「機動戦士ガンダムUC episode7-虹の彼方に-」 可能性、祈りと呪い
こちらのシリーズ、DVD化されてから観ていたのですけれど、完結篇ということで劇場で観てきました。
テレビのモニターで観ていたときも、非常に細かく描き込まれていたキャラクター、メカニックの映像に感心していましたが、劇場の大画面で観るとさらにその緻密さに驚きますね。
ずっとこのシリーズを観ている方には説明するまでもないですが、この「ガンダム」は一番最初の「機動戦士ガンダム」(いわゆるファースト・ガンダム)の舞台となった「宇宙世紀」の世界を引き継ぐ物語となっています(UCはユニコーン<UC>ガンダムの意味でもあり、Universal Century<宇宙世紀>の意味でもあります)。
最近は「ガンダム」という名前がついていながらも、異なる世界観の物語が作られていますので(最近の「仮面ライダー」も「ウルトラマン」もそうですが)、その点をひとつおさえておいてください。
ですので、「機動戦士ガンダム」「機動戦士Zガンダム」「機動戦士ガンダムZZ」「機動戦士ガンダム 逆襲のシャア」は観ていたほうがこのシリーズは楽しめるかと思います。
個人的にはファースト・ガンダム直撃世代だったので、この作品への思い入れが非常に強いです。
いわゆるサブカルチャーで「ニュータイプ論争」といった「アニメを論ずる」という動きが起こってきたのは、ファースト・ガンダムがひとつのきっかけであったと思います。
「ニュータイプ論争」を雑誌などで読んでいたとき、ただアニメを見るということだけではなく、そこからいろいろと考察をする、ということがとても新鮮に感じられました(だからこういう風にブログを書くようになったのかもしれません)。
ですので自分なりの「ニュータイプ論」といったようなものも個人的にはあったりして、それによってその後のガンダム作品が自分の性に合うか合わないかというがでてきたかもしれません。
そういう点でいうと、「Z」「ZZ」「逆襲のシャア」はあまり個人的には性には合いませんでした。
ファースト・ガンダムにおいてのニュータイプというものはテレビシリーズでは言葉では出てくるものの曖昧な概念であり、それがある程度概念的になったのは劇場版からであったかと思います。
そこでのニュータイプは、人の進化の方向性であり、認識力の拡大、そして相互理解力の強化というものであったと僕は考えています。
しかしそれはまだ発展途上の進化であり、それが人類において定着するものであるかどうかも定かではありません。
まさに「可能性」であるわけですね。
しかしその後の「Z」「ZZ」「逆襲のシャア」におけるニュータイプというのは、ある種明確な能力として具現化されたものとして描かれるようになったと感じています(スーパーマン的なもの)。
「能力」という視点で語られる(物語の中においても)わけですから、「強化人間」という発想もでてくるわけですね。
どうもこの強化人間という発想がどうも馴染めない、不快感があるのです。
その不快感こそが「Z」「ZZ」あたりのテーマであるかもしれないのですが。
また「逆襲のシャア」においては「人の想いの力が隕石の落下を止める」というかなりファンタジックな展開になってしまい、「ガンダム」のリアルに根ざした世界観が崩壊するような感じも受けました。
「機動戦士ガンダムUC」はそういった流れを汲んで紡がれる物語です。
この物語が巧みであると思うのは、「強化人間」的な発想や、ファンタジックな展開のようなものを踏まえつつも、元々のファースト・ガンダムが持っていたニュータイプの概念に戻していくことに成功しているからです。
そのキーワードがこのシリーズでしばしば登場する「可能性」なのです。
episode7でバナージは、自分たちが完全なニュータイプであるか、そうなれるかどうかはわからないと言います。
「逆襲のシャア」のシャア、また本作におけるフル・フロンタルは、宇宙に住む人々=ニュータイプであり、地球に住む人々とは明確に区別される力を持っていると考えます。
そしてニュータイプとオールドタイプは相容れない、どちらか相手を駆逐するか支配するか、または住み分けるかといったように、明確な線引きをしようとします。
シャアやフル・フロンタルにとってはニュータイプはすでに発現したもの。
しかし、そう考えることによってニュータイプも固定化してしまう。
しかし、バナージらにとってはニュータイプというものは進化の過程にあるものということなのかもしれません。
すなわちそれが「可能性」。
「可能性」というものは「未来」に開かれた概念です。
「未来」は見えない。
それは、「希望」でもあり「不安」でもあります。
未来が信じられることは「希望」。
未来が信じられないことは「不安」。
良い未来を期待することは「祈り」であり、悪い未来を想像してしまうことは「呪い」となる。
連邦にしても、シャアやフル・フロンタルにしても、彼らは悪い未来を想像し、それを回避しようとして敵となる者たちを滅ぼそうとした。
そういう意味で彼らは同じなのです。
本作でバナージやミネバの行く先を塞ごうとするのは連邦でもあり、ジオンの残党でもありました。
すなわち彼らは悪い未来しか想像できない大人たちなのですね。
対してバナージやミネバらは良い未来を期待することができる、自分たちの「可能性」を信じることができる子供であるのです。
アムロやカミーユ、そしてシャアも戦うなかで悩んでいきました。
それは強制的に大人にならざるをえない状況の中で、大人の思考(悪い未来の想像)と子供の可能性との狭間に陥ったのだと思います(カミーユはその狭間から抜け出せずに精神崩壊、シャアはあえて自分から大人の世界に向かった)。
本作のバナージは「ガンダム」シリーズの中では珍しくまっすぐで素直な心をもった主人公です。
それはバナージが子供の持つ可能性の象徴であるからでしょう。
本作のラストは「宇宙世紀」の未来に明るい可能性が感じられるものとなっています。
僕があまり共感できなかった「Z」「ZZ」「逆襲のシャア」は観終わったあと何かやりきれない想いのようなものを感じたのですが、本作は違います。
新しい世紀がはじまるにあたって感じる「可能性」。
そういった希望が感じられる作品となりました。
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コメント
たいむさん、こんばんは!
そうか劇中では1〜2ヶ月なんですね。
その間にインダストリアル7から地球へ行って、また振り出しに戻る・・・。
短いようで長い旅路ですね。
僕も本作の後味が良いところが好きです。
「ガンダム」って最後にやるせない気持ちになる作品が多いですが、本作は希望がある感じがしました。
もう1回通しでみようかな。
投稿: はらやん | 2014年6月 7日 (土) 22時30分
こんにちは!
バナージが「珍しくまっすぐで素直な心をもった主人公」なのは、高々1-2か月の間に目まぐるしく起こった出来事だったからかもしれません。
視聴者にとっては何だかものすごく長かったように錯覚してしまうんですけど(笑)
逆にそう思うとバナージはその間で誰よりも早く成長したようにも思うけれど、ただの子供だったものがそうそう急激に大人になったりするほど人間は器用じゃない。
あれよあれよで託されちゃって、「分かりません」って答えは至極真っ当に思っちゃいました。
「それでも・・」と言い続け、模索する。ニュータイプであろうとなかろうと同じだろうし、この言葉が胸に残りました。
私も、この作品の後味の良さが好きです。
投稿: たいむ | 2014年6月 6日 (金) 08時38分