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2015年4月30日 (木)

「寄生獣 完結編」 共感性という希望

人間こそが地球という星に寄生する寄生獣である、とパラサイト側についた広川は言う。
人間というただひとつの種だけが繁栄するという現在の状態こそが是正されるものである、と。
地球という生態系で考えた場合、あまりに人は増えすぎた。
やがて増えすぎ地球を食い尽くすことにより、人間という種も滅んでしまうかもしれない。
確かに人は他の種や星の生命に無頓着であるかもしれない。
しかし、一方で人は共感性を持つただ一つの種であると言ってもよい。
動物は死のうとする他の生き物を思い、涙することはない。
道路で死んでしまった子犬のことを思い、木の下に埋めてあげることができるのも人間だけである。
人間という生き物を固体としてみた場合、実は他の動物に比べても苛酷な環境で生き延びるには”やわ”な生命体である。
だから、人は脳というものを発展させ、その脳が生み出すテクノロジーによって作られた人工の環境で身を守り、また社会性というものを育み、集団で自分たちの生命を守るように進化したとも考えられるかもしれない。
社会性を発展させる上で、重要になるのが、自分以外の他者に対する共感性なのではないだろうか。
人の痛みをわかり、自分のことのように感じる。
その対象が大切に想う人であれば、それこそ自分の身が切られるように痛みを感じるものだ。
自分が想う人を失ったとき、想うがゆえにその悲しみ、憎しみは普段では考えられない発現の仕方をする。
パラサイトたちが人に敗れていくのは、決して個体の能力が人間に劣っていたわけではない。
むしろ戦闘力という点においては、パラサイトは圧倒的に人間を超えている。
しかし、彼らは互いに共感しあう能力が人に比べてとても薄い。
だから想いや考えをあわせた人間たちに敗れ去っていく。
その人間の特徴に気づき、考えを深めていった唯一のパラサイトが田宮であった。
パラサイトたちもすべてが滅んだわけではなく、人間に同化していったものもいるという。
彼らは人間と同じように共感性を学んでいった一派なのかもしれない。
完結編において重要な役割を担うのは浦上という人物であった。
彼は根っからの殺人者で、他者に対する思いやり、共感性というものが欠如している。
だからこそ同じように共感性がないパラサイトを見抜けるのかもしれない。
そして人として大切なところが欠けているから、バケモノなのだ。
彼は殺しあうことが人間らしさであると言った。
確かに人間は殺し合い、時には他者に対して無感覚なところも持っている。
しかし、その一方で共感性や思いやりというものも持っている。
おそらく本作の中で浦上と対極にあるのが、新一のガールフレンドである里美なのだろう。
彼女は新一のことをひたすら想い、そしてすべてを受け入れる。
里美は共感性の象徴である。
ラストのシーンは浦上と里美という両極の人物が対することに意味がある。
人はやはり他者を陵辱し奪い殺すだけの生き物なのか、それとも他者への共感性や思いやりをもった存在なのか。
(原作は読んでいないのでどんな話が知らないのだが)原作は里美が死ぬと聞いた。
映画では彼女は助かるのだが、それはただ主人公のガールフレンドが助かってハッピーエンドであること以上の意味があると思う。
彼女は人間という種の共感性の象徴。
彼女が救われたということは人間にもまだ可能性があるということ。
確かに人間は残酷で、利己的なところをもっている。
しかし共感性や思いやりも持っている。
パラサイトの一部が変わったように、人もその良さをもっとよりよいように伸ばして変わっていけるのではないか。
田宮は新一とミギーのことを希望と呼んだ。
それは彼らが種の違いを超えて思いやり、共生できたということを希望であると感じたのであろう。
新一と里美が生き残ったということは人がまだ希望を持っているということの象徴である。

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2015年4月21日 (火)

