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2015年11月29日 (日)

「レインツリーの国」 有川作品の二つの視点

有川浩さん原作の「レインツリーの国」の映画化作品です。
彼女のファンとしては見に行かないわけにはいきません。
監督は三宅喜重さんで、「阪急電車 片道15分の奇跡」「県庁おもてなし課」に引き続きの3作目ということで、有川さんの作品の雰囲気を表現するということでは全く心配ありません。
本作は基本的にはラブストーリーのジャンルになるでしょう。
主人公の伸行も利香も芯がしっかりしていて真面目な人ですが、そのせいか恋愛偏差値が低い。
有川作品の主人公たちといういうのは概して恋愛偏差値が低く、それゆえに読んでる、観ている側としてはもどかしかったり、そのベタ甘っぽさに甘酸っぱくなったりします。
そういうところが好きだったりするのですけれどね。
しかし、有川作品はそういったベタ甘のラブストーリーだけが魅力ではありません。
大概の有川作品はそのようなラブストーリー要素と、もう一つは社会の課題を鋭くついているテーマというものがあることが多いです。
例えば今も公開されている「図書館戦争」では、郁と堂上教官のラブストーリーももちろんですが、それ以上に描かれているのが「当たり前のように手にしている自由」とは何なのかということです。
我々は自由を手にしていますが、それを守っている人たちのこと、またなぜそうなっているかということに対してとても無関心です。
そのことに対しての問題意識を「図書館戦争」は描いています。
恋愛要素とそのようなテーマ性が有川作品は持っていて、「図書館戦争」の場合は後者の比率が高い(あくまで映画の話。原作はもっと恋愛要素が高い)。
さて本作「レインツリーの国」はラブストーリー映画ですが、他の作品同様社会の課題についてのテーマも持っています。
それは障害者への差別の問題ですね。
障害者への差別は良くない、ということはだいたいの人はその通り、と思うでしょう。
彼ら彼女達へのハラスメント(利香へのセクハラやぶつかっても謝らない若者)へは観ている方は皆怒りを感じるでしょう。
けれど自分自身がぐさりときたのは、利香が言っていた「特別扱いした上から目線の憐れみ」です。
障害者達の方は特別視されたくない、ありのままに受け入れてほしい。
当然普通の人とは違うけれど、それでも自分をそのまま受け入れてほしいと思っているのですね。
自分も「上から目線の憐れみ」のような態度を取っていないかと自身を振り返ってしまいました。
自分の職場にやはり聴覚障害の方がいて、仕事でやり取りがある場合はメールや筆談で行います。
利香の職場のようなイヤな人々はおらず、皆普通に仕事を一緒にしています。
けれどもしかしたら利香が気になっていたような態度を取っていることがあるかもしれないなとも思ったりします。
また、そういう周囲の人々の話だけではなくて、本作では障害者自身の気持ちの問題にも触れています。
自分は違うということに負い目を感じ、それゆえに壁を作ってしまう。
周囲の人は自分を憐れんでいる、そんな助けはいらない。
けれど伸行のように憐れではなく、本当に好きだから何かしてあげたいという人たちもいる。
彼女のお父さん、お母さんもそうですよね。
そういう愛を素直に受け入れるということも、障害者自身には必要なことなのでしょう。
有川さんの作品というのはこういうフェアな視点を持っている点も好きですね。
有川作品では今度「植物物語」が待機中ですね。
この作品も代表作です。
いい作品に仕上がるのを期待したいと思います。

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2015年11月24日 (火)

「ハンガー・ゲーム  FINAL:レボリューション」 価値観のすりこみ

「ハンガー・ゲーム」シリーズの最終作です。
正直言ってこのシリーズが最初に公開されたときは、ティーン向けの小説の映画化作品ということで、中身があまりない薄っぺらいシリーズになると思っていました(「トワイライト」シリーズのような)。
最初の作品もその内容から「バトル・ロワイヤル」的と言われていましたよね(設定は似ていますが、実はテーマは全く違うのですけれども)。
そういう点で二番煎じ的な、よくある若者向けのSFアクションシリーズ(最近だと「メイズ・ランナー」とか「ダイバージェント」等)というとらえかたをしていたのです。
しかし、シリーズが進むにつれ、物語のスケールは大きくなり、そのテーマもはっきりとしてきて、極めてメッセージ性が強いシリーズであることがわかってきました。

