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2013年12月31日 (火)

本 「陽だまりの彼女」

こちらの作品は映画の方を先に観ました。
切ないラブストーリーですが、ほんわかとした雰囲気がまさに陽だまりのような感じで好きな作品です。
なので小説を読んでいる時も、浩介は松本潤さん、真緒は上野樹里さんのイメージで読んでました。
大きな流れは映画も小説も同じなのですが、細部のエピソードの順番などは違っていたりしますね。
映画の方が流れがよりしっくりくる感じがしましたが、僕の初見が映画だったからかもしれません。
後から作られた映画の方が構成をより練れているというのもあるかもしれません。
あとこの作品は音楽がひとつポイントになっているのですが、映画はそれをうまく使っていますよね。
これは映画ならでは。
映画と小説で大きく違うのはラストです。
これはどちらが好きかどうかは分かれるところでしょうね。
他の方のブログの映画レビューでは、原作を先に読んだ方では小説のラストがいいという意見もありました。
僕は映画のラストの方が好きかな。
あちらのほうがハッピーな感じで。
ビジュアルで見せられる映画的な強みがありましたけれども。

映画「陽だまりの彼女」の記事はこちら→

「陽だまりの彼女」越谷オサム著 新潮社 文庫 ISBN978-4-10-13561-6

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本 「書店ガール」

アマゾンのようにネットで本が手軽に買えるようになったり、電子書籍が普及してきたりしていますが、僕は書店でリアルに本を手にとって買うのが好きなんですよね。
ブラブラと店を流して見ていると予期していない本との出会いがあったりするので。
ベストセラーはどこのお店でも並んでいますが、時々他の店ではあまり目にしない本に出会えることもあります。
そういうのが楽しい。
それも書店の店員さんの目利きや並べ方によるものなんですよね。
本作「書店ガール」は書店の店員さんを題材にした小説です。
いわゆる「お仕事」系ですね。
お仕事系の作品は馴染みのある仕事でも知らないことなどが描かれていて楽しく読めるのですが、本作もそうです。
本の並べ方やフェアの企画でお客さんの反応が変わってくる、そういう書店ならではの醍醐味が伝わってきます。
主人公は書店の副店長でアラフォー独身の理子、そしてその部下で自由奔放で協調性がない亜紀。
二人は性格も考え方も違いことごとく対立しますが、本と書店が好きということは共通しています。
やがて勤める書店が存続の危機に陥り、二人は協力してそれを阻止しようとします。
その中で二人はお互いに認め合っていく。
王道といえば王道のストーリーですが、やはりこういう作品は読んでいて爽快だからいいですね。
こちらの作品好評だったようで続編も書かれています。
そちらも今度読んでみようと思います。

「書店ガール」碧野圭著 PHP研究所 文庫 ISBN978-4-569-67815-3

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本 「ヒア・カムズ・ザ・サン」

こちらの作品は数行のプロットがあって、それを元に着想して有川浩さんが書いた作品です。
それが「ヒア・カムズ・ザ・サン」。
文庫にはもう一つの作品が収録されていて、そちらが「ヒア・カムズ・ザ・サン Parallel」。
こちらは同じプロットを元にキャラメルボックスが舞台にしたお話を元に、有川浩さんが書いたストーリーです。
つまりプロットは同じながらも別の物語、パラレルワールドの物語ということですね。
登場人物は多くがかぶっていますが、全く別のお話しになっています。
両作品ともいつもの有川さんのお話よりはシリアステイストが強い感じでしょうか。
「旅猫リポート」もそういう意味ではシリアスなお話でしたので、最近の有川さんの作品の傾向なのかもしれません。
特に「ヒア・カムズ・ザ・サン Parallel」のほうがさらにシリアス色があるでしょうか。
個人的な好みでいえば、「ヒア・カムズ・ザ・サン」の方が好きかな。
真也とカオルの関係性がやはり有川作品ぽいからでしょうか。
こちらの作品、キャラメルボックスではなく、別の劇団でまた舞台になるとか。
この2作品とはまた違うお話になるのでしょうか。

「ヒア・カムズ・ザ・サン」有川浩著 新潮社 文庫 ISBN978-4-10-127633-5

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2013年12月30日 (月)

「八重の桜」 敗れてなおたくましく生きる

書くのをさぼっていたら、もうオンエアが終わって2週間経ってしまいました。
2013年のNHK大河ドラマ「八重の桜」は視聴率は低迷したようでしたが、僕はけっこう楽しみに毎回観ていました。
主人公は新島八重。
放送前にこの人の名を聞いたときは、この人物をまったく知りませんでした。
この女性は会津藩の出身で会津戦争で女だてらに鉄砲を持ち戦い、その後同志社の創立者の新島襄の妻となりハンサムレディと呼ばれたという人らしい。
女性が幕末の戦いで鉄砲を持って戦うというなんて信じられないのでフィクションかと思ったら実在の人物だということで俄然興味が出て、放送を見ました。
NHK大河ドラマはこのところ戦国時代と幕末がローテーションになっていますね(昨年の「平清盛」は野心的に平安末期を描きましたが)。
僕は歴史は好きなのですが、特に幕末はおもしろい。
価値観が大きく変わる時代はダイナミックです。
最近の大河ドラマでも「篤姫」で薩摩藩と幕府側、「龍馬伝」で土佐藩等倒幕諸藩、本作で会津藩を描きました。
歴史の教科書では同じ出来事でも立場が違っていれば、違って見える、これが興味深い。
そういえば再来年の大河ドラマは吉田松陰ということで長州藩が舞台になりますね。
本作が幕末を題材にしながらもおもしろなと思ったのは、明治維新以降も描いていることです。
だいたいの幕末ものというのは明治維新がひとつのクライマックスで、そこまでの歴史のうねりというものを描くのが多い。
けれど歴史というのはゴールというものはなく、その後も続くわけです。
薩摩藩や長州藩など倒幕派からすれば維新を成し遂げたのはひとつのゴールであるので、彼らを描く物語が明治維新を結末にするのはわかることです。
しかし本作が描くのは会津の人々。
会津藩は、忠心でお上に仕えていたのにも関わらず逆賊の汚名を受け、国をかけた戦いに破れました。
しかし国は滅びたとて、そこにまだ生きる人々はいる。
彼らの物語は終わらない。
敗れてなおたくましく生きる人々の様子を本作は描きます。
このドラマを観ていて驚いたのは(というか自分が無知だったのですが)、明治維新後も多くの会津人が政府や民間で新しい時代の担い手であったということです。
新島八重は夫である新島襄を支え、同志社大学創設に力を尽くし、その兄の山本覚馬は京都においてさまざまな政策にアドバイスをしていました。
大山巌の妻となった捨松の名前は聞いたことがありましたが、彼女も会津人とは知りませんでした。
彼女の実家である山川家の当主山川浩は会津藩の家老職(捨松の兄)。
戦に破れた最中にあって、妹を米国に留学させる先見の明を持っていたのがすごい。
浩は維新後帝国陸軍軍人なり、その弟であり、捨松の兄の健次郎は東京帝国大学の教授となったということですから、彼らは新しい時代に文武で貢献したということになります。
彼らのこの逞しさにうたれました。
本作は国を焼かれ敗れた人々が、それでも新しい時代に自分たちの役割を見いだし生きていくたくましさを描きました。
これは大震災を経験し、それでも立ち上がろうとしている東北の人々へのメッセージという意味合いがあったのではないかと思いました。

12年NHK大河ドラマ「平清盛」の記事はこちら→

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2013年を振り返って<映画>

はい、恒例の今年観賞した作品の振り返りを行います。
今年劇場に観に行った本数は100本ぴったり。
というより、12月にがんばってたくさん観て、なんとか100本に届かせましたという感じです。
今年は土日も何かと忙しく、例年に比べてあまり劇場に行けてない月もありました。
さて今年のベスト10です。
昨年も同じようなことを書いていたのですが、今年も「今年のこの1本!」みたいなものがなかったんですよね。
上位10作品を選ぶのも、順位をつけるのも悩みました。
で、1位が「レ・ミゼラブル」???という方もいるでしょう。
この作品、僕は今年の正月に観たためランキング対象になってますのでお許しを。
というか、今年の作品はそれだけグッとくるのが少なかったということでしょうか。

1.「レ・ミゼラブル」
2.「クラウド・アトラス」
3.「許されざる者」
4.「真夏の方程式」
5.「舟を編む」
6.「陽だまりの彼女」
7.「テッド」
8.「パシフィック・リム」
9.「かぐや姫の物語」
10.「リアル 〜完全なる首長竜の日〜」

1位は「レ・ミゼラブル」。
こちらは昨年のベストで選んでいた方も多かったですよね。
ミュージカルは好きなのですが、セリフでなく全編が歌で構成されていることに驚きました。。
登場人物たちの感情がその歌にのって歌い上げられていく。
出演者もみな素晴らしく、まさに圧倒されました。

2位は「クラウド・アトラス」です。
哲学的な内容のうえ、3時間以上というなかなか取っ付きにくい作品ですが、僕は好きです。
構成が複雑な作品は、それを読み解くおもしろさというのがあります。
この作品は登場人物が多く、彼らのストーリーが錯綜するので(特に冒頭)観始めると「うわー、ついていけるか?」と思うのですが、受け手のことも考えて意外としっかり構成されていてのが観ているとわかります。
ウォシャウスキー姉弟にしてもトム・ティクヴァにしても割と自己陶酔的にわかりにくく作りがちなところがありますが、本作は壮大な話をうまくまとめたなと思いました。

3位は「許されざる者」。
オリジナルにストーリーをベースにしながらも、北海道を舞台にし見事に日本へ移植することができた作品。
出演者の演技も素晴らしく、特にラストの戦いの渡辺謙さんの鬼気迫る演技に目を見張りました。

4.「真夏の方程式」
「容疑者Xの献身」もそうでしたが、単に謎を解くということだけでなく、人の情を丁寧に描いているのが良いですね。
特に「真夏の方程式」では主人公である湯川が積極的に事件に関わり、彼の人となりが描かれています。
湯川と少年の実験をするところはいいシーンでした。

5.「舟を編む」
自分が夢中になってやれる仕事を持つというのは幸せですよね。
そういうことが伝わってくる作品。
主人公だけでなく、まわりの登場人物も魅力的でいい。

6.「陽だまりの彼女」
珍しくラブストーリーものがランクイン。
でもこの作品、単なるラブストーリーっていう感じでもないですよね。
ミステリー的なところもあるし、ファンタジー的なところもあるし。
全体のほんわりしていながら、切ない感じが好きでした。
なにしろ上野樹里さんがかわいい。

7.「テッド」
ばかばかしいアイデアながら、本気で作る姿勢が好き。
マーク・ウォールバーグとテッドの喧嘩シーンはどうやって撮ったのだろう?
続編ってないのかな?

8.「パシフィック・リム」
話がどうこうというより、巨大ロボットと怪獣が格闘するのを実写で劇場で観れるということに興奮。
まさに男の子心をストレートに打ち抜く作品でした。
さすがデル・トロ。

9.「かぐや姫の物語」
これはアニメーションの可能性というか、本質を見せつけられたという感じです。
監督の執念のようなものすら感じてしまう。

10.「リアル 〜完全なる首長竜の日〜」
邦画でこういうタイプの哲学的な臭いのある映画(「インセプション」とか「クラウド・アトラス」のような)というのはなかなかうまくいったものがないですが、本作はよくできていたかなと。

10作品選んでみましたが、なんだかいろんなタイプの作品がごちゃっと入った感じですね。
ですので順位はあってなきようなものとお考えください。

さて続いてワースト5です。
「さよならドビュッシー」
「コドモ警察」
「俺はまだ本気出してないだけ」
「ガッチャマン」
「R100」

あらら全部邦画・・・。
福田雄一監督の作品が二つ、どうも合わないらしい。
どれも作り手の自己陶酔というか自己満足感が高くて「何か違う」と感じましたね。
特に「R100」。

来年はどんな感じでしょうか?
「今年の一番はこれ!」って作品に出会いたい。
また来年もよろしくお願いします。

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本 「イスラムの人はなぜ日本を尊敬するのか」

80年代〜90年代前半くらいまで日本経済は絶頂を極めて、日本は世界の大国として自信に満ちていたと思います(慢心でもあったけれど)。
しかしその後バブルの崩壊があって、失われた20年があって、最近ではアベノミクスでちょっと調子が上がってきた感じはしますが、まだ自信回復まではきていません。
さらに隣国である中国や韓国が経済を伸長させているため、彼らは自信に溢れ、その勢いを買ってか、日本に対してもいろいろなことを言ってきます。
そういうようなこともあって日本人からすると、他国から尊敬もされないなんか自信喪失な感じがありますよね。
ところがどっこい、イスラムの国々では日本という国、その文化というのはとても評価され、また日本人に対しても尊敬の気持ちを持っている人が多いということ。
イスラムでは中国や韓国よりも断然日本のほうが評価が高いんですね。
歴史的な文化、また先進的なテクノロジーを開発していること、またそれを生み出す国民性、そういうことをひっくるめて日本好きが多いということです。
どうしてそうなのかというと、歴史的な背景というのがあるようですね。
イスラム世界は19世紀から20世紀にかけて列強各国に浸食されていました。
特に南下政策をとるロシアとはしばしば対立をしていました。
しかし近代化が進んだヨーロッパ勢になかなか対抗できません。
そんななかアジアの小国であった日本がロシアに勝利したという報(日露戦争)がイスラム諸国にもはいりました。
大国ロシアが破れたと知らせは多いに溜飲を下げたことでしょう。
そしてそれを成し遂げた日本という国に興味が深まったということです。
日本人は勤勉で、成すべきことをこつこつとしていき、そして新しいものを生み出していく、そういったことが彼らに評価されたました。
また色々な人がイスラムとの関係性作りをしてきたということもあります。
ですので、今でもイスラムでは日本人好きが多いということなのですね。
逆に日本人からするとイスラムという言葉からは、「テロ」とかネガティブなイメージを持つ人が多いかと思います。
イスラム教もキリスト教ほど馴染みがないので、なんだかわからない人たちという感じでしょうか。
でもイスラムだからといってみんなテロリストであるわけではないし(よく考えれば当たり前)。
相手は日本のことをよく知っていて好意も持っているのだから、日本人も相手のことをよく知るようにしたほうがいいのではないかと思いました。
日本のファンになってくれる人が多いほど、国際関係上、味方を増やすということなので良いことなのではないかと感じました。

「イスラムの人はなぜ日本を尊敬するのか」宮田律著 新潮社 新書 ISBN978-4-10-610536-4

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2013年12月29日 (日)

「武士の献立」 姉さん女房の奮闘記

上戸彩さん、最近良妻役が多いですね(「半沢直樹」は観てないけど)。
本作で上戸さんが演じるのは、料理上手で気が強い出戻り娘の春。
その料理の腕と味覚の鋭さを買われ、ひょんなことから加賀藩の料理役(包丁侍)の家に嫁ぐことになりました。
夫なったのは舟木安信、料理役の跡継ぎです。
春から4歳年下なので、つまり春は姉さん女房。
けれど彼は包丁よりも刀を手に武士らしく主君に仕えたいと思っていて、てんで料理には興味がありません。
また父親が勝手に決めた縁談で嫁いできた春を「古狸」と呼び、つれない様子です(初夜の時、春の名前を「夏」と間違えるくだりは安信の無関心さを表していておもしろい)。
そんな夫を一人前の料理役にしようと奮闘する春の姿が描かれます。
夫を立て尽くしながらも、励ましそして時には厳しいことも言う。
多くの男性は春のような人が理想の妻のように感じるでしょう。
けれども妻が夫に尽くすばかりというのは何か違う、という方もいますよね。
夫婦のスタイルというのは、それぞれの性格とか相性とかあるのでどれが正しいというのはないかと思います。
尽くすというとなにか、やらされている感じに受け止められる方もいるかもしれません。
でも春の場合は、それが彼女にとっての幸せだからそうやっているのだと思います。
夫の成功を自分のことのように感じる、そのために自分ができることをやるということに幸せを感じる人なのでしょうね、春は。
春は決して夫に尽くすことを、つまらないと思ってやっているのではないのです。
安信が料理役というお役目は、侍として役に立つ仕事ではない、つまりはつまらないと愚痴を言います。
そんな夫に春はこう言います。
「つまらないお役目だと思ってるから、つまらない料理しかできぬのではありませぬか」
仕事にしても生き方にしてもそれをつまらないと思いながらやっていると、そこに価値は見いだせません。
逆に意味があると思ってやれば、そこに価値は見いだせる。
夫にそう言って春は励まします。
そしてまた春も夫に尽くすことをつまらないとは思っていません。
そこに意味があると感じていて、幸せに思っている。
だから彼女は一所懸命に夫のサポートを務めるのですね。

和食文化がユネスコの文化遺産になって、注目を集めています。
そういう点で本作はタイムリー。
映画の中で、加賀料理がいくつも出てきますが、どれもおいしそうでした。
カボチャと小豆をいっしょに煮ていた料理が素朴だけど、おいしそうだったなあ。

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2013年12月28日 (土)

「永遠の0」 戦争を語り、戦争を聞く

太平洋戦争が終結し、すでにもう65年以上の月日が経っています。
あの戦争を経験した人も現在では高齢となり、今後少なくなっていきます。
太平洋戦争というものに対してどのようなスタンスをとるかというのは、みなさんそれぞれ思想信条的な背景もあるかと思いますので、どういう考え方がいいのかという話はこちらではしません。
しかし多くの日本人、特に若い世代は、そもそも戦争に対してどのようなスタンスをとるかという前に、関心がない、関係がないと思っている人が多いのではないかと思います。
自分も戦争について多くを知っているかというとそんなことはありませんし、スタンスも定まっているとも言いがたい。
ではなぜそうなのかということですが、そもそもそういう話を聞く場(教育など)であまりないということが一番でしょう。
ただ教育現場等で戦争についての話をしようとすると、それこそさまざま思想信条的な方向性と意見の対立が出てくるでしょう。
だからあまり深い話はされることがないということなのではないでしょうか。
そして話をしないことによって、人々の関心はさらに薄くなっていく。
憲法で戦争放棄をうたっているわけだし、もう戦争に日本が巻き込まれるなんて考えられないので、何を今さら太平洋戦争の話なんてという方もいるかもしれません。
しかし世界の情勢も日本の政治もどんどん変わっていくわけなので、二度と戦争がないなんて誰も保証できるわけでもありません。
ですから太平洋戦争のとき、何が起こったのか、人々は何を考えどう思ったのかということを知っていることは何かのときに自分がどうするべきかということに役立たないとは考えられません。
本作では戦争のことを物語り、伝えていくことの大切さがテーマであると感じます。
零戦乗りである宮部の物語を描くということであれば、現代のパートはそれほど必要でありません。
あの時代の中で、「国のために死ぬ」のではなく「家族のために生きる」ことを願い行動していた宮部の話だけでも十分にドラマになると思います。
けれどもそれ以上に、本作は現代の若者たちが戦争を知る行為を描いているということが重要であるかと感じました。
教科書的に歴史的な事実を学ぶというのではなく、その時代に生きた人々のことを学ぶ。
史実というものからは人の体温は感じられません。
人々が生きた様、その物語には希望や悲しみ、苦しみを感じます。
宮部の孫である健太郎はそもそもは太平洋戦争などにはとんと興味のない若者でした(合コンでいっしょの男女と同じように)。
けれどふとしたきっかけで祖父のことを調べ、彼を知る人々が語る物語を聞くことにより、戦争をより身近に感じるようになるのです。
身近というのは、戦争が自分とは関係のないものではなく、今の時代と地続きであり、まさにそこの時代にも人が懸命に生きたということを実感として感じるということです。
健太郎のもう一人の祖父である賢一郎が「我々だけが特別なのではない」と言います。
宮部や賢一郎の物語だけがドラマティックであるのはない。
戦争というものはもっとたくさんの人々を悲しみに陥れた。
それぞれがそれぞれの悲劇を持っていた。
その悲しみの物語を聞き、共感できれば、戦争の時代も自分が生きる時代と地続きであると感じられるはず。
だからこそ、その時代に生きた人々の物語を語り伝え、聞くことが大切なのだと感じました。

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「ハンガー・ゲーム2」 象徴化への道程

前作「ハンガー・ゲーム」でカットニスは勝者となり、故郷の第12地区へ帰還し、平和な日を過ごそうとしていました。
しかし、パネムの大統領スノーは、彼女がゲームのルールを巧みに越えて勝利し、そしてその姿に熱狂する人民の姿を見て、脅威を感じます。
そのため75周年の記念大会において、今までのゲームの勝者による究極のハンガー・ゲームを開催し、その中で「合法的に」カットニスを抹殺しようとします。
前作でカットニスが戦った理由は家族を守るため、そのために自分自身も生き残るためという極めて個人的なものでした。
しかしそのために善良な他者を蹴落とすということも彼女はできない。
彼女は不屈の精神、強靭な肉体、明晰な頭脳という自分の力をフルに使い、ハンガー・ゲームのルールを越えた勝負を行うのです。
ハンガー・ゲームはそもそも支配者層が、被支配者に対し、圧倒的な力を見せつけ従順に振る舞うようにさせるという目的で開催されていました。
そのためパネム全土にその様子は中継されていたわけですが、人々は一人の少女が自分の力で、闘技場を支配する神のごときゲームメーカーに戦いを挑み勝利をする様子を目の当たりにすることになったのです。
被支配者たちは、その姿に日頃の鬱屈を払い去る気持ちを感じたでしょうし、さらには彼女のように強固な支配も覆せるのではないかという希望を与えました。
また首都に住む人々についても、カットニスのそもそも人間が持っているはずの逞しさ、気高さといったものを感じたのではないでしょうか。
恵まれた環境で退廃的に暮らす人々の中でも、彼女の姿にあるべき姿を見つけたものは多かったのではないかと思います。
そしてカットニスはそういった人々にとっての希望の象徴、アイコンとなったのです。
しかしまだカットニスにはそういった自覚はありません。
本作で新たなハンガー・ゲームに参加することになっても、まず考えているのは自分が生き残って家族の元に戻ること。
また善良な男であるピータを救うことです。
まだ支配者層に対して戦いを挑もうという考えはまだ彼女の中にはありませんでした。
記念大会のハンガー・ゲームがスタートしますが、その様子は前回のゲームと少し様相が違います。
前回は闘技場の中での参加者同士の殺し合いが繰り広げられました。
しかし今回は当然参加者同士の戦いもありますが、参加者とゲーム主催者との戦いの様相も見せ始めます。
カットニスとピータは一部の参加者と共闘します。
ピータはカットニスへの無償の愛で彼女を守ろうとしますが、また他の参加者もカットニスを守るような行動をします。
そしてまたゲームの外にいる人々の中にも、カットニスへの強力を密かにする者も。
支配への戦いは密かに始まり、スノーの狙いとは別に、このハンガー・ゲームの記念大会をひとつのターニングポイントとして使おうとしている人々が。
支配者は、その強力な力を見せつけ個人の力では到底かなわないと思わせて支配をします。
その一つがハンガー・ゲーム。
支配へ戦いを挑もうとする人々は、小さな個人の力を集約するためには何かしらの大義、その象徴が必要です。
その象徴として最もふさわしい人物がカットニスなのです。
ハンガー・ゲームの舞台そのものが作り物で、それを人々は打ち破ることができるということを国民の目の前で示し、それをカットニスが果たすことにより人々の戦いの象徴とする。
それが支配者層に戦いを挑もうとする人々の狙いだったのでしょう。
まさに象徴化のための伝説作り。
この中継を観ていた住民の中には、死んだように見えたカットニスが光の中クレーンでひきあげる様は昇天のように感じた人もいたに違いません。
このシーンはカットニスが神化(アイコン化)する場面となったのだと思います。
ここに至り「ハンガー・ゲーム」シリーズは「マトリックス」のような様相を示してきましたね。
支配への戦いの象徴であるネオが、自身の存在の意味を自覚し、そしてその上で戦いを挑むというのが「マトリックス」シリーズでした。
「ハンガー・ゲーム」シリーズも、次回作でカットニスが自分の役割を自覚し、そして自分が生き残るということ以上の意味を戦いに見いだすかどうかというのがポイントになってくるかなと思います。

前作のように極限状態のなかでいかに生き残るか、そして究極の選択をどのようにとっていくのかというハラハラドキドキ感はどうしても物語の展開上薄くなっています。
3部作構成となっている物語で導入と結末を繋ぐ役割となっているのが本作であり、そうなってしまうのは仕方がないかなとも思いました。

前作「ハンガー・ゲーム」の記事はこちら→

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2013年12月25日 (水)

「ウォールフラワー」 深い友達

昨日の「ブリングリング」に続き、偶然にもエマ・ワトソンの出演作を二日連続して観賞。
どちらの作品もティーンの青春をテーマにしていますが、非常に対照的であると感じました。
ティーンの頃というのは生活の場というのは基本的に家庭か学校しかなく、そのため日々の生活で学校の中での自分の立場、友達関係というのが、本人にとって重要なこととなります。
「ブリングリング」のマークにしても、本作の主人公チャーリーにしても、以前の学校では周囲に馴染めず、新たに通い始めた学校で新しい人間関係を築こうとしている点がとても似ています。
というよりティーンにとってこれは普遍的に非常に重要なことであるということなのでしょう。
「ブリングリング」の若者たちは比較的恵まれている環境で暮らしていて、日々の生活に対して大きな悩み事を持っているようには見えませんでした。
彼女たちは夜な夜なパーティに出かけ、そこで多くの「友達」と会話し、飲んで遊んでいました。
ただ実際のところ彼女たちの「友達関係」というのはそれほど強い関係性ではなく、事件が明らかになったとき、彼女たちの間にはお互いを気にするということはあまり感じられませんでした。
彼女たちはパリスのことを笑っていましたが、同じようにそれぞれ「自分好き」なのですね。
だから事件が公になった時は、自分のことが中心になってしまうわけです。
本作の主人公チャーリーは一時期精神的な病気になっていたため、それが良くなっても周囲に受け入れられるかを不安に思っていました。
チャーリーは自分のことに自信がない、「自分嫌い」な少年なのでしょう。
いわゆるスクールカーストでいったら一番下の方、おとなしくて影が薄くて目立たない男の子。
まさに壁の花(ウォールフラワー)なのです。
そんなふとしたきっかけでチャーリーと友人になる二人がパトリックとサム。
二人はチャーリーよりは社交的なように見えますが、また共に心に傷、負い目を持っていた少年少女でした。
パトリックは同性愛者であり、またサムは幼い頃に性的虐待を受けていた経験があるようです。
パトリックもサムも自分が周囲の人々とは違い、それを克服してきたわけで、だからこそ自分に対し深い負い目を感じてるチャーリーに優しく接するのでしょう。
チャーリーもやがて二人が胸の内に抱えている傷を知り、それでも彼らは前向きに生きていることを知ります。
二人(あと国語の先生)はチャーリーの良いところを見つけ、それこそが彼の魅力であると彼に教えるのです。
だからチャーリーも彼らが幸せに感じられるように行動しようと思います。
やがて一つの出来事がありパトリックとサムが卒業、チャーリーは彼らとの別れを経験し、かつての病気が再発してしまいます。
その中で彼が過去に経験した出来事も明らかにされます。
チャーリー病気が再発したことにより、もう以前のように友達はできないと思ったのではないでしょうか。
けれどパトリックとサムはチャーリーの傍らにやってきてくれました。
病気とか人は違うということは彼らには関係がない。
彼らは真にチャーリーの「友達」であったのです。
「ブリングリング」は「自分好き」同士の希薄な友達関係、本作は「自分が好きではない」同士の深い友達関係といった感じで対照的だなと感じました。
そうそう、とても好対照だと思った箇所がありました。
「ブリングリング」でエマ・ワトソンが演じたニッキーの母親は新興宗教っぽい教えを広める活動をしているようですが、その教えの一つが「付き合う人は選びなさい」ということ。
母親曰く付き合う人との関係性が自分の価値を作るということのようです。
本作ではチャーリーが「なんで人は間違った人と付き合うのだろう?」と問います。
「ブリングリング」の母親の言葉からは、自分に見合った相手を自分が取捨選択するという態度が伺えます。
これはすごく「自分のことは自分がよくわかっている(と思っている)」パーソナリティから出ている言葉のような気がします。
「ウォールフラワー」のチャーリーの問いは、自分では自分のことがよく見えていない、自分の価値が自分ではよくわからないということを表しているではないかと思います。
「付き合い」、人との関係性に関わるセリフがそれぞれの作品にあったわけですが、とても対照的ですよね。
エマ・ワトソンはそういう意味でそれぞれの作品を代表する役柄を演じていることになって、それがまた上手くはまっていたように思います。

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2013年12月24日 (火)

「ブリングリング」 ユルい友達

若かった頃、自分たちの世代は「新人類」と呼ばれていました。
そのときの大人たちから見れば「何を考えているかわからない」ということで、そのように言われていたのだろうと思います。
本作を観て、主人公の少女たちの行動を観ているとまさに「新人類」、というより「異星人」、とにかく何を考えているのかわからんという感じでした。
これは自分が年をとったからということなのか、それとも若い人でも彼女たちに共感できないのかよくわかりませんが。
ハリウッドの近くに住む10代の少女たちは、超有名なセレブの自宅に入り込み、そこにあった高級品の窃盗を繰り返していたという事件が起こりました。
彼女たちはそれに罪の意識を感じているようには見えませんし、またスリルを楽しむ愉快犯的なゲーム感覚でやっていたというのとも違う。
彼女たちの家は特に貧乏で生活に困っているわけでもありません。
上の下、中の上ぐらいの生活でどちらかと言えば恵まれている方ではないかと。
彼女たちは人の家に入って金品をいただいてしまうということを、何か自然にやっているんですよね。
それができてしまう感覚というのがよくわからない。
ゲーム感覚というのとも違うから周到に準備をしているとか頭を使っているとかというのも違っていて、窃盗行為も甘いというか、なんというか・・・。
防犯カメラは気にしない、家宅侵入・窃盗したことを知り合いに言いふらす(聞いたやつらもクール!とか言っちゃうし)、盗った衣服やジュエリーを身に着けた写真をFacebookにアップする。
こういうことができちゃうというのは、自分たちがやったことが自然であるという彼女たちの感覚の表れでしょうね。
結局のところ警察に捕まってしまうわけですが、どうも彼女たちはほんとうに罪の意識が感じられるようには見えません。
マークは捕まってからFacebookでの友達申請が800人もあって全部承認したとか言ってるし、ニッキーはテレビに出てセレブ気取りですし。
ニッキーと、彼女の義理の姉妹であるサムの会話はちょっと驚いたんですよね。
物語の後半、ニッキーは逮捕されましたが、サムはたまたま監視カメラに映っておらず捕まらなかったわけです。
判決がでる裁判に出るために着替えをしながら(しかも超ミニ)ニッキーは「あんたは運がいいわよね」といったことを言い、サムは「うん、ラッキー」のような答えをします。
捕まったニッキーにも、捕まらなかったサムもまったく犯罪への罪の意識は皆無です。
他のメンバーを同じような感じ。
なんなんだこれは・・・、よくわからん。
ソフィア・コッポラの作品での登場人物は恵まれた環境にいながらも何かいい知れぬ孤独を感じている人というのを描いていることが多いように思います(「マリー・アントワネット」「SOMEWHERE」)。
しかし、本作の登場人物たちは恵まれた環境にあるということは共通ながらも、孤独すら感じていません。
でも実は彼女たちは孤独であることに気づいていないという感じもします。
5人の少女たちはいっしょに犯罪行為をしますが、強く結ばれた仲間意識というのもありません。
なんとなくそのときのノリでやっちゃっているというか。
お互いにかばい合う意識もあるわけでもないですし。
彼女たちを観ていると、ネット時代の現代でSNSツールでなんとなく繋がっているユルい「友達」のような関係性をイメージされます。
繋がっているように見えて実は孤独。
そう考えるとこの時代を表しているようにも感じます。

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2013年12月23日 (月)

「キャプテン・フィリップス」 舵取りという役割

近年、ソマリア沖の海賊が国際的に問題となっています。
自衛隊が民間船の警護のために派遣されたのも記憶に新しいところ。
海賊と聞くと「パイレーツ・オブ・カリビアン」のような時代がかったものを思い浮かべてしまいますが、現代の海賊は小火器とはいえ武装しており、丸腰である民間船からすれば脅威です。
ソマリア沖の海賊が問題になっているというニュースを聞いたとき、大きな貨物船が小さなボートに乗る少数の人間に捕まる様子というのはあまり想像ができなかったのですが、本作を観るとそれが起こりうるということが実感できます。
トム・ハンクス演じるフィリップス船長が乗る貨物船は、4人の海賊に狙われます。
船長である彼は船を指揮し海賊の追跡をかわそうとしますが、その努力も虚しく船は海賊に占拠されます。
フィリップスは乗組員たちの命を守るため、自らが人質となります。
洋上における船上というのは周囲から孤立した場所です。
何かトラブルがあったとしても、すぐに救援を求めることはできません。
船長は船と乗組員の生命に責任を持ち、船を指揮します。
全責任を背負うからこそ船長という役職は船において絶大な力を持つのです。
まさに船長は船と乗組員の運命を決める「舵取り」なんですね。
本作の主人公はタイトルの通りフィリップスで、彼が経験する出来事を中心に物語が進みます。
けれど僕は本作において重要な役柄はフィリップスだけではなく、もうひとり「キャプテン(船長)」と言われた男だと感じました。
それは海賊のリーダーであるソマリア人ムセです。
ムセは船を占拠したときフィリップスに「これから俺が船長だ」と言います。
しかしそう言う前に彼は、すでに彼が率いる海賊団4人の船長であったのです。
彼らの行動はリーダーであるムセが決めます。
状況が刻々と変わる中、対応を決めていかなければいけない。
海賊たちの視点からすると、貨物船を占拠したまではよかったですが、それ以降はアメリカ海軍の本気の包囲網でどんどん追い込まれていくのです。
そもそもアメリカ海軍の存在が感じられていたにも関わらず、ムセは襲撃を強行します(他のメンバーが中止をしようと言うのを「勇気がない」と言って)。
襲撃自体は相手が武装していない民間船であったことにより成功しますが、それ以降はフィリップスや船員の行動、そしてアメリカ軍の登場により、追いつめられます。
どこかで投降するというチャンスもあったでしょう。
しかしムセは追い込まれていく選択ばかりをしていきます。
客観的にみて、小火器でしか武装していない4人の海賊が、3隻のアメリカ海軍の艦船、そして最強とも言われる特殊部隊ネービーシールズを相手に勝てるわけがないと思います。
しかしムセにはそれが見えない。
地元には収穫がなければ帰れないという欲と恐怖、そして無謀な勇気によって。
最終的に海軍に包囲され追い込まれたときムセは「こんなはずではなかった、もっと簡単なはずだった」と呟きます。
彼が根拠のない自身と希望によって破滅への道を歩んでしまったことがわかります。
僕はこの台詞を聞いて、ムセと同じように歩んだ国のことを思い浮かべました。
かつての日本です。
確かに日本は当時追い込まれていました。
貿易も制限され、そのままでは日本という国が立ち行かなくなってしまうという思いがあったでしょう。
そしてアメリカに戦いをしかけ、初戦は勝利します。
そこから日本は根拠のない自信、無謀な勇気、欲と恐怖で破滅への道を歩みます。
戦況が厳しくなっても指導者たちは根拠がない勝利を信じ、また無謀な勇気を国民に要求したのです。
戦後、客観的に見れば日本の国力(経済力、生産力そのほか諸々)は到底アメリカに及ぶわけでもなく、無謀な戦いであったと言うことができます。
それはテクノロジーと物量に裏付けられた圧倒的な武力であるアメリカ海軍に対し、たった4人でなんとかなると思ったムセの姿にかぶります。
ムセは4人の海賊の船長であったわけですが、誤った判断により仲間たちを死地に向かわせてしまったのです。
戦前戦中の日本の指導者も国の舵取りであったわけですが、ムセと同様に誤った判断により、仲間である国民を危険へ導いていってしまったのです。
改めて指導者=舵取りたる人間は、指揮をする人々の生命と行く末に対し責任を負っているという認識でいないと間違った判断をしてしまうと感じました。

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本 「トワイライト」

4作目まで映画化された「トワイライト」シリーズの1作目「トワイライト」です。
今さら感はありますが(笑)。
お話はみなさんよくご存知の通りです。
映画を先に観ていますが、原作小説にかなり忠実に作られていることがわかります。
こちらのシリーズは少女の理想というか、お姫様物語のような非常にロマンティックな展開になっており、いい年をした男性である自分が読むとなんというか、こそばゆくなります。
特にエドワードのセリフはいちいち気障なので、こそばゆさが倍増しです。
映画だと字幕だし、スルッとそういう気障なセリフは流せるんですが、小説だと文字で目の前に表れますからね。
でもこういう気障なセリフを言ってほしいのでしょうね、女子は。

映画「トワイライト 〜初恋〜」の記事はこちら→

「トワイライト(上)」スティファニー・メイヤー著 ヴィレッジブックス 文庫 ISBN978-4-86332-013-0
「トワイライト(下)」スティファニー・メイヤー著 ヴィレッジブックス 文庫 ISBN978-4-86332-014-7

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2013年12月22日 (日)

「カノジョは嘘を愛しすぎている」 理子役がオーディションで選ばれた意味

人気少女漫画の映画化作品ですが、予告を観るまでまったくその存在を知らず。
最近、恋愛ものの少女漫画の映画化って多いですよね。
大体スルーしているのですが(あんまりストレートな悲恋ものって好きじゃないのだ)、なぜかこちらの作品は気になって観に行ってきました。
本作は恋愛ものだけれど主人公が男性のほうなんですよね、だから入り込みやすかったのかも。

主人公秋(佐藤健さん)は人気のバンド”クリプレ”のサウンドクリエーター(作曲家みたいなものか)。
”クリプレ”は秋とその友人たちが高校時代に作ったバンドですが、辣腕プロデューサーの目に止まり、デビュー、そしてたちまち絶大的な人気になったのです。
しかし、秋は音楽をビジネスとして売り出す仕組みに違和感を感じ、バンドメンバーには加わらず、顔を出さず”AKI”としてバンドの作曲を行っていました。
好きな音楽を仕事としているのに、何か悶々とする日々。
冒頭彼のモノローグにあるように、秋は違和感を抱えながら不機嫌であったのでした。
そんな彼の前に、突然現れた理子(大原櫻子さん)は、彼が持ったいる音楽へのピュアな想いをそのまま人にしたような存在であったのでしょう。
どこから見ても普通の女子高生(すんごいカワイイというわけでもない、けっしてブスでもないという絶妙なキャスティング)である理子。
しかし理子は天性の美声を持っていて、そしてなにより音楽へのピュアな想いを持っていた女の子でした。
秋が、自身がかつて持っていたと思っている音楽への想いを。
”クリプレ”のメンバーはプロデューサーに担ぎ上げられている感じというものを持っていながら(自分たちの実力がまだまだであることがわかっている)も、音楽業界のそういう状況について大人になって受け入れています。
秋のライバル的な存在である心也は、秋にひけをとらない実力を持っている(演奏については秋を凌駕している)のですが、彼自身の力を発揮できるときを待っている様子です。
秋は天才と呼ばれるほどの力を持っていますが、売らんかなというビジネス的な音楽業界を斜に見ていて、けれどもそこを離れることができるわけでもありません。
高校時代のようにただ音楽が好きっていうだけではいられない、ということに苛立ちを感じているのです。
他のメンバーは大人の世界になにかしら自分なりに折り合いをつけているわけですが、秋はそれができない。
そうやって斜に構えていることも実は音楽に対してピュアではないということに彼自身も内心では気づいてたのかもしれません。
だから、そういうときにあくまでピュアな想いを持つ理子に出会い、秋は彼女に惹かれたのでしょう。
理子はピュアだからこそ表面的な見かけや言葉に惑わされるはなく、その本質に気づくことができるのですよね。
秋が嘘を言っても、その言葉の奥になにがあるのか何か感じてしまう。
彼の心にあるピュアな想いに気づき、その弱さもわかり。
だからこそ「守ってあげたい」と言える。

理子役はオーディションで選ばれたということ。
演じるのは大原櫻子さんですが、まったく見たことがないのはそのためですね。
理子という役はその存在自体がピュアであることが重要な役です。
秋にとっては音楽の女神ともいっていいような存在になります。
彼が慈しむ存在であり、また彼を守ってくれる存在といったような。
大人の世界にまだ汚れていない感じ。
つまり理子という役にはある種の処女性のようなものが求められるように思います。
演技が上手い女優さんが演じたとしても「どこかで見た」感を払拭するのはなかなか難しい。
オーディションで選ぶことにより「誰もまだ知らない」理子という感じが出せたように思います。
確かに大原さんは演技は少々拙いところがあるのですが、それもまた普通っぽい感じが出ていましたよね。
そして彼女は何しろ歌が上手い。
当然この役は歌が上手くなくては成立しないのですが、まさに適役だと思いますね。
演技は拙いところがあるのですが、歌いだすと存在感が出てくる。
理子も普通の高校生が、歌を歌う時に輝きを増すという役どころですが、まさに演者と役がシンクロしている感じがしました。
楽しそうに歌っている感じが良いです。
予告でも彼女がなんかキラキラしているところが印象的だったんだよな、たぶん。

あと、秋の高校時代からの友人で”クリプレ”のボーカルである瞬がいいですよ。
瞬は登場した時は「チャラ男」な感じがたっぷりだったのですが、見かけと違い周囲のことがよく見えている。
わりと秋は冷静なようであまり周りが見えていない男なのですが、瞬はそんな秋のことにもしっかりと目配せしているんですよね。
ほんといいヤツ。

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本 「ガール」

奥田英朗さんの作品で、昨年だったか映画化にもなりました。
本作は5編の短編集ですが、映画はそのうち4つのエピソードを取り上げてそれぞれの短編の主人公たちを友人という設定にして一つの物語にしています。
この作品は30代を過ぎた女性を描いています。
主人公はそれぞれ自分がやりたいこと仕事をバリバリとしながら過ごしてきた女性ですが、ふと30代になり気がついた時いろいろと不安な気持ちが起こってくる、そういった女性の心情を描いています。
「ヒロくん」の主人公聖子はやり手のキャリアウーマンで、結婚しているけれども子供なし。
親からは子供を作れとうるさいし、会社では昇進したのは良いけれども、年上のいうことを(女だとバカにして)聞かない部下もできた。
旦那のヒロくんはマイペースで会社勤めをしているが、実際は聖子のほうが給料もよく、ヒロくん本人は気にしていないものの聖子は世間体が気になる。
2作目の「マンション」はマンション購入に悩む独身OLを描きます。
マンションを買ってしまうと、それでもう独身がフィックスされてしまうのではないか、でも憧れの家ももっていみたいという想いに逡巡します。
3作目の「ガール」は映画でもメインになった話ですね。
バリバリと楽しく仕事をしている主人公と、その得意先の真面目なOL。
女らしくいるってことは働くことと両立できるのか、どうなのか。
4作目「ワーキング・マザー」は子育てと仕事の両立に悩むシングルマザーのお話。
これはけっこう悩ましく思っている方も多いでしょうね。
5作目「ひと回り」は、新入社員に一目惚れしてしまったお局チックなOLの話。
映画とは違ったビターな終わり方ですね。
本作は、等身大の女性の悩みが描かれいるので女性の共感も高いかもしれません。
ぶっちゃけ男性でもずっと独身だと周囲にいろいろ言われるわけで独身の女性と同じような悩み等も持っていたりするので、そのあたりは共感できましたよ、うん。
一度この作品を読むと映画の方はよくまとめてあるなと感じます。

「ガール」奥田英朗著 講談社 文庫 ISBN978-4-06-276243-4

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2013年12月21日 (土)

「47RONIN」 ファンタジーだからって自分に言い聞かせて観た

ついこの前に公開開始だと思っていたら、来週くらいから上映されない映画館も出てきているようで。
年末年始の大作なのに年越せるのかしらん。
観れなくなる前に慌てて劇場に行ってきました。
映画館に行ったはいいですが、3D日本語版しかやっていないし・・・。
2D英語版がよかったんですけど、また来週にしたらやってないかもしれないですし、致し方なく3D日本語版で観賞しました。
ま、3D版でしたがそれほど飛び出してこなかったので(爆)、目は疲れなかったのでよし。
洋画とはいえ、ほとんど日本人キャストなので日本語でもまあよかったか。
ただ英語の口の動きと日本語吹き替えが合わないので、なんか妙な感じ。
外人のキャストの吹き替えだと口が合わなくて当たり前な感じなのですが、日本の俳優さんが演じているのに口が合わないのは不思議な感じですね。

本作、赤穂浪士の話をベースにしているということですが、予告を観ている方はおわかりのようにビジュアル的には時代劇というよりは和風ファンタジーとう感じになっています。
オープニングからでっかい怪物が出てくるので、作品的にもファンタジーであると宣言して作っています。
ハリウッド映画によくあるトンデモニッポン、勘違いニッポンなテイストが溢れている感じです。
「この作品は時代劇ではなくてファンタジーだから、ツッコミ入れたらいけないよね」って自分で言い聞かせながら観てました。
でも無理!
ツッコミ入れたくなりますねー。
武士たちの鎧、中華テイストじゃん!
天狗たち、少林寺じゃん!
ほぼ全編トンデモニッポンなのでツッコミどころ多過ぎ。
そういうツッコミどころが気になりすぎて、あまりお話にどっぷりと浸かれなかったような。
ストーリーは典型的な敵討ちの話で、あまり日本的というより古今東西よくあるお話で特別に新しいわけでもありませんでした。
忠臣蔵を外国人が新解釈するという感じでもなかったですしね。
観終わってみると、公開終了が前倒しになっているのも納得という感じです。
主演はキアヌ・リーブスですが、あんまり存在感がなかったような。
その代わりに真田広之さんは存在感がありましたね。
英語で話しているのを、ご本人が日本語吹き替えをやっているのですが、非常に馴染んでいる感じでした。
英語でも時代劇的なピシッとした感じが出ているからでしょうか。
逆に菊地凛子さんの日本語吹き替えは、いかにも吹き替えという感じで不思議な印象でした。
菊地さんの英語のしゃべり方って欧米的な感じだからかな。

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2013年12月14日 (土)

「仮面ライダー×仮面ライダー 鎧武&ウィザード 天下分け目の戦国MOVIE大合戦」 大人の物語、子供の物語

すっかり冬の恒例となった仮面ライダーのMOVIE大戦ですが、今年は「仮面ライダーウィザード」と「仮面ライダー鎧武」の組み合わせです。
世界観が大きく異なるこの2作品、どのようなコラボレーションとなりましたでしょうか。
今までも異なる世界観のライダーをくっつけるために、このシリーズは3部構成、もしくは5部構成といった構造をとってきました。
だいたい前回のライダー編が第1部、現役のライダー編の第2部で別のストーリーが進み、それが第3部でクロスオーバー(実は敵が共通だった)するというのが基本構造です(5部構成のものも考え方は同じ)。
本作は構造的にはシンプルに2部構成で、第1部がウィザード編、第2部が鎧武編となっています。

第1部のウィザード編が非常にできが良いんですよね。
MOVIE大戦の前作ライダー編は、テレビシリーズが完結してしまっているため番外編的な描かれ方をすることが多いですよね。
しかし今回のウィザード編は、テレビシリーズを最終回を受けたストレートな後日談となっていて、MOVIE大戦の一幕といったよりは独立した一編とみることができます。
最終回でコヨミを失い、代わりに残されたホープの指輪を手にし、旅立ったウィザード=操真晴人。
今回のウィザード編では大切な人を失った晴人の気持ちを丁寧に描きます。
晴人のコヨミに対する気持ちについてはテレビシリーズでは恋愛的なものであったかどうかは具体的には触れられないのですが、本作を観ると恋愛に極めて近しいものであることがわかります。
人々の希望を守るために戦ってきた晴人ですが、テレビシリーズの終盤でコヨミを失いそうになったときの必死さに恋愛感情に近しいものは感じました。
テレビシリーズのレビューで描いたように「ウィザード」という物語は非常にストイックさがあり、それは晴人というキャラクターにも表れていました。
彼は人々の希望を守るという使命感を持ち戦う。
しかしコヨミを守るための戦いは、一般的に人を守るということを越えた気持ちがあったのですね。
人々を絶望させファントムを生み出すサバトの儀式を生き残った晴人とコヨミ。
晴人はコヨミを守っていきますが、しかし晴人もコヨミという存在によって守られていた。
他の人間が死に自分が生き残った意味を、コヨミを守ることによって感じ、それによって生きる許されていたと晴人は感じていたのです。
その生きる意味を失った時の晴人の喪失感はいかに深かったことでしょう。
しかし、彼はその喪失感を受け止める深さがあるのです。
晴人のアンダーワールドが本作で描かれますが、そこはコヨミの存在で溢れていました。
彼にとってコヨミの存在がいかに大きかったかを伺わせます。
晴人がコヨミとの思い出の舞台で戦うシーンは思わず涙を誘われます(仮面ライダーで泣かされるとは)。
戦いが終わり、ホープの指輪は、晴人のアンダーワールドで今も思い出としてあるコヨミに渡されます。
コヨミが一番安心していられるのは晴人の心の中であったというのも泣かせます。
晴人というキャラクターは大切な人を失いながらも、それでも絶望せず、希望を見いだし生きていける。
苦しいことを乗り越えてきた「大人」を感じる男なのですよね。
「ウィザード」という作品が大人のライダーの風格を持っているのはそういう晴人のキャラクターによるところが大きいでしょう。

第2部の「鎧武編」に話を移しましょう。
フルーツ、鎧武者、多人数ライダーと序盤よりぶっとんだ設定で驚かせてくれる「鎧武」。
電車ライダー(「電王」)のときも驚きましたけどね、相変わらず挑戦的なのは「仮面ライダー」シリーズのいいところ。
個人的にはまだこの作品のポテンシャルを判断しかねているところですが、可能性は感じています。
今回の劇場版でも物語的なポテンシャルは伺えます。
現在のテレビシリーズの「鎧武」はまだ子供の喧嘩的な面が強く出ていますよね。
その前の作品「ウィザード」が上に書いたように大人の風格を持っていたので、より「鎧武」という作品が持つ「ガキっぽさ」というのが気になったりもします。
しかしこの「ガキっぽさ」というのは狙いなのではないかと。
アーマードライダーに変身できる戦極ドライバーとロックシードという大きな力を手に入れてしまった紘汰(=鎧武)たちビートライダーズ。
彼らはその力をそれぞれの勢力拡大に使います。
しかしインベスという怪人が街の人々を襲うのをみるにつれ、紘汰はその力を人々を守るために使おうとします。
劇場版では紘汰は戦国時代のような異世界を訪れ、そこで戦いの中で命を落とす人を目の当たりにします。
戦いとはただのゲームではなく、命をかけるものであるということを紘汰は認識し始めます。
おそらく「鎧武」という物語は、社会に出る前の子供たちが次第に現実というもの、社会というものの厳しさ、言わば大人の世界を次第に知り、成長していく過程を描こうとしているのではないでしょうか。
その中で真の意味での戦いとは何なのかということを見いだしていくのだと思います。
戒斗=バロンにしても、ビートライダーズの中では自分なりのポリシーを持っているように見えますが、まだまだガキの喧嘩の域をでているようには見えません。
紘汰や戒斗、光実(=龍玄)ら少年が成長していく様を追っていくのが「鎧武」という物語だと思います。
大人になる過程において、何かを失うこともあるかもしれません。
その中でどのように少年たちが成長していくのか。
そういう紘汰たちの前に晴人が現れるわけですが、やはりそこに大人と子供という差は感じられますね。
さきほど書いたように大切な人を失いながらも希望を失うことがなかった晴人というのは、紘汰らが成長したどり着く大人の姿なのかもしれません。
そういう意味でまったく毛色の違う「ウィザード」と「鎧武」がひとつの映画でいっしょに描かれたのは興味深いところでした。

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2013年12月11日 (水)

「REDリターンズ」 アクションとコメディの塩梅がいい

前作「RED/レッド」がスマッシュヒットということで、その続編。
「RED/レッド」はアクションとコメディの塩梅とテンポがよくて、思いのほか楽しめた作品でした。
本作はそういった前作の良さを踏襲しつつ、舞台を世界に跨がるものにしてスケールアップしています。
前作ではコメディ面でのかき回し役はジョン・マルコヴィッチが演じるマーヴィンでしたが、本作でその役割を担っているはメアリー=ルイーズ・パーカー演じるサラですね。
今回のサラはコメディパートを一手に引き受けているほどの存在感があります。
前作でのサラはフランク(ブルース・ウィルス)の相手役でしたが、とてもデンジャラスな<RED>に事件に巻き込まれちゃったいう感じでした。
しかし今回のサラは自分から積極的に巻き込まれにいっちゃいます。
ストーリーの要所要所でかき回しているのはサラですからね。
前作を観たときには、続編でサラのキャラクターがこんなに発展するとは思ってもみませんでした。
危険なシチュエーションに首を突っ込みたくなっているサラを、ハラハラと見ているフランクがなんとも可愛いというか。
ベタ甘なブルース・ウィルスの様子もけっこうおかしい。
アクションも見所ありました。
前作ではブルース・ウィルスがドリフトする車から降りながら銃を撃つシーンがカッコよかったですが、本作ではそれをキャサリン・ゼタ=ジョーンズとブルース・ウィルスで似たようなシーンをやってましたね。
パリでのカーチェイスシーンはけっこう見所があって、アクション要素とコメディ要素が見事にミックスされていました。
終盤のチェイスシーンもよかったな。
本作の出演者は錚々たるメンバーですが、それぞれが演じるキャラクターが彼らが過去に演じてきたキャラを髣髴とさせるところがあるのも映画好きには楽しめるところ。
ブルース・ウィルスが「ダイ・ハード2」での印象的なセリフ「Not,Yet」を言ったりするとクスリとしてしまいます。
本作でもアンソニー・ホプキンスはマッドサイエンティスト役ですが、監禁された天才学者というと「あの人」を思い浮かべますよねー。
「RED」シリーズは本作をもって自分のフォーマットを作った感じがしますね。
どんどんシリーズを作っていけそう。

前作「RED/レッド」の記事はこちら→

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2013年12月 8日 (日)

「利休にたずねよ」 物語の構成に難あり

本作、物語の構成にちょっと難ありなのではないだろうか。

<ということでネタバレありなので、未見の方は注意>

本作は千利休が切腹をする朝から幕を開けます。
そして物語はいったん21年前、利休が織田信長にその才を見せつけるところに時を戻します。
それから動乱の世の移ろいを描くのとあわせ、利休の人生が語られていきます。
織田信長の勇躍、その死、そして秀吉の台頭、天下取り。
彼らが武力によって世を圧倒するのと異なり、まさに美の力によって利休は精神的な影響を武士たちに与えます。
その力を妬まれた利休は、やがて秀吉により死に追い込まれていくのです。
このように茶人利休の人生を描くのですが、切腹の日を迎える場面になると、また物語の時は戻り、利休が茶人として名をなすその前の若き日について語られます。
そこではどうして利休が、天下に並びなき茶人となっていったのかという理由が解かれていきます。
この利休の若き日の秘密は、彼がどうしてこのような男となったのかという謎を解くミステリーと言ってもいいでしょう。
ただし、そうするとこの物語は非常に前振りが長い頭でっかちの構造になっていると思うのです。
この前段(といってもかなり長いが)では利休が究極の美の探求者であったということを彼の生涯を描きながら描かれます。
それは一般的に、一般の僕たちが持っている利休のイメージに近いものだと思います。
ただあまり歴史に詳しくない人もいるということなのか、人物を説明するこの部分がかなり長い。
というより僕は観ているときこの部分が物語の本筋だと思っていたのですが、そうすると利休にしても利休の妻や秀吉にしてもキャラクターの描き方が薄いと思ったのですね。
特に利休の妻はキーパーソンなのかどうなのかよくわからない(それは観終わってもそう思いました)。
利休も感情を出す人物として描かれているわけではないですし、秀吉にいたってはただの欲深な男というだけなので、何か感情的に揺さぶられることがありません。
なにかもの足りないと思いながら観ていたら、また物語上では時が戻って利休の謎が描かれるわけです。
観終わったあと考えれば、物語としてはこちらのほうが本質だと言ってよいかと思いますが、そうなると前振りの部分が非常に長いという印象に変わりました。
前段では美を求める静かながらも揺るぎない心を持つ男、利休というパブリックなイメージに従い描き、そしてどんでん返しのようにその人物像の隠された部分である、激しさを描き、観ている人の驚きをうむと意図だと思うのですが、なにかアンバランスな感じがあります。
ミステリーは状況説明と謎の提示があって、その後いくつかの解決方法が検討されたなかで、最後にその謎が解かれるというのが基本構造だと思います。
しかし、本作は謎の提示というのがはっきりとない。
謎は「利休はなぜこのような人物であったのか」ということだと思うのですが、前半はまったくそのようなことは語られません(最後まであまりはっきりとはありませんが)。
だから結果的には状況説明の前振りであった部分を本筋だと思ってみてしまう。
そもそも謎解きの物語だとは思わない。
だから意外などんでん返しであったとしても、謎の認識がないから驚きにも繋がらない。
どうもしっくりいかないなと思いながら、考えていたらこういうような結論になりました。

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本 「桜ほうさら」

その人の人生を大きく変えてしまう出来事が起こってしまうということがあります。
主人公笙之介は地方の小藩の下級武士の家でしたが、父親が汚職で断罪され、彼も未来を閉ざされ、流れて江戸に至りました。
もともと武芸は達者ではありませんが、学問について優秀であった笙之介は江戸で写本の仕事を生業とし、生活をしていました。
江戸で市井の人々と交わりながら、徐々に普通に生活を営んでいくようになりますが、それでも彼の心のなかには父の汚名をそそぎたいという想いはずっとありました。
そのためか、笙之介の生活はただ生きている、といったような感じで無気力さのようなものがあったようにも見えます。
しかし彼は和香という女性と出会い、彼女の賢さ、強さを知るにつれ、恋心のようなものを持ちます。
それとは並行し、父の死の謎も次第に明らかになっていきます。
そのような出来事を通し、笙之介の人生は再び歩みをはじめていこうとします。
笙之介には兄がおり、その名を勝之介と言いました。
彼もまた父親の罪のため、出世の道を閉ざされていました。
もともと勝之介は武芸も秀で、下級武士であった父親や、武士としてあまりに弱々しい笙之介のことを蔑んでいたところがあります。
しかし勝之介は父親の事件により、世の中を恨みがましい目で見るようになりました。
その恨みがましい気持ちは、本人から出たものでありながらも、本人自身を縛るほどに強いものになっていきました。
恨みといった強い感情は得てしてその人自身の人生すらも束縛してしまうものです。
人生にはいろいろな出来事があります。
しかしその出来事の見方は幾通りもあって、その見方によってその後の人生も決まってしまうのかもしれません。
兄である勝之介は恨みにずっと縛られてしまった。
弟である笙之介は無気力的になっていた中で、人々と出会い、その事件のことを素直に受け止めるようになった。
タイトルの「桜ほうさら」はものがたりの中ででてくるオリジナルの言葉です。
もとは山梨の方言の「ささらほうさら」でいろいろあって大変なことのことを言うそうです。
それをもじって和香は「桜ほうさら」と言いますが、本の一文字を変えただけでなにか、語感も変わりなにかゆったりとしたような感じを受けるようになります。
人生の出来事もほんのちょっとずらしてみれるようになれば、ネガティブな感情に囚われすぎず、もっと穏やかに受け止められるようになるのだろうと思いました。

「桜ほうさら」宮部みゆき著 PHP研究所 ソフトカバー ISBN978-4-569-81013-3

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「悪の法則」 人と運命、獣と弱肉強食

本作が始まる時「劇中のスペイン語は制作者の意図により字幕が出ない」という内容のおことわりがでていました。
この映画を観ていると「制作者の意図」とは何かがわかります。
主人公である弁護士”カウンセラー”は出来心で裏社会のビジネスに手を染めますが、ちょっとしたアクシデントからメキシコ人組織に狙われることとなります。
メキシコの麻薬組織はアメリカのアクション映画などで敵役で出てきたりしますが、けっこうステレオタイプな描き方をされることが多いですよね。
しかし本作はその存在は非常に極悪で、得体がしれないものとして描かれています。
その組織にはまったく人間性というものを感じられません。
組織の人間は画面に出てきますが、彼らが話すスペイン語には訳がついていないので、何を話しているかわかりません。
それによって、より得体の知れなさが深まります。
この得体の知れない存在は、メキシコ人の裏組織といった具体的な存在ととらえるよりは、人の手ではどうしようもない運命の象徴と受け取ったほうが良いかもしれません。
カウンセラーは悪事に手に染めていることを自覚していました。
彼は自分が頭が良いと思っているのでしょう、おそらく裏社会とのビジネスもうまくさばけると思っていたのに違いありません。
カウンセラーの友人ライナーもいっしょに裏のビジネスに手を染めていましたが、彼は危険性は知りつつも、それほど深く考えるたちではなく、己の欲望に流されるように生きている感じがします。
そしてカウンセラーに幾度となく警告をするウェストリーにしても、自分は如才なく立ち振る舞えると考えていますが、そんな彼もより大きな闇に囚われてしまいます。
この三人は「なんとかなるだろう」「なんとかできる」というほのかな望みを持って、負のスパイラルとなっていく運命に抗おうとしますが、その試みは全くもってなす術もなく、すべて打ち砕かれます。
彼らの行く末を握っているのはメキシコ人の裏組織なわけですが、それは先ほど描いたように抗えない運命の象徴だと言えます。
物語の終盤でカウンセラーがある人物と話す会話の中で、「世界」という言葉が出てきます。
カウンセラーは最悪な状況に一変してしまった自分の世界を元に戻す可能性があるのではないかと一縷の望みを持ちます。
しかし相手は、もうすでに選択はされてしまっている、その時点で世界は別物になったというような非常に哲学的なことを言います。
ちょっと飛躍してしまいますが、宇宙論にはマルチユニバース(多元宇宙論)という考え方があります。
何かしらの選択があったときに世界はその選択をした場合、しなかった場合とで分岐し、その後は複数の世界がパラレルに進んでいくという考え方です。
この考え方は選択のたびごとに世界は分岐するので、宇宙は無限に存在します。
分岐してしまった世界は元の世界に戻ることはありません。
カウンセラーは悪事に手を染めようとしたときにすでにその後の悲劇へ繋がる運命を選んでしまった。
その選択による結果はどう抗っても、人間の浅知恵では変えることができない。
他の二人についてもそうです。
抗えない運命、それに対して人間が哀しいほどのに無力であることが感じられました。
登場人物の中で、ひとりそのような哀しい存在としての人間を超越している人物がいます。
それがキャメロン・ディアスが演じるマルキナです。
彼女はライナーに「何を考えているかわからない女」と言われるように得体の知れなさがあります。
マルキナは人間というよりも、どちらかというと猛獣のような存在として描かれます(彼女がチーターのような入れ墨を背中にいれているのは捕食者であることを象徴している)。
彼女は世界を強い者が勝ち、弱い者は滅ぼされる弱肉強食の世界と捉えています。
滅ぼされる弱い者に対する憐憫は彼女の中にはなく、自分が彼らを食いちぎり生き残っていこうとします。
彼女にとってそれが世界のありようなのでしょう。
メキシコ人の組織は、彼女から見れば捕食者である別の猛獣という捉え方なのだと思います。
彼らと戦い、結果的にはどちらかが勝つ。
おそらく彼女は負けたとしても、その運命を悲観することはないのだと思います。
獣は倒された時、自分の運命を顧みることはありません。
マルキナはただ弱いから負けたと思うだけでしょう。
彼女にとって抗いがたい運命というものはそもそも存在しないのかもしれません。
獣にとって時間という概念がないように、彼女には「今」しかないのでしょう。

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2013年12月 1日 (日)

「かぐや姫の物語」 生命力のある線

宮崎駿監督と並ぶスタジオジブリの2枚看板の高畑勲監督の最新作です。
当初は「風立ちぬ」と同時期公開と言われていましたが、間に合わなかったようですね。
本作は皆さんもよく知っているかぐや姫のお話、すなわち「竹取物語」をベースにしています。
ベースというよりほとんどそのままであったのが意外でした。
もう少しアレンジをされると思っていたので。
本作はストーリーよりも、やはり高畑監督が問いかけるアニメーションとは何かという問いが重要ではないかと思います。
近年はアニメーション制作にコンピューターが取り入れられています。
ピクサー作品のようなわかりやすい3DCGアニメ以外のいわゆるセルアニメ風でもそうです。
描かれた原画はスキャニングされてコンピューターに取り込まれ、そこで着色され、編集され、ポストプロダクションされます。
それにより制作は効率化され、また非常に綺麗なアニメーションが作られるようになりました。
デジタル化そのものは決して悪いことではありません。
ただその中で失われていったものもあるのではないかというのが高畑監督の問いなのではないかと思います。
本作は観ればわかるように、手描きのタッチを非常に強く出したアニメーションに仕上がっています。
場面によっては荒々しいほどにそのタッチは強さと勢いを増します。
まさに筆圧を感じるアニメーションと言っていいでしょう。
特に筆圧を感じるのは主人公であるかぐや姫の感情を大きく揺れ動く時です。
中盤くらいにかぐや姫が走り出す場面がありますが、それを描く線の荒々しさはまさに彼女の感情を表しているようでありました。
線が生きているという感じがします。
最近のアニメーションでは3DCGでモデリングしてセル画風に出力するトゥーン化という手法もあります。
これは肌感のような温かさが感じられない3DCGを、馴染み深い人肌を感じさせる手法と言えるかもしれません。
ただこの手法での線画というのはどうしても均一的にならざるをえません。
背景とキャラクターの境目を物理的に分ける境界線なのですね。
本作の線画は綺麗に繋がっているわけではなく、途切れたり二重になっていたりもします。
しかしそれにより、線に感情がこもっているようにも見えるのですね。
アニメーションの語源はラテン語のanimaで、これは生命がないものに生命を与えることという意味です。
まさにアニメーションはただの絵を動かし、生命力を与えることなのですね。
最近のアニメーションは絵を動かすばかりで、生命力を与えてきていなかったのではないかというのが高畑監督の想いなのではないかと思いました。
本作の劇中で繰り返し流れるわらべ歌で「とり むし けもの くさき はな はるなつあきふゆ つれてこい」という歌詞があります。
これは地上の生きとし生けるものものの生命の営みを歌ったものでしょう。
月の住人は地上の人や生命のように刹那的はなく永遠に生きる存在だと思われます。
だからこそ地上に送られることは「罰」なのでしょう。
命に限りがあり、そこで争いながら生きていくことは、永遠に生きる存在からは罰のように見えるというのはそうなのかもしれません。
しかしだからこそ限りある中で生命はキラキラとした光を放つ。
かぐや姫は、かつてその歌を歌った人が地上を思い返して泣いていたことを思い出します。
そして自分もそうなるであろうと予感するのです。
高畑監督がアニメーションが持つ元々の意味合い、生命力の表現にこだわろうとした時に、「竹取物語」という題材を選んだというのもわかる気がします。

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