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2013年8月31日 (土)

「ガッチャマン」 リアライズとモダナイズに失敗

観賞前、後の座席のご夫婦(たぶん)の会話。
妻「『ガッチャマン』に男と女がくっついた悪者いたよね〜?」
夫「いたいた、あしゅら男爵」
妻「そうそう!」
いや、それ「マジンガーZ」ですから。
ま、気持ちはわかりますけれどね。

映像技術の発達からか、洋画邦画問わずに昔のアニメやマンガの実写化が続いています。
そのことに対して「ネタ切れ」「オリジナリティがない」等苦言を呈する方もいらっしゃいますが、個人的には昔好きだったものが現在の映像技術で観れることは嬉しいので歓迎です。
特にヒーロージャンルは好きなので、期待していました「ガッチャマン」。
予告を観ると颯爽としていてかっこよさそうだし!
と期待度あげて観に行きました。
で、観終わると・・・。
なんだろう、このガッカリ感は・・・。
「デビルマン」の実写を観た後に感じたものにも近い・・・。

<ネタバレありです>

それでは、このガッカリ感は何ゆえかじっくりと考えてみましょう。
昔のコミックやアニメの実写化をする場合、たいていは現実化(リアライズ)、現代化(モダナイズ)をしていますよね。
これはビジュアル面についても言えますし、シナリオ・設定面にも言えます。
アメリカでも日本でもそうですが、昔のコミックやアニメは素朴で荒唐無稽なところがあるので、それをそのまんま実写化するとそれこそ「マンガ」「コスプレ」になってしまうわけです。
ビジュアル面について今までの映画でみてみるとティム・バートンの手によって実写化された「バットマン」が画期的で、あの作品に登場するバットマンスーツやバットビークルはアニメのときのアイコン性を持ちながらも、実写映画として現実的であり、現代的でもありました。
「バットマン」の成功を受け、その後のアメコミの実写映画化作品は、最近のマーベルなどでもわかるようにリアライズとモダナイズを巧みに行っていく方向で進んできていると思います(それにより大人のファンも獲得できている)。
本作「ガッチャマン」もビジュアル面でのリアライズ、モダナイズはうまくやっているなと思いました。
特にガッチャマンのスーツはデザインがスマートでカッコよく仕上がっています。
アニメのときも印象的であったバイザーなども現代的にシャープでいいなと思いました。
ガッチャマンの武器もクールに仕上がっていて(羽根手裏剣がカッコいい)、このあたりの現代的なデザイン解釈はセンスがいいと感じました。
ビジュアル面は文句はありません。
ただし課題はシナリオ・設定面です。
昔のアニメは作る側も観る側も素朴であったため、悪の組織の目標が「世界征服」だったとしても誰もあたりまえのようにそのまま受け入れていました。
しかし、今現在「世界征服」が目的等と言ったら、子供ですら相手にしてくれません。
悪の組織にとっても目的のリアライズ、モダナイズが必要なのです。
それは善玉の方にとっても同じことで、「正義のために戦う」なんて言うのはやはりリアリティがありません(現実の某超大国は臆面もなく言ったりしますが)。
善玉側にも戦いに挑むストーリー、ドラマが必要なわけです。
「バットマン」でブルースが戦いにのめり込むのは目の前で両親を殺されたことによるトラウマであったり、「スパイダーマン」のピーターは叔父の最後の言葉がやはり戦う理由になっているのですよね。
最近のこのようなジャンルにおいて、戦いの動機は単純な正義のための使命感ではなく、主人公個人として戦う理由を持つことが多いように思います。
それはとりもなおさず登場人物のドラマを描くことになるわけです。
またこういったヒーローものでは悪にしても善にしても一般人としては違う超絶パワーを使うわけですが、実写映画になるとそこにはもっともらしい設定が必要なのです。
それをちゃんとしないとなんでもありの「マンガ」になってしまうのです。
そのような設定は実写映画としてのもっともらしさ(納得性)を作り、またある種の制限も映画にもたらしますが、またそれはひとつのドラマのフックになったりもします(「アイアンマン」のシリーズなどはうまくそれを行っているように思います)。
本作「ガッチャマン」はこの設定面でのリアライズ、モダナイズがあまりにずさんであるのがガッカリ感に繋がっているように思いました。
まずは敵であるギャラクターという存在の理由となっている「ウィルスX」の設定があまりに都合が良すぎます。
ウィルスに感染すると超絶能力を身につけ、それを宿したものは新人類になる。
そしてその新人類は旧人類に戦いを挑む。
まあ、よくある設定と言えば設定なのでここまではよし。
ギャラクターの首領はベルクカッツェ、これは代々引き継がれるものらしい。
ただこの引き継ぎは感染した人間の意志によるものに見えるのだけれど、ウィルス感染でなぜにそのように選択的なことが起こるのかよくわからない。
引き継いだと思ったら衣装まで変わるし。
あれは衣装じゃないの?親玉として感染するとそういう形態になるの?
そもそもベルクカッツェという役割がウィルス主導のものなのか、人間主導のものなのかよくわからない。
あとギャラクターのテクノロジーが何によるものなのかがわからない。
第二次世界大戦のときに某国がウィルスXを研究していたという話も出てましたが、それならばテクノロジーはその系譜にあるわけなのに、登場した最終決戦兵器はエイリアンのUFO(なんじゃ縁についている龍みたいなのは)みたいな感じになっています。
このあたりのデザインは非常に作品世界をつくる意味で重要です。
リアリティをベースに作っている映画なのか、それともファンタジー的な要素が強い映画なのか、それが首尾一貫していないといけません。
本作はなにかSF映画の要素をかき集めてくっつけただけといったようなずさんさを感じるんですよね。
あと登場人物についてのリアライズ、モダナイズについてです。
こちらについては上でも書いたように登場人物にまつわるドラマをいかに作るかということになるかと思います。
本作でもそのあたりは作ろうとする意志は感じなくもないのですが、それが描き方が浅いか、触れてもそれっきりといった感じで深みがありません。
主人公の健が抱える苦悩(なぜに仲間よりも命令に従順なのか)も触れられますが、意外に淡白で、感情移入に至りません(最後の健の叫びのときに観る側が感情が動かされない)。
その他の登場人物にもついても同様で、ガッチャマンは5人チームであるにも関わらず健とジョー以外は驚くほど存在感が薄いのです。
ジュンはただのこうるさい娘っ子だし、竜も母親のエピソードが出たと思ったらそれっきりですし。
仲間たちへの感情移入が起こらないと、健の仲間も救うという決断に重みがでないと思うのですよね。
観ていて何でこういう風になっちゃったのかなあと首を傾げることしきりでした。
スタッフ名を見るとそれほど悪い布陣ではないと思うのですけれど。
あとエンディングの最後のシーンもいただけません。
「ゾンビ映画かよッ!」
次回作作る気満々なんですかね・・・。

結果的には一番最初のシュールなアニメが一番おもしろかったぞ。

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2013年8月25日 (日)

