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2013年6月30日 (日)

「真夏の方程式」 未来を選ぶために

<ネタバレしてますので、注意です>

先日のドラマ「ガリレオ」の第2シーズンについての記事では、今回のドラマについては湯川の人間性といったようなものが薄く、ある種のパターンにはめられてしまったように感じたと書きました。
しかし映画の「真夏の方程式」では、ドラマで薄かった湯川の人間性について深く掘り下げられている作品だと思いました。
もともと東野圭吾さんの「ガリレオ」シリーズも短編と長編があり、「容疑者Xの献身」など長編では事件謎を解くというだけではありません。
東野さんの長編(「容疑者Xの献身」や「麒麟の翼」等)は事件の背後にあるのは、人間の憎しみというよりは実は深い愛情であり、ストーリーの軸が事件そのものを解くということよりも、絡み合った人の情を解くというところに重きをおいているように感じます。
まさに本作もその系譜に繋がっていると思います。
そして本作は今までよりも湯川が自ら事件の解決に向けて動きます。
それは劇中でも触れられているようにこの事件を解決する際(湯川は早くより事件の真相に肉薄している)に、ちょっと間違うとある人物の人生をねじ曲げてしまうということになるからです。
その人物とは事件に自分が知らないうちに関わってしまう少年、恭平です。
湯川は科学というものは人類の行く末を考えるのに、なくてはならないものと考えています。
行く末を考えるためには、真実は何かということをできうる限り知らなくてはいけない。
その真実にたどり着くための方法が科学だと湯川は考えています。
本作では美しい海を持つ玻璃ヶ浦を舞台としています。
そこでは開発か保護かということで住民が二つに割れていました。
湯川は右か左かという二元論で語るのはナンセンスだと考えています。
どちらの可能性も考え、どれが人にとってより良いのかということを選択することが必要だと。
その選択のための知識を得なくてはいけない。
知識=真実が未来を選ぶための材料になるということですね。
湯川は科学バカの変人ではありますが、科学というものが人類の未来を考えるにあたり欠くべからざるものであると考えています。
湯川は人類の未来といったもの、と恭平という少年の将来というものを重ね合わせて見ていたように感じます。
恭平には自分の将来を選ぶにあたり、事実をしっかりと受け止める勇気を持ってもらいたい。
そしてその事実を元に、自分の生き方を自分で決めるようになってもらいたいと考えたのでしょう。
それは湯川が理想とする科学者の像なのでしょう。
科学者の中には科学そのものが目的化し、それがどのような未来につながるか想像しない人もいます。
しかし湯川は科学はとどのつまりは人類が未来を決めるための手助けになるものと捉えているのでしょう。
本作は、湯川の考え方、または人の将来についての想いのようなものを感じる作品となっており、湯川の人間性について深く描いた作品であったと思います。
その点についてはテレビシリーズで少々物足りなく感じた部分が、この劇場版で満たされた感じがします。
もともと前回のテレビシリーズと、映画「容疑者Xの献身」も同じような関係性であったので、これは制作サイドのしっかりとした計算であったと思います。

事件の舞台となる緑岩荘を経営する川畑家の家族はそれぞれに秘密を抱えています。
その秘密は、それぞれの家族がそれぞれに対し深い愛情を持っているが故の秘密です。
その秘密により、事件は起こってしまいます。
父親は妻と娘への深い愛情を持っているが故に気づかないように振る舞い、妻も夫の深い愛情を感じながら秘密を胸の奥にしまっている。
そして娘は自らの罪を心の中に秘めつつ、二人の父親の深い愛情に気づく。
それがとても切ない。
この切なさは、東野作品の多くに共通するものですね。

「ガリレオ(2013・ドラマ)」の記事はこちら→
原作小説「真夏の方程式」の記事はこちら→
前作「容疑者Xの献身」の記事はこちら→

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2013年6月29日 (土)

「俺はまだ本気出していないだけ」 ヤバくね?

