« 2015年1月 | トップページ | 2015年3月 »

2015年2月28日 (土)

「烈車戦隊トッキュウジャーVSキョウリュウジャー THE MOVIE」 オトナ戦隊とコドモ戦隊

この時期恒例となったスーパー戦隊シリーズの劇場版「烈車戦隊トッキュウジャーVSキョウリュウジャー THE MOVIE」に行ってきました。
「烈車戦隊トッキュウジャー」はテレビシリーズが先日終了しましたが、シリーズ当初感じていたほど乗り切れなかった感はありました。
レビューはまだ書いていないですけれど。
ですので、劇場版については観に行くかどうか迷ったのですが、行ってみると思ったよりも面白かったです。
トッキュウジャーと共演するのは、前年の戦隊キョウリュウジャーです。
この2戦隊が共演すると、それぞれの戦隊のコンセプトが明確になり、なかなか興味深かったです。
キョウリュウジャーは史上最強のスーパー戦隊と銘打っていましたが、彼らは最初から勇者であり、すでに完成されたスーパー戦隊でした。
強い奴らがチームになってさらに強いというコンセプトでしたよね。
いわば大人のスーパー戦隊と言ってもいいかもしれません。
かたやトッキュウジャーですが、シリーズで明らかになったように彼らは姿形は大人でもその精神は子供のまま。
純粋な気持ちを持った、子供の心のスーパー戦隊なわけです。
この2戦隊が共演すると、キョウリュウジャーたちのメンバーが、直球勝負のダイゴでさえも、大人に見える。
使命を自覚しているオトナたちという感じがしました。
トッキュウジャーたちについては、映画を観ていて彼らが自分自身のことを語るセリフがあったのですが、なるほどと思いました。
彼らは家族の元に帰るということを目的として戦ってきました。
そして旅をして街を訪れ、そこでシャドーラインに苦しめられる人々をひとつひとつ救ってきたわけです。
世界の平和のためってわけではない。
ひとつひとつ目の前にいる人たちを救ってきただけ。
だだ子供のうちはできることは限られている。
手が届くとこから、ひとつひとつやっていく。
そして自分の手の届く範囲は少しづつ広がっていく。
手が届くと想像できることがイマジネーション。
トッキュウジャーはこれから成長していくコドモたちなんですよね。
だから、本作で子供のままチェンジするっていうシーンがありますが、それは非常にコンセプトをはっきりと表したシーンであったなと思いました。

| | コメント (0) | トラックバック (1)

「ビッグ・アイズ」 奪われたアイデンティティ

主人公のマーガレットが劇中で、自分が描いた絵は自分の子供のようなものと言う。
すなわち彼女にとって、絵は自分のアイデンティティの分身のようなものなのだろう。
彼女は内気で引っ込み思案な性格でありながらも、その中身は感受性が高く、豊かな想像力を持つ女性でした。
引っ込み思案だからこそ、自分の内にある気持ちを表現するために絵を描き続けていたのかもしれません。
彼女は表現をしたいだけであって、彼女自身が認められたいという気持ちを持っていなかったと思います。
しかし、ウォルターが自分の作品を自分のものであるように振る舞い、同じように嘘をつくことを強要されるにつれ、自分のアイデンティティが自分のものではないように感じてきたのではないでしょうか。
絵を描いている自分は、はたして自分なのか。
自分の自我の発露であった「ビッグ・アイズ」は、ウォルターの作品であるという。
そうしたら自分とはどこに行ってしまったのか。
マーガレットはアイデンティティ喪失の危機にあったのかもしれません。
逆に夫であるウォルターは高い社会適応性を持ちながらも、その内面は空虚でした。
彼自身もそれに気づいていたのでしょう。
しかし彼は芸術家が持つ豊かな個性、才能に憧れを持っていた。
憧れを持っていながらも、その才能を持ち合わせていないことを知っている辛さ。
その辛さを封じ込めるために、彼は才能あるアーティストの「身代わり」になったのでしょうか。
彼自身、自分でついた嘘をいつしか自分自身でも信じてしまっている風でもあります。
偽物のアイデンティティが彼の中では本物になっていたのかもしれません。
ウォルター自身も本来の自分のアイデンティティを失う、というより封殺していたように思います(クリストフ・ヴァルツのあの満面の作り笑いが見事)。
この夫婦は互いに己のアイデンティティを喪失しようとしていた。
マーガレットの自我は消されることに抵抗し本当の自分であろうとした。
ウォルターは自我を封じ込め他人になろうとする。
その二人の葛藤。
ウォルターが最後まで自分に対してついた嘘を、自分で気づくことなく一生を終えたことが哀れに感じました。
彼は結局誰であったのか。

| | コメント (0) | トラックバック (24)

2015年2月21日 (土)

