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2014年9月30日 (火)

「仮面ライダー鎧武<ガイム>」 力を得て、使うということとは

今までも平成ライダーシリーズのデザインには驚かされることは何度もあった。
「仮面ライダー龍騎」しかり、「電王」しかり。
しかし、先日最終回をむかえた「仮面ライダー鎧武」を初めて見たときの驚きは、今まで以上だったと思います。
ライダーのデザインモチーフが、なんとフルーツ?、それに錠前?戦国武将?
フルーツというモチーフをヒーローものに持ってくる発想が大胆、それに錠前や戦国武将を組み合わせてくるセンスも意外性があっておもしろい。
異質なものを組み合わせることにより、新しいものを生み出すというのは、デザインの常道ではあるけれど、チャレンジングな試みではあります。
それに加えて、主人公たちはダンスバトルを繰り広げるらしいとのこと。
どうなるんだ、今回のライダーは?と思ったのは正直なところです。
とはいえ、毎回驚きを用意してくるのは「平成仮面ライダー」の常道ですからね。
今までこのシリーズが培ってきた安心感はありつつ、初回を観ました。
それでも第1話で、変身する主人公の頭上から大きなオレンジがボコンと落ちてきた画を見たときは、あまりに突拍子もない映像でびっくりしたわけですが・・・。