タイトルからして痛々しい感じですが、同題の漫画が原作の映画です。
例によって原作の漫画は読んでいません。
主人公のシズオは40歳過ぎてから突然会社を辞め、バイトをしながら「自分探し」をしている中年男。
父親と娘の鈴子といっしょの3人暮らし(妻はいない)。
シズオはグダグダと暮らしていますが、ある日突然「漫画家になる」と宣言し、妙な自信を持って漫画を書き始めます。
一般的な生き方とは違う、シズオのズレた感じ、いわゆる「残念な」「痛い」感じを味わうシュールな作品ということのなのでしょう。
論語に載っている孔子の言葉では40歳は「不惑」とあります。
いろいろ解釈はあるようですが、ここでは生き方に惑わなくなる年ということとしておきましょう。
確かに40歳という年齢は惑ってなんかはいられないという年代ではあります。
30代くらいまではいろいろと試してみても、リカバリーできるチャンスもあるかもしれませんが、40代となるとなかなかに厳しい。
だから40歳というのはそれまでの生き方とこれからの生き方について自分なりに納得する年頃ということで「不惑」というのはわかるような気がします。
ただ、これは自分等もそうなのですが、将来のこと、例えば10年先のことについてはそれほど明確なイメージを描いているわけでもなかったりするのではないでしょうか。
働き盛りの年頃だったりもしますし、目の前のいろいろなことに対して、後先考えず行動しているところはあるかもしれません。
シズオのような彼の自分の行く末に対しムチャクチャ楽天的な見方をするような生き方で日々暮らしたいとは思いません。
たぶん多くの人はシズオのように生きるのはイヤとは思うでしょう。
ただ彼のことを笑えないと思い、また多少なりとも共感性を感じてしまうのは、意外と自分も将来のことをしっかりとイメージはしていないということです。
シズオの夢の中でカミが問いかけるように「ヤバくね?」っていうのは誰しも頭の奥底では感じながらも、気づかないようにしているものではあるかなと思いました。

監督は「コドモ警察」の福田雄一さん。
福田監督はドラマ等でヒットを飛ばしているということですが、「コドモ警察」と本作と観ましたが、どうも僕はあわないんですよね。
シュールなギャグもそれほど大笑いという感じでもないですし、映像がどうも薄っぺらい感じがしてしまうのがどうにも・・・。
このあたりは合う合わないということなので、他の方は別の感じ方をするかもしれませんが、苦手です。

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「ガリレオ(2013・ドラマ)」 人間味薄れた湯川のキャラクター

2007年にオンエアされたドラマ「ガリレオ」の続編となります。
主人公湯川学にはもちろん福山雅治さん。
相棒は内海刑事の柴咲コウさんから、岸谷刑事(吉高由理子さん)へバトンタッチ。
視聴率も好調だったようで、春のドラマではNo.1だったようですね。

僕は第1シーズンの作品はとっても面白く見れたので、第2シーズンもかなり期待していました。
期待度が高かったせいもあるのですが、作品としては第1シーズンのほうが面白かったように思いました。
ハードルが最初から高かったということが原因だとは思うのですが、いくつか気になるところもありました。
まずは主人公、湯川学というキャラクターが確立しすぎてしまっているということ。
「実におもしろい」とか「さっぱりわからない」とか、また事件を解決するときに数式を書き出すといった視聴者が期待するキメの部分はあるのが仕方がないとしても、キャラクターにある種のカタができているために意外性が少ない。
「水戸黄門」的になってしまったというか、そんな感じがします。
その一つの原因は相棒のキャラクターを変えてしまったというのもあるかもしれません。
第1シーズンの内海というキャラクターは、事件の解決を依頼するなかで、湯川という変人のなかにも意外と深い人間性や、男としての魅力みたいなものを感じていきます。
それは恋というほどには深くはないのでしょうが、そういった内海の視線を通して湯川という人物を人間味のある人物にしているように思いました。
また湯川のほうも内海に対して、憎からず思っているようなところもあり、その辺でも彼の人間性が感じられました。
しかしながら第2シーズンの岸谷というキャラクターは、内海と差別化する必要があったということもあるとは思いますが、湯川ー内海の間の人間味のあるやりとりは感じられません。
栗林さんじゃないですが、生意気な小娘刑事といった範疇から出られていないのですね。
そのため、湯川も物理学者として興味があるかどうかといったことだけで事件に絡むわけで、ある種の事件解決マシーンのような人間味が感じにくかったように思いました。
ストーリーは東野圭吾さんの原作をかなりアレンジして使っていて、それはそれで面白かったとは思います。
東野圭吾さんの「ガリレオ」シリーズは短編と長編があります。
長編は「容疑者Xの献身」「聖女の救済」「真夏の方程式」で、「容疑者Xの献身」は映画になりました。
映画「容疑者Xの献身」はドラマの雰囲気を踏襲するのではなく、逆に湯川の人間性をより強く出す作品になっていました。
今日から「真夏の方程式」が映画で公開されますが、おそらく同じような考え方で作られているでしょう。
原作はすでに読んでいますが、原作も湯川の科学への想い、そしてまた人への想いが強く現れている作品になっていました。
そのような湯川の人間性が映画でも出ているといいなと思います。
(ちなみに「聖女の救済」はシーズン2の最終回で前後編で映像化されました)

