵器は金属の大刀や鉈、銃を持っていたとしてもビーム兵器などではなく、弾丸・砲弾が発射される実弾兵器です。
大刀を叩きつけられた(斬るではない)敵のモビルスーツはひしゃげ、潰れます。
実弾が当たれば、ガツンと金属がぶち当たったような重い金属音がします。
そして中にいるパイロットはコクピットの中で、潰されて血を吐きながら死んでいきます。
ファーストガンダムでサイド6でジオンと連邦の戦いをテレビ中継で人々が見ていたシーンがありました。
あれは戦争というものの生々しさを相対的に表現するシーンであったと思いますが、それでもロボットのテレビアニメを見ている方としては、あのテレビ中継を見ているような気分は少なからずあるでしょう。
そういう自分たちに、本作は戦うということの生々しさを「鉄」と「血」を描くことによりダイレクトに伝えてきました。
主人公三日月は子供でありながら、人を殺すことに躊躇がありません。
なぜなら生きるためにはそうしないと生きてこれなかったから。
人を殺したら、かわいそうとか悲しいとかそういうレベルではないのです。
死を感じない主人公だからこそ、よりいっそう死(と生)の生々しさを感じさせました。
しかし彼は自分のためだけに人を殺しているのではありません。
彼は自分が信じている仲間のために殺している(というより自分の命すら大事に思っていない)。
彼ら鉄華団は理念とかで繋がっている、甘っちょろい仲間たちではありません。
もっと深い何か、それこそオルガがよく口にする家族というものに近いかもしれません。
思想などではなく、血で繋がっている仲間たち。
血は仲間のために己の命をささげる覚悟を持っているという関係性の象徴。
劇中鉄華団が結成される時、オルガとその兄貴分の名瀬がヤクザのように盃を交わし合いますが、これも血の結束の象徴でしょう。
そんな仲間たちであっても、いやそうやって命をささげる覚悟を持っている彼らたちだからこそ、仲間たちに容赦なく死が訪れます。
オルガの片腕であったビスケットの死は結構衝撃的でありました。
死の容赦なさというのが感じられたからだと思います。
それでも彼らは仲間たちのために命をかける。
自分の命よりも大事であるものがあると彼らには思えているからでしょう。
途中より鉄華団にメルビットという女性が参加しますが、彼女の視線は見ている我々の常識的な視点の代表です。
子供なのにそのように死にに行こうというのは間違っていると彼女は言います。
けれど彼らにとっては死や生よりも大事なものがあるということなのです。
彼らには迷いはない。
正しいか正しくないかというより、自分の生を越えて信じられるものがあるというのは羨ましいことかもしれません。
多分彼らが悩むことなく自分をかけることを持っているということに自分は惹かれたのかもしれません。
生きていれば、ささいなことで悩むことばかりです。
そんなことなく迷うことなく進む彼らが眩しく見えました。
本作、第2シーズンが秋から始まるそう。
楽しみに待っていたいと思います。