本 「神様のカルテ2」

夏川草介さんの人気小説「神様のカルテ」の続編です。
夏川さんは現役の医師でもありますが、医師で小説家というと海堂尊さんや久坂部羊さんなどが思い浮かびますね。
3人とも医療を題材にした作品を書いていますが、やはり医師をされていることもあるからか、それぞれの切り口で現代の医療の課題を描き出そうとしているように思います。
「神様のカルテ」は信州松本市の病院を舞台にしています。
一年365日患者を受け入れる病院で勤務する青年医師栗原一止が主人公です。
現代医療の課題として、救急搬送の受け入れ拒否というものがあります。
舞台となる病院は救急もできうる限り受ける方針ですが、それは医師たちの過酷な労働によって支えられています。
当直で勤務した後、その次の日も日勤で務める。
相当に過酷な現場です。
それでも患者は医師たちに、休むことなく人を救えと求めるのです。
それが仕事だから。
医師なのだから、自分のことを差し置いて患者を救えと。
人の命を扱う医師は聖職と言われますが、それでも一人の人間なのですよね。
それぞれに人としての人生を背負っていて、喜びもあれば、悩みもある。
けれど患者は「医師」という役割で見てしまうため、そういうことに気づかない。
気づく余裕がないわけですね。
肉体的にもきつい仕事だと思いますけれど、それ以上に精神的な過酷さがあるのだと改めて思いました。
こういった問題を一発で解決できる魔法のような方法はすぐには見つからないかもしれません。
そういった方法が見つかるまでは、現場のお医者さんたちの力にすがるしかありません。
だからこそ、病院に行ったときは、お医者さんたちへの感謝の気持ちは忘れてはいけないのだと思いました。

行きつけのお医者さんが言うには、最近は自分勝手な患者(モンスター・ペイシェント)が増えてきている感じがするとのこと。
困ったものです。

前作「神様のカルテ」の記事はこちら→

「神様のカルテ2」夏川草介著 小学館 文庫 ISBN978-4-09-408786-4

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「ホワイトハウス・ダウン」 サービス精神がギュッとコンパクトに

今年は本作と「エンド・オブ・ホワイトハウス」という二つの作品で、ホワイトハウスがテロリストに占拠されてしまうという題材が扱われています。
たまたま?ですかね?
最初に観た「エンド・オブ・ホワイトハウス」は正直今一歩な出来だったと思います。
そして本作ですが、監督はあのローランド・エメリッヒ。
いままでの数々の作品で世界中を破壊してきたディザスター映画のベテラン、「壊し屋」とも異名を持つ監督です。
彼はスケールが大きいディザスター映画を手がけてきましたが、ストーリーが大味で人物の描き方がステレオタイプであるというところが弱点でもありました。
本作を観る前にエメリッヒだとは聞いていたので、多少そのあたりの点でハードルを下げた感じで観に行きました。
ハードルを下げたせいか、それとも「エンド・オブ・ホワイトハウス」がいまいちだったせいか、意外と楽しめました。
物語の性質上、映画で描かれる場所はホワイトハウス周辺にならざるをえないわけで、そのためいつもの風呂敷広げすぎて大味になってしまうという弱点が回避されたのかもしれません。
わりとコンパクトな感じながらも、部分部分の肉弾戦やら武器での戦いやらはエメリッヒ流の惜しげもないアクション押しだったので迫力も感じました。
「エンド・オブ・ホワイトハウス」は孤軍奮闘の「ダイ・ハード」1作目のような感じでしたが、こちらは主人公のジョンとソイヤー大統領のバディ的な感じもあったので、そのあたりはキャラクターの描き方が深くなっていたかと思います。
またジョンの娘のエミリーも効いていたかな。
彼女は事件の様子をかいまみるという点では観客者の代わりとなり、また主人公の娘という立場で人質として機能し、最後は英雄化ですからね。
物語のところどころでエミリーというキャラクターが非常にうまく機能していたと思います。
アクション映画としてもお約束のタイムリミット、身内人質などハラハラ要素はしっかりと組み込まれているので、やはり盛り上がります。
エメリッヒという監督は基本的にサービス精神が旺盛で、風呂敷を広げすぎちゃう感じがありますが、今回の作品は舞台がコンパクトであったためか、その旺盛なサービス精神がギュッとコンパクトに凝縮された感じがありました。
こじんまりするのではなくて、凝縮という感じですね。
こういう設定のほうがエメリッヒはいい作品を作るような気がします。

「エンド・オブ・ホワイトハウス」の記事はこちら→

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2013年8月18日 (日)

本 「繋がれた明日」

文庫本でもけっこうな厚みがあり、題材としても重い内容ではありながらも、一気に読んでしまいました。
主人公中道は10代の時にふとした弾みで殺人を犯してしまい、刑務所で刑に服していました。
彼は人を殺してしまったことへの罪の意識はもちろんありますが、裁判官にも警察官にも弁護士にも自分の言っていることが聞いてもらえなかったことに恨みにも似た気持ちを抱いています。
もともと被害者側が中道の彼女にちょっかいをだしていたこと、そして最初に被害者側が手を出したことを彼らは聞いてくれなかったのです。
彼らが見ているのは、ナイフを握って中道が相手を刺し殺してしまったという事実だけを見ているのです。
そして数年が過ぎ、中道は保釈されます。
中道は自分がかつてバカなことをしたという意識はありますし、その罪を背負わなければならないという気持ちもあります。
そしてそういった経歴を持ってしまったことでその後、周囲の目線を気にし、世間でどうやって生きていけばいいのかという不安を持っています。
そして同時に怒りや恨みという感情も捨て切れていません。
保護司の助けもあり、仕事やアパートを見つけ、再スタートを切ろうとする中道ですが、その周囲で彼の前科に触れた中傷ビラが配られます。
彼の前科を知り、彼への態度が変わる周囲の人々。
また自分の家族は彼によって長い間いろいろなものを背負ってきており、その怒りをぶつけられます。
そして被害者の家族にも。
理不尽なこと、そして自分がしてしまったことへの当然の報い。
中道の心の中で、罪を悔いそれの責任を負おうとする気持ちと、理不尽なことへの怒りといった対立する感情がうずまきます。
この中道の感情の揺れ、そしてそれによる彼の行動が物語にダイナミックさを与え、本作を一気に読ませます。
一度犯してしまった罪は一生背負い続けなくてはいけないのか。
許されるべきなのか、許されてはいけないのか。
法律的に考えてということと、感情的に感じてというのは違います。
どちらがどうというよりも人間の中で両方あるんですね。
中道だけでなく周囲の人々も揺れます。
彼を許すのか、許さないのか。
許さなければずっと恨みに見を沈めたまま生きていかなければならない。
恨みを胸に抱いていなければ、心の空隙を埋めて生きてはいけない。
主人公の心、そして周囲の人の心の揺れが描かれ、読み応えのある一冊でした。

「繋がれた明日」真保裕一著 朝日新聞社 文庫 ISBN4-02-264359-5

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2013年8月17日 (土)

