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2014年8月30日 (土)

「ルパン三世(2014・実写)」 あらららら・・・残念

ワールドプレミア試写会に行って観てきたという同僚の評価は「うーん?微妙」。
どうもあまりお気に召さなかったらしい。
「ルパン三世」が実写化という話を聞いたとき、自分もあまりそそられなかったのは確かです。
やっぱりアニメの印象がとても強い作品なので、それを実写で上手く越えられるかなと。
去年の「ガッチャマン」のようにならないよね?
でも北村龍平監督は「あずみ」でコミックの実写化もうまくやっているし、予告編で観た小栗旬さんのルパンも割と合っているような感じもあったので、ちょっと期待もしていたりして。
そういった期待と不安が混じった気持ちで観賞してきたわけですが。
うーん、微妙。
わかるよ、同僚のこの言葉。
コミックやアニメの実写映画化作品は日本でもアメリカでもこの何年か非常に多く作られています。
これ自体は悪いことでもなんでもないですが、コミックやアニメ等の原作の比較ができてしまうため、うまくいってる作品と失敗している作品がはっきりと出てしまいます。
日本だとコミックやアニメの実写映画化するので上手い監督というと、堤幸彦監督とか三池崇史監督などが思い浮かびます。
堤監督はどっちかというと完コピを徹底的にやるイメージですね。
「二十世紀少年」3部作はまさにそんな感じであったかと思います。
三池監督は作品の世界観をさらに実写映画としてパワーアップさせる印象があります。
え、ここまでやっちゃう?といったような。
マンガ以上にマンガ的というか。
「クローズZERO」とか「ヤッターマン」とかそういう印象ありませんか。

で、本作「ルパン三世」ですが、何かやり切れていない中途半端感が漂っていて、それが残念な印象になっているように思いました。
演技面でいうと、小栗旬さんのルパンがちょっと気になりました。
予告編で出ていた「こいつはオレがいただくぜ」とか「あらららら・・・」っていうのは、アニメのルパンっぽいしゃべり方がしたので、完コピ的なアプローチかと思っていました。
しかし全編観てみると基本的にはそういった完コピ的な考え方ではないように思え、部分部分で予告編でのアニメっぽいところを出しているので、何か「ウケ狙い」のような微妙な印象を受けたのですね。
銭形警部も同じような感じに思いましたね。
あと世界観の作り方についてもリアル方向にするのか、マンガ・アニメ的にするのかが整理し切れていなかったように感じがします。
ノーランの「ダークナイト」シリーズはコミック原作ながら徹底的にリアリズムに徹したことによって、コミックとは違う世界観を確立したと思います。
逆に三池監督などの作品は実写でありながらマンガ・アニメ的な表現をさらに実写として突き詰めているようにしていると考えます。
「ルパン三世」はそのどちらでもないので、微妙な感じがするのではないでしょうか。
例えば、ルパンのフィアット(「カリオストロの城」でも印象に残る黄色いちっちゃい車です)を敵のハマーが追っかけるチェイスシーンが上げられます。
ここで石川五右衛門が斬鉄剣を抜くわけです。
アニメだったら、ハマーはまっ二つになっているでしょう。
三池監督が演出していても、まっ二つにするかな。
本作はハマーに飛び乗った五右衛門が斬鉄剣をエンジンに刺し、それによってハマーは宙を舞います。
リアリズムにこだわった見方をすると、刀刺して車が飛ぶってどういうこと!ってなります。
「ダークナイト」でも大きなトレーラーが宙を舞ってますが、あれは張られたワイヤーにひっかかってトレーラーが飛ぶというようなシチュエーションが描かれていたと思います。
マンガ・アニメ的なアプローチであれば、やっぱりハマーをぶった切ってほしい。
そのどちらでもないから、どうもアクションシーンに爽快感がない。
このチェイスシーンは非常に不満。
フィアットをハマーにぶつけて、フィアットの方が無事だとはどうしても思えない。
マンガだからっていうのならそれでもいいですが、他のところはリアリティ重視で作っていたりするから何か気持ち悪い。
その他のアクションシーンもスローモーションと細かいカット割りを駆使して一見凄そうに見えるのですが、実はあまり大したことはしていないのですよね。
車のチェイスシーンはカット割りを駆使しても、しょぼさがぬぐい去れ切れなかったですし。