ドラマ「ガリレオ」の記事はこちら→
ドラマ原作「聖女の救済」の記事はこちら→
ドラマ原作「虚像の道化師 -ガリレオ7-」の記事はこちら→

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2013年6月23日 (日)

「空飛ぶ広報室(ドラマ)」 ハイ、ドーン!

2013年度上期は有川浩さんの作品が立て続けに映像化されました。
映画として「図書館戦争」「県庁おもてなし課」、そしてテレビドラマとしてこちらの「空飛ぶ広報室」です。
原作の「空飛ぶ広報室」についてはこちらのブログでも以前レビューをしていますが、そのときに「有川浩さんの作品としてひとつの集大成と言っていいかもしれない」と書いていました。
その感想は今でもその通りだと思っています。
小説の「空飛ぶ広報室」には有川さんの今までの作品の魅力が集約されているのですね。
本作は航空自衛隊の空幕広報室を舞台にしていますが、有川さんはデビュー作「塩の街」からの自衛隊三部作、また「クジラの彼」等のラブコメでも自衛隊を扱い、そして「図書館戦争」などもその要素を感じますよね。
また広報というものについては「ラブコメ今昔」の中の短編「広報官、走る」、「県庁おもてなし課」などで扱っています。
また広報室のメンバーなどがいわゆる「キャラ立ち」していて、主人公キャラだけでなく脇キャラについてもそれぞれのキャラクターごとのエピソードも手厚くしているという点については、やはり「図書館戦争」シリーズや「シアター」シリーズにも通じています。
ベタ甘なのは言うまでもありません。
ということで原作の「空飛ぶ広報室」は有川作品の魅力がギュギュッと詰まっているんですよね。
だからこそ映像化が難しいと思いました。
映像化するためにはやはり削らなくてはいけないところが出てきます。
しかしそのサイドストーリーなども有川作品の魅力だったりするので、削られてしまうと良さが半減してしまうのではないかと。
あと題材的に空自を扱っているということで、映像になるという点で非常にハードルが高い(空自の協力がどれだけ得られるか等)とも思いました。
で、蓋を開けてみると・・・。
ハイ、ドーン!100点つけてもいいくらいのドラマになっていたと思います。
原作の良さ、エピソードをほとんど削ることなく、原作に対し貪欲に真摯にドラマにしたと思います。
ドラマは主軸に空井、稲葉のラブエピソードと仕事の話を軸にしながら、原作にもあったサブのストーリーも見事に織り込んでいました。
柚木・槙のエピソードも、片山・比嘉の話も好きだったので取り上げてくれていたのは嬉しかったです。
ドラマならではのキャラクターを立たせて方というのも見事で、鷺坂室長は当初ややくどいかと思いましたが、結局彼がドラマ的にはすべてをわかっている人なので、話を動かすキャラとしてうまく使えていたと思います。
あとはやはり航空自衛隊の協力がすごかった。
毎回、普段ではなかなか見れないすごいものを見せてくれる。
これは小説では味わえないもので、やはり映像のものすごさを感じさせてくれました。
ここまで空自が協力するの!とびっくりもしましたが、まさに広報室としては広報効果は莫大なものとなるでしょう。
鷺坂室長であれば、電卓叩いて何億円!と言っているかもしれません。

