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2014年7月27日 (日)

「GODZILLA ゴジラ(2014)」 ゴジラっていうよりガメラな感じ

海外で「ゴジラ」が映画化されるのは、ローランド・エメリヒッヒが監督した1998年の「GODZILLA」に続いて2回目。
あの作品を観たときは(悪い意味で)衝撃を受けました。
「ジュラシック・パーク」と「エイリアン」を足して2で割ったこれはなんなんだ!
こんなの「ゴジラ」じゃないやい、と思ったのですよね。
そのトラウマがあったので、今回の作品もあまり期待はしないようにしていました。
とはいえ、1年前くらいから宣伝していたくらい、東宝は入れ込んでいたように思えたので、それほどひどくもないのかも、とも思ったりして。
なんだかんだと特撮好きですので、公開してすぐに観に行ってしまいました。
感想としてはエメリッヒ版よりは全然いい感じ。
かといってすごくいいかというと微妙・・・。
ま、平成ゴジラも個人的にはすごくいいと思える作品はないので、アメリカだから悪いということではないのですけれど。

エメリッヒ版の「GODZILLA」は、完全に人類の敵という存在でした。
敵と書きましたが、人類に害を及ぼそうという意図があるということではなくて、完全に生物としての本能を行使していることが人類に害をなしてしまったということですよね。
日本の初代の「ゴジラ」も人間の善悪とは関係ない存在でした。
しかしエメリッヒの「GODZILLA」とは異なり、生物というよりは人間が手出しができない天災、「荒ぶる神」のような存在であったと思います。
日本のゴジラは2作目以降は人類の味方的な要素が入ってきます。
今回の「GODZILLA ゴジラ」はそのようなセンスが入ってきていますね。
予告などでは全く触れられず、公開情報もかなり抑制されていたようですが、今回の「GODZILLA ゴジラ」には相手の怪獣が出るらしいというのは、ゴジラファンの方から聞いていたのです。
なので今回のゴジラはいいもんらしいという事前情報をもっての観賞でした。
観ていて思ったのは、「この話、『ゴジラ』っていうより『ガメラ』って感じだよね」でした。
「平成ガメラ」と呼ばれる金子修介監督の「ガメラ」シリーズは、エポックな作品でした。
怪獣映画と呼ばれていたころ、ゴジラやガメラは子供たちの味方、といった印象が強く、子供向けのプログラムと思われていました。
しかし「平成ガメラ」は怪獣映画に大人の観賞に耐えられるリアリティを持ち込み、それでいて「ガメラは人類の味方」という極めてファンタジーな設定も、両立させていたんですよね。
エメリッヒの「GODZILLA」はリアリティの部分のみを重視したため、怪獣映画が持つファンタジーさがなくなってしまい、「ゴジラ」ではなくなったような気がしています。
その点、本作はリアリティとファンタジーのバランスをとろうとしている意志を感じますね。
ただやはり「平成ガメラ」とストーリーラインが似ているのが気になりました。
人類に凶悪な怪獣(ギャオスやレギオン)が襲いかかり、地球がバランスをとるためにガメラという存在を送り怪獣と戦わせる。
本作のGODZILLAも自然がバランスをとるために存在させていると芹沢(!)博士が言っていましたが、「平成ガメラ」と同じような印象を受けたのですね。
今回敵となる怪獣ムートーの造形が、ギャオスとレギオンを掛け合わせたようなビジュアルであったのも「ガメラ」を想起したことに繋がっているかもしれません。
「ガメラ」に似てるなと思った時に、やはり「ガメラ」の初見のときの印象が強く残っていたため、それを越えるものではないなと感じたのです。
さきほどのリアリティとファンタジーのバランスですが、「ガメラ」は本作に比べるとよりファンタジーの要素が強いですよね。

本作は放射熱線をちゃんとやってくれたのが嬉しかったです。
非現実的であろうと、あれがないとゴジラじゃないんで。

あと本作を観て思ったことを。
本作も、エメリッヒの「GODZILLA」も、「クローバーフィールド」も、「パシフィック・リム」も、アメリカの怪獣が出る映画ってなんでいつも夜なんでしょ?
シーンが暗いから、どの作品も怪獣の姿がはっきりしないのですよね。
今回のGODZILLAもしっかり全身見えるの少なかったですし。
やっぱり欧米人は巨大生物が街中をのっしのっし歩くことにリアリティが感じられず、クッキリ見えるのを嫌がるのかな。
怪獣ファンとしては、怪獣の姿をハッキリ見たいので日中のシーンもやってほしいです。

