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2015年1月25日 (日)

「ベイマックス」 ぷにぷに、ふわふわ

ロボットが人を守るっていうと、その力(パワー)でっていうイメージがありますね。
アニメの影響もあるかと思いますが、ロボットといっても機械ですから金属、プラスティックでできているイメージがあって「硬い」という印象があるからかな。
しかし、ベイマックスは今までのロボットとはまったく違う。
ぷにぷに。
ふわふわ。
ふとん乾燥機のように空気を入れてプワーッと大きくなって、見るからに触り心地がよさそう。
この触り心地がいいロボットっていうところが、この作品のアイデアだなあと思います。
ベイマックスはケア・ロボット。
人間の痛みや苦しみを取り除くために作られたロボットです。
その痛みは、単純にカラダの痛みだけではありません。
ココロの痛みもベイマックスは取り除こうとしてくれるのです。
ベイマックスも言っていますが、ココロの痛みを取り除くには家族・友人たちなどとのふれあいがとてもいい。
言葉をかけるだけでなく、スキンシップも。
確かに単に言葉をかけられるだけでなくて、なでられたり、手を握られたり、ハグされたりすると、安心したりほっとしたりするところはありますよね。
これは子供だけではなくって。
そのときの相手の肌のぬくもり、やわらかさっていうのは、人の心を癒す効果があるのかもしれません。
ベイマックスの今までのロボットとは違う、ぷにぷに、ふわふわな触り心地は、確かに人のココロの痛みを取り除いてくれそうです。
と書いていたら、今日ネットで出ていた記事で『「1日1ハグ」で心も体も健康に 風邪の新しい予防策になるかも』って記事が出てました。
→『「1日1ハグ」で心も体も健康に 風邪の新しい予防策になるかも』
なるほど〜。
ハグされるとストレスが低下して、免疫力をあげるのだとか。
ベイマックス、けっこう進んでいるケア技術なのかもね。

けっこう長いエンディングのあと、脇役フレッドのおじいさん登場。
誰だ?と思ったらスタン・リー。
確かにこの作品ヒーローもののエッセンスもありますからね。
マーベルもディズニー傘下になったからかな。

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2015年1月12日 (月)

「THE NEXT GENERATION パトレイバー 第7章」  劇場版へのプロローグ

1992年の「機動警察パトレイバー2 THE MOVIE」は様々な意味で先見性、予見性を持った作品であったと思う。
作品上舞台となったのは2002年で、首都東京は(本作にも登場する)柘植らのクーデターにより、混乱に陥る。
公開された1992年の日本はまだバブルと呼ばれる時期でした。
日本は、特に東京は繁栄を極めていると、人々が思っていた時代です。
そのようなときに「機動警察パトレイバー2」は、その繁栄、平和が欺瞞に満ちたものであると指摘したのです。
現実の世界では、舞台となった時代とほぼ同じ時期に9.11.が起こります。
世界の中でも有数の大都市が「戦争」と呼べるような状態になったことに、世界中の人々が驚愕しました。
「戦争」というものは自分から遠く離れたところで起こるものであるという漠然とした認識に先進国の人々が思っていたところで、あのような事件を目撃し、自分たちが認識していた平和というものがいかに脆いものであるかということを突きつけられたのです。
まさにその衝撃は、「機動警察パトレイバー2」で柘植がしたかったことであったのかもしれません。
人々が享受している平和がいかにもろく、幻影的なものであるかということを。
東西冷戦終結後、世界は次第に不安定になっていきました。
「機動警察パトレイバー2」の劇中でも触れられているPKO派遣のあたりから、次第に日本にも世界の情勢、戦争というものが影響を与えるようになり、最近では自衛隊についての議論も起こっています。
東アジアでも様々な問題があり、1992年の頃よりも武力衝突というものがやや現実味を帯びているような気がします。
そのような点で「機動警察パトレイバー2」は予見性を持った作品でありました。

「THE NEXT GENERATION パトレイバー 第7章」 は実写版「パトレイバー」の総集編、および春に公開される劇場版のプロローグという位置付けでした。
そして今度公開される劇場版は上記の「機動警察パトレイバー2 THE MOVIE」の続編的な位置付けであるということがわかります。
そもそも「THE NEXT GENERATION パトレイバー」のエピソードはOVA版、テレビアニメ版の中でも有名なエピソードをアップデートしたものが多いです。
その集大成として「機動警察パトレイバー2」のアップデートをしようということでしょうか。
「機動警察パトレイバー2」は公開された時点で未来への予見性を持った作品でした。
その予見のいくつかが現実味を帯びてしまった現代において、新劇場版はどのように平和や戦争をとらえ、新たに予見をすることができるのかが期待が高まりますね。

