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2014年5月31日 (土)

「X-MEN:フューチャー&パスト」 ユニークなアイデア

スピンオフ的に「X-MEN:ファースト・ジェネレーション」で若かりし頃のプロフェッサーX(チャールズ)と、マグニートー(エリック)に描いた「X-MEN」シリーズですが、本作では現代と過去のミュータントたちをクロスオーバーさせるました。
なかなかユニークなアイデアです。
スピンオフとはいえ「ファースト・ジェネレーション」も錚々たる顔ぶれ(ジェームズ・マカヴォイ、マイケル・ファスベンダー、ジェニファー・ローレンス・・・)のキャスティング、それにヒュー・ジャックマンをはじめ現代のX-MENのメンバーもかなり登場するということで、かなり豪華な出演陣ですよね。
監督はシリーズの1、2作目を担当したブライアン・シンガーがカムバックです。
「X-MEN」というシリーズは昨今のアメコミ映画ブームの火付け役と言われています。
これは子供向けのキャラクター映画というよりは大人の観賞にも堪えうるテーマ性、ドラマ性を持っていたというところが大きかったかと思います。
特に1、2作目はミュータント=マイノリティというテーマがかなり鮮明で、アメコミ映画でありながらも考えさせられるところもあった作品でした。
しかし本作は同じブライアン・シンガー監督でありながら、そういったテーマ性についてはだいぶ弱めとなっています。
けれどそれは悪いことではなく、過去と未来を繋いだ複雑な物語を描くにあたっては、そういったテーマ性は余計になる可能性があるので、割り切って本作のユニークなアイデアをみせることに集中したのかなと思いました。
物語の端緒は未来の地球。
その頃、対ミュータント用に開発されたロボット、センチネルが暴走しており、ミュータントと彼らに強力していた人間は滅亡の瀬戸際に立たされていました。
このセンチネルが非常に強く、特殊能力を持つミュータントたちですら全く歯が立たない。
ミュータントたちの追い込まれっぷりは過去の作品でもないくらいで、観ていてそこでぐっと引き込まれましたね。
ウルヴァリンが過去に行くっていうのは割と突拍子もない話ですので、このくらい追い込まれた感じにしないとちょっと安っぽくなっちゃう感じもあります。
この辺の納得性(けっこう力技ですが)、さすがブライアン・ジンガーです。
登場するキャラクターが多いと、それぞれの描き込みが薄っぺらくなり、ドラマ性がなくなってくるものですが、このあたりも上手く作っていたように思います。
「フューチャー&パスト」と言いながらも、物語の比重としては「パスト(過去)」のほうが大きく、チャールズ、エリック、レイブンといった「ファースト・ジェネレーション」系のキャラクターが濃く描かれます。
彼らにウルヴァリンが絡んでいくわけですが、シリーズを引っ張っていくキャラクターが軸となり物語に安定感を生んでいると思います。
特に今回のように過去と未来を並行して描く場合はしっかりとしたキャラクターがいるというのは安定感に繋がりますよね。

<ここから先はちょっとネタバレ>

タイムトラベルネタですので、ここから先は観た方だけ。
過去へのタイムトラベルなわけですので、過去の改変、未来の変更があります。
ということで嬉しいことに、ジーンとサイクロップスが復活!
彼らの最後はけっこう哀しかったので、これは嬉しい。
彼らが復活した新生「X-MEN」でまたシリーズ続けられるねと思いました。
「ファースト・ジェネレーション」のほうも続けられそうですし。
エンドロール後には謎のエジプトの風景がありましたし、まだまだ続きそうですね、このシリーズは。

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2014年5月18日 (日)

「WOOD JOB!(ウッジョブ)~神去なあなあ日常~」 遠く未来の人の笑顔のために

前回の作品ではロボットという最新のテクノロジーを題材にしましたが、矢口監督の最新作が扱うテーマはアナログなテーマ、林業。
ちょっと前、NHKの「応援ドキュメント 明日はどっちだ」でも林業に挑戦する若い女性のドキュメンタリーを放送していたので、ちょっと興味を持っていたところだったので、個人的にタイムリーな題材でした。
今回は林業という仕事を扱うからか、矢口監督にしては真面目で真摯なテイストが強く出ていましたね。
もちろん監督らしい笑いの部分もありますが、仕事に真剣に向かい合っていこうとする若者を描いているので、真摯な感じは好感が持てました。

