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2014年6月29日 (日)

「超高速!参勤交代」  安心して観れる王道の時代劇コメディ

タイトルだけ観るとちょっとキワモノっぽい感じもしますが、観る人を選ばない王道の時代劇であり、王道のコメディに仕上がっていると思います。
そういう点では王道の松竹映画とも言えますね。
時代劇の王道と言えば、欲に溺れた権力者が弱き者をないがしろにしますが、最後には成敗されるという勧善懲悪の世界ですよね。
実際の世の中はもっと理不尽だったりしますので、映画を見ている間くらいは悪者が懲らしめられるのを観て溜飲を下げたいっていうのが庶民の心情ってものです。
まさに時代劇ってのはそういう心情が現れたもの。
本作もまさにそういった時代劇の伝統の構造です。
磐城国の弱小藩である湯長谷藩は、参勤交代を終えて国元に帰ったばかりにも関わらず、もう一度江戸へ参勤交代するように命じられます。
それも4日間で!
これは湯長谷の金山を狙う幕府の老中・松平信祝の差し金。
無理難題をふっかけて湯長谷藩をお取り潰しにして、金山の金を狙うという腹づもりです。
湯長谷藩の殿様、内藤政醇は家臣たちと共に「超高速」での無謀な参勤交代に挑みます。
冒頭に書いたように本作は王道の時代劇。
ですので松平信祝は最後は懲らしめられるわけで予想通りですが、こういった時代劇は予想通りいってくれることにカタルシスがあるわけですね。
最近の時代劇は凝った作品も多いので、こういうシンプルな時代劇はほっとするところがあります。
コメディ的な面で観ても王道中の王道、旅をしながら様々なトラブルに出会うという「珍道中」タイプのお話です。
家老役の西村雅彦さんがいい感じです。
西村さんは真面目な役もやりますが、「古畑任三郎」の今泉ような、こういうコメディでの役回りが合いますね。
本作で特に良かったのは佐々木蔵之介さん演じる小藩のお殿様内藤政醇ですね。
普段は民を想うお人好しのお殿様なのですが、いざとなったら剣を振るって襲いくる者たちを斬って捨てる。
普段は凡庸な感じなのにいざ刀を持つと強い、というのはこれも時代劇の王道タイプのキャラクター(「暴れん坊将軍」の吉宗とか、「必殺!仕事人」の中村主水とか)。
普段は冴えないのに、いざとなったらしっかりと頼りになるという人物像ってのも庶民の願望なのでしょうか。
それにしてもい居合い抜きの構えをしている佐々木蔵之介さんはカッコいい!
「やまびこの術」をやっているときのとぼけた感じとの落差がよいです。
佐々木さんはシリアスな役もコメディタッチの役も演じられる幅の広い役者さんなので、この役はピッタリですね。
書いてきたように本作は王道中の王道の時代劇なのですが、今はあまりそういう作品もないので、安心して誰でも観れる作品だと思います。

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2014年6月28日 (土)

「300<スリーハンドレッド> 〜帝国の進撃〜」 前作踏襲だけど及ばない

前作「300<スリーハンドレッド>」を観たときは、衝撃を受けました。
映画全体からほとばしるエネルギーを感じたんですよね。
ザック・スナイダーの名前を知ったのはこの作品です。
彼はこの作品でそのスタイルを認められ、ついにはスーパーマンの映画も手がけることになるわけです。
まさに出世作。
ザック・スナイダーのスタイルとは、まさに「300<スリーハンドレッド>」を観るとわかるのですが、グラフィックノベルやコミックを映画という媒体にその感覚そのままに変換しているという感じでしょうか。
コミックをただ原作にし、映画にしているというのと違うんですよね。
彼の作品で特徴的なのはスローモーションの使い方とカメラの動き(急激なズームインとかパンとか)だと思います。
アクションシーンで急激にズームインしてかつスローになるところがしばしばありますが、これはマンガで言うと見開きの大ゴマのイメージなんですよね。
ジャンプ系のバトルマンガで大ゴマで必殺技を出しているところなんかのイメージです。
ズームイン&スロー以外のシーンは通常のコマ割りのイメージ。
この緩急のつけ方が非常にコミックっぽいと思います。
映像がコントラストが強めなのはアメコミの影響を感じます(「ウオッチメン」とかね)。
さて本作「300 帝国の進撃」ですが、ザック・スナイダーが脚本を書いていますが、「マン・オブ・スティール」の監督をすることになったため、監督はノーム・ムーロになりました。
ノーム・ムーロ、全然知らない。
とはいえ、「300<スリーハンドレッド>」のときはザック・スナイダー知らなかったですけれどね。
本作はザック・スナイダーの映像テイストを引き継いではいます。
コントラストのある映像や、ズームイン&スローとか。
ただザック・スナイダーほどのケレン味が感じられないのですよね。
なぜなんだろう?
「300<スリーハンドレッド>」のカットはそれだけで絵になるようなレイアウトになっていたというか、シビアであったような感じがします。
それに比べるとどうもヌルい。
まあ、「300<スリーハンドレッド>」以降ザック・スナイダー的なテイストの映像も多く作られたので、見慣れてしまったというのはあるかもしれませんが。
今回の主人公のテミストクレスも、「300<スリーハンドレッド>」のレオニダスほどのカリスマを感じないので魅力に欠けます。
ストーリーとしても前作の死を覚悟した戦いに挑む男たちの気概のような迫力が感じられないのが弱いかもしれません。
(CGをバリバリ使っていますが)戦闘シーンも前作の方が肉体と肉体がぶつかりあっているような臨場感があったように思います。
CGも技術が洗練されたためか、映像がやや綺麗過ぎる印象がありました。
前作を忠実に踏襲しようとしているのは感じますが、そのためか全体的にこじんまりとしている感じがします。
エヴァ・グリーンがひとり存在感を出していましたね。