「ガンダムビルドファイターズ」 ガンプラ文化

1979年に最初の「機動戦士ガンダム」(いわゆるファースト・ガンダム)がオンエアされてから35年以上の歴史の中でも、この作品は異色であると言えるでしょう(その後シリーズ化され「ガンダムビルドファイターズトライ」がオンエアされています)。
この作品が異色であるポイントのひとつは、歴代の「ガンダム」のモビルスーツが数々登場するところでしょう。
今までも過去のモビルスーツが別の物語に登場することはありましたが、それは基本的には同一の時間軸(例えばユニバーサル・センチェリー)の中において、ということでした。
異なる世界観の中で存在するモビルスーツが一緒に登場するというのは、かなり特異です。
それになんてったって、ガンダムのプラモデル、いわゆるガンプラでバトルをするという設定がかなり変化球的です。
40代くらいの方は「プラレス三四郎」というコミックとアニメを思い出すのではないでしょうか。 
歴代のモビルスーツが登場するということ、プラモデルという商品そのものが題材であることは、過去コンテンツが持つアイテムの掘り起こしという、おもちゃ屋さん(バンダイ)の意向が強く働いている感じはします。
歴史が長く、いまや二世代コンテンツとなった作品としては「仮面ライダー」や「ウルトラマン」がありますが、平成に入ったあたりから、作品ごとに異なる世界観を持つということが多くなりました。
それは作品世界としてのリアリティを持つことにより、大人の鑑賞にも耐えうるという効果があったかと思います。
しかし、これはおもちゃビジネス的には毎回新しい作品が生み出されることによりマーケティング活動のリセットをしなくてはいけないということでもありエネルギーのかかるものであるのだと思います(とはいえだからこそチャレンジングなアイデアが出てきたとも言えますが)。
とはいえ昭和の頃のシリーズにあった「7人ライダー大集合」とか「ウルトラ兄弟」といった過去コンテンツを売る仕組みもあるほうがなおよいことは間違いがありません。
制作サイドのシリーズをブランド化したいというニーズとも合い、「仮面ライダーディケイド」で初めてトライアルを行い、続いて「ウルトラマンギンガ」で過去のシリーズをおおきなシリーズの枠組みに取り込むことに成功しました。
この考え方を「ガンダム」に応用したのが「ガンダムビルドファイターズ」であると言えます。
同時期に「機動戦士ガンダムUC」というファースト・ガンダムの直の流れを持つ王道作品が作られているのも巧みであると思いました。
「ガンダム」というブランドイメージを守りつつも、チャレンジをしていく戦略がうかがえます。

「機動戦士ガンダムUC」はユニバーサル・センチェリーという大河ドラマを引き継ぐ往年の「ガンダム」ファン向けの作品です。
逆に言うとファースト・ガンダムを知らない人々からすると敷居が高いとも言えます(特に子供たちに対して)。
若年向けのエントリー作品としては「機動戦士ガンダムAGE」があったと思いますが、これは成功したとは言えない作品であったと思います。
キャラクターは低年齢層に受け入れやすいようなデザインになっていたのですが、物語としては割合ハードな物語(ファースト・ガンダム的な)となっていました。
そのあたりのアンバランスさが、若年ターゲットとのアンマッチを起こしていたように思います。

「ガンダムビルドファイターズ」がユニークな点としては、いわゆる「ガンダム」という作品群があり、そしてまたガンプラというものが存在している世界を舞台にしたフィクションであるということです。
いわばメタフィクション。
すべての「ガンダム」世界を包含するこの設定は、クロスオーバーに関する制約から解放することにつながったのでしょう。
すべての世界を包含するというやり口は、「仮面ライダーディケイド」が実施したのと同じ手法です。

プラモデルを作るというのは手間がかかることです。
単に立体物のガンダムがほしいということであれば、完成品のロボットフィギュアを買うのが手っ取り早い。
少々高くはありますが、自分の腕に関わらずクオリティの高いものが手に入るほうがよいという方はいるでしょう。
しかし、この番組で描いているのは、自分でアレンジした自分だけの完成品を作る過程を楽しもうという提案です。
プラモデルを作る楽しみとはその過程を楽しむこと。
子供ですら、手間をかけたくないと思う現代、作ることの楽しさを伝えるというのはいい(「バンダイ」の戦略が透けて見えるようですが)。
自分でいろいろ工夫して、苦労して作り、それが他人の目で評価され、うれしくもあり、くやしくもあり。
大仰な言い方をすれば、それが「ガンプラ文化」なのかもしれません。

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2015年4月20日 (月)

