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2015年10月31日 (土)

「図書館戦争 THE LAST MISSION」 表現の自由を守るために

2013年に公開された「図書館戦争」の続編になります。
原作は何作にも及ぶシリーズですのでエピソードもたくさんありますが、その中でも「図書館危機」の茨城県展警備を中心に組み立てられています。
茨城県展警備は映画としても見せ所があるエピソードですし、図書館隊の存在意義を問う話でもあるので、ここにスポットを当て、余計な要素を排除したのは、シナリオとして正解であったかなと思います。
もともと原作の「図書館戦争」シリーズは大好きな作品で、その面白さはいくつも理由があります。
一つは主人公笠原とその教官堂上のベタ甘ラブコメの要素。
そしてもう一つは「表現の自由」とそれを守る戦いといった図書館隊の存在意義そのものを扱ったシリアスなテーマです。
今回の劇場版は比較的後者の方に比重を置き、加えて実写ならではの大規模戦闘シーンなどを見どころを加味していて、うまくまとめています。
劇中でも手塚の兄、彗が言っているように「表現の自由」には幾つかの課題もあります。
確かに「表現の自由」という名目のもと、現代は信ぴょう性のない記事や、人を傷つける言葉、興味本位だけのくだらない内容の書物などが溢れています。
そういった言葉により傷つく人もいるわけで、そういったことを規制しなくてはいけないと思う気持ちもわかります。
しかし、難しいのは何を持って規制とするかというガイドラインです。
これは慎重に決めていかなくてはいいけないし、それを作り、また見直し、運用していくために社会のいくつも知識・良識が動員されるべきです。
このシリーズに登場するメディア良化隊という組織がスタートした課題意識はそれほど間違っていない。
けれどその判断を、一つの組織が決めていくということに問題があります。
その判断にはどこかで恣意的な要素が入ってくるかもしれないし、また組織が組織として存続していくために本来の目的から逸脱してきてしまうということも多々あることです。
そしてまたその判断に迎合していく「自主規制」という行動も問題があります。
公的機関(最近では世論・クレームなども)に言われなくするために、表現を当たり障りのないものにしていってしまう。
個人的には様々なことで表現の規制を加えようとする行政や市民団体の動きにはあまり賛成できません。
ガイドライン的なものがいることはわかりますが、それが政治的だったりある特定の考え方による恣意的なものになってしまうことを恐れます。
多様性という言葉をよく聞くようになりましたが、その点からいっても様々なものがあることは良いことだと思います。
子供達に教えていかなければいけないのは、そう言った様々な考え方、情報をいかに取捨選択できるようにしていくかということなのだと思うのです。
もちろん人を傷つける内容は問題外ですが、神経質に対応しすぎることにより、結果的に物申せない環境を自ら作ってしまうという危険性があります。
この物語で図書隊を覆う環境は優しいものではありません。
メディア良化隊の創設時の課題はある種の納得性があり、また彗が言う指摘点もある側面では正しい。
また世間が「表現の自由」を当たり前のものとして受け止めていて、それがどのように守られているかを知らない。
一部の図書隊員が無意味さを感じるのも無理はないという状況も確かです。
けれど、国民の全員が全員認めてくれるものではないかもしれない。
でも何人かの人々は自由に本を読めるということのありがたさを感じてくれている人もいる。
その人たちのためにも戦うという決心をしている図書隊員の姿が頼もしく、彼らが劣勢の中でも戦い続けている姿に泣けてきました。

この作品、かなり自衛隊の協力も入ってましたね。
原作者の有川さんは自衛隊員を主人公とした小説を何本も書いているのでそのコネクションがあるからかもしれませんが、今回描かれる図書隊の立場はまさに日本における自衛隊の立場とも酷似します。
現場の自衛隊員が悩むこと(自らの組織の存在意義、世間の無関心)と共通する図書隊の悩みに共感したのかもしれないですね。

笠原と堂上のラブコメ要素もなくなったわけではなく、アクションやシリアスなテーマの間にいい感じで挟み込まれて、ほんわかと安らぐ気持ちになりました。
例によって岡田さんのアクションシーンは目を見張ります。
ここまでやれる俳優さんはなかなか日本にはいないですよね。

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2015年10月18日 (日)

