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2013年11月30日 (土)

「42 〜世界を変えた男〜」 世界を変えた男とサポーター

ジャッキー・ロビンソン、初の黒人大リーガー。
黒人への差別が当たり前であった40年代に、白人に独占されていた大リーグのプレーヤーとなった彼の苦労は僕たちが想像する以上のものであったのでしょう。
本作でも描かれているような試合中の罵詈雑言や、嫌がらせがあったら、自分だったら心が折れてしまうだろうなと。
そういった差別に対し、野球選手としての自分の実力を見せ、あくまでも紳士らしい態度で人間性を感じさせ、ジャッキーは人々に認められるようになったのです。
彼は副題にあるようにまさに「世界を変えた男」であったのですね。
そういった彼の姿に心うたれましたが、本作を観ていて思ったのは別のこと。
世界を変えていく人というのは、他の人に比べ優れた能力、魅力的な人間性というものを持っているものです。
ジャッキー・ロビンソンもそういう人であったのでしょう。
けれど人よりも優れていて、人としても魅力的な人であっても、必ずしも世界を変えることができるわけではありません。
本作で重要な役割を担うのは、ドジャースのGMであったブランチ・リッキーです。
誰でも野球を愛し、プレイできるという理想を彼が実現しようという強い信念を持ち続けたからこそ、ジャッキー・ロビンソンという黒人初の大リーガーが誕生したと言ってもいいかもしれません。
才能がある人が活躍するには、彼らが能力を安心して発揮できる環境がなければいけません。
まれに自分で環境整備からなにから全部できる天才もいますが、誰しもそうはいきません。
ジャッキーの前には様々な障害が立ちはだかり、彼は果敢にそれに挑みますが、それでも心が挫けそうになるときもあります。
しかしリッキーは表に裏にジャッキーをサポートし続け、彼が実力を発揮できる環境を整えます。
環境面といっただけでなく、リッキーのブレない信念がジャッキーにとって精神的にどれほどに支えになったかしれません。
自分を支持してくれる人がいるだけでどれだけ前線でがんばる者が救いになるか。
経験ありませんか?途中でハシゴ外しにあったりしたこと。
リッキーは決してハシゴを外すことなく、リッキーに対して盤石なサポートを行ったのです。
またジャッキーを支えたのはリッキーだけではなく、記者のウェンデル、妻のレイチェルも、そしてチームメイトやファンたちも彼をサポートしました。
世界を変えたとき、それを成し遂げた人だけに注目が集まりがちですが、そういった人々をサポートした人たちがいたからこそなのだよなと改めて思った次第です。

予告で観たときは、ハリソン・フォードの名前が出た時、ちょっと驚いてしまいました。
えらく老けたなぁと。
本作観たら、老けた感じの役作りかなと思いましたけど。

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2013年11月25日 (月)

「四十九日のレシピ」 与えることによる幸せ

自分が幸せになろうとして、人から奪おうとする人がいます。
主人公百合子の夫を奪おうとする女もそういうタイプの一人でしょう。
この登場人物は非常にエキセントリックな感じ(この人物に共感する人はほとんどいないでしょう)で描かれていますが、これほどではないにせよ、このように「奪う」ことにより幸せになろうとするタイプの人がいるのは確かです。
ただ彼女のような人とは逆の行為、つまりは「与える」ことで満たされる人もいます。
人に与えることにより、自分の存在価値、自分がいる意味を感じられる。
百合子などはそちらのタイプだと思います。
夫の母親の介護もし、夫の世話もする、ただそれをしなくてはいけないとやっているのではなく、そのように人に与えることで満たされていたのだと思います。
与え続ける彼女にとって唯一「得たい」存在、それは子供なのですが、それは得ることはできません。
子供は自分にとって究極的に自分を与えるもの(だからこそ幸せを感じる)ですが、だからそれを得られないことは自分が存在する意味を見いだせないと彼女は感じてしまったのかもしれません。
そしてそれだけでなく、自分の家庭すら人に奪われそうになる。
自分の存在価値すら感じられない、深い喪失感を味わったのかもしれません。
離婚の危機をむかえ、彼女は実家に戻ります。
実家では、自分を育ててくれた母親の乙美(実は血は繋がってない)が亡くなったばかりでした。
母親の遺言は、自分の四十九日にはみんなで大宴会をしてほしいということ。
そして彼女は自分が描いたイラストの入った「暮らしのレシピカード」を残していました。
百合子と父親は母親の願いの通り大宴会を開こうと準備をはじめます。
その中で百合子は母親の生涯を記した年表を作ろうとしますが、改めて作ろうとすると母親の人生が空白であることに気づきます。
自分は子を得ることはできず、連れ子(つまりは百合子のこと)を育てる人生は空しいものではなかったのかと。
そこに子供ができない自分を重ね合わせたのかもしれません。
与えるだけ与え、唯一得たいものは得られなかった人生。
しかし、そんなことはなかったことに百合子は気づきます。
乙美はずっと若い頃からボランティアの仕事をしており、老人や社会に馴染めない子供たちの世話をずっとしてきていました。
百合子以上に人に何かを与え続けてきていた一生だったと言っていいでしょう。
四十九日の大宴会の日、百合子の家には乙美がかつて世話をした人々が大勢訪れます。
そして空白ばかりが目立っていた乙美の年表にそれぞれが彼女との出会いを書き込んでいきます。
乙美の人生は与えるばかりの人生ではありませんでした。
人々の出会いを彼女は得て、彼女は満たされた人生を過ごしていたのです。
自分の子を得ることはできなくても、手をかけて育てた子を得、そして彼女を慕う人々を得、確かに乙美の存在価値はあったのです。
そういう乙美の生き方を知り、百合子も自分の人生は捨てたものではないと感じることができたのでしょうね。

百合子の父親である良平も妻を失い深い喪失感を感じます。
彼は乙美に与えられる側であったんですね。
良平は妻を失ったことで、自分が妻に何も与えられてきていなかったと悔やむのです。
けれど、そうではなかったということを良平も気づくことができたのだと思います。
良平は乙美と結婚して、彼女に家庭というものを与えてあげた。
与えることができる夫を得て、世話をできる娘を得て。
それが乙美にとって幸せだったのだと。
何も与えられなかったのでなかった。
確かに妻に幸せを与えることができたのだと。

本作は父親と娘がそれぞれに喪失感を味わい、そしてそこから立ち直る過程を描きます。
喪失感は簡単には塞がらない。
それが癒されていく時間が四十九日という日数なのかもしれません。

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「パーシー・ジャクソンとオリンポスの神々:魔の海」  わかりやすい冒険ファンタジー

前作は劇場では観ずにDVDで観賞しましたが、今回は劇場で。
とは言っても積極的に観に行こうというよりは、たまたま時間があったからという感じでした。
「ハリー・ポッター」のヒット以降その手のティーンが主人公のファンタジーというのは数々と作られてきました。
良い作品もそうでない作品もありましたが、やはりたくさん作られてくると観る方としてもやや食傷気味となるのは致し方ないところかと。
前作についてはそういったファンタジーブームの最後のほうで、やや飽きてきていたところだったので劇場には観に行かなかったという感じですね。
DVDで観たときの感想としても、面白くない作品ではないけれども、すごくいいというわけでもないという感じだったと思います。
ストーリーもあまり覚えていませんでしたし。
現在は「ハリー・ポッター」シリーズが完結し、ファンタジーブームもやや一段落というところでしょうか。
このシリーズの2作目が公開されると聞いたときは、今更という印象も持ちましたが、ファンタジー作品が一時期ほどはたくさん作られなくなっているので、目立ちやすいというところはあるかもしれません。
このジャンルは一定の需要はありそうですものね。
このような感じでそれほど気張った気分で観に行ったわけではないのが良かったのか、本作については普通に楽しめました。
やはりすごく良いって感じではないですけれど、誰でも気軽に楽しめるエンターテイメント作品にはなっていると思います。
ギリシア神話というとエディプスコンプレックス的な父親越えのようなテーマになるものが多いかと思うのですが(前作はそんな感じでしたよね)、本作はそういった主人公の葛藤といったシリアスなテイストはそれほど強くはありません。
本作の主人公パーシーの悩みは、自分が自分本来の力を出し切れていないこと。
どうやったら自分が自分らしく力が発揮できるのか、ということですね。
それは神の子供(ハーフゴッド)としての悩みというよりは、普通のティーンが抱えている悩みそのものです。
そういう点で本作は青春ものとしての側面もあるかとは思いますが、それもそれほど深く強く描いているのではありません。
どちらかと言えば、冒険活劇的側面が強いでしょうか。
宝物を探し求めて冒険冒険、また冒険といった感じでファンタジー版の「インディ・ジョーンズ」といったところです。
後半非常にダークになっていた「ハリー・ポッター」シリーズとは異なり、あくまでわかりやすい冒険ファンタジーを目指しているという感じがします。
作品全体のテンポもよくできているので、冒険活劇として合格でしょう。
ラストはまたこれ見よがしに続編を臭わせる終わり方ですが、果たして作られますでしょうか?

前作「パーシー・ジャクソンとオリンポスの神々」の記事はこちら→

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2013年11月24日 (日)

「2ガンズ」 フィルモグラフィを踏まえたキャスティング

全く予備知識なく観賞。
予告編すら観なかったのではなかろうか。
そのため期待のハードルがなかったせいか、意外と楽しめた佳作でした。
銀行強盗で転がりこんだ大金を巡って、麻薬カルテル、DEA、CIA、海軍が入り乱れての取り合い、駆け引き。
潜入捜査官のボビー(DEA)、マイケル(海軍)も相棒として銀行強盗を働きますが、お互いに相手を信用できるかどうか探っている様子。
誰が味方で誰が敵か?
というより周りはみんなワルばかりでボビーとマイケルは次から次へとピンチに見舞われます。
物語の展開はかなりスピーディでなかなか先を読ませません。
潜入捜査で誰が味方かというと、「インファナル・アフェア」や「ディパーテッド」のようなシリアスでハードで緊迫感のあるドラマを想像してしまいますが、本作は雰囲気は軽妙なところがあります。
この軽妙さは主人公であるボビーとマイケルの掛け合いによるところが大きく、このあたりはアメリカの伝統的なバディものの系譜にあると言っていいでしょう。
本作では潜入捜査もののシリアスな緊迫感と、バディものの軽妙さというものが上手にバランスがとられているように感じました。
そのためボビーとマイケルの2人のキャラクターには、ドラマが持つシリアスさと軽妙さと同様のものが求められます。
表の顔と裏の顔という二面性。
シリアスさと軽妙さ。
その点において、本作のキャスティングはいいところをついていると思います。
ボビーを演じるのは演技派デンゼル・ワシントン。
ご存知のように彼は、正義を貫く男を演じても、汚れた男を演じても一級品です。
俳優によってはもう登場した瞬間に役回りがわかってしまうタイプの人もいますが、デンゼル・ワシントンの場合は話が進まないと善人か悪人かがわからない。
彼の演じてきたキャラクターの幅自体が物語がどちらに進むかわからない、先の読めなさに繋がっていると思います。
そしてマイケルを演じるマーク・ウォルバーグです。
本作ポスターではマーク・ウォルバーグの名前は「Ted テッドの」という枕詞がついていました。
彼は「Ted テッド」の主人公のようなオバカな役が似合います。
そしてまた「ザ・シューター/極大射程」等のようなシリアスな役を演じる俳優でもあります。
今回のマイケルはマーク・ウォルバーグが今まで演じてきたのお調子ものの側面、シリアスな側面というのを生かしたキャラクター担っているかなと思います。
本作は元々の筋立てがなかなか巧妙であったのに加え、主人公二人のキャスティングがそれを演じる俳優のフィルモグラフィを踏まえたものであったことが、よかったんでしょうね。

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2013年11月23日 (土)

本 「坂本龍馬」

「龍馬伝」は最近のNHKの大河ドラマの中でも傑作だと思っていて、DVDボックスを買ってしまったほど。
それを見直していたところで、こちらの本を読んでみました。
歴史物のドラマというのは史実と異なる展開等もあるものですが、この本を読んでみるとドラマはかなりがんばって史実に近いように書こうとしていたことが伺えます。
こちらの本は発行されたのはかなり昔なので、「龍馬伝」を作ったスタッフの方も読んだのかもしれません。
「龍馬伝」というキーワードが文中にも出てきてますし、著者が坂本龍馬の生涯を4つの時代にわけて語っているところからも影響があるかなと感じました。
ドラマは1年間を4部(season1〜4)の構成にしていてます。
本著では坂本龍馬の生涯を第1の時代を町人郷士として封建武士に成長する時代、第2の時代を尊攘志士として活躍する時代、第3の時代を近代航海術の修業時代、第4の時代を日本の国家体制を構想する政治思想を大成した時代としています。
この4つの時代はほぼドラマの4部構成と同じで、ドラマのスタッフはこの考え方に発想を得たのかなと思いました。
そういう意味で本著はドラマ「龍馬伝」の副読本として最適でしょう。
龍馬以外にもドラマに登場する主だった人物の背景等についてもわかりやすく書かれているので、ドラマで坂本龍馬という人物に興味を持った方は手に取ってみてはいかがでしょうか。

「坂本龍馬」池田敬正著 中央公論 新書 ISBN4-12-100069-2

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2013年11月17日 (日)

本 「封印再度」

森博嗣さんの「S&Mシリーズ」の第5作です。
前作の「詩的私的ジャック」を読んでからだいぶ時間が経ってしまいました。
このシリーズの探偵役のひとりの犀川は興味のないことにはあまり頓着しない理系男というイメージがあります。
探偵役の相棒の西之園萌絵は犀川一途にアタックをかけるわけですが、あまり犀川はかまっていないような感じがありました(とはいえ萌絵のことを憎からず思っていることは伝わってきます)。
が、本作では珍しく犀川が萌絵に関することで動揺するところが描かれます。
それがけっこう新鮮な感じがしましたね。
読んでいる自分も動揺しましたが(笑)。
本作のトリックは森さんらしい非常にロジカルな仕掛けでありました。
一見不可能に思えることも物理的に説明可能であるトリックであるというところ森さんのミステリーの真骨頂ですよね。
本作はそれが特に洗練されているような印象を受けました。

「封印再度」森博嗣著 講談社 文庫 ISBN4-06-264799-0

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2013年11月10日 (日)

「清須会議」 日本のクレイジーな人

本作は三谷幸喜さんが脚本・監督をする初の時代劇作品です。
戦国時代を舞台とする時代劇と言っても、合戦シーンが出てくるわけではありません。
タイトルに「会議」とあるように、織田信長の後継を選ぶための評定を題材にしていて、三谷さんらしいシチュエーションドラマになっています。
概要を雑誌で読んだときは、戦国時代の「十二人の優しい日本人」みたいな感じなのかな、と思いました。
想像していたよりは会議のシーンばかりではなく、それの前段の根回しのようなところから描いていましたが、それぞれ個性あるキャラクターのやりとりなどは三谷さんらしさを感じました。
評定で、思い通りにいかずにすねちゃう柴田勝家は、「十二人の優しい日本人」で梶原善さんが演じていたサラリーマンのような感じでしたね。

さて、前日に「スティーブ・ジョブズ」を観ていたせいか、本作に登場する豊臣秀吉も「クレイジーな人」であったのだなと思いました。
ジョブズの言う「クレイジーな人」とは世の中を自分が変えられると思っていて、それを実現してしまう人のことですが、まさに秀吉もそのような人物であったのだろうと。
秀吉は本作のラストで前田利家に世の中を変えられるのは自分だけというようなことを言いますが、彼には乱世を統一した先の世の中のビジョンが見えていたのでしょうね。
そのビジョンを実現するために、情のないこともするし、前例にないこともする。
それで人は秀吉を変人と言うのかもしれないですが、まさに世の中を変える「クレイジーな人」であったのですね。
そういう意味では本作ではあまり触れられていないですが、織田信長も「クレイジーな人」であったのかもしれません。
織田信長はそれまでの価値観を破壊し、新興の織田家を日本有数の武家としました。
しかしその破壊力故に、賞賛するものもいれば、苦々しく思うものもいたのだと思います。
そして天下をとる寸前で家臣に命を奪われました。
それは昨日観た「スティーブ・ジョブズ」でジョブズがその激烈な性格、ビジョン実現への容赦のなさでAppleを追われた姿と重なります。
再びAppleに戻ったジョブズは、ビジョナリーとしての優れた点を持ちながらも、経営者として人々をまとめ新たな仕組みを作り、世の中を変えることを成し遂げます。
これは信長の後を継ぎ、天下統一を果たし、世の中の仕組みを変えた秀吉に通じるものを感じますね。
清須会議という場は、言うなれば織田家の取締役会のようなものだったわけで、それが本作と「スティーブ・ジョブズ」に相通じるものを感じたところだったかと思います。
本作の柴田勝家は、ジョブズによって放逐された会社立ち上げ時のメンバーとかぶります。
織田家を大きくするに当たっては、戦上手な武将の価値は高く、それにより厚く用いられました。
しかし天下統一が見えてきた時、ただの戦上手とは違う能力を持った人が必要とされたのですね。
言わば経営者的センスが必要だったわけです。
ジョブズの盟友であったスティーブ・ウォズニアックは技術者としては類いまれな才能を持った人物でしたが、Appleが巨大企業となったとき自らそこに居場所はないと会社を去ります。
柴田勝家も、本作のラストで秀吉に「俺の居場所はあるか?」と聞きますが、彼も自分が大きくなってしまった織田家には必要がないと感じていたのでしょう。
そういう意味で、本作は時代劇という形をとっていますが、現代にも通じる要素を持った作品になっているかと思います。

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2013年11月 9日 (土)

「スティーブ・ジョブズ」 クレイジーな人

AppleのMacintoshを初めて自分で買ったのは、確か1993年頃でした。
気がつけばそれから20年間ずっと浮気もせずにMacユーザーなんですね。
1993年頃というのは、こちらの映画でも描かれているようにジョブズがAppleにはいなかった時期になります。
それでもMacユーザーの間では、「スティーブ・ジョブズ」という名は創業者であるということだけでなく、なにかヒーローのような特別な存在でありました。
専門雑誌の記事などでもジョブズの名前を目にすることは多かったのですが、Appleの経営から離れている人の名がそれほどまでに登場するのは他に類をみないことであったと思います。
1990年前半のAppleは経営的にも苦しい時期であり、かつての輝きを失っていました。
そして1996年にジョブズはAppleに復帰、ファンからは熱狂的に迎えられました。
その後、トランスルーセントな筐体のそれまで見たことのないデザインであるiMac、音楽業界を変えてしまったiPod、電話を再定義したiPhone、パーソナルコンピュータの地位を脅かす新たなカテゴリーを創造したiPadと、それこそ世の中を変える製品群をリリースしてきたことは多くの人が知っているところだと思います。
この映画はみんながよく知っているiMac以前の若かりし頃のジョブズの姿を描いています。
Appleファンとしては、ジョブズの若かりし頃というのはいろいろとな記事でいままで読んだことがあり、情報としては知っていることばかりではあったのですが、彼の生き様が映画として観れることは楽しみでありました。
ジョブズを演じるのはアシュトン・カッチャー。
予告やポスター等で観たときも、ジョブズ本人にそっくりだと思っていましたが、映画を観るとさらにその感が強まりました。
ジョブズの歩き方はひょこひょこした感じで特徴があるのですが、それもしっかり真似ていましたね。
体格等もガッチリしているところが若い時のジョブズにそっくりでした。
晩年ジョブズは病気でガリガリに痩せてしまうので、そこはさすがに似せられなかったのか、だから最近のエピソードは描かれなかったのかもしれません。
ジョブズが復帰したあとに作った広告で「Think Different」というシリーズがあります。
本作でもジョブズの家に写真が飾られているアインシュタイン、たびたび名前が出てきていたピカソなどが登場した広告シリーズと言えば、思い浮かぶ方も多いかと思います。
映画の最後でジョブズがマイクにむかって読んでいるのは、そのCMのナレーションです。
実際に流れたCMでジョブズのナレーションは使われなかったのですが、収録まではしたということです。
「Here’s to the crazy ones」ではじまるこのナレーションは、ジョブズ自身の思想が顕著に表れたものであると言ってよく、それが映画の最後にくるというのは納得できます。
アインシュタインやピカソ、エジソンなどが登場した広告は「世界を変えられると考えるくらいにクレイジーな人々が世界を変えられる」と締められますが、まさにそれはジョブズ本人のことを言っているようでもあります。
タフなネゴシエイターであり、辛辣で傲慢な経営者であったジョブズ。
おそらく彼の近くにいた人にとっては、とんでもない変人でつき合いにくい相手であったであろうと思います(映画で描かれているように)。
しかしそれでも彼に魅かれて、いっしょに未来を変えようとした人々が集まったのですよね。
ジョブズがいかにクレイジーであろうと、誰も観たことのない未来を想像するビジョナリーであったからこそであると思います。
なんだか映画レビューというよりは、ジョブズ評のようになってしまいましたね。

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2013年11月 2日 (土)

「グランド・イルージョン」 流れに身を任せて観るのがよし

マジックやイルージョンというのは人それぞれに楽しみ方があるかなと思います。
マジシャンが仕込んだ種を見破ろうと目を凝らしてみる人、騙されないぞと気合いをいれている人など。
僕はどちらかというとそのまんま観て「すげー!」とか言ってあんまり考えずに楽しむのが好きですね(だって考えたってわからないんだもん)。
本作はまさにそういう感じで映画の流れに従って、繰り広げられるマジックやトリックをそのまんま受け入れて楽しむのがよいような感じがしました。
4人のホースメンたちが繰り広げるのは、華麗で派手なイルージョン。
遠く離れたパリの銀行から札束を奪い、瞬時に離れたラスベガスのショー会場でその札束をばらまく。
観ていても派手でまさにザッツ・エンターテイメントという感じです。
マジックショーと映画という二つのエンターテイメントが2乗になったよう。
警察に目を付けられるにもかかわらず、この4人が犯罪めいたイリュージョンを行うのはなぜなのか。
そしてもう一人、見え隠れするホースメンの正体は誰なのか?
ミステリーとしての要素も本作は持っていて、5人目のホースメンの正体がわかるときは「へぇ!」となるでしょう。
4人のホースメンのトリックを見破ろうとする男サディアスが仕切りにマジックとはミスディレクションが基本と言います。
ミスディレクションとはミステリーなどでも使う言葉ですが、観客・読み手を誤った方向に導いていくこと。
テーブルマジックなどでは種のある手のほうに目をいかせないために、もう一方の手に注目を集めるとか、そういったことです。
ホースメンたちが行うトリックは当然ミスディレクションを上手く使い行われていますが、この映画そのものものもそうです。
いかにも怪しそうな人物が出てきますが、当然のことながらそれはミスディレクション。
5人目の正体が誰か、みなさんも推理してみてください。
でもそういうのに気を使わず、やはり自然に流れに身を任せて観る方が楽しいかな。
ジェシー・アイゼンバーグは相変わらずの早口トークで人を見下す感じが役に合っていました。
こういう役やらせたら天下一品ですね。
ホースメンの一人で帽子をかぶっていたマッキニーはウディ・ハレルソン。
「ゾンビランド」でアイゼンバーグの相棒をやっていた人でした。
またチームなのね。

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