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2015年8月31日 (月)

「ジュラシック・ワールド」 マイクル・クライトンの遺伝子を継ぐ

事前にすでに観た方からあまりよい評判を聞かなかったので、自分の中のハードルを下げて鑑賞してきました。
そのためか、意外と楽しめたんですよね。
ストーリーはいろいろ突っ込みたいところもありますが、本作は単純にアトラクションを楽しむような気持ちで観に行けばOKかなと。
そのため4DXで鑑賞したいところだったのですが、ネットでこの席が販売開始になると即完売してしまうようで、今回は仕方なくIMAX3Dでのトライです。

ストーリーとしての突っ込みどころとしては、凶暴な恐竜が逃げ出したときに、現場責任者が指令室を離れて子供を探しにいかんだろ、とか、CEOが自らヘリを操縦して恐竜を倒しにいかんだろ(「インディペンデンス・デイ」じゃあるまいし)とかいろいろあります。
また全体の構造としても「ジョーズ」や最初の「ジュラシック・パーク」をはじめとして、スピルバーグが得意とするパニックものの域を出るものではないので、目新しさはありません。
とはいえ、逆にそういったジャンル映画の王道の作りなので、安心してハラハラドキドキできて楽しめる作品になっていると思います。
そういう点でアトラクション的な映画としてはよくできていると思いました。
最初の「ジュラシック・パーク」は、恐竜を表現するために、作品中にリアルなCGを取り入れたエポックな作品でした。
90年代初期のその頃は「ターミネーター2」や「ジュラシック・パーク」等、CG技術の躍進が見られた時期でした。
それらの作品を初めて観た時の衝撃はかなり大きく「すごいものを観た!」という感じがしましたね。
しかし現在では作品中にCGを取り入れるのは至極当たり前になり、クオリティもその頃よりもかなりあがっているため、本作「ジュラシック・ワールド」を観てもあの頃のような衝撃はありません。
とはいえ、ストーリーの構造としては先に書いたようにパニックものの王道をしっかりと守って作っているために、外れはない感じはします。
このように基本的に本作はアトラクション映画として観に行くのが、よい作品であると思います。

しかしあえて本作にテーマ的なものを見出そうとすれば、「自然をコントロールできると考える人間の浅知恵をはるかに越えて、自然はふるまう」ということでしょうか。
本作では発展した遺伝子テクノロジーによって生み出された新種の恐竜が、人々を襲い始めます。
遺伝子技術や様々な設備、武器などで、人間は新種の恐竜を制御できると考えますが、しかしその予想を越えて、被害は拡大していってしまう。
状況に対しての打ち手が後手に回り、さらにそれ自体が状況を悪化させてしまう。
これは大震災直後の福島の原発での件とも共通しているように思います。
遺伝子技術にせよ、原子力技術にせよ、人間が100年前には想像できなかったような技術を使うようになり、コントロールができなくったその技術そのものに滅ぼされそうになってしまう。
このテーマは「ジュラシック・パーク」の原作者であるマイクル・クライトンの小説のテーマにたびたび出てくるものです。
そういう意味で「ジュラシック・ワールド」はマイクル・クライトンの遺伝子を引き継いでいる作品であるとも言えるでしょう。

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2015年8月22日 (土)

「王様と私」 エトセトラ、エトセトラ、エトセトラ

今日は久しぶりに「午前10時の映画祭」に行ってきました。
ちょうど都合がよい時間にやっている映画がなかったので、たまたまなのですけれど。
本日上映されていたのは、名作ミュージカル「王様と私」。
この作品の中で歌われる「Shall We Dance?」は、みなさんがご存知の通り有名で知っていたのですが(この曲名の映画も日米で作られましたからね)、その元ネタである本作は実は見たことがなかったので、いい機会です。
少し前に渡辺謙さんがこちらのミュージカル版の王様役をニューヨークで英語で演じたのも話題になっていたので、興味をもっていました。