「仮面ライダー鎧武」という物語のポイントは、主人公たちが子供であったということだと思います。
沢芽市の若者たちはビートライダーズと呼ばれるダンスチームを作り、ダンスバトルを繰り広げていました。
ダンスの勝負を行い、勝利したチームがダンスのステージを獲得していく。
対して負けたチームは、踊れる場所を失ってしまう。
これはいわばダンスによる陣取りゲーム。
大人たちから見れば彼らのやっているダンスバトルは所詮子供の遊びに見えたであろうし、子供たち当人にとっても遊びの延長のゲーム感覚であったのだと思います(だから一人前になろうとした紘汰はダンスチームを「卒業」しようと思ったのだろう)。
しかし、あるとき彼らはゲームという範疇では収まらない力を手に入れました。
それはロックシード、さらには戦極ドライバーというアイテム。
ロックシードによって召喚されるインベスと呼ばれるモンスター、そして戦極ドライバーによって変身することになれるアーマードライダーという力は、子供の遊びの範疇を越え、人を傷つけ、時には命を奪うほどのパワーがありました。
これらの力により、遊びは遊びではなくなってしまう。
力を得てしまった子供たちは、その力に翻弄されていきます。
そして子供たちはその力に魅せられ、踊らされ、戸惑いながら、次第にその力の意味を考えていく。
力の意味を考えていく、そしてその力を自分のものとして使いこなしていくようになる過程は、物語の中のビートライダーズの子供たちだけに限る話ではない。
子供が大人になる過程そのもの。
子供が大人になっていく過程で、子供たちは「力」を手に入れていきます。
それは文字通りの肉体的な「力」でもあるし(誰でもいつの間にか父親よりも力が強くなったということに気付くことがあるだろう)、自分が自由にできるようになる金の「力」もそうだろうし、また女の子であれば女としての性的な「力」もそうであるかもしれない。
未熟な子供は、その精神の成長のよりも大きな力に翻弄される。
翻弄されながら、人はそれらをコントロールする術を身に着けていくのであるが、人によってはその力におぼれてしまう者もいるだろう。
その力をどう使うか、何のために使うか、それを考えていくことが成長なのかもしれません。
まさに主人公、葛葉紘汰はそのような成長過程を歩んでいきました。
紘汰が戦極ドライバーを手に入れたとき、彼はそれを自分のために遊び感覚で使いました。
しかし、人々がインベスに襲われるのを見たとき、その力を人のために、人を守るために使わねばならないと思ったのです。
そしてその力を行使するとき、その力が強大であればあるほど、少なからず犠牲になる者がでてしまうにも気づく。
その犠牲をどう考えるのか、どう向かい合うのか、それを考えることが成長であり、その到達点が大人になる覚悟であるのでしょう。
紘汰は迷いながらも前に進み、自らの道をえらんて大人になる覚悟を決めました。
彼は力を行使しつつも、その犠牲になるのは自分であるという覚悟を決めたのです。
そういった紘汰に対し、迷い、最後まで覚悟を決められなかったのが、呉島光実であると思います。
彼は自分がどうなりたいかということに対してイメージを持ちきれなかったのではないでしょうか。
だからこそ、彼は直面する場面において、(なまじ頭がよく「知力」を持っていたから)その場その場での場当たり的な対応をとってしまった。
それは先行きを見通したものではなかったため、嘘に嘘を重ねてしまうという結果となり、自分自身をさらに苦しめることになってしまったのだと思います。
彼はよりよい未来のために戦うのではなく、現状の維持、つまりは居心地の良い彼の居所を守るために戦ってきました。
時が過ぎれば必ず崩れる砂上の楼閣を懸命に作る子供であったように感じます。
その姿は痛々しい。
また二人と異なる重要な人物としてのポジションになっているのが駆紋戒斗。
彼はビートライダーズの中において、唯一最初から大人であった男でした。
戒斗は自分が歩むべき道をすでに決めていました。
そのために力を得ようとし、それをどのように使うか、そしてそれによって背負うべきものがあるということに覚悟ができていたのです。
彼が目指す世界が正しいのか正しくないかは別にして、彼はその力を背負う覚悟ができていたという点においてすでに大人であったのだと思います。
戒斗はぶれないという点において、最もヒーローらしいと言えるかもしれません。
あともう一人興味深い人物が。
最後まで生き残るとまったく思わなかった城乃内です。
彼も場当たり的な生きていくように見えたのですが、凰蓮に出会い、図らずも奇妙な師弟関係になることにより自分の力をコントロールする術を教わっていったのだと思います。
初瀬がヘルヘイムの力に呑み込まれ、インベス化したのと対照的で、大河内は彼を導く師匠を得たことにより生き延びたのです。
最終回での彼の姿を見ていると、子供が成長するにあたり、大人の導きが重要であると感じます。
光実は彼を導く存在がいなかったことが彼にとっての不幸であったのかもしれません。
兄である貴虎がそういう存在となるべきであったのですが(彼はそうありたいと思っていた)、彼はあまりに正しすぎ、そして厳格であったのです。
それは貴虎の己に対しての厳しさが表れていたのでしょうが、それはまだまだ子供である光実にとっては近づきがたい存在にしてしまったのかもしれません。
思春期の少年にとって、親を疎ましく思う感覚に近いと思います。
このように「鎧武」は子供が大人への成長過程の中で得た力に翻弄され、そしてそれをコントロールする術を得、それを行使する覚悟を決めていく姿を描いた物語と言えるのではないでしょうか。

複数ライダーによるバトルロワイヤルというと「龍騎」が思い浮かぶが、それとの違いを。
「龍騎」において、主人公真司以外は、己の願いをしっかりと決めています。
その願いの実現のために彼らは戦いあう。
そういう意味において、「龍騎」のライダーたちは覚悟を決めている大人たちの価値観(正義観)のぶつかり合いなのです。
そういう見方をすると同じように複数ライダーのバトルロワイヤルという仕掛けで似ているように感じる「龍騎」と「鎧武」であるが、違った物語として受け止められるのではないでしょうか。

前作「仮面ライダーウィザード」の記事はこちら→

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2014年9月22日 (月)

「ガーディアンズ・オブ・ギャラクシー」 紹介編?