南雲さんがシルエットとはいえ、登場したのに驚き。
劇場版の予告では、南雲さんの声(榊原良子さん)も流れていましたよね。
ここまできたら後藤さんも出してほしい。

前作「THE NEXT GENERATION パトレイバー 第6章」の記事はこちら→

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2015年1月10日 (土)

「ホビット 決戦のゆくえ」 竜の病

ピーター・ジャクソンの「ホビット」3部作の完結編です。
前作ではビルボやドワーフたちが大苦戦した黄金竜スマウグが人々の住む街を急襲するところで終わります。
本作はスマウグとの決戦が描かれるかと思いきや、竜は意外とあっさりと倒されてしまいます。
奪われたドワーフの王国をとりもどしたトーリンたち。
しかし、そこから新たなる戦いが・・・。
スマウグは倒されてしまうわけですが、竜が象徴していたものはトーリンの中に残ってしまいます。
竜が象徴していたのは、強欲であったり、独占欲であったり、猜疑心であったりという人の心の中にある負の感情です。
トーリンは王国をとりもどし、そしてそこに蓄えられている黄金も手中にするわけですが、それで足りるわけではなく、いや手に入れてしまったからこその負の感情をも持ってしまうのです。
それをドワーフの年長者は「竜の病」と呼んでいました。
考えてみると、「ロード・オブ・ザ・キング」にせよ、「ホビット」にせよ、描かれていたのは竜が象徴する負の感情でした。
指輪に執着するゴラムもそうですし、サウロンに魅入られてしまったサルマンにしてもそう。
「ロード・オブ・ザ・キング」のフロドの心は常に指輪への欲望と使命との間で揺れ動きました。
強欲。
独占欲。
猜疑心。
それを象徴するスマウグを倒したというのに、その本質は受け継がれていってしまう。
そしてそれを克服したとしても、また別の者がそれを受け継いでしまう。
これら負の感情を人は克服することができないのか。
決して克服できるものではないのかもしれません。
けれどそれを克服しようとする思いもあるわけで。
その思いは、常に負の感情と戦い続けていき、その戦いは決して終わることではないのかもしれません。
スマウグは倒され、猜疑心に囚われたトーリンも最後は大切な思いを胸に持ち、戦いました。
それでも物語は進み、「ロード・オブ・ザ・リング」につながっていきます。
その物語でも人は負の感情と戦って旅を歩んでいきます。
それでも人々はその戦いに勝ちました。
しかし、それでは終わらないのかもしれない。
再びサウロン=負の感情が復活するときがあるかもしれない。
戦いは人が人である限り、まだまだ続いていく続いていくものなのでしょう。

完結編らしく見せ所は大規模な戦闘シーン。
前作のような樽での川下りのような面白さがあるシーンは少なく、物量勝負な感じはありました。
予告でやっていた氷の湖のうえでのチェイスシーンはなかったけど、カットされたのかな?

前作「ホビット 竜に奪われた王国」の記事はこちら→

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2015年1月 6日 (火)

「軍師官兵衛」 男の憧れの人生

年が明けて今年の大河ドラマ「花燃ゆ」が始まったところで、ようやく前作「軍師官兵衛」のレビューです。
個人的に大河ドラマで戦国時代を舞台にした作品は、この数年あたりがないなあという印象でした。
本作についてもスタートした当初はそれほど面白いとは思いませんでした。
戦国時代の物語はそれこそ何度も見ているため、出来事それ自体には新鮮味はありません。
だからこそお馴染みの登場人物をどのような描き方をするかというところがポイントであると思うのですが、はじめはそれほど魅力的には思いませんでした。
本作の演出は割と陳腐なところがあって、正直「ださい演出だなあ」と感じていたところがあります。
しかし、中盤官兵衛が秀吉の軍師となっていくあたりから俄然面白くなってきました。
この作品がスタートする前に、たしか岡田准一さんがインタビューで、「サラリーマンの方にも共感してもらえるような物語になる」といったことを答えていたように思います。
これを聞いたとき、(当時「半沢直樹」がブームだったので)、「戦国時代の時代劇で現代サラリーマンの風刺などを見せられてもなあ」と思ったのを覚えています。
しかし、一年間観終えると確かにそのような物語になっていると思い、狙った通りの作品に仕上がったのだなと感じました。
天賦の才能を持つリーダーの元で、自分の能力を最大限に引き出してもらえる喜び。
己の力量を発揮し、それが思う通りに転がっていくときに感じる自信。
今までのとおりに評価をされてもらえない境遇の時の苦悩。
ライバルにいいようにされ、より困難な道を歩まなければいけないときの悔しさ。
自分を信じる部下たちが支えてくれ、活躍をしてくれるときの誇らしさ。
男が社会で仕事をする中で感じる様々な気持ちが、確かに黒田官兵衛という人物の生き様から同じように感じることができました。
確かにサラリーマンが共感できる物語になっています。
物語の終盤には、今まで仕えた人々がいなくなり、自分の才能そして野望を発揮できる機会を官兵衛は得ます。
そのときの官兵衛を演じた岡田准一さんの演技、表情が良かった。
自分の思うがままに振る舞う喜び、というものがとてもうまく表現できていたと思います。
俗説的には官兵衛も天下を狙ったという話がありますが、歴史的にはそれを積極的に認めるような証拠はないというのを本で読んだ気がします。
ですので本作で描かれた官兵衛は事実とは違うのかもしれないですが、最後の最後に野望のままに振る舞うことができた官兵衛の姿に憧れを感じる人も多いのではないかと思いました。
その野望は成就せず、そしてそれを止めた男の一人が息子の長政であったというのも、男としては感じるところがあるのではないでしょうか。
自分の息子の成長を身をもって感じられるというのは、男親としての喜びでもあるでしょう。
そういう意味で黒田官兵衛の生き様は男の憧れの人生でもあるかもしれません。