「バードマン あるいは(無知がもたらす予期せぬ奇跡)」 そして彼はバードマンになった

タイトルだけを見てヒーロー映画と思って、この作品を観に行くと痛い目にあうことだろう。
個人的には監督が「バベル」のアレハンドロ・ゴンサレス・イニャリトゥであるから一筋縄ではないだろうとは思っていた。
が、予備知識はない中で観始めたため、どこに物語の終結がたどりつくかわからなく、頭はかなりフル回転ではあった(終わらせ方を考えながら観てたが、しばしば予想を覆された)。

この物語の主人公は伝説となったヒーロー役を演じ、かつては人気俳優であった男リーガン。
リーガンを演じるマイケル・キートンはティム・バートン監督の「バットマン」でブルース・ウェインを演じるときとバットマンを演じるときの声のトーンをかなり変えていた(バットマンのときの声はかなり低い)。
「バットマン」ではブルース・ウィルスと正義の実行者であるバットマンは二重人格的な関係があった(リブートである「バットマン・ビキンズでもそうだったが)。
本作においても(おそらく意識的であるだろうが)、リーガンの時と、バードマンのときのマイケル・キートンは声のトーンを変えている。
これはリーガンとバードマンが「バットマン」のときと同様に、二重人格的な関係性であることを暗示させている。

二重人格的な関係性とは何なのか。
東西にかかわらずヒーローという存在には何かしら「変身」というプロセスが存在する(日本のヒーローは文字通り「変身」する作品が多く、アメリカは「着替え」をしているケースが多いが)。
「変身」という行為には、別の人物になるという意味合いがある。
最近は例外も多いが、変身後のヒーローは変身前と人格がことなることもかつては多かった(「ウルトラマン」がわかりやすい)。
そしてまた別の人間になるという行為を仕事にしている人々がいる。
それは俳優である。
ある人格からある人格に変わる。
そのプロセスの中で次第にその境目があいまいになっていき、二重人格的な関係性が生まれていく。
ヒーロー役を演じる俳優は、二重に変身のプロセス(本人→登場人物、登場人物→ヒーロー)を行っている。

リーガンのこうありたいという自己イメージ(「認められたい」という願望、これは彼の舞台で自身が演じていた「愛されたい」男に通じる)と他者が彼を見るイメージは乖離している。
主人公の中には、かつて人気俳優であったが今は落ち目であるリーガンという名の俳優と、一世を風靡したバードマンというキャラクターが存在している。
バードマンというキャラクターは当然のことながら架空のキャラクターではあるが、世間には本人であるリーガンよりも認められ、愛されているのだ。
世間はリーガンを「バードマン」を演じた俳優としてしか認識していない。

バードマンはハリウッドの映画文化が生み出したキャラクターである。
ハリウッドの映画は消費される文化である。
劇中で舞台の批評家が批判しているように。
さらには現代ではYouTube、Twitterというネット上のバーチャルな世界で、真実だか何だかわからない自分像が、圧倒的なスピードで興味をもたれ、そして打ち捨てられていく。
だからこそバードマンというキャラクターもいつかは飽きられ、消費されるとリーガンは無意識的に感じたのではないだろうか。
だからかつてリーガンはバードマンと同一視されるのを嫌がったのかもしれない。
しかし皮肉なことに、リーガンが「バードマン4」をやらなかったために、バードマンというキャラクターは伝説化し、リーガンは忘れられていった。
そしていつしかリーガンの精神をバードマンが侵食していってしまう。

最後のプレビューで衝撃のあと、リーガンの顔は包帯でぐるぐる巻きにされている。
包帯の間から覗く目の周りは鬱血のためか黒ずんでおり、その様子はバードマンのマスクの目穴から見える目のようであった。
また鼻は包帯によって、バードマンのマスクの特徴的なシルエットとなっている。
その声は低く、バードマンを演じているときの声であった。
これはリーガンであった男が、その精神をいよいよバードマンというキャラクターに飲み込まれてしまったということを表しているのだろう。

