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2015年6月28日 (日)

「トゥモローランド」 ディストピアへのアンチテーゼ

未来がバラ色に見えなくなくなったのはいつ頃からだろうか。
自分が子供の頃に皆が想像していた未来は確かに夢と希望に溢れていた。
エアカーが空を飛び、チューブの中をリニアモーターカーが疾走し、雲を突くほどの高層ビルがそびえ立つ。
そこに暮らす人々の顔には笑みが浮かんでいた。
そういうイラストを本で幾つも見ていた。
「鉄腕アトム」にしても、「ドラえもん」にしても、未来は発達していて、人々の悩みの幾つかは解決できていると思えていた。
けれど、いつのまにか未来はシトシトと雨が降り、暗く沈んでいて、人々は肩を落として歩いているイメージとなっていった。
バブル期以降生まれた人たちは、未来がバラ色なんて思ったこともないという人もいるだろう。
おそらく「ブレードランナー」とか「未来世紀ブラジル」とかのあたりからだったと思うが、「ディストピア」という言葉が一般化してきた。
80年から90年は日本は繁栄を築いていた時であるが、アメリカは不況で苦しんでいた。
60年代に思い描いていた、輝く未来とは違う未来があることにアメリカが気がついた時かもしれない。
その後日本もバブルがはじけ、「ディストピア」的なイメージが定着してきたように思う。
オウムの事件なども人々の中にあるそのイメージによるところもあるかもしれない。
今時、輝かしい未来を描く物語を観た時、人々は嘘くさいものと感じてしまうだろう(たぶん自分もそうだろう)。
未来と聞いた時、希望など輝かしいイメージを思い浮かべる人は少なくなっているようにも思う。
先の見えない不安といったようなイメージが心に浮かんでくるのではないだろうか。
本作はそのような未来に対して諦めている思いに対してのアンチテーゼとなっている。
未来というものは、最初から暗いものであるわけではない。
人々がディストピアのイメージを許容してしまい、諦めを持ってしまった時、未来は暗いものとなり破滅に向かっていくとこの作品は言っている。
これはとても新鮮な考え方であると思う。
たしかに経済の動向を見ると、「思惑」というものが実のところを大きく影響しているということがわかる。
アベノミクスにしても、人々が「良くなりそうだ」という期待を持つからこそ、成長が起こるわけだ。
だからこそ人々の思いというものが、未来の行く末に大きく影響を与えるのだ。
今、何か問題があるにせよ、それの解決方法を必ず人類は見つけることができる。
そういった楽観的な思いが、未来をバラ色にする。
楽観的ときくと、お気楽な感じがするかもしれないが、人々が先行きをネガティブにとらえがちな現在において、先行きを前向きに捉えることができる力は必要なものだ。
希望があるからこそ、行動ができる。
諦めてしまっていては、動けない。

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2015年6月27日 (土)

「ハンガー・ゲーム FINAL:レジスタンス」 大人たちのプロパガンダ

スノー大統領に支配されている独裁国家パネムでは、毎年「ハンガー・ゲーム」という名のサバイバル・ゲームが行われていた。
12の地区から選抜される若者たち24名が最後の一人になるまで殺しあうこのゲームは人間性のないものであるが、これに誰も異を唱えず従うということこそが、人民に国に逆らうことができないということを強く印象づける役割を果たしている。
その強固な支配のルールを、二度に渡り破った少女がカットニス・エバティーンであった。
彼女は人の悲しみや苦しみを自分のことのように感じ、また不条理な物事への怒りを抱く激しい感情を持ち、また思ったことを実現することができる強い意志と行動力を持った人物だ。
スノーが彼女を脅威と感じるのは、人々の意識を支配する「ルール」を覆すことができるということを彼女の行動により人々に印象付けたからである。
スノーにとっては世界の秩序の破壊者、人民にとっては自由の、象徴となったのである。