「スター・トレック イントゥ・ダークネス」 二人の成長

2009年にリブートされた「スター・トレック」の新作「スター・トレック イントゥ・ダークネス」を先行上映で観てきました。
事前のポスターやメディアでの宣伝を観ていると、今回の敵役ジョン・ハリソン役のベネディクト・カンバーバッチの露出が多くて、今回の作品はカークやスポックが主役ではなくジョン・ハリソンなの?と思ったりしていました。
が、観てみるとまぎれもなく本作はカークやスポックの物語となっていました。
無論、カンバーバッチの存在感があって、そのため敵役にカリスマ性が感じられて物語が締まっているように感じました。
カンバーバッチが演じるジョン・ハリソンは宇宙艦隊の士官ですが、艦隊の艦長たちを襲うというテロをしかけます。
そしてその正体は実は○○○(ネタバレになるため全部伏せ字)。
そうきたか〜、です。
このシリーズはリブートしたものですが、今回で2作目ですしね、なるほど。
驚いて座席から転げ落ちそうになりました。
カンバーバッチの話をするとどんどんネタバレになりそうなので、このへんで。

最初に書いたように、本作は悪役であるジョン・ハリソンの物語というよりは、やはりカークとスポックの物語だと思います。
前作で全く性格が異なるこの二人が出会い、反発しながらも互いを認め、信頼し合う友人となっていく様子が描かれました。
エイブラムスの「スター・トレック」シリーズのカークはまだ士官学校を出たばかりの若い年齢であるという設定です。
カークは直情的であり、若いこともあって、頭で考えるよりも行動するというタイプです。
スポックからは論理的ではないとしばしば苦言を呈されますが、彼の直感的な行動は結果的に正しいことも多く、それをスポックは認めているように思います。
対してスポックはバルカン人らしく非常に論理的であり、情よりも論理を優先させることが多い人物です。
しかし彼はバルカン人と地球人のハーフということもあり、前作でも描かれたように決して論理だけではなく情も感じる人間でもあります。
本作は前作の二人の性格、関係性を踏まえ、彼らがさらに成長していく様子を描いていると言えます。
カークは前作でUSSエンタープライズの若き艦長となりました。
前作ではややもするとやんちゃ小僧のような行動をとり、周囲をハラハラとさせる局面もありました。
しかし本作で人類の危機とも言える事態に直面し、その中で艦長として船の乗組員たちを守る責任を彼は感じていきます。
ジョン・ハリソンが自分たちの仲間を救うために宇宙艦隊に戦いを仕掛けるのと同じように、カークも自分の家族とも言える船の乗組員たちを守るために行動するのです。
それはただ勇猛果敢な若者の行動ということではなく、守る責任を負っている大人としての行動であり、彼の成長をうかがわせました。
スポックは普段は論理的で冷静な行動をとる男ですが、友人であるカークがたいへんな状態になったことで、彼らしくないほどに感情的にジョン・ハリソンに戦いを挑みます。
上にも書いたようにスポックは心の中に本人も気づかないようですが情をしっかり持っている人物だと思います。
スポックが地球人のように感情を露に出したことは、彼にとっての成長と言っていいでしょう。
そしてこの二人、互いに信頼し合っているというところが様々なシーンに表れているんですよね。
USSエンタープライズの艦長はカークで、副長がスポックです。
カークがいるときは彼が船を指揮し、そしてカークがいないときはスポックが艦長席に座ります。
タイプの違う二人なので直感的に指揮するカークと、論理的に指示を出すスポックというように個性がでます。
しかし二人は互いにカークだったらどうするか、スポックだったらどうするかということを考えるようになっているんですよね。
二人は自分と違う良さを持つ相手の力を認め信頼し、行動している。
この関係性にも二人の成長を感じました。

J・J・エイブラムス監督らしく映像は申し分なく見応えあるものになっていました。
カークとジョン・ハリソンが、相手の戦艦に二人で乗り込むシーン以降はこれでもかと見せ所が続く展開で最後まで見せ切ってくれました(ここの侵入シークエンスは今までにないアイデアで見応えありました)。
予告でやっていたUSSエンタープライズっぽい船が墜落するシーンとか、スポックとジョン・ハリソンの肉弾戦とかも手に汗握ります。
最後に。
USSエンタープライズの動力機関であるコアの軸がずれて機関停止しているシーンで、カークが単身動力室に入って直そうとします。
そこで、カークに一言。
ずれているコアを蹴って直す、ってどうよ?
ポンコツ車じゃないんだから〜。
それで直ってしまったUSSエンタープライズもすごいなと思いました(笑)。

前作「スター・トレック(2009)」の記事はこちら→

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本 「ビブリア古書堂の事件手帖<3> -栞子さんと消えない絆-」

このシリーズは古書にまつわる謎を、古書店主篠川栞子が解き明かしていくというエピソードで作られています。
古書ですから、その謎は数年前から何十年も前の話になることもあります。
しかし栞子が謎を解き明かすと、何年も前のことであっても、それに関わった人、そして今の人、それぞれの感情が豊かに甦ってきます。
3作目の本巻で好きなエピソードは「タヌキとワニと犬が出てくる、絵本みたいなの」ですね。
家族は近いからこそこじれた関係というのは何年経ってもなかなか修復できないこともあります。
お互いに意地を張り合ってしまうことがあるからです。
栞子は一冊の絵本の謎を解くことにより、何年にも渡る親子の確執を解く糸口も見つけます。
また栞子も何年にも渡り、母親に対して複雑な想いを持っていました。
自分勝手に家を飛び出してしまった母親。
彼女がなぜそのようなことをしたのか、それはおいおい解き明かされていくのでしょう。
ドラマではほとんど栞子の父親の話題は出ませんでしたが、小説では直接的ではないにしろ、彼のことが描かれます。
また栞子の妹(小説は弟ではなく、妹)も実は重要な役回りであったこともほのめかされています。
すでに4巻は出ていますので、また手に取ってみたいと思います。

「ビブリア古書堂の事件手帖<3> -栞子さんと消えない絆-」三上延著 メディアワークス 文庫 ISBN978-4-04-886658-3

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2013年8月16日 (金)