ドラマを毎回楽しみに観ていたのは、原作の再現性の点だけではありません。
本作は「仕事」に対してどのように取り組むかという姿勢をまっすぐに描いています。
空井にしても、稲葉にしても、それぞれ一度挫折をし、自分が思い描いた仕事ではないけれど、今の仕事に対してやる意義を見いだし、それに真摯に取り組んでいる。
その真摯さに毎回打たれたんですよね。
仕事をしていれば失敗もするし、凹むこともある。
それでも自分がやることに意味がある、意味を見いだす、そうしていけば仕事に向き合う姿勢が変わる。
有川さんの作品は自分の仕事に対しての誇りというか意義みたいなものを描くことが多いですが、それをまっすぐにドラマでは描いていたのが良かったです。
仕事に対してのまっすぐさというのは、主役の二人の姿だけでなくて鷺坂の阪神淡路大震災のときのエピソードであったり、稲葉の同僚のアナウンサーの藤枝のエピソードなどにも表現されていて、ドラマとしてのひとつのテーマになっていたと思います。
あと自分の仕事に関してで言うと、広報・広告的なことをやっているので、ドラマで描かれていた広報・広告活動やマスコミとの対応、お客様への対応などについては「そうなんだよね・・・」とか「あるある〜」といった共感性のあるところが各所にあってツボでありました。
自分が日々業務で悩んでいるようなことなどが空井の悩みともオーバーラップしたんですよね。
このあたりも見ていて感情移入をしてしまった点です。
しかし、ほんといいエピソードが多かったです。
浜松の基地でフライパスするエピソードも好きですし、広報ビデオで女性整備士を取材するエピソードも良かった。
これらは小説とそのまんまなのですけれど、画になるとやはり違った感じに見えます。
女性整備士が父親である自衛官の墓に花を手向ける際に、奇跡的にC-1輸送機が上空を飛ぶというエピでしたが、これが映像で見るとまたじーんときてしまって。
これに安室奈美恵さんのテーマがかぶるから涙腺決壊。
ドラマ後半はテーマ曲が流れると涙腺決壊というパブロフの犬状態になっていました。

最終話は原作でも追加のエピソードであった松島基地の話でした。
こちらについては今だからできる、今しかできない、奇跡的なエピソードとなっていたと思います。
ブルーインパルスは宮城の松島基地を本拠としています。
ドラマで触れられていたように松島は震災で津波の被害を受けました。
そのときはたまたまブルーのTー1は九州に行っていて被害を受けませんでしたが、基地及びその他の飛行機は津波にやられました。
今年の3月にブルーインパルスは松島に戻ってきています。
だからこそ、今だからこそできる、今しかできないエピソードであったと言えます。
また震災から3年経ち、次第にその記憶も薄れていく中で、このようなドラマを通じてその記憶を忘れないようにすることにもなります。
そういう意味で今この作品をドラマとして放送するという意義もあったと思いました。

最後にちとマニアックな話を。
広報官の一人、片山を演じていたのは要潤さん。
稲葉の同僚藤枝は桐山蓮さん。
要さんは「仮面ライダーアギト」でG3の氷川誠を、桐山さんは「仮面ライダーW」でWの左翔太郎を演じていたライダー出身者。
最終回でライダー出身者が二人がメアドを交換というのはちょっとほくそ笑みました。
ちなみに主人公空井を演じていた綾野剛さんのデビュー作は「仮面ライダー555」の重要な登場人物澤田という役でした。
ここもライダー繋がり。
あと最終回に松島基地の女性隊員役で、高山侑子さんが1シーンだけ出ていました。
彼女は航空救難隊(「空飛ぶ広報室」でも取り上げられていましたね)を扱った映画「空へ -救いの翼-」で主人公の女性ヘリパイロットでデビューしています。
その縁ですかね?