さすが、名作というのは長年の間、多くの人の鑑賞の目に耐えてきているだけあっていいですね。
特にシャム国の王様と、王室に家庭教師としてやってくるアンナの二人のキャラクターがとってもよいです。
ユル・ブリンナー演じるシャム(タイ)の王様は、近年周辺国が侵略の憂き目にあっているのを見ながら、国の近代化が必要であると感じ、王家の子供たちの教育のためにイギリスからアンナを呼び寄せます。
この王様、近代化についてとても進歩的な考えをもっている反面、とても男尊女卑的なものの見方をする人でした。
ただそれは悪気があるというより、それが当たり前の文化の中で過ごしてきたからと言えます。
とてもユーモアがありますし、まず基本的にはポジティブで行動的、そしてまた国民のために真剣に物事を考える統治者でもあります。
少々子供っぽいところもあって、そこがやんちゃ坊主のようでもあり、とても人間的に魅力のあるキャラクターでした。
もう一人の主人公アンナは、夫に先立たれてしまった女性です。
彼女は美しくて、教養もある女性であり、またヨーロッパ流の男女平等の精神を身につけた人物でもありました。
自分の感じたこと、信じることを曲げない意志の強い女性です(王様は「difficult Woman」(頑固な女)と言っていましたね)。
そういう価値観も立場も違う二人ですから、最初はことごとく対立してしまいます。
けれどもそれぞれが相手がまた真剣に物事を考え、そして臆せず行動していることに、(根本的な価値観は違うにせよ)、共感をしていきます。
子供っぽく気ままなように見える王様ですが、夜中に国の行く末を案じて考え込んでいたりもします。
「科学的なこと」にとても感心があり、彼は目をキラキラさせて子供のように語ります。
またアンナは勝気なだけではなく、人に対し思いやりがあるので、王家の妻たちや子供たちからとても慕われるようになっていくのを王様は見ています。
自分が悩んでいるときに、アンナがさりげなくアドバイスをしていてくれることにどれだけ心強く感じたでしょう。

あるとき、イギリス女王にシャム王が野蛮であると伝わりそうになり、そうなると侵略の危機が訪れるかもしれない。
そのようにならぬようシャム王が文化的であり進歩的であるということをイギリスその他に、アピールするために晩餐会を催すことになりました。
王様とアンナはこの晩餐会を二人で協力をして成功に導きます。
それぞれの出身、性別、文化、価値観は違っていても、それぞれ相手の人間そのものというものを二人は評価し合い、認め合いました。
そのときにあの「Shall We Dance?」が流れるんですね。
二人の間には恋愛感情的なものもあったかもしれません。
けれどそれ以上にお互いに人間として評価し合うことができたという感じかなと思いました。
明らかな違いというものはなくすことはできないけれど、それを越えて認め合うことはできるんですよね。
これは現代でも世界中でさまざまな軸で対立が起こっている世の中ですから、今この作品を観ても古びるようには感じませんでした。

ユル・ブリンナーはイキイキとしていて、ときには大人の男らしく、ときにはやんちゃな男の子のように演じていて良かったですね(口癖のようにエトセトラ、エトセトラ、エトセトラ・・・っていうのがかわいい)。
デボラ・カーは真剣に初めて観たのですが、美しい女優さんですよね。
昔の映画は際立った俳優さんたちが存在感があります。

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2015年8月14日 (金)

「日本のいちばん長い日」 若者と老人の視野、または理想と現実

終戦の日の近辺になると太平洋戦争に関する作品が公開されますよね。
あの時期の頃の記憶を持っている人が少なくなっているので、こういう機会に公開される映画を観ることは忘れないようにするためにもいいかもしれません。

本作でいうとまず触れたいのが、本木雅弘さんが演じる昭和天皇でしょう。
昭和天皇が本作のようにしっかりと多くの場面で描かれるのも珍しいのではないでしょうか。
昭和天皇は独特のしゃべり方をされましたが、本木さんはそれを非常にうまく再現されていたと思います。
顔立ちはそれほどにているわけではないのですが、イントネーションを聞くと昭和天皇らしく見えてくるのがさすがですね。
なかなか緊張感のある役柄ではなかったでしょうか。
今回の昭和天皇像で新鮮であったのは、いわゆる御前会議などでのご発言だけではなく、戦争の終結の仕方について悩まれるときに発するお言葉に、現人神である天皇というお立場とは異なり、人として国民のことを心配し、慮るお人柄が出ていたように思います。
このようなお人柄が出てくる描写は今までの作品ではあまりなかったように思いますので、新鮮でした。