この作品は文学的なタイトルがついている。
リーガンは自分がこうありたいという姿(俳優として正当に評価される)ではなく、自分が予期しない姿(パンツ一丁でブロードウェイを走る)という姿で有名になってしまう。
また最後の最後に自分らしくあるために死のうとするが、手元が狂ったのか失敗により、死に損なう。
それがかえって予期せぬ彼の高評価につながっていく。
リーガンは自分が理想とする姿のためにさまざまな努力をするのだが、その努力は何も実を結ばない。
むしろ彼が意図しない姿でのみ、評価されてしまう。
「The Unexpected Virtue of Ignorance」は「無知がもたらす予期せぬ奇跡」と訳されていてちょっと感動的なニュアンスを感じる。
ただ「Virtue」は効果や効力という意味なので「無知がもたらす予期せぬ効力」というのが、本来の意味合いのような気がする。
そうすると「奇跡」といった感動的なニュアンスではなく、意図したようにはうまくいかず、意図しないことでしか評価されない男の喜劇として感じられるのだが、どうだろうか。

本作のキャスティングはさえている。
マイケル・キートンは冒頭でぶれたように「バットマン」でブルース・ウェイン/バットマンを演じていたが、最近は作品に恵まれているとは言い難い。
このキャリアが本作のリーガン/バードマンとイメージとリンクすることは誰も思うことだろう。
しかしこういったリンクだけで、本作のリーガン役を演じられるものでもないと思う。
リーガン、バードマンの声などでの演じ分けもそうだし、後半でリーガンが街路を歩きながら徐々にバードマンとして覚醒(?)していくときの表情などは、なかなか簡単に演じられるものではない(ワンカットなのに顔すら変わっていくように感じられる)。
またエドワード・ノートンもよい。
エドワード・ノートンというと、かつてマーベルヒーローのひとつで「インクレディブル・ハルク」でハルクを演じた。
演技派でどちらかというとブロックバスター作品とは縁遠い彼が、ヒーローものに出るということでそのときは驚いたのを覚えている。
結果、作品自体はいまいちで、ノートンもそれからヒーローを演じることはなくなった。
「アベンジャーズ」でもハルクは登場しているが、彼はオファーを断っている。
彼がハルク役を断った真意は知らないが、リーガンが「バードマン4」を断ったときの心理に通じるものを感じる。
「ハルクの」エドワード・ノートンと世間に覚えられるのをいやになったのではないだろうか。
そういう背景も含めてのキャスティングだとするとやはりさえていると思える。

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2015年4月17日 (金)

「イントゥ・ザ・ウッズ」 森が象徴するもの

おとぎ話やディズニーのアニメでお馴染みの「シンデレラ」「赤ずきん」「ジャックと豆の木」「塔の上のラプンツェル」のお話をクロスオーバーさせたのが、本作「イントゥ・ザ・ウッズ」です。
もともとはブロードウェイのミュージカルということで、全編ミュージカル仕立てとなっています。
監督をミュージカル作品で今までも実績があるロブ・マーシャルが担っています。
おとぎ話やディズニーというと子供向けでハッピーエンドというイメージがありますが、本作はより大人向きであり、必ずしもハッピーエンドであるわけではありません。
本作には「Wish(願い)」という言葉が頻繁に出てきます。
本作に登場するおとぎ話の主人公たちはそれぞれに「願いを叶えて」と言います。
しかし、「願い」というものは自分の望むことを実現したいと思うこと。
つまりそれは自分の「欲望」を実現したいと思うことでもあるのです。
自分たちの子供が欲しいという願い、欲望。
誰かに愛されたいという願い、欲望。
幸せな生活を送りたいという願い、欲望。
ほとんどの登場人物が願い、欲望を持っています。
その欲望を叶えるため、人はわがままにもなり、エゴを通そうとする。
それは他人の願い、欲望と衝突することにもなります。
もっともこの物語で願いを強く持ち、欲望を叶えたいと思っていて、そのためには他人の犠牲は厭わないと思っているは、メリル・ストリープが演じる魔女ではあります。
しかし、他の登場人物も少なからずそういうところがあるのですね。
だからこの映画は観ていてなんとなく落ちつかないというか、居心地の悪い気まずさを感じるのです。
パン屋の夫婦は子供が欲しいと願い、それを叶えるためには4つのアイテムを揃えなければならないと言われます。
そのためにはそのアイテムを人から奪うしかありません。
彼らは願いを叶えるためにそれを実行していくわけです。
願いのために誰かのものを奪う。
おとぎ話ではピュアな心の持ち主として語られるシンデレラも、愛を手に入れたいと思いながらも、生来の優柔不断さが出てきて、自分では決めないで王子にこの愛の行方を決めさせようとします。
これはピュアとは言えず、とても打算さを感じます。
すべての登場人物が多かれ少なかれこのような打算さがあったり、自分のことを優先させたりということがあります。
だからこの作品を観ていて、共感を感じるということにはならず、居心地の悪い不愉快さを感じます。
おそらくその不愉快さというのは作品の狙いであって、願いというのもは決してピュアなものというわけではなく、少なからず自分のエゴが現れる都合の良いものであり、それは他人の願いに比べて優先されうるものであるというシニカルな感覚が感じられます。
「イントゥ・ザ・ウッズ」のウッズ=深く暗い森は、おとぎ話によく登場する舞台であるということのほかに、人の心の暗い部分を象徴してもいるのでしょう。