本作はシリーズ3作目の前編にあたる。
2作目の最後でカットニスは、スノーへ反旗を翻す組織にその身柄を確保されたところで終わる。
本作でその組織は、破滅したと言われる13番目の地区であることが明らかにされる。
大統領の目を盗み、地下で彼らは反乱の機を探っていたのだ。
カットニスの行動で、自然発生的に起こった反乱。
13地区はカットニスを革命の象徴として担ぎあげることにより、いよいよ打倒スノーの戦争を実行しようとしていたのだ。
前作の最後を観たときは、3作目ではカットニスを先頭にパネムとの大戦闘へ展開するというイメージでいた。
しかし、予想とはちょっと違っていた。
2作目で大統領はカットニスをパネムへの従順の象徴として扱おうとした。
そして反乱軍もまた彼女を、自由の象徴として扱う。
双方ともに彼女をプロパガンダの材料としてしか見ていないように思う。
反乱軍側がカットニスを使って作るプロモビデオは、いささか気持ちが悪い。
立場が変わっているだけでパネムと同じようなこと、つまりはプロパガンダによって人民をコントロールしようとする意志を感じるからだ。
反乱軍側仕切っているのはコインという女性の首相。
そして彼女をサポートするのは、前作でも登場したプルタークという人物。
指導者はコインなのだが、プルタークとの関係もやや何かありそうな予感がある。
本作最後にコインは演説を行うのだが、それを見ているプルタークは彼女の演説と同じ言葉をつぶやく。
彼女はプルタークの用意したままにしゃべっているのではないか。
思い返せば彼は元ゲーム・メイカーであった。
ゲーム・メイカーは思ったように人々を操るのはお手の物はず。
プルタークが本当のところの反乱軍の黒幕ではないかとも思った。
スノーにせよ、プルタークにせよ共通しているのは、カットニスをイメージ戦略のための駒としてか見ていないところではないだろうか。
大人たちは、純粋に思いのままに行動しようとする若者を自分たちの思惑でコントロールしようとする。
この物語は大人対若者の支配・自由をめぐる戦いの話ではないのかと思えてきた。
そうなるとカットニスのは、スノーだけでなく、コインやプルタークら、大人たちとの戦いに入っていくのではないかと思う。

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2015年6月21日 (日)

「極道大戦争」 三池節、暴走

三池監督作品のテイストは大好きで、新作が公開されるたびに毎回観に行ってしまいます。
今回もヤクザに咬まれた人間が、ヤクザヴァンパイアになってしまうという破天荒な設定に、三池節を感じて、初日にいそいそと行ってきました。
今回の作品は、三池監督が若いころの原点に戻った作品にしたいということがあったようです。
ヤクザやホラー、えげつない描写、不条理など、確かに初期の作品のモチーフがふんだんに出てきて、荒々しいほどのエネルギーを感じます。
最近の作品はいい意味で、テイストを残しつつも、大作感の出た映画が多いですものね。
本作などを観ると、日本で唯一タランティーノなどと同じような感覚を持った監督であるなと思います。
ただし、この作品はいけません。
ぶっちゃけタランティーノも思いっきり外すときはあるのですが、今回の「極道大戦争」も三池監督思いっきり外しています。
物語が暴走する感じというのは、監督らしいとは言えるのですが、それにしてもどこに行ってしまうのだ?という感覚になります。
ヤクザヴァンパイアという設定はとてもおもしろいものだと思えるのですが、それがあまり活かしきれていないような。
ヴァンパイアになった人々により、街がどのように変わっていくかなどはそれほど描かれていませんし。
親分を裏切りのし上がった膳場も狂言回しにもなっていないように思えます。
最後はカエルくん、および巨大化カエルくんがでてきますが、このあたりもとっちらかっているような。
まあ、こういう不条理な展開も三池監督らしいのですけれども。
あまりに暴走をしているので、なんか乗り切れない印象を受けました。
この映画は余計なことを考えずに、作品に乗り切って流されて観るのが吉なのかもしれません。
なんか「大日本人」を観たときのような置いてきぼり感がありました(あの作品のエセ思想のようなものは皆無ですけれども)。

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2015年6月15日 (月)