「アンフェア the end」 裏切られても・・・

前作の「the answer」から本作までずいぶん間が空いていたため、いろんなことを忘れているので、観てもついていけるかやや心配だったのですが、テレビシリーズからここまで付き合ってきたのだしということで行ってきました。
そういうことも脚本が意識していたのか、もしくは本作ですべてを収斂させるということなのか、シナリオはそれほど複雑ではなく、見やすい感じはしました。
「the answer」はいろいろな要素が新たに登場したりして、複雑な感じがありましたから。
本作でも新たな登場人物などは出てきましたが、見ていて整理はしやすい感じはしました。
本作の印象でいうと、「アンフェア」らしかったなということです。
「the movie」は映画らしい絵作り(病院たてこもり等)を優先させて気負いを感じました。
その分、「アンフェア」らしくもないと言えたかなと。
前作は誰が味方かわからなく先が読めないというところがテレビシリーズの「アンフェア」らしさを出していたように思います。
とはいえ、どんどん風呂敷が広くなっていく感もあり、この物語が収束できるのかという疑問も持ちました。
そういう意味では、本作はやや強引な感じもしたとはいえ、物語を収集できたような感じがします。
改めて前作の自分のレビューを読み直してみたら、雪平が信じた人に必ず裏切られているというようなことが書いてありました。
雪平という女性は、もともと人を信じたいと思えっている人なのでしょう。
しかし、信じてもその人に裏切られ、裏切られ、裏切られということが続いていく中で、クールな仮面を身につけていった。
本作でも一条に対しては、雪平の想いが溢れ出るところがありますが、ああいう部分が雪平の本性なのでしょうね。
登場人物の津島が言っていましたが、裏切られても人を信じてしまう、それが雪平の優しさ。
このシリーズのらしさというのは、登場人物の誰もが信じられない、誰が裏切るかわからないという展開であったと思います。
しかし、それは雪平という女性が人を信じるという優しさを持っていればこそなのかもしれません。
シリーズを雪平というキャラクターの本質に落とし込んで収束させたという点で、よくまとまっていると思いました。

テレビシリーズで雪平のバディであった安藤を演じていたのは瑛太さんですが、本作では彼の実弟である永山絢斗が出演してました。
本作での役柄的には、雪平とともに行動するところがあり、バディ感がありましたね。
改めてこの役柄を演じている永山さんを見ていると、瑛太さんに似ているなと思いました。
たたずまいもそうですし、けっこう声も似ています。
テレビでの安藤を彷彿させる、
「無駄に美人だなと思って」
「バカかおまえは」
雪平とのやりとりもあったので、余計にそう思いました。
この配役はファンへのサービスでしょうね。

美央ちゃんが大きくなっていてびっくり。
AKBのメンバーなんですね。

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「バクマン。」 友情、努力、勝利

大場つぐみさん、小畑健さんの「DETH NOTE」コンビのコミック「バクマン。」の映画化作品です。
「DETH NOTE」とは打って変わって、このコミックは漫画に青春をかける二人の高校生の物語、現代版の「まんが道」のようなものかな。
監督は「モテキ」の大根仁さんなので、サブカル系に強そうな方なので、適任かなと思いました。
原作は20巻にも及びますし、登場してくるキャラクターの数も多いので、映画化するにあたってはどのあたりを切り取るかということがポイントになるかなと思っていました。
映画では、コミックの比較的前半の方を取り上げていましたね。
まさに好きなものに自分の全てを打ち込む「青春」という部分にフューチャーしていたように思います。
あと漫画家というとずっと机に向かっている職業なので、そこを映画としてどういう風に見せていくかというのポイントであったと思います。
そのまま映しているだけだと単調になりそうですものね。
大根監督は、二人が描いているときにプロジェクションマッピング的に漫画を映しこんでみたり、漫画の中の仮想空間での二人とエイジのバトルを描いてみたりなど、単調にならないような工夫、アイデアを盛り込んだ演出をしていました。
またセットやら小道具などには漫画好きなら、「ほー」といいそうなものが飾られていて、このあたりはサブカルに強い大根監督らしいなと思いました。
お話としては青春ものとしてストレートに描かれていて、まさにジャンプらしい「友情、努力、勝利」という構造になっているので、見やすい作品となっています。
本作は120分ですが、それでもかなり原作から削っているので、コミックを読んでた自分からすると少々物足りないところもありました。
サイコーと亜豆のくすぐったくじれったいような恋愛は原作では一つのキーでしたが、本作ではサイコーの漫画家になるためのモチベーションのひとつであって、それほど深堀されませんでした。
亜豆は象徴的なヒロインという感じでしょうか。
エイジももう少し原作では深いキャラクターであったと思いますが、映画だと嫌味なライバルくらいな印象であったので、ちょっともったいない。
本作品、続編を作ろうと思えば作れる構造であると思うので、もしかして次があればそのあたりを深堀しようという腹もあるのかもしれないですね。
サイコーが漫画をカリカリ描いているところは昔を思い出しちゃいました。
中高生のころイラストとかを描いていたので。
才能などはなかったのでプロなんてことは思いませんでしたが、あの姿を見て、久しぶりに描いてみようかという気分になりました。

