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2014年2月22日 (土)

「小さいおうち」 小さい罪

こちらの作品は観る予定ではなかったのですが、出演している黒木華さんがベルリン映画祭で銀熊賞を受賞されたと聞き、観に行くこととしました。
黒木さんを初めて映画で観たのは昨年の「舟を編む」で、あちらは現代的な若者という役柄でしたが、本作では朴訥で一途な女中さんの役。
まったく違うタイプの役柄でしたが、どちらも自然に演じていて確かに上手いなと思いました。
決して目を見張るような美人さんではないのですが(失礼!)、本作で黒木さんが演じているタキちゃんの一途な振る舞いを観ているととてもかわいらしいと感じましたね。

さて作品の内容についてです。
本作は主人公であるタキという老女の葬式のシーンから始まります。
タキの遺品からは彼女がしたためていた自叙伝が見つかりました。
そこには彼女が昭和初期に女中をしていた一家での出来事「恋愛事件」が記されていました。
彼女は女中をしていた時の話をとても懐かしそうに、幸せそうに語ります。
健史(世話を時々しにくるタキの兄弟の孫)は時代的にも女中なんてそんな幸せであるわけないと言いますが、タキは「そんな奴隷みたいだなんて言わないで」と反論します。
僕もその当時の女中という仕事はよく知らないのですが、作品を観る限りはタキが住み込みをしていた平井家はタキのことを家族の一員と考えてくれていたように見えます。
特に奥様である時子は、主人と女中という一線はあるにしても、彼女に対して確かに愛情を持っていたと思います。
もしかするといろいろお話ができる妹のような存在に思っていたのかもしれません。
故郷から一人で上京してきたタキは家族を失っているようなもので、彼女にとっても平井家は大事な家族のように思えていたのでしょう。
特にタキにとって奥様は今まで見たこともないほどにあか抜けていて洗練されている大人の女性に見えたことでしょう。
また時子は女中である自分に対しても家族の一員のように接してくれる優しさももっていました。
タキにとって時子は憧れの存在であったに違いありません。
時子の親友である睦子が示唆するように、そこにタキの時子に対しての恋愛感情のようなものがあったかどうかはわかりません。
ただタキに自覚はなかったかもしれませんが、それに近いものはあったかもしれませんね。
そして奥様と旦那様の会社の若者の不倫疑惑が持ち上がります。
世の中も不穏になっていく中でそのようなことが露見すれば、平井家は崩壊してしまうかもしれません。
タキは奥様の想いを察しながらも、先行きへの不安な気持ちで胸を一杯にします。
大好きな家族がみな悲しんでしまう、ばらばらになってしまう。
自分のよりどころである大切な家族がなくなってしまう。
大好きな奥様を誰かに奪われてしまう。
自分でも上手く整理できない気持ちでタキは胸を痛めます。
結果的に出征してしまう奥様の思い人への最後の手紙をタキは届けずに、そのため二人は二度と会うことができませんでした。
この小さな家族は守られましたが、奥様の気持ちは犠牲になってしまったのです。
そして戦争は激しくなり、タキは平井家を離れなければいけなくなりました。
戦後故郷から必死の思いでタキは再び上京しますが、訪れた平井家の小さなおうちは焼けてしまい、奥様と旦那様はそこで死んだことを聞いたのです。
ここから先はどのようにタキが生きてきたかは映画の中では語られず、わかるのは現代でのタキの様子です。
タキは死ぬまで独身で、また親戚の世話を受けずに一人でずっと暮らしていました。
そして彼女が自叙伝で最後のくだりを書いたときに彼女は「長く生きすぎた」と涙を流します。
彼女は自問をし続けていたのかもしれません。
奥様の手紙を渡さなかったのは、大切な平井家を守るためということだったのだけれども、実は自分にとっての大切なものを守るためではなかったのかと。
そのために奥様が大切な想いをとげることの邪魔をしてしまい、そしてそれを叶えることなく奥様は亡くなってしまった。
大好きな奥様の幸せを奪ってしまったのは自分ではないのかと。
たぶんずっとこの想いにタキは苦しんできたのでしょう。
タキがずっと独身で、一人で暮らすことを望んできたのは、それに対しての罪滅ぼしであったのかもしれません。
戦後もずっと一人でそのような罪の意識で暮らしてきたことが幸せであったのかどうかはわかりません。
一途で愛情深いタキには幸せな暮らしをしてもらいたかったと思います。
が、罪を背負い続ける一途さもタキらしさであったのかもしれません。

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2014年2月21日 (金)

「大統領の執事の涙」 犬と狼

この作品のような黒人の公民権運動を題材にした作品を観ると、これがたった1世代前の出来事であることにいつも驚きます。
本作はホワイトハウスで7人の大統領に仕えた黒人執事セシルの生涯を描いていますが、彼はその一生の中で黒人の立場が大きく変わっていくのを観ていくのです。
この映画はいくつかの注目点があります。
冒頭に書いたように黒人が自らの権利を獲得していく苦難の歩みを知ることや、またホワイトハウスの執事という主人公の立場から、大統領たちの素顔や政治の裏側をかいま見るといったような楽しみなど。
しかし、こちらではセシルとその子ルイス親子の確執と和解について注目したいと思います。

セシルは南部に生まれ、幼い頃より白人からの差別を受けるという現実を見てきました。
そういった状況の中で、彼が生きていく上で学んだのは、誠実に相手の気持ちを考えて仕事をすることにより、相手に受け入れさせるということです。
当時、白人からすると黒人という存在は得体が知れない者、何を考えているかわからない者だったのでしょう。
何を考えているかわからないから恐ろしい。
だから攻撃をする。
しかしセシルのように相手の気持ちを考えて接すれば、それも相手に伝わり、少なくとも何を考えているのかわからない者ではなくなるんですよね。
だから受け入れられる。
そうやるのがセシルが身につけた処世術だったのでしょう。
セシルから見ても、大統領たちはとても好ましい人だったり、ちょっといけすかない人であったり、強い気持ちを持っていたり、弱さも持っていたり、それぞれに人間的な人々であると見えたでしょう。
白人といってもみながステレオタイプでなく、人それぞれに良さ悪さがあるわけです。
セシルは相手のことを「白人」の一人というのではなく、個性のある一人の人として理解し仕え、それによって自分たちのことも認めてもらうということを知らず知らずにやっていたのです。

セシルの息子ルイスからすると、黙々と白人に仕える父親の姿は、まさに白人に支配されている黒人の象徴に見えたのでしょう。
父親は確かに大統領たちに評価をされているのかもしれないが、それは一人の人間としてではなく、従順な犬のような存在としての許容をされているのではないかと。
確かにそのようなことはあったのかもしれません。
黒人の権利獲得について様々な施策を行った歴代の大統領もその言動には、黒人を一段下にみるようなところも感じられました。
ルイスは世の中が変わり始めているというのを若者ならではの熱い気持ちで受け止めました。
従順に仕えているだけでは本当の権利は獲得できない、そのためには戦うしかないと。
しかし非暴力の戦いであってもそれを挑めば、相手もそれに対して抵抗します。
白人からすれば何を考えているかわからない黒人のすることですからなおさらです。
その抵抗は激しく、そうすることにより黒人たちの戦いもより過激化していきます。
その対立には相手を相互的に理解しようとするスタンスがないのですね。
そうするとどちらかが相手を倒すというところまでいってしまうのです。

セシルからすればそういった息子の行動は、せっかく良好に築けていた白人との関係性を崩す無謀なことに感じられたのでしょう。
白人は怒れば容赦なく黒人の命を奪う。
それは彼が幼いころに経験したことです。
白人に牙を剥いた狼は殺されてしまう。
下手をすると狼の群れ始末されてしまうかもしれない。
またセシルは長年大統領たちに仕えている中で、彼らの自分への信頼により、白人社会に受け入れられているとも思っていたのだと思います。
そういう意味で白人のことを信じていたのでしょう。

このようにセシルとルイスは大きなところで考え方が異なり、それは親子としての対立を産み、絶縁をしてしまいます。
しかしそれぞれがそれぞれの人生を生きる中で、次第に相手の考え方にも思いが及ぶようになりました。
セシルは白人に受け入れられていると思っていましたが、ほんとのほんとに白人と同じように一人の人間として認められているかどうかにも疑問を持ち始めます(大統領や事務長の言葉やふるまいに)。
またルイスは過激な行動の行く末が、新しいものを生み出すのではなく、どちらかと言えば破滅を作っていることにも気づきます。
セシルはルイスが社会を変えたいと思う気持ちに気づき、ルイスはセシルの相手に歩み寄り理解しようとする行動に気づきます。
セシルとルイスはそれぞれに自分が生きた時代を背景に、生き抜くための考え方を身につけました。
時代が違うからその価値観もやはり異なる。
世に多くある父と子の対立というのはまさに生きた時代を背景にした価値観の対立なのですよね。
それぞれの価値観にはそれぞれ正しい側面があって、それにお互いに気づかなければ和解はない。
白人と黒人、父と子、それぞれの価値観をお互いに気づき認める、それが和解のはじまりなのでしょう。

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2014年2月16日 (日)

「エージェント:ライアン」 再起動にしては物足りない

トム・クランシーの「ジャック・ライアン・シリーズ」の5作目の映画化作品です。
今までジャック・ライアン役はアレック・ボールドウィン(「レッド・オクトーバーを追え!」)、ハリソン・フォード(「パトリオット・ゲーム」「今そこにある危機」)、ベン・アフレック(トータル・フィアーズ」)が演じていますが、本作でキャスティングされたのは最近ひっぱりだこのクリス・パイン。
ちなみに今までの4作品はトム・クランシーの原作をベースにしていますが、本作のストーリーはオリジナルになっています。
予告では「ジャック・ライアン再起動」とうたっていましたが、確かにライアンというキャラクターの背景は20世紀的ではあります。
初めて登場した「レッド・オクトーバーを追え!」は米ソの冷戦を背景にしていました。
トム・クランシーの小説はアメリカ万歳的なところがあるので、原作は次から次へとアメリカの敵を探し、今までもIRAやら日本やらを「仮想敵国」敵に設定し、その危機からライアンの活躍でアメリカを救うというというストーリーになっています(最新作では「中国」が仮想敵国のよう)。
クランシーが設定した仮想敵国は実際の歴史でも次々と没落していってアメリカの敵じゃなくなっていきますが(ソ連もIRAも日本も)、アメリカ自身も以前ほどの自信は持ち得ていない。
また世界はより複雑化してきていて、自国と仮想敵国といったようなわかりやすい構造でもなくなってきています。
そういう時代に「ジャック・ライアン再起動」というコンセプトはなかなか興味深く、新しいライアン像のようなものが提示されるのかなと思って期待をしていました。
ですが、思っていたより普通なアクション映画だと感じました。
予告で「身近な人間ほど信用してはならない」とか意味深な言葉があったので、上司やら恋人が裏切るのかしらんと思っていたりもしたのですが、素直に味方で、ストーリー的にもオーソドックスでした。
経済テロで敵にダメージを与えるという手口は現代的で新しくもあったのですが、なかなかそれでは絵にならないっていうことで、爆弾テロなども話に組み込みますが、それに絡むアクションシークエンスは今までのお馴染みのアクション映画とさして変わらない。
ライアンにしても、今までのスパイ映画のように肉体的な能力で事態を打破するのではなく、知的な力で危機をきり抜けるのかと思っていたのですが、そうでもなかったし(ロバート・ダウニーJr.のシャーロック・ホームズのようなかんじかなと勝手に思ってた)。
再起動っていうほど新しさは感じなかったのですよね。
監督は出演もしているケネス・ブラナー。
エンドロールを観るまで気がつかなかった。
1作目の「マイティ・ソー」でも思ったのですが、ケネス・ブラナーはこういうアクション映画はあまり向かないのではないのかな。
しっかり丁寧に作っているとは思うのですが、アクション映画に欲しいケレン味みたいなところがあまりない。
そういうところもアクション映画はけっこう重要だと思うのですよね。

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2014年2月11日 (火)

「ラッシュ/プライドと 友情」 極限での生き方

小学生の頃、スーパーカーブームが起こりました。
ご多分に漏れずスーパーカーに夢中になって、その流れでF1などにも興味がでていきました。
本作にもでていたマクラーレンやティレル(当時はタイレルと言われてました)のF1カーのプラモデルを作ったのを思い出しました。
その時に「グランプリの鷹」というレースを題材にしたアニメがあって、その中にニキ・ラウダをモデルにしたキャラクターがでていたのですが、それが僕がニキ・ラウダの名前を知った最初でしょう(ジェームス・ハントの名前は知らなかった)。

本作はニキ・ラウダとジェームス・ハントという二人の天才ドライバーを中心に物語が進んでいきます。
ニキ・ラウダは「走るコンピューター」とも呼ばれるほどに冷静で緻密な走りをし、またメカニックにも強いレーサー。
対してジェームス・ハントは情熱的で攻撃的なドライブをする男で、「壊し屋ハント」という異名を持つドライバー。
まったく違う性格の二人は、それぞれに天才的なドライビングテクニックを持っており、その才能はコースで火花を散らします。
二人は性格は真逆ですが、ドライブは天才的であることと、それに対して誰にも負けないという自信を持っているという点では驚くほどに似ています。
だからこそ二人はお互いに強くライバル意識を持つのでしょうね。
ラウダは冷静なタイプですが、心の中はハントに負けないほどの熱いレースへの思いを持っています。
それが強く表れるのはニュルブルクリンクでの事故からの復帰へ至る場面でしょう。
クラッシュから救出されるまで車から出火した炎に炙られ、ラウダは生命が危険なほどに火傷を負います。
しかし、そこから40数日で彼はレースに復帰、見事4位をとるのです。
ラウダが大事故を起こしそこから復帰したということは聞いたことがあったのですが、これほどに激烈だったとは。
あれほどの大やけどから日常生活をおくるようになるまでも大変だと思うのに、過酷なレースに復帰する。
その思いというのは常人からは想像できません。
ハントはドライビングも攻撃的であり、また私生活も破天荒で派手な暮らしをしています。
しかしレース前には嘔吐してしまうという繊細な一面も持っています。
嘔吐するほどにレースへの緊張感を持っているのにも関わらず、それでもレースに出続ける。
そこにもやはり常人からは想像できないものがあります。
ラウダの妻からすれば、それほどの大きな怪我をしていながらも、それでもなぜレースに挑むのかという思いがあるでしょう。
またハントの元妻からすれば、生活も自分のこともすべてレースのために犠牲にできる彼に、なぜにそこまでという気持ちがあったでしょう。
彼らがレースにかける思い、誰にも負けたくない、自分が一番であることを示したいという何にも変えられない思いは常人には計り知れない。
ある意味狂っているとも言えるほどの思い。
ラウダとハントのその思いが共有できるのは、お互いの宿命のライバル以外にないと彼ら自身も思っていたのでしょうね。
しかし二人がチャンピオンシップを争う豪雨の富士スピードウェイ、そこで極限での二人の考え方の違いが表れます。
水煙で前がほとんど見えない厳しいコンディション。
命の危険もあるほどの過酷な状況です。
極限の中でラウダの頭の中によぎるのは妻の顔でした。
ラウダという男は命を失うほどの極限状態の一線のギリギリのところまでいかに寄せきれるかということを考えている人なのでしょう。
一線を越えてしまっては意味がない。
自分には大切なものがあるのだから。
しかしその生死を分つその一線にどれだけ近づけられるか、1センチでも1ミリでも、そしてそこから戻るということが彼の生き方の本質なのでしょう。
ハントはその一線のことはあまり気にしていない男なのでしょうね。
極限状況の中、彼の頭をよぎるのはライバルであるラウダの姿でした。
彼にとってはラウダに勝つ、そして自分が正真正銘のNO.1ドライバーであることを証明するということが、命よりも大切であったのでしょう。
レース前は恐怖を持つものの、マシンに入ってしまうとそのことは忘れただ勝利のことだけを考える。
ラウダはレースが終わった後必ず帰ることを考えますが、ハントという男は瞬間瞬間を生きるタイプの男なのかもしれません。
狂気にも似たほどに勝利を求めるという二人は二人にしかわからに共感がありますが、また互いにわからない大きな違いも持っていたのですね。

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2014年2月 8日 (土)

「スノーピアサー」 闇の獣

「グエムル 漢江の怪物」「母なる証明」のポン・ジュノの最新作です。
クリス・エヴァンスやジョン・ハートなど国際的なキャストになっていますが、ポン・ジュノの個性はしっかりと出ています。
彼の作品は画面から何か「圧力」のようなものを感じるのですよね。
これを「エネルギー」というとちょっと違う。
「エネルギー」というと「熱さ」や「明るさ」のようなイメージなのですが、ポン・ジュノの「圧力」はもっと暗くて重いイメージなんです。
ボクシングでいうとストレートパンチというよりは、重いボディブローのような。
ドスッ、ドスッと腹にくるような「圧力」です。
本作でそういうイメージがわかりやすいのは、先頭車輛の男たちと、後部車輛の男たちが激突するシーンでしょうか。
男たちが激突するのは列車がトンネルに入り暗闇となった時。
この場面は敵対する勢力がまさに正面衝突するところなのですが、他の映画のアクションのような熱さは感じません。
時折差し込む光で見えるのは、斧や鉈を振り回し相手を叩きのめす男たちの姿です。
このシーンのアクションには映画的な華麗さというではなく、もっと野蛮で獣じみた印象を受けます。
闇の中で獣=得体の知れないものが蠢き、争う。
その闇の獣は人間の奥底にある獣(本能)の部分かもしれません。
ポン・ジュノの作品はこの人間の本能の部分、「生き残ること」「子を守ること」を描いているような気がします。
究極的に追い込まれ人の本能が発露したとき、人は獣性でその本能に従う。
そのとき人間性を失ってしまうかもしれない、そのことについての恐怖というのも人は持っています。
闇の獣に対して人が知らず知らずに感じてしまう不穏な印象、それがポン・ジュノの作品の持つ「圧力」ではないかなと思いました。

タイトルにある「Piercer」は穿孔機という意味ということです。
まさに氷壁を砕いて突進するあの列車を見事に言い表していますね。
しかし、本作の漢語のタイトルは「雪國列車」だそうです。
なんかほのぼのしてしまいますね〜。

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2014年2月 2日 (日)

「マイティ・ソー/ダーク・ワールド」 ロキー!!

「アベンジャーズ」の主要メンバーとしてすっかり有名になったソー。
単独作品として2作目の「マイティ・ソー/ダーク・ワールド」を観てきました。
1作目はやんちゃな暴れん坊だったソーが、一時超人の力を失い、異邦である地球で過ごし、一人の女性を愛することにより、ヒーローとしての自覚を持つという物語でした。
それから「アベンジャーズ」の戦いを経て、ソーは力とそれを何のために行使するかということの自覚を持ったヒーローとして、風格すらただよう佇まいになっていますね。
父であるオーディンがソーに王座を譲ろうとするのもなるほどわかります。
クリス・ヘムズワースも1作目の時は「誰?」という感じで知名度がありませんでしたが、今ではいくつも大作に出るトップスターになりました。
前作の経験を経てソーは最近のヒーローにありがちな屈折したところがあまりない王道なヒーローになったと言えるわけなのですが、その分ドラマ的にはつまらなくなる可能性も秘めているわけなんです。
特にソーの場合は、人間の枠を遥かに越えた力を持っていて、起こる出来事も地球上レベルというよりは宇宙レベル。
人間味が感じられない等身大とはほど遠いお話になってしまう危惧もあります(「グリーン・ランタン」のように)。
しかしそれを救っているのが、屈折したところがありまくるアンチヒーロー、ロキ。
1作目を観た時はここまでこのキャラクターがこのシリーズにおいて重要な役柄になるとは思っていなかったのですが、今となっては「マイティ・ソー」シリーズの陰の功労者とも言えるかもしれません。
父と兄に屈折した思いを持ち、欲深い弟ロキ。
人に真実の姿を隠し幻を見せる魔力を持つロキは、自分の本心も誰にも見せません。
この男は本当に悪に染まった心しか持っていないのか、それとも善の心も持っているのか。
屈折しまくったその心の本当がなかなか観ている方もわからずハラハラします。
ソーが裏表がないまっすぐなヒーローとしての安定感を持っているのに対し、ロキという心の奥底が見えない人物がいることで危うさを感じさせ、ドラマを豊かにしていると思います。
これからもロキという人物は「マイティ・ソー」シリーズに欠かせないキャラクターであろうと思います(たぶん)。

監督はアラン・テイラーで、名前はよく知らなかったのですが、テレビドラマ畑の監督さんらしいですね。
テレビドラマと言っても「ザ・ソプラノズ」「ROME」「MAD MAN」などドラマ性の高い作品を作っている方。
マーベル作品は意外な人を監督に抜擢しますが、それはだいたいドラマが撮れる人を狙いますよね。
本作もその方針はうまくいっているように思いました。

前作「マイティ・ソー」のレビューはこちら→

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2014年2月 1日 (土)

「アメリカン・ハッスル」 自分騙し

ゴールデン・グローブ賞を受賞し、アカデミー賞にも多くの部門でノミネートされている「アメリカン・ハッスル」を観てきました。
タイトルにある「ハッスル」とは「詐欺」という意味のようですね(どうしても「ハッスル!ハッスル!」を思い浮かべてしまう・・・)。
もちろん主人公たちがターゲットをいかに騙してはめるかというところは描かれるのですが、そこばかりがこの作品の見所ではないですね。
本作の見所は演技巧者なキャストが演じる登場人物たちの人間くささかなと思いました。
天才詐欺師アーヴィン(クリスチャン・ベイル)、FBI捜査官リッチー(ブラッドリー・クーパー)、詐欺師の愛人シドニー(エイミー・アダムス)、詐欺師の妻ロザリン(ジェニファー・ローレンス)が騙す側の登場人物なのですが、この4人が切ないくらいに人間くさい。
この4人はほんとに狂おしいほどに幸せを求めているんですね。
今の自分にとっての大切なものを守りたい、失いたくないという気持ち。
今の自分から新しい自分に変わって幸せをつかみたいという気持ち。
特にアーヴィンとロザリンはこの二つの気持ちを両方強く持っているんですね。
アーヴィンは、子供を愛していてそのために家庭を失いたくないと思っていますが、生まれて初めて惹かれた女性であるシドニーもほしい。
ロザリンも現状を変えたくないと強く思っていますが、しかし愛されていないということにも気づいているのでより誰かに愛されたい(変わりたい)とも願うのです。
アーヴィンにしてもロザリンにしても現状維持を望みますが、その現状に完全に満足しているわけではありません。
どちらかというと不満足のほうが強いのでしょう。
それでも自分の幸せ(アーヴィンにとっては子供)を守るために、その現状に自分を合わせています。
つまり自分で自分を騙しているというわけです。
シドニーの場合は不幸な生い立ちから変わりたいと思って生きてきましたが、アーヴィンと出会い恋に落ちます。
彼にも愛されシドニーは幸せを感じていたので、二人での関係をそのまま続ける現状維持を望んでいたのだと思います。
しかしその望みは叶えられなくなり、それでも詐欺は続けていかなくてはいけない。
彼女は狂おしい気持ちを抑え、ビジネスライクに詐欺を行っていこうとする。
シドニーも自分の心を自分で騙しているのです。
リッチーはどちらかと言えば現状維持ではなく、自分はもっとましな男であると認めてもらいたいという欲求が強い。
おそらくリッチーは自分はもっとましな男であるというのを自分で信じている。
彼もまた自分を自分で騙していると言えるのではないでしょうか。
現状維持にせよ、変わるにせよ、人は生きてくには現実に何かしら折り合いをつけていかなくてはいけない。
その折り合いっていうのは、自分で自分のことを騙すっていうことなのかもしれません。
自分騙しというのは、何かおかしくて、また何か切ないものなんですね。
そういうことがこの4人の登場人物たちから伝わってきました。

ロバート・デ・ニーロが出演しているとは知らなかったので突然登場してビビった。
相変わらずの存在感だったので、アーヴィンとリッチーの冷や汗たらりな気持ちが伝わってきましたよ。
デ・ニーロは役柄に合わせて自分の容貌すら変えるという「デ・ニーロ・アプローチ」という演技法で知られていますが、クリスチャン・ベイルもまさにそんな感じですよね。
「ザ・ファイター」の時は激ヤセ、本作は激太り(あの腹はさすがに偽物?)と、役者魂を見せてくれました。
あのシーンの二人の対決はなかなかに見ものでした。
あとジェニファー・ローレンスの存在感もありましたね。
若手の俳優でここまでの存在感はなかなか大したものです。
こういうちょっとクセがある役柄のときの彼女は素晴らしい。

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「黒執事」 天使の欠片

人気コミックの映画化作品ですが、原作は未見です。
ですので作品に関しての知識は事前に一切なく、観賞しました。
近未来の某都市で連続の怪死事件が発生、それを闇の貴族、幻峰清玄とその執事セバスチャンがその事件の解決に挑みます。
セバスチャンは実は悪魔で、清玄と魂の契約をしています。
清玄は両親の敵へ復讐の成就を願い悪魔と契約、セバスチャンは清玄の願いが叶ってその魂を喰らうまで彼に仕えるということとなったのです。
怪死事件とその背景が解き明かされていくというのが、物語の主軸となりますが、観ていると「なんで事件の首謀者はわざわざこんなに複雑な事件にするのかしらん?」と思ったりして。
ま、一般的にミステリーというのはそういうところがあるから、まあいいか。
もうちょいおもしろくできそうな感じはしましたけれどね。

興味深かったのは設定ですね。
セバスチャンは悪魔であり、人の魂を喰らう。
彼が好むのはより汚れ黒くなった人の魂。
だからこそ清玄が復讐を成し遂げようとするのを手伝い、それにより彼(彼女か)の魂が汚れていくことを望むのです。
自分が食べる生き物を肥え太らせようとする感覚に近いかもしれません。
彼の目線は人を超越しているもので、人間を極めて客観的に捉えています。
人は基本的に利己主義であり、自分のためには他人を蹴落とす。
元々そのように汚れた魂を持っているのが人間であると。
そして多くの人は自らが汚れた魂を持っているということの自覚がない。
清玄は復讐のために自らの魂が堕ちることを厭いません。
しかし彼は自分の魂が汚れることに自覚的です。
それゆえか、逆説的に彼の魂は汚れない。
自らの命、魂はいずれ果て、悪魔に喰らわれるという覚悟があるからか、自分を犠牲にし他者を守る。
魂が汚れるというのは、他者を犠牲にして自分を守るということ。
清玄には(自分は必ず地獄に堕ちるから)自分を守る必要がない、ゆえに自らを犠牲にすることは厭わない。
汚れること恐れないから、清い。
セバスチャンは人間を汚れた生き物だと見下していますが、その視線の中には人の中に何かしらに光を見いだそうとしているようでもあります。
清玄はセバスチャンに「悪魔はかつて天使だったと聞いたことがある」と言います。
聖書の物語にも神があまりに人を支配し過ぎることに対して不満を持った天使が追放されるというものがあります。
かつてのセバスチャンもそうだったのかもしれません。
今は悪魔であるセバスチャンの中にも、人の中に光を見いだそうとする天使の欠片があるのかもしれません。

清玄とセバスチャンの関係というのはもっと濃厚に描いても良かったかな。
男性と女性の間である清玄。
悪魔の要素と天使の欠片を持つセバスチャン。
人間と悪魔、主人と使用人、女と男(もしくは男と男)。
けっこう耽美な世界にしたらおもしろかったかも。
剛力さんの事務所は許してくれなさそうだけど(笑)。

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