マーベル・スタジオが送り出す新たなヒーロー、「ガーディアンズ・オブ・ギャラクシー」!
ぜんぜん聞いたことないない名前のヒーローです・・・。
とはいえ「アイアンマン」も「マイティ・ソー」も初めて観たときはよく知らなかったけど、なかなかおもしろかったし。
最近のマーベルはいい作品を出す打率が高いですからね。
ということで期待感を持ちながら、観に行ってきました。
・・・が、うーんイマイチ。
「デアデビル」とか「ファンタスティック4」とか外しまくっていたときのマーベルに戻ったような。
スペースオペラは30年前は割と作られていましたけれど、最近は珍しいですよね。
映像的にはその間の技術の蓄積があるので、派手で見応えはあるのですけれども、お話的には典型的なスペースオペラでした。
個性もバラバラでまとまりのなかったチームのメンバーが次第に結束力を持っていくという流れですが、それぞれのキャラクターにそれほど魅力を感じなかったのですよね。
それぞれがステレオタイプのような感じがしました。
まだまだ無名のキャラクターが初出で5人だから、それぞれ深く描ききれなかったからでしょうか。
とりあえずの紹介編、といった印象ですね。
「アイアンマン」や「マイティ・ソー」、「ハルク」等すでにそのキャラクターが認知されていれば、「アベンジャーズ」みたい集まってもそれぞれのキャラの個性は死なないのかもしれないですが。
「ファンタスティック4」の時も、同じように感じた気がします。
とはいえ、本作を見ると続編作る気が満々なようですね。
チームのメンバーの紹介も済んでいるので、次回作の方がおもしろくなるかもしれないです。
あとはパンフレットによれば、他のマーベル・ユニバースとの絡みもあるようで。
そっちのほうが楽しみです。

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2014年9月21日 (日)

「舞妓はレディ」 おおきに、すんまへん、おたのもうします

劇場の売り場で「『舞妓はレディ』のパンフレットください」と自分の口で言ったとき、初めて気がついた。
「舞妓はレディ」って「マイ・フェア・レディ」のもじりだったんですね。
妙なタイトルだなーとは思っていたのですが。
予告を観てても気づかなかった(恥)。
確かに、田舎出身の少女を一人前の舞妓にするべく周囲の人々が彼女に力を貸して育てあげるというお話ですから、確かに「マイ・フェア・レディ」に通じるお話ですね。
一般庶民はなかなか接することができない花街を舞台にしているので、周防監督らしくその文化について丁寧に調べてお話を作っている感じがします。
単純に舞妓さん、芸妓さんの生活を描くだけではなく、その文化、特に言葉というところに注目しているところが周防さんらしい。
文化はその土地の歴史や気候などに影響を受けてきているものですが、その中でも言葉の役割は大きい。
京ことばのまろやかさは、相手に対して丁寧に応対をするというセンスと、またあまりぎくしゃくとした対立をしないようにするといった配慮というものが現れているのかもしれませんね。
客に誘われたときとりあえず「おおきに」って言うのはまさにそういったセンスです。
センセによれば「おおきに、すんまへん、おたのもうします」というのが舞妓基本三単語ということですが、確かに相手の言うことをいったん受けて、受け流すというような感じがしますね。
まさに言葉の合気道。
とはいえ、いつもほどそこをテーマアップして堅苦しくならないのが、本作品。
あくまで舞妓になりたいという気持ちの女の子の成長物語が中心です。
主演の上白石萌音さんは初めてみましたが、あまりあか抜けない感じ(失礼!)が役にぴったりな感じがしました。
それでも最後は一人前の舞妓さんに見えてくるようになるのだから、ずいぶんがんばったのでしょうね。
脇も周防組らしく、個性ある役者さんが集まっているので安心感があります。
今回ポイントはミュージカル仕立てですが、最近のハリウッドの洗練されたミュージカルとは異なり、一昔前のやや野暮ったさのあるミュージカル風でした。
この一昔前感みたいなのは、伝統を引き継いでいる花街のイメージをうまく表しているような感じもしました。
観終えたときにあったかい気持ちになるハートウォーミングな映画でした。