この作品、キャストが国際的なので、日本語と外国語がちゃんぽんになっているんですかな。
外国人のところは外国語に日本語を吹き替えているので、口と言葉が合っていないのはわかるのですが、
日本人キャストの日本語のところも微妙に合っていないところがあって、とっても気になりました。
演技のテンションと、セリフのテンションが違うところもいくつかあったように思います。
ディテールかもしれませんが、これけっこう大事なところだと思うのですよね。
ちゃんと気を使ってほしいと思いました。

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2014年8月24日 (日)

「マダム・イン・ニューヨーク」 May I ?

実は海外に行くのがすごく苦手。
世界遺産とかいろんなところを見てみたいとは思いますが、言葉が通じない環境に行くのが恐かったりします。
実際、仕事でやむなく海外行くことはありますけれど、プライベートで海外旅行をしたことはないのです。
とはいえ仕事で行かねばならないことはあるので、仕方なく行きますが、ひとりで現地まで行く時のドキドキったら。
まさに本作で一人でニューヨークに行かされるシャシの気持ち、よ〜くわかります。
空港やお店でのやりとりとかいちいちドキマギしちゃいますもんね。
海外好きの方からすれば「それも醍醐味!」と言われそうですけれど・・・。

さて、本作はお料理はとても得意だけれどそれ以外は普通のインド人の主婦シャシが、ひょんなことからニューヨークに一人で行かなければいけなくなり、そこでの体験を描いています。
しかし、ただの主婦のニューヨーク探検記という内容ではありません。
シャシは良き妻であり、良き母親であろうと一家を支えてきました。
そのこと自体はシャシも望んでいたことで、そうありたいという姿であったと思います。
けれど、夫は愛情深くはありますが、仕事に忙しいために家庭のことはほとんどシャシに任せっきり。
またインターナショナルスクールに通う娘は、母親と対立しやすい年頃で、英語を話せないシャシのことをバカにしているようなことも言います。
良き妻であり、良き母親であろうとがんばっているのに、家族は自分のことを尊敬してくれていない。
ただの「妻」、ただの「母親」という役割の人、としか見てくれてないのではないのか。
インドだけでなくってこれは世界のどこでも女性に共通する悩みなのでしょうね。
ニューヨークを訪れたシャシですが、英語を話せないことでいろいろとトラブルに合いますけれど、一念発起して英会話スクールに入学します。
そこには同じように英語を学びたいと考えている、世界各地出身の性別も年齢も様々な人々がいました。
彼らは、シャシのことをただの「妻」、ただの「母親」という役割の人としてではなく、シャシという個性のある一人の個人として彼女を見てくれました。
彼らは片言ながらも自分の気持ちを伝えようとがんばり、お互いにコミュニケーションをとっていく。
そのことによって自分のことが、相手に伝わっていきます。
他の人ではない自分を相手に理解をしてもらえていくんですね。
シャシは他の生徒といっしょに学ぶことにより、英語だけでなく自分のことをしっかり相手にわかってもらうように伝えることを学んでいるようにも見えました。
最後の結婚式の場面。
シャシにスピーチをしてもらおうと声がかかりますが、夫は妻は英語が話せないからと断ろうとします。
けれどシャシは、「May I?」と言い、立ち上がります。
そして彼女は英語で凛として新郎新婦にお祝いの言葉を述べるのです。
家族は彼女が英語を話すということに驚いただけではなく、いつも「妻」「母親」という役割としてしか見ていなかったシャシが自分の気持ちを自分の言葉で堂々と話すことにも驚いたのではないでしょうか。
夫も娘もいかに自分の妻や母親の気持ちがわかっていなかったに気づいたのでしょう。
そしてまた、自信をもってスピーチをする彼女の姿に誇らしさを感じたに違いありません。
自分の妻、自分の母親は、素晴らしい女性だと。

