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2014年4月27日 (日)

「キャプテン・アメリカ/ウィンター・ソルジャー」 ブレない正義

キャプテン・アメリカは純粋に人を助けたいというピュアな心を持った正義の人である。
そして彼はアメリカという国の象徴でもあります。
昔はアメリカは正義の国であり、国のために戦うということは正義のために戦うということでありました。
しかし、それから世界は変わり、国のありよう、正義のありようが変わっていく中で、キャプテン・アメリカは自分の心にある正義とはどこにあるのかということが彼の悩みとなっていきます。
今回、彼が所属している秘密機関「S.H.I.E.L.D.」の動きが怪しい動きを見せます。
正義を守るはずの「S.H.I.E.L.D.」が人類に対しての脅威になり、またキャプテン・アメリカらアベンジャーズの敵としての顔を見せ始めるのです。
実は「S.H.I.E.L.D.」はキャプテン・アメリカがナチとの戦いのなかで滅ぼしたとされる組織「ヒドラ」に巧妙に支配されていたのです。
まさにその組織はヒドラで、頭をいくら切り落としても、頭が増えて復活してくる。
「ヒドラ」のメンバーは巧妙に「S.H.I.E.L.D.」に潜り込みその組織を支配し、そして彼らの計画を実行しようとします。
キャプテン・アメリカにとって正義を実行するという同じ目的を持った仲間である組織が変質し、自らと敵対することとなったとき、彼はどうするのか。
しかし、彼は迷いません。
彼の心の中にある正義をなすためであれば、「S.H.I.E.L.D.」という組織自体を壊すことも厭わない。
このブレのなさというのがキャプテン・アメリカの本当の強さなのでしょう。
彼の強さは肉体的に強いということだけではないのです。
「キャプテン・アメリカ」の企画を聞いた時は、あまりに「アメリカ的」な存在であることが今の時代ジョークにしかならないのではないかと危惧していました。
しかし1作目から「アベンジャーズ」を経て、本作を観てみると、ブレがないキャプテン・アメリカを通して、世界がより混沌としていき、正義というものも何なのかわからなくなっていく時代を表すことができているように思います。
まさに国際情勢や価値観が大きく変わろうとしている時代だからこそ、ブレないキャプテン・アメリカというキャラクターが登場したという意味なのかもしれません。

アクションは見応えありましたね。
けっこうマーシャルアーツ的な要素も増えたり、アクロバティックな動きを見せたりということでおもしろかったです。
相変わらずスカーレット・ヨハンソンは美しく色っぽいので、見ていてドキドキしちゃいます。

一作目「キャプテン・アメリカ/ザ・ファースト・アベンジャー」の記事はこちら→ 

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2014年4月20日 (日)

「ワールズ・エンド 酔っぱらいが世界を救う!」 バカをやる自由

「ショーン・オブ・ザ・デッド」「ホット・ファズ -俺たちスーパーポリスメン!」のエドガー・ライト監督×サイモン・ペッグ×ニック・フロストの最新作観てきました。
前の二作(+「宇宙人ポール」も)もかなり笑わせてもらって大好きな作品なのですが、本作も同じく大好きです!
主人公のキングは40歳を過ぎた今となっても、その精神は悪ガキだったころのまんま。
いっしょにつるんでいた仲間たちは今では至極全うな普通の生活を送っています。
キングはふと思い立ち、学校卒業の日にやろうとして果たせなかった「地元のパブを12件はしご酒で制覇」という一大事業(?)を達成しようと友人たちを誘い出します。
相変わらず強引なキングに辟易としながらも、集まったかつての仲間たち。
12件目のパブ「ワールズ・エンド」を目指して彼らの偉大なる(?)旅が始まります。
先にあげた作品と同様、本作もエドガー・ライトやサイモン・ペックが好きであろう過去の映画へのオマージュに溢れています。
「ショーン・オブ・ザ・デッド」はロメロの「ゾンビ」等のゾンビ映画、「ホット・ファズ -俺たちスーパーポリスメン!」は「ハートブルー」や「バッドボーイズ」等のアクション映画へのオマージュでしたが、本作はSF作品、中でも「光る眼」等の異星人が人知れずに侵略しているというパターンの作品へのオマージュですね。
相変わらず微妙にマイナーなところを狙ってくるところがなかなかいいです。
そしてそういった映画への愛が感じられるのが、彼らの作品が好きなところです。
映画ファンならわかりますよね。
エドガー・ライトとサイモン・ペックの笑いのツボは、個人的にとっても合っているらしく、観ていて爆笑してしまうところがいくつもありました。
やっぱ、いいですねー。

と笑っていい気分になって帰ったのですが、レビューをしようと考えていると意外とこの作品、深いところもありそうです。
主人公キングはいい年をしてほんとうに子供っぽい。
大人になって常識的になっている悪友たちからみても、ちゃんと考えろと言いたくなるくらい(特にサイモン・ペックと名コンビであるニック・フロストが演じるアンディは口うるさく言う)。
物語が進むにつれて明らかになってくるのは異星生命体の存在。
銀河系には銀河連合的なものがあり、そこに加われるように地球人を教育しようとしているのだということ。
彼らから見れば地球人は幼くて野蛮。
地球人が成長するために導いていこうとしているのだ(あくまで彼らの言い分ですが)。
これは今までもSF作品(小説や映画)ででもしばしば見受けられたテーマです。
「2001年宇宙の旅」や「幼年期の終わり」などの名作SF映画や小説は、人間がやがて一つ上のレベルの生命体として「大人になっていく」ステップを描いています。
「大人になれ」っていうのは、青年期によく言われることではあります。
大概それは正しくて自分が大人になってからそれを実感するものではありますが、子供の頃は「うるさいなー」と思うのは誰しも同じではないでしょうか。
「バカができる」のは今だけじゃないか、と。
それを宇宙レベルで言ってしまったのが、キングだったのは(彼はその自覚がないかと思うけど)。
彼は異星生命体と話をし、地球人を教育するために一連の「入れ替え」を行っているという説明を受けますが、彼は「バカをやる自由がほしい」と言います。
まさに我々が子供の頃に大人たちに「大人になれ」と言われて「うるさいなー」と言うのと同じ反応。
「なんで大人にならなきゃいけないわけ?」って感じですよね。
それが地球を滅ぼしちゃったとも言えるわけでもあるのですが、キングだけはイキイキとそのような世界を生きているってのが皮肉でもあります。

とはいえ、劇中にキングとその仲間たちのビールの飲みっぷりはほんとにうまそうでしたね〜。
さすがパブの国。
影響されて、映画の帰りにビールを飲んだのは言うまでもありません。

「ショーン・オブ・ザ・デッド」のレビューはこちら→
「ホット・ファズ -俺たちスーパーポリスメン!」のレビューはこちら→

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2014年4月19日 (土)

「白ゆき姫殺人事件」 ここにいるよ

記憶は、必ずしも事実とは違います。
人は思い出したいように思い出し、そこには自分でも気づかない捏造が入ってくるものです。
そのため捜査や取材では、一人の証言だけを元に事実と語るのは非常に危険であり、いわゆる「裏取り」や「物的証拠」がたいへん重要となります。
捜査機関や報道関係者による冤罪や誤報というのは後を絶たないが、それでも彼らはプロであり通常の業務に追いては「裏取り」「物的証拠」の重要性は認識している(と思います)。
しかし現代においては、いわゆるマスメディアとは異なる新しいメディア=インターネットが浸透してきているのは、みなさんが認識している通りです。
事実は必ず一つであるのにも関わらず、人に聞けば聞くほど事実が曖昧になっていくということは今までも「羅生門」等複数視点ででも描かれていました。
本作では現代を象徴するインターネットを題材として取り上げ、記憶と事実が異なるということをこんにち的に描いています。
ネット以前はある特定のプロだけしか多くの人に情報発信ができませんでしたが、今では誰でも世界中に情報発信ができます。
個人がマスメディアと同じように情報発信できることになった良さとリスクというのはいろいろなところで今までも語られてますが、本作「白ゆき姫殺人事件」はそのリスクを描いた物語になっています。
ネットのリスクはいろいろありますが、本作で描いているのは「誤情報の拡散」ですね。
捜査機関や報道関係者が「裏取り」「物的証拠」を重要視するのは「正しい事実を見つける」という職業意識というものもありますが、それ以上に誤情報を発信してしまった時の彼らのリスクがものすごく高いということもあるかと思います。
誤情報を発信した時は、組織体としても、また個人としても責任に対しての追求があります。
それは彼らにとって非常にリスクです。
だからそれを発表する前には、しっかりとした「裏取り」「物的証拠」を調べるのが普通です。
けれどネットで情報を発信する個人(特に匿名の場合)はそういったリスクを感じない人もいます。
(※脱線しますが、個人もリスクがないわけではなく、本作のラストであったようにいろんな手段で実名を調べられ、いわゆる”曝される”危険性はあると認識しておいた方がよいでしょう。)
誰かの証言というよりも、誰かの推論のようなものも、まことしやかに事実として伝えてしまう(いわゆるデマ)危険性があります。
その危険性は発信者となる場合も、受け手となる場合も常に意識しておいたほうが良いですよね。

あとコミュニケーション戦略を仕事をしている自分からすると、いわゆるマスメディアとネットの相乗効果での爆発的な情報拡散現象も興味深いところを描いているなと思いました。
インターネットでの小さなネタをマスコミが拾い、それをマスメディアで報道する。
それを見た個人がそれをネタに情報をさらに拡散する。
企業や広告代理店からするとそういう拡散現象を仕掛けられるといいのですが、それはなかなか思い通りにいくわけでもなく、なかなか日々悩むところではあります。
逆に本作のような負の要素のマスメディア・ネットメディアの相乗効果による情報拡散などはリスクとして非常に恐いものでもあります。
いわゆる「風評被害」的なものというのは、相手も見えず対応に苦慮するところがあります。
本作の城野美姫が、自分が関われないところで自分とは違う自分が作り上げられている恐さを感じていましたが、これは個人であっても企業であっても同じように感じるものであると思いました。

誰もが自分の都合の良いように証言する人々が登場する中、唯一美姫のことを思い語る人物がいます。
その人物と美姫が最後にコミュニケーションを行う方法は、ロウソクの火によるモールス信号。
インターネットやテレビなどの現代的な方法に比べれば、情報量もスピードも比べ物にならないくらい少ないアナログなコミュニケーション手法です。
けれど相手のことを良く知っていていて強く思っている間柄であれば、想いを伝えるのはそれで十分なのかもしれません。
「ここにいるよ」ということが伝えられれば。

美姫にとっての”無二の親友”である人物のダイアナではなくてギルバートでありたいという気持ちはとっても切なかったですね。

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「リベンジ・マッチ」 再戦で手に入れるもの

名作ボクシング映画「ロッキー」と「レイジング・ブル」。
それぞれでロッキー・バルボアを演じたシルベスター・スタローン、ジェイク・ラモッタを演じたロバート・デ・ニーロがライバルとなり60歳を越えた年齢でのリベンジ・マッチを行う!
映画ファンのツボをつく、なるほどという企画を思いつきましたね。
今回スタローンはレーザーを、デ・ニーロはキッドというボクサーを演じますが、それぞれの今までの作品を髣髴とさせる性格設定となっていて、ほんとにあの作品から30年後の彼らが戦うというような感じにもなっているところが気が利いています。
そういったつかみの設定だけでなく、中のシナリオの設定もよくできています。
互いに一度しか負けたことがなく、レーザーにとってもキッドにとっても、その一敗はお互いでした。
どちらがほんとうに強いのか決着をつけることなくレーザーは引退してしまい、それから30年が経ってしまいました。
レーザーはボクシングから背を向けて生きてきていて、キッドは事業では成功するものの何かし残しているような未充足感を感じています。
そしてふとしたことがきっかけになり企画が持ち上がった二人の「リベンジ・マッチ」。
再び彼らは拳を戦わせることになるのか・・・。
レーザーがボクシングを引退したのは、恋人であったサリーをキッドに寝取られてしまったから。
愛する者を奪われたことでレーザーは傷つき、そのため彼女を奪ったキッドの最も大切なもの=ボクシングを奪うためにボクシングを引退することとしたのです。
しかしレーザーにとってもボクシングは大切なものでした。
だから悔やまぬようにテレビも買わず、ボクシングを自分の目に触れぬようにしていました。
またサリーの謝罪も決して受け入れようとしませんでした。
レーザーは彼の頑さから、ずっと愛するもの=サリーとボクシングから、自らを遠ざけていたのです。
かたやキッドは。
サリーがキッドに身を預けたのは、愛する自分を差し置いてボクシングにストイックに向かうレーザーに当てこするためでした。
しかしそういった行為によりキッドとの間に子を宿してしまいます。
キッドは子ができたことに責任を感じ、サリーに結婚を申し出ますが、レーザーを愛するサリーに拒絶されます。
それによりキッドはずっと我が子とは離ればなれに暮らすことになります。
キッドとサリーの子BJは、リベンジ・マッチの話が出た頃に、初めて本当の父親であるキッドのことを聞き、彼の元を訪れます。
キッドについては初めて彼と出会うことになりました。
いままで何も父親らしいことをできなかったキッドですが、BJが彼のトレーナーをやってくれることとなり、初めて父子らしい関係をできるようになったのです。
しかし彼のちゃらんぽらんな性格が災いし、BJの子供(つまりは彼の孫)を危ない目に合わせてしまい、BJ
から軽蔑されてしまいます。
そういった状況の中で、レーザーとキッドは再試合に挑みます。
その試合は彼らが大事にしていたもの=ボクシングを再び取り戻すための場であったわけですが、もうひとつの大事なもの、レーザーにとっては愛する者=サリーとの愛、キッドにとっては親子の愛を得るための場でもあったのです。
設定としてはレーザーの愛する対象であるサリー、キッドにとってのその対象であるBJが母子であるというのが気が利いていると思いました。
これによりレーザーの側の視点、キッドの側の視点が上手く絡み合う形にできたと思います。
ということで脚本は割と良くできているなと思ったのですけれど、事前のつかみで期待した感じほど物語が大きく盛り上がる感じがしなかったのは確かです。
ラストはもう少しベタでもいいから煽る感じでもよかったかな、「ロッキー」のように。
老人自虐的なコメディ要素も楽しいかった(デ・ニーロはこういうコメディタッチも上手です)のですが、こういうのを活かしつつ、感動的に終わらすのもできるようにおもいました、「ミッドナイト・ラン」のように。
主演の二人ともいままで実績がある俳優ですし、名作と言われるいい作品にも出ています。
それだけで期待値があがってしまうので、演出面でもう少しがんばってもらいたかったかなという感じがしました。

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2014年4月13日 (日)

「神様のカルテ2」 悩みは続く

人は生き続けている間、最後まで悩み続けるものなのかもしれません。
主人公の一止は前作でも医者とは何なのか、自分がするべきことは何なのかということを悩み、足掻きながら、それでも目の前にいる患者の気持ちを安らかにしようと仕事をしてきました。
前作に続いて本作においても彼の悩みは続きます。
そして本作から新たに登場する人物が、一止の旧友である辰也です。
医者の仕事は怪我や病気の患者がくれば、自分の生活を犠牲にしてその役割を全うすることが求められます。
一止も目の前の患者を救うために、休みも取らず働き続けています。
けれど辰也は医者は医者である前にひとりの人間ではないかと言います。
人を救うために、自分を、そして家族を犠牲にし働くのが、人間として正しいのかと。
お医者さんという仕事は人の命を扱う仕事のためシビアではあるのですけれど、同じようなことは普通の仕事をしていてもあることだと思います。
大事なお客さんがいる、会社の中で自分の役割がとても重要である、たくさんの部下を抱えている・・・会社のために誰かのために一所懸命働いている人はたくさんいますよね。
少なからず家庭を犠牲にしている人もいるでしょう。
働くということは、家族を養うためという側面と、社会において自分がやれる責任を果たすことという側面があります。
どちらも大切なことなのですが、そのバランスをとることはとても難しい。
真面目で一所懸命であればあるほど。
どういうような働き方がいいという万人に当てはまる最適なバランスというのはたぶんなくて。
仕事や家族の状況というのはそれぞれの人で違うもの。
だからこそ自分だけでなく、家族や仲間との間で、自分たちにとって最適なバランスを見つけていくしかないのでしょう。
そのバランスを探っていくことこそが、悩みそのものなんですね。
状況はずっと固定化されているわけではありません。
だからこそ悩みは終わるものではなく、ずっと続くのですよね。

このシリーズは人の死というのをストレートな視点で描いています。
たぶんそのまっすぐな視点というのは一止という人物がまっすぐであるからということによるのでしょう。
ですので、貫田先生のために病院の明かりを消した場面は彼らの気持ちが素直に届いて、ブワッと涙がでてしまいました。

前作「神様のカルテ」の記事はこちら→

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2014年4月 6日 (日)

「アナと雪の女王」 真実の愛

予告編で主題曲「Let It Go」が流れる前半のクライマックスシーンを見せていたことに驚いた「アナと雪の女王」を観てきました。
一番いいところを見せてしまって、という意見もあるでしょうが、自分としてはこういういい場面があるなら全編観てみたい!と思ったので、良い予告編だったのではないでしょうか。
さて本編についてです。

<ネタバレなところもありますので、注意です>

邦題は「アナと雪の女王」というディズニー作品っぽいタイトルになっていますが、原題は「FROZEN」。
内容を観ると「凍った心」といったニュアンスでしょうか。
その「凍った心」の持ち主はというと本作のダブルヒロインの一人、女王エルサのことでしょう。
彼女は幼い頃より触れたものを凍らせてしまうという力を持っていました。
しかし事故とはいえ、その力でエルサは妹アナを傷つけてしまいます。
そのためエルサは自分の力を忌まわしいものと感じ、そしてそれがコントロールできなくなることを恐れ、アナに近づかないようになりました。
アナにはエルサの力の記憶はないので、なぜ姉が自分のことを避けるのかわからず悩みます。
妹は姉に「扉を開けて(Open the Gate)」と呼びかけます。
閉ざされてしまった心に。
凍ってしまった心に。
エルサが女王になる戴冠式の日、国民に彼女の力のことが知られてしまいます。
忌まわしいものを見るような人々の目に、いたたまれなくなったエルサは出奔してひとり雪山をさまよいます。
ここで予告で流れるのですが、この場面はやはり良いですね。
傷ついていたエルサが歌っていくうちにイキイキとした表情となっていきます。
愛する故郷を追われるように出てきたけれども、実はそれは彼女の心を解き放つことでもあったのですね。
映像も音楽も、彼女が初めて味わう自由を高らかに盛り上げていくところは素晴らしい。
かたやアナは自分の行為が姉を傷つけてしまったことを悔やみ、彼女を追います。
いくつかの困難を経てアナはエルサのいる雪の城にやってきますが、姉は妹を傷つけたくない一心で共に戻ることを拒否します。
そのときにアナは心臓にエルサの冷気の力を受けてしまい、次第に体が凍り付いていくことになります。
凍り付く体を解かすのは「真実の愛(True Love)」だけ。
かつてのディズニーの映画であればその「真実の愛」は彼女を愛する男性でありました。
本作でもハンスであったり、クリストフがそのような役を担うのではないかと思わせるようなところでありましたが、違いましたね。
それがこの作品の脚本のすごいところ。
アナに愛を囁いたハンスは実は王国を狙っており、エルサの命も狙っていました。
そのハンスの刃がエルサを斬りつけようとした時、アナは身を挺してエルサを守ります。
凍り付いたアナの体はハンスの刃を砕きます。
アナを救おうとしたクリストフも一歩及ばず、この物語は悲劇で終わるのかと思っていましたが、アナの体は再び生気を取り戻しました。
アナは「真実の愛」で救われたのです。
アナは誰かから「真実の愛」を受けることによって救われるのではなく、自分が誰か(エルサ)に「真実の愛」を与えることによって救われたのですね。
この場面はちょっとジンときました。
ディズニーの定番の展開と思わせながら、その予想の上をいく見事な脚本です。
素晴らしい。
最近のディズニーのアニメは着実にクオリティが上がっていますね。
映像だけでなく物語も一級品になってきています。
これからも期待していきたいですね。

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「THE NEXT GENERATION パトレイバー 第1章」 「パトレイバー」について振り返った

ついに実写版の「パトレイバー」が公開!
雑誌等に掲載されていた原寸大のイングラムの写真から期待度が高まっていたので、早速観に行ってきました。
「パトレイバー」についてあまり知らない方にこちらでちょっと解説を。
「機動警察パトレイバー」は最初はオリジナルビデオアニメとしてリリースされました。
並行してゆうきまさみさんがコミック版を少年サンデーに連載、その後地上波のアニメに展開、そしてさらには劇場版3作が作られた大シリーズとなりました。
監督は押井守さん、メインの脚本は伊藤和典さん、キャラクターデザインは高田明美さん、メカデザインは出淵裕さん、音楽は川井憲次さんという今思うと錚々たるメンバーですね。
OVA(オリジナルビデオアニメ)やテレビシリーズは、ロボットのアニメでありながらもパトレイバーがまったく動かない回すらあり(特車二課の面々の日常が描かれる)、ロボットアニメとして異色を放っていました。
しかし、これは押井守さんや伊藤和典さんが「うる星やつら」等でやっていた独特なテイストをロボットアニメに持ち込んだというもので、彼らの個性がとても強く出ている回でもありました。
具体的に言うと、「うる星やつら」ではメガネが延々と能書きを講釈するというシーンがいくつもありますが、このシリーズでそれを行うのは主にシバシゲオという整備班員(いずれも千葉繁さんが演じる)です。
果てなき日常の繰り返しというのは「うる星やつら」の劇場版「ビューティフルドリーマー」のメインテーマでありますが、そのテーマも「パトレイバー」では幾度か取り上げられています。
確かに友引高校と特車二課のハンガーは何か共通の臭いを感じるところがありますね。
僕が「パトレイバー」の中で最も好きなのは劇場版の1作目と2作目でした。
「パトレイバー」というシリーズは、現在(1990年代後期当時)の状況に人が登場して動かすロボットが社会に導入されたらというifを精緻にシミュレートした作品でもあります。
社会は、人々の生活はどう変わるかということをリアルにシミュレートした作品というのはあまりなかったと思います。
特に劇場版の2作はパトレイバーというロボットを呼び水にサイバーテロ、ミサイルテロが現実に起こったらというシミュレートを行っています。
2000年代に入り、実際にサイバーテロや航空機によるテロが起こり世の中が大きく変わったのはみなさんが知っているところですが、「パトレイバー」劇場版はそういうことが起こりうるとことの予言というか警告になっているので、今改めてみると課題の提示の先進性に驚きます。
ifをシミュレートするという「パトレイバー」のセンスはその後、伊藤和典さんが脚本する「平成ガメラ」シリーズにも受け継がれており、そちらで現実世界にリアルに怪獣が現れたとき国家は自衛隊は人々はどう振る舞うのかということを再びリアルにシミュレートしています。

さて大きく過去の作品の解説の方に振れてしまいました。
で、本作です。
本作の設定は過去のアニメの延長線上になっているようですね。
登場する特車二課のメンバーは三代目になっています。
しかし観ればわかるように、キャラクターの設定・性格はほぼアニメーション版といっしょ、名前もちょっと変えているだけ<泉 野明(いずみ のあ)→泉野 明(いずみの あきら)等>なので、ほぼ同じキャラクターと言っていいでしょう。
であればリメイクということでもよかったのではないかとも思う方もいるかと思いますが、二つの点で難しいのでしょう。
まず「パトレイバー」の作品は1990年代後半という世紀末の時代のバックボーンがあればこその作品であったと思います。
さきほど予言と書きましたが、「パトレイバー」が90年後半の世の中の様子からシミュレートしたように、世の中は事件が起こり、そのありようは大きく変わりました。
大きく変わった背景で同じような物語を描くのは難しいところはあるのでしょう。
また実写であるからには背景はその時代を反映しなくてはいけないのですが、それはなかなか難しい。
喧噪のバブルを経て、長期不況、そして最近の景気回復基調による街並の変化がこの20年で進んでいます。
ある意味「パトレイバー」の描く時代は昭和の残り香のようなものがあった時代でありました。
なかなかそういう雰囲気を実写でだすのは難しいということはあるのではないかと思いました。
とはいえ今回の第1章を観ると、劇場版の「パトレイバー」というよりは、OVAの頃の「パトレイバー」の雰囲気を狙っている感じを受けました。
何度も繰り返す待機状態、なかなか立たないイングラムというしょーもない話(ほめてる)だけで1話を作るというのいうのは、昔の「うる星やつら」「パトレイバー」でもあって、懐かしい押井守テイストだなと思いました。
今回の実写版はこういうテイストでいくんでしょうね(予告でやっていた第2章などもそんな感じでしたし)。
実写版のイングラムはあまり動かなかったですけど、カッコいい。
重機っぽい質感も出ていて、いい感じでした。
お台場のガンダムみたいにどこかに飾ってくれないかな・・・。
キャストは割とオリジナルのアニメに雰囲気に近い人をキャスティングしていましたね。
後藤隊長じゃなかった後藤田隊長の筧さんは雰囲気そっくりでよいですね。
筧さんで思い出しましたが、「踊る大捜査線」シリーズというのも「パトレイバー」の系譜を継ぐものだと思うのですよね。
公務員なのにカタにはまらない刑事、中央から離れた場所にある警察署などという設定はまさに特車二課そのものです。
カーシャ役を演じていた太田莉奈さんってあまり知らなかったのですが、超美人さんで一発で惚れました・・・。

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