竹中直人さん、渡部えりさんの「Shall We ダンス?」コンビの仮装は、笑っちゃいました。
ひさしぶりだったのにも関わらず、あの頃とまったくお二人は変わらないですねー。
あと、舞妓時代の千春のミュージカルシーンがあるのですが、それを演じていた女優さんの歌がとてもうまくてびっくりしました。
よくよく彼女の顔を見たことがあるなと思って考えると、「カノジョは嘘を愛しすぎている」の大原櫻子さんだったんですね。
うん、うまいはずだわ。

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2014年9月15日 (月)

「フライト・ゲーム」 あんまり細かいこと考えずに

最近アクション俳優としての印象が強いリーアム・ニーソンが主演。
そのうち「エクスペンダブルズ」に出るんじゃなかろうか(笑)。
リーアムが演じるのは、悲しい過去を持つ航空保安官、ビル・マークス。
マークスの搭乗機が空港を飛び立ち、上空に達したとき、彼の専用の端末に何ものからかメッセージが入ります。
これから20分毎にこの飛行機の搭乗者を1人づつ殺していく。
それを止めたければ、指定口座に金を振り込め、と。
大西洋上空を飛ぶ飛行機は完全なる密室。
犯人は飛行機の中にいる・・・。
原題が「NON-STOP」なので、まさにノンストップで展開していくアクション・サスペンスです。
尺も長くないので、テンポ良く進むので、あまり深く考えなければ気軽に楽しめる作品ではないかと思います。
ただちょっと考えると腑に落ちないところがいくつもあるはあるんですよね。
犯人側の計画って一見すごく複雑でよく考えられているような感じもしますが、よくよく考えると割と行き当たりばったりな作戦だったりして。
一人目の犠牲者は意外だし、どのようにそれがなされるかというのも映画的にはなるほどというところではあるのですが、犯人の計画からするとそれを確実に起こさせるという保証はまったくない。
彼が手を下さなければ、犯人側が犠牲者を消すプランになっていたのかしらん。
説明はないけど。
二人目の犠牲者については結局、誰がトイレに入って殺したことになっていたのでしょう?
最初は犯人とは別の人に疑いを向けるミスディレクションでしたが。
誰がやったか説明あったかな〜?
爆弾もコカイン発見のときに見つかる恐れは十分あったし(袋に刃物をぐさっと刺したらわかるよね)。
というようによくよく考えると、いろいろ杜撰なところがありますね。
ま、あまりそういうこと考えずに観るのが正解な作品なのでしょう。

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2014年9月13日 (土)

「るろうに剣心 伝説の最期編」  人を活かし、己も生きる

「るろうに剣心 伝説の最期編」、公開初日に観賞です。
昨日は会社帰りに「京都大火編」にもう一度行ってきたので、前後編を一気見した気分で観れました。
「京都大火編」のレビューの時は後編を観てから評価したいと書きましたが、一気に観てみると一本の作品として非常に見応えのあるクオリティの高い作品だと感じました。
1作目で評価が高かったアクションシーンもよりいっそうレベルが上がり満足できるものでした。
そのアクションシーンは、前後編あわせると4時間以上の作品の中で観客を飽きさせない、いいタイミングで出てくるのですよね。
エンターテイメント作品としてとても計算されている構成であると思いました。
「京都大火編」をはじめて観た時はちょっと要素が多くて長いかなと思ったのですが、2回目の観賞の時は逆にボリュームのある原作をよくコンパクトにまとめあげたなと感じましたし、後編の「伝説の最期編」まで観るとその感想もいっそう強くなりました。