前作「300<スリーハンドレッド>」の記事はこちら→

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2014年6月25日 (水)

「ノア 約束の舟」 まさに狂信的な

「ブラック・スワン」のダーレン・アロノフスキーの新作が「ノアの方舟伝説」を題材にすると聞いた時、意外な気がしました。
劇場でかかっていた特報や予告編を観ていても、スペクタクル大作のようなテイストに見えたので、アロノフスキーっぽくないなと。
でも本作を観ていると、今までの彼の作品にも通じる「らしさ」がしっかりと出ていてように感じました。
もちろん、大作らしいスペクタクル場面は見応えありますが、アロノフスキー作品としての「らしさ」は別のところにあるように思えます。
「ノアの方舟伝説」は多くの人に馴染みのある旧約聖書の創世記にあるエピソードです。
アダムとイブが善悪の知識の実を食べて楽園を追放された後、人間は地上に殖えていきました。
しかし、人は堕落し悪がはびこることなりました。
それを見た神は、大洪水で人々を滅ぼそうとしますが、「ヤハウェに従う無垢な人」であるノアとその家族は生き延びさせようと方舟の建設を命じました。
本作はこの「方舟伝説」を大スペクタクル映画として映像化しているわけですが、アロノフスキーらしさが出ているのは主人公ノアの人物の描き方だと思います。
僕の今までのノアのイメージとは、「善良」「無垢」といったものでした。
人々が悪徳に染まる中、ノアは善良であり、無垢であるから(簡単な言葉でいうと心がきれいだから)こそ神によって救われたと、思っていました。
しかし本作で描かれるノアは、ただ単に善良であり無垢である人物ではありません。
彼は神のお告げを信じ、そのためはそれこそ何でもやります。
そのためには人も殺します。
この人物には単純な善良さはありません。
僕はノアに今までのアロノフスキー作品「レスラー」「ブラック・スワン」の主人公に共通するものを感じました。
ノアの行動は「狂信的」と言ってもいいかもしれません。
神のお告げのためであれば、息子が好感を持った女性も見殺しにし、自分の孫ですら手にかけようとする。
狂っている、と言われても仕方がないほどです。
しかし、「レスラー」にしても「ブラック・スワン」にしても主人公は「狂っている」と思えるほどに自分が信じ、賭けたいものがあったのですよね(それぞれレスリングであり、バレエ)。
「レスラー」の主人公ランディはレスリングに己の命すら賭けます。
「ブラック・スワン」の主人公ニナはバレエに自分の精神を賭けていると言っていいでしょう。
自分自身をかけるほどに入れ込む彼らの姿は、関係ない者から見れば「常軌を逸している」、「狂っている」ているように見えます。
神をただ信じるノアも「狂っている」かのよう。
彼が信じる神のためであれば、己の生命はもちろん、自分の家族の命ですら捧げようとする。
上でノアを「ヤハウェに従う無垢な人」と書きましたが、「無垢にヤハウェに従う人」のほうがこの作品のノアに合っているかもしれません。
自らを破滅に導くにも関わらず「狂おしく」何かに入れ込むことができる人を描くことに、アロノフスキーは惹かれるのでしょうか。
ラストは割とヒューマンな終わり方だったところがちょっとアロノフスキーっぽくない気がしましたが、作品を仕上げるにあたり映画会社ともめたという話も聞きますので、このあたりのことかな?