エメリッヒ版「GODZILLA」のレビューはこちら→
初代の「ゴジラ(1954)」の記事はこちら→

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「烈車戦隊トッキュウジャー THE MOVIE ギャラクシーラインSOS」 作品のテーマを簡潔に言い得ている

夏のスーパー戦隊の劇場版は30分程度の上映時間と、テレビ本編とそれほど変わらない尺になっています。
ですので劇場版らしいイベント感を出すのに毎回苦労されているようですが、今回の作品はイベント感もあり、さらには「トッキュウジャー」のテーマなどもうまく織り込めた作品に仕上がっているように感じました。
「烈車戦隊トッキュウジャー」の主人公たちは”レインボーライン”という列車にのって旅をしています。
この”レインボーライン”というものは人のイマジネーション(想像力)をエネルギーにして運行している列車のため、想像力を失ってしまった大人たちには見えず、子供たちにだけ見えるという設定です(トッキュウジャーのメンバー、ライトたちのように成長してもイマジネーションを失っていない人には見えます)。
劇場版では”レインボーライン”の路線の一つ、宇宙を運行する”ギャラクシーライン”が登場します。
”ギャラクシーライン”を走るサファリレッシャーは敵である”シャドーライン”に撃墜され、地球に不時着しますが、宇宙に帰るエネルギーが得られません。
それは地球の人々がイマジネーションを失ってしまったからだとサファリレッシャーの車掌レディは考えます。
そもそも”ギャラクシーライン”は60年代、人類が宇宙へ夢と希望を持っていた時代、人々が宇宙へのイマジネーションの翼を広げていた時代にできました。
アポロ計画や宇宙ステーションなど確かにあの時代は、宇宙に対して人類は夢を持っていた時代でした。
しかし、その後冷戦の終結や世界経済の低迷などもあり、急速に宇宙への感心は減っていきます。
内向きの時代になっていったのですね。
地上に降りたレディは人々を見て、「上を見上げていない、みんな下ばかりを見ている、人間はイマジネーションを失ってしまった」と言います。
しかしライトは人はイマジネーションを失ってはいないと言い、彼が立てた作戦をきっかけに人々は”ギャラクシーライン”を目にすることができ、その想像力がサファリレッシャーに力を与え、宇宙に旅出させることができたのです。
今回の劇場版は現代がかかえる鬱屈さ(下ばかりを見ているというセリフに象徴される)に触れつつも、人間のイマジネーション(想像力)、可能性について非常にポジティブに描いているという点で、「烈車戦隊トッキュウジャー」という作品のテーマを端的に描いた良作だと思いました。
さすが小林靖子さんです。

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2014年7月26日 (土)

「劇場版 仮面ライダー鎧武 サッカー大決戦! 黄金の果実争奪杯!」 サッカーというお題は当てが外れたか・・・

恒例となっている夏の仮面ライダー劇場版、今年は「劇場版 仮面ライダー鎧武 サッカー大決戦! 黄金の果実争奪杯!」です(相変わらずタイトル長いな〜)。
夏の仮面ライダーの劇場版は、出来不出来がハッキリ出てくる印象があります。
平成ライダー第二期では、個人的には「W」「フォーゼ」が出来が良く、「オーズ」「ウィザード」は出来が良くないと思っています。
今回の「鎧武」は残念ながら出来が良くないほうでしょうか。
うまくいってない作品に共通しているのが、主人公たちがなんらかの原因で本編の世界とは別の異世界での物語になっていることです。
第二期の平成ライダーの本編は秋にスタートして夏に終わるという展開なので、丁度夏の映画をやっているときに本編はクライマックス直前になっています。
ですので、本編に関わる物語は作りにくいと思われるので、異世界などを舞台にして番外編的に扱う方法がとられるのだと思います。
ただそうした場合、映画のあらたな世界観のぶん情報量が増えるので、それほど長くない尺の中で物語もキャラクター(レギュラーも劇場版キャラも)の描き方が薄くなりがちになります。
そうなると馴染みのなさからくる違和感と、忙しい印象ばかりが残る作品煮なる感じがするのですよね。
「W」と「フォーゼ」がうまくいっているのは、世界観もレギュラーキャラも本編と同じですので、そこに新たに説明がいる必要はなく、本編の延長線で映画版としてスケールアップさせることができたからだと思われます。
「鎧武」については本編も相当な情報量(主要なキャラクターの量の多さ、アイテムなどギミックの多さ)であるのに加え、今回は「サッカー」というお題まで入っているので、かなりまとめるのがたいへんだったのではないかと感じました。
「サッカー」というお題は、今年はワールドカップイヤーだったということもあったのだと思いますが、日本の成績が芳しくなかったことから世間的にも盛り上がりが欠けた中での、本作の公開であったため、当てが外れた感はあります。
割と東映の特撮作品は、公開される時に世間で盛り上がりそうなネタを題材に上手に選ぶことが巧みだと思うのですが、今回は勘が上手く働かなかった感じですかね〜。