剣心は幕末の時代、より人々が自由に幸せに暮らせる新時代を作るため、倒幕派に組し、暗殺者「人斬り抜刀斎」と呼ばれ恐れられました。
多くの人の命を救うため、犠牲にならなくてはならない人の命がある。
そう思い、剣心は剣を振るったのです。
しかし、剣心が敵として殺した人々にも、その人を大切に思う家族がいる、人がいる。
自分が手にかけた人々の死を悲しむ姿を見、その心を知ったとき、剣心は剣を置きます。
多くの人の命を救うためにとはいえ、犠牲になる人があってはならない。
犠牲になった人を思い、哀しむ人を増やしてはいけない。
剣心は人を守るためにしか剣を抜かず、そして決して人を殺さないという不殺誓をたてます。
その誓が逆刃刀に象徴されます。
不殺誓を剣心と対決する剣客たちは青臭いと言います。
所詮、剣は人を殺す道具。
剣を抜いたのにも関わらず、人を殺さないというのは矛盾そのものであると。
それでも剣心は己の命を犠牲にしてでも不殺誓を守ろうという覚悟を持ちます。
特に前編の張との対決の際に、剣を抜き放ってしまった時に己の信念を守り切ることに対する弱さを感じ、より強くそう思うようになったのではないでしょうか。
それでも剣心の師匠である清十郎は、剣心が己の命を犠牲にしてでも、と思うことがまだ甘いと言います。
剣の道は人の命を活かす道。
しかし、それは自分の命を疎かにしてもいいということではない。
人の命を活かし、そして己の命も生かす。
前作で剣心は「飛天御剣流は乱世の剣、平和な時代には人を活かす神谷活心流がいい」と言いますが、飛天御剣流も人の命を活かす剣であったのですね。
それを理解できたからこそ、剣心は奥義を身につけることができたのです。

剣心が剣を置いた後、暗殺者として後を継いだのが、志々雄真実。
志々雄は倒幕派の勝ちが決まったとき、それまでの所行を口封じするため手にかけられます。
しかし九死に一生を取り留めた、志々雄はある教訓を得ます。
もう犠牲になる側にはならない。
世は弱肉強食、強い者が生き、弱い者は死ぬ。
自分は強者として生きるため、弱い者は己の犠牲になればいい、と。
剣心と志々雄は互角と思えるほどの剣の腕を持っています。
犠牲になる人々へ共感を持ち彼らを守るため剣を抜く剣心。
人々へ犠牲を強いり、強者として人を斬る志々雄。
対照的な二人は、必然的に対決の道を歩んでいきます。

剣心らの働きもあり、志々雄は破れ、世は再び平和となりました。
しかし、明治新政府は「富国強兵」を唱え、国民に犠牲を強いり、やがて周辺諸国への勢力の拡大を目指し、いくつかの戦争へ向かっていくのです。
志々雄が国盗りを成功させなくとも、彼が思い描いていたような弱肉強食の時代を歩んでいくことになっていったのは皮肉的ではあります。

「るろうに剣心 京都大火編」の記事はこちら→

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2014年9月 7日 (日)