「ブラック・スワン」の記事はこちら→
「レスラー」の記事はこちら→

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「MONSTERZ モンスターズ」 真にわかり合えるのは二人

のっけから痛〜い描写で始まり、観るんじゃなかったと後悔したのですが(肉体的な痛みを感じさせるようなホラーが非常に苦手なのです。「ソウ」とか絶対観ない。)・・・。
その後の展開は緊張感がずっと持続する展開で、結果的にはとても満足できる作品でした。
監督は中田秀夫さんだったので、「そりゃホラーなテイストになるな」と納得。
途中でゾンビっぽいシーンもありましたしね。
中田さんのホラー作品は観てないのですが(苦手なもんで)、「インシテミル」はとてもおもしろい作品だと思いました。
ホラーをずっと手がけていた監督なので、観客の緊張感をコントロールするのが非常にうまいんですよね。

<ここからネタバレ的なものあります>

藤原竜也さん演じる”男”は視界に入るすべての人間を操ることができる特殊能力を持っています。
しかしその”男”にとって唯一操れない男、終一(山田孝之さん)が現れます。
映画の最初に出てくるタイトルは「MONSTER」と単数形、しかし物語の終わりに出てくるタイトルは「MONSTERZ」と複数形(SでなくてZであるのも意味がある)なんですよね。
予告を観ていても、MONSTER(怪物)である人物は人を操る能力を持つ”男”だけだと思っていたのですが、実は終一も別の能力を持った特殊能力者であることが明らかになっていきます。
実は終一はどんな怪我や病気をしても、常人の何倍もの早さで回復する能力を持っていました。
それこそ死ぬほどの怪我をしても驚異的な回復力ですぐに復活するのです。
いわば「X-MEN」のウルヴァリンのような力と言っていいでしょう。
一般人から見れば"男”と同じように終一も特殊能力者、いわばMONSTER(怪物)のようなもので、だからこそタイトルは複数形になっているんですよね。
"男”は幼い頃にその能力ゆえに両親から忌み嫌われて、ひとり社会から姿を隠すように生きてきました。
操られる人間はその間の記憶がないため、そのように生きていくことができたのです。
他人は自分の存在を知られないまま、それを支配しながら生きている。
特別な存在でありながら、自分の存在を知る者はいない。
究極の孤独であったのです。
しかしそういった彼の世界に、自分が操れない男、終一が現れます。
"男”にとって終一は、最初は自分の世界を壊そうとする人物に見えたのだと思います。
破壊者を抹殺しない限りは、自分の世界(それこそ自分のアイデンティティ)が壊されてしまうという恐怖が彼にはあったのでしょう。
しかし、次第に”男”は命をかけて戦う相手である終一が、自分の存在を唯一認識してくれるかけがいのない人物として思えてきたのかもしれません。
操られる人々は誰も”男”のことに気づかない。
しかし生存をかけた戦いを繰り広げる相手である終一だけは、自分をその能力を含め一人の人間として認識してくれている。
両親以外に自分の存在を認めてくれた相手というのが、皮肉にも終一であったんですね。
映画の最後にでてくるタイトル「MONSTERZ」でしたが、「MONSTER」に「Z」が書き加えられるように表現されていました。
僕はこの「Z」が「2」に見えたんですよね。
特殊能力を持つ2人の男、彼ら同士だけが常人とは異なる存在である苦しみを理解し合えるということの意味かなと感じました。
お互いに戦いながらも、真にわかり合えるの二人だけなのかもしれません。

冒頭に緊張感が持続していると書きましたが、キャラクターの能力の設定が絶妙であると思います。
"男”は人を操る力を持っているわけなので、究極の力とも言えます。
しかし一人のキャラクターに圧倒的な力を持たせると物語的には作りにくい(緊張感が生みにくい)。
そのため”男”はその能力を使うと体の一部が壊死していくような設定になっています。
すでに今まで能力を使ってきたため、”男”は片足になっており、激しく動くことはできません。
また相手を見なくてはコントロールできないわけで、眩しいところ、逆に暗いところではその能力を使えない。
こういった制限が緊張感を高めます。
終一も驚異的な回復力をもっており、これもやられないということなので究極の力であり、へたに物語をつくるとなんでもありになってしまいます。
特に体が不自由な”男”が相手であれば、その力で圧倒することも可能でしょう。
しかし、なんといっても終一は一人であり、”男”は多くの人間を同時に操ることができる。
一人VS大勢という圧倒的な数的優位で、”男”は終一のアドバンテージを封じます。
究極の力を持つもの同士がそれぞれの制限の中で戦うという設定が、物語に緊張感を生んでいます。

その他にもいろいろこの作品は書けることが多いですね。
”男”VS終一の戦いは「X-MEN」のマグニートーとプロフェッサーXの戦いとも比することができるかもとか。
「X-MEN」の場合は二人とも世界を変えていくというスケールの大きい方向に展開しますが、「MONSTERZ」の二人はあくまでパーソナルなレベルという内向きのベクトルに展開するというのはもう少し考えてもおもしろいかも。
ほかには、石原さとみさんがものすごーく可愛いとか(笑)。
でも長くなるからこの辺で。