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2015年10月15日 (木)

「仮面ライダードライブ」 王道ヒーローではあるが、仮面ライダーとしては

本作が発表されたときに注目されたのは、ドライブは仮面ライダーでありながらバイクに乗るのではなく、自動車(トライドロン)に乗るということでした。
自動車に乗る仮面ライダーというのはBlack RXという事例がありますが、メインのマシンはあくまでバイクでした。
ありそうでなかった「自動車に乗るライダー」という設定については最後の最後まで貫き通しましたね。
シリーズが続いていくとカタのようなものができてしまいますが、「仮面ライダー=バイクに乗る」というカタを潔く崩すという点に、「仮面ライダー」というシリーズの懐の深さを感じます。
しかし「自動車に乗る仮面ライダー」という設定以外は「仮面ライダードライブ」は意外とストレートなヒーローものであったかと思いました。
平成仮面ライダーというと、主人公がちょっとひねくれていたり、迷ったりというように、キャラクターにクセがある印象が強いですが、本作の主人公泊進ノ介は職業が警察官であることもあってか、人々の命を守る、正義を守るということを、まっすぐに追いかけていたように感じます。
泊進ノ介のキャラクターには、(昭和の頃の)王道の刑事ドラマに登場する熱血な刑事のイメージが感じられますね。
「ドライブ」の前半は「事件篇」、「解決篇」の二本立てで見やすい構成をとっていましたが、こちらも王道の刑事もののフォーマットに寄っていたということでしょう。
ドライブのデザインも車をモチーフにしながらも、仮面ライダーの記号性を持った王道なデザインであったように思います。
昨年の「鎧武」は設定的(フルーツで錠前で武者)にもストーリー的(全編を大河ドラマなストーリーで貫いた)にもチャレンジをしました。
その結果が(局的にスポンサー的に)良かったのか、悪かったのかは知りませんが、斬新であったのは間違いありません。
「鎧武」の終盤は一話見逃すと話がわからなくなるような展開だったので、自分も結構夢中になってみていました。
その強さに比べると「ドライブ」の前半戦はかなりもの足りない印象がありました。
メインライターは僕が大好きな「W」でも同じポジションを務めた三条陸さんだったので、期待感もありました。
「事件篇」、「解決篇」という構成は「W」でも同じだったので、決して弱い構成ということではないのでしょうけれど、それほどまでに「鎧武」のインパクトが強かったということでしょうか。
見やすさとインパクトのバランスはなかなか難しいですね。
しかし、後半で進ノ介の父親の殉職の謎、ロイミュードの秘密等が明らかになっていく展開は物語的に引きがあったように思います。
この辺のラスト数話の怒涛の展開 は「W」でも感じましたが、さすが三条さんという印象になりますね。
終盤はそのように面白く見えたとはいえ、「仮面ライダー」シリーズとしてのエッセンスが足りないというところに、もの足りなさを感じたようにも思います。
「仮面ライダー」が「仮面ライダー」らしいと思われる点はいくつもありますが、ひとつは主人公が異形のもの(どちらかと言えば敵に近い)でありながらも、人間のために戦うということがあるかと思います。
完全に人間に受け入れられないかもしれないのに、それでも人のために戦う。
「仮面ライダー」の物語には「哀しさ」が感じられます。
記念すべき第一作「仮面ライダー」にもその「哀しさ」はありました。
平成のシリーズになっても、「555」や昨年の「鎧武」にもその「哀しさ」はありました。
けれど「ドライブ」にはそのような自分のアイデンティティに関わる「哀しさ」は感じられません。
その点において「仮面ライダー」らしさは薄いかなと思っています。
作品全体がなんとなく明るい感じがするのは、「哀しさ」がないからかもしれません。
これはあくまで「仮面ライダー」としてであって、王道のヒーローものとしては手堅い良い作品になっていると思います。
ここまで書いてきてふと思ったのは、「ドライブ」において「哀しさ」を背負っていたのはチェイスかもしれないですね。
そもそも人間ではなく、敵と同じくロイミュード。
もともと人間のためにプロトドライブとして戦い、そして魔進チェイサーとなりロイミュードに味方し、そしてまた仮面ライダーチェイサーとして人類を守るために立ち上がる。
チェイスの立ち姿に感じるもの悲しさは、まさに「仮面ライダー」の背負っている哀しさかもしれません。
新作の「仮面ライダーゴースト」はライダー自身の存在が幽霊(?)のようなものなので、まさに異形の存在ですよね。
「仮面ライダー」らしいという視点では、今回の新作には期待しています。