「THE NEXT GENERATION パトレイバー 第4章」 影響し、影響され

第3章まで観てきたので、ここまできたら最後まで観に行くぞ!ということで行ってきました第4章。
とはいえ2週間しか公開期間がないので、ぼんやりしていると見逃してしまう・・・。
Episode6は実写版「パトレイバー」としては初の前後編「大怪獣現わる」の後編です。
イングラムVSガッ○が観れるかと思いきや、「え、そゆこと?」みたいな展開でちょっと残念。
ガッ○が熱海の街を破壊するシーンは往年の怪獣映画のような感じで雰囲気よかったですけれどね。
やはりCGと着ぐるみの対決はお金がかかり過ぎるか・・・。
つづくEpisode7は「タイムドカン」です。
タツノコのアレじゃないよ。
特車2課に爆弾魔から爆弾を仕掛けたという予告が入り、それを裏付けるように次々と爆破されていく。
果たして犯人は?爆弾は見つかるのか?という展開。
特車2課内部でのドタバタはレイバーが動かずとも「パトレイバー」らしいエピソードです。
話が飛びますが、「踊る大捜査線」がアニメの「機動警察パトレイバー」に影響を受けているというのは、有名なところです(「踊る」の制作者もそう言っている)。
個人的に「踊る大捜査線」で印象的なエピソードは第2話の爆弾魔のエピソードです。
こちらの話も湾岸署に爆弾魔から爆弾を仕掛けたという予告が入り、「踊る」シリーズではお馴染みのカエル急便の荷物に爆弾が仕掛けられているという展開でした(今回の「パトレイバー」でもクロイヌ宅配便という宅配業者が爆弾の入った荷物を配達する)。
「踊る大捜査線」はそれまでの刑事物とは異なり、署内のドタバタを描くというのが特徴になっていると思いますが、顕著に現れているのがこのエピソードでした。
それも「パトレイバー」の特車2課のドタバタに影響を受けているわけで。
今回のEpisode7は「パトレイバー」の影響を受けた「踊る大捜査線」の影響を再び「パトレイバー」が受けるという面白い現象になっていたかと思います。
おそらくスタッフもそれは意識的であったかと思います。
ちなみに本作の犯人が捕まって連行された先は「湾岸署」でした。

あと「パトレイバー」の小ネタをひとつ。
Episode7で爆弾事件をレポートしているレポーターの名前は桜山百子(さくらやまももこ)。
桜山レポーターはアニメの「パトレイバー」でも度々出てきたキャラクターでした。
アニメでは桜山桃子(さくらやまももこ)で、漢字は違いましたけれど。
主人公たちの名前も一字替えたりしているから、そういう計らいでしょうね。

次回のEpisodeはカーシャが主人公っぽい。
太田莉奈さんの活躍が楽しみ。

「THE NEXT GENERATION パトレイバー 第3章」の記事はこちら→

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2014年9月 6日 (土)

「イン・ザ・ヒーロー」 中の人

スーツアクターという言葉が使われるようになったのはいつくらいからだろうか。
この言葉が出てくるまではスタントマンと呼ばれていたように思う。
スーツアクターには「アクター=俳優」という言葉が入っていることからわかるように、ただ危険なスタントをするというだけではなく、それ以上に演技者としての価値を認められたということなのでしょう。
僕のブログを今まで読んでくださっている方は、特撮ヒーローもの好きということはわかっていただけているかと思います。
自分自身も子供の頃はヒーローの中に人が入っているということには全く興味がありませんでした。
しかし、いつからかヒーローを演じる方々への興味がわいてくるようになったのです。
おそらくそれは「仮面ライダー龍騎」あたりからだと。
主人公の仮面ライダーのスーツアクターはJAE(ジャパン・アクション・エンタープライズ)の高岩成二さん。
「龍騎」はもう10年以上前の作品ですが、現在放送中の「仮面ライダー鎧武」でも高岩さんは主人公ライダーを演じていて、「ミスター仮面ライダー」と呼ばれるほどです。
「龍騎」以前は、変身後のヒーローというのはヒーロー然としていて、変身前の主人公と同一人物である感じというのは薄かったかと思います。
しかし「龍騎」で高岩さんが演じたライダーは、変身前の主人公のキャラクターを延長させたかのようでした。
「龍騎」という作品は劇中に13人もの仮面ライダーが登場するというかつてない設定であり、それぞれのライダーは変身前のキャラクターを反映させないと観ているほうが混乱してしまうという事情はあったかと思います。
しかしこの作品において高岩さんをはじめスーツアクターのみなさんは、変身前の登場人物を演じる俳優のクセなどを観察し、それを変身後のキャラクターの演技に反映させていったということです。
ただアクションをするということだけではなく、演技をするということに注目されるようになった大きなきっかけに「仮面ライダー龍騎」という作品はなったように思います。
その後、「仮面ライダー555」では、変身ベルトを使えば主人公以外も仮面ライダーに変身できるという設定になりました。
つまり変身した後の見た目はいっしょだけれども、変身しているキャラクターは異なるという状態になります。
しかし高岩さんは、見た目はいっしょながらも、体の動きだけで変身しているキャラクターが異なることをわからせることができました。
まさにこれはアクターです。
このあたりから「スーツアクター」という言葉が出てくるようになり、特撮系の専門誌でもスーツアクターのインタビュー等が掲載されるようになってきました。
本作では若手アイドル(演じるのは「仮面ライダーフォーゼ」の主人公であった福士蒼汰さん!)がスーツアクターである主人公に「所詮日陰者でしょ」というセリフがあります。
あまり特撮に興味がない方からすると今でもそういう感じはあるかと思いますが、本作のような映画が作られてスーツアクターに注目が集まるのは、時代も変わってきたかなと。
もっと注目されてもいい仕事であるかと思うのですよね。