「ローン・レンジャー」 ヴァービンスキーの悪いクセ

ジェリー・ブラッカイマー製作、ゴア・ヴァービンスキー監督、ジョニー・デップ出演という「パイレーツ・オブ・カリビアン」の陣容で作られたのが、本作「ローン・レンジャー」。
元々の「ローン・レンジャー」は古すぎて観たことはないのですが、様々な映画に引用されているので、そのイメージ(白馬に跨がったレンジャーの姿、「ハイヨー、シルバー」のかけ声)はけっこう刷り込まれていますね。
ざっくりとしたイメージしかないので、オリジナルを知らなくても楽しめるかなと期待していました。
「パイレーツ・オブ・カリビアン」もそうでしたからね。
初めて観たときは「ディズニーランドで海賊が出てくるアトラクションってどんなだったっけ?」くらいなイメージしかありませんでした。
ジョニー・デップはサブキャラでありながら、妙なメイクと演技で主役を食っちゃうというのも「パイレーツ・オブ・カリビアン」と共通しているような感じがします。
それで感想なのですけれども。
まず、長いっ!
上映時間は2時間半くらいで長い方なのですけれど、実際の時間よりも長く感じました。
これは主人公ジョンが、ローン・レンジャーとして活躍するのがほんとに終盤くらいになっているからだと思います。
ジョンは法律家で、悪人は法律でさばくべきという考え方です。
悪党の陰謀でレンジャーである兄を殺されてしまいますが、それでもその考えは変わりません。
レンジャーとして勇気があり腕もたつ兄と比べ、ジョンは正義感は強いものの腕っ節はそれほどあるほうではありません。
そのようなジョンは基本的には巻き込まれキャラなわけですが、そのために主人公たるヒーローとして物語を牽引するほどの力はありません。
「パイレーツ・オブ・カリビアン」の主人公的位置づけであるウィルも、それほど強い存在感ではありませんでした。
ただあの作品は、ウィルとエリザベスとジャック・スパロウがそれぞれに冒険に積極的に関わっていく動機があり、いいバランスで3人で物語のドライブ力を持たせていました。
しかし本作は基本的にジョンはそれほど強い動機があるわけではありません(兄への仕打ちに対しても基本的には法律で裁くというスタンスが強い)。
密かに想いを持っている兄の嫁の救出というモチベーションはあるにせよ、「パイレーツ・オブ・カリビアン」でのウィルとエリザベスのお互いの強い想いほどの動機は感じられなかったんですよね。
ようやく終盤になり、ジョンがローン・レンジャーとして積極的になるのですが、そこまでの時間が長いんです。
終盤の列車でのアクションも豪勢に見せてくれましたが、それほど意外性のあるものではありませんでした(この数年、列車の上でのアクションを見せる映画が多かったからかもしれません)。
またまた「パイレーツ・オブ・カリビアン」の話で恐縮なのですが、あの作品の最後のアクション(月明かりでガイコツになったり戻ったりするところ)などはアイデアがあったと思うんですよね。
そのアイデアもちゃんと物語のキーの部分がしっかりと活きているアイデアでしたし。
どうもゴア・ヴァービンスキーは予算がたっぷりとある大作だと、どうも冗長になってしまうクセがあるように感じます。
「パイレーツ・オブ・カリビアン」の3作目などもそんな感じでしたよね。
2時間くらいにまとめられればちょっと印象が変わったような気がします。

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本 「戦略論の名著 -孫氏、マキアヴェリから現代まで-」

タイトルにあるように古今東西で戦略論において名著と言われる著作について解説されている本です。
孫子にしてもマキアヴェリにしても、書かれてから長い時を経ても読まれているということから、そこには現代にも未だに通じる真髄があるからでしょう。
この本は基本的にそれぞれの著作で書かれている戦略論についての解説であって、現代(例えばビジネス)にも通じるような形に翻訳されているものではありません。
ただし、そのように読む側が読み解いていくことはできると思います。
こちらでは12冊の戦略書が紹介されていますが、それらに共通している点というと過去の事例を分析し学ぼうとしていることです。
特に失敗事例を分析することにより、やってはいけないこと、そして持つべき戦略の姿などを解き明かそうとする姿勢が共通しています。
もちろんそれぞれの著者によって導きだす戦略は異なるわけですが、その過程は過去の事例から学ぶということなのですね。
これをビジネスという視点で観てみましょう。
会社では日々マーケティングと称して新しいことに取り組んでいきますが、意外とやったこと(成功事例も失敗事例も)についてしっかりと振り返っていることはなかったりします。
そういう振り返りがないなかで、戦略というものはほんとうは立てられないのですね。
過去に学ぶということで、失敗しないようするやり方は浮かび上がってくるものです。
あとこの本で紹介されている戦略論の中で特に近代〜現代にかけて「大戦略」という言葉が出てきます。
これは戦略の上に位置する概念であり、どちらかというと軍事だけでなく政治の領域に踏み込む概念です。
クラウゼヴィッツは「戦争が他の手段を以ってする政治の延長」と言いましたが、ここでいう「政治」は「戦争」の一つ上の概念、いわば「大戦略」です。
これを企業活動という視点でみると「大戦略」は「経営方針」と見ることができるかと思います。
「経営方針」に従い、個々のマーケティング戦略が組み立てられます。
この「経営方針」が曖昧であったり、また「経営方針」と「マーケティング戦略」がリンクしていないとうまくいきません。
戦略というのは戦争をするときの戦い方の方針のことではありますが、孫子の言葉にもあるように戦争をしないようにすることも戦略です。
孫氏は戦争をすると金がかかる、そのため勝った国も経済的に疲弊してしまう、だから戦争を避けながら自分たちの強固な位置を保つのが上策だと言います。
確かにマーケティングでも競合他社と激しい争いになったとき、マーケティング活動費(広告や販促)などが多額になり、また値引きなども行われると、たとえシェア争いで勝利したとしても利益はあまりでないということになりかねません。
自分たちが強い領域において圧倒的な強さを競合に見せつけ、参入の機会を与えないというのも孫子的に戦わないようにする戦略と言えるかもしれません。
逆に攻める側としては、広告等をふんだんに使った空爆戦以外にも、毛沢東的な遊撃戦的な戦いもあるかもしれません。
このように戦争のための戦略論ですが、それを読み解いていくとマーケティングにも活かせるところがいくつもあるような気がします。

「戦略論の名著 -孫氏、マキアヴェリから現代まで-」野中郁次郎編著 中央公論 新書 ISBN978-12-1-2215-8

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2013年8月14日 (水)