「太陽にほえろ!」「西部警察」等往年の刑事ドラマで、「殉職」というのはひとつのイベントになっていました。
松田優作さんの「なんじゃこりゃ~」は有名ですよね。
「ドライブ」は刑事ものをモチーフにしていますから、「殉職」というイベントでオマージュをささげたかったのでしょう、本作でも主人公泊進ノ介は「殉職」します。
そもそも「殉職」というのは公務に命をささげる行為ですから、「仮面ライダー」という存在がオフィシャルになっていないといけません。
「人知れず戦うヒーロー」では「殉職」は成立しません。
「殉職」の数話前から、「ドライブ」では「仮面ライダー」の存在が公になるというエピソードが組み立てられてきました。
途中でその存在がオフィシャルになるのは珍しいなと思っていたのですが(「ウルトラマンメビウス」等の例はありますが)、これも「殉職」をやりたかったのだろうなということで妙に納得してしました(ラストに向かっての警察の力も合わせた総力戦ということでも、オフィシャルになることは必要だったのかもしれませんけれども)。

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2015年10月13日 (火)

「天空の蜂」 理性と知恵と熱意への信頼

東野圭吾さん原作のテクノロジー・サスペンスです。
想像以上に面白い作品でした。
サスペンスフルな見せ場も何か所もあって物語的な見ごたえがあるというのもありましたが、それだけでなくテーマについても考えさせるところもありました。
見せ場的ところで言うと、前半の湯原の子供の救出劇、後半での湯原と三島の対決シーンなどで、引っ張りまくる演出で、否応なく引き込まれました。
このあたりは堤監督らしい演出であると思います。

もう一つテーマについて詳しく考えてみます。
東野圭吾さんの作品には技術やテクノロジーへの信頼感というものがベースには流れていると感じます。
このことは彼がもともと技術畑出身の小説家であることに由来していることだろうと思います。
前代未聞の犯罪を行う三島にしても、原発施設の安全性について絶対の信頼を持っているからこそ、あのような計画を実施しようと決心できたのです(彼の行為の正当性は別にして)。
三島(おそらく原作者も)が批判しているのは「沈黙の群集」。
現代の社会にとって電気はなくてはならないものになっています。
しかしそれがどのように作られているのか、そこに誰がどのように関わっているのかへの興味は少ない。
世の中で何が起こっているのか、何が行われているのか、についてあまりに無関心であることに警鐘を鳴らしています。
けれども何か事が動くと一気に世論はある方向に動きだしてしまう。
冷静で客観的な評価はなしにして。
原発にしても何がメリットで、どのようなリスクがあるのかを、冷静に評価できている人はどのくらいいるでしょうか。
原発推進派、原発反対派、それぞれが持論について冷静な評価ができているのでしょうか。
劇中で三島と組み、犯罪を推し進める雑賀という男は、ある考え方(原発=悪)に凝り固まり、冷静に判断できていないようにも思えます。
冷静な評価というのは、科学的な視点です。
感情的な評価ではなく、客観的なデータに基づいた冷静な評価。
今の日本ではこの種の問題について感情的な評価をすることはあっても、客観的な評価をすることはあまりないように思います。
東野圭吾さんが信頼しているのは、人の理性的で冷静な評価する力であると思います。
この理性の声に従っていれば、人はそうそう間違えることはない、そういう信頼を持っていると感じました。
けれどもその理性の力がいつも発揮できているわけではありません。
ややもするとその力は抑えられ、無関心や感情でものごとが進んでいってしまっている。
そのことに危険性を感じているのでしょう。
また他に東野圭吾さんがテクノロジーや人間への信頼している点が感じられます。
それは「あきらめない心」(ベタですが)。
どんな困難な状況にあっても、人はそれを解決する力を持っている。
これはこの作品では湯原をはじめ救出に向かう自衛隊員などいくつかのキャラクターに象徴されています。
あきらめずに課題に挑み続けていれば、必ず解決につながる。
前も書いたかと思いますが、東野作品に共通して感じられるのは、人間とテクノロジーへの楽観性です。
人間への理性と知恵と熱意への信頼、それが東野作品のベースにあるエッセンスであると思います。