前作でコイン首相が腹に一物を持っている人物であることは、そこはかとなく感じさせられました。
最終作の本作で、その野望がはっきりと浮かび上がってきます。
彼女の狙いは、パネムの支配者であるスノーを追い落とし、その座に自分が座ること。
そのためにカットニスがも持つカリスマ性を利用してプロポを作り、反乱軍サイドの意思の結束を図ろうとしたのです。
もしカットニスが死んだとしても、彼女を殉教者に仕立て上げ、コインは自分の力の源としようとしています。
人は誰からも生き方を強制されるいわれはない、生き方を強制されるのであるならば、人は全力でその力に対抗する、それがこの作品のテーマなのでしょう。
ただそのような自分らしく生きたいというそれぞれの気持ちですら、巧みに利用されて誰かの欲望のための手段となってしまうという恐ろしさが現実的にはある。
熱狂した気持ちの中で、誰かの隠れた意図を見抜くのは非常に難しい。
カットニスという少女は、彼女らしい野性のカンで違和感を感じることができるのでしょう。
どのような理屈であるかはわからない、その仕掛けがどうであるかはわからない。
けれど何か変だ、おかしいという自分の中にある感触を、彼女は信じることができる。
大勢に流されない、常に自分というものがあるというのは、この物語で描かれている世界だけではなく、今現在の我々の世界でも、大切なことであるかもしれません。
パネムにしても、反乱軍サイドにしても、あるひとつの価値観がメディア(それを支配する施政者)によってさりげなくすりこもうとしています。
ゲイルは反乱軍と行動するうちに彼らの価値観をいつの間にかすりこまれてしまった。
自分がほんとうに大切にしたいもの(カットニスとその家族)よりも、コインの価値観を優先させてしまった。
だからプリムをめぐる悲劇が生まれたのだと思います。
価値観のすりこみを強制的にやられたのがピータですね。
自分の価値観が、自覚がないままにメディア等他の者たちにによって作られる。
日々のニュースでも、それに対しての人々の反応がいつの間にかある方向性を持つことがあります。
そういう世の中で、自分らしく生きるためには、我々もカットニスのような見る目、感じる心、そして強い意志が必要なのかもしれません。

とはいいつつも、すべてはゲームメーカーであるプルタークの意志のままであるとも言えるわけですよね。
スノーの独裁、コインの野望をつぶすために、彼はカットニスというファクターを利用した。
彼がめざした世界が人々が生きたいように生きられる社会であったから、よかったわけですが。
そういう点からみても、誰かにさりげなく価値観や生き方を決められている恐ろしさというのは感じるわけです。

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2015年11月23日 (月)

「グラスホッパー」 緑色のバッタ

伊坂幸太郎さんの小説「グラスホッパー」の映画化作品です。
彼の作品は登場人物のバックグラウンドに悲しい出来事、自分ではどうしようもない不条理事件などがあって、そこから生み出される暗さが作品を通じて低く流れているイメージがあります。
ストーリーを追っていくと、次第にその悲しい出来事がわかってきて、事件の因果や登場人物たちの行動が明らかになっていく。
映画になった作品「アヒルと鴨のコインロッカー」、「重力ピエロ」などもそうですよね。
悲しい出来事は割と陰々鬱々としていることだったりするので、本でも映画でも、読んでいたり観ていても、辛い気分になったりもするのですよね。
結末も悲しい終わり方だったりもするのですけれど、ほんの少し希望のようなものが残ります。
それが伊坂作品に共通するところだったりするかもしれません。
本作「グラスホッパー」もそのような伊坂作品の系譜に連なっているように感じました。
作品全体に通奏低音のように響く陰々とした感じは、他の伊坂作品よりも強い感じはしました。
それは最初に主人公鈴木の恋人が遭遇してしまった陰惨な事件のせいかもしれません。