平成ライダーの夏の劇場版は次のライダーがチラッと出てくるのが恒例だったので、何か出てくるかなと思いましたがなかったですね。
秋の映画のティーザーは流れましたが、文字だけだったですし。
「鎧武」からオンエア開始時期が9月→10月になったから、7月だと情報解禁だと早いということですかね。

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2014年7月20日 (日)

「思い出のマーニー」 鬱々としたトーンに戸惑った

「借りぐらしのアリエッティ」で監督デビューし、宮崎駿さんが引退した今、スタジオジブリのホープとも言うべき米林宏昌監督の第二作目の監督作品です。
「アリエッティ」は初監督作品とは思えないほどの生き生きとした描写が印象的でしたので、こちらの作品も期待して観に行ってきました。
主人公杏奈は喘息を患い、夏休みを空気がきれいな土地で過ごすべく根室のとある湿地帯のそばにある村を訪れます。
杏奈は幼い頃両親を失い育ての親に引き取られ育てられました。
そのせいか、周囲の人々ととうまくやっていくことができない少女だったのです。
杏奈は自分自身が周囲に受けられていないという思いを持っていて、そしてそういうことを恨みがましく感じてクヨクヨする自分も大嫌いだと思っていました。
周囲や自分自身に何かモヤモヤとした不満を持つということは10代には、多くの人が経験したことではないでしょうか。
年をとっていくとそういうことにも折り合いをつけて生きていく訳ですが、その頃の自分にとってはとてもたいへんな問題であったわけです。
そういうモヤモヤとした思いを表しているからか、本作は全体的なトーンとして鬱々とした雰囲気が漂っています。
杏奈が村にやってきて出会うマーニーという謎の少女の正体が終盤まではっきりとせず(だいたい想像はつきますが)、その謎解きの伏線みたいなものもモヤッとした感じなので、どうも湿気がこもったような感じがするのですね。
舞台となるのが湿地帯なので、そういった雰囲気も計算づくなのかもしれませんけれども。
「アリエッティ」は最近のアニメーションではあまり感じられなくなった溌剌としたトーンに好感を持ちましたが、ちょっとこの鬱々とした感じが意外でした。
最後には杏奈も様々な経験をして大人になり、またマーニーという少女の謎を明らかになり、お話としてはしスッキリするはずなのですが、どうもトーンとしては最後までスッキリした感じがしなかったのです。
前作で生き生きとした若さを感じていたので、ちょっと期待していた雰囲気と違い、戸惑いを感じました。

「借りぐらしのアリエッティ」の記事はこちら→

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2014年7月19日 (土)

「オール・ユー・ニード・イズ・キル」 日本発である訳

日本の同タイトルの小説を原作として、トム・クルーズ主演、ダグ・ライマン監督で映画化された作品です。
原作の小説は未読ですが、小畑健でコミカライズもされているようですね。
読んでみようかな。
日本の小説が原作ということですが、観てみて納得しました。
なるほど日本のサブカルチャーの要素が感じられる作品でした。
そのサブカルチャーとは、テレビゲーム。

地球はどこからともなく現れた”ギタイ”という侵略者による攻撃に晒されていました。
ヨーロッパは”ギタイ”によって占領されてしまいましたが、それに対抗する統合防衛軍がロンドンに本部を置き、ヨーロッパへの上陸作戦を敢行しようとしていました。
主人公ケイジはその上陸作戦に兵士として投入されました。
その作戦は敵の待ち伏せによって失敗、ケイジも命を落とします。
しかし・・・。
ケイジは敵の血をあびたことにより、タイムループの能力を身につけます。
彼は死ぬことにより、過去へタイムループしてしまうのです。
さらにケイジは過去に戻ったとき、死ぬまでの記憶を保持しています。
だから、彼は再び生きるとき、別のシナリオを選択することができるのです。
彼はその”経験”を活かし、兵士としてのスキルをアップし、そして謎の敵”ギタイ”の真実に迫っていきます。