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「アフター・アース」 「危険」と「恐怖」

この映画、「シックスセンス」のM・ナイト・シャマラン監督の作品なのですが、予告ではいっさい触れられていませんでしたね。
このところ作った作品はあまり評判がよろしくないので、とうとう監督名ではお客さんを呼べないと思われたのかな。
いつまでも「『シックスセンス』の」という枕詞がつくというのも、監督的にはあまりよいとは言えないですよね。
ですので、本作はウィル・スミス、ジェイデン・スミスの父子鷹映画として宣伝されていますね。
ま、内容もそういう感じなので素直なアプローチだとは思います。
元々この作品の原案はウィル・スミスが作ったということなので、M・ナイト・シャマランテイストというのは抑えめで、ある種雇われ監督として誠実に作っている感じはしました。
彼のテイストを期待すると違う作品なのですが、素直に観ればシンプルに作られたわかりやすい作品だと思います。

素直なお話なのですが、面白いなと思ったのは「危険」と「恐怖」についてのくだり。
両方とも「危ない」というイメージは同じなのですが、その本質は違う。
そもそも人類とほかの動物が異なる点というのがあって、その中のひとつで大きなものが人類だけが「未来」というものを考えることができるということ。
基本的に動物は「今」を生きるのであって、その先に何が起こりそうかということを考えて生きているわけではありません。
「今」起こった状況に対し、反応しているだけです。
しかし人間は将来に起こりそうなことを予想して、それに対処して動くことができる。
未来に起こりそうな「危険」を察知し、それに対して準備をする。
その能力により、人間は他の動物とは異なる方法で、サバイバルをすることができたのでしょう。
ここでいう「危険」というのはあくまでそういう状況のことです。
しかし人間は時間を感じ、将来に思いを馳せることができることにより、別のものも手にしてしまいます。
それが「恐怖」です。
「恐怖」というものは、将来起こりそうな「危険」に対し恐れを抱くこと、です。
その「恐怖」は将来の「危険」に対してのアラームにもなり、それの準備をするということにも繋がりますが、その「恐怖」が大きいと逆に立ちすくみ、動くことができなくもなります。
動物は将来について考えることはないので「恐怖」を感じることはありません。
本作でもサイファ(ウィル・スミス)が語るように、「恐怖」は己の心の中にのみ生じるもの。
それはコントロールできる。
その境地は「危険」な状況であっても心が静水のごとくなるようなものなのでしょう。
「危険」な状況においても、己の心の置き方次第で物事の見え方は変わる。
このあたりはナイト・シャマランの過去の作品にも見られたものですね。
見えるものだけが真実ではなく、違った見方ではそれは別の様相となる。
ウィル・スミスがこの作品をM・ナイト・シャマランに撮ってもらったのも、彼の今までの作品に本作とも今日ツする感覚を見いだしたからなのかもしれません。

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2013年6月22日 (土)

「二流小説家-シリアリスト-」 長編をコンパクトにまとめてはいる

このミス(海外編)等で第1位をとったデイヴィッド・ゴードンの小説「二流小説家(原題はThe Serialist)」の映画化作品です。
海外ミステリーを邦画で映画化というのは珍しいですよね。
原作は3ヶ月前くらいに読んだので、筋はだいたい覚えている状態での観賞。
ですので、だれが犯人なのかとかそういうのもわかっちゃっているので、今回のレビューはピュアじゃないかもしれません。
原作はそこそこのボリュームがある作品ですので、まず映画の尺に納まるのかなというのが気になっていたところでした。
観てみるとちゃんとしっかりと納めていました。
映画を観てから思い返すと、小説はやや冗長なところがいくつかあり、そのあたりを映画のほうはばっさりと切っています。
ただ筋は原作とほぼ同じでミステリーの本質についての改変はほぼありませんので、うまく脚本をまとめたという感じがします。
監督の猪崎宣昭さんは長年2時間サスペンスを撮っていた方ということなので、尺に合わせてミステリーをコンパクトにするというのは得意なのかもしれません。
ただしコンパクトにしたため、登場人物に深みがなくなったのは、やや残念なところ。
特に、主人公の小説家赤羽と絡む役どころとなる被害者遺族会のひとり長谷川千夏(原作ではダニエラ・ジャンカルロ)は、小説ではミスリードを引き起こす役になっているのですが、それについては映画では臭わすところはあるものの深掘りせずさらっと流していましたね。
あと原作では要所要所で登場してきていた、弁護士の助手鳥谷(原作ではテレサ・トリオ)はほぼ脇の役になっていました。
ま、もともと原作では本筋には絡んではいなかったので妥当な判断でしょう。
原作は冗長感があって、個人的にはそれほど夢中になった感じではなかったのですが、ミステリーらしい「溜め」のようなものはありました。
ここでいう「溜め」というのは、誰が犯人かわからないというようなドキドキした状態がしばらく続くと言った意味合いです。
映画はコンパクトにまとめあげた分、この「溜め」というのがあまり感じられません。
サクサク観れるという点は、2時間ドラマ的な感じなのかもしれませんが、ちょっと物足りなくもあります。
ちなみに武田真治さんが演じていた死刑囚、呉井大悟の原作での名前はダリアン・クレイ。
名字は合わせていたのですね。