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2014年6月21日 (土)

「ポリス・ストーリー/レジェンド」 シリーズとか言ってるけど、関係ないじゃん

ひとこと言いたい。
「ポリス・ストーリー」と言いながら、まったくストーリーはシリーズと関係ない別物じゃん。
予告でも「ポリス・ストーリー」シリーズとか言って関係あるように見せているのは、優良誤認ですよ。
元のシリーズのテーマ曲使っているし(本編ではどこにも使ってない)。
偽装です、偽装。
作品に自信があるなら、別のシリーズであるとしっかりと言ってほしい。
そういうつもりで観に行くから。
以前に同じくジャッキー・チェン主演で「香港国際警察/NEW POLICE STORY」という作品がありましたが、「NEW POLICE STORY」と言っていて別の作品ということを伝える良心が感じられたのですけれど。
宣伝担当の方は、この作品原題も「警察故事2013」で、「ポリス・ストーリー」の原題「警察故事」といっしょだから言い訳したいのかもしれないですが、予告で「ポリス・ストーリー」の曲を使っているのは誤解させようという意図がみえみえ。
こういうことを続けていると配給会社への信頼感が薄れます。
食品偽装と同じです。
誤解させようという意図が見えるだけあって、中身もまったくおもしろくない。
ジャッキーじゃなくても、いいような物語です。
確かにジャッキーも年で激しいアクションは厳しいのかもしれないですが、らしさ(ユーモラスさとか)はアクションは関係がないかと思います。
最近こういったシリアスな物語にも出ていますが、自分がジャッキーに期待するものと違う。

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「ニード・フォー・スピード」 物語に無理がある

「ワイルド・スピード」のようなカーアクション映画が好きなんですよね。
子供の頃は「キャノン・ボール」とか好きだったなぁ。
ですので、なんとなく同じニオイのする本作「ニード・フォー・スピード」を観に行ってきました。
しかし、ツッコミどころが多すぎて、首をかしげてしまいました。
まぁ「キャノン・ボール」もツッコミどころはあるですけれどね、Mr.Booとか出ている時点で、あれは作風だとわかりますから。
一番のツッコミどころはそもそもこの物語のスタートのところ。
主人公トビーと彼の弟分のピート、そしてトビーのライバルであるディーノが、同じスーパーカー、アゲーラでストリートレースを繰り広げます。
トビーが先行したため、焦ったディーノの無謀なドライビングによりピートの車と接触。
ピートのアゲーラは横転炎上し、その上、橋から落下し、ピートは死んでしまいます。
クラッシュを誘発させたディーノは現場から逃亡し、さらにはそこにはいなかったとアリバイ作りをし、レースをしていたのはトビー車とピート車の2台だけであったいうことにしてしまいます。
そのため残ったトビーが逮捕され、収監されてしまいます。
しかし、映画とは言ってもこれはないでしょう。
あれだけのクラッシュしているわけですから、タイヤ痕は3台分ばっちり残っているはずで、これを2台しかなかったというのは無理がある。
ディーノたちの証言だけで2台しかいなかったっていうことになるって、警察はどんだけ無能なの?ってツッコミをいれたくなります。
ディーノにしたって、罪を逃れたいんだったら車は廃車にしなきゃ。
なにを後生大事にとっておくのだろう・・・?
それを発見したトビーもトビー。
いくらレースに出る車がないからって、証拠の車でレースに出場するかなぁ。
証拠になる車で出場して、ちょっとでもぶつけたら、その車体に刻まれている事故の証拠などもなくなっちゃうのに。
っていうように物語の作りや登場人物の行動にとっても無理があって、そこばかりが気になります。
いくらレースシーンが迫力があったとしてもこれではダメ。

あと登場する車がスーパーカーすぎて、自分的に全く馴染みがなくて燃えなかったです。
「ワイルド・スピード」に登場するクラスの車の方が、馴染みがあっていいですね。

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2014年6月17日 (火)