スクールの友人たちのキャラクター、それぞれよかったですよね。
特にデヴィッド先生はGood!
すごく善良さを感じるキャラクターで、シャシが伸び伸びと学ぶことができたのは彼のおかげではないかと。
シャシやローランが、自分のほんとの気持ちを伝えたいけれど、伝わってもほしくもないという微妙な気持ちの時、相手がわからない母国語で話すというシチュエーションがありましたけれど、ここがけっこう好き。
なんかわかるなって。

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2014年8月16日 (土)

「トランスフォーマー/ロストエイジ」  腹十分目

もうお腹いっぱいです。
分厚いステーキをモリモリ食べた後に、満漢全席を食べたような感じ。
人気シリーズ「トランスフォーマー」の4作目ですが、人間の方の出演者は一新されています。
物語としては連続性がありますが、新たな再スタートというところでしょうか。
前3作よりは多少ドラマ性が出ている感じもしますが、そこはマイケル・ベイ、次から次へと派手なロボットアクションを繰り出してくるので、お腹いっぱいな気分になります。
また再スタートということにもなり、わかりやすいオートボットVSディセプティコンという構図ではなく、オートボットと対立するのは人間、さらにはバウンティハンターのトランスフォーマー、また復活しそうなメガトロンが絡んでくるので、物語も複雑化。
それらを説明してくるので、前半はやや冗長気味。
さらにはドラマも今までよりも描こうとしているようなので、全体的に尺が長い。
そこに容赦なく派手なアクションも惜しみなく入れてくるので、腹十分目な感じなのですね。
予告で盛んに取り上げられていた恐竜型のトランスフォーマー、ダイナボットですが、最後の決戦のときに突然登場してきて、割とあっさりとオートボット側についてくれます。
今回はダイナボットがストーリーに深く絡むのかなと思っていたので、ちょっと拍子抜けです。
このシリーズは、シリーズを続けるために物語がインフレーションしてきていますよね。
少年ジャンプのマンガのように、続けるために話がでかくなり、新たな秘密がわかってくるといったような。
恐竜を滅ぼしたのは、隕石ではなくエイリアンであったというのを冒頭描いていましたが、あのエイリアンは結局なんであったのだろう?
あれがオプティマスプライムたちの「創造者」?
「創造者」って設定が突然で出てきたのは、シリーズを続けていくためのもので、このあたりにもジャンプ的なインフレーションを感じました。
ラスト、次回作作る気満々な終わり方でしたね。
次回はオプティマスプライムが宇宙で「創造者」たちと出会うという話になるのか?
それともメガトロン改め、甦ったガルヴァトロンとオートボットたちの新たな戦いを描くストーリーになるのか?
次もマイケル・ベイが撮るんでしょうね。
山田洋次監督の寅さんシリーズのようになってきた。

前作「トランスフォーマー/ダークサイド・ムーン」の記事はこちら→

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2014年8月15日 (金)