「SHORT PEACE」 3DCGによる新しい表現へのチャレンジ

昨年大友克洋さんの「GENGA展」を観に行ったときに、本作のプロジェクトについても展示がされていまして公開を待っていました。
とは言うものの公開館が少なかったため、なかなか劇場まで足を運べず、本日ようやく観てきました。
本作は5編(オープニング・アニメーション、「九十九」、「火要鎮」、「GAMBO」、「武器よさらば」)の短編映画集です。
本作はアニメーションという進化し続ける技術で、どのような新しい表現ができるのかということへの表現者たちのチャレンジだと思いました。
アニメーションは手描きの時代からスタートし、現在ではコンピューターによる3DCGを多くの作品で使っています。
ただし3DCGアニメと言われて、多くの人が思い浮かべるのは下記のふたつのタイプのアニメでしょう。
ひとつはピクサーやディズニーによって作られる3DCGアニメーション。
もうひとつは「ファイナル・ファンタジー」等のゲーム内のムービーのようなリアルタッチのアニメーションです(ロバート・ゼメキスの作る作品もこっち側ですね)。
アニメーションはひと頃「マンガ映画」と呼ばれていたように、本物のような写実的な表現ではなく、マンガのように簡略化、形式化された絵柄を動かすものでした。
ただ3DCGの発達により実写のようにリアルな表現が可能になってきたことにより、「不気味の谷」問題が発生します。
これはこちらのブログでも時々取り上げています。
ピクサーの作品はこの「不気味の谷」を回避するために、キャラクターを適度に形式化(ようはマンガっぽさを残す)しているのだと思います。
逆にリアル派のほうは、どんどん技術を進化させてリアルと区別がつかないほどまでに表現がいきつけば「不気味の谷」は越えられると考えているように思います。
今度公開される「キャプテン・ハーロック」などはこっちの考え方でしょうね。
とはいえ、この二択以外にも答えはあるだろうということで、最近盛んになってきているのが、トゥーンレンダリングという技法です。
これは昨年の「009 RE:CYBORG」などでも使われているものですが、3DCGアニメで作られているけれどもリアルなレンダリングをするのではなく、みなが見慣れているアニメ調にレンダリングする技術です。
3DCGでしかできないカメラワークなどをしつつ、「不気味の谷」は回避するという考え方ですね。
さて長々と昨今の3DCGアニメーションの技術に書いてきましたが、本作は「不気味の谷」を回避するということではなく、この新しい技術を使って新しい表現ができないかということを考えた実験だと思いました。
3DCGの弱点を書いてきましたが、手描きアニメーションにも弱点はあります。
そもそも手描きアニメーションが簡略化した絵柄で作られていたかというと、人の手であまりに複雑な絵柄は描けない、動かせないということがあったと思います。
またカメラワークも手描きアニメーションでは限界があります(それでもジブリのアニメーションは手描きでかなりカメラを動かしますが)。
逆に3DCGアニメは複雑なテクスチャや線が多い絵柄などは得意ですし、また複雑なカメラワークも可能です。
手描きではできない3DCGアニメだからこそできる、でも疑似実写志向ではなく、あくまでアニメーションとしての可能性を探ることを本作は志向していると思います。
「九十九」にはそのチャレンジと可能性を感じることができました。
日本の着物の和柄などは手描きのアニメーションで本作のように動かすのは不可能だと思います。
小さな和室で色とりどりの傘や着物が舞うように飛び、それを縦横無尽にカメラが動き捉える。
登場人物はトゥーンレンダリングで描かれているとは思いますが、ほどよい体温というか手触り感を感じるテイストになっています。
このあたりの匙加減は上手だなと思いました。
「火要鎮」は大友克洋さんが監督で、絵巻物のような構図、タッチといった新しい表現を試みていました。
作品の中身は情感のあるもので3DCGのイメージとは逆の方向性のストーリーですが、それはあえてこういうこともできるのではないかというチャレンジであったと思いました。
「GAMBO」は石井克人さんらしい生々しい感じの話。
この生々しさみたいなものはやはり3DCGが苦手とするような感じだと思いますが、筆っぽいタッチの線画や、荒々しいキャラクターの動き等が見事に表現できていたと思います。
最後の「武器よさらば」は手描きアニメーションだと何年かかかるかわからないほどの高密度の線で構成された武器やプロテクションスーツがやはり縦横無尽に動き回ります。
これはCGでないとできない。
「武器よさらば」は元々大友克洋さんの短編漫画ですが、本作も大友さんのタッチで描かれています。
大友さんの漫画は見ればわかるように線が多い(建物とかメカニックとか)。
これを動かすのは手描きだと限界があります。
大友さんの作品の本当のアニメ化は3DCGがないとできないのではないかと思います。
そういう点でこの作品も3DCGアニメの可能性を探る作品であったと思います。
総じてどれも今までとは違った3DCGの使い方を志向している作品であると思いました。
ストーリーという点で言うともう少しというところはなきにしもあらずですが、新しい表現をしてみようということではそのチャレンジと成果は感じられました。
こういうチャレンジ、他にもいろいろな人がしてくれるともっと豊かになると思うんですよね。

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2013年8月11日 (日)

「ワールド・ウォー Z」 ゾンビ映画というよりはディザスター映画

「Z」は「Zombie(ゾンビ)」の「Z」。
ゾンビは以前はノロノロと歩いて襲ってくるというのが定番でしたが、最近のゾンビは高速で移動することが多いですよね。
高速で移動というより、猛ダッシュって感じです。
また最近のゾンビ映画では、ある日ゾンビが世界中に広がり全世界が滅びを迎えようとしているという設定も多くみられます。
ただこれらの多くの作品では世界が滅びようとしていても、描かれるところは主人公のその周囲だったりしました。
本作「ワールド・ウォー Z」はゾンビによって滅びようとしている世界を、ワールドワイドにスケール感たっぷりに描いた作品です。
とはいえここまでくるとゾンビ映画というよりは、ディザスター映画のジャンルに入るような印象を受けました。
本作はよくよく考えてみるとゾンビ映画的な要素は思いのほか少ないのですね。
ゾンビ映画の怖さというのは、ゾンビに襲われることの怖さはもちろんですが、自分たちもそれらの仲間になってしまうかもしれないという恐怖も重要であるような気がします。
自分が自分でないものに変質してしまう恐怖と言いましょうか。
死ぬということの恐怖と、変質してしまうことへの恐怖。
この二重の怖さがゾンビ映画の怖さじゃないかなと思います。
変質することへの恐怖の要素がないと、モンスター・パニック映画になってしまう気がします。
本作は変質することへの怖さが薄い印象を受けました。
わらわらと次から次へと襲いかかってくるゾンビは怖いことは怖いのですが、それはゾンビ的な怖さというよりは「エイリアン2」のエイリアンだったり、「スターシップ・トゥルーパーズ」のバグに襲われるときの恐怖なのですよね。
また本作ではゾンビの原因はウィルス的なものによるとされていて、感染により世界中にゾンビが蔓延していく様はゾンビ映画というよりはパンデミック映画の印象が強いです。
パンデミックものは「見えない敵」との戦いですが、本作はパンデミック的な話でありながら人類の敵はゾンビという形をとって見える化しています。
この可視化により観る側に、人類が戦う敵がどのようなものなのかビジュアル的にわかりやすくなります。
エルサレムの壁にゾンビたちが幾重にも重なり突破しようとするビジュアルは、ウィルスが人類を襲おうとしている様子をビジュアライズしたものと言えます。
つまり本作のゾンビは、今までのゾンビ映画のゾンビというよりは、パンデミック映画のウィルスのメタファのようなものといったほうがいいかもしれません。
なのでゾンビ映画を観に行くと思って観に行くと、「ちょっと違う」という印象を持つ可能性があります。
本作はパンデミック映画、ディザスター映画として観るのがいいかもしれません。
あと予告で「世界か、家族か」みたいなことを言っていたので、主人公がどちらを選択するかといった葛藤が描かれるのかと思っていたのですが、このあたりは薄かったですね。
主人公ジェリーは、冒頭ゾンビと邂逅し、戦いの中でゾンビの血液が口に入れてしまいます。
彼は感染するかもしれないと思い、ビルの屋上でゾンビ化したら家族を襲う前に自ら飛び降りようするのです。
このシーンの描写は余計な説明がなく、行動だけでジェリーのものの考え方というのを伝えるいい場面だと思いました。
ただこの場面以降、ジェリーのキャラクターの内面に深く入っていくところはあまりなかったんですよね。
個人的には取り上げた場面のようなジェリーの人物描写(予告で言っていたような世界か家族かといった葛藤)をもう少し深くやったほうがドラマとして深みが出たのではないかと感じました。
人物描写がそれほど深くなかったため、本作は全体的にスケール感はあるのですけれど、数多あるB級ディザスター映画と大きな違いを持てなかったというのが正直な感想です。

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2013年8月10日 (土)