「キカイダーREBOOT」 秀逸なデザイン

タイミングが合わずに観賞を後回しにしていたらそろそろ終わりそうなので、慌てて観にいってきました。
「キカイダー」といったらなんともいっても、石ノ森章太郎さんによる左右非対称の特徴的なデザインですよね。
石ノ森章太郎さんのデザインってヒーローはもちろん敵方の怪人なども非常にコンセプチュアルであると思うのですが、その中でもキカイダーのデザインは秀逸です。
右半身が正義をイメージした青、左半身が悪をイメージした赤であり、「良心回路」を持つことにより、善と悪の間を揺れ動くキカイダー=ジローというキャラクターを一目でわかるように表現しています。
人間でもなく、またアンドロイドとしても完全ではないということを透明パーツの中に機械が見えるということで表していることも優れたアイデアですよね。
本作でキカイダーのデザインのリファインを担当したのが、漫画家で「仮面ライダーSPIRITS」等の代表作を持ち、特撮への造詣が深い村枝賢一さんです。
今回の村枝さんのデザインも、オリジナルのコンセプトをさらに押し進めた感じで良かったです。
右半身は青=正義、左半身は赤=悪という考えを踏襲しているようですが、僕はさらにコンセプトが深くなっている気がしました。
右半身の造形はオリジナルに比べより人のシルエットに近くなっていると思います。
造形技術の進化という点もあるでしょうけれど、これは右半身=正義というより、右半身=理性であり、人間らしさを象徴していると感じました。
「良心回路」が右側についているのも人間らしさを象徴するものだからこそ。
それに対して左半身は、大型の爪をつけた手、怒り肩など、以前よりはメカニカルさというよりは、獣のような印象が強くなっています。
もちろん顔であったり、部分部分にはメカニカルさは残っています。
これは左半身は人間らしさが欠如した状態を象徴しているものでしょう。
この人間らしさが欠如した状態を、獣的なもの(爪や怒り肩)と機械的なもの(メカ造形)という、一見対局にあるものを統合してデザインしたアイデアがいいなと思いました。
また気が利いているアイデアだと思ったのが頭部のデザインです。
キカイダーの顔には左側の目の下から頬のあたりにかけてメタリックなラインが入っています。
これはオリジナルでもあるものですが、今回の村枝デザインではラインの上に、鋲のようなドットが入っているんですよね。
これはメカニカル感を出すものであるかもしれないのですが、これが涙にも見えるんですよね。
キカイダーがハカイダーとの決戦に勝つために自ら「良心回路」を切ります。
そのため破壊衝動にかられミツコにも襲いかかるのですが、そのときのキカイダーのアップを映されます。
そのときキカイダーが泣いているように見えるんです。
アンドロイドであるキカイダーの表情は変わらないのに、なぜか泣いて見える。
それは意図されたデザインなのかはわからないですが、そういうカットを狙った監督には意識はあったでしょうね。
ここはぞくっときました。
完全に機械であるキカイダーが、そのような人間らしさを持つようになっているのに対し、人間の脳を持つハカイダーのほうがより凶悪であるというのは、また人間の負の面を表しています。
獣は必要以上の殺戮は行わない。
機械は命じられた以上の殺戮は行わない。
人間は殺戮をさらにさらにと繰り返していく。
理性がないから獣や機械は暴走する。
だから「良心回路」によってその暴走を抑制するというのがキカイダーというアンドロイドの思想。
しかし人間の脳を持ち、より「人間的」であるはずのハカイダーの方が暴走してしまうというのは、人間への皮肉でもありますよね。
とキカイダーのデザインからはじまり、この作品に込められたものを書いてきましたが。
単純にエンターテイメント映画としてみると、あまり出来がいい感じはしなかったですね。
感情移入がもう少しできたら良かったんですけれど、割と全体的にクールで淡々としていた感じがしました。
もう少しオリジナルは情感があったようなイメージがありました(観たのはうん十年も前ですが)。
監督は下山天さんで特撮畑の方ではないのですが、特撮的なケレン味がもうちょいあってもよかった。

なんとなく続きそうな感じもありますよね?
次はビジンダーが登場するかな。
本作にマリが登場してたからビジンダーにチェンジするかと期待しちゃいました。

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2014年6月 7日 (土)

「ポンペイ」 ローランド・エメリッヒ作品かと思ったぞ

ポール・W・S・アンダーソンが「三銃士/王妃の首飾りとダ・ヴィンチの飛行船」に続き、歴史アクションです。
彼の作品にストーリーとか、ドラマとかはそもそも期待していないのですが、それにしても本作は物語が陳腐すぎる感じがしました。
予告を観て想像していたストーリーと、ほぼいっしょ。
たぶん皆さんも想像しているままの展開となります。
先ほど書いたように彼の作品にストーリーやドラマは期待していないのですが、それでも彼の作品を観るのは映像に彼独特の「らしさ」があったから。
ポール・W・S・アンダーソンの作品はそのフィルモグラフィを見るとわかるようにゲームや過去のSF映画などの影響を受けていることが強くわかります。
カット割りのリズムとか、スローモーションの使い方とかの映像のテンポがスピードを感じるものであったり、CGを使うこと自体がいい意味でうまく身に付いているのでその技術を上手く使いこなした印象的なカットであったりというところに彼らしいクールさを感じ、今までも公開されれば彼の作品を観にいっていました。
しかし本作はそういう彼らしさといったものがあまり感じられなかったように思います。
確かに噴火の描写はCGを巧みに使い、迫力のある映像になっています。
しかしポール・W・S・アンダーソンらしかというと、そんな感じはしなかったのですよね。
ローランド・エメリッヒが撮ったと言われても、「そうかもね」と言ってしまうかもしれない。
歴史的なスペクタクルを再現する、ということの方に力がいってしまって、そもそもの彼らしいセンスのいい映像を作るっていうことに気が回らなかったような感じがします。
ポール・W・S・アンダーソンは歴史物よりはSFもののほうがテイストがあっているような気がしますね。