13年大河ドラマ「八重の桜」の記事はこちら→

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2015年1月 4日 (日)

「おやすみなさいを言いたくて」 感情と理性と

主人公レベッカは紛争地域の様子を伝える報道写真家である。
彼女自身が語るように、彼女は若い頃から怒っていた。
世界の各所で行われている非人道的な行為に。
その怒りは彼女を突き動かし、そしてレベッカはカメラという武器を手に入れた。
残虐な行為が繰り広げられる紛争地域で、レベッカはカメラを向ける。
そのカメラによって映し出された光景は、幾人かの人々を動かす力を持っている、そう彼女は気付いたのだ。
だからこそ、自分はカメラでその光景を写さなくてはいけない。
大人になって怒りと付き合うことを覚えたと、彼女は言った。
戦場でむごたらしい光景を目にしても、彼女は冷静である。
まるで武器を手にした戦士のように冷静に、その光景を写し出す。
感情のスイッチを切っているかのように。
彼女は戦場で起きる出来事に関与しない。
彼女は感情をおりまぜずただ事実を切り取る。
しかし、彼女は愛情を持たない女性ではない。
家に戻り、愛する夫と娘たちと過ごす時間は、彼女が妻であり母である顔を持つ。
溢れる愛情を娘たちに注ぎ、夫への感謝を忘れない。
中東での取材の最中。
彼女が何気なくカメラのシャッターを切ったせいで、自爆テロが目の前で行われてします。
当然のことながら取材対象であった女性は、その場でなくとも、必ず死んでいたであろう。
しかし、レベッカがその場でシャッターを切らなかったら、そこにいた周りの人々は死ななかったかもしれない。
レベッカは自分の行為が戦場で与えた影響の大きさに慄くのだ。
彼女は冷静に今までのようにカメラを向けることができなくなる。

レベッカの長女ステフはちょうど中学生くらいか。
母がどういう仕事をしているのかは知っており、いつ死んでしまうかもしれないとしれないと恐怖に怯える子どもの部分と、母親の仕事の意義を誇りに思う大人の心が彼女の中には混在している。
感情の部分と理性の部分といってもいい。
ステフは母が命をかけて戦場に残る姿に泣き帰ってきてと叫ぶ。
しかしまた母しかできない仕事をしているその姿を誇りとも思っている。
それが大きくステフの中で揺れ動く。
母の自分の命を顧みない行動にステフは怒りを覚える。
だから彼女は母親にむかってレンズを向け、シャッターを切り続けるのだ。
カメラは怒りを伝える武器だから。
母親の活動を学校でステフは発表をする。
自分の母親の素晴らしさを皆に伝えようとする、そしてそう思っていることを母親にも。
ステフのように感情と理性が混じり合い、どうしていいかわからないというのは、それこそ人間らしい。

レベッカは感情と理性のスイッチを切り替えられる人であったのかもしれない。
戦場では感情のスイッチを切り、理性のスイッチをいれる。
家では感情のスイッチを入れる。
しかし中東での事件、またアフリカでの出来事、そして家での家族との諍いを経て、彼女の感情と理性のスイッチも混じり合ってきたのかもしれない。
そして再び訪れた中東の地で。
レベッカは娘ステフと変わらない年頃の少女が自爆テロに行こうとする光景を目にするのだ。
彼女はカメラを向けられない。
彼女の母としての感情が、それを冷静に見ることを許さないのだ。