「終戦のエンペラー」 公平な視点で描く

天皇に戦争責任はあったのか?
この疑問は日本人にとって今をもってしても非常にセンシティブなことだろうと思います。
個人的に特に右や左といった政治信条もなく、天皇という存在に対し特別に思い入れもあるわけでもないが、否定的でもないという世間一般の日本人と同じように受け入れていると思います。
とはいえ冒頭の疑問に対し、特に海外の日本のことをよく知らない人に軽々しくああだこうだと言ってほしくないという気持ちもあります。
なので、本作は海外の作品ということでそのあたりの日本人的にはセンシティブなところを乱暴に取り扱われているのではないかという懸念を持っていました。
しかしながら観てみると本作はその点について非常に丁寧に取り扱い、また公平な視点で描こうという姿勢を感じました。
海外の映画で太平洋戦争を描くとき、日本人は非道なことをした者、そして得体が知れない者として描かれることが多いですよね。
戦時中日本兵が海外で非道なことをしたのは事実ですし、それを映画で見せられたとしても甘んじて受け入れなくてはいけないとは思うのですけれど、いたたまれなくなる気持ちになるのも事実です。
そんなことをした人ばかりじゃないよ、と。
逆に日本の映画だと戦争を取り扱うとき、悲劇として描かれたりとか美談として描かれることも多いです。
それはそれで負の側面を見ないようにしているようにも思うのですよね。
そういう点において本作は、日本が犯してしまったことにも触れ、そしてされたこと(原爆や空襲)にも触れ、そしてまた日本人の精神性についても丁寧に描いたことにおいて、公平な視点だと感じたのです。
この視点は本作の企画は日本人のプロデューサーによるものであり、そして脚本や監督は海外の方が務めているということで、いくつかの視点で検討されたからできたのでしょうね。
本作で見事だと思ったのは日本人の精神性について非常に丁寧に描いていることです。
おそらく海外の人から見た時に、日本人がよくわからないというのはこのあたりの精神性が理解しにくいからだと思います。
劇中でも触れられていたのが「本音」と「建前」。
建前のことを表面に見えるもの(Surface)と言っていました。
日本人は海外の人に建前で接する。
海外の人は表に出ている表情や言葉などを額面通りに受け止める。
しかし日本人にはSurfaceの裏に本音が隠れている。
これは隠しているのというのと違うのですよね。
どちらかというと本音=自分の欲求というのをそのまま表面に出すのを日本人は「はしたない」と感じます。
日本人同士だとそれはわかっているので、相手の本音を「察する」ということをするのですね。
でも海外の人、特に欧米系は欲求をそのまま出すのが普通。
だから日本人はわからないというわけです。
また本作では「信条」という言葉も多く出てきました。
日本人が信じる精神の柱のようなもののことです。
日本人はこの信条のためにであれば、自らの命をも犠牲にするという精神性がありました。
武士の世のであれば主君のために腹を切るというのもそうでしょうし、戦争中はお国のために死ぬということもそうであったのでしょう。
これは欧米人からするとやはり合理的ではないと思えるところかもしれません。
なぜ勝ち目のないこのような戦いをするのか、明らかに負けているのになぜ降伏しないのかという疑問はこのあたりの日本人の精神性が理解できないとわからないものだと思います。
冒頭に書いたようにこのような日本人の精神性をしっかりと描いていたということが驚きでした。

冒頭の疑問、天皇に戦争責任があったかどうか、それについては本作は答えをだしていません。
事実として昭和天皇はこの点についてご自身の口で説明したことはありませんし、映画の中で描かれいるように周囲の者もこの点については口を閉ざしていました。
ですので、これについては永遠にわからないことなのでしょう。
このあたりのことについて本作はやはり丁寧であったと思いました。
推論で、フィクションだからよいだろういう軽々しさで、「責任があった」「責任がなかった」と描くのではなく、事実としてわからないのだということを明確に言ったことが真摯だなと感じました。
あと最後の昭和天皇とマッカーサーが会見するシーンは良いなと思いました。
天皇陛下が自分に責任があるというお話をされ、それを聞いたマッカーサーは懲罰をする云々ではなく、助けが欲しいと言いました。
マッカーサーはそれまでは日本の戦後処理自体を自分の野心のために使おうとしていたと思われます。
ただあの会見において陛下自身の人柄に触れたことにより、相手を信頼できる人物だと感じ、あのようなことを言ったのでしょう。
外交では経済力や軍事力などいろいろなパワーバランスが重要ですが、トップ同士の個人的な信頼感が非常に重要だと言われます。
そのことが強く認識されるシーンでありました。

天皇に戦争責任があるかどうかということを主人公のフェラーズ准将が探っていくところはミステリーサスペンス的なハラハラ感もありましたし、また彼と日本人の恋人の間の悲恋も物語の縦糸となっていました。
上映時間は1時間半強と最近の映画の中では長くはありませんが、見応えのある密度がある作品に仕上がっていたと思います。

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本 「天使と魔物のラストディナー」

木下半太さんといえば「悪夢」シリーズが有名ですが、こちらは別のシリーズで、「東京バッティングセンター(「美女と魔物のバッティングセンター」へ改題)の続編になります。
「東京バッティングセンター」は読んでいるんですが、ほとんど記憶に残っていませんでした。
本作では理不尽な犯罪等に巻き込まれ死んだ者は時折、魔物として復活します。
その魔物は吸血鬼であったり、人魚であったり、フランケンシュタインであったりと様々なのですが、何かこの世でやらなくてはいけないことを持っています。
ただ彼らは殺された当時の記憶は忘れていて、何をしなくてはいけないかを思い出せていません。
このシリーズのレギュラーの登場人物である土屋とタケシも吸血鬼であり、彼らは復活した魔物たちの復讐を手伝う「復讐屋」をしています。
魔物たちが過去の記憶を取り戻していき、事件の真実が浮かび上がっていくという展開はミステリー。
そこでわかる真実は意外であり、短編ミステリーとしておもしろく読めます。
あといつもの木下半太さんよりも切ない感じがしているように思いますね。
本作の最後のほうで生きている人間でありつつも、その精神はモンスター的である登場人物が出てきます。
彼のやっている所行は恐ろしいものですが、彼の精神は狂っていながらも切ない感じが漂っています。
この切なさみたいなものが本作は全編通してありますね。
木下さんの作品はどんでん返しや、次から次への早い展開など飽きさせない作品という印象が強いですが、その底にはいつも切なさがあるようにも感じます。
本作はそのあたりが強く出ている作品のように思います。

前作「東京バッティングセンター(「美女と魔物のバッティングセンター」へ改題)の記事はこちら→

「天使と魔物のラストディナー」木下半太著 幻冬舎 文庫 ISBN978-4-344-41999-5

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「パシフィック・リム」 デル・トロのオタク魂、爆発

巨大ロボットVS怪獣、それは男の子ならば観てみたいと一度は思うもの・・・。
それを永遠の男の子、ギレルモ・デル・トロが本気の実写映画にしてしまいました。
しかし怪獣をハリウッドが映画化するというと、いやなことを思い出す人も多いかもしれません。
「GODZILLA」とか・・・。
いやいやそういう心配はいりません。
デル・トロといえば、日本のアニメやマンガにも造詣が深いオタク監督。
潤沢なメジャーの資金を使って、彼のマニアックなロボットと怪獣への想いが迫力ある映像として爆発しております。
そもそも本作の中で敵となる巨大生物のことをそのまま英語で「KAIJU(怪獣)」と言っているんですね。
「怪獣」もいよいよ国際語?
「TSUNAMI」並です。