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「万能鑑定士Q -モナ・リザの瞳-」 莉子の能力

原作小説は何冊か出ているようですが未読ですので、設定や登場人物などについての予備知識は一切なしで観ました。
ちょっと長いなとは思いましたが、おもしろく観れました。
主人公「万能鑑定士Q」こと凛田莉子はあらゆる物を鑑定することができる能力の持ち主。
鑑定をする物と共に持ち込まれる難事件にも挑む探偵役でもあります。
莉子はホームズタイプの探偵役ですね。
普通の人は見落としてしまうような細部に着眼し、広範で深い知識を元に、論理的な推理を展開していく。
・着眼点
・知識(記憶力)
・推理力
という点が普通の人よりも特段に優れているということなのですよね。
それら莉子の能力について現代的な解釈がついているのが興味深かったです。
「着眼点」とは普通の人では見逃してしまう点に目をつける力です。
莉子は鑑定する物を観たとき、何か違和感のようなものを感じます。
違和感のようなものというのは感じたとしてもすっと頭の中をよぎって去ってしまうものですが、莉子の場合はそれをしっかりとつかみ取るのですよね。
劇中ではそれを彼女の「感受性」とか「直観力」という言い方をしていました。
この違和感をつかみ取るというのは、個人的な経験でいうとある種の訓練でできるところもあるかと思います。
自分の心の中に生じた感情などが「どうしてそう感じたのか?」と論理的に考えようとする訓練です。
映画のレビューなんていうのもそうだと思うのです。
どうして感動したか、というのを自分の気持ちを分析するというイメージです。
莉子は自分の心に生じた「違和感」がなぜ生じるかと考える時に、彼女の頭の中にある膨大な知識を駆使します。
その知識によってその「違和感」の原因を探るのが彼女の方法です。
莉子がどのように知識を身につけたかという方法論がまたおもしろい。
記憶をするときに感情とセットにして記憶するという方法。
確かに過去の記憶を思い出すとき、感情がセットになって思い出すことってありますね。
そして感情がセットになっている記憶の方がより強い。
またそのとき聞いていた音楽、嗅いでいた臭いなども思い出すことがあります。
確か音楽などを聴くことによりそれをきっかけに記憶を呼び起こすといったようなことも聞いたことがあります。
そして彼女の推理力ですが、これはビジネスシーンでもよく聞かれる「ロジカル・シンキング」。
さまざまな事象や事実を基に論知的に推理を組み立てていく能力です。
ここには感情が入る余地はなく、これらは事実をベースにした論理的に組み立てられた思考のみとなります。
こうやって莉子の能力を観てみると、それらはけっこうビジネス書などででてくるキーワードだったりするんですよね。
「着眼点」「知識(データと言ってもいいかもしれない)」「ロジカル・シンキング」。
これらはビジネス書ではさまざまなスキルとともに紹介されていますが、莉子はそのスキルを極めに極めた人物ともいえるかもしれませんね。

冒頭に書いたように映画的にはちょっと長いかなとも思いましたが、後半の展開の早さなどはおもしろかったですね。
監督は「GANTZ」や「図書館戦争」の佐藤信介さん。
割とアクション映画のイメージがあったのですが、こういう作品も撮るのですね。
後半の展開の早さなどはアクション映画的なテンポは感じました。
結局「Q」の意味はわからなったですね。
次回作を作る予定なのかな。

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2014年6月 4日 (水)