個人的にこのところ仕事に対してのモチベーションが下がっていました。
何年間もやってきていますが、その仕事が役に立っているのか、評価をされているのか、最近よくわからなくなったのですね。
自分自身では今でも意味があると思っているし、けど評価はされていない感じ、遠くからは見えない感じもするとちょっと気持ちがぐらっと揺らいだりするんです。
けど本作を観ていて、ちょっと励まされる気分にもなりました。
この映画のテーマは林業です。
劇中でも触れられていましたが、林業というのはとても時間がかかる仕事。
苗を植えてから、その木が育ち、木材として出荷されるのは、何十年後、もしかすると100年後かもしれない。
自分が植えて、面倒をみた木が役に立っている姿を自分の目で見ることはできないのかもしれないのですよね。
でも彼らは自分では見ることができないけど、将来自分が育てた木が誰かの役に立っていることを信じて働いている。
ラストで主人公勇気は、研修を終えて自宅に戻ったとき、新築の家が立てられているところに通りがかります。
綺麗な木材で次第に組み上げられていく新しい家。
そしてその家を希望に満ちた面持ちで見上げる若夫婦。
その家はもちろん勇気が世話をした木でできているわけではないのですけれど、彼は自分の仕事が確実に誰かの役に立っていくのだという気持ちがわき起こったに違いありません。
遠く未来の人の笑顔のために。
主人公の名前は勇気。
勇気に、仕事に向かい合う勇気をもらいました。
明日からもがんばります。

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2014年5月11日 (日)

「プリズナーズ」 囚われ人

二人の少女が行方不明となった。
その容疑者としてアレックスという男が逮捕されるが、証拠不十分で釈放。
少女の行方は依然としてわからない。
行方不明の少女アナと父親ケラーは警察の捜査が進まない状況に焦り、やがてアレックスを誘拐監禁し、拷問まがい行為で自分の手で娘たちの居場所を聞き出そうとする・・・。

タイトルにあるプリズナーは「囚われ人」という意味ですが、これは当然アレックスのことを指しています。
しかしタイトルは「プリズナーズ」と複数形になっているのがポイントで、その他の「囚われ人」で注目されるのはやはり主人公ケラーでしょう。
アレックスを監禁している張本人です。
ケラーは敬虔なキリスト教徒であり、また「危機に常に備えろ」という父の教えを忠実に守っている男でもあります。
男は家族を守らなければならないという信条を強く持っています。
しかし、彼は自分の娘を何ものかに奪われてしまった。
そしてそれをきっかけに家族も不協和音を鳴らし始めます。
そんなとき妻は彼に「あなたといれば安心だったのに・・・すべてから私たちを守ってくれるって」という言葉を投げつけられます。
妻は娘が行方不明となっているときで非常に不安定な気持ちの中での気持ちだったと思いますが、その言葉は大きくケラーの心に刺さるのですね。
彼が持っている信条に彼自身は疑いをもっておらず、そして自分はその役割を果たせていると思っていました(だからこそ息子にもそれを伝えようとしていた)。
しかし本当の家族の危機が訪れたとき、彼は家族を守れませんでした。
信条を守れなかったという気持ちが彼を極端な行動に向かわせます。
信条を守れなかったわけではない、今からでもその信条は守れると。
そういう点において、ケラーは己の信条に強く「囚われて」います。
彼もプリズナーなのです。
ケラーはアレックスをベニヤ板で浴槽に閉じ込めるのですが、彼がその側で懸命に神への祈りの言葉を発している様は閉じ込めている側でありながら、何かに閉じ込められているようにも見えます。