死んでしまったら、ある時点に戻ってもう一度シナリオを繰り返す。
これはまさに「ドラクエ」に代表される日本のRPGを髣髴とさせます。
これらのRPGでは”セーブポイント”でそれまでの経験をセーブすれば、その後ゲームのシナリオを進んでいくなかでキャラクターが死んでも、”セーブポイント”の時点まで戻ります。
当然のことながら、プレイヤーである自分は死んだ”経験”を覚えているわけで、再びゲームのシナリオを進むにあたっては前回の轍を踏まないようにするわけです。
ゲームではたいへん親切なことにいわゆる”経験値”や”レベル”は保持されることが多いため、次の挑戦ではその前よりもクリアしやすくなっています。
まさにこれは本作の主人公ケイジの行動そのものですね。
ケイジが死ぬことを劇中では「リセット」と言いますが、まさにこれはこの作品がテレビゲームの影響を受けているということに他なりません。
状況が悪くなったとき、ケイジの相棒となるリタによって彼は「強制リセット」(つまりは殺される)される場面がしばしばあります。
これもまたRPGで、みなさん経験があるのではないでしょうか。
地下の迷宮で迷路にはまってどうしようもないとき。
戦ってもどうやっても勝てないモンスターに出会ったとき。
ブチッとファミコンのリセットボタンを押したことが。
まさにリタの「強制リセット」はこの行為を表していますね。
”経験”を積んだケイジが、”ギタイ”が襲いかかるタイミングをはかって、相手を見ずに銃を撃つシーンがあります。
これは「スーパーマリオ」などのゲームを思い出させました。
何度もゲームをやる中で、どのタイミングで敵キャラや仕掛けがでてくるとかを覚えてて、タイミングをはかって走ったりとかジャンプをしたりとかしましたよね。
まさにそういう感じ。
本作はテレビゲームという文化をベースにして作られた作品であるということができるかと思います。

同じことの繰り返しというとストーリー的にも画的にも単調になりそうにも思えるのですが、シナリオも演出もそれを避けるように工夫されていたため、たいへんおもしろく観ることができました。

<最後にちょっとネタバレ的な内容なので注意です>

最後のルーブル美術館でのバトル。
その前にケイジはタイムループの能力を失ってしまいます。
ですので、もう1回リセットができない状態になってしまっています。
ここでは昔の「ドラクエ」の最後の魔王の城に乗り込んで行く時の気分を思い出しました。
最近のRPGは親切で、ラストのダンジョンに入っても”セーブポイント”が多くあるので、気兼ねなく(?)乗り込むことができるわけですが、昔のゲームは魔王の城の中には”セーブポイント”がないことが多かったのです。
ですので乗り込む時の緊張感はすごくあって。
何時間もプレイしたのにその苦労が水の泡となってしまう苦い経験があります。
ケイジがルーブルに向かうとき、そのことを久しぶりに思い出しました。
まさにこれもテレビゲームっぽさを感じたところですね。

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2014年7月13日 (日)

「グランド・ブタペスト・ホテル」 失われたものへの郷愁

実はウェス・アンダーソンの作品を観るのはこの作品が初めて。
予告で豪華キャストであることを知って、観ようと思っていました。
なにか懐かしい感じのする作品ですね。
古いヨーロッパの映画のような。
最近のハリウッド映画の、手持ちカメラを使ったり、CGを使ったりで、カメラがガンガン動くのに慣れてしまったので、この作品のように落ち着いたカメラで撮っている作品はかえってとても新鮮に感じました。
この監督の作品はこういうテイストなのかな。
懐かしいテイストの作風なのでヨーロッパの監督かと思ったら、出身地はアメリカのテキサスなんですね。
けっこう意外・・・。

