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2013年9月29日 (日)

「謝罪の王様」 早く、誠意をもって

阿部サダヲ主演、宮藤官九郎脚本、水田伸生監督のトリオは「舞妓Haaaan!!!」、「なくもんか」に続いて本作で3作目になります。
宮藤さんはいつも目の付け所が普通の人とちょっと違うんですよね。
「舞妓?」とか「海女?」とか。
今回は「お詫び」ですし。
この他の方とはちょっと違うところに注目し、そのネタをどんどん膨らませてエスカレートさせていくのが、宮藤さんの脚本の真骨頂でしょう。
宮藤さん自身が監督をすると、このエスカレートがずれた方向に行ってしまうこともありますが、水田さんは宮藤脚本の料理の仕方が上手なのかな。
エスカレートしたり大げさになったりするんですけれど、シュールな方向にいかないというか。
割とオーソドックスに笑いをとってくる演出なので、安心感がありますね。
また主演の阿部サダヲさんもハイテンションな演技をするんですけれど、なかなか他の俳優さんではこの味は出せません。
ハイテンションが地のようなというか、自然なんですよね。
無理している感じがしないのが良いです。
阿部さんの役は「舞妓Haaaan!!!」では、他の登場人物とは違う特異なキャラクター(つまりは変わった人)でしたが、本作での役はハイテンションながらも実は登場人物の中で一番常識人という感じでしたね。
謝ることを仕事をしているだけあって、相手目線で行動している。
けっこう他の登場人物は自己中心的な人が多かったですよね。
「泣くもんか」の役は周囲の人に振り回される感じでしたが、本作はこれだけ変わった人がいるのにも関わらず自分のペースを守っている意外と安定感のある役でした。
いくつかのエピソードが展開される本作ですが、それらもどこかで関連している作りになっていて脚本も凝っていた感じがしましたね。

今回宮藤さんが注目した「謝罪」。
確かにこれは日本人ならではかもしれません。
企業のトップや役人がカメラの前に並んで一斉に「申し訳ございません」とやるのは、日本だけかも(最近あまりにこの光景ばかり観るので、重みがなくなってきたような気がしますが)。
本作でも謝罪のポイントがいくつか紹介されていますが、「早く」「誠意をもって」というのは大事ですよね。
何かしてしまっても「早く」「誠意をもって」対応すると、意外とイメージは逆に良くなったりするものです。
企業のクレーム対応などでもよく言われますよね。
でもなかなかこの「早く」「誠意をもって」というのは難しい。
なるべくなら謝りたくなくて、そのままズルズルとしてしまうと、見慣れた「申し訳ございません」という光景になってしまうのですよね。
あと何かされて怒っている側の方も、早く許したいという気持ちもあるんですよね。
怒り続けるというのもなかなかエネルギーがいるもの。
怒ると疲れるわけです。
でもなんとなく怒るのを止めると、相手も許されると思うのがシャクで怒り続けるんですよね。
カッとしたときに相手がすぐに「すみませんでした」って言ってくると、「ま、わかってくれればいいよ」って感じになります。
スッと怒りの炎が沈静化するというか。
日常的な怒りの部分でいうと、相手がしでかしたことに対して何か保証してくれるということが大事なのではなくて、自分の気持ちをくんでくれているとわかるということが大事なんですよね。
逆に本作でも出ているように「なんか〜、すみません」とくると、カチン!ときちゃいます。
「口では謝っているけど、本気でそう思っていないだろ!」って。
やはり「早く」「誠意をもって」が大事ですよね。

「舞妓Haaaan!!!」の記事はこちら→
「なくもんか」の記事はこちら→

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2013年9月23日 (月)

「エリジウム」 持つ者と持たざる者

「第9地区」で長編映画デビューを飾り、高い評価を受けたニール・ブロムカンプ監督の第二作です。
前作はでは秀逸なSFのアイデアを使い、エンターテイメント性を持ちながら、現在社会の課題の一つである「差別」を映画のテーマとして巧みに表現しました。
本作が取り上げている社会の課題は「格差」であると言えます。
「格差社会」という言葉はこの10年くらいの世界的な不況の中で、海外でも日本でも何度となく取り上げられています。
アメリカでは人口の数パーセントでしかない富裕層が国の富の多くを握っているという話もあります。
持てる者と持たざる者の差が今まで以上に大きくなってきているのでしょうか。
あと「格差社会」での問題で大きいのは、その「格差」が固定化されてしまうということもあるように思います。
富める者はますます富み、貧しい者はいつまでも貧しいまま。
まさに本作においてエリジウムに暮らす人々は最高度の医療を受けられるために長生きをすることができる。
しかし地球で暮らす人々は貧しくまた健康的ではない生活をおくらざるをえません。
貧しい立場からエリジウムで暮らせるようになる道筋というのは、映画を観る限りほとんどありません。
「格差」が固定化された社会なのですね。
かつて「アメリカン・ドリーム」という言葉がありました。
志を持ち、努力をすれば、立身出世する可能性を、誰もが持っている、それがアメリカン・ドリームであったと思います。
しかしアメリカでも日本でも、二世○○とよく聞かれるように、「格差」は固定化される方向になっているように思います。
本作において、その「格差」を支えている秩序は主人公により破壊されます。
その後の社会は描かれていませんが、「格差」はなくなっても別の新たな問題が立ち上がってくる可能性も感じます。
すべての人々が高度な医療を受け入れられるようになれば、人口は爆発的に膨れるでしょう。
そうした場合、食料問題、それがエスカレートしていき、戦争などの問題がでてくるようにも思います。
また高度なシステムを支えるためのコストを誰が負担するのかという問題。
エリジウムに暮らせるような富裕層が、その富みを再分配するということになるかと思いますが、それでもどこかで限界がある。
富裕層側による社会への反乱が起こるかもしれませんし、人類全体での共倒れの可能性もあります。
富みの再分配というのは塩梅が非常に難しい。
みんなで公平に分担といえば簡単そうですが、何を基準にして公平なのかという問題があります。
日本では消費税の問題がホットで、いろいろ意見がありますが、これは何を持って公平と見るかというところの差だと思います。
ブロムカンプはSFというフィルターを通して極端に表現することにより、今の社会の課題をよりわかりやすくすることに長けている監督だと感じました。

映画として見ると、僕は前作「第9地区」が断然おもしろいと思いました。
前作は異星人が被差別者となっているという点が今までにないアプローチの仕方でそのアイデアに感心しましたが、本作のSF的なアイデア時代は意外とオーソドックスです。
社会システムへたった一人で戦いを挑むという物語の構造は、基本的によくあるもので、だからこそ誰でも観やすい作品にはなっていると思います。
個人的には前作のちょっとクセがある感じが好きではあったので、ちょっと普通の感じになったなという印象を持ちました。
バジェットは大きくなっているで、キャストも映像も豪華なのですけれどね。

あとちょっと気になったのが一つ。
スペースコロニーエリジウムに地球からシャトルが着いた時、港に入るのではなく、そのまま居住区に侵入したんですよね。
居住区の空の部分は宇宙空間に対してオープンなのかしらん?
「ガンダム」ではガラス張りの設定で、穴が開いたら空気が出ていってしまってましたけれども。
物語の展開をわかりやすくするためにネグっちゃったのかもしれないですけれど、気になりました。

前作「第9地区」の記事はこちら→

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2013年9月21日 (土)

本 「とり残されて」

宮部みゆきさんの短編集です。
比較的初期の作品になりますね。
長編もおもしろいですが、短編は短いながらもキレ味があっていいですね。
宮部さんは幽霊や超能力など不可思議な現象を小説の題材に選ぶことが多いですが、単純に不可思議さを描くだけではなく、そこに情念というか、強い想いのようなものを絡ませて描きます。
人の想いというのは強ければ強いほど、ある種の怖さのようなものを孕んできますが、そういう怖さがこちらの短編集ではよく出ているように感じました。
この怖さって、洋物にあるような派手な怖さでもなく、いわゆるジャパニーズ・ホラーのような粘着質的な怖さというのでもないのです。
よくわからない不可思議な現象にちらりと人の情念の深さ、怖さのようなものが垣間見えるという感じでしょうか。
上手く表現できないですが。
タイトルにもなっている「とり残されて」、続く「おたすけぶち」あたりはけっこう読後感に「怖い」って印象がありました。
一番短い作品「囁く」も怖かったですね。
短いだけにキレ味が鋭い。
最後の「たった一人」は怖いというよりは、せつない作品でした。
それでも想いの深さという点では同じような香りがし、主人公の執着心は怖さにも転じうるとも感じました。

「とり残されて」宮部みゆき著 文藝春秋 文庫 ISBN4-16-754902-6

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「キャプテンハーロック」 滅びと永遠

松本零士さんのマンガ「宇宙海賊キャプテンハーロック」の映画化作品。
こちらは今までにアニメ化などをされていますが、実はアニメもマンガもしっかり観たり、読んだりしたことはないのでした。
「銀河鉄道999」はアニメもマンガも大好きだったのですけれどね。
松本零士作品は時折クロスオーバーをしていてハーロックもエメラルダスも他の作品に登場したりするので、もちろん存在を知っていましたが。

人類は科学技術を発展させ宇宙に進出していったが、そこでわかったのが広大な宇宙であっても人類は孤独であったということ(人類は結局たった一つの異星文明としか出会えず、そしてその文明もまさに滅びようとするところであった)。
そして人類も発展のエネルギーを失い、衰退の道を歩んでいき、そして地球への帰還運動が始まります。
しかし衰退したとはいえ宇宙へ進出した人口は膨大で、それらを一つの惑星でまかなえるわけもなく、地球の居住権を争う「カム・ホーム戦争」が勃発し、人類はさらに傷つくこととなります。
人類は地球を平和に管理するために「ガイア・サンクション」という統治組織を作り、地球への立ち入りを禁止します。
そういった時代のなかで「ガイア・サンクション」に逆らう男と船が、キャプテンハーロックであり、アルカディア号なのです。
物語の冒頭アルカディア号に青年ヤマが乗り込むきっかけとなったキーワードが「自由」。
たしか過去のハーロックの物語でも「自由」というのが重要なキーワードであったと記憶があります。
では何からの「自由」なのか。
この物語の世界は緩慢な滅びの道を歩んでいます。
成長への強い意志はなく、滅んでいくことを甘受している世界。
人類は成長の壁にぶつかり、そこから後退していく道を選んできました。
それが運命であるかのように。
「ガイア・サンクション」を統治しているのは元老院という年老いた者たちによる組織です。
彼らには諦めのような気分が漂い、滅びを運命として受け入れています。
そしてそれを他の人々にも受け入れるようにと言っているのです。
しかし、滅んでいくという運命をただただ受け入れなくてはいけないのか。
老人たちはいい、もう自分が死ぬ時期が迫ってきているのだから。
けれど若者たちは?生まれてくる子供たちは?
あたかも決められているかのような滅びの運命から脱却すること、それが本作でいう「自由」なのだと思います。
そもそも「滅び」とは何なのか。
同じ状態のものが永遠に続くこと、それはあり得ません。
そういう意味では必ず「滅び」は訪れます。
けれど、何かが滅びても、そこに新たに芽吹くものも必ずあります。
「滅び」と「誕生」は繰り返されます。
それは国であっても、人であっても。
本作でも、繰り返される一瞬は永遠になる、といったようなセリフがあったかと思います。
元老院のメンバーはずっと同じ状態でいられないということ(それは本人も人類も)を「滅び」と捉えているように思います。
それは止められない。
でもそれは本当の「滅び」ではないのですよね。
こう書いていると「銀河鉄道999」のことを思い出しました。
永遠に生きるため機械化された体を手に入れようと星野哲郎は旅をします。
しかしたどり着いたその先は、完全に機械化されたがゆえに停滞し、まさに緩やかに滅びようとしている世界でした。
結果的には哲郎は機械の体は手にしません。
哲郎はやがて死ぬでしょう。
しかし彼の生き方を受け継いでいく者も必ず現れるのです。
そういう意味では永遠であるとも言えるのです。
本作は同じようなテーマを感じます。
キャプテンハーロックは百年を生き、そしてそれを受け継げる人物が表れる。
彼の生き方、志を受け継ぐ若者が。
そしてまた何十年後か、また新たな若者が表れるのでしょう。
そういう意味ではキャプテンハーロックという存在は死なず、永遠に生き続けるとも言えるのです。

ハーロックの声を演じた小栗旬さん、割と良かった感じがします。
おさえて渋めの声で演じていましたが、ハーロックの持つ雰囲気がよくでていたかなと。
あと、やはり個人的にはこういうリアルタイプの3DCGは苦手です。
リアルにするのだったら実写でやればいいのにと思いますし、普通のアニメじゃなんでいけないのかと。
現在テレビでオンエアしている「宇宙戦艦ヤマト2199」が非常に高いクオリティで感心しているのですが、このくらいのレベルで映像化できるのであればこういった手法の方がマッチするのではないかと思いました。

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2013年9月16日 (月)

「KG カラテガール」 キック祭り

「ハイキック・ガール!」の武田梨奈さんが主演のアクション映画です。
「マッハ!!!!!!!!」のようにスタントなし、ワイヤーなしというこだわりで撮った「ハイキック・ガール!」は映画の出来はお粗末なものでしたが、幼い頃より空手を学んできていた武田梨奈さんのアクションは見応えあったんですよね。
本作は公開時はスルーしていたのですが、今日は台風で外へ出られなかったのでレンタルで観賞しました。
ストーリーについては前作の経験があったので、大きな期待をしませんでした。
案の定、お話としては往年の香港のカンフー映画のような展開です。
ま、このあたりは期待もなかったので、裏切られた感はありません。
さてお目当ての武田梨奈さんのアクションですが、相変わらずスピードもありキレキレでカッコよいですね。
空手をずっとやってきた人ですから、動きが違う。
動いている間は非常に早く、止めるときはピタリと止める。
型も非常に様になっていますね。
このあたりのメリハリはやはり実際に経験がある方だからならではですね。
動きが早くても、香港カンフー映画のように何度も繰り返しスローがあるので、大丈夫(笑)。
あと本作では武田梨奈さんの妹役でもう一人、カラテガールが登場するのですが、この子も動きがキレキレ。
彼女は小学校高学年か中学生くらいでしょうか。
小柄のため身軽だからか、武田梨奈さん以上に空中戦の見せ場がありましたね。
映画トータルでもアクションシーンはこの子のほうが多かったかもしれません。
あまり聞いたことない名前だったので、女優さんというよりは空手の選手かなにかでしょうか?
二人ともパンチよりはキックのアクションが多かったですね。
やはりキックのほうが画的には様になるからかな。
ジャンプして三段蹴りとか、回し蹴り三連発とかカッコよい。
まさにキック祭り。
もうちょい武田梨奈さんとこの子のツインでのバトルのボリュームがあるともっと見応えあったような気がしました。

こういう映画を観ると、体を動かしたくなるんですよね。
ジャッキー・チェンの映画を観て夢中になっていた頃から、そうですが。

「ハイキック・ガール!」のレビューはこちら→

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本 「総理の夫」

痛快な小説です。
史上初の女性総理大臣誕生。
総理大臣となった相馬凛子は、美貌もあり、頭も切れ、そして国民のためにという自分の信条の元、まっすぐに政治を進めていく。
当然のことながら、彼女の前には手練手管に長けた政治家たちが魑魅魍魎のように跋扈するわけですが、彼女は臆せず前進します。
本作はその様子を、本人ではなく、ファースト・レディならぬファースト・ジェントルマンとなった凛子の夫日和の視点で語られるのがおもしろい。
現在の日本は様々な課題を抱えているのは、政治の素人でも明らか。
財政は真っ赤っか、経済はやや上向いているというものの、このままでは破綻の道を突き進んでいくのは明らか。
消費税導入は個人のレベルではいろいろあるとはいうものの、致し方ないと思っている国民も多いですよね。
それにも関わらず、政治家はそれを自信を持っていい、国民の目を見てまっすぐに説明しようとする政治家はいない。
今必要なのは言いにくいことでも必要であるならば、しっかりと自分の言葉でまっすぐに語れる人なのでしょう。
政治にリーダーシップが必要ということはもう何年も言い続けられていて聞き飽きている感もありますが、リーダーシップというのは自分の思い通りにやるということではありません(小泉さんのように)。
本当のリーダーシップとは国のこれからの道筋をしっかりと伝え、それを国民に納得させ、そして導いていくということだと思います。
この国民を納得させるということをちゃんとやれる政治家がほとんどいない。
だからこそ、この小説は痛快なのです。
現実にはいない理想の政治家の颯爽とした姿を描いているから。
女性ならではの課題も取り上げています。
それも現代の課題の一つ。
少子化、女性の職場環境の問題(育児休暇、子育て支援、育児の復職など)・・・。
女性総理ということでの課題、凛子そしてその夫日和はどう乗り切るのでしょうか?
是非読んでみてくださいね。

「総理の夫」原田マハ著 実業之日本社 ハードカバー ISBN978-4-408-53627-9

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2013年9月15日 (日)

「ウルヴァリン:SAMURAI」 王道で普通

アメリカでは「X-MEN」シリーズに登場するミュータントの中でウルヴァリンの人気が一番なのだとか。
確かにヒュー・ジャックマンはカッコいいし、ウルヴァリンにワイルドな魅力があるとは思いますが、個人的にはそれほど推しなキャラクターではないのですよね。
クセがなくて王道過ぎるからかな。
ですので、単独で主役キャラとなった「ウルヴァリン:X-MEN ZERO」を観ても、悪くはないけど普通のヒーロー映画だなという感想くらいしか持てなかったんですよね。
なので再び単独で主役となった本作「ウルヴァリン:SAMURAI」もあまり大きな期待をしていなかったのです。
実際観てみてもやっぱり「普通」という印象しか持てませんでした。
これは偏にウルヴァリンというキャラクターが王道でクセがないというところからきているのだと思います。
最近のヒーローはバットマンにしても、スパイダーマンにしても、アイアンマンにしても性格に一癖も二癖もあります。
それが現代らしい新しいドラマをスーパーヒーローものに与えていると思います。
けれどそんなひねたヒーローなんか観たくない、もっとストレートにカッコいいヒーローが観たいという方もいるでしょう。
そういう方には本作のようなタイプの作品がおススメとなるのかもしれません。
個人的には少々物足りないですけれども。

公開前の本作の話題としては日本を舞台にしたアメコミヒーローものであるということ。
日本でも東京をはじめいろいろなところでロケをしているようです。
予告で観ていて心配していたのは、ハリウッド映画が日本を描く時にありがちな、「なんちゃって日本」になってないかなということでした。
観てみると「ああ、やっぱりそうなったか」という感じです。
ウルヴァリンの日本でのボディガード的な役割をするユキオが葬式に参列する格好などは、何じゃこりゃという感じなのですよね。
その後アクションシーンがあるからというなら中途半端な着物のような服(どう見ても着物にも見えない)を着せるくらいだったら洋装でもよいのに。
武芸に通じているシンゲンが立ち会う時の刀の使い方も日本刀の扱い方じゃないし(中国拳法風のような)。
アメリカ人から観ると日本も中国も韓国も同じような感じなのでしょうが、けっこうこのあたりの細かな違いは気になるところで、観ていて興ざめになってしまうのですよね。
はなっから「なんちゃって日本」を狙っている映画だったら笑って終わりなのですけれど。
まあ、海外の人から見たらそんな違いはあんまり関係ないのかもしれないですけれどね。
日本人がニューヨークやパリを舞台にした映画を撮って、それを僕たちが観ていてもさほど気にならないことも、現地の人が観たら「なんちゃってニューヨーク」とか「なんちゃってパリ」になっているということもあるのでしょうね。

エンドロールではマグニートーとプロフェッサーXが登場。
本作は新しい「X-MEN」シリーズの予告編というわけか、ふーん。

「ウルヴァリン:X-MEN ZERO」のレビューはこちら→

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2013年9月14日 (土)

「許されざる者(2013)」 背中に負う十字架

クリント・イーストウッドの「許されざる者」が公開されたのは日本では1993年で、僕はまだ社会に出て2、3年のひよっこ。
その頃は西部劇に対して勧善懲悪のわかりやすいイメージを持っていたのですが、「許されざる者」はそのようなステレオタイプ的なわかりやすい人物造形ではないかったため、若い自分にはとっつきにくい印象がありました。
それから見直すこともなく、今回日本にてリメイクされた「許されざる者」を観てきました。
多少なりとも人生経験した今の自分はこの物語を理解できるのでしょうか・・・。
ちなみに今回のレビューはイーストウッドの「許されざる者」との比較という視点は全く入っていません(見直していないためはっきりと物語を記憶していないため)。

時は明治、ところは北海道。
主人公十兵衛は元幕府側の侍で、戊辰戦争を戦い新政府軍に追われ北海道まで流れてきました。
幕末の戦いの中で彼は「人斬り十兵衛」と敵味方に恐れられる存在でしたが、あるときを境にフツリとその姿を消しました。
彼は北海道の地で、妻と出会い「他の生き方がある」ということに気づいたのです。
しかしその妻も亡くなり、十兵衛は二人の子供と共に痩せた土地を日々耕す生活を送っていました。
ある日、彼の元に旧知の金吾が訪れます。
開拓村で女郎を傷つけたにもかかわらず軽い罪でしか咎められなかった男二人に賞金がかけられた、その男を一緒に始末しないかと。
十兵衛はもう人殺しはしないという亡き妻と約束があるため、それを断ります。
そういう十兵衛に金吾は「お前は忘れても、過去は忘れちゃくれない」と言います。
かつて十兵衛は多くの人を殺しました。
彼はそれを悔い、その罪を償うかのように人々から離れ、粗末な暮らしを続けています。
しかしそのような暮らしを続けていても、決してその罪はなくなることはない。
彼はいつまでも「許されざる者」であるのです。
十兵衛はそうであることを受け入れ、その重みを背負って生きていくことを決めた男でした。
彼は人を殺す、その罪を妻と出会うまでは自覚することはなかった。
十兵衛は人を殺すことによって否応なく背負ってしまう十字架の重みを知っています。
しかし、この物語に登場する人々はその重みに気づいていない。
十兵衛を賞金稼ぎに誘う金吾は、人殺しを自分の将来のための手段と捉えていたように思います。
また五郎は己の生まれや、アイヌへの仕打ちへの怒りにより、人を殺そうとします。
彼らに自分たちの恨みを晴らそうと依頼をする女郎たちもそうです。
彼らが賞金首の一人を殺したことを知ったとき女郎が「ほんとに殺っちまったのかい・・・」と洩らすつぶやきは彼女たちが人を殺すことに対しリアリティを持っていなかったことがわかります。
金吾はいざ人を殺そうとしたとき、それによって背負う十字架の重さに気づきます。
五郎は初めて人を殺した時、腕の震えがとまらず、背負ってしまった罪に恐れをなします。
十兵衛はその重さがどれだけ重いのか、それを下ろすことなく生きうる限りずっとかついでいかなくてはいけないということを知っているからこそ、彼らがそれ以上背負い込まないように、彼らの代わりとなってもう一度十字架を背負おうとするのです。
女郎の一人なつめは十兵衛がたたずむ背中を見て、そこに背負った罪の重さに気づきます。
金吾も自分の背負った十字架の重みに気づいたと思いました。
だからこそ最後まで十兵衛のことは口を割らなかった。
五郎もなつめも自分の罪を自覚し、そしてそれを十兵衛に背負わせてしまったことを知っているからこそ、彼の子供の世話をみようとしたのでしょう。

登場人物の中で強烈な印象を残すのが十兵衛の敵役となる一蔵です。
彼は自分が背負っている十字架に自覚がありません。
おそらく死ぬまで彼は自分がしていることは間違っていないと思っていたでしょう。
幕末、世は多いに荒れた。
自分が治める街だけは、平和を保ちたい。
どんな手段をとっても。
彼には彼なりの正義があったのかもしれません。
女郎を傷つけた男たちを軽微の罪としたのも、開拓村にとって彼らが貴重な馬をもたらすことができるからでしょう。
彼らを殺してしまっては、村全体からみると損になると。
一蔵からすれば十兵衛の行動は理解不能であり、十兵衛からしても一蔵の仕打ちは許せるものではない。
彼らの価値観が激突したのが、最後の戦いでしょう。
ある意味、生き方をかけた戦いと言ってもよく、渡辺謙さんと佐藤浩市さんの演技も相まって、鬼気迫る感じがしました。

人間というものは善悪がきれいにわかれるようなものではない、ということを少しはわかってきている年なので、オリジナルを観た時の若いときよりは、作品を理解できるようになったかな。

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2013年9月 8日 (日)

本 「二・二六事件 -「昭和維新」の思想と行動- 増補改版」

二・六事件というのは歴史の教科書で習ったくらいのことしか知らない。
というより授業でやったかも甚だ怪しい(歴史の授業というのは時間がないので現代史までやることはなかったような)。
知っているのは、青年将校たちが「昭和維新」を掲げて決起し、そのときの政府首脳を殺し、ひとときとはいえ首都東京の一部を占拠したこと、そして彼らは逆賊とされ降伏させられたということくらい。
本著によれば、戦後の時代を生きる者としてはこの事件を理解するには、戦前の世の中、特に軍隊のありようを知らないと理解しにくいようだ。
この事件を理解する上で最も重要なポイントは、戦前の軍隊において命令には絶対服従であるということ。
これは文字通り「絶対服従」ということなのだ(特に一般の兵士においては)。
有事において命令がしっかりと下まで伝わり、それが実行されることが必要であることは今でも変わりません。
そうでなければ戦況が刻々と変わる中で軍隊といった大きな組織が一体となって動くことは不可能だからです。
ただ戦前において兵士は上官の命令は、天皇の命令と一緒であると教育されてきました(天皇だけが軍の統帥権を持っており、天皇の軍であるという位置づけ)。
自らがほとんど死ぬような命令であっても、現人神である天皇の発するもの(と同じ)であるからこそ、兵士は死地に向かうことができたのです。
このことが理解できないとこの事件はわかりにくい。
しかしこの事件が起こった頃、軍には軍閥というものができていました。
上官の命令は天皇の命令、と言ってもすべての命令を天皇が出すことはありません(というより大きなこと以外はほとんど出さない)。
多くの場合は軍の首脳が命令を作り、(時には天皇に上奏するものの)自分たちで下に命令を出していたわけです。
青年将校というのは一般の兵士とこういった軍の幹部の間にいるわけで、軍閥たちの振る舞いに憤りを感じていたわけです。
天皇ではなくそういった幹部が、部下の兵士を死地に向かわせる命令を出すのかと。
彼らは軍の幹部の専横に対し、彼らが考える真の軍隊(天皇の軍)にもう一度しようと決起したわけですね。
そういうことから考えると彼らはまっすぐなものの考え方をしていたのかもしれません。
軍部では彼らを指示する者、彼らを反乱軍とする者との二派があり、それでまた事件は混乱します。
結局のところ青年将校たちを反乱軍とする勢力がこの事件を決着させることになります。
彼らは青年将校たちを天皇に歯向かう者たちとするわけです。
それはその通りでもあるわけですね。
軍は天皇のものであり、その部隊の武器や兵士たちを自分たちの意志で動かすというのは、天皇の統帥権を犯していると言えるわけです。
そういうことを許したら軍という組織は存続できません。
この事件の悲劇性というのは、青年将校たちからすれば天皇のためと考え行動したのにも関わらず、結果的には天皇に歯向かう逆賊という立場になってしまったということです。
この事件がその後戦争に向かってしまう日本にとって重要なところは、軍閥が軍を自分たちの考えに基づき動かすということに対しての障害がなくなってしまったということでしょう。
この事件により結果的に政治家に対して軍の暴力的な力を見せつけたこと、また青年将校以下軍の下部に関してしっかりと掌握できるようになったことなどにより(元より天皇は機関的な役割となっていた)軍の暴走を止めることができなくなったのだと思います。
昭和初期というのは現代から地続きな時代なのですが、驚くほどに自分は知らない。
この時代のことをもう少し知ってもよいのではないかと思いました。

「二・二六事件 -「昭和維新」の思想と行動- 増補改版」高橋正衛著 中央公論 新書 ISBN4-12-190076-6

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2013年9月 7日 (土)

「劇場版タイムスクープハンター 安土城 最後の1日」 目をそらさない

失礼ながら大きな期待をしていなかったのだけれど、かなり楽しめました。
元々はシーズン5まで放送されているNHKの番組なのだそうですが、ドラマではなくフェイクドキュメンタリー形式の歴史教養番組ということ。
知らなかったですが、おもしろそうな番組ですね。
主人公沢嶋(要潤さん)はタイムスクープ社の時空ジャーナリスト。
彼の仕事は過去にタイムワープして、そこに暮らす人々の姿をレポートし、それをアーカイブすることです。
時間旅行を題材にした映画は数あり、その多くは過去に干渉したことによる歴史の改変をどうするかっと言ったものが多いですよね。
本作も基本的にはその流れなのですが、上で触れた時空ジャーナリストという設定がおもしろい。
沢嶋がレポートする場面は、ニュースやドキュメンタリーでもお馴染みなハンディカムを使ったような映像や、沢嶋が観ているような主観映像、または小型カメラを使ったような映像を使っています。
これは映画的ではなくテレビ的な映像であるのですが、それがライブ感を醸し出していて、中継映像を観ているような感じがしてきます。
この立ち会っている感に新鮮な印象を受けました。
そして沢嶋が所属するタイムスクープ社の第二調査部という部署は、歴史の中でも市井の人々の様子を記録していくのが仕事ということです。
ちなみに第一調査部というのもあり、こちらは大きな歴史上の事件を扱う部署なのですが、普通に映画的に考えるとこちらの部署のほうを題材にしそうですよね。
大きなイベントや歴史上の大人物を登場させられそうですし。
けれど本作は本能寺の変から安土城炎上までといった日本史の中でも超大イベントを描きながらも、織田信長や明智光秀、豊臣秀吉や徳川家康などといった有名な歴史上の人物を登場させていません。
あくまでも描くのはその時代を生き、歴史の大事件に巻き込まれた人々。
この視点はユニークですね。
あとこういうタイムトラベルものでは、未来から訪れた者が歴史の改変、特に人の生死や恋愛などで干渉してしまうというのがよくあるパターンです。
本作では沢嶋たちはあくまでジャーナリストという立場を守り、歴史の改変は防ごうとするものの、目の前で起こる人の生死には関与しようとしません。
関与すること自体が歴史の改変につながるということがあるかもしれないですが、やはり彼らはジャーナリストで事実をしっかりと見つめ、伝えるということに使命感を持っているのだと感じました。
印象的なのは、沢嶋と新人ジャーナリストの細野(夏帆さん)が野盗に捕らえられ、そして人買いに売られたあとのシーンです。
彼らの目の前で村人は痛めつけられ、いっしょに行動していた侍も殺されようとします。
まだ未熟な細野はそれを止めさせようと叫び、そして目を逸らそうとします。
けれども沢嶋は「目をそらすな」と彼女に言います。
いくら悲劇的なことであろうと、いや悲劇的なことであろうと目をそらせてはいけない。
起こった出来事をしっかりと見て、それをありのままに伝えるというのがジャーナリストであるというのが沢嶋の考えなのでしょう。
タイムトラベルものというのは歴史に関与するというのが話の肝だったりするのですが、本作は歴史に関与しないというスタイルを貫くということで物語を作っているのがおもしろいなと感じたところです。
テレビのシリーズも気になったので今度観てみようかな。

あと本作の見所のひとつは夏帆さんかな〜。
初登場シーンはセーラー服での潜入だったのですけれど、まだまだ高校生役いけるじゃん!と。
と思っていたらその後はタイムスクープハンターの制服になるのですが、これはこれで大人っぽくてよろしい。
手足長くてスタイル良いですね。
というところで眼福でありました。

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「マン・オブ・スティール」 人類は成長することができるのか

なかなか感想を書きにくい作品だなと思いました。
今までのアメコミのヒーロー映画とは違う感触を受けました。
それを少し考えていきたいと思います。

こちらで何度か書いているように最近のアメコミヒーローものでは、ヒーローの内面、人間性を深く描くということが定番となっています。
それによりドラマ性が生まれ、大人の観賞にも耐えられるようになってきたのですね。
このような作品での、主人公のヒーローの性格にはある種の弱点があることが多いのです。
「ダークナイト」シリーズのバットマン=ブルース・ウェインは過去のトラウマによる心の闇を抱えています。
「スパイダーマン」のピーターは幼さ、「アイアンマン」のトニー・スタークは自己中な性格。
これらの性格的な弱点というのは、ヒーローを完璧な存在でなくすることとなり、それによって観客は彼らに共感できる部分を見つけ感情移入し、ドラマ性を感じるようにのですね。
しかしスーパーマンという存在はなかなか同じことをやるのは難しい。
地球人より優れた肉体的な能力を持ち、そしてなによりも曇りなき善の心を持った人物がスーパーマンなのですから。
スーパーマンという存在は地球人よりも肉体的にも精神的にもより神に近い存在と言えます。
その神のごとき力を持つ存在が、善を行う時に悩んだら、スーパーマンという存在そのものが揺らぎます。
だからこそ本作においてもスーパーマンは善を行うこと自体について悩むことはありません。
彼はどんな状況においても自分の身を挺し、人々を救おうとします。
スーパーマン=クラーク・ケントという人物はある意味パーフェクトな善人で、彼の他のヒーローのような性格的な弱点を持っているわけではなく、そのためになかなか感情移入しやすいキャラクターでなないのです。
それでも旧作ではオンであるスーパーマンの状態と、オフであるクラーク・ケントの状態が分かれていて、クラークのときはどちらかと言えばコメディタッチでそこに感情移入できるポイントがあったのですが、本作ではそのようなオンオフの切り替えはないので、なおさらです。
また監督のザック・スナイダーは今までの作品からみても、それほど人間の内面描写に重きをおくというタイプの監督ではないかと思います。
どちらかと言えば、物語の構造そのものをマニアックに仔細に描いたり(「ウォッチメン」等)、ビジュアル的なこだわりの部分に注力する(「300」「エンジェル・ウォーズ」等)ような印象がありました。
本作においても同じような印象があり、人物の内面描写やストーリーの展開については端折ったりしているような感じがしたんですよね。
人間描写については淡白というか、クールというか、引いた目線に立っているような印象です。
と、つらつら書いてきましたが、観ていて感じていたのは、何かとっつきにくいなという感じだったのですね。
ヒーローもの観賞モードとしては、主人公に感情移入して物語の中にどっぷりとはまるというイメージだったのですが、ちょっと引いたところに座らされているというような印象です。

<ネタバレありです>

ずっとそういった引いた位置での観賞だったのですが、最後のほうの場面で印象がガラリと変わりました。
スーパーマンがゾッド将軍と最後の戦いを行い、そして人々を助けるために彼がゾッドを手にかける場面がありました。
そしてスーパーマンは慟哭をするのです。
本作において、彼が感情を露にするのはこのシーンが初めてであったと思います。
スーパーマンという存在は、その能力、そして善なる心といった完璧性のために、人間とは違う存在です。
だからこそ地球での父親はクラークにその正体を明かさないように言ったのです。
人間は違うものに対しての寛容性がないから。
本作で今までのスーパーマン映画と違う設定があります。
今回のスーパーマンの力の源泉はクリプトン人であるからということだけではなく、地球の空気を吸い、太陽の光で育ったことによるとされています。
そういう意味で彼はゾッドたちの純粋なクリプトン人とも違います。
産みの親はクリプトン、育ての親は地球ということをまさに肉体でも体現しているハイブリッドなのですね。
ですから彼は孤独です。
最後の戦いで人々を救うためではありますが、クリプトンの同胞を殺してしまったことにより、彼は地球でたった一人の存在となってしまいます。
彼が救いたいと考えている人々の中での圧倒的な孤独感。
その重さに彼は慟哭したのではないでしょうか。
そしてそのように一人泣く彼をロイスが優しく抱きしめます。
彼女に抱きかかえられながら、スーパーマンは嗚咽するのです。
このときのロイスはスーパーマンという異なる存在をすべて受け止める菩薩のようにも見えました。
このシーンが本作のすべてを象徴しているものだと思ったんですね。
「受容」「寛容」。
人は異なるものを拒否してしまう。
しかし、異なるものも「受容」できるようになるということは成長です。
スーパーマンという異なる存在を、人は受け入れることができるのか。
これは人類が成長することができるのかを描く物語なのだと思いました。

本作は次回作も作られるとのことですね。
なんと次はバットマン(ベン・アフレック!)も登場するとか。
よくよく考えると「ダークナイト」というシリーズは、「受容」「寛容」とは全く逆で「拒否」「排斥」の物語であったんですね。
そういう意味でいうとスーパーマンは光であり、バットマンは闇である。
このあたりの対比を描いてみてもおもしろいかもしれません。

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