女性のスーツに入っている方が男性であるというのに驚いた方もいらっしゃるかと思いますが、割と特撮ではこのケースは多いです(もちろん女性が入るケースもあります)。
本作にも出演されていますが、JAEの蜂須賀祐一さんという方は、劇中のセリフでもあったように「女性以上に女性らしい」と言われていますね。

半年ほど前、仕事で消費者へのイベントがあって、いわゆる「ゆるキャラ」の着ぐるみに入らなければならないことになりました。
入ってみるとこれがものすごくたいへん。
視界が狭くって、いろんなところにぶつかったり、蹴つまずいたりしそうで動くのが恐い。
スーツアクターの方ってこんな視界であんな激しいアクションをするのですから、なんて勇気があるのだろうと思っちゃいました。
あとはああいうスーツを着ているのはものすごく暑い・・・。
15分くらいが限界です。
特撮番組だと真夏の屋外で激しいアクションをやってますからね、ますますスーツアクターに頭が下がる思いです。

スーツアクターに熱く語ってしまいましたが・・・、映画の出来はどうだったかって?
映画としては凡庸な作品になってました。
そこがちょっと残念なところ。

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「LUCY/ルーシー」 最初の新人類

リュック・ベンソンはつくづく強い女性が好きなんですね。
「ニキータ」「レオン」でも存在感があるのは、自分の力で厳しい環境の中で自分の生きる道を切り開いていこうとする女性でした。
本作の主人公ルーシーもその強い女性の系譜に連なるキャラクターと言っていいでしょう。
そういう意味で、主人公役にスカーレット・ヨハンソンを起用したのは適切でした。
美しく、そして強い女性という役柄には彼女はぴったりだと思います。
ただ「アベンジャーズ」で見せたような、彼女の身体能力がもっと見せてくれると思っていたのに、あまりそういう見せ場をセットしていなかったのはちょっと残念でした。
ストーリーとしても新規性を感じない。
人が進化し、いつの日か肉体の束縛を逃れ、精神生命体として生きるようになるというのは、昔からSF小説などで描かれてきたことですので、本作のアイデアにはそれほど新しさを感じません。
「2001年宇宙の旅」のように人の精神生命体への進化というのは、壮大なスケールで描かれることが多いので、本作のように一人の人物にまつわるレベルでのミニマムな描き方という点では珍しいとは思います。
しかし人の進化というよりは、ただ超能力を身につけた女性というようにも見えなくもありません。
それはそれだとしてもいいのです。
あるきっかけで超能力を身につけてしまった女性の、復讐劇という話でも十分見せることはできるでしょう。
人類の進化といったSF的アイデア、強い女性を描きたいという意図が、なんかうまく処理できていないような感じがしました。
どうも最近のリュック・ベンソンにはかつて感じた溢れる才能を感じず、ちょっと残念な感じがします。