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「アーロと少年」 父親の自覚

予告もあまり見ていなかったので、少年と動物の交流なんて割と普通の題材なんてピクサーらしくはないなあと思って、食指が動かなかったのですが、たまたま見に行くチャンスがあったので行ってきました。
観始めるとすぐに想像していた通りではなかったことに気づきます。
通常考えられる少年と動物の関係性というのが、この作品では逆転しているのですね。
恐竜であるアーロが少年役で、人間のスポットがペット(?)というか動物役というわけです。
なんでこういう逆転の関係性で物語を描こうとしたのでしょうか?
ただ物珍しいから、ということではないかと思います。
今回劇場でこの作品を鑑賞したのですが、やはり親子連れのお客さんがたくさんいらっしゃいました。
この作品の物語の序盤で、アーロとその父親は急な川の増水に巻き込まれてしまいます。
その場面で父親はアーロを救うために犠牲になり、亡くなってしまうのですね。
その時、劇場の各所で子供たちが大泣きを始めました。
みんな、「パパ〜(泣)」「怖いよ〜」というように泣いていたのです。
見事に作品の中のアーロに共感をしている状況でした。
パパがなくなってしまうシーン、そしてその後アーロがひとりぼっちで旅をしなくてはいけないシーンはピクサーにしてはかなりシリアスに描かれていたと思います。
大人が見ても、恐ろしい感じがしました。
今回CGによる大自然の表現もかなりリアリティがあり、よりシリアス感が増幅されていたように思います。
なので、これが通常の考え方で主人公が人間の少年だったとすると、さらにシリアス&リアリティが増し、子供たちにとっては結構きつい印象の作品になってしまったかもしれません。
悪意の塊であるイナヅマドカンのあたりも実は結構怖い。
いい意味でマンガ的な表現をされているアーロがいるからこそ、そのあたりの深刻さが軽減されている感じがします。
子供たちが「パパ!パパ!」と泣いている時、一緒に来ているお父さんたちは「ここにいるから大丈夫だよ」と言って慰めていたのが印象的でした。
その姿にちょっとうるっときてしまいました。
実は今度自分にも子供ができるので、生まれてから一緒に映画とか見に行ったらこういう風に子供も感じてくれるのかなと思ったりしましたね。
しっかりとした父親にならなきゃと、初めて自覚ができました。

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2016年4月10日 (日)

「仮面ライダー1号」 本郷猛は不死身だ!

今年の春のお祭りライダー企画は、「仮面ライダー」がオンエアされてから45周年記念ということもあり、原点に立ち返って「仮面ライダー1号」。
この数年、過去のライダーが勢ぞろいするという企画でインフレ化してきていたので、キリがいいところでシンプルに立ち戻ろうということでしょうか。
今回の企画の目玉は、本郷猛=藤岡弘さんが正真正銘の主役であるということですね。
藤岡さんは2年ほど前も仮面ライダー1号=本郷猛として春のライダー映画に出演していましたが、ほんのちょっとのシーンでした。
しかし本作では、現役ライダーのゴーストの方が脇役で、仮面ライダー1号こそが主役。
新しく仮面ライダー1号のスーツも新造され、かなりマッシブでごつくなっています。
これは現在の藤岡さんの存在感をスーツにも反映したということですよね。
ゴーストのスーツもかなりマッシブですが、それに比べてもさらにどっしりとした存在感があります。
中に入っているスーツアクター岡元次郎さんもかなりどっしりとしていますので、藤岡さんのイメージにもぴったりしていました。
藤岡さんは今回の作品は制作にも名前を連ねていたので、かなりご本人的にも思い入れがあるものになっているのだろうと思います。
本作では、本郷猛が「生命とは何か?」とゴーストに問う場面があります。
よくよく考えてみると、かつての昭和ライダーの時代は主人公のキャラクターの内面というものはほぼ描かれることはありませんでした。
最近は「仮面ライダー」にせよ、アメコミヒーローにせよ、内面を描かないことはあまりないので、意外な気もしますが、かつてはそういうものであったのです。
悪をやっつけてなんぼ、という感じでしょうか。
なので、それこそ私にとって45年来の付き合いとなる本郷猛が今、自分の生き方、考え方を話すというのに、個人的にはちょっとびっくりしたりしました。
どちらかというと本郷猛がというよりも、人間藤岡弘が子供たちに向かって語りたかったテーマということなのでしょうね。
藤岡さんが今まで色々な場面で話をされていた内容と基本的には通じる考え方であったと思います。
その考え方についてはその通りと同意するのですが、そのストレートな言葉に少々引いてしまう感じはありました。
子供たちにはストレートな方がわかりやすいのかな。

一度、本郷猛が死に、そしてまた復活するシーン。
「『ガメラ2 レギオン襲来』か!」と心の中でツッコミを入れてしまいました(爆笑)。
乙女の祈りを受け、炎に包まれながらの復活。
まるでガメラ。
本郷は改造人間ではありますが、人間離れしています。
「本郷猛は不死身だ!」、このセリフ藤岡さん以外の人が口にしたら苦笑してしまうところですが、彼の場合はなぜか非常に説得力があるのが不思議です。

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