ジョニー・デップって予告ではどーんと名前がでていましたが、ほんのちょっとだけしか出なかったのですね。
少々拍子抜け・・・。

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2015年4月15日 (水)

「ハードナッツ! ~数学girlの恋する事件簿~」 「TRICK」との共通点

NHKのBSドラマとして放映し、その後地上波でもオンエアされたドラマです(地上波でオンエアされたのは昨年なので、観てからレビューがだいぶ経ってしまっていますが・・・)。
プロデューサーの一人に東宝の蒔田光治さんが名前を連ねています。
蒔田さんと言えば「TRICK」のプロデューサーとして知られていますが、本作にも「TRICK」に通じる部分がいくつか見受けられます。

「TRICK」も「ハードナッツ!」の共通点を挙げるとすると、二作とも主人公は見た目は美人にも関わらず、その中身はというとちょっと(だいぶ?)変わった女性。
というより変人というところでしょうか。
「TRICK」の山田奈緒子は自称美人マジシャンですが、年がら年中貧乏で、欲深い性格。
その欲深さから、事件に巻き込まれちゃったりするわけですね。
彼女はマジシャンという職業柄、一見摩訶不思議にみえるような超能力にも、その裏には説明できる”タネ”があるというスタンスです。
「ハードナッツ!」の主人公難波くるみまた変わった習性を持つ女子大生です。
彼女は数学に天才的な才能は持っていますが、コミュニケーション能力が乏しい女の子。
でも女の子らしく恋する乙女な部分も持っています。
事件を解決するコンビとなる伴田に恋していて、なにかとつけ妄想癖あり。
主人公が事件解決に向けてペアを組むのが、主人公とは全く違うタイプの男性です。
全く別のタイプの人間がコンビを組むいうのはバディものでは定番ですよね。
「TRICK」で山田奈緒子と組むのは、上田次郎という自称天才物理学者です。
これまた山田とは違うタイプの変人ですが、まさに見たまんまのデコボココンビがドラマをかき回していたと言えます。
「ハードナッツ!」でくるみとコンビを組むのは、先にも書いたように伴田という刑事になります。
上田のような変人ではありませんが、謎の多い男として描かれていて、その部分がシリーズ後半を盛り上げる要素になっていきます。

「TRICK」の世界観はオカルト的で不可思議な世界観です。
山田も上田もすべては、手品的にしろ、科学的にしろ、なにかしら説明できるという考え方の持ち主ですが、それでも説明しきれないことがあるというのが作品のベースにあります(山田のルーツである黒門島関連のエピソード等)。
「ハードナッツ!」は、すべては数式で説明できるというだけあって、あくまで理性的。
一見不思議そうに見える出来事も、くるみは数学的な確率論や方程式で解き明かしていきます。
数学が苦手な人にとっては不可思議な出来事も、別のものの見方(数学的)で全く別の視点が開けてくる。
これは「TRICK」にも通じるところであると思います。

