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2013年10月26日 (土)

「陽だまりの彼女」 想いが起こす奇跡

松本潤さん、上野樹里さん主演のラブストーリーでありファンタジーでもある物語。
中学生のときに同級生だった浩介(松本さん)と真緒(上野さん)は好き合っていましたが、浩介の引っ越しで離ればなれになってしまいました。
それから10年後、二人は再会し、再び恋に落ちます。
二人は付き合い、そして結婚し幸せな日々を過ごしますが、やがて真緒にはある秘密があることがわかってきます。
なるほど、真緒の秘密がわかってくるとタイトルの意味がわかってきますね。
その秘密が後半で明らかになると、そのヒントとなる描写(真緒が熱いコーヒーが苦手とか、高いところは平気とか)が最初の方からいくつか散りばめられていたということに気づき、脚本がしっかりと構成されていたということがわかります。
物語で描かれるのは秋から冬にかけてですが、「陽だまり」というタイトルのイメージからくる、あったかさ、ほんわかさみたいなものが映像からも感じられます。
真緒が辛かった時、寂しかった時に、浩介の側こそが安心してぬくんでいられる場所=陽だまりであったということなのでしょうね。
寒い時、陽だまりがとてもありがたくほっとしていられる場所であるように。
こういう映画の雰囲気はとても好感がもてました。

この映画を観にくる多くの人(特に女性)のお目当ては松本潤さんであると思いますが、こちらではあえてもう一人の主人公真緒役の上野樹里さんに注目してみましょう。
上野さんはNHK大河ドラマの「江」で主演を努めて以来のしばらくぶりの登場となります。
彼女が演じた中で印象的である役はやはり「のだめカンタービレ」ののだめでしょう。
天然であり超マイペース、思い込んだらまっすぐにずんずんと突き進んでいってしまう、この特異なキャラクターは上野さんのアタリ役となりました。
のだめ役のイメージというのは、上野さんのその後の役柄イメージにも強く影響を与えているかなと思います。
もしかするとご本人的には役柄の幅が狭くなるので特定キャラクターのイメージが強すぎるのも考えものなのかもしれません。
しかし上野樹里さんでなくては演じられないキャラクターもあるような気がします。
まさに本作の真緒というキャラクターは上野さん以外は考えられないはまり役であったように思いました。
上野樹里さんは、相手を見つめる瞳がまっすぐであるという印象があります。
のだめが千秋を見つめるのもそうですし、本作での真緒が浩介に対しての瞳も。
それは決して厳しい目線というのではないのですよね。
相手のことを想い、目を逸らすのも惜しくずっと見つめてしまうという感じ。
熱っぽい視線というのとも違う。
想いのこもった瞳なんですよね。
こういう瞳で見つめられたら、浩介が恋に落ちてしまうというのはわかるような気がします。
また彼女の醸し出す雰囲気というのも他の女優さんとはちょっと違う。
ご本人のインタビューなどを観ていても、なんとなくほわっとふわっとしているような不思議な雰囲気なんですが、それでいて芯がしっかりしているというか、考えている感じというのがあるんですよね。
このあたりのご本人の雰囲気というのが、真緒というキャラクターに非常にマッチしているように感じました。
上野さん=真緒の雰囲気というのは、冒頭に書いた作品全体との雰囲気に通じるものがあり、だからこそこの映画は上野さんのキャスティングがとてもしっくりくるよう思いました。

真緒がいなくなってしまうと、それに関わった人々の記憶や物も失われてしまう。
もちろん浩介の記憶の真緒の思い出も。
けれど浩介が前に真緒につけられた手のひらの傷はそのままに残っていました。
クリスマスの夜、浩介は真緒が好きだったビーチボーイズの歌を聞き、涙を流します。
傷と同じように、浩介の記憶は消えなかったのかもしれません。
そう、願いたいですね。
彼の想いが起こした奇跡だと。

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2013年10月25日 (金)

「人類資金」 未来の可能性

福井晴敏さんが原作で、阪本順治監督というのは「亡国のイージス」以来でしょうか。
本作の原作小説は映画の公開に合わせて同時期にいきなり文庫でリリースされています。
また福井さんは映画の脚本も書いているので、彼のカラーが強く出ている作品ではないかと思います。
福井さんの作品はデビュー作の「亡国のイージス」から、多くの作品に共通した構図があるように考えています。
世界は戦後ひとつの強い枠組み(本作では「ルール」=資本主義と言われているもの)で形作られていて、アメリカや日本といった国々はそのルールに基づいて運営されている。
福井さんの作品ではそおルールを守る人々が「大人」と象徴されることが多く、そのルールに基づいて育てられ教育された子供たちがいます。
しかし子供たちは決められたルートではなく、自身の可能性(これは福井作品での重要なキーワード)に気づき、その可能性を叶えるために、大人たち(ルールを守る側)へ挑むのです。
初期作品にはその作家の個性が出るものと言われますが、「Twelve.Y.O」「亡国のイージス」はまさにこのような物語です。
過去から続く現在の既存価値に対して、未来の可能性が戦いを挑むという物語は理想論的であり、ある種の青臭さを感じたりもします。
福井さんは「ガンダム」に強い影響を受けたと公言していていますが、福井作品の骨格は「ガンダム」の「旧人類」VS「ニュータイプ」という構図からきているのかもしれません。
さきほど書いた青臭さというのは、「ガンダム」という物語にも共通している感じがするのですよね。
彼が小説版を書いている「ガンダムU.C.」でも「ユニコーン=可能性の獣」というフレーズが多く出てきているように、人々が発展しよりよい存在となっていく可能性を、受け入れる者、否定する者がおり、彼らの戦いが描かれます。
これはまさに「ガンダム」の物語であり、福井晴敏の構図でもあるのだと思います。
福井作品は若者が、既存の価値を守ろうとする大人たちへ戦いを挑む物語だと書きましたが、その戦いの結末は必ず成功するわけではありません。
既存価値のルールに勝てないことが多いのです。
が、負けているわけでもなく、若者の未来、可能性というものへの希望が残った終わり方になっています。
本作も既存のルールに戦いを挑む若者たち(Mや石、そして真舟も)の戦いを描きます。
そして彼らは苦戦しながらも、未来の可能性を勝ち得ます(ただし既存勢力も完全には「負けていない」)。
これは福井作品では珍しい結末かなと思いました。
未来の可能性が勝つということにより、福井作品の持つ青臭さ感はより強く感じる気はします(決して否定的な意味ではなく)。
「ガンダム」を観ていた時よりだいぶ年をとってしまった自分としては、「そんなに現実はうまくいかないよ」と思ってしまったりもするわけですね。
しかし理想を直接的に描かなければならないほどに、現実の社会は既存価値によってより閉塞感が出てきてしまっているということかもしれません。

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2013年10月19日 (土)

「ゴースト・エージェント R.I.P.D.」 MIB×ゴーストバスターズ

今週は仕事が非常に忙しくお疲れモードだったので、映画もあんまり考えずに気軽に楽しめるものを、ということでこちらもセレクト。
期待通り頭を空っぽにして、楽しめたエンターテイメント作品でした。
宣伝では「MIB」×「ゴーストバスターズ」と書いてありましたが、まさに言い得て妙でこの作品のことを言い表しています。
主人公ニックはボストン市警の敏腕刑事ですが、相棒の裏切りに合って殉死。
あの世で目を覚ましますが、生前のスキルを買われて、この世に残る死者たち=悪霊を捕まえる刑事となります。
そしてその相棒となるのがロイ。
彼は19世紀の保安官で、やはり相棒に裏切られて死んでからずっと、R.I.P.D.(あの世の警察みたいなもの)で悪霊を捕まえているベテランです。
彼らはコンビを組みますが、追いかける悪霊は世界を破滅させる企みをしている様子。
ニックとロイは悪霊たちを捕まえ、世界を救うことができるか、というお話。
悪霊たちを捕まえるという設定、またラストの世界を破滅させようとするシークエンスは、観た方は納得するように「ゴーストバスターズ」を髣髴とさせます。
そしてニックとロイのコンビは当初はまったく噛み合ないのですが、やがて互いに信頼し合うようになるちうのは「MIB」を思い浮かべさせます、っていうよりアメリカ映画伝統のバディムービーですね。
すなわち極めてオーソドックスな物語で観ていて安心感があります。
しかし安心感は担保しながらも、「MIB」×「ゴーストバスターズ」といった掛け合わせでちょいと新しさを効かせたようなところもあり、退屈はしないエンターテイメントになっています。
このあたりの安心感とエンターテイメント感のバランスのよさは、この作品の監督が「RED」のロベルト・シュヴェンケであることで納得。
「RED」もよくあるチームアクションムービーに、シニアっていう要素で新しさを効かせてスマッシュ・ヒットになりましたからね。
出演俳優も何気に豪華であることも「RED」に通じるところがあるかもしれません。
ジェフ・ブリッジス、ライアン・レイノルズ、ケヴィン・ベーコンといいメンバーを揃えています。
特にジェブ・ブリッジスは、いい感じでクセのあるロイという役を演じていました。
そうそう、ケヴィン・ベーコンが演じるボビーがR.I.P.D.に来た時「膝の上で踊る云々・・・」って言っていたのにロイが反応していました。
ロイを殺した相棒に関わるような感じだったと思いますが、本作中ではそれから触れられることはありませんでした。
もしや次回作への伏線?などと思ってしまいました。
この作品、気軽に観れるエンターテイメントシリーズになる感じはしますね。

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本 「統計学が最強の学問である」

学校で習った勉強は社会にたっても役に立たない、と言われたりします。
確かに数学等でもサイン、コサインとかルートとか虚数とか、社会人になって使ったことなんて一度もない。
そんな数学の中でも、高校生時代、つかみ所なくて好きでなかった(というより嫌いだった)のが、「確率・統計」でした。
他の数学は理屈をわかってしまえば、綺麗にひとつの答えが出るというのが気持ちがよかったりもしたのですが、「確率・統計」というのは答えがでてももやもやした感じがしてどうも苦手でした。
しかし、この「確率・統計」、統計学というのが社会人になってから最も接することになる数学になるのですね。
大学生になり、工業デザインの分野を勉強しているときに卒論でやったのが、人のイメージを多変量解析で分析して、それを使ってグラフィックデザインを作るというもの。
ま、ぶっちゃけ多変量解析がなんであるかというのはぼんやりとしかわかっておらず(てへ)、先生にたくさんアドバイスをいただいて仕上げたものではあったんですけれどね。
そして社会人になってから、マーケティング分野に関わることになると、調査、そしてそのデータを統計による解析みたいなことにも触れるようになりました。
マーケティングは経験的なカンみたいなものも重要ですが、それだと当たり外れのリスクが大きい。
多変量解析やら、クラスター分析やらなにやらかにやらのデータ解析はそのリスクを少なくすることができます。
ある仮説を持った上で、データ解析をし、その仮説の確からしさを確認する。
仮説が裏付けられることもあれば、仮説とは違った意外な結果がでることもあります。
また僕が関わるデザインという分野は、非常に「好き嫌い」が現れる分野です。
センスというものは非常に重要なのですが、「センスのない」偉い人が決定権を持っているときが厄介です。
そういうときに好みというものを分析することは、「鶴の一声」に頼りすぎないということにもなります。
ただデータ偏重主義でもダメで、それだけだといわゆる「とんがったもの」は出てきません。
このあたりはバランス感覚を持っていなければなりません。
マーケティングに関わる人は、統計学の理論上の細かいところまで理解する必要はないとは思いますが、その使い方、イメージ等は理解していた方がよく、それを武器の一つとして使えるようにするということは重要だと思います。
本著は統計学をどうして使うべきかということをわかりやすく書いているので、この分野が苦手な方も読みやすいかと思います。
僕は、統計学の専門家でも様々な分野があり、その分野の方によって統計というものへの向き合い方が違うというのがとてもおもしろく読めました。

「統計学が最強の学問である」西内啓著 ダイヤモンド社 ソフトカバー ISBN978-4-478-02221-4

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2013年10月14日 (月)

「おしん」 今、なぜ映画化か?

今年は「あまちゃん」ブームということですが、かつてこれ以上に一大ムーブメントとなった朝の連続ドラマがありました。
それは本作のオリジナルとなる「おしん」。
NHKの朝の連続テレビ小説は通常半年の放送が多いですが、周年記念作品ということで1年間放送された作品です。
「おしん」はしんという女性の一代記で、小林綾子さんが少女時代を演じる第1部、田中裕子さんの青春期第2部、音羽信子さんの老年期第3部となっています。
本作は特に有名な少女時代の第1部を映画化したものになります。
オリジナルは橋田壽賀子さん脚本によるもので、いわばベタベタな日本人向けドラマなわけです。
そのベタな感じは、映画化作品となる本作でもしっかりと継承されていました。
ベタだと思いながら観ていても、時折ぐっとくるところがあるのはやはり自分もベタな日本人だからでしょうか。
エピソードはおしんの少女時代の有名なところを拾っています。
奉公先でお金を盗んだと思われて、家に追い返されるところ。
脱走した男に読み書きを教わるところ。
再び奉公にあがった先の娘にはじめは意地悪をされるも、次第に親友となっていくところ。
自分も母親の脇で横目でこのドラマを観てただけでしたが、意外とこのエピソードは覚えていて懐かしく観れました。
初めは意地悪をされて、やがて親友になるというのは、「おしん」だけに限らずよくあるベタな展開ではあるのですが、こういう直球勝負には意外とやられます。
どんでん返しとか、意外な展開というのは一切なくて、ベタベタなまま話は進みますが、これはこれで安心感のある展開。
劇場にいらっしゃった観客のみなさんはおそらく平均年齢50〜60代くらいだと考えられますが、安心して観ていただけるところでしょう。
オリジナルに出演していた泉ピン子さん、小林綾子さんも出演してましたね。
これは往年のファンへのサービスというところでしょうか。
本作でおしん役を演じていたのは濱田ここねちゃんという女の子。
オーディションで受かったということですが、前向きでがんばり屋な感じがよくでていたように思います。
割とオリジナルよりも笑顔が多い感じがしましたが、その笑顔がパッと晴れやかな感じで物語が陰気くさくなりそうなところを救っていたような気がします。

さてこの作品、なんで今映画化されたのでしょう?
今の日本の時代に云云かんぬんという言葉が聞こえてきそうですが、そういうことではないような気が。
どっちかというともっとビジネスライクなような気がします。
「おしん」のオリジナルはアジア各国ですごく人気だとか。
この物語は貧しく厳しい生活の中を耐え、そして学びながら、一人の女性が成功していく姿を描いています。
確かに「おしん」で描かれている物語は、アジアの新興国ではまさに今の出来事かもしれません。
だからこの物語が受け入れらているのでしょう。
そういったことを背景にして、制作者はこの映画の輸出を狙っているのではないかなと思ったりしました。

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「宇宙戦艦ヤマト2199」 文句なしのリメイク作品

劇場で先行公開され、テレビでは4月から9月の間オンエアされたアニメです。
日本人ならば知らぬものはいないと言ってもいいくらい有名な作品「宇宙戦艦ヤマト」のリメイクです。
「宇宙戦艦ヤマト」については今までも続編やリメイクなどがアニメ、実写などで作られたことがありましたが、初めてオリジナルを観た時の興奮が甦ったかというとそこまでではありません。
やはり僕の世代となると「ヤマト」はビデオのない時代に再放送を食い入るように観ていたもので、その記憶が脳みそに深く深く刻み込まれているため、その理想へのハードルがとても高くなっているのですね。
しかし、本作「2199」は昔観たときの興奮が甦ったまさに王道のリメイク作品となっていると思いました。
おそらくスタッフも「ヤマト」世代であり、そのときの自分が好きだった部分を存分に再現しようとしていたのではないかと感じました。
「2199」はほぼオリジナルのストーリーラインを踏襲しています。
ガミラスに衛星爆弾で地球が破滅の危機を迎えている時に、イスカンダルよりコスモリバースシステム(旧作ではコスモクリーナー)を受けとりにくるよう使者が訪れ、そこにあったノウハウで宇宙戦艦ヤマトを建造し、遙かかなたのイスカンダルへ向かう。
本作ではオリジナルをとことん踏襲しているところと、かなり改変を加えているところとがあります。
オリジナルを意識的に踏襲しているところは音楽、そしてSE(効果音)ですね。
音楽はこれがなければ「ヤマト」ではないということで、やはり宮川泰さんの曲を使用しています。
この曲の入り方がほぼ旧作と同じような場面で入るんですよね。
このあたりの旧作品ファンの「ここは変えてくれるな」というお気に入りの場面のツボがスタッフがわかっているのだなと感心しました。
カットまでほとんど同じようなところがありますものね。
曲が足りないところは宮川泰さんのご子息である宮川彬良さんが作曲しています。
宮川彬良さんの曲である「ヤマト渦中へ」は今回ヤマトが危機の時に使われたBGMですが、けっこう好きな曲です。
SEなどもガミラス艦が進むときの「キュンキュンキューン」という音や、ショックカノンの「ギュルルル・・・」なんての音もそのまんまでした。
こういう細かいところに気をつかってくれるのはいいんですよね。
SEで新しいところでは、ヤマトが実弾を手法で撃った時、それがガミラス艦に当たる時金属的な「カンッ!!」って音がするんですよね。
このあたりはどちらかというと海戦ものの映画の影響を受けている感じで新鮮でした。
七色星団でのヤマトVSドメル艦隊の場面も宇宙戦というよりは海戦のイメージが強かったですよね。
このあたりは新解釈でカッコよかったです。
オリジナルから大きく変えているところは、古い作品のため設定が大らかで明らかに矛盾やおかしなところがあるところを整合性をとらせようとしているところですね。
そもそもヤマト一艦で巨大なガミラス帝国を滅ぼすのは無理があるということで、ガミラス帝国そのものにも反乱分子がいるということになっています。
そのあたりは肌の色が違う(青色じゃない)ガミラス人ということの矛盾にも理由をつけました。
ガミラス側だけでなく、地球側の一枚岩ではなく途中まではイズモ計画への賛同者の動き等があり、そのあたりはドラマとして複雑さを与えたと思います。
いわゆるアニメファン向けのキャラクターも何人か導入されていて、比較的硬派であった「ヤマト」がそういう方にも受け入れられるよう間口を広げた感も感じました。
個人的には冥王星海戦、七色星団での対決あたりが見応えあり、非常に満足でした。
最後のガミラス本星での「硫酸の海」「ビル型ミサイル」などは観たかったところですが、さすがに設定上突飛過ぎるということでオミットされたんでしょうね。
ここはちょっと残念。
作画レベルも非常に高かったのが満足度が高かったです。
キャラクターの作画はもちろんですが、メカ関係の作画が良かった。
おそらく3DCGを使っているとは思いますが、非常に上手い使い方だったと思います。
コスモファイターの戦いは航空戦、ヤマトとガミラス艦の戦いは海戦、をイメージしていて、SF映画の宇宙戦ではなくどちらかというと戦記映画の戦闘シーンを高度なコンピュータ技術で再現しようとしているように思いました。
非常に見応えがありました。
総合的に非常に満足度が高い作品に仕上がっていたと思います。

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2013年10月12日 (土)

「R100」 わけわかんないことへのエクスキューズ

松本人志監督は今までに3作品撮っていますが、どれもクセがある映画です。
人によっては「わけがわからん!」という方もいらっしゃるとは思いますが、僕は今までの作品は大好きというまではいかないですが、個性的であると評価してきました。
最近の日本映画はどちらかというと冒険心がなく、観客に受けることを考え、手堅く作っているものが多いですが、そんな中で自分の個性、クセというものを押し出すという作品作りは嫌いではなかったのです。
けれども、本作では作品への向かい合い方みたいなものがどうにも鼻につき、作品そのものよりも気になってしまって仕方がなかったのでした。
作品自体は今まで同様にわけがわからない感じというのはあります。
「しんぼる」もわけがわからない感じはありましたが、あれは「不条理さ」がひとつの作品の軸になっていたので安定感はあったのです。
本作はどっちかというとどこに行くかわからない感じ、そしてそこへの道筋が行き当たりばったりな感じというところがあります。
ま、今回は作品そのもののわけのわからなさにはこれ以上触れません。
僕が気になった作品への向かい方についてです。
タイトルの「R100」というのは映画の年齢制限「R15」などにかけているものでしょう。
「R15」は15歳以下への観覧制限ですから、「R100」は100歳以下への観覧制限という意味合いでしょうか(作品の中にも100歳の映画監督なる人物が登場。おそらくこれは松本監督本人という意味合い)。
100歳まで生きて映画を観るなんて人はそう多くはいないでしょうから、これは「ほとんどの人はこの映画を観るのは制限します」という意味と解釈できます。
ぶっちゃけ「ほとんどの人はこの映画観てもわかんねーよ」という意味と考えられるわけです。
まず、この映画を見てほとんどの人は「・・・よくわからん」と思うでしょう。
そう言われることを見越して、「キミたちにはわかんないよね」と言っているような気がするわけです。
あと、作品中に時折、この「R100」という映画を観ている映画会社の関係者のシーンというのが挿入されます。
メタ的なシーンですが、ここでは映画関係者が「R100」を評して、「わけがわからない」「辻褄があわない」などと言うわけです。
これも実際観ている観客が言いそうな感想なわけですね。
このシーンがすごく気になったんです。
「俺らは、お客のみんなが言いそうなことはわかってんのよ、わかった上でこういう映画を作ってんの」と言っているような気がしたんですね。
こんなことはわざわざ表現しなくていいんじゃないでしょうか。
わけがわからない映画、けっこう。
作ればいいじゃないですか。
それを観て、観客がああだこうだという、そういうわけのわからない映画もおもしろい。
逆説的ですが、そういう映画を作る人は、観客のことなんて考えずにその人の持つ独自のワールド、世界観を自信をもって作ってほしい。
本作のタイトルや挿入されるメタ場面からはかえって「観客の感想をすご〜く気にしてる」感じが伝わってくるんです。
松本監督は過去の作品(特に最初の2作品)はほとんど観客の評価など気にしないで作っていた気がします。
しかし「さや侍」はちょっと観客の目線を気にし、多くの人に受け入れられるようクセをやや抑えた感じがしました。
そのためか評価としては、どっちつかずであまり高くなかったかと思います。
そういうことから本作は初心に帰り自分の世界観を押し出そうとした意図を感じるのですが、しかしそこの観客を意識したようなエクスキューズを感じてしまったのです。
これがひどく醜いものに感じられ、どうにも観ていて居心地が悪い気分になったのでした。

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2013年10月 6日 (日)

「そして父になる」 言葉の少なさがリアリティを生む

6年間育てていた子供が実は他人の子供だった。
その事実に直面した2組の家族・・・、彼らは実の子を選ぶのか、それとも育ての子を選ぶのか・・・。
このようにこの作品のプロットを書いて最近の邦画のトレンドで考えると、涙腺が決壊しそうな感動物語を想像してしまいます。
そして実際に観てみると、泣けませんでした。
しかし泣けないことは悪いことではなく、かえってそのことで本作がこのような事態に直面した家族の様子をリアリティをもって描いているなと感じたのです。
いわゆる「泣かせ」の物語というものには、ツボのようなものがあります。
それは作る側と観る側の暗黙の了解があるような「ここで泣くんだよ」というサインのようなものです。
脚本家が練りに練って、その作品の言いたいこと(テーマ)が凝縮された「いいセリフ」などがそのスイッチになったりします。
フィクションなのでセリフは計算づくで構成されたものであるのでこのこと自体は悪いことではありません。
しかし是枝監督は元々ドキュメンタリー出身だからか、そういう作りこまれたセリフをあまり使わない傾向にあるように思います。
是枝さんは淡々と静かに、事件に遭遇した家族の様子を寄り添うように撮っていきます。
よくある「泣かせ」のドラマにあるように感情的なドラマティックさは、この事態に遭遇した二組の家族にはありません。
彼らにあるのは戸惑いのようなものでしょう。
どうしてこうなったのだ?そしてこれからどうしていくのがよいのだろうか?
その難問に直面しそれぞれが戸惑う。
その戸惑い感は作られたドラマティックさがないことによって、よりリアルに感じられます。
いくつか印象的であった場面をピックアップしてみます。

福山雅治さんが演じる主人公良多は実の子供の琉晴を引き取ります。
そして琉晴に自分と妻のことをパパとママと呼ぶように言います。
しかし琉晴は「なんで?」と聞きます。
それに良多は「なんででもだ」と答えますが、それでも琉晴は「なんで?なんで?」と問い続けます。
その問いに良多は言葉が詰まり答えられません。
「泣かせ」のドラマの場合では、ここで良多に気が利いたセリフの一つでも吐かせるかと思うのですが、本作ではそれをしません。
琉晴の子供ならではの容赦のない問いに、大人である良多は大人の事情でその問いをかわそうとしますが、それができずに二の句が継げなくなってしまう。
「なんで?」という疑問は実際のところ良多の心の中にもあったもので、それを「大人の事情」「大人の判断」で自分自身を納得させていたところを突かれて、グッとつまってしまったのでしょう。
このグッとつまる感じにリアリティを感じたんですよね。
あともう一つ。
琉晴がなかなか自分に慣れない中で一緒に暮らす日々が続く中で、良多は自分を育ててくれた母親に電話をします。
いくつかの場面からわかりますが、その母親は実際には血が繋がった母ではなく、良多はその母親に馴染めなかったようです。
しかし母親には愛情がなかったわけではなく、良多自身が彼女を受け入れられなかったということに、琉晴を引き取ることによりようやくわかったのです。
それで良多は電話をかけるわけですが、そこでほんとうは「母さん」と呼ぼうと思っていたのだと思います(良多は大人になっても母親を名前で呼んでいた)。
ここでも普通の「泣かせ」のドラマであれば「母さん」などというセリフを言わせて、涙腺決壊スイッチを押すかと思うのですが、そうはしません。
母親が何かを察したのか「良ちゃんとは楽しい話だけをしたいな」と言うと、良多は「そうだね・・・」とだけ言うのです。
やはりここでも良多の沈黙に彼の心を感じることができるのですね。
人間、普通に生きていて感動的な言葉を発することなんてそうそうありません。
こう言っておけば良かったと後悔することはあっても。
このような気が利いたセリフを言わせないという姿勢が、二組の家族をよりリアリティを持って描くことに繋がっているように感じました。
本作で唯一涙腺が緩みそうになった場面が、良多が育ての息子慶多が撮った写真を見るところ。
慶多は良多の写真を撮っていますが、その多くは背中を向けていたり、寝ていたりするような写真でした。
それを見て、良多は自分が慶多とほんとうは父親としてちゃんと接することができていなかったということに気づきます。
ここでもセリフは一切なく、慶多の写真と良多の表情だけでその気持ちを感じさせるのです。

良多は自分の育ちの境遇から、自分のことは自分でしっかりとできるようになる子に育てるということが親としての役割であると考え、ずっとそのようにしてきました。
しかし彼が遭遇した事件を通じて、彼は自分自身の中の揺るぎないポリシーが崩れるのを感じるのです。
自分の本当の子は自分にはなつかず、育ての子も相手の親に馴染む。
妻も良多の態度を非難する。
二組の家族の中で、孤立感を良多は感じていくのです。
彼の表情や行動には「こういうはずではなかった」「自分は間違っていたのかもしれない」というような戸惑いが感じられます。
その戸惑い感が、良多の口数の少なさに表れてるように感じました。
本作の最後で良多は多くの言葉を発します。
それはすべて息子の慶多にむかったもので、初めて彼は息子に自分の中にある気持ちをさらけ出したのだと思います。
どちらかと言えば良多は昔ながらの厳格な父で、上からの目線で慶多を接してきました。
慶多も物わかりのよい子供だから、そういった父親の言う通りにしてきていました。
けれどやっと良多は慶多と同じ目線で話ができるようになったのです。
ようやく良多は父親になった。
慶多が撮る写真に良多の笑顔が映るようになるといいなと思いました。

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2013年10月 5日 (土)

本 「警官の血」

「北海道警」シリーズ等の警察小説で有名な佐々木譲さんの作品です。
本作は戦後から現在まで警視庁の警官となった親子三代の男たちを描く、言わば警察を舞台にした大河小説ですね。
佐々木さんは「制服捜査」等でも、制服のいわゆる駐在さんをとりあげていますが、本作でも下町の駐在警官を題材にしています。
この方の作品は「北海道警」シリーズなどもそうですが、警察の闇の部分にフューチャーしていきます。
元々「北海道警」シリーズは実際にあった道警の裏金問題からヒントを得たということですが、そういう警察の暗い部分を本作では描きます。
ただいわゆる巨悪を暴くといった物語になっているわけではありません。
警察という組織は、悪を相手にするということもあり、すべてが真っ白な活動であるというわけではありません(建前はそうでしょうけれども)。
白でもなく黒でもないグレーの部分もあるのでしょう。
正義を執行するためにグレーの領域にも踏み込まなければいけない、けれど正義のためという目的をもってグレーの領域に入ったとしても、いつの間にか黒くなってしまうこともある。
佐々木さんの作品はこのグレーの領域で黒くなってしまった者、白のままで留まる者、そういった男たちを描いていると思います。
本作はそういった男たちを親子三代の大河ドラマで描き、かつ戦後の警察史を合わせて読むことができる読み応えのある作品となっています。
上下巻合わせてボリュームはありますが、一気に読めること請け合いです。

「警官の血<上>」佐々木譲著 新潮社 文庫 ISBN978-4-10-122322-3
「警官の血<下>」佐々木譲著 新潮社 文庫 ISBN978-4-10-122323-0

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「仮面ライダーウィザード」 孤高のヒーロー

前作「仮面ライダーフォーゼ」はシリーズの中でも屈指の明るさ、開放感、高揚感のある作品でした。
しかし、それに続く「仮面ライダーウィザード」は一転し、ストイックさを感じる作風となりました。
このあたり前作の路線をそのまま継承するのではなく、作品毎に新しさを追求していくのは平成仮面ライダーならではというところでしょう。
「ウィザード」におけるストイックさというのは、ウィザードに変身する主人公操真晴人の孤高さに帰すると思います。
ウィザードが戦うのは人が絶望したときに生み出されるファントムと呼ばれる怪人です。
オンエア前にこの「絶望」を題材にすると言うのを聞いた時、少々驚きました。
日曜日の朝の時間帯の子供向け番組に「絶望」はあまりに重いテーマではないかと。
そしてまた「絶望」を題材にするのであれば、それを子供向けにヌルく描いてしまうと、それはそれで作品として非常に曖昧になものになってしまうようにも思いました。
結果的には本作において「絶望」は子供向けの手加減をせずに描かれていたと思います。
物語としてもハードな展開の回も多かったですよね(フェニックスの最期とかグレムリンの過去などはけっこうハードだなと思いました)。
ある意味「絶望」というものは「死」よりも深く辛いものかもしれません。
「死」はいくら辛くてもすべてが終わってしまう。
「絶望」とは生きるための希望を失っても、それでも生き続けなくてはいけないという辛さがあるわけです。
この永続的な苦しみこそが「絶望」なのだと思います。
ゲートと呼ばれる人々は、ファントムに狙われ絶望させられようとします。
希望が壊れるところを見た人々は、生きる希望を失い、彼らもまたファントムに転化してしまいます。
絶望の淵を覗き込んだ人々の苦しみはまさに「死」よりも重く深いと感じられました。
操真晴人は自らも幼いころ両親を亡くし絶望し、そしてまたワイズマンによって引き起こされたサバトで絶望に直面します。
しかし、彼はその絶望から自らの力で脱し、魔法使い=ウィザードとなるのです。
彼は自分が絶望を覗き込んだからこそ、他の人々に同じような想いをさせられないと、ウィザードとしてファントムたちと戦い続けます。
操真晴人には最近の平成仮面ライダーシリーズの主人公にあるような人物としてのキャッチーさはありません。
どちらかと言えば静かであり、周囲をかき回すようなタイプではありません。
しかし、彼のキメ台詞でもある「俺が最後の希望だ」に表れているように、人々を救うことへの責任感というものが彼を強く印象づけます。
これは前述したような孤高さ、そしてストイックさに繋がっているように思います。
もともとメインライターのきだつよしさんは、仮面ライダーがスーパー戦隊シリーズ等他のシリーズと違う点はヒーローが一人であるということと言っていたようです。
平成仮面ライダーシリーズは2号ライダーが登場することが定番となったり、そもそも主人公周囲との絡みも多いので、ライダーの孤独さというものはあまり出ることはなかったと思います。
「ウィザード」でも2号ライダーは登場しますし、周囲のレギュラーキャラクターもいますが、操真晴人の孤高感というのは最後まであったように感じました。
そして彼の孤高感というのは超越してしまった者としての孤高感ではないのですよね。
なんというか、生き残ってしまったことによる孤独感とでも言いましょうか。
地獄を見、そこからなんとか脱した。
それは二度と経験したくないし、そして誰にも経験させたくない。
そういう生き残った者としての使命感が彼を強くし、孤高の存在としているような気がします。
そのなかで晴人の人となりが垣間見えるエピソード(サッカーをやっていたときのエピ、先生とのエピ等)は彼がどのような思いで戦っているかというの感じられる名エピソードであったと思います。
物語は「龍騎」と同じような臭いもありましたね。
自分の大事な人を救うという願いのため、他の者を犠牲にする。
それほどまでに強い想い。
その強い想いを持つのは「龍騎」ではそれが神崎であり、「ウィザード」ではそれはコヨミの父、笛木でありました。
しかし、いかに強い願いであっても、だれかの希望を奪い、絶望させることは許されない。
だから仮面ライダーは人々のために戦う。
「龍騎」では戦うことそのものに主人公真司は迷い続けましたが、「ウィザード」の晴人には迷いがありません。
それは前述したように自身が絶望したことがあるという経験があるからでしょう。
同じような想いを誰にもさせられない。
それが晴人の迷いのなさに表れているのでしょう。
「ウィザード」はスタート時は、「フォーゼ」から一転した落としたトーンの展開にやや戸惑いましたが、ドラマ力ともいえる物語の力で中盤以降牽引し1年間見せ切りました。
いぶし銀の仮面ライダー作品だと思います。

本作でのアクションシーンでの新しい試みとしてXMA(エクストリームマーシャルアーツ)の導入があります。
華麗に「魅せる」アクロバットな動きはウィザードの個性として非常に強く印象づけられました。
アクションだけでここまでキャラクターを個性的に見せられるようになるとはと、改めて感心しました。
あと役者さんでは中山絵梨奈さんに注目しました。
メデューサ役、後半は稲森真由役で登場し、二役を演じることとなりました。
登場時はまだまだ演技に慣れていない感じがしましたが、後半二役を並行して演じるようになってからはそれぞれの違いなどはしっかりと出せていたと思います。
演じた二役は真逆なキャラクターでしたが、表情などがまるで変わり別の人物に見えました。
あとスタイルがきれいなので、眼福でしたね(笑)。
後半真由役での登場が多くなってからは、監督の皆さんは脚ショットを多用していたような・・・。

次回作はフルーツで武将という、これまたストイックさとは真逆で破天荒そうなライダーですよね。
まったくどのようになるのか想像がつきません。
それが平成仮面ライダーシリーズの魅力でしょう。

前作「仮面ライダーフォーゼ」の記事はこちら→

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