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2015年10月12日 (月)

「進撃の巨人 ATTACK ON TITAN エンド オブ ザ ワールド」 既存の枠組みを壊せない

コミックの「進撃の巨人」の魅力というのは、あまり他では見たことがない独特なテイストではないかと思っています。
失礼ながら画はあまり上手と言えないですし、ストーリーもやや乱暴(読み手にわかりやすい物語ではない)のですけれど、続きが読みたくなるような中毒感があります。
この独特なテイストが映画では、前編・後編を通じても表現できていない感じがしました。
前編のときにキャラクターが安っぽい感じ、芝居くさい感じがしたと書きましたが、その感覚は後編も続いていて、というより強くなっている感じがします。
コミックのどこにも見たことがないという感じは薄れ、ストーリーにしてもどこかで見たことがあるような小粒な印象になってているような気がします。
後編の最初にある「前回のあらすじ」的なもの、そしてその後にある実写版の「進撃の巨人」の背景にある設定の説明(回想シーン等)が長く、辟易としてしまいました。
そこで語られる物語も、人間を箱庭のような環境においての「実験」的なもので、あまたあるSF映画で繰り返されたようなもので、どこかで見た感を感じます(最近では「メイズランナー」とか)。
囲われて飼慣わされた人間の中から、若者がその壁を打ち破って外の世界に歩み出す、というのはそれこそ今までも様々な物語で語られてきたお話です。
超大型巨人は古い世界、常識、大人たちの象徴で、若者たちが越えるべき壁と言えるでしょう。
若者たちはその壁(まさに直接的な比喩)に挑み、それを乗り越え新たな世界へ飛び出していく。
そういうことがこの作品のテーマなのでしょう。
けれども、「進撃の巨人」に僕が期待していたのは、そういった今まで語られてきた物語の焼き直しではなかったんですよね。
今までに観たことがないような展開、独特な世界観でした。
ちなみに原作通りでなくてもいいと思っていました。
実写版ならではの斬新さ、独特さを求めていました。
一番最初に監督として名前があがっていた中島監督だったら、もっと人間の毒々しい欲望のようなものにフォーカスしていたと思うのですよね。
どちらかというとそういった方向性をこの作品には期待してみました。
後半のエレンが変化した巨人、鎧の巨人の対決シーンなどは、特撮に長く関わっていた樋口監督らしいとは思いましたが、「ウルトラマン」、庵野監督の「エヴァンゲリオン」などの作品でかつて見たという感じを受けました。
テクニカルにはミニチュア特撮とCGを組み合わせ、新しい技術を使っているからこそ実現できた映像なのでしょうけれど、新しさはあまり感じることはできませんでした。
既存の価値観をぶちこわしていくというのが作品のテーマであったにもかかわらず、作品自体が規制の枠組みの中に収まってしまっているという矛盾をこの作品に感じました。

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2015年10月10日 (土)

「アントマン」 ミクロ世界のスケール感

マーベル・シネマティック・ユニバースのPhase2のラストを飾るのは、新ヒーロー「アントマン」。
アントマンとは特殊なスーツの力で、まさにその名前の通りにアリのサイズに小さくなることができるヒーローのことです。
小さくなることにより体を構成する原子の密度も上がっているようで、アントマンは小さい体ながらもその体は頑丈でかつ、パワーもあります。
さらには特殊な音波(?)でアリを従わせて操ることができるという能力も持っています。
本作でデビューをした、この一風変わったヒーローであるアントマンは、「アベンジャーズ」の次回作にも登場するということなんですよね。
「アベンジャーズ」をはじめマーベル・シネマティック・ユニバースは、回を追うごとにストーリーもヒーローもどんどんスケールアップしていっています。
マーベル・シネマティック・ユニバースの作品群の一つ「マイティ・ソー」シリーズは神様の国での超能力を持った神様たちのお話ですし、「ガーディアン・オブ・ギャラクシー」ははるか彼方の宇宙を舞台し、多種多様なエイリアンが登場します。
舞台の設定にスケール感を感じますよね。
アベンジャーズたちが相手とする敵もますます強大になっていて、話も地球規模、いや宇宙規模になっています。
それに対して、アントマンは子供部屋や風呂場で戦う小さなヒーロー。
壮大なスケールになっているマーベル・シネマティック・ユニバースにおいて、こんな小さな世界で高うミクロなヒーローはマッチするのだろうか。
そういう疑問が観る前はありました。
しかし、それは杞憂でした。