さて本作「パシフィック・リム」、怪獣と並んで注目したいのが巨大ロボット<イェーガー>です。
そもそも洋画で「人が乗り込む巨大ロボット」というのが珍しい。
海外の映画でロボットが登場することはよくありますが、そのロボットは「自立型」であることが多いのです。
日本では「マジンガーZ」からはじまり、「ガンダム」、「エヴァンゲリオン」等と連綿と続く歴史の中で「ロボットと言えば人が乗り込むもの」というイメージがありますよね。
なぜ海外とは違って日本だけ「ロボットは人が乗り込むもの」というイメージが強いのかというのはよくわかりません(「マジンガーZ」というエポックな存在の影響が大きいとは思いますが)。
日本のロボット観が特異に発展したのは、主人公がロボットに乗り込むということから主人公とロボットがほぼ同格化したということが大きいということだと思います。
つまり「仮面ライダー」における「本郷猛=仮面ライダー」、「ウルトラマン」における「ハヤタ=ウルトラマン」という主人公とヒーローの同格化が巨大ロボットものでも起こったのだと思います。
「マジンガーZ」においては「兜甲児=マジンガーZ」なんですね。
主人公とロボットのの同格化は演出でも見受けられます。
マジンガーZが腕をもがれたりしたとき、兜甲児は操縦しながらも「うおぉッ!」と痛そうに叫びます(実際は痛いわけないのですが)。
でもマジンガーZの痛みを兜甲児も感じているように見えるので、「兜甲児=マジンガーZ」という印象が強くなるわけです。
このように日本においては無機物であるロボットもヒーロー化してきたのだと思います。
「ガンダム」などは兵器として描くということで新しいリアリティを出しましたが、それでもやはり「アムロ=ガンダム」という印象は強いです。
そして「エヴァンゲリオン」などではシンクロ率というような設定もあり、「主人公=ロボット」という図式がより強く出されています。
この主人公=ロボットという図式は「パシフィック・リム」でも感じられます。
「エヴァ」にもあったシンクロ率的な概念もありましたし、またパイロットの動作が<イェーガー>にフィードバックされるという操縦法も同格化に繋がっているかなと。
パイロットの動作がロボットにフィードバックされるというのは、日本ではアニメ「勇者ライディーン」や珍しい特撮ロボットもの「ジャンボーグA」などでも見られました(あと「スーパー戦隊シリーズ」のロボットでも度々見られます)。
この操縦方法はまさに主人公=ロボットという図式なんですよね。
本作の新しい要素としては「二人で操縦すること」でしょうか。
二人の意識がシンクロすることによりロボットを操縦できるというのは、パイロットとコパイの間でのドラマ要素を生み、作品を豊かにしたと思います。
あと、ロボット好きとして「おおっ!」と思ったところをいくつか。
主人公が乗り込む<イェーガー>ジプシー・デンプシャーですが、操縦席が頭部にあります。
この頭部は別パーツになっていて発進時に胴体に合体するという設定なんですね。
リアルに考えると別に分かれていなくてもいいじゃんと思うのですが、これはやはりロボットもののケレン味ということで。
僕はこれを見たときに「パイルダー・オン(マジンガーZ)じゃん!」とテンション上がってしまいました(「パイルダー・オン」知らない人は検索してください)。
あとはエルボー・ロケット!もコーフンしました。
これはロボットの肘にロケットブースターがついていて、パンチをするときにロケットに点火することによりパンチの衝撃力をあげるというものです。
腕こそ離れませんが、「まるでロケット・パンチ(マジンガーZ)」じゃん!」と思ってしまいました(「ロケット・パンチ」知らない人は検索してください)。
これらの描写からデル・トロ監督は「マジンガーZ」のファンに違いないと確信しました。

巨大ロボットについて延々と書いてきましたが、本作は怪獣もポイントのひとつ。
本作で怪獣が海からやってくるというのはやはり「ゴジラ」へのオマージュでしょうか。
海からくる災厄というのは日本の怪獣もので多く見られますね。
怪獣の造形的には、日本の着ぐるみ的なところはありませんでしたね。
登場したナイフヘッドという怪獣には、「ガメラ2 レギオン襲来」のレギオン的な感じも受けましたが(レギオンも着ぐるみ的な印象が少ないかいじゅうではあった)。
本作の怪獣は日本的というよりはクトゥルフ的な印象が感じられました。
これはデル・トロが本作の前にラブクラフト原作の映画を作ろうとしていたところからきているのかもしれません。
もともとデル・トロは「ヘルボーイ」などでもクリーチャーはクトゥルフテイストであったので、このあたりはまた彼の趣味であるかもしれません。

長く書きましたが、マニアックにいろいろ楽しめる作品だと思います。
あ、マニアでなくても普通に楽しめるかと(たぶん)。

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2013年8月 4日 (日)

本 「碧空のカノン -航空自衛隊航空中央音楽隊ノート-」

福田和代さんの作品は今までは「迎撃せよ」と「TOKYO BLACKOUT」を読んだことがあります。
どちらもテクノサスペンスの作品になるかと思いますが、このジャンルは女性が書くのは珍しいですよね。
読んでみても文章は女性っぽくない印象がありました。
女性の作家さんで自衛隊を題材にというと有川浩さんが思い浮かびますが、ライトノベル風な有川さんと比べると本格テクノサスペンスな感じがありました。
こちら「碧空のカノン」ですが、やはり自衛隊を題材として扱っているのですが、そこでスポットが当たるのが航空自衛隊航空音楽隊です。
各種の国家式典や自衛隊の行事での吹奏をしたり、また市民への広報活動としてコンサート等をやっている部隊だということです。
なかなか普段知らない部隊のお話なので、なるほどこういうこともあるのかというトリビアはありますね。
音大を出た学生はなかなか就職に苦労するようで、その中でも音楽を生業として働ける自衛隊の音楽隊はけっこういい就職先なのだとか。
もちろん自衛隊員ですので、音楽だけをやっていればいいということはなく訓練はありますけれども。
でも音楽ならではということもあり、震災の被災地では避難先に慰問で演奏を行ったということです。
そのときも最初の頃は被災者を癒すような静かな楽器での演奏をして、そのうちに編成を大きくして元気が出るような曲をやったりとかしたそうです。
そういったトリビア的なところはおもしろく読めました。
ただ全体的に今までの福田さんの作風とはかなり違うような感じがするのですよね。
どちらかというとライノベ的というか、有川浩さんの影響を受けているような感じがしました(これは本人の意向なのか、編集者のものなのかわからないですけれども)。
本作はいくつかのエピソードが集められたものですが、それらの多くはミステリー仕立てになっています。
ただそのミステリーの仕掛けもやや無理があったり、すっきりしない感じもあり、ミステリーとしてもまとめきれていない感じがしました。
どうも得意じゃない方向に手を伸ばしているような印象があるのです。
福田さんは最初に書いたように本格なテクノサスペンスが書ける方だと思うので、そっちのほうで勝負してほしいなと思いました。

「碧空のカノン -航空自衛隊航空中央音楽隊ノート-」福田和代著 光文社 ソフトカバー ISBN978-4-334-92870-4

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「劇場版 獣電戦隊キョウリュウジャー ガブリンチョ・オブ・ミュージック」 とはいえミュージカルじゃないけどね