「ミュータント・タートルズ(2015)」 ミーガン・フォックスの色気

前も実写映画化されてましたよね。
観たはずだけれど、よく覚えていないのです。
調べてみたら、製作はいまはなき香港のゴールデン・ハーベストでした。
ニンジャというより、カンフーだったのかな。
アメリカでは「ミュータント・タートルズ」ってかなり人気らしいけれど、どうもマッチョなカメのヒーローっていうのが、どうもあまりカッコよく思えないのですよねえ。
みなさんどうでしょう?
このあたりアメリカ人と日本人のセンスの違いなのかもしれません。
本作はモーション・キャプチャーをバリバリに使い、確かにアクションは見ごたえがあるところありますよね。
雪山のシークエンスはスピード感もあり、ハラハラしながら見れました。
モーション・キャプチャーはかなりこなれた技術になってきたと思います。
CGの質感も以前のようないかにもCGという感じもなく、自然に共演者やリアルな背景に馴染んでいるようになりました。
けれどやっぱりカメのヒーローに馴染めない・・・。

じゃ、なんで観に行ったんだよという話になるわけですが。
それは予告で観てミーガン・フォックスが色っぽかったから!(不純な動機)。
ミーガン・フォックスがブレイクしたのは「トランスフォーマー」でした。
ほとんどの人がこの作品でミーガン・フォックスを知ったのだろうと思いますが、たぶん多くの男性陣はそのセクシーさにやられたことでしょう。
そのあと「トランスフォーマー2」では、意味なくセクシーなことをやらされてミーガンが怒り、監督のマイケル・ベイとの関係が悪化したと聞きました。
この作品の製作のひとりにマイケル・ベイが入っているのですが、二人は和解したのでしょうかねー。
どうも馴染めないカメたちにはほとんど感情移入ができなかったので、僕は結局ずっとミーガンだけを集中的に観てました。
観ていながら、この方の色気というのはどこからくるのだろうと考えてました。
確かに美人だし、スタイルもいい。
ただそれだけではない色気があるような気が。
と考えていて、気付いたのは、この人は唇を半開きにしていることが多いのです。
唇の形もきれいですが、半開きにしているところが、妙に隙があるような感じがして、それが色気に繋がっているのではないかと。
美人の人がきりっと唇を閉めていると、ちょっと冷たくとっつきにくい印象になります。
逆に開けっ放しでいると、おつむが弱そうな感じに・・・。
ミーガン・フォックスは絶妙な感じに隙がありそうなところがあり、そこに彼女特有の色気が生まれているのではないかと結論しました。
あくまで個人的見解です(笑)。
しかし、まったく作品と関係ない話を書いてしまったなあ。

| | コメント (6) | トラックバック (20)

2015年2月15日 (日)

「フォックスキャッチャー」 母の呪縛

大財閥の御曹司が、元オリンピックの金メダリストを射殺してしまう。
かなりセンセーショナルな事件ですが、当時聞いた覚えがありませんでした。
デュポンといったら、アメリカの財閥の中でも3指に入るくらいですよね。
かなり重々しく不穏な空気が漂う作品です。
映画を観る前は主人公はマークだと思っていたのですが、観終わると主人公はデュポンであるとわかります。
この物語はジョン・デュポンという男が抱える心の闇を明らかにするものでした。
彼の心を読み解くにあたり、いくつかこの物語で気になる点を見てみましょう。
デュポンという男は財閥の御曹司であり、金と権力を持っている人物でしたが、それでも非常にコンプレックスの強い性格であったと思います。
おそらく母親との関係性が大きい。
母親は財閥を継ぐ息子に対して、かなり支配力を持っていました。
財閥の跡取りとしての品格を彼に求め、彼のやりたいことなどは全く意に返さなかったのでしょう。
母親は馬の牧場を持ち、その馬が品評会で賞を取ることに精を出していました。
彼女にとって品格というものは最も大事なもので、それを馬にも求め、そしてまた息子にも求めたのです。
デュポンからすれば自分のやりたいことは叶えられず、母と子というよりはまさに馬へ接することと同じような目線で接しられていること、そしてまた息子として母親の期待に応えきれていないことから、コンプレックスが育ってきたように思います。
母親への反感、それと逆に母親に認められたいという思い、それが彼の中でないまぜになっていたのでしょう。
母親が亡くなった時、デュポンは厩舎の馬を全て野に放ちます。
それは自分自身も母親の呪縛から解放されたというように感じたからなのかもしれません。
しかし、これは母親から認められるというチャンスを永遠に失ったということでもあります。
これによりデュポンは歯止めがかからず暴走していってしまったのでしょう。
デュポンは母親がしたことを自分でも同じように行います。
彼が嫌悪していたことであるにもかかわらず、そうしてしまうことはやはり彼女の呪縛が強かったからでしょうか。
母親にとっての馬、そして馬を育てる場所であったフォックスキャッチャー。
それはデュポンにとっては、レスラーであり、同じようにフォックスキャッチャーという場所であったのです。
母親が息子に対して愛情ではない視点で接していたように、彼とレスラーたちへの接し方については愛情があるとも思えません。
彼が求めていたのは、名誉であり、また尊敬であったのです。
選手たちに愛情を向けないのに、彼らの尊敬を得たいというのは、一般人からすると無理なことであると思いますが、デュポンはわからない。
やはりこれはデュポンが母親との関係性においてそれを感じることがなかったということに由来するかもしれません。
彼は母親との間に築けなかった親と子との間にある信頼と尊敬の念を、自分と選手たちの間に築きたかった。
けれどその方法を知らず、間違った方法(金と権力)でそれを得ようとしたのです。
そこにデイブという、人柄がよく人のことを親身に思い、それにより自然と人の尊敬を得られる人物が登場します。
デュポンは彼の指導能力だけを見ていますが、その力の真髄が彼の人間力であることに気づきません。
選手たちの心はデュポンから離れ、デイブに寄っていきます。
なぜそうなっていくのかデュポンはわからなかったのでしょう。
金でも権力でも、自分の得たいものが得られない。
そういうことに慣れていない彼にとって、デイブがきたフォックスキャッチャーは何か異質な空間になってしまったのかもしれません。
母親が亡くなって歯止めが効かなくなった自尊心、そして取り除かれることのないコンプレックス。
それらが肥大化し、いつしかデュポンの心を内側からグズグズに壊していったのでしょうか。
この物語ではデュポン自身が自分の心を語ることはありません。
だから彼の内面は観ている側が想像するしかないわけですが。
その心理を読み解いていくのが、この映画のおもしろさであったような気がします。