原作「二流小説家」の記事はこちら→

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本 「灰色の北壁」

真保裕一さんの山を題材にした山岳ミステリー集です。
この方の作品の多くは、過去に何かあり、誰にも言えない何かを胸に抱えている男というのが登場することが多いと思うのですよね。
それが、物語で描かれる事件や出来事に関わるその人物を行動へ突き動かします。
その人物が抱えている過去とは何かというところがひとつのミステリーとなっていますし、また過去のある男というところがハードボイルド的な香りをさせるというのが、真保さんの個性かなと。
本作もそれぞれにそういったミステリー的な仕掛け、そしてハードボイルド的な男の孤独のようなものを感じさせます。
小説ならではの仕掛けがあるのが最初に収録されている「黒部の羆」ですね。
これは映像ものでは再現できない。
小説ならではの叙述的な驚きがあります。
続く「灰色の北壁」も「雪の慰霊碑」も登場人物たちの抱える秘めた想いのようなものが途中で明らかになり、それによって彼らの行動の理由が理解できるようになります。
事件そのものを解決するというミステリーではないのですが、登場人物がなぜこのように行動したのかという謎が明らかになるという点ではやはりミステリーとして上手く仕上がっていると感じました。

「灰色の北壁」真保祐一著 講談社 文庫 ISBN978-4-06-275955-7

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2013年6月17日 (月)

「華麗なるギャツビー(2013)」 女は今を生き、男は過去に生きる

1974年版は未見ですので、ストーリーは全く知らずに観ました。
舞台となるのは1920年代のニューヨーク、第一次世界大戦でヨーロッパが疲弊し、それに代わるようにアメリカが台頭してきた時代です。
ニューヨークはネオンが輝き、セレブと呼ばれる人々は夜な夜なパーティに明け暮れる日々。
あぁ、これはどこかで見た光景だと。
これは1980年代後半から1990年代前半にかけての日本の様子ようにも思えます。
人々が夜中まで浮かれ騒ぐのはその頃の東京の繁華街のよう。
そしてまたこれは、今現在の新興国の様子でもあるかもしれませんね。
しかし富は公平に分配されているわけでもなく、本作でも煌びやかな装いでパーティに繰り出す人々もいる傍らで、石炭の墨に真っ黒になっている労働者もいるわけです。