恒例の夏休みのスーパー戦隊シリーズの単独映画です。
スーパー戦隊シリーズの劇場版はいつも30分くらいテレビとほとんど変わらないと短い尺なので、なかなか料理するのが難しい。
キョウリュウジャーで一番目を引くところと言えば、やはりサンバを踊りながら変身!というところだと思うのですが、今回の映画はそこを発展させてミュージカル仕立てにするということ。
サブタイトルも「ガブリンチョ・オブ・ミュージック」となっております。
戦隊でミュージカルかってかなりハードル高いような感じですが、どうやっているんだろうと思いましたが、なんのことはない、挿入歌をたくさん入れているってことでしたね(苦笑)。
厳密にはミュージカルではないなぁ(ま、子供たちはミュージカル見せてもきょとんだとは思いますが)。
そういったことはさておき。
本作の監督は、テレビシリーズでもメインを務める坂本浩一監督。
そして脚本はこちらもメインですべての回の脚本を書いている三条陸さんです。
坂本浩一監督はどちらかと言えばやりたいことをモリモリ入れるタイプで、そして三条さんはそれを上手くまとめあげるタイプです。
この二人は相性良いと思うのですよね。
今回も30分の尺だというのにミュージカル要素や、悪のキョウリュウジャー、獣電竜の0号登場など映画ならではの要素が盛りだくさんではありますが、窮屈な感じはしなかったですね。
このあたりは三条さんのまとめあげる脚本の力であったり、坂本監督の画で見せる力のようなものが上手く表れていたと思います。
「キョウリュウジャー」という作品については物語が完結したらまたレビューは書いてみたいとは思いますが、一つだけ。
この作品、キーになるのはキョウリュウレッドこと桐生ダイゴのキャラクターがいいということのような気がします。
彼には基本的に人の良いところを見つけることができて、誰でも認め受け入れられる度量があります。
ある意味「フォーゼ」の弦太朗にも通じるところがありますが、この性格が本作の屋台骨というか、揺るぎない盤石さを持たせています。
日米ともに最近のヒーローは「悩める」者が多い傾向にありますが、ダイゴは悩まない、揺るがない、ブレない。
まさに王道のヒーローであり、ブレるリーダーが現実には多い中、観ていても非常に頼もしく感じる存在です。
「キョウリュウジャー」は公開前より「王道」がキーワードだったと思いますが、そのコンセプトがしっかりと作品に表れていると思います。

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2013年8月 3日 (土)

「劇場版 仮面ライダーウィザード イン マジックランド」 世界観を大切にしたストイックな作り

テレビシリーズがクライマックスを迎えつつある「仮面ライダーウィザード」の単独劇場版です。
「ウィザード」のテレビシリーズは、最近の平成仮面ライダーシリーズがかなり派手で何でもありとなってきた傾向とは違い、非常にストイックな作りとなっています。
単独の劇場版となる本作も、テレビシリーズの傾向を汲みストイックなものとなっています。
今までだと企画としての話題となりそうなギミックが仕込まれることが多かったように思います。
例えばテレビより最終回を先にやるとかいった企画の意外性であったり、ゲストの話題性(暴れん坊将軍が出てくるとか、キョーダイン復活とか)といったものですね。
特別な劇場版なのでお祭り騒ぎ的なギミックを仕込むのは悪いことではないと思います。
ただそれが消化しきれない場合もあり、なかなかバランスをとるのが難しいところではあります。
例えば最近だと「オーズ」の劇場版「将軍と21のコアメダル」はギミックを消化しきれなかったように感じました。
前作「フォーゼ」の「みんなで宇宙キターッ!」は様々な要素を限界まで盛り込みつつも、勢いで見せ切った例だと思います。
本作はそういったギミックをあえて廃し、「ウィザード」の世界観の中だけで勝負するという形をとっており、それは冒頭に書いたようにこの作品らしいストイックさだと思いました(このところ恒例となっていた新作ライダーのお披露目登場もありませんでした)。
しかし、テレビ本編がラストに向けてストーリーが盛り上がっている中で、本作は番外編的な位置づけにならざるをえません(テレビシリーズで進行している謎解き等をするわけにはいかないため)。
本編での謎解きに絡んだ物語にすることはできないため、本作では「ウィザード」の世界観の中での異世界(マジックランド)に行くこととなったのでしょう。
マジックランドへ行くのは主人公である晴人とコヨミだけで、本編の周囲の登場人物との関係性もないわけなので、本編の流れを汲んだ物語の盛り上がり(「フォーゼ」の登場人物40人によるスィッチオンのような)等もありません。
本劇場版で周囲も魔法使いだらけとなる中で、晴人も自分の存在意義を問うような場面がありますが、そのあたりも番外編的な物語のため踏み込みが甘い。
どちらかと言えばテレビ本編のほうが晴人の苦悩や決意というものがしっかりと描かれているので、劇場版の方はややあっさりという感が否めません。
最近の作品のように派手にギミックを使うというのは、「ウィザード」の世界観からすると馴染みにくいというはわかります。
ただその世界観を大切にしストイックに物語を作ったため、全体的にこじんまりとしてしまったという印象があるのですね。
なかなかにバランスは難しいところであると思いますが。

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本 「シミュラークルとシミュレーション」

ウォシャウスキー姉弟が「マトリックス」を作る時に、関係者にこの本を読むようにと配ったということを聞いて買ってあった本です。
フランスの社会学者ジャン・ボードリヤールの著作になります。
ずっと「積んどく」になっていました。
今回ようやく手にとって読んでみましたが、95%くらい(つまりほとんど)理解できませんでした・・・。
難しい・・・。
手に取った本は最後まで読むというのが信条なので、がんばって読み切りましたが、しんどいしんどい。
なのでこの文章もレビューなんて代物になっていないのですが、自分が理解できた(と思っている?)ところだけちょっと書いてみたいと思います。
タイトルにあるシミュラークルというのは聞き慣れない言葉ですよね。
この言葉はボードリヤールがこの著作で頻繁に使うのですが、オリジナルなきコピーという意味合いだそうです。
・・・これだけでもわかりやすいですよね。
シミュラークルの事例として上がっていたのはこういうものです。
アメリカのネイティブアメリカン(つまりインディアン)は、白人の進出によりその文化を大きく破壊されました。
しばらくたってそういう行為は野蛮であり、インディアンの文化は大切に守られるべきということとなり、インディアンの居住区などができてそこでインディアンが暮らすようになります。
そこではインディアンの文化が一見守られているように見えますが、一度は破壊された文化であり、その本質、精神性などは失われていて、表面的な模倣だけが残っている。
このようなことをシミュラークルと言っているのですね。
現代はこのようなシミュラークルが多く溢れ、その本質などが見失われ、そもそもそのような意味等あったのかというような不確実で不明瞭な状態になっているというのがボードリヤールの考えだと思いました(すいません、読解力が追いつかず、違うかもしれませんが)。
この本は80年代のものなので、現代はそこからさらにインターネットなどのテクノロジーが発達しています。
よりシミュラークルが進行しているようにも思えるのですが、このような時代を生きていたらボードリヤールはどう感じたのでしょうか?

「シミュラークルとシミュレーション」ジャン・ボードリヤール著 法政大学出版局 ハードカバー ISBN4-588-00136-1

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