| | コメント (0) | トラックバック (31)

2015年2月 7日 (土)

「ジョーカー・ゲーム」 真面目な性格のルパン三世

邦画のスパイもので、傑作!と印象に残るものってあまりないですね。
洋画だと「007」や「ミッション・インポッシブル」などシリーズになっている作品も多いのですが。
本作「ジョーカー・ゲーム」もスパイムービーにジャンルされる作品でしょう。
小説はシリーズ化されているようですが、未読ですので、まったく先入観なしで鑑賞しました。
鑑賞後の感想としては、やはり手応えがなく、あまり印象に残らないであろうということ。
真面目な性格の「ルパン三世」という感じ?
スパイムービーの魅力というと、見ごたえのある派手なアクションと、騙し騙されといった要素がある先が見えないストーリー展開というところでしょうか。
そのいずれの要素についても本作は物足りないですね。
ベストセラーになった原作ですので、ストーリー面については期待をしていたのですが、それほど感心するようなところもなかったです。
まさに「ルパン三世」を見ているような感じでしょうか。
主人公は優秀なスパイの才能を持っているということですが、弱点と劇中でも言われているとおり、感情に流されやすい。
なんというかプロっぽさを感じないのですよね。
最近の「007」も「ミッション・インポッシブル」も最近のスパイものの主人公は、以前のこの種の作品よりも感情が強くあらわているものが多いと言っても、やはりプロっぽさは感じられます。
どうも本作の主人公にはそういう感じがせず、行き当たりばったり感が否めません。
ゆえにスパイものの肝である、先を読ませないドキドキ感といった感じはなかったのです。
アクションについても出演者の方たちはがんばっているのだと思いますが、あまり見せる(魅せる)という点においてアイデアがあまりない。
アクションの演出的にもキメすぎていて、ちょっと古臭い感じがしました。
お客さんが入ればシリーズ化!っていう皮算用もあるのかもしれませんが、ちょいと厳しい感じがしますね。

| | コメント (4) | トラックバック (22)

「96時間/レクイエム」 このシリーズの良さが出せてない

リーアム・ニーソンの「96時間」シリーズの3作目です。
1作目も2作目も好きだったので、けっこう期待して観に行きました。
しかし・・・、なんじゃこりゃ〜という印象でしたね。
このシリーズが持っていたユニークさがまったくなくなり、他にも数多あるアクション映画のひとつという出来上がりとなっていました。
このシリーズのユニークさとは主人公ブライアン・ミルズがその培ってきた能力、これは格闘技だけではなく、情報収集力、分析力、危険予知力、現場対応力、記憶力などを総動員して、たった一人で敵に挑むというものだったと思います。
つまりは肉体的な強さだけでなく、知的な面での卓越した能力などを使っていくというのが新しかったかな。
1作目では人質にとられた娘と様々やりとりをしながら、敵に迫っていきますし、2作目では人質にとられながらも周囲の音の状況だけで自分がどこにいるのかを把握するということをやってのけていました。
こういうブライアン・ミルズのすごさが本作ではあまり感じられない。
ただのマッチョ親父が暴れているという感じ。
リーアム・ニーソンはかっこいいし、アクションもキレていてその点は見ごたえがあるのですが、どうも本シリーズの良さを出せてない印象です。
元妻が殺されたり、その夫が黒幕だったってのもとってつけたような設定でしたしね・・・。
それまでのシリーズに敬意を感じないシリーズものの展開はあまり好きではないのです(「エイリアン3」とか)。
リュック・ベッソンの脚本はいいときはいいんだけど、こういう荒っぽいことをするところがありますね。

| | コメント (0) | トラックバック (28)

« 2015年1月 | トップページ | 2015年3月 »