「寄生獣 完結編」 共感性という希望
人間こそが地球という星に寄生する寄生獣である、とパラサイト側についた広川は言う。
人間というただひとつの種だけが繁栄するという現在の状態こそが是正されるものである、と。
地球という生態系で考えた場合、あまりに人は増えすぎた。
やがて増えすぎ地球を食い尽くすことにより、人間という種も滅んでしまうかもしれない。
確かに人は他の種や星の生命に無頓着であるかもしれない。
しかし、一方で人は共感性を持つただ一つの種であると言ってもよい。
動物は死のうとする他の生き物を思い、涙することはない。
道路で死んでしまった子犬のことを思い、木の下に埋めてあげることができるのも人間だけである。
人間という生き物を固体としてみた場合、実は他の動物に比べても苛酷な環境で生き延びるには”やわ”な生命体である。
だから、人は脳というものを発展させ、その脳が生み出すテクノロジーによって作られた人工の環境で身を守り、また社会性というものを育み、集団で自分たちの生命を守るように進化したとも考えられるかもしれない。
社会性を発展させる上で、重要になるのが、自分以外の他者に対する共感性なのではないだろうか。
人の痛みをわかり、自分のことのように感じる。
その対象が大切に想う人であれば、それこそ自分の身が切られるように痛みを感じるものだ。
自分が想う人を失ったとき、想うがゆえにその悲しみ、憎しみは普段では考えられない発現の仕方をする。
パラサイトたちが人に敗れていくのは、決して個体の能力が人間に劣っていたわけではない。
むしろ戦闘力という点においては、パラサイトは圧倒的に人間を超えている。
しかし、彼らは互いに共感しあう能力が人に比べてとても薄い。
だから想いや考えをあわせた人間たちに敗れ去っていく。
その人間の特徴に気づき、考えを深めていった唯一のパラサイトが田宮であった。
パラサイトたちもすべてが滅んだわけではなく、人間に同化していったものもいるという。
彼らは人間と同じように共感性を学んでいった一派なのかもしれない。
完結編において重要な役割を担うのは浦上という人物であった。
彼は根っからの殺人者で、他者に対する思いやり、共感性というものが欠如している。
だからこそ同じように共感性がないパラサイトを見抜けるのかもしれない。
そして人として大切なところが欠けているから、バケモノなのだ。
彼は殺しあうことが人間らしさであると言った。
確かに人間は殺し合い、時には他者に対して無感覚なところも持っている。
しかし、その一方で共感性や思いやりというものも持っている。
おそらく本作の中で浦上と対極にあるのが、新一のガールフレンドである里美なのだろう。
彼女は新一のことをひたすら想い、そしてすべてを受け入れる。
里美は共感性の象徴である。
ラストのシーンは浦上と里美という両極の人物が対することに意味がある。
人はやはり他者を陵辱し奪い殺すだけの生き物なのか、それとも他者への共感性や思いやりをもった存在なのか。
(原作は読んでいないのでどんな話が知らないのだが)原作は里美が死ぬと聞いた。
映画では彼女は助かるのだが、それはただ主人公のガールフレンドが助かってハッピーエンドであること以上の意味があると思う。
彼女は人間という種の共感性の象徴。
彼女が救われたということは人間にもまだ可能性があるということ。
確かに人間は残酷で、利己的なところをもっている。
しかし共感性や思いやりも持っている。
パラサイトの一部が変わったように、人もその良さをもっとよりよいように伸ばして変わっていけるのではないか。
田宮は新一とミギーのことを希望と呼んだ。
それは彼らが種の違いを超えて思いやり、共生できたということを希望であると感じたのであろう。
新一と里美が生き残ったということは人がまだ希望を持っているということの象徴である。
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