「海街diary」 描写の余白

このところこの作品の番宣がとても多いので、少々食傷気味ではあったのですが、是枝監督作品ですし、さっそく観に行ってきました。
是枝監督の前作は「そして父になる」でカンヌ国際映画祭で審査員賞を受賞したことは記憶に新しいです。
本作もカンヌのコンペにエントリーしましたが、惜しくも受賞は逃したようです。
「誰も知らない」や「そして父になる」のような社会的な課題を題材にしているわけではなく、鎌倉に住む4姉妹の日常を描いているだけなので、受賞作品としてはインパクトがない感じがあったのでしょうか。
しかし、4人の日常を四季を通して描いているだけではありますが、個人的には観ていてとても心地よい印象を残す作品であると感じました。

今回この作品を観て感じたのは、是枝監督の作品というのは状況説明的なセリフやシーンを極力排除しながらも、その人物がどのような人で、どのような状況にあるのかということを感じさせるのが巧みであるなといういうことでした。
登場人物の仕草、言葉の間のとり方、カットのつなぎ方、シナリオには書いていないニュアンスで伝わってきます。
シンプルであるのだけれど説明不足ではなく、その登場人物の状況や気持ちを素直に感じることができます。
これは脚本、監督、編集を一人でやっている是枝監督ならではのセンスなのかもしれません。
ドキュメンタリー出身であることも関係あるかもしれませんね。

登場人物を描いているのですが、とことんまで細かく彼女たちを描写(説明)しているわけではありません。
でも彼女たちの性格や気持ちというのは感じることができ、シーンに映っていないにせよ、彼女たちはどのように感じて、どのように行動したかというのが想像することができます。
登場人物の描写に余白があって、そこを観ている側がいろいろ想像できる余地があるという感じですね。
例えば、次女の佳乃は銀行員ですが、ずっと窓口をやっていて仕事にはあまり関心ががもてない様子です。
仕事よりは、恋やおしゃれのほうに興味がいっている今どきの女性です。
しかし、外回り担当になり、最初はそれに浮かれていますが、知り合いの食堂の女性、二ノ宮さんを担当したとき、彼女が末期がんであることを知ります。
それに関して具体的な描写として描かれているのは、下記の通りです。
・佳乃が上司とともに二ノ宮の元を訪れ、店を閉めること、彼女に死期が迫っていることを知る。
・海辺で上司と二ノ宮のために遺言書の提案をしようと話す。
・佳乃が珍しく自宅で仕事のための準備をしている。
・二ノ宮の葬式で佳乃は号泣している。
佳乃は二ノ宮の死期を知り、今までの彼女とは違い仕事に対してまじめに取り組み、おそらく二ノ宮にも喜ばれた提案をしたのであろうと思われます。
ふつうの映画だと佳乃の行動を仔細に見せたくなるところだろうけれど、それはあえて描写していません。
お葬式で佳乃が泣いている姿を見せるだけで、彼女がどれだけ二ノ宮と仕事に対して真剣に向き合ったかを想像させることができているように感じます。
このようなところが本作にはいくつもあり、それが先ほど書いた「描写の余白」のようなものであると思います。
饒舌な作品ではないけれど、登場人物の気持ちは繊細に描けています。
それが観終わったときの心地よさにつながっているのかなと思いました。

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2015年6月 2日 (火)

「仮面ライダーカブト」<平成仮面ライダー振り返り-Part7>

平成仮面ライダー振り返り企画、前回の「響鬼」のときもブランク2年半でしたが、今回の「仮面ライダーカブト」も同様に2年半・・・。
いやはや時間がかかりましたねえ。
映画の方も観に行く機会も減っているので、致し方なしですが・・・。
現在「仮面ライダードライブ」がオンエアされていて、平成仮面ライダーシリーズも16作目となっています。
今回レビューする「仮面ライダーカブト」は7作目となりますが、今までの16作品の中で個人的には最も評価が低いのが、この作品になります。
ちなみにこのブログは平成7年にオープンしていて、当時オンエアしていた「カブト」が初めて仮面ライダーをレビューした作品でした。
今回、再視聴してみて、また当時のレビューを読んでみて思ったのは、その時の印象と今回の印象はほぼほぼ変わらないなということでした。