ルーシーという主人公の女性の名前は、アフリカで発見された最初の人類とよばれる類人猿の化石の相性<ルーシー>から来ているのでしょうね(実際の<ルーシー>はアウストラロピテクスなので、ホモ・サピエンスの直系の先祖ではありませんが)。
本作の主人公にルーシーという名前が与えられたのは、新世代の人類の最初となる女性だからということなのでしょう。

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2014年9月 5日 (金)

「ガンダム Gのレコンギスタ 特別先行版」 人は失地を回復できるか

「機動戦士ガンダム」の生みの親、富野由悠季監督による15年ぶりの「ガンダム」シリーズになります。
秋からテレビで放映ということですが、その最初の3話が劇場で特別先行版で公開されるということで観に行ってきました。
主人公機のガンダム「G-セルフ」のデザインが雑誌に紹介されていて、ガンダムっぽくないけれど、ガンダムっぽいというところがカッコいいなと思ったんですよね。
「00」のガンダムエクシアも同じようにガンダムらしさとそうでない感じをギリギリ考えている印象がありました。
こういう主人公機のデザインからは、絶大なコンテンツをバックボーンとしてそれを守りつつも、越えようという製作側の意図が感じられるんですよね。
ちなみに個人的には「∀」のデザインからは、過去の財産をあまり守ろうという感じは受けなかったので、「ガンダム」シリーズって感じは受けなくて別の物語でもいいのではないかと思いました。
また逆に「AGE」のデザインは守り過ぎという感じがして、かつ物語もファーストガンダムの焼き直し感もあり、過去の財産を食いつぶしている感じを受けたんですよね。

この物語の舞台となるのは、リギルド・センチェリーという時代。
リギルド・センチェリーはお馴染みの宇宙世紀(ユニバーサル・センチェリー)の後の時代ということで、同じ時系列に乗っているようです(ちらりとザクとかリック・ディアスとか過去のモビルスーツも出てました)。
「∀」の時代とU.C.の時代の間に位置するわけですね。
テレビシリーズの3話分ということで、リギルド・センチェリーの世界観・時代観については本作では詳しく説明されていません。
宇宙世紀は連邦対ジオンによる宇宙戦争の時代であったため、その反省から、リギルド・センチェリーでは宇宙に関わる技術やエネルギーが厳しく一部の層に厳しく管理されているようです。
この時代、地球と宇宙と行き来する方法は赤道上にある「軌道エレベーター」だけらしい。
また地球上で使われるエネルギーは「フォトン・バッテリー」と言い、「軌道エレベーター」を通じて宇宙からもたらされるもののようです。
つまり「軌道エレベーター」を支配する国が、実質的には地球上の活動を管理しているということなのでしょうね。
タイトルにあるレコンギスタとは学校の歴史の授業でも出てきましたが、イベリア半島をイスラム教勢力に支配されていたのを、キリスト教勢力が取り戻そうとした運動のことです。
「失地回復」とも言いますね。
本作でこれから語られる「失地」とは何でしょう?
それは宇宙への入り口となる「軌道エレベーター」であり、その先にある「宇宙」そのものであるのでしょう。
かつて宇宙世紀の時代、そこは人にとってのフロンティアであった。
そのフロンティアに進出し、人は適応し、進化のとば口に立った。
しかし終わりのない戦争により人類は嫌気がさし、自らフロンティアへの扉を閉じてしまったのかもしれません。
「Gのレコンギスタ」は人類が「宇宙」という失地を取り戻し、改めて人が進化する道を歩むことができるかどうかという物語になるのかなと思いました。

テレビ放映は秋からということですが、キー局で放送してほしいものです。
dチャンネルとか、ドコモユーザしか観れないのはちょっと、ね。
今回初めて東宝シネマズ日本橋に行ってきました(公開している劇場が少なかった)。
割とアクセスしやすかったので、これからも使ってみようかな。
平日の夜の回ということと、場所柄もあり、みなさんスーツ姿のサラリーマンでした。
ほぼ同年齢世代(30後半〜40代)で、やっぱり「ガンダム」世代ですよね。

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