「機動戦士ガンダムUC episode7-虹の彼方に-」 可能性、祈りと呪い

こちらのシリーズ、DVD化されてから観ていたのですけれど、完結篇ということで劇場で観てきました。
テレビのモニターで観ていたときも、非常に細かく描き込まれていたキャラクター、メカニックの映像に感心していましたが、劇場の大画面で観るとさらにその緻密さに驚きますね。
ずっとこのシリーズを観ている方には説明するまでもないですが、この「ガンダム」は一番最初の「機動戦士ガンダム」(いわゆるファースト・ガンダム)の舞台となった「宇宙世紀」の世界を引き継ぐ物語となっています(UCはユニコーン<UC>ガンダムの意味でもあり、Universal Century<宇宙世紀>の意味でもあります)。
最近は「ガンダム」という名前がついていながらも、異なる世界観の物語が作られていますので(最近の「仮面ライダー」も「ウルトラマン」もそうですが)、その点をひとつおさえておいてください。
ですので、「機動戦士ガンダム」「機動戦士Zガンダム」「機動戦士ガンダムZZ」「機動戦士ガンダム 逆襲のシャア」は観ていたほうがこのシリーズは楽しめるかと思います。
個人的にはファースト・ガンダム直撃世代だったので、この作品への思い入れが非常に強いです。
いわゆるサブカルチャーで「ニュータイプ論争」といった「アニメを論ずる」という動きが起こってきたのは、ファースト・ガンダムがひとつのきっかけであったと思います。
「ニュータイプ論争」を雑誌などで読んでいたとき、ただアニメを見るということだけではなく、そこからいろいろと考察をする、ということがとても新鮮に感じられました(だからこういう風にブログを書くようになったのかもしれません)。
ですので自分なりの「ニュータイプ論」といったようなものも個人的にはあったりして、それによってその後のガンダム作品が自分の性に合うか合わないかというがでてきたかもしれません。
そういう点でいうと、「Z」「ZZ」「逆襲のシャア」はあまり個人的には性には合いませんでした。
ファースト・ガンダムにおいてのニュータイプというものはテレビシリーズでは言葉では出てくるものの曖昧な概念であり、それがある程度概念的になったのは劇場版からであったかと思います。
そこでのニュータイプは、人の進化の方向性であり、認識力の拡大、そして相互理解力の強化というものであったと僕は考えています。
しかしそれはまだ発展途上の進化であり、それが人類において定着するものであるかどうかも定かではありません。
まさに「可能性」であるわけですね。
しかしその後の「Z」「ZZ」「逆襲のシャア」におけるニュータイプというのは、ある種明確な能力として具現化されたものとして描かれるようになったと感じています(スーパーマン的なもの)。
「能力」という視点で語られる(物語の中においても)わけですから、「強化人間」という発想もでてくるわけですね。
どうもこの強化人間という発想がどうも馴染めない、不快感があるのです。
その不快感こそが「Z」「ZZ」あたりのテーマであるかもしれないのですが。
また「逆襲のシャア」においては「人の想いの力が隕石の落下を止める」というかなりファンタジックな展開になってしまい、「ガンダム」のリアルに根ざした世界観が崩壊するような感じも受けました。
「機動戦士ガンダムUC」はそういった流れを汲んで紡がれる物語です。
この物語が巧みであると思うのは、「強化人間」的な発想や、ファンタジックな展開のようなものを踏まえつつも、元々のファースト・ガンダムが持っていたニュータイプの概念に戻していくことに成功しているからです。
そのキーワードがこのシリーズでしばしば登場する「可能性」なのです。
episode7でバナージは、自分たちが完全なニュータイプであるか、そうなれるかどうかはわからないと言います。
「逆襲のシャア」のシャア、また本作におけるフル・フロンタルは、宇宙に住む人々=ニュータイプであり、地球に住む人々とは明確に区別される力を持っていると考えます。
そしてニュータイプとオールドタイプは相容れない、どちらか相手を駆逐するか支配するか、または住み分けるかといったように、明確な線引きをしようとします。
シャアやフル・フロンタルにとってはニュータイプはすでに発現したもの。
しかし、そう考えることによってニュータイプも固定化してしまう。
しかし、バナージらにとってはニュータイプというものは進化の過程にあるものということなのかもしれません。
すなわちそれが「可能性」。
「可能性」というものは「未来」に開かれた概念です。
「未来」は見えない。
それは、「希望」でもあり「不安」でもあります。
未来が信じられることは「希望」。
未来が信じられないことは「不安」。
良い未来を期待することは「祈り」であり、悪い未来を想像してしまうことは「呪い」となる。
連邦にしても、シャアやフル・フロンタルにしても、彼らは悪い未来を想像し、それを回避しようとして敵となる者たちを滅ぼそうとした。
そういう意味で彼らは同じなのです。
本作でバナージやミネバの行く先を塞ごうとするのは連邦でもあり、ジオンの残党でもありました。
すなわち彼らは悪い未来しか想像できない大人たちなのですね。
対してバナージやミネバらは良い未来を期待することができる、自分たちの「可能性」を信じることができる子供であるのです。
アムロやカミーユ、そしてシャアも戦うなかで悩んでいきました。
それは強制的に大人にならざるをえない状況の中で、大人の思考(悪い未来の想像)と子供の可能性との狭間に陥ったのだと思います(カミーユはその狭間から抜け出せずに精神崩壊、シャアはあえて自分から大人の世界に向かった)。
本作のバナージは「ガンダム」シリーズの中では珍しくまっすぐで素直な心をもった主人公です。
それはバナージが子供の持つ可能性の象徴であるからでしょう。
本作のラストは「宇宙世紀」の未来に明るい可能性が感じられるものとなっています。
僕があまり共感できなかった「Z」「ZZ」「逆襲のシャア」は観終わったあと何かやりきれない想いのようなものを感じたのですが、本作は違います。
新しい世紀がはじまるにあたって感じる「可能性」。
そういった希望が感じられる作品となりました。