ケラーの祈りは「我が他を赦すように、神も我を赦したまえ(言葉は違うと思いますがとこんな内容)」のようなものだったと思います。
これは冒頭で鹿討をするときと、アレックスを監禁しているときのケラーの祈りの言葉です。
鹿討の時の祈りの意味は、自分が生きていくために他の生命の命を犠牲にして(食べること)を赦してくれということだと思います。
しかし、アレックスのときは前半の「我が他を赦すように」というところはケラーにはあまり意味がなく、ただ単に自分が「赦されたい」という意味で使われています。
宗教は行動規範ともなると思います。
人間の行動にたがをはめるものであるわけですが、人間はそれによって「囚われる」とも言えます。
ケラーはアレックスを監禁し続けるという行為により、次第にその行動規範から自分でも気づかないうちに逸脱してきています。
自分の行為を自分の良心に咎められている気がしてケラーは苦しむのですが、その苦しみから抜けるためただ赦しを乞うというのは自分勝手でもあり、それは神の存在自体を知らぬうちに無視をしているのですね。
真犯人もかつてはキリスト教の敬虔な信者でしたが、ある経験により神の存在に疑いを持ちます。
そしてさらに自分と同じような気持ちの人間を増やそうと、あることをはじめるわけです。
犯人は、自らが囚われていた宗教という名の檻を破壊し、同じようなことを他者にもさせようとするのです。
人をアンモラルな道に引きづり込み、それにより精神的な「囚われ人」を開放するという歪んだ気持ちを持っていたのでしょうか。

ドラマとしても先の読めない展開で最後まで引きつけられる作品でした。
物語として重いところもあるので、なかなかしんどいところもありますが、シナリオの力量を感じた作品でした。

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2014年5月 6日 (火)

「テルマエ・ロマエⅡ」 文化ギャップ

前作は小規模での公開でしたが、関係者も驚く大ヒットとなり、たちまち続編が作られることが決定しました。
そのヒットは主人公ルシウスを演じた阿部寛さんら、濃ゆい顔立ちの方々の絶妙なキャスティングが大きなところであったと思います(前作のレビューで触れた通り)。
しかしこのシリーズのおもしろさはそれだけではないですね。
原作のマンガからしてそうなのですが、本作のおもしろさの一つは文化ギャップに生じる笑いですよね。
我々日本人にとっては馴染みのものでも、それを異文化の人から見るととても驚くべきものに感じてします。
それは伝統的なもの(風呂文化とか相撲とか)であっても、現代的なもの(ウォシュレット付きのトイレとか)であっても、異文化の人から見れば驚いてしまうんですね。
映画でも「ダーリンは日本人」などそういったテーマの作品はありますが、こういった外からの目線の文化ギャップを描く作品を観ると改めて日本の文化自分たちで確認することができます。
この作品のおもしろさは、異文化の人の代表ルシウスが、日本の文化にいちいち感激し、それに(勘違いを含め)賛美を送る姿です(原作にもありましたが自分的にはルシウスがビールを飲んで「キューッっときた」っていうところが好き)。
日本人からするとなんともこそばゆい。
そもそも文化というのは、異文化に触れた人がその違いに驚き、影響され、自分たちの文化に取り込んでいくことで進化していくものです。
ルシウスはローマは世界で最も優れた文化を持っていると言いながらも、異文化の中に優れたものを認めれればそれを受け入れることができる柔軟性を持った人なんですね。
いわゆる頭が柔らかい人。
そういう頭が柔らかい人が、異文化を自分たちの文化の中に取り込み、アレンジをし、新しい文化を作っていく。
ルシウスが日本の銭湯文化で感激した点を、自分たちのインフラの中でアレンジを加え、自分たちの文化に取り込んでいくのは、まさに文化発展していく姿そのものです。
なんて文化論的なことを書きましたが、本作はそんなことは考えずに、笑いながら観るのがよろしいかと(笑)。
これだけ人が風呂に入る姿を観ていると、自分も温泉に行きたい気分にもなりますね。
やはり日本人だ、と自覚します。

グラディエーターを演じていたのは、元横綱の曙さんだったんですね。
エンドロール観るまでわかりませんでした。
まるで外国人だったんだもん(もともと外国人だって)。

前作「テルマエ・ロマエ」の記事はこちら→

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2014年5月 5日 (月)

「世界の果ての通学路」  学べるありがたさ

予告で観た時から気になっていた作品です。
このドキュメンタリーでは、世界の各地で学校へ毎日何時間もかけて通っている子供たちを描いています。
その通学路は、ゾウもいるようなサバンナ、険しい山々、人っ子一人いないような荒野の中の道無き道。
そんな厳しい通学路を子供たちはただ学ぶために通っています。
時間をかけて、時には命の危険もあるような道をなんで子供たちは通うのか。
子供たちにはそれぞれ夢があります。
パイロットになりたい。
先生になりたい。
獣医になりたい。
お医者さんになりたい。
夢を叶えるために、学びたい。
彼らが何時間もある通学路を毎日通うのはそういうモチベーションを持っているからです。
そして学校に通えること自体を、ありがたいと考えています。
だからそういう機会を無駄にしてはいけないという気持ちもあるように感じました。
子供たちの家族も、子供たちが学べる環境にあることへ感謝の気持ちを持っています。
ジャクソンのお父さんも、ザヒラのおばあさんも、カルロスのお父さんも、サミュエルのお母さんも。
日本では教育の環境は整備されています。
小中学校は義務教育ですし、誰でも教育を受ける権利(そして義務も)持っています。
それは当たり前のことなのですが、当たり前すぎて日本人はその素晴らしさを忘れてしまっているかもしれません。
日本では受験戦争と言われて久しいですが、そこで重視されているのは「学校で何を学ぶか」ということではなくて、「学校に入る(在籍する)」ということなのですよね。
そもそも学校は何かを学ぶための場所(手段)であるだけなのに、そこに入ることが目的化してしまっているのです。
だから学校に行く意味を感じられない。
それは学校に通う子供たちだけの問題だけでもなくって、たぶん親たちもそうなんですよね。
子供を学校に入れることだけが目的化してしまっているような気がします(お受験とか)。
また学校に通えるありがたさのようなものも忘れてしまっているのかもしれません。
百年前くらいの日本でも、学校まで歩いて何時間もかけて通ったという話があったというのは聞いたことがあります。
そのころの日本はようやく誰でも学べるような環境にはなってきましたが、まだまだインフラは揃っていなかったのでしょう。
けれど学べる環境にあることをありがたいと思い、そしてその機会を活かしたいと思ってその頃の子供たちは学校に通っていたのでしょうね。
ゴールデンウィークだったからか、劇場には小学生くらいのお子さんを連れてきている方もいらっしゃいました。
子供たちにこの映画を観て何かを感じてもらいたいと思ったのでしょうね。
映画を観た子供たちはどんな感想を持ったのかな?
ちょっと聞いてみたい気もしました。

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2014年5月 4日 (日)

「アメイジング・スパイダーマン2」 大人になりきれない少年

リブートした「アメイジング・スパイダーマン」シリーズの2作目です。
サム・ライミ版は好きなのですが、前作の「アメイジング・スパイダーマン」はどうもなにか乗り切れない感じがありました。
その印象は本作についても同じで、そして観ていてなんとなく理由がわかった気がします。
それは主人公ピーター・パーカーを含め、登場人物(本作ではマックス<=エレクトロ>、ハリー・オズボーン<=グリーン・ゴブリン>)が「幼い」ということです。
この「幼さ」というのはもちろん見た目がということではなく、精神的な面についてです。
ピーター・パーカーはサム・ライミ版でも、本作マーク・ウェブ版でも、ベン叔父さんの死をきっかけとし、特別な力を持つ者の責任を自覚し、スパイダーマンとして悪と戦うことを決心します。
両監督版ともにピーターは「悩めるヒーロー」であるわけですが、よくよく考えるとそれぞれのピーターが悩むポイントは大きく違います。
サム・ライミ版のピーターは、正義を守り悪と戦うことをまさに「決心」しました。
だからこそ、ガールフレンドであるMJを危険に巻き込みたくないと、彼女との愛を諦める決心をしたのです。
この決心について彼の覚悟はかなり強く、そこに彼のヒーローとしての強い自覚(これは大人としての責任の自覚に通じる)を感じました。
彼はスパイダーマンとなることにより、大人になっていく青年(大人と子供の間)であったのですね。
それに対してマーク・ウェブ版のピーターです。
悪と戦うことを決め、そしてガールフレンドであるグウェンを巻き込みたくないため会わない決心をするというのはサム・ライミ版と同じようではあります。
しかし、マーク・ウェブ版のピーターは自分で会わないと決めたわりには、そのことをウジウジと悩んだり、グウェンの動向をうかがったりしています。
自分で決めたことをしっかりと成し遂げられないこのゆるゆるした感じに、どうも「幼さ」というのを感じてしまうのです。
大人になる階段を上っていく途上の青年、というよりは、大人になれない少年といった印象をマーク・ウェブ版のピーターに持ちます。
冒頭にあげたマックス<=エレクトロ>、ハリー・オズボーン<=グリーン・ゴブリン>にも「幼さ」を感じます。
二人ともそれぞれにピーター<=スパイダーマン>へ友情を感じていますが、それぞれあるきっかけでその気持ちを裏切られたと感じ、ピーターの敵対者となります。
しかしそもそも彼らが感じていたピーター<=スパイダーマン>への友情はいわば一方的でもあり、そして自分に都合がよいものでもあったのです。
マックスのピーターへの友情はまさに一方的で、その友情が通じないと感じるやいなや敵となる。
なんとなくストーカー事件のようでちょいと恐ろしい。
ハリーは、友情があるならば自分のためになにかしてくれて当然と考えている節があります。
その望みが叶えられないとわかるや、友情を裏切られたと感じる。
サム・ライミ版のハリーは父親を殺された(と誤解していたわけだが)恨みを晴らすいう(間違っているにせよ)目的を持っていたわけですが、マーク・ウェブ版のハリーは逆恨みと言ってもいい。
マックスにせよ、ハリーにせよ、スパイダーマンの敵となる理由がとても「幼い」。
しかしこの「幼さ」こそがマーク・ウェブの狙いであるとも言えるかもしれません。
監督をした「(500)日のサマー」でも大人になりきれない少年のような男が主人公でした。
彼が描きたい人物はそのような大人になりきれない少年なのかもしれません。
ヒーロー映画というよりは、青春映画という印象が強いです。
ただ個人的にヒーローものに求めるものは、こういうのではないのですよね。
だから僕はこのシリーズに乗り切れないのかもしれません。

<ここから先は大きくネタバレしているので大注意>

サム・ライミ版でピーター・パーカーのガールフレンドであったのはMJでした。
彼女はコミック版でもピーターの妻となったキャラクターです。
しかし「アメイジング・スパイダーマン」でのヒロインはMJではなく、グウェン。
コミック版ではグウェンはピーターのガールフレンドでしたが、グリーン・ゴブリンに殺されてしまうのです。
だから「アメイジング・スパイダーマン」が公開されたとき、なぜMJではなくグウェンなのかと思ったのですが、本作を観ると彼女の運命は最初から決まっていたということなのでしょうか。
上でこのシリーズの登場人物は「幼い」と書いてきましたが、そのような人物が多い中でグウェンは聡明で大人な考え方を持った女性でした(あとはメイおばさんくらいか)。
ピーターは彼の「幼さ」故に、何よりも大切なグウェンを失いました。
子供から大人になるためとしては大き過ぎる犠牲です。
彼はグウェンの死から何を感じたのか、そしてそれにより彼は大人になっていくことができるのでしょうか。
「アメイジング・スパイダーマン」は3作目も作ることが決定しているとのことですが、そこでは大人になったピーターが見れるのでしょうか。
もし彼が大人になれていなかったとしたら、グウェンの死はあまりにも哀しいものとなってしまいます。

前作「アメイジング・スパイダーマン」の記事はこちら→

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「ウォルト・ディズニーの約束」 バンクス氏を救え!

「アナと雪の女王」が世界中で大ヒット、ディズニーの黄金期がまた訪れたとも言える現在、ウォルト・ディズニーと「メリー・ポピンズ」の原作者P.L.トラヴァースとの間にあった物語が作られました。
邦題は「ウォルト・ディズニーの約束」ですが、原題は「SAVING MR.BANKS」で、直訳すれば「バンクス氏の救出」になりますでしょうか。
バンクス氏は「メリー・ポピンズ」の中に登場するキャラクターで、その彼を救い出すというのはどういうこと?
それはこの作品を観ていくうちにわかってきます。
本作はよくよく考えると凝った作りになっています。
それは二つ(もしくは三つ)の物語がこの作品のなかで描かれ、それらが上手に絡み合っているのですね。
一つの物語はトラヴァーズが子供の頃の出来事で、彼女が両親や妹と一緒に暮らしていた頃の話です。
もう一つの物語は、トラヴァースとディズニーが「メリー・ポピンズ」の映画化についてぶつかり合っているときのお話。
三つ目はしっかり描かれているわけではありませんが、「メリー・ポピンズ」という物語そのもの。
トラヴァースとディズニーはお互いに物語を作るクリエーターではありますが、その性格はまるで正反対です。
想像力あふれる物語を作ったトラヴァースですが、実生活では厳格であり、現実主義なところがあります。
彼女の現実主義は、ディズニーの西海岸的な明るさや楽天主義を許せません。
世の中は必ずハッピーエンドをむかえるディズニーの物語のように甘いものではなく、だからこそ子供たちには現実に対処できる術を教えてあげなければいけないと考えています。
現実に目を背け、夢の世界に逃げてはいけない。
トラヴァースがそのように考えるわけは、彼女の子供時代にありました。
彼の父親は子供のような心を持った人でした。
いつも想像の世界に遊ぶギンティ(トラヴァースの子供の頃の愛称)の想像力を彼は認め、それを伸ばそうとし、いっしょに遊んでくれました。
そんな父親をギンティは大好きでした。
しかし子供のような心をもった父親は、厳しい世の中で上手に生きていけませんでした。
彼は銀行に勤めていましたが、そういった世界に馴染めなかったのです。
やがて彼はお酒に救いを求め、やがて体を壊し他界してしまうのです。
大好きだった父が精神を病み、体を壊していく様子をギンティは見ていました。
父親に対して何もできないことを悔やみながら。
幼い心で、ギンティ(=トラヴァース)は現実の世界は必ずハッピーになるものではないという諦め、そして父親に対しての後ろめたさを感じたのでしょう。
だからこそ、彼女にとってディズニーの楽天性が鼻につくのです。
それではディズニーはどうだったのでしょうか。
ディズニーも幼い頃、不幸な時を過ごしました。
子供の頃より厳格でケチな父親のもとで厳しい環境で働かされ続けました。
本作で具体的に描かれているわけではありませんが、そういった環境の中で彼は想像の翼を広げていたのかもしれません。
現実は厳しいけれど、とても楽しいこと、ハッピーなことは想像できる。
やがて彼の想像力、そしてそのハッピーな物語は人々の気持ちを明るくすることに彼は気づいたのでしょう。
だからこそそういったものを作り続けるのです。
人一倍想像力があって、そして不幸な子供時代を過ごした。
トラヴァースとディズニーは実は共通点があったのですね。
厳しい現実に対してのちょっとした捉え方の違いが、二人の性格の大きな違いと現れたのです。
本作を観ていけばわかるように「メリー・ポピンズ」の中に登場するバンクス氏は、彼女の父親そのものと言っていいのでしょう。
メリー・ポピンズには、父親が病気になったときに手伝いにきてくれた頼りになる伯母さんのイメージが強く表れているのでしょう。
おろおろしてしまっている母親に成り代わって、家事を仕切る伯母さんは幼いギンティにとってのメリー・ポピンズだったのですね。
だからこそトラヴァースは「メリー・ポピンズ」の登場人物たちを「私の家族」と呼ぶのです。
トラヴァーズが「メリー・ポピンズ」の映画化を拒み続けたのは、彼女が思っていたディズニー流の作り物めいた魔法で描かれたとき、父親や家族たちの存在も何か嘘くさいものになってしまうような気がしたのではないでしょうか。
また可哀想な父親の映し姿であるバンクス氏を描くことは、またもや父親の不幸と悲しみを繰り返し体験することになるかもしれないという思いもあったのかもしれません。
なにより父親が哀しい人であるということが定められてしまうというのが辛かったのでしょう。
しかしディズニーは「バンクス氏は大丈夫だ」とトラヴァースに言います。
バンクス氏はただの嫌みな銀行家ではない。
本当のところ心根はやさしい人なのだ。
バンクス氏にも幸せになってほしい。
トラヴァースにとっても、ディズニーにとっても自分の作ったキャラクターは自分たちの家族そのもの。
だから彼らにも幸せになってほしい。
それは二人にとって共通の想いだったのですね。
だからこそ「SAVING MR.BANKS」なのです。
バンクス氏の人生を哀しいもので終わらせるのではなく、バンクス氏が幸せになれるような結末を用意する。
それはトラヴァースにとって、バンクス氏の人生を哀しいものではなくすることは、彼女の父親の人生もただの不幸であったわけではないと認識できることにつながったのかもしれません。

正直言うと「メリー・ポピンズ」はしっかりと観たことはないのです(劇中歌は何度も聞いたことがありますが)。
今度ちゃんと観てみようかな。

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