「渇き。」 ブラックホールのような少女

ブラックホールは空間を歪め、それに引き寄せられたものが事象の地平面を越えれば光ですらその重力から脱出できない。
事象の地平面を越えたその先は通常の物理法則では説明できない世界があるのだろう。
加奈子はまるでブラックホールのような少女だ。
人を惹き付け、引き寄せ、そして闇の世界に呑み込んでいく。
彼女に見入られた人間は、彼らが従っているルールを無効にさせられ、そして自らの世界を崩壊させてしまう。
まるでブラックホールに呑み込まれる物質が崩壊していくように。
人間が社会を築いていくには、ルールがある。
それは法律であったり、倫理であったりする。
「人を殺してはいけません」。
「未成年としてはいけません」。
明文化されているもの、暗黙的なものだったりするが、それを守ろうとするということで、社会という秩序が保たれている。
しかし、そのルールを加奈子はたやすく壊す。
加奈子は直接自らの手で人を殺す、ということはしていない。
けれども人の心にあるルールを囁き一つで破壊し、そしてそれによってその人間が自己崩壊させるのだ。
この映画に登場する警察も、ヤクザも、狂っていると言えるが、彼らなりのルールに従ってはいる。
加奈子はそれにすら囚われない。
自分たち流のルール(それは一般市民から見れば十分に狂っているルールだとしても)すら崩壊させられるという危機感、というより根源的な恐怖感から、警察もヤクザも必死になって加奈子を追うのだ。
ブラックホールを消滅させなければ。
自分たちの社会(コミュニティ)が崩壊する。
そういった恐怖。
主人公藤島が感じたのも同じような恐怖かもしれない。
娘である加奈子に「愛してる」と囁かれた、あのとき。
藤島は自己が崩壊する恐怖を感じたに違いない。
だから彼は逃げ出した。
ブラックホールから。
しかし、その重力はいくら離れても、時間が経ってもなくなることはなかったのだろう。
加奈子の失踪を機に、藤島を捉えるその重力はいっそう増していく。
重力に引き寄せられ、落ちていく。
堕ちていく。
会ったら俺がぶっ殺す!と藤島は言う。
この言葉にはどうしても惹き付けられてしまう気持ちと、それに危険を感じる気持ちのせめぎ合いを感じる。
求めてはいけないものを求めてしまう。
しかし決して手に入れることはない。
藤島はずっと「渇き」を感じるのであろうか。
「下へ下へどんどん落ちていきました」
加奈子は「不思議の国のアリス」が愛読書であった。
彼女もずっと落ちていく感覚をもっていたのだろうか。
どんどん落ちていく中で、自分に引きづられて、人が次々と落ちていくのを、加奈子をどう見ていたのだろう。

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2014年8月13日 (水)

「複製された男」 うーむ、歯が立ちません

最近まで公開していた「プリズナーズ」のドゥニ・ビルヌーブ監督作品。
この監督の作品は「プリズナーズ」しか観ていないのですが、予告がサスペンスフルな感じがして、この作品にも興味を持ちました。

歴史教師アダムはあるとき知人に勧められて、ある映画のDVDを観ますが、そこに自分を瓜二つの男を発見します。
気になって調べると、彼は俳優であるアンソニーという男であり、アダムは彼に連絡をとることとなります。
互いに存在が気になる彼らは、とうとう会ってみますが、顔がそっくりなだけではなくお腹にある傷まで同じようにあることに衝撃を受けます。
同一人物かのような二人。
この二人の運命は交錯し、そして・・・。

<最後のほうはネタバレ的なので、注意です>

うーむ、さっぱりわからない。
ドゥニ・ビルヌーブ監督は「プリズナーズ」でも象徴的なアイテムやメタファーを使っていましたが、あちらはハリウッドのメジャー映画ということでまだ説明が親切。
本作はアダムとアンソニーという同一人物のような男が存在していることについて説明はいっさいなし。
邦題は「複製された男」なので、誰か複製した人(人かどうかわからんが)がいそうな感じがしますが、原題は「Enemy」なので、そこからはそういうニュアンスは感じられません。
双子なのか、クローンなのか、SFなのか超常現象なのか、普通の映画はなにかしら説明があるものですけれど。
この二人が存在しているということ自体がなにかのメタファーなのかと思ってみたりもしたのですが、明確に答えが解けません(そもそも解けるというより、感じる映画なのかな)。
うーむ。
象徴的と言えば、この作品でのそれは「蜘蛛」。
僕がわかったところでいうと、最初のほうの秘密クラブ的なところで、蜘蛛は女性に踏まれそうになっていました。
そして夢だか、メタファーなのかわからないですけれど、ビルをまたぐように歩く巨大蜘蛛。
そして最後のアレです。
蜘蛛は何かを象徴しているはずなのですけれど、ピタッと答えが解けません。
ひとつだけ僕が思ったのは蜘蛛は女性の象徴なのかな?ということ。
最後のシーンで、アダムが、アンソニーの妻であるヘレンと一夜を過ごした後、彼女の部屋の扉を開けるとそこには人ほどの大きさの蜘蛛がいます。
ストレートに考えれば、ヘレン=蜘蛛なのですけれど。
確かにヘレンと蜘蛛は共通点があります。
ヘレンは妊娠中ということで大きなお腹をしています。
妊娠している彼女のヌードが何カ所か写し出される場面がありますが、お腹がぽっこりしているところが、蜘蛛のお腹がぽっこりしているところと同じようなシルエットに見えるのですね(特に最後のほうでのシャワールームの曇りガラス越しのシルエットが)。
だから、なんだ?ということなのですけれど。
「蜘蛛の子を散らすように」という表現があるように、蜘蛛は一度にたくさんの子供を産みます。
ヘレン=蜘蛛は、もしかしてたくさんのアンソニーの子供(コピー)を産むのでは・・・。
その蜘蛛の子の一人がアダム???
そうすると初めてヘレンがアダムに会って驚くシーンの説明がつかないのですけれどね・・・。