「TRICK」は一癖も二癖もあるキャラクター設定を演じる俳優がそれを膨らませ、さらには周辺のキャラクターもそれの上をいくようにエキセントリック化し、また演出家もまた癖のある映像・音楽で演出していたため、いい意味でのエスカレーションを起こしていたような気がします。
対して「ハードナッツ!」は主人公のくるみというキャラクターは変人ですが、その変わった感じを演じる橋本愛さんが一生懸命演じようとしているのは伝わってくるのですが、ややその演技はちょっと滑っている感じがありました。
橋本さんはシリアスな演技は上手だと思いますが、こういうコメディっぽいのは苦手なのかな。

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「機動警察パトレイバー the Movie」 東京の物語

現在実写版の「パトレイバー」が公開されていますが、今をさかのぼること25年前の1989年に劇場で公開されたのが本作「機動警察パトレイバー the Movie」です。
25年前に作られたアニメーションなのですが、今見ても古く感じることがありません。
それはこの物語の真の主人公が、東京という街そのものであり、その街が抱えていた問題は、今現在でも継続されているからであるかと思います。
1989年というと日本がバブル真っ盛りの時期で繁栄を謳歌していた頃でした。
経済が過熱し、地価が高騰、地上げなどが横行したのもこの時期です。

「パトレイバー」シリーズでレイバー(本作で登場する人型のロボットをこう呼ぶ)が登場するための設定が、東京で推進されている「バビロン・プロジェクト」という巨大プロジェクトです。
この計画は東京湾を横断するように巨大な突堤を築き、その内側の土地を干拓して広大な土地を確保し、都心が抱える土地問題を一気に解決しようというもの。
かつてない規模の土木工事のために、人型のロボット=レイバーが急速に普及したという設定になっています。

映画が公開された1989年はバブル景気の真っただ中です。
そのころの日本人は、やがて未曽有の好景気が終了し、その後東京が「失われた20年」を経験するとは思ってもみなかったでしょう。
聖書の中で語られる永遠に繁栄すると言われていたバビロンは、神の怒りに触れ、滅びました。
まさにこの映画で東京をバビロンに例えたことが予告したかのように、この街は凋落していったのです。
「ビューティフル・ドリーマー」等の押井作品では、宴は夢のような時間であり、やがて終わるときがくる、ということがたびたび描かれますが、本作もそのような視点であると言えます。

バブルの時期、本作でも描かれているように、それまでの東京(帆場が暮らしてきたような街)がいつの間にかなくなり、高層ビル群に象徴される新しい東京に上書きされていきました。
そこに暮らしていた人々などいないかのように、上書きされていく街。
街それ自体が生き物かのように無秩序に増殖していく。
計画性がなく増殖してしていくさまはがん細胞が増えていく様を想像させます。
今もなおカオスとも言われる東京という街の本質を本作は描いているように思います。

この作品で描かれる事件の犯人である帆場は早くから容疑者としてあげられていましたが、彼の人となりは刑事が足取りを追う中でもなかなか明らかにされません。
周囲との関係を断ち、東京という巨大な街の中に紛れて生きているのが、帆場という男であったのです。
関係性の欠如は現在の都会でも引き続き持ち続けている課題でもあり、現代的であると言えるでしょう。
巨大になりすぎた街は、そこに暮らす人間を矮小化します。
「巨人の街だな、こりゃ」と東京湾に浮かぶプラットフォーム「箱舟」で遊馬は言いますが、レイバーサイズが、メガシティにはふさわしい住民なのかもしれません。

本作はもしロボットが実用化されて社会で活用し始められたとき、世の中はどう変わるのかということをシミュレートしています。
人々の生活はどうなるのか、犯罪はどう変化するか、それに伴い警察はどう変わるのか。
リアルな世界観にロボットというフィクションを持ち込んだときの世界の反応を本作は描いています。
本作の脚本の伊藤和典さんは本作で、その後の「平成ガメラ」シリーズで、現代の社会に巨大怪獣が出現したとき、政府や自衛隊、市民はどう対応するのかということを再びシミュレートします。

OVAやテレビシリーズの「パトレイバー」に比べ、劇場版はより社会性がある物語となっており、その傾向はそのご劇場版2作目にも引き継がれていきます。
そしてその流れは実写版の「NEXT GENERATION PATOLABOR」にもつながっています。
もうすぐ公開される実写版ではどのように東京の物語の締めくくりをするのでしょうか。

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