彼女はこれからどのような道を歩むのだろうか。
報道カメラマンを辞め、家族とともに暮らしていくのか。
それとも報道カメラマンを続けていくのか。
それでも彼女の写真は今までとは大きく変わっていくような気がする。
感情がともなった写真になってくるのではないだろうか。

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2015年1月 2日 (金)

「ケイト・レディが完璧な理由」 やはり周囲のサポートですよね

邦題のタイトルからは、主人公ケイト・レディが完璧な生き方ができているというように受けとれますが、映画の中の彼女は自分のことを完璧などとは思っていないでしょう。
ケイトは投資会社で働くファンドマネージャーであり、愛する夫と二人の子供を持つ主婦。
仕事にはやりがいを感じているし、そしてまた家庭のこともとっても大事。
彼女が寝る前にやることといえば、仕事のことと家庭のこととの「やることリスト」を作ること。
世の働くママさんたちが悩むのは、仕事と家庭の両立。
子供のことでドタバタしていると身だしなみなんかかまっていられなくなって、独身のキャリアウーマンからすれば顔をしかめたくなる感じ。
また完璧に主婦業をやっているセレブママたちからすれば、子供の世話をみられない不完全主婦とみなされる。
でもどっちかを選べなんて、できない。
どちらも一生懸命やろうとしてしっちゃかめっちゃかになっちゃう。
自分の部下でも働くママさんたちがいるので、彼女たちが「どうしよう!」となる気持ち、これはわかります。
両方を一生懸命やりたいという彼女たちの気持ちは大切にしたいですね。
「I Don't Know How She Does It」というのが原題のタイトルですが、「どのように彼女はそれを(仕事と家庭の両立)を成し遂げたか?」みたいな意味になるかな。
その理由は月並みですけれど、家庭では旦那さん、仕事場では上司・同僚の理解が必要ということになるでしょう。
仕事を分担、役割をフォローできる体制というのも大事ですし、なによりももちろん気持ちとしての理解を伝えるということがずいぶんと彼女たちにとっては力になるんですよね。
主人公ケイトが基本的に前向きっていうのもよいかなと思いました。
女性側が「なんで私だけ!」っとかなると、なかなかフォローする側も気持ちよくできなかったりするものです。
本人が前向きにがんばっていると、周囲もしっかりと支えようという気持ちになりますからね。

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2015年1月 1日 (木)

「ラストベガス」 おじいちゃんの「ハング・オーバー」?

実は年末からインフルエンザにかかってしまい、お医者さんに自宅安静を言いつけられてしまいました。
医者に行く前は高熱でうなされましたが、もらった薬を飲むと熱はすぐにさがりました。
でも熱は下がっても外に出ると他の人に感染させてしまうかもしれないということで、おとなしく年末年始はうちにおります・・・。
いつもですと年末年始は連日映画館に行っているのですけれどね、いたしかたなし。
ということで自宅で見逃していた作品を鑑賞しようということで、今回はこちら「ラストベガス」。
出ているメンバーの顔ぶれが贅沢だったので、公開時も観に行きたかったのですけれど、どうもタイミングが合わずに行けませんでした。
贅沢なメンバーとはマイケル・ダグラス、ロバート・デ・ニーロ、モーガン・フリーマン、ケヴィン・クライン。
彼らは子供の頃からいっしょに遊んでいた悪ガキ4人組。
マイケル・ダグラス演じるビリーが子供ほどに年齢が離れている女性と結婚することになったということで、4人組としてはこれをやらねばならないと他の3人が張り切ります。
それはバチェラー・パーティー!
いわゆる「独身さよならパーティー」ですね。
新郎の独身最後の夜を悪友たちがバカ騒ぎでお祝いするというあれです。
日本ではあまりやられていると聞かないですけど、アメリカ映画などを見ているとよく出てきますよね。
ラスベガスでのバチェラー・パーティーと言って思い出すのは、「ハング・オーバー」ですね。
ま、さきほど書いたメンバーが出ている作品ですので本作は「ハング・オーバー」ほど下品ではありません。
品を保った、気軽に楽しめるコメディ作品になっています。
老人であることをネタにしたアハハ、フフフと笑える箇所があり、また夫婦の絆や友情のホロリとする場面もありで、王道のハリウッドのコメディになっているかと。
お正月休みで家族でうちでDVDを観たりするにはちょうどいい作品ですね。
まさにうちがそうでした〜。

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