ここまで書いてきて、ひとつ思いついたことが。
さらに考えていくと・・・。
最初の秘密クラブ的なシーンの場面。
明確に写し出されていませんが、ここではかなり性的に倒錯的なことが行われ、それを変態的な男どもが観ているという様子でした。
ここでは妊娠シーンを見せているのでは。
そこではヘレン=蜘蛛が、蜘蛛の子(アンソニーのコピー)を産み出す(それを変態男たちは観る)。
そしてその蜘蛛の子は産んだ女によってすべて踏みつぶされて殺される。
しかし、一匹だけそれを逃れた蜘蛛の子がいて。
それがアダムになった・・・。
全部殺したはずなのに、生きていたからヘレン=蜘蛛は驚いたってことだったりして。

いろいろ描いてきましたが、やっぱり、うーむ・・・。
歯が立ちません・・・。

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2014年8月10日 (日)

「STAND BY ME ドラえもん」 ドラ泣き

「ドラえもん」というマンガは今の自分の趣味志向やらなにやらを決定づけた作品と言っても過言はありません。
この作品の中でのび太たちがタイムマシンで行った過去の時代、またどこでもドアで出かける世界各地(それどころか宇宙や深海まで)のことが、自分の歴史や科学への興味に繋がったと思っています。
「ドラえもん」を読んだときに感じたワクワクとした気持ちが、いろんなこと知りたいという気持ちになっていたのかなと。
どれだけ好きだったかというと、小学生の頃、マンガの描き方なども知らないままに無地ノートに細いペンで手描きで「ドラえもん」を一コマ一コマひたすら模写していたんですよね。
スクリーントーンなんてものも知らなかったので、点々も全部手で描いて(!)。
今でも藤子先生のタッチでドラえもんは何も見ずに描くことができます。
あと小学生の時に始まったアニメ(6:50からのやつ)を、テレビの前にカセットテープレコーダーを置いて毎日録音(!)してました。
その頃はまだビデオなんてものはなかったので。
さすがに小学校高学年ともなると自然と離れてしまいましたが、それでも「ドラえもん」は特別な存在でした。
「ドラえもん」を読んで将来は漫画家になると思って落書きをしていた小学生時代、マンガからアニメに興味が映ったのは中学生時代、そして映画へと興味が広がったのが高校生時代。
さすがに漫画家や映画監督などになるなんて才能はないのは大人になる過程で気づきましたが、結局仕事はデザインや広告関係の仕事なので、「ドラえもん」で絵や映像に興味をもったのが原点とも言えなくもありません。

さて今回の映画化ですが、毎年恒例のアニメとは異なり3DCGで描かれた初の「ドラえもん」となります。
それだけだとさすがに観に行く気にはならなかったのですが、監督は山崎貴&八木竜一さんということで興味がでてきました。
また予告でも出ていましたが、エピソードとして取り上げられるのは「ドラえもん」の中でも最も泣ける「さようなら、ドラえもん」(ドラえもんが未来に帰っちゃう話)だということで気になりました。
本作の宣伝コピーが「ドラ泣き」というものですが、このエピソードであれば絶対泣けますよね。
久しぶりに劇場で泣いてみようと行ってきました。
心配だったのは、原作の名作中の名作と言われるエピソード、泣けなくない作品になっていたらということ。
そのまま原作通りに描いてくれれば絶対泣ける。
変なアレンジ等しないでくれ・・・と。
そのあたり監督はわかっていてくれていたようで、いくつかのエピソードをあわせて作られた作品ですが、そのエピソードの一番良いところはほとんど改変されていません。
エピソードとエピソードのつなぎも上手く作っていたかなと。
マンガを何度も読んで記憶に刻まれている印象的なコマについても、ほとんどアングルやセリフはそのままでしたしね。
「ぼくだけの力で勝たないと、ドラえもんが安心して帰れないんだ!」
やっぱり泣けます、こののび太のセリフ。
疲れて寝ているのび太を、涙を流しながら見守っているドラえもんの姿も泣けます。
てんとう虫コミックスの6巻の最後でこの話を読んだとき、小学生のときやっぱり泣きましたね。
その他にも取り上げられているのはのび太としずかちゃんの結婚前夜のエピソードなどです。
この話のしずかちゃんのパパの言葉も泣ける・・・。
僕の子供の頃のアニメの「ドラえもん」の声優といったら大山のぶ代さんや小原乃梨子の印象が強いので、新しくなったメンバー(新しくなってから観たことなかった)に馴染めるか少々心配でしたが、それほど違和感ありませんでした。

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2014年8月 3日 (日)

「マレフィセント」 真実の愛などない

多くの人が知っているディズニー作品「眠れる森の美女」。
それを大胆にアレンジし、オーロラ姫に呪いをかけるマレフィセントを主人公にし、新しい物語を紡いだのがこちらの作品「マレフィセント」です。
昔々、互いに仲が悪い二つの国、人間の国と、妖精の国ムーアという二つの国がありました。
ある日、ムーア国の妖精の少女マレフィセントは、人間の少年ステファンと出会い、そしてお互いに恋に落ちます。
年月が過ぎ、二人は成長していきますが、ステファンの心はマレフィセントから己の野望のほうへ動いていきます。
そしてステファンは王位を譲り受けるために、その頃ムーアを率いる妖精となっていたマレフィセントを騙し、彼女の大切な翼を奪ってしまいました。
ステファンはその功績により、王国を継ぎ、王となります。
彼の裏切りにマレフィセントは哀しみ、そして怒り、やがてその恨みを彼とその家族へと向かわせます。
そうステファンの娘、オーロラ姫の誕生の祝いの場で、マレフィセントは彼女に呪いをかけるのです。
「16歳の誕生日の日没までに、永遠の眠りにつくであろう」と。
そして「誰もそれを止められない」と。
マレフィセントは自然や生き物を大切に愛する少女でありました。
しかしステファンの裏切りにより、その心はズタズタに引き裂かれてしまったのです。
マレフィセント自身も自分は以前の自分には戻れないと思ったでしょう。
「真実の愛などない」と彼女は言います。
自分も今後、誰かを本当に愛することはないだろうと。
呪いをかけられたオーロラ姫の成長をマレフィセントは影のように見つめています。
自分の呪いによりいずれ永遠の眠りにつく宿命にある娘を観察するというのは、最初は邪悪な好奇心だったかもしれません。
けれどオーロラ姫は、美しく、そして自然や生き物を愛する健やかな少女へと成長していきました。
その成長を見ているうちに、マレフィセントの中でいつしかその少女を愛する気持ちが湧いてきました。
もう枯れ果てていると思った愛情が、自分の中にあることにマレフィセントは戸惑っているようにも見えました。
やがてオーロラは16歳の誕生日を迎え、マレフィセント自身がかけた呪いの通り、彼女は永遠の眠りについてしまうのです。
マレフィセントはどんなに後悔したことでしょうか。
ひとときの哀しみや怒り、恨みで人は自分でも思いもよらないようなことを口走ってしまうことがあります。
そしてその言葉が人を傷つけてしまうことを知って、言ってしまったことを後悔をしてしまう。
その言葉を取り消そうとしたいと思っても、そういうことはできない。
まさにマレフィセントの呪いの言葉というのはそういったものだったのでしょう。
言ってしまったことは取り消せませんが、けれどそれによって自分や相手が受けてしまった傷は癒すことはできます。
自分が言ってしまったことを悔い、そして相手に誠実に対応することができれば。