さて物語はというと。
物語の舞台となるのは架空の国、東欧のズブロフカ共和国にあるグランド・ブタペスト・ホテル。
この国の国民的作家がかつてこのホテルを訪れたとき、オーナー、ムスタファに聞いた話です。
ムスタファは毎年3回、このホテルに泊まりにくるのですが、彼が寝泊まりするのは最上階の使用人よりも狭い部屋。
彼がその狭い部屋に泊まるのは理由がありました・・・。
このお話は、もう失われてしまったものに対する郷愁がテーマなのでしょう。
ファシストに占領されて、失われてしまった国、ズブロフカ。
故郷で戦争が起こったため国を離れたムスタファを受け入れてくれた第二の故郷とも言える国です。
ムスタファの師匠とも言うべき伝説のコンシェルジュ、グスタヴ。
彼は新米ベルボーイのムスタファを手取り足取り教え、そして最後まで彼のことを守ってくれる人でした。
そしてムスタファが愛した女性、アガサ。
ムスタファは彼女と結婚しますが、あっけなく彼女は病気で死んでしまうのです。
ムスタファは彼が愛した人、国を失い、その後の人生をひとりで生きてきたのですね。
どんな人生であったのでしょう。
彼の人生の哀しさや寂しさのようなものはこの映画では語られません。
ムスタファが、作家に話すかつてのグランド・ブタペスト・ホテルの物語はなんとイキイキして語られることか。
ムスタファの思い出の中で、彼が愛した人々はずっとそのようなイキイキとした姿で残っていたのでしょうね。
彼はひとりホテルを訪れて、そのような日々を懐かしんできた人生を歩んできたのかもしれません。
やがて老いたとき、その話を聞いてくれる作家と出会い、自分が愛した人々、故郷を話すことができて嬉しかったのではないかなと思いました。

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「THE NEXT GENERATION パトレイバー 第3章」 太田莉奈さんに惚れる

実写版の「パトレイバー」の第3弾、「THE NEXT GENERATION パトレイバー 第3章」を観てきました。
このシリーズ、前回のレビューでも書いたように総監督の押井守さんのテイストが強く出ています。
episode4は特車二課近くのコンビニでの立てこもり事件の話。
似たような話、アニメ版でもなかったかな・・・?
実写版については、あのイングラムの実写が見れるということが映画を観ることのモチベーションでありました(今もそうですが)。
しかし、第1章、第2章と観てもうひとつモチベーションが。
それはカーシャ役の太田莉奈さんを観ること〜。
この方、もうたいへんに美しいですよね。
見るだけで眼福です。
今回のepisode4はカーシャが大活躍する話ですので、それだけで満足しました。
以前の回でもカーシャはAKを使った銃剣術のカタを見せていましたが、今回はその銃剣術を実戦で披露です。
銃剣術の動きというのはあまり見たことがなかったのですが、すごいものですね。
小銃を銃として、槍として、棒として、あらゆる使い方をする。
最後のキメはトンファーのように使ってトドメをさしていましたよね。
いや〜、カーシャの銃剣術はもう一度見たいです。
事件解決後の、タバコを吸っている姿もかっこいい。
惚れます。
episode5は「パトレイバー」シリーズではお馴染みの怪獣もの。
舞台となる熱海は監督の押井さんが住んでいるところです。
そして劇中やエンディングで出ていた犬のイラストはおそらく押井さんが飼っていた愛犬の絵だと思います。
確かそのワンちゃんは亡くなったと聞いています。
「パトレイバー」ネタとしては、劇中ラジオのパーソナリティーを務めていたのは声優の冨永みーなさんと古川登志夫さん。
これはオリジナルで泉野明、篠原遊馬を演じていたお二人です。

episode6は怪獣編の続き。
ガッ○もどきの怪獣が出てくるようですが、その正体は・・・?
イングラムVSガッ○の対決はあるのか・・・?
期待して待ちたいと思います。

「THE NEXT GENERATION パトレイバー 第2章」 の記事はこちら→

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2014年7月 6日 (日)