<ネタバレあります>

そんなニューヨークにおいて、毎夜豪華絢爛なパーティを主催している謎の大富豪がジェイ・ギャツビー。
誰もその人物の詳しい正体は知りません。
セレブと呼ばれる人々は、誘蛾灯に引き寄せられる虫のようにギャツビー邸に集まり、らんちき騒ぎを繰り広げます。
この物語の語り手はギャツビー邸の隣に住む、キャラウェイ。
彼はある日、ギャツビーにパーティに招待されます。
キャラウェイはその煌びやかな様に目を惹かれます。
そしてまた彼は、そのパーティを主催しながらも、その中には加わろうとしないギャツビーという人物にも興味を引かれます。
ギャツビーは世間で言われている経歴の持ち主ではない、その裏には別の顔があるということに、キャラウェイも気づいていきます。
実はギャツビーは元々は貧民の子であり、家を出て、その後偶然に富豪に拾われます。
そして戦争に行き、再び文無しに。
その後、再び裏の世界との繋がりを持ち、今のようなギャツビーという顔を持つということになりました。
それは彼がかぶっている仮面です。
しかしその仮面の影には、恐い裏の顔というよりも、実はもっとピュアな男が隠れていました。
ギャツビーはキャラウェイの親戚のデイジーと出会い恋に落ちました。
しかし彼には成り上がりたいという野望があり、もっと立派な男になってデイジーを迎えにいこうと考えました。
しかし、デイジーは彼を待つことができず、別の男と結婚してしまいます。
ギャツビーはそれを知りますが、しかしその過去は挽回できるはずだと考え、成功した男として彼女の前に現れます。
彼には哀しいほどに男のロマンティックでピュアな側面が感じられます。
自分の野心や、また愛に対して非常に純であるのですね、彼は。
過ぎ去った過去、終わってしまった出来事に対して、男は自分ががんばれば取り戻せるはずだと思いがちです。
しかし女性はそういったものに引きずられにくく、どちらかと言えば視線は今、そして未来に向けられています。
デイジーも過去の愛についてキラキラとしたトキメキを感じながらも、今の立場というものも捨てられるわけでもないのです。
ギャツビーはそれがわからない。
自分自身も愛していながら、そして今の夫に愛がないとは言えないという彼女の気持ちが。
結局、彼は最後までデイジーを信じ、庇い、そしてその愛に殉じるように死ぬのです。
幸いにもギャツビーはデイジーが彼の元を訪れようとしたのではなく、自分の身を守るための行動をしたということは知らずにすみました。
そういった様をずっと側で見ていたキャラウェイは、空しさを感じます。
その空しさは、セレブと呼ばれる人々には相手を思いやる気持ちなどはなく、自分の得しか考えないのだということに気づいたからでしょう。
ギャツビーは犯罪に手を貸していたのかもしれませんが、その魂は純であり、自分の想いに忠実であった男だとキャラウェイは思ったのでしょう。
彼はギャツビーの一代記を書き上げます。
タイトルは彼の名そのままに「GATSBY」としますが、最後に「THE GREAT」を付け加えます。
この映画の原題でもある「THE GREAT GATSBY」は邦題では「華麗なるギャツビー」と訳されますが、キャラウェイは「THE GREAT」を「偉大なる」という意味合いで付け加えたのではないかと思いました。

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本 「ラブコメ今昔」

有川浩さんのファンを自称していながら、しばらく前に出版されていたこちらの作品は読んでいませんでした。
「クジラの彼」と同じ系統の、自衛隊を舞台にしたラブコメの短編集になります。
その中からいくつかピックアップして、ご紹介を。

「軍事とオタクと彼」
光隆のキャラクターにほくそ笑むました。
つーか、わかりすぎるよ、彼の行動。
光隆ほどにしてもその手は好きなので、長期海外出張とかなったら、日アサの番組の予約をどうしよう?とは思うだろうなぁ。

「広報官、走る!」
「空飛ぶ広報室」を読んだとき、「有川浩作品の集大成」と書きましたが、こちらの短編は「空飛ぶ広報室」の原点ですね。
こちらは空自ではなく、海自ですけれども。
自衛隊で広報官を取り上げるっていうのは珍しい視点だなと「空飛ぶ広報室」を読んで思ったのですが、よくよく考えたら、有川さんが取材で自衛隊を訪れたときに接する人というのは広報官の方ですものね。
そういう意味で、有川さんが見聞きしたことというのが、これらの作品に表れているのかなと思いました。
海自の広報官政屋、テレビ局のAD汐里は「空飛ぶ広報室」の空井、稲葉の原点なのでしょうね(性格はまったく違いますが)。

「青い衝撃」
英語にすればブルー・インパルス。
有川さんはこういう感じも書けるんだと新たな発見があった作品です。
心理スリラー的なところもあり、そっちのほうにいくかと思いきや、最後はやはり有川さんