「ガッチャマン」 リアライズとモダナイズに失敗
観賞前、後の座席のご夫婦(たぶん)の会話。
妻「『ガッチャマン』に男と女がくっついた悪者いたよね〜?」
夫「いたいた、あしゅら男爵」
妻「そうそう!」
いや、それ「マジンガーZ」ですから。
ま、気持ちはわかりますけれどね。
映像技術の発達からか、洋画邦画問わずに昔のアニメやマンガの実写化が続いています。
そのことに対して「ネタ切れ」「オリジナリティがない」等苦言を呈する方もいらっしゃいますが、個人的には昔好きだったものが現在の映像技術で観れることは嬉しいので歓迎です。
特にヒーロージャンルは好きなので、期待していました「ガッチャマン」。
予告を観ると颯爽としていてかっこよさそうだし!
と期待度あげて観に行きました。
で、観終わると・・・。
なんだろう、このガッカリ感は・・・。
「デビルマン」の実写を観た後に感じたものにも近い・・・。
<ネタバレありです>
それでは、このガッカリ感は何ゆえかじっくりと考えてみましょう。
昔のコミックやアニメの実写化をする場合、たいていは現実化(リアライズ)、現代化(モダナイズ)をしていますよね。
これはビジュアル面についても言えますし、シナリオ・設定面にも言えます。
アメリカでも日本でもそうですが、昔のコミックやアニメは素朴で荒唐無稽なところがあるので、それをそのまんま実写化するとそれこそ「マンガ」「コスプレ」になってしまうわけです。
ビジュアル面について今までの映画でみてみるとティム・バートンの手によって実写化された「バットマン」が画期的で、あの作品に登場するバットマンスーツやバットビークルはアニメのときのアイコン性を持ちながらも、実写映画として現実的であり、現代的でもありました。
「バットマン」の成功を受け、その後のアメコミの実写映画化作品は、最近のマーベルなどでもわかるようにリアライズとモダナイズを巧みに行っていく方向で進んできていると思います(それにより大人のファンも獲得できている)。
本作「ガッチャマン」もビジュアル面でのリアライズ、モダナイズはうまくやっているなと思いました。
特にガッチャマンのスーツはデザインがスマートでカッコよく仕上がっています。
アニメのときも印象的であったバイザーなども現代的にシャープでいいなと思いました。
ガッチャマンの武器もクールに仕上がっていて(羽根手裏剣がカッコいい)、このあたりの現代的なデザイン解釈はセンスがいいと感じました。
ビジュアル面は文句はありません。
ただし課題はシナリオ・設定面です。
昔のアニメは作る側も観る側も素朴であったため、悪の組織の目標が「世界征服」だったとしても誰もあたりまえのようにそのまま受け入れていました。
しかし、今現在「世界征服」が目的等と言ったら、子供ですら相手にしてくれません。
悪の組織にとっても目的のリアライズ、モダナイズが必要なのです。
それは善玉の方にとっても同じことで、「正義のために戦う」なんて言うのはやはりリアリティがありません(現実の某超大国は臆面もなく言ったりしますが)。
善玉側にも戦いに挑むストーリー、ドラマが必要なわけです。
「バットマン」でブルースが戦いにのめり込むのは目の前で両親を殺されたことによるトラウマであったり、「スパイダーマン」のピーターは叔父の最後の言葉がやはり戦う理由になっているのですよね。
最近のこのようなジャンルにおいて、戦いの動機は単純な正義のための使命感ではなく、主人公個人として戦う理由を持つことが多いように思います。
それはとりもなおさず登場人物のドラマを描くことになるわけです。
またこういったヒーローものでは悪にしても善にしても一般人としては違う超絶パワーを使うわけですが、実写映画になるとそこにはもっともらしい設定が必要なのです。
それをちゃんとしないとなんでもありの「マンガ」になってしまうのです。
そのような設定は実写映画としてのもっともらしさ(納得性)を作り、またある種の制限も映画にもたらしますが、またそれはひとつのドラマのフックになったりもします(「アイアンマン」のシリーズなどはうまくそれを行っているように思います)。
本作「ガッチャマン」はこの設定面でのリアライズ、モダナイズがあまりにずさんであるのがガッカリ感に繋がっているように思いました。
まずは敵であるギャラクターという存在の理由となっている「ウィルスX」の設定があまりに都合が良すぎます。
ウィルスに感染すると超絶能力を身につけ、それを宿したものは新人類になる。
そしてその新人類は旧人類に戦いを挑む。
まあ、よくある設定と言えば設定なのでここまではよし。
ギャラクターの首領はベルクカッツェ、これは代々引き継がれるものらしい。
ただこの引き継ぎは感染した人間の意志によるものに見えるのだけれど、ウィルス感染でなぜにそのように選択的なことが起こるのかよくわからない。
引き継いだと思ったら衣装まで変わるし。
あれは衣装じゃないの?親玉として感染するとそういう形態になるの?
そもそもベルクカッツェという役割がウィルス主導のものなのか、人間主導のものなのかよくわからない。
あとギャラクターのテクノロジーが何によるものなのかがわからない。
第二次世界大戦のときに某国がウィルスXを研究していたという話も出てましたが、それならばテクノロジーはその系譜にあるわけなのに、登場した最終決戦兵器はエイリアンのUFO(なんじゃ縁についている龍みたいなのは)みたいな感じになっています。
このあたりのデザインは非常に作品世界をつくる意味で重要です。
リアリティをベースに作っている映画なのか、それともファンタジー的な要素が強い映画なのか、それが首尾一貫していないといけません。
本作はなにかSF映画の要素をかき集めてくっつけただけといったようなずさんさを感じるんですよね。
あと登場人物についてのリアライズ、モダナイズについてです。
こちらについては上でも書いたように登場人物にまつわるドラマをいかに作るかということになるかと思います。
本作でもそのあたりは作ろうとする意志は感じなくもないのですが、それが描き方が浅いか、触れてもそれっきりといった感じで深みがありません。
主人公の健が抱える苦悩(なぜに仲間よりも命令に従順なのか)も触れられますが、意外に淡白で、感情移入に至りません(最後の健の叫びのときに観る側が感情が動かされない)。
その他の登場人物にもついても同様で、ガッチャマンは5人チームであるにも関わらず健とジョー以外は驚くほど存在感が薄いのです。
ジュンはただのこうるさい娘っ子だし、竜も母親のエピソードが出たと思ったらそれっきりですし。
仲間たちへの感情移入が起こらないと、健の仲間も救うという決断に重みがでないと思うのですよね。
観ていて何でこういう風になっちゃったのかなあと首を傾げることしきりでした。
スタッフ名を見るとそれほど悪い布陣ではないと思うのですけれど。
あとエンディングの最後のシーンもいただけません。
「ゾンビ映画かよッ!」
次回作作る気満々なんですかね・・・。
結果的には一番最初のシュールなアニメが一番おもしろかったぞ。
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