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「THE NEXT GENERATION パトレイバー 第2章」  押井ネタ、あるある

実写版「パトレイバー」の第2章(episode3、4)を観てきました。
2週間しか上映期間がないので、早めに早めに。

「パトレイバー」というシリーズはロボットものでありながらも、ロボット(このシリーズではレイバーという呼称)が活躍「しない」話があるというかなり変わったシリーズです。
今回のepisode2「98式再起動せよ!」の珍しくレイバーに焦点が当たっていて、パトレイバー(98式イングラム)が動くシーンがかなりあります。
が、動くと言ってもそれは別段レイバー犯罪を解決するためにというのではなく、特車二課面々のワルノリな訓練(動作テストと称しレイバーで空手のカタをきめる)のため。
案の定レイバーとしては無理な動きのため、パーツに負荷がかかり過ぎ、イングラムは大破。
しかし、直後に警視総監が視察にくるという・・・。
無事特車二課はイングラムを立たせることができるのか、というお話。
イングラムを立たせるために寝ずの整備を行う整備班の奮闘ぶりは文化祭前の準備にも似た狂騒。
これは押井守の「うる星やつら ビューティフル・ドリーマー」にも通じるところですよね。
episode3「鉄拳アキラ」は、レイバーがほとんどでてこない話(これだけ観るとロボットものとは思えない)。
謎の人物「強いオヤジ」役で竹中直人さんがゲストで登場しますが、竹中さんは以前「パトレイバー」の劇場版の2作目にも謎の公安で登場していますね。
得体の知れない感じは竹中さんにマッチしています。
「強いオヤジ」はゲームで食っている流れ者っぽい感じですが、これは押井守作品にしばしば登場する「立喰師」に通じるものがあります。
というよりは「立喰師」そのものと言ってもよく、「強いオヤジ」と明が言葉を交わすシーンのロケーションは「マッハ軒」という、これもまたしばしば押井作品に登場する立ち食いそば屋です。
第1章の「上海亭」に続き、押井作品の定番ですね。
これからもこういった押井作品ネタがでてくるんでしょうね。
「THE NEXT GENERATION 」といいつつ、このシリーズは過去の押井作品の「あるある」ネタが詰まっているところがありますよね。
とはいえすべてが前作を踏襲しているわけではなく。
episode3では主人公の明にスポットが当たっていましたが、アニメ版の野明とは似ているところもあれば違う側面もあるというのが感じられました。
二人とも天然ぽいところは共通ではありますが、野明は動物好き、ペット好きでイングラムに対してもペットと接しているような雰囲気があります(勝手にアルフォンスという名前も付けている)。
しかし明は、ゲームオタクでどっちかというとメカ好きっていう感じですよね。
野明よりもよりオタクっぽくて、コミュニケーションも上手な感じではないです。
よくよく観ると他の特車二課メンバーもアニメとは違うところはあるので、今後そういう点を拾っていくエピソードも出てくるのでしょうか。
そうそう、太田莉奈さん演じるカーシャはロシアから派遣されているという設定ですが、アニメ版では香貫花・クランシーという役に対応しています。
香貫花はアメリカからの留学ということになっていましたが、今回はロシア。
なんで?と思ったら太田莉奈さんってロシア人と日本人のハーフだったのですね。
なのであんなにロシア語がうまいわけだ・・・。

第3章ではとうとう怪獣が出る様子。
ロボットと怪獣?「パシフィック・リム」か?と思うかもしれないですが、実は「パトレイバー」ではしばしば怪獣が出てくる話があります。
OVA(アーリーデイズ)のときの第3話「4億5千万年の罠」、マンガ版「廃棄物13号」、映画では「WXIII 機動警察パトレイバー」で怪獣が登場しています。
というより、「4億5千万年の罠」をマンガ、映画でそれぞれ解釈をして物語をリファインしているイメージです。
ですので実写版もこのセンスでやるのではないかな(episode5、6で前後編になるようですし)。

前作「THE NEXT GENERATION パトレイバー 第1章」の記事はこちら→ 

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