オーロラ姫を演じたエル・ファニングが破壊的に可愛かったですね。
オーロラ姫という役柄は、マレフィセントの凍った心を解かすほどに、健やかで純粋でなければ説得力がありません。
その点においてエル・ファニングの笑顔というのは、誰が見ても、それを見るだけで自分も微笑んでしまいたくなるような健やかさがありました。

ディズニーのプリンセスものでしばしばでてくる「真実の愛」。
「眠りの森の美女」もそうですが、クラッシックな作品では男性による「真実の愛」により、プリンセスは命を救われます。
まさにそれが黄金のパターンとなっていたわけですが、最近のディズニーの作品は違います。
大ヒットしている「アナと雪の女王」も「真実の愛」がテーマとなっていましたが、それはプリンスとプリンセスの間のものではなく、姉と妹の間の愛でありました。
本作でも「真実の愛」はマレフィセントの自分の娘(のような)オーロラ姫への、母の愛として描かれています。
昔は、女性は守られる者、男性は守る者。
または女性は愛される者、男性は愛される者というのが皆の認識だったんですよね。
けれど今は女性は愛される者でもあり、愛する者でもあります。
女性がより自分の生き方を積極的に歩んでいこうとしている今の時代のトレンドをディズニーの作品は反映しているのでしょうね。
それにしても、男性キャラクターがふがいないことと言ったら・・・。
これも今の時代を反映しているってことですかね・・・。