戦争ともなると、始めるよりも終わらせるほうがよほどにエネルギーがかかるものなのですね。
末期になれば日本が到底アメリカなど連合国に勝つということは、政治家であっても、軍人であっても誰もが心中ではわかっていたことだったのでしょう。
しかし、政治家には政治家の、軍人には軍人の、そしてそれぞれにまた様々な派閥があり、そういったややこしい関係の中で、戦争をどう終わらせるのかが、この映画で語られています。
これはどういう視野で物事を見ているか、どれくらい先を見据えて考えているかということであるのでしょう。
玉音放送が流れる日の早朝、青年将校による御所での反乱があったのは知られています。
彼らもアメリカに勝てるとは思っていなかったでしょう。
しかし、何もせずに負けるというのは彼らは許せなかった。
それは若さゆえ、エリートゆえのプライドがその根っこにあったのかもしれません。
ある意味、彼らは現実主義者ではなく、理想主義者であったのかもしれません。
彼らの視点でなかったことは、一矢報いたあとのことを想像していなかったことでしょう。
一矢報いたあとは、自決を選ぶということであったのかもしれませんが、その後については思いが及ばなかったのは惜しむべきことです。
対して鈴木貫太郎総理や昭和天皇は、負けたあとの日本のことを考えていました。
自らのプライドなどというものはなく、広く日本国民が生きながらえていくためにはどうするべきなのかと悩んでいたのだろうと思います。
その間に立ったのが、本作でも主役的な位置づけにある阿南陸軍大臣でした。
彼にも長期的かつ広い視座がありました。
どのように戦争を終わらせるべきかを考えていたと思います。
しかしながら、青年将校たちが信じる理想主義のこともわかる。
その理想主義があるからこそ、装備にも劣る日本軍が戦えてきたことを阿南は知っているからです。
理想と現実の狭間のなかで、どのようにランディングさせていくか阿南陸相は苦悩するのです。
この物語は太平洋戦争終結のときの裏にあったエピソードを紹介しています。
そのなかの若者の理想主義・近視眼的な視点、年長者の現実主義・長期的広域的視座のようなものはこのエピソードに限られず、ありますよね。
普通に会社の仕事のなかでも、視野が狭かったり、先を見据えていなかったりすることは、上司にも指摘されることがありますから(それでも若い頃よりは成長していて、今の若い子たちの視野の狭さは自分でも指摘したりする)。
そういえば本作の原田監督は「突入せよ『あさま山荘』事件」も作ったのでした。
あの映画の安保闘争などもまさに視座の狭さ、未来への見通しのなさ、徹底した理想主義であることを描いているのかもしれません。
若者の視野狭窄的な視点は悪いところばかりではありません。
間違っていることもあるかもしれませんが、進んでいこうとする気持ちは純粋ですし、またエネルギーもある。
どのように方向付けられるかが必要なのだと思います。
その方向付けに影響を与えられるのが、年長者の経験による広いものの見方なのかもしれません。

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2015年8月10日 (月)