・キャラクターも各種設定も活かしきれておらず、物語の収拾がうまくつけられなかった

 1年の長丁場となる「仮面ライダー」シリーズは、オンエア開始直後に最終回までのストーリーが完全には決められていないと言われています(昨年の「鎧武」は珍しく最後の展開までが当初より決まっていたらしい)。
 ざっくりとした大きな流れは決めているようですが、最後の結末は物語が進み始めていく中で作られていくということ。
 おそらく物語そのものが自身の物語を語り始めたり、キャラクターが勝手に動き出したり、ということを大事にしているからだと思われます。
 あるキャラクターが、俳優の演技をフィードバックをされて、どんどん成長していくというのはしばしばありますよね。
 また1年間の長丁場ともなると不測の事態(俳優のけがや病気等)も起こりうるわけで、あんまりガチガチに決めていても仕方がないということもあるかもしれません。
 なので当初用意されていた設定や伏線が、最後まで活かしきれていない、回収できていないということは多かれ少なかれあるかと思います。
 とはいいながらも、「カブト」はそういうことが多すぎたかなと感じがします。

 いくつか気になった部分をあげていきたいと思います。

・ひよりがメカと話ができるという設定。
 この設定はひよりが普通の女性ではないということを暗示しているということであったと思いますが、彼女がネイティブであることがわかった後も、その能力を描写することはなく、またなぜ彼女だけがそのような能力を持っていることの説明がありませんでした。
 そもそもひよりというキャラクターが終盤にその存在感を急速になくしていってしまったように感じます。
 彼女の存在感がなくなると、天道が戦う理由、意味も曖昧になっていく感じがありました。

・矢車、影山の地獄兄弟
 二人とも初回登場からキャラクターが大きく変わってしまいました。
 それ自体は悪いとは言わないが、この物語の中での役割が不明確であったように思います。
 シュールな笑いをとる狂言回し的な使い方をされていただけに感じました。
 そもそもキックホッパーゼクター、パンチホッパーゼクターが彼らにどのような意図で彼らに持たされたのかもわかりにくく、そのために彼らの役割があいまいであったのだと思います。

・田所さんのネイティブ設定
 身近な人にもワーム、ネイティブが紛れているということを表すには、ダイレクトで衝撃的な設定であったと思います。
 ただし、その後の田所さんの行動にはネイティブであることが反映されているようには感じられず、そのときだけの場当たり的な展開であったように感じてしまったりもします。

・ドレイク(風間)のあいまいさ
 サソード(剣)については、その正体がワームであったということで、物語の設定の根幹に絡むキャラクターであり、重要性のあるキャラクターでありました。
 ただしドレイクについては、(風来坊という設定があるにせよ)物語そのものには直接的に絡むものではなかったかと思います。
 そもそもなぜ風間がドレイクに変身できるかについてもあまり説明がないので、物語にも絡みにくく、存在感があいまいに感じました。
 またカブトがハイパーフォームになる際、ザビーとドレイク、サソードのゼクターが必要だという設定がなかなか扱いづらいものであったと思います。
 つまりカブトハイパーフォームとザビー、ドレイク、サソードは並び立つことはできないわけです。
 ザビー(適合者がいなくなる)、サソード(装着者が死亡)というような展開となっていましが、ドレイクについてはあいまいなままであった(ドレイクゼクターがきているときは風間は何をしていたか?)。

・蓮華
 彼女は終盤に突如登場したキャラクターであったが、最後までその役割が明確ではなかったと思います。
 ただのにぎやかし、彩りという感じに終始してしまっていた感じがします。

天道というキャラクターは「総てを司る」男であるため、最強であり、ぶれないというのが基本的な設定でした。
総てを理解し、迷いがないという点で、彼は葛藤がないキャラクターです(劇場版では割と揺れていましたが)。
そのため彼の感情の揺らぎ、迷いなどで物語が展開をしていくことは基本的にないと考えられます。
昨年の「鎧武」の主人公、紘汰はまさに迷いながら成長していくキャラクターで、そのために物語にダイナミズムが生まれていました。
それに比べると、主人公が迷いがない分、物語を転がしていくのはなかなか難しいかったのかなとも思います。
だから周囲のキャラクターがとんがってしまったのかなと。

続く「電王」はいい意味で「仮面ライダー」というものを振り切り、新しい境地を開いた作品になっていきます。
またこちらについても振り返りをしていきます。
何年後になることやら・・・。

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