作品を観ていきながら鈴木が巻き込まれるだけで、事件の展開にそれほど積極的に関与しないキャラクターであることが不思議でした。
最後は彼が動くことにより、大どんでん返し的な展開になるかと思っていたのですよね。
そうではありませんでした。
物語をドライブさせているのは、別の主人公ともいうべき、鯨と蝉でした。
バッタは密集して育つと色が黒くなり、凶暴性が増していくという話が劇中でされました。
これが作品のタイトル「グラスホッパー」の由来になっているのでしょう。
人間も正しくそうで、人の数が増え、都会で密集して暮らしていく中、バッタのように凶暴化し、自分の欲望だけを優先し、他人に対して暴力を使っていってしまうというのが、作品の言いたいことなのでしょう。
三人の主人公の中で一番バッタに近いのが蝉であると思います。
終始何かにイラつかされている、そのイラつきを抑えるために暴力を振るう。
人で埋め尽くされた空間(渋谷のスクランブル交差点が象徴)で、自分が何者であるかがわからない。
生きているということですら、わからない。
だからイラつく。
生きていることを確認するために、人を、殺す。
鯨もイラつき・闇を抱えています。
蝉ほどにそれがダイレクトに行動に表れているわけではありませんが。
彼は人の心の罪の意識を刺激して、自殺に追い込むことで殺します(催眠術か超能力かわかりませんが)。
人は誰かと関係しながら生きていれば、何処かで誰かを傷つけてしまう。
誰も傷つけない人はいないかもしれない。
人が密集すればするほどそういうことが多くなるかもしれません。
だから蝉の術は、人を死に追いやることができる。
しかし、皮肉にもそういった行為が、蝉自身に罪の意識を背負わせているのです。
この二人はまさに群衆の中で育った黒い色のバッタなのですね。
鈴木は怒りや悲しみも背負っているのですが、二人や他の登場とは異なり、暴力化していません。
彼は黒色のバッタ群の中で、一人だけ元のままの緑色のバッタであるかのよう。
黒色バッタの大群の嵐の中でもまれながらも、ただ一人だけ特異点のように緑色のままであることができている。
彼はピエロかもしれない。
ただ巻き込まれ、恋人の仇に自ら手をくだすこともないから(というより最後まで何が起こったのかわからない)。
けれど凶暴化した黒色バッタが互いに攻撃し合い全滅してしまう中で、彼のような緑色バッタが生き残っていくことができるなら、ちょっとは希望があるかもしれないと思ったりもしたのですね。

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2015年11月 8日 (日)

「エベレスト 3D」 登場人物が把握しにくい・・・

実際にあったエベレストでの遭難事故を元にした作品です。
映画を観ていたら、登場人物に日本人女性登山家の難波康子さんがいて、そういう事故があったなと思い出しました。
難波康子さんはエベレストで7大陸最高峰登頂を成し遂げるほどの登山家でした。
そんな人でも遭難して亡くなってしまうとは、エベレストとはどんなに過酷なところなのだろうと考えたのを思い出しました。
本作ですが、見ていてなかなか厳しかったのは、登場人物を把握しきれなかったことです。
出演陣はかなり豪華で、ジェイソン・クラーク、ジョシュ・ブローリン、ジェイク・ギレンホール、サム・ワーシントン、キーラ・ナイトレイなどそれぞれが主演を張れるクラスの豪華キャストでした。
ですが、それぞれが演じる役柄のその性格や関係性などがそれほど際立っていないため、登場人物が把握しきれなかったんですよね。
実際の出来事を元にした世界最高峰を目指す登山家たちということで、その性格や態度などは同じ傾向を持っている(自分勝手なわがままタイプとか、直情型はいないとか)から、なおのこと映画的な分かりやすい違いなどが描きにくかったからかもしれません。
しかも登山をし始めてしまうと、みんな防寒具で顔も判別しにくくなり、また複数の場所で同時並行で物語が進むので、なおさら状況が掴みにくい感じがしました。
こういう題材の映画ですから仕方がないところかもしれませんが。
そのせいか途中まではなかなか物語に集中しきれないところもありました。
しかし、遭難事故が起こってからは、見ていてもやるせない気持ちになりました。
この事故で多くの人が亡くなります。
それぞれにその状況で生きるために尽くしたと思うのですが、そのような努力も、大自然の中では全く小さなものに見えてしまいます。
あまりに自然の力が強大すぎて、人間の無力さを味あわされました。
ハリウッド映画的には主人公は生き残るための努力をした結果、無事に救助されるというような結末(ハッピーエンド)にいきそうですが、本作は徹底的に事実に即してリアルであろうとしたのでしょうね。
主人公が努力むなしく息絶えるところは、自分も苦しくなりました。

本作はタイトルにあるように、3Dを意識した作品になっていると思いました。
今まで3Dというと飛び出して見えるというような効果を期待している作品が多かったような気がしますが、最近は奥行きや高低差などを表現する手段として3Dの活用をし始めているような気がしますね。
来年公開される「ザ・ウォーク」などもこのような傾向の作品のような気がします。

あと、一時期エベレストをチョモランマということが多かったような気がしますが、最近はまた聞かないですね。
自分の世代的にはエベレストと言われた方がしっくりときます。

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2015年11月 4日 (水)

「マイ・インターン」 理想の会社

久しぶりの洋画の鑑賞になります。
このところ、今まで観た邦画の続編の公開が立て続けにあったので、そちらを優先させてしまいました。
まんまと映画会社やテレビ局の術中にはまっているような気がしますが・・・。

こちらの作品はロバート・デ・ニーロとアン・ハサウェイというキャスティングでセレクト、二人とも実力派なので安心感があります。
予告を観ているとお仕事をテーマにしたハート・ウォーミングな作品のような印象をもったので、仕事で疲れている身にはやさしい感じがしたんですよね。
ちょっとコメディ的な感覚が入っているハート・ウォーミングな作品には、さきほどの二人は適役です。

アン・ハサウェイ演じるジュールスが経営している、ネット販売のスタートアップ会社はシニア・インターン制度を始めました。
そこに応募してきたのが、ロバート・デ・ニーロが演じるベン。
彼は長年勤めあげてきた会社をリタイアし、また妻にも先立たれたやもめです。
ベンはジュールスの直属の部下として配属されました。

ジュールスの会社は、いい会社ですよね。
細かいところはいろいろあるけれど、理想的な会社のように見えます。
社長であるジュールスはお客さんのことを第一にしているし、社員も意見を率直に上に言えそうで組織的にもオープンでフラットなようですよね。
社員も会社の所属意識が高く、会社(社長)の求める理想に共感しているように見えます。
ファンションを扱う会社であり、また社長も女性ということからか、女性の役割期待も高いようですね。
特に感心したのは、シニア・インターンへの若者たちの態度ですね。
シニアの人は彼らの歩んできた社会人としての確かな知恵・スキルを持っているというスタンスで接しています。
若者たちが、自分たちはまだ知らないことがたくさんあるということに自覚的で、それを知っている人たちに教えを乞いたいという文化になっているところが素晴らしいと思いました。
日本だったら、こうはいかないでしょうね。
特に新進のスタートアップ会社であればあるほど。
若者たちはおじさんたちはわかっていない、古臭いとか、ダサいとかいうイメージがあるんじゃないかな。
彼らの知恵やスキルは古いもので顧みる必要はないと感じているのかもしれない。
もちろんシニアの人々も知らないことはたくさんあります。
おじさんたちもそういう知らないことを学ぶということはなく、昔の価値観を若者に押し付けようというきらいがあるかもしれません。
本作のベンは、新しいことを学びたいというスタンスもありますし、自分の価値観(自分の武勇伝自慢等)を押し付けたりはしません。
あくまで自分の今の立場の中で、乞われた場合や、若者たちを陰ながらサポートするという役割を果たしています。
若者も、シニアも、自分たちに足りないものを自覚し、それを持っている人々に対して真摯にオープンな心で接しています。
そういう文化がある会社はすばらしいなと思いました。
結果的にジュールスは外部からCEOを招くことは止め、自分たちでやっていくことを決断しました。
けれど彼女の会社のすばらしい文化を維持していくことができれば、必ず成長していくと思いました。

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