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「るろうに剣心 京都大火編」 評価は後編を観終えてから

前作「るろうに剣心」を初めて観たときは、素直に興奮しました。
大友啓史監督の実力は「ハゲタカ」や「龍馬伝」等の作品で認識していたし、佐藤健という役者のうまさもわかっていましたが、予想を越えるエンターテイメントに仕上がっていたのです。
まさに新次元の時代劇という感じでした。
コミック原作の映画でありがちなただ映像を完コピするだけいう作品ではなく、人物のありようや佇まいについてはリアリティも持ちつつ、もちろんフィクションならではの表現(特にアクションシーン等)を兼ね備えるという絶妙なバランス加減。
その続編が作られるということでわくわくする気持ちで待っていました。
実は前作を観賞した時は、原作コミックは読んだことがありませんでした。
その後、コミックを読み始め、京都編をすぎて剣心の過去が明かされる物語に入ったところです。
コミックを読んでみると、前作はコミックで描かれている要素(エピソードや登場人物など)について、映画として見せるためにわりとかなり大胆にカットしたり変えたりしているなと思いました。
しかしながら「るろうに剣心」という作品のテーマは変えられている訳ではなく、シンプルに上手に整理されています。
これはコミックのエピソードの中でもテーマの視点から重要というものを選び、的確にフォーカスしているように見えました。
前作の場合はそのため四之森蒼紫という人気キャラクターをあえて削るという大胆なことをしています。
続く今回の作品はコミックでいう「京都編」を題材にし、「京都大火編」「伝説の最後編」の2部作になっています。
コミックも京都編はかなりのボリュームなので、2部作になるのは致し方ないかなと。
本作もコミックのエピソードの中で重要なものにフォーカスしていき組み立てていくという考え方で作っていると思います。
しかし、いかんせん登場人物が非常に多く、描写がやや慌ただしく、深掘りし切れていない感があります。
ただ本作は2部作の全編なので、まだ導入と考えられますので、その点の評価については次作を待ちたいと思います。
アクションシーンは前作の流れをくみ、スピード感溢れるアクロバティックな剣劇が堪能できます。
見応えあったのは剣心と今回登場の新キャラクターである瀬田宗次郎の一騎打ちのシーン。
コミックでは宗次郎は剣心をしのぐスピードを持つ剣客という設定でしたが、まさにそれが感じられるシーン。
演じる神木隆之介さんも宗次郎のイメージにぴったりでしたね。
けれどここのシーンはもうちょっと長く観たかった。
他にも剣心が訪れる村での場面、ラストの京都の乱戦などアクションシーンはいくつかあるのですが、もいうちょっと観たいという気分になりました。
ま、それも後編までお預けということでしょうか。
そういうことでいうと、前編である本作は前作を観終わって感じたカタルシスのようなところまでは感じられません。
やはり評価は後編を観てからということになりますね。
僕が好きだったシーンは剣心と十本刀の一人、張との戦いのシーン。
逆刃刀を宗次郎に折られてしまった剣心は、新たな刀を得るため逆刃刀の鍛冶のもとを訪れます。
しかしそれを手にする前に戦いとなり、剣心は刀の鞘だけで張の刀を受けます。
戦いの最中で鍛冶の息子、青心から新たな刀を受け取りますが、追い込まれた張は青心の息子を手にかけようとします。
神速で剣心は抜刀し、張を切る。
ちょうどそのとき剣心を追って京都を訪れていた薫がその場にやってきます。
今まさに剣心が刀を抜いたとき、薫は「剣心止めて!」と叫ぶ。
張はどうと倒れますが、彼は斬られたわけではありませんでした。
青心が渡した刀はもう一つの逆刃刀、逆刃刀真打であったのです。
剣心は逆刃刀を手に持ち、薫の前を過ぎ立ち去っていきます。
まさに打ちひしがれたかのように。
前作において、剣心は、薫が自分の命を落としてでも剣心の信条である「不殺誓」を守ってもらおうとしたことを知っています。
だからこそ剣心は自分が二度と人を殺すために刀を抜かぬ、と改めて誓ったのだと思います。
しかし、張が赤子に刀を振り下ろそうとした時、確かに剣心は人を斬るために刀を抜いた。
それがたまたま逆刃刀であったから斬らなかっただけ。
己が命に代えても守ろうとした信条を、怒りで自ら破ってしまった。
それを自分の命に替えてもその誓いを守らせようしていれた人の目の前で。
剣心は己を恥じたのでしょう。
そういった心情がわかるシーンで、この場面が好きなのですよね。
剣心は新時代のため、人の幸せのためにと人を斬ってきましたが、それとは裏腹に結果としては誰かを不幸にしているということに気づき、二度と人を斬らぬと「不殺誓」をたてました。
しかし悪を行う者がいたとき、人々を守るために戦わなければいけないときがある。
そのとき刀を抜くのか。
人を斬るのか。
正義のためと人を斬ったとき、誰かを不幸にしてきたのではないか。
人を守るために斬るのか。
人を守らないために斬らないのか。
その葛藤の物語なんですよね、「るろうに剣心」は。
後編ではそこにしっかり切り込んだ物語を描いてもらいたいと思います。

最後の最後に、「謎の男」としてなんと福山雅治さんが登場!
ちょっとびっくり。
「謎の男」としてエンドロールにはでてましたが、これは剣心の師匠、比古清十郎かな。
福山雅治さんといえば「龍馬伝」の坂本龍馬。
前作の「るろうに剣心」の記事の時は、同じ佐藤健さんが演じたということもあり、剣心と「龍馬伝」の岡田以蔵の類似性について書きましたが、「龍馬伝」のキャストが続々本シリーズに登場しますね。
「龍馬伝」では前作から引き続きの左之助の青木崇高さんは後藤象二郎を、今回の翁役の田中泯さんは吉田東洋を、四乃森蒼紫役の伊勢谷友介さんは高杉晋作を演じていました。
両作品とも音楽も佐藤直紀さんで同じで、曲の世界観に共通性を感じます。
「るろうに剣心」は「龍馬伝」のその後、っていうイメージもありますね。

前作「るろうに剣心」の記事はこちら→

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