「トランセンデンス」 あまりに「神」過ぎる

人工知能を研究する天才科学者ウィルは、進化し過ぎる科学に危機を感じるテロリスト集団の凶弾に倒れます。
ウィルの妻、エヴリンは彼を失いたくないという気持ちから、彼の意識を量子コンピューターにアップロードします。
彼の肉体は死を迎えますが、コンピューターの中でウィルの意識は覚醒、そしてネットワークに繋がることにより自らの能力を自身が拡張していきます。
タイトルの「トランセンデンス」とは「超越」という意味らしいです。
本作でいう「トランセンデンス」とは「シンギュラリティ(技術的特異点)」のことを指しているとのこと。
「シンギュラリティ」とは、人類が開発した人工知能(もしくは人類から進化した超人類)が発達し、それによって人類の生物学的制約を越えた技術的進化が起こる時のことを言います。
「シンギュラリティ」以降の技術は、人類にとっては理解を超えたものとなるかもしれません。
本作を観ていたときは、自我をもったスーパーコンピューター(=ウィル)が行うことが、あまりに何でもあり(人間を操るとか、太陽光パネルを復活させてしまうとか)で都合がよすぎて、ちょっとバカバカしいと思いました。
量子コンピューター、ナノテクノロジーと今様な言葉を出していますが、なんでもありの方便に聞こえたんですよね。
コンピューターがやることっていうよりは、ここまでくると「魔法」だろう、あまりに「神」過ぎると。
それで映画を観た後に、「シンギュラリティ」のことをちょっと調べてみてわかったのが上に書いたことです。
「シンギュラリティ」以降の技術発展は、人類の生物学的制約を越えているので人類にとっては理解しがたい者である可能性があります。
そこで思い出したのが、「2001年宇宙の旅」の原作者であるSF作家アーサー・C・クラークの有名な言葉「充分に発達した科学技術は、魔法と見分けが付かない」でした。
理解できない者から見た新技術は、何でもありの「魔法」に見えるかもしれません。
もしくは「神の御技」に見えるかもしれません。
予告を観た時は「2001年宇宙の旅」や「ターミネーター」などの系譜の、自我を持ったコンピューターの人類への反乱といった物語かと思っていましたが(というより観た直後もそう思った)、「シンギュラリティ」のことを知ると本作はちょっと違って見えてきます。
とはいえ、物語としては「それはすべて愛だった」みたいな終わり方はちょっと陳腐で、また安易な感じもしたので、あまり評価はしません。

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2014年7月 5日 (土)

「青天の霹靂」 生かされていることを知る

<ネタバレしているのでご注意ください>

主人公、晴夫は売れないマジシャン。
彼は20年も場末のマジックバーで働いていますが、後輩にも追い抜かれてバカにされ、みじめさを感じながら日々悶々と生きていました。
彼は生まれてすぐに母親に捨てられ、いい加減な父親に育てられましたが、高校を卒業してすぐに家を飛び出し、それからずっと一人で暮らし。
彼は自分のみじめな人生は、自分を捨てた母、どうしようもない父のせいだと思っていました。
そんなとき、彼に警察から連絡が入り、ホームレスであった父親が亡くなったとの知らせを受けたのです。
父親のお骨を抱きながら、彼のダンボールハウスを訪れたとき、晴夫が見つけたのは若き父が赤ん坊だった自分を抱いている写真でした。
自分のことなど気にしていないと思っていた父親の思いに触れた、晴夫の心には自分でもよく整理ができない「後悔」のような思いがわき上がったのでしょう。
そんなとき。
彼を青天の霹靂が直撃します。
目が覚めたとき、晴夫はなんと昭和48年にタイムスリップしていました。
それは晴夫が生まれた年。
そして晴夫は若き父と母と出会います。

タイムスリップものにはいくつも名作があります。
主人公が若き父と母に会うというプロットで有名な作品は「バック・トゥ・ザ・フューチャー」。
父と母が結婚しなかったら、自分は生まれない!ということで、二人をくっつけようとする主人公マーティの奮闘ぶりがおもしろい作品ですよね。
タイムスリップものの物語がハラハラドキドキするのは「過去を変えたら未来も変わる」という設定が大きな役割を担っている気がします。
しかし、本作では晴夫が過去で何をしようとも(というより晴夫は未来に戻る気はさらさらなかった)、未来は変わりませんでした。
晴夫が物心ついても母親はおらず、父親はラブホテルの従業員でありその後は落ちぶれてホームレスになるということもそのまま。
晴夫が未来に戻っても彼のみじめな生活は変わらない。
「バック・トゥ・ザ・フューチャー」のマーティのようにバラ色の生活が待っていたわけではありません。
けれども、変わったことがひとつだけあります。
それは晴夫の自分の生についての考え方。
彼はずっと自分を捨てた母、どうしようもない父へ軽蔑のような気持ちを抱いていました。
自分を望んでいない両親から生まれたから、自分は生きる意味がない。
だからみじめな人生を歩いているのだと。
けれど過去へのタイムスリップで彼は知りました。
命をかけて、自分のことを生んでくれた愛情深い母親のこと。
その母親を不器用ながらも愛していた父親のこと。
自分の生は決して望まれないものではなかった。
むしろ、自分の命をかけて、愛するもの存在をかけて、両親が望んだ生であったと知りました。
晴夫が未来に戻っても、その生活は変わっていません。
しかし彼の人生に対する向き合い方は変わりました。
自分が生かされていると知った晴夫は、きっと自分の力でこの先の未来を変えていくのだと思います。

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