この地上からどんどん視野をマクロに広げて見てみましょう。
地球、月軌道、太陽系、銀河系、その先にあるまた別の銀河系、またその先の星すらない空間・・・。
どこまでもどこまでも広がる宇宙は果てしなく、そこにはマクロ的な視点でのスケール感を感じます。
宇宙の果てには何があるのか、何もないのか?
その果ては時や空間という概念すらもないところかもしれません。
「マイティ・ソー」も「ガーディアン・オブ・ギャラクシー」も、そういったマクロなスケール感を持った作品となっています。
しかし、マクロとは全く逆の方向の視点で見てみると、別の意味でのスケール感を感じることができます。
顕微鏡でのぞいていくようにどんどんミクロの世界を見ていこうと、物質、それを構成する原子、さらにそれを構成するクォークなどの小さな粒子・・・。
小さなものをもっと細かく見てみると、そこにはまた小さな世界があって、その中にもまた小さな世界がある。
ミクロを突き詰めていくと、そこには小さな世界が現れてきます。
これは宇宙の果てに行けば行くほど新しい世界が現れてくるような感覚にも似ています。
まさにミクロの世界にも果てしない世界が広がっているのです。
そういう意味で「アントマン」はスケールの大きい話であるなと思いました。
劇中でアントマンが、原子よりもさらに小さくなろうとしてコントロールが効かなくなり、量子レベルの世界にまで入り込んでしまうという描写があります。
そこで描かれている世界はまるで宇宙の果てのようでもありました。
マクロの方向にも、ミクロの方向にも世界は果てがないのですね。

ヒーローがミクロになるということで、彼が見る世界を表すためのSFX的な表現はうまくできていました。
なかなか斬新じゃないかなと思います。
こんなヒーロー、アントマンが他のアベンジャーズと共闘することになったら、どんな感じの絵になるんでしょうね。
ちょっと今からワクワクします。
本作の監督は以前はエドガー・ライトだったのですが、途中で降板したんですよね。
彼のヒーローものを観てみたかったので、ちょっと残念。
脚本のクレジットには名前が残っていたから、彼の意向も一部残っているのかな。

さて次は「ファンタスティック4」を観に行かなくては・・・。

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2015年10月 4日 (日)

「ピクセル」 特定世代じゃないとわからないかなー

自分はまさに「ゲームセンターあらし」世代で、80年代にゲームセンターに100円玉握りしめて行っていたので、懐かしい気分になる作品でした。
ゲームをするたびにお金を払うということで、ゲームをすることの「重み(そんな大したもんではないが)」は家庭用ゲーム機でゲームをするのとはちょっと違っていたかもしれませんね。
リセットなどもできないわけで、真剣勝負だったというか、ミスをしたら命取り、といった緊張感があったかも。
このように僕が子供頃の当時は「ゲームセンターで」ゲームをするのが当たり前でしたが、今の子供は家でゲームするほうが普通なのですよね。
上で書いたような感覚はわからないかもしれないですね。
ゲームセンターと言ったら、プリクラやクレーンゲームをやるところって印象なのかな(この10年くらいゲームセンターは言っていないのでわからないけど)。
この作品で紹介されているのは80年代一斉を風靡した「ギャラガ」「パックマン」「ドンキーコング」などのゲーム。
若い人はやったことがないかな〜。
自分は散々やったけど「パックマン」と「ドンキーコング」は全然うまくならなかったですねえ。
この映画の主人公が極めて秀でているパターン認識のような能力はなかったからかな。
「ギャラガ」とその前進である「ギャラクシアン」はそこそこうまかったと思う。
あと「アルカノイド」も意外と得意だったかなー。
反射系が得意だったのかも。
あと劇中でちょろっと出ていた「ミサイルコマンド」「アステロイド」も結構好きでした。
どっちにしても反射系だ。
こういったように80年代のゲームを知っている方は大いに楽しめる作品かも。
けれどまったくその辺に関わり合いのない方にとっては、、、どうでしょうねえ?
お話的にはチープではあったし、無駄に長い感じもありました。
B級の作品だとは思うので、こんなものかな。
ある世代、ある趣味に特化した作品でありました。

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