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2015年7月28日 (火)

「マッドマックス 怒りのデス・ロード」 今を生きる

アドレナリンマックス!
まさに血沸き肉躍るとはこのことです。
このところ80年代の作品のリメイクが続いていますが、オリジナルを真正面からスケールアップした作品で好感度大です。
その世界観が「北斗の拳」をはじめ多くの作品に多大なる影響を与えた「マッドマックス2」ですから、期待度が大きかったですが、見事にそのハードルを越えてきました。
核戦争の影響により、荒廃した地球。
水とガソリンこそが、まさにこの世界の血脈。
それを支配できる者こそが人々の王となる、弱肉強食の世界。
しかし、潔いほどにこれらの設定を細かく説明することがありません。
オープニングから、主人公マックスたちが極悪非道の悪党どもの支配から逃れ、生き延び、そして牙を剥く姿のみを描いていく。
そこには人間同士のスマートな戦いの片鱗はなく、血と汗とオイルとガソリンにまみれた獣のバトル。
荒野を疾駆するトレーラーのエンジン音は獣の咆哮にも聞こえます。
敵も味方もただ生き延びるだけのために、拳を振るい、銃を撃つ。

一緒に観に行った相方は途中で寝ておりました。
あの爆音の中でよく寝れるなあと思いましたが、本人いわく「ずっと戦っているだけでお話しがなくてつまらない」とのこと。
これはある部分は正しいかなと。
この作品は設定を説明するということにエネルギーを割いていません。
放射能で汚染された地球がどのようになってしまい、社会がどう変わっているか。
土が汚染され、遺伝子異常の子供たちが生まれる中で、人々の行動はどのような変化があるのか。
世界の背景とその結果については感じさせるだけで、説明はしません。
また主人公マックスについても時折差し込まれるフラッシュバックにより、彼がどのような生き方をしていてきたのかを感じさせるだけ。
世界にしても、人物にしても過去の説明はほとんどしない。
描くのは、ただ生き残ろうとする今の人々の生き様だけ。
それがとても潔い。
そのことが、彼らが生きるだけで精いっぱいで、彼らには「今」しかないということが伝わってきます。
もしかすると、フュリオサだけが「希望」という名の「未来」が見えたのかもしれません。
マックスも「今」だけを生きてきた男です。
けれどフュリオサを通じて、彼も「未来」を感じることができたのかもしれない。
だからこそマックスは彼女の「未来」を守るために戦えたのでしょう。
冒頭ではマックスからは空虚さしか感じられませんでしたが、砦を去る時の彼の姿には確かに「希望」が感じられました。

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2015年7月15日 (水)

「アベンジャーズ エイジ・オブ・ウルトロン」 安定感あるユニバース

初めて新しくできたTOHOシネマズ新宿で鑑賞しました。
ゴジラ、建物の上に居ましたよ。
せっかくなのでMX4Dで観ようかと思ったのですが時間が合わず、IMAX3Dでの鑑賞です。
さすがIMAX、大画面なので迫力ありました。
没入感のあるIMAXは3Dに向いていますね。
一連のマーベル・シネマティック・ユニバースのキャラクターが勢ぞろいする「アベンジャーズ」シリーズの第2弾です。
登場するキャラクターが多い「アベンジャーズ」シリーズですが、前作ではたくさんいるメンバーの中でも対立するトニー・スターク(アイアンマン)とスティーヴ・ロジャース(キャプテン・アメリカ)、敵役であるロキに対するソーにスポットが当たっていたと思います。
今回の「エイジ・オブ・ウルトロン」では、ピンでの作品もある彼らよりも、前作や他のシリーズでは脇であったメンバー、ブラック・ウィドゥやホーク・アイ、また今回初登場となり次回作以降でレギュラーとなるスカーレット・ウィッチに焦点があっているように思いました。
特にブラック・ウィドゥについては最も深く描かれていたように思います。
彼女はマーベル・シネマティック・ユニバースではニック・フューリーに続いて、多くの作品に登場していますが、意外にも深く描かれることはありませんでした。
今回は彼女とハルクとの恋(?)も描かれているので、キャラクターにより深みが出てきました。
登場人物が多い本シリーズですが、作品ごとにスポットを当てていくキャラクターを変えていくのは、シリーズの世界観を豊かにしていくことにつながるのでいいことかなと思います。

今回の新登場キャラクターはスカーレット・ウィッチとクイックシルバー。
そういえばスカーレット・ウィッチ演じるエリザベス・オルセンとクイックシルバー演じるアーロン・テイラー=ジョンソンは、米国版「ゴジラ」では夫婦役でしたよね。
クイックシルバーは「X-MEN フューチャー&パスト」にも登場していましたが、別人の設定ですよね。
いよいよアベンジャーズとX-MENもクロスオーバーするかと思ったのですが、まだまだのようですね。
スカーレット・ウィッチの能力はサイコキネシスとテレパスですから、X-MEN的ではあるんですけれどねー。
コミックではこの双子はマグニートーの子供らしいです。