「ミッション:インポッシブル/ローグ・ネイション」 手に汗握る進化

「ミッション:インポッシブル」シリーズもすでに5作目となります。
コンスタントに作り続けられるアクションシリーズはそれほど多くないので、スパイ映画としては「007」に匹敵するシリーズとなってきたと言ってもいいでしょう。
「007」の最近のシリーズはかなりストイックな作りになっていて、かつてのロジャー・ムーアからピアース・プロスナンの頃のような派手さはありません。
これは「ボーン」シリーズなどのリアルなタイプのスパイ映画の影響を受けたと言われていますが、以前に「007」シリーズが収まっていた、派手でエンターテイメントでかっこいいスパイムービーのポジションにすっぽりと「ミッション:インポッシブル」にはまったという感じがします。
これはこれで観客にとってはいいことで、違ったテイストで、しかもレベルの高いスパイムービーをコンスタントに楽しめるのですから。
とはいっても今回の「ミッション:インポッシブル/ローグ・ネイション」は今までの2作くらいよりは、よりリアル感が強めのテイストであるように感じました。
テクノロジーに頼るというは、イーサン・ハントが己の知恵と肉体で現状を打破していく印象があります。
「ミッション:インポッシブル」シリーズの特徴としては、毎回タイプの違う監督を起用するということがあります。
今まではブライアン・デ・パルマ、ジョン・ウー、J・J・エイブラムス、ブラッド・バードとタイプの異なる個性派の監督が名を連ねています。
今回の「ローグ・ネイション」の監督はクリストファー・マッカリー。
トム・クルーズとは「アウトロー」でも組んでいる方ですね。
「アウトロー」もテクノロジーよりは、知恵と肉体で勝負という感じであり、どちらかというと未来的ではなく、やや懐かしいテイストがあった作品でした。
今回の「ローグ・ネイション」もマッカリー監督らしい雰囲気が出ていると思います。
「ミッション:インポッシブル」シリーズは主演のトム・クルーズが自分自身で多くのアクションシーンを演じているのが売りの一つです。
本作も同様にかなり意欲的にトム・クルーズはアクションにチャレンジでしているのですが、マッカリー監督のテイストは、本人が実際にやっている感というのがよく出るんですよね。
オープニングの飛行機でのシークエンスとか、後半のバイクのチェイスシーンなども本人がやっている感がすごく出ているので、手の汗を握ってしまいます。
本作が持つ、手に汗握る感というのが、また今までの作品と異なる感じが出ててよかったです。
デ・パルマやジョン・ウーは彼らの様式美みたいなのがあって(全然タイプは違いますが)、それにより新しい「ミッション:インポッシブル」を生み出しました。
エイブラムスやブラッド・バードはエンターテイメントとしての仕掛けをいろいろ盛り込む点で優れています。
今回のマッカリーはそういった仕掛けはほどほどにし、肉体感のある「手に汗握る」感じを上手に進化していて、また新しい「ミッション:インポッシブル」像を提示したように感じました。
本作のヒロインはレベッカ・ファーガソン。
知らない女優さんでしたが、綺麗な上に、知的そう。
「アウトロー」のロザムンド・パイクもそういうイメージですよね。
これは監督の好みかな。
アレック・ボールドウィンはCIA長官として登場、そして驚きは最後にはIMF長官に転職。
次回作からレギュラー?
テープの声を吹き込むのはアレック・ボールドウィンになるのかしらん。

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「劇場版 仮面ライダードライブ サプライズ・フューチャー」 刑事ものへのオマージュ

毎年恒例の「仮面ライダー」の夏の劇場版です。
いつも夏の場合は、単独での現役ライダーの映画なりますので、今回は「仮面ライダードライブ」になります。
テレビシリーズの「ドライブ」は自分が観ている環境が変わったということもあってゆっくり観れていないので、ちょっと思い入れという点ではやや浅い感じがあります。
とはいえ、「刑事」を題材にしているだけであって、刑事ドラマっぽい展開もあり、このあたりは若い頃はさんざんそういったものを観てきた自分としては楽しめるところもありました。
テレビシリーズでも進ノ助の父親を殺した新の犯人を捜す一連の展開は、見ごたえがありました。
そういえば「殉職」もありましたよね、これも刑事ドラマの定番。
「殉職」というのは「職に殉ずる」わけですから、「職」が公になっていないとそうはならない。
人知れず死んじゃうと「殉職」じゃないですよね。
なので「殉職」エピソードの数話前でドライブの存在がオフィシャルになりましたが、これはそもそも「殉職」エピソードがやりたかったからではないのかなーと思ったりして。
そういう気持ち、刑事ドラマを観てきた自分としてもわかりますけれどね。

さてさて劇場版の話です。
テレビシリーズは「仮面ライダー」でありながら、刑事ドラマでよくあるエピソードのパターンをいくつか取り込むという展開をしておりました。
今回の劇場版もそういった刑事ドラマの要素を大きく言うと2つほど取り込んでいますね。
ひとつは主人公刑事が、罠もしくは誤解により、犯人として自分が所属する警察組織に追われるという展開になること。
主人公は組織を離れて捜査を続けていきますが、最終的には組織も真実を知り、主人公を全面的にバックアップするという展開ですね。
「踊る大捜査線」とか割とこういうパターンであったかと思います。
あともう一つは「相棒」という題材ですね。
組んでいた相棒自体が悪であるかもしれないという展開は、最近の刑事もの・警察もの展開ではよくあるタイプです。
実はそうだった、ほんとうはそうではなかったというのもどちらもある展開ではありますが、「ドライブ」の場合における「ベルトさん」はどちらになるのでしょうか。
このように刑事ものにならった場面は「ドライブ」にはいくつかあり、刑事ドラマ好きな人が観るとほくそ笑んで楽しめるのではないでしょうか。
この劇場版がリスペクトしているのは、刑事ドラマだけはありません。
未来から、ダークドライブとネクストトライドロンがやってくるのですが、このデザインがインスパイアされているのはやはり「トロン」ですよね。
未来の車というと「トロン」のイメージが出てくるのに反応してしまうは、制作サイドのスタッフと自分が同じ世代だからですかね。
劇場版だからもう少しカーチェイスとかあればいいのにと思いましたが、それはなかなか厳しいか・・・。

劇場版のオリジナルライダーは、超デットヒートドライブ。
これはチェイサーのマッハドライバー炎に、トライドロンキーをさして変身するというものです。
だから魔進チェイサーとドライブのデザイントーンが混ざった感じになっています。
ヘビーデューティなデザインで、スマートなドライブともちょっと違っていて、かっこよかったです。

未来からやってくる泊進ノ助の息子、泊エイジを演じるのは真剣佑さん。
かれはあの千葉真一さんの息子さんとのこと。
よく見ると面影があるような。
アクションシーンはそれほどはなかったのですが、けっこう動きのキレは良かったような。
これも血筋ですかね。

あと、これも恒例ですが、劇中には「ドライブ」の次のライダーも登場。
次回は「仮面ライダーゴースト」ということです。
ゴーストっぽいというか、「スクリーム」みたいな顔つきの、これまたインパクトがある要望。
ドライブのようなメカニックなライダーというよりは、ウィザードのような魔術系の技を駆使しそうな雰囲気。
ベルトはかぼちゃ?
番組がスタートする10月はハロウィンですからね。
番組当初から季節に絡めて盛り上げていこうという作戦なのかな。

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「手裏剣戦隊ニンニンジャー THE MOVIE 恐竜殿さまアッパレ忍法帖!」 手堅く及第点

テレビで絶賛放映中の「手裏剣戦隊ニンニンジャー」、夏休み恒例の劇場版が公開です。
劇場版と言っても、30分程度の尺ですので、ほぼテレビシリーズの1回のオンエア分と変わらないのですけれどね。
「手裏剣戦隊ニンニンジャー」は最近のスーパー戦隊シリーズの中では、オーソドックスな作りであるかと思います。
個人的には基本的にポジティブなトーンで見やすいオーソドックスなタイプは嫌いじゃありません。
出演者はこの作品がほぼデビューのような人が多いので、演技面でいうと少々物足りないところもあるにはあるのですが、これはこれでフレッシュでいいかなとも思っています。
主人公の性格の設定がおおらかでポジティブということで、作品自体にもそのような雰囲気が醸し出されていて良いですね。
冒頭に書いたように30分程度の尺なので、凝ったストーリーなどはできるわけもなく、いつものテレビよりもちょっとロケが豪華かなという程度ですが、テレビシリーズの雰囲気の良さを劇場版でも出しているので、これは王道の攻め口なので良いのではないかと。
映画ならではの要素で、恐竜に変化した殿様が出てきます。
忍者なのに、なんで恐竜なの?と突っ込みたくもなりますが、子供たちに売れるおもちゃを考えたらこれになったということですかね。
恐竜だったら、「キョウリュウジャー」の時のCGデータも流用できそうですし(笑)。
今回の劇場版は欲を言えば、せっかくですからもっと忍者っぽいアクションを見たかったですかね。
アクションシーンについては、テレビシリーズより派手であるといったようなことはなかったかと思います。
ま、なかなか尺も厳しいのでそうそう派手にはできないかと思いますけれども。
ところどころもっとと言いたくなるところはあるのですが、夏の「スーパー戦隊」の劇場版としては及第点ではないでしょうか。

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2015年8月 8日 (土)

「進撃の巨人 ATTACK ON TITAN」 進撃できたか?

当初は中島哲也監督で作るということを聞きで、かなり期待しておりました。
原作の物語が持つどうしようもない無常感、そして極限状態での人のエゴが明らかな担っていく様は中島監督のテイストにもあっているような気がしていたのです。
けれども、何が理由かわかりませんが、中島監督が降板。
その後、先行きがどうなるか怪しくなりましたが、特撮界の名匠樋口真嗣氏が監督となり、改めて製作開始となりました。
中島監督とはまったくタイプは違いますが、樋口監督でも別の視点での期待度がありました。
樋口監督といえば、「平成ガメラ」シリーズの特撮監督を担当し、その後は本編監督も努めながらも、特撮を上手に使う監督として日本でも有数の監督となっています。
「進撃の巨人」といえば、巨人そのものと、やはりそれらに対抗する人類の唯一の方法「立体機動」でしょう。
この「立体機動」を特撮を駆使し、かっこよく描くことを樋口監督には期待していました。

さて、実際に鑑賞をしてきました。
ちなみに実写映画は、設定はそのままでありながらも、ストーリーやキャラクターは大幅に変更しているということでした。
まず樋口監督に期待していた「立体機動」を含めた特撮表現について。
巨人たちの表現については、いい頃合いであったかと思います。
人間らしさを残した気色悪い感じ。
観ていてお尻の辺りがムズムズするような不快感。
このあたりの不快感のギリギリ度合いはいいところに着地していると思います。
やりすぎると気持ち悪すぎだし、やらないと作り物くさいし、この辺はなかなか悩ましいところだったと思います。
さてポイントの「立体機動」ですが、正直言ってとてもしょぼい感じがしました。
合成感がとてもありましたし、カメラの動きも新鮮味がありません。
写っているのはシュパシュパ細かく飛び回っている引き画と、顔のアップぐらい。
重力感と、それを無視できる自由な「立体機動」というのがうまく表現できていないように思いました。
アメリカの「スパイダーマン」はこの辺はうまくやっていたと思うのですけれど、あっちを観てしまっているとちょっと物足りない。
あと全体的にセットっぽさや、いかにもグリーンバックで合成している感というが漂っているのも気になりました。
これはもしかすると監督の狙いなのかもしれません。
箱庭に飼われた家畜化した人類、ということを表現したかったのかも。
個人的にはそういう意味合いよりも、なんか安っぽい感じがしたのですね。
続いてドラマ、キャラクターに関してです。
ドラマやキャラクターは漫画とは異なるということで違うということには何も言うことはありません。
違うのはいいのですが、それでもなんだかキャラクターがとてもコミックっぽい、芝居くさい。
そのあたりがなにか安っぽさに通じ、あまりキャラクターに感情移入することがしにくかったですね。
出ている俳優さんは日本でも活躍をしている方々なので、こういったキャラクターの方向性は監督の意向であると思いますけれども、成功している感じがしません。
ま、もともとこの点については樋口監督は得意なほうではないかと思いますけれども。
映画としては、檻の中に閉じ込められ牙を抜かれてしまった人類、それは誰かに抜かれたのではなく自分自ら牙を抜いた、そういったことに対し、それが本当に生きるということなのか?という疑問をぶつけるのがテーゼとなっているのであろうと思われます。
原作ではそういったテーゼは非常に薄く、ただただ巨人に蹂躙される世界と人類のサバイバルを描いています。
実写版映画はテーゼを設定したために、それを描きやすいようにキャラクターを配置したということでしょうか。
それ自体はいいのですけれど、配置したキャラクターが感情移入できるように魅力的になっているかが課題であろうかと思います。

後編も観に行くつもりですが、期待のレベルは下げようかと・・・。
あとリル役は武田梨奈さんが演じていたということですが、映画を観ている最中はずっと「壇蜜さん」かと思っていました。
似てなーい?

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2015年8月 7日 (金)

「インサイド・ヘッド」 ピクサーのチャレンジ

ヨロコビ、イカリ、ムカムカ、ビビリ、カナシミ、人の感情をそれぞれ一人のキャラクターとしてアニメーション化するという試みに、予告を観たときは驚きました。
これはかなり難易度が高いのではないかと。
今までもピクサーは、意外な「モノ」を主役にしてきました。
おもちゃ、魚、車、ネズミ・・・、これらもなかなか難しそうな題材ですが、それでもピクサーはしっかりと感情移入できるキャラクターとして仕上げる実績はあります。
しかし、そうは言っても「感情」という極めて抽象度の高いものが、今回は題材になっていますから、困難さは予想されます。
とはいえふたを開けてみれば、さすがピクサーで、「感情」たちキャラクターがいきいきと動き、また彼らが宿る少女ライリーの思春期の心情も丁寧に描くという離れ業をやってのけています。
このあたりはさすがです。
常に新しいものにチャレンジしていこうというピクサーの姿勢がうかがえます。
この作品は人間の頭や心の仕組み(認知や記憶など)を、ただの解説としてではなく、豊かなイメージ溢れる世界として描いているのもチャレンジングであったと思います。
頭や心の仕組みを科学的にも正しい情報をベースににしながらも、誰にでもわかるような形でユニークな世界観に仕立てていました。
人間の心の中ではいくつかの感情が、その時の状況で常に競合しているということ。
幼い時の強い体験が、その人の人格形成に大きく影響を与えるということ。
短期記憶は失われ、長期記憶は別のところ(海馬)に蓄えられるということ。
イマジナリー・フレンドのこと。
こういった脳の構造や心理学、認知学に基づいている知識が、楽しく描かれていました。
とても子供が見るアニメーションとはそぐわない内容であるのですけれどね、ストーリーや世界観の作り方がほんとにうまいです。
映画に登場する感情のキャラクターたちは、それぞれに役割があり、その究極の目的はライリーが健康的で幸せな生活を送れるようにすることです。
イカリやムカムカ、ビビリはライリーを守ることが主な任務ですよね。
イカリは自身に対する脅威に対する対抗的な感情。
ムカムカは不愉快さを表す感情で、これは周辺の環境が自分にとってよろしくないということに気付くための感情です。
ビビリはまさにそのままで、危険を察知し、その状況を避けようとする感情ですね。
対してヨロコビは、前向きにポジティブに成長していこうというエネルギーを生み出す感情になります。
この物語を引っ張っていくのもこのヨロコビで、この作品の主人公であると言っていいでしょう。
一方、本作の陰の主役と言えるのが、カナシミです。
他の感情たちと異なり、ライリーが生きていくために必要な感情であるか、他の感情たちも、本人(?)も思えていない。
なぜ彼女=カナシミがライリーの中にいるのかが、物語の一つの謎になります。
結果を言ってしまうと、カナシミとヨロコビはまさに表裏一体の関係なのですね。
悲しいと感じる感情があるからこそ、嬉しいと思う気持ちが強くなる。
悲しいと感じ、嬉しいと感じる。
正反対の感情だけれど、その両方を持っているからこそ、豊かな感情をもった性格になれるのでしょう。
豊かな感情を持つということは、より強く生きていることの素晴らしさを感じられるということなので、人としても幸せな生活を送っていけるということなのですよね。
なかなかとっつきにくいテーマであるので、いつものピクサーとは違うと思った方もいるかもしれませんが、個人的にはとても共感できる内容でありました。

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