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2014年9月30日 (火)

「仮面ライダー鎧武<ガイム>」 力を得て、使うということとは

今までも平成ライダーシリーズのデザインには驚かされることは何度もあった。
「仮面ライダー龍騎」しかり、「電王」しかり。
しかし、先日最終回をむかえた「仮面ライダー鎧武」を初めて見たときの驚きは、今まで以上だったと思います。
ライダーのデザインモチーフが、なんとフルーツ?、それに錠前?戦国武将?
フルーツというモチーフをヒーローものに持ってくる発想が大胆、それに錠前や戦国武将を組み合わせてくるセンスも意外性があっておもしろい。
異質なものを組み合わせることにより、新しいものを生み出すというのは、デザインの常道ではあるけれど、チャレンジングな試みではあります。
それに加えて、主人公たちはダンスバトルを繰り広げるらしいとのこと。
どうなるんだ、今回のライダーは?と思ったのは正直なところです。
とはいえ、毎回驚きを用意してくるのは「平成仮面ライダー」の常道ですからね。
今までこのシリーズが培ってきた安心感はありつつ、初回を観ました。
それでも第1話で、変身する主人公の頭上から大きなオレンジがボコンと落ちてきた画を見たときは、あまりに突拍子もない映像でびっくりしたわけですが・・・。

「仮面ライダー鎧武」という物語のポイントは、主人公たちが子供であったということだと思います。
沢芽市の若者たちはビートライダーズと呼ばれるダンスチームを作り、ダンスバトルを繰り広げていました。
ダンスの勝負を行い、勝利したチームがダンスのステージを獲得していく。
対して負けたチームは、踊れる場所を失ってしまう。
これはいわばダンスによる陣取りゲーム。
大人たちから見れば彼らのやっているダンスバトルは所詮子供の遊びに見えたであろうし、子供たち当人にとっても遊びの延長のゲーム感覚であったのだと思います(だから一人前になろうとした紘汰はダンスチームを「卒業」しようと思ったのだろう)。
しかし、あるとき彼らはゲームという範疇では収まらない力を手に入れました。
それはロックシード、さらには戦極ドライバーというアイテム。
ロックシードによって召喚されるインベスと呼ばれるモンスター、そして戦極ドライバーによって変身することになれるアーマードライダーという力は、子供の遊びの範疇を越え、人を傷つけ、時には命を奪うほどのパワーがありました。
これらの力により、遊びは遊びではなくなってしまう。
力を得てしまった子供たちは、その力に翻弄されていきます。
そして子供たちはその力に魅せられ、踊らされ、戸惑いながら、次第にその力の意味を考えていく。
力の意味を考えていく、そしてその力を自分のものとして使いこなしていくようになる過程は、物語の中のビートライダーズの子供たちだけに限る話ではない。
子供が大人になる過程そのもの。
子供が大人になっていく過程で、子供たちは「力」を手に入れていきます。
それは文字通りの肉体的な「力」でもあるし(誰でもいつの間にか父親よりも力が強くなったということに気付くことがあるだろう)、自分が自由にできるようになる金の「力」もそうだろうし、また女の子であれば女としての性的な「力」もそうであるかもしれない。
未熟な子供は、その精神の成長のよりも大きな力に翻弄される。
翻弄されながら、人はそれらをコントロールする術を身に着けていくのであるが、人によってはその力におぼれてしまう者もいるだろう。
その力をどう使うか、何のために使うか、それを考えていくことが成長なのかもしれません。
まさに主人公、葛葉紘汰はそのような成長過程を歩んでいきました。
紘汰が戦極ドライバーを手に入れたとき、彼はそれを自分のために遊び感覚で使いました。
しかし、人々がインベスに襲われるのを見たとき、その力を人のために、人を守るために使わねばならないと思ったのです。
そしてその力を行使するとき、その力が強大であればあるほど、少なからず犠牲になる者がでてしまうにも気づく。
その犠牲をどう考えるのか、どう向かい合うのか、それを考えることが成長であり、その到達点が大人になる覚悟であるのでしょう。
紘汰は迷いながらも前に進み、自らの道をえらんて大人になる覚悟を決めました。
彼は力を行使しつつも、その犠牲になるのは自分であるという覚悟を決めたのです。
そういった紘汰に対し、迷い、最後まで覚悟を決められなかったのが、呉島光実であると思います。
彼は自分がどうなりたいかということに対してイメージを持ちきれなかったのではないでしょうか。
だからこそ、彼は直面する場面において、(なまじ頭がよく「知力」を持っていたから)その場その場での場当たり的な対応をとってしまった。
それは先行きを見通したものではなかったため、嘘に嘘を重ねてしまうという結果となり、自分自身をさらに苦しめることになってしまったのだと思います。
彼はよりよい未来のために戦うのではなく、現状の維持、つまりは居心地の良い彼の居所を守るために戦ってきました。
時が過ぎれば必ず崩れる砂上の楼閣を懸命に作る子供であったように感じます。
その姿は痛々しい。
また二人と異なる重要な人物としてのポジションになっているのが駆紋戒斗。
彼はビートライダーズの中において、唯一最初から大人であった男でした。
戒斗は自分が歩むべき道をすでに決めていました。
そのために力を得ようとし、それをどのように使うか、そしてそれによって背負うべきものがあるということに覚悟ができていたのです。
彼が目指す世界が正しいのか正しくないかは別にして、彼はその力を背負う覚悟ができていたという点においてすでに大人であったのだと思います。
戒斗はぶれないという点において、最もヒーローらしいと言えるかもしれません。
あともう一人興味深い人物が。
最後まで生き残るとまったく思わなかった城乃内です。
彼も場当たり的な生きていくように見えたのですが、凰蓮に出会い、図らずも奇妙な師弟関係になることにより自分の力をコントロールする術を教わっていったのだと思います。
初瀬がヘルヘイムの力に呑み込まれ、インベス化したのと対照的で、大河内は彼を導く師匠を得たことにより生き延びたのです。
最終回での彼の姿を見ていると、子供が成長するにあたり、大人の導きが重要であると感じます。
光実は彼を導く存在がいなかったことが彼にとっての不幸であったのかもしれません。
兄である貴虎がそういう存在となるべきであったのですが(彼はそうありたいと思っていた)、彼はあまりに正しすぎ、そして厳格であったのです。
それは貴虎の己に対しての厳しさが表れていたのでしょうが、それはまだまだ子供である光実にとっては近づきがたい存在にしてしまったのかもしれません。
思春期の少年にとって、親を疎ましく思う感覚に近いと思います。
このように「鎧武」は子供が大人への成長過程の中で得た力に翻弄され、そしてそれをコントロールする術を得、それを行使する覚悟を決めていく姿を描いた物語と言えるのではないでしょうか。

複数ライダーによるバトルロワイヤルというと「龍騎」が思い浮かぶが、それとの違いを。
「龍騎」において、主人公真司以外は、己の願いをしっかりと決めています。
その願いの実現のために彼らは戦いあう。
そういう意味において、「龍騎」のライダーたちは覚悟を決めている大人たちの価値観(正義観)のぶつかり合いなのです。
そういう見方をすると同じように複数ライダーのバトルロワイヤルという仕掛けで似ているように感じる「龍騎」と「鎧武」であるが、違った物語として受け止められるのではないでしょうか。

前作「仮面ライダーウィザード」の記事はこちら→

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