意外な新登場キャラクターはヴィジョン。
予告では映っていなかったと思います。
強力な力を持っていながらも、敵になるのか、味方になるのかがわからないキャラクターだったので、その存在自体がミステリアスでストーリーの盛り上がりに貢献していました。
スタイルとしてはタイツ系+マントで、けっこう古風ですよね。
そのもとになるのが、トニー・スタークの秘書AIであるジャーヴィだとはこれも意外。
ほんとに脇役だったのが、一気にアベンジャーズのメインストリームにのし上がってきました。

アクションシーンはマーベルスタジオらしく抜群の安定感がありました。
見せどころがわかっているアクションという感じがしますね。
オープニングシークエンスの森の中や終盤のコア周辺でのアクションシーンでアベンジャーズメンバー勢ぞろいのスローモーションシーンがありますが、このあたりはけれん味もあり、見せどころがわかっているなという感じがありました。

マーベル・シネマティック・ユニバースの次回作は9月の「アントマン」。
アベンジャーズのメンバーも入れ替わりがありそうなので、新しいメンバーがどう絡んでいくのかが楽しみですね。

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2015年7月12日 (日)

「バケモノの子」 お前がいるから俺は父親になれる

細田守監督の作品はご自身のプライベートで体験したことが、お話の元になっているといいます。
「サマーウォーズ」はご結婚することになり、お相手のお家にお邪魔した時の印象がベースになっているとか。
まら「おおかみこどもの雨と雪」はご自身にお子さんができたときに感じたことが元になっていると聞きます。
本作「バケモノの子」も監督が父親として感じたことがその根っこにあるのでしょうね。
それは誰しも父親になる時に感じるものなのかもしれません。
ちょっとプライベートな話をしますと、つい最近父親になりそうな機会(妻が妊娠)がありまして。
そのときにまず感じたのは実感のなさ。
女性と違って男性はお腹の中に存在を感じないわけですから実感というのは感じにくいですよね。
けれど時間が経つにつれて、子供が生まれるんだという自覚的な気持ちが芽生えてきます。
それは自分自身がそう自覚したというよりは、子供の存在によりその気持ちが目覚めさせられたという感じに近い。
子供がいるからこそ、男は父親になれる。
こう書くと当たり前すぎる感じがするのですが、まさにそういう感覚をこの映画は描いているように感じました。
熊徹と九太は赤の他人、というよりバケモノと人間ですから種族も本来は住むところも違う。
けれど二人で暮らし、師匠と弟子という関係が、擬似的な親子関係になっていきます。
子供というものは成長していくに従い、心の中にぽっかりと穴があいていきます。
この映画では黒い穴として描いていましたが、思春期あたりで大人になろうとするとき、「自分は何者なのか」「どうしてこの世に存在しているのか」といった命題に悩む時期がきます。
これが黒い穴。
なかなか解けない問題ですから、悶々とした日々を過ごすことになります。
それでも何かしら自分の立ち位置を見据えて、進んでいけるようになるというのが大人になることかもしれません。
けれどその穴が塞ぎきれなかったとき、子供は暴走(不良になってしまったり、その他諸々問題行動を起こす)してしまうのかもしれません。
その黒い穴を塞ぐために、父親として唯一できることは、自分の生き方を見せてやること。
親の生き方を見せることにより、子供の中にひとつでもいいから生きるための指針を置いておいてあげる。
熊徹が九太の胸の中の剣になったように。
九太にとって熊徹は生きるための指針となったのです。
自分の父親はあまりいろいろと言う人ではありませんでしたが、一度ある一言を言ったことがあり、これが自分としてすごく胸に残ったことがありました。
父親は自分のことをこう思い、育んでくれたのだと。
その言葉は、九太にとっての胸の剣と同じようなものなのかもしれません。
父親だけではなくって子供はいろいろな人の力を借りて、影響を受けて、成長していく。
子供が大人になったとき、周りの人々に感謝できるようになることができれば、子育てはうまくいったということになるのかもしれません。
そういう意味で熊徹の子育ては大成功であったのでしょう。
不器用だけど、いい父親でした。

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2015年7月11日 (土)

「ターミネーター:新起動/ジェニシス」 1と2を合わせて再構成した感じ?

久しぶりにシュワちゃんが「ターミネーター」に復帰したということで、それだけで期待感を煽られてしまい、公開日に映画館へ。
予告などで出ていた新旧(?)シュワちゃん対決も、どんな感じになるんだろうとワクワクした気持ちで期待・・・。
しかし、え、これだけ?。
「ターミネーター2」で登場した映画史上で1、2を争うほどの粘着質の敵、T−1000をイ・ビョンホンが演じる!
クールな顔立ちが似合ってる!ご自慢の肉体をまた披露するか!?
しかし、え、これだけ?
今回の作品の前半は、「ターミネーター」「ターミネーター2」のいいとこ取りをして再構成しました、って感じがどうも否めない。
観たことある感があるし、ダイジェスト感もあるし。
確かに映像のレベルは上がっているけれども、初期2作品は今でも十分鑑賞に堪えられる。
後半戦はタイムトラベルが題材になっているのだが、時間軸が複雑になってきてしまってややこしい感じがしました。
結局この日とはどの時間軸のどの時代の人で、どの記憶を持っているんだっけ・・・?みたいな
そのあたりに頭をもっていかれてしまったので、ちょっと気がそがれてしまう。
整合性などを考えても、どっかしら破綻しているのだろうから、あまりその辺に気を使わず、アクションを素直に観た方がよかったかもしれない。
と言っても、初期2作を超えるアイデアは感じられないために、アクションにも新味はない印象。
シュワちゃん演じるガーディアン(ターミネーター改め)が父性を持っていき人間かのようになるのも「ターミネーター2」でやったことですしね、この辺も新しさがない。
「ターミネーター」から「ターミネーター2」へは大きなジャンプがあって、凶悪な敵であったターミネーターが
味方になるとか、ロボットが人間性(的なもの)を持ち始めるといった新たなアイデアが入り、感動を呼んだわけです。
そういった新味はこの作品はなかったですね(3、4も同様ですが)。
個人的にちょっとダメだったのは、伝説の勇士ジョン・コナーが敵となったことでしょうか。
「ターミネーター」シリーズの根幹は彼を守るために戦うということだったわけですが、それがなくなってしまうということは、これが何のための戦いかということがわからなくなるような気がしました。
究極的にはスカイネットを止めるということなのですが、その戦いの象徴がジョン・コナーであったわけで。
終わり方を見ると、次回作作る気満々な感じがしますね。
結局ガーディアンを送り出したのは誰なのかってのは明らかになっていないですし。
スカイネットが擬人化されてきているのもちょっと気になります。
何を考えているかわからない(というか考えていない)コンピューターというほうが怖さがあるような気がするんですけれどね。

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2015年7月 5日 (日)

「予告犯」 「区別」する側の態度の蔓延

前作の「白ゆき姫殺人事件」ではネットに溢れる匿名のつぶやきが根拠のない「真実」を作り出していく怖さを中村義洋監督は描きました。
本作「予告犯」でも、犯人グループらの行動によりネットの世論が方向付けられていく様子が描写されます。
そういう点においては、本作は前作の「白ゆき姫殺人事件」の延長線上にあるとも言えますが(「ゴールデンスランバー」もこの線上かもしれません)、僕は本作は中村監督のデビュー作「アヒルと鴨のコインロッカー」と同じような雰囲気を感じました。
ある事件が起こる。
その事件の背景を明かしていく中で、犯人らの背景にある悲しい事実が浮かび上がっていく。
この二つの作品では、犯人はある意味、社会から脱落してしまった者と言えます。
本人たちがどうこうということだけでなく、生まれた時の境遇やその後の立場からなどから、社会からあぶれてしまった。
しかしそういった差別や区別というものは、いったんレッテル化してしまうと、本人たちががんばったと言ってもそれをなかなか覆すことはできません。
格差社会、二極化と言われて久しいですが、それが固定化してしまっているのが社会の課題なのでしょう。
奥野の回想シーンにある事務所のシーンは見ていて、辛くなってしまう場面です。
自分とは違うもの(往往にして自分たちよりも社会的な立場が低い者)を「区別」という態度は、自分自身の立場を安泰なものであると認識しているためにやっているのかもしれません。
それが側から見ると、とてもいやらしく醜く見えてしまいます。
しかし、これほど露骨でないにしても、少なからず似通った場面というのは社会の中でもありますよね。
自分だってやっているかもしれないという怖さもあります。
そういった「区別」をする態度が「アヒルと鴨のコインロッカー」が作られたときよりも、今の方がより多く現れているかもしれません。
自分の立場に自信が持てない人が増えてきているのでしょうか。
だから自分よりも立場が低い人々を「区別」しようとする。
ネット上での匿名での無責任なつぶやきも、同様な気持ちから発生しているかもしれません(そういう意味では「白ゆき姫殺人事件」も通じる)。
「区別」される側である4人の友情が切ないです。
この切なさは「アヒルと鴨のコインロッカー」のときにも感じたものでした。
「区別」される者同士での、友情、思いやり。
誰かのために何かをしてあげられるならば、自分のことを犠牲にしてもいいという気持ち。
「アヒルと鴨のコインロッカー」のドルジも亡くなってしまった友人のために行動をしました。
さきほど書いた「区別」する側の態度は、そのことにより自分の立場を安泰と考えたいという自分中心の者考え方でした。
4人組の行動は、自分のためではなく誰かのためのもの。
彼らの行動が尊く見えるのは、「区別」する側の態度が現代には蔓延しているからかもしれません。

「アヒルと鴨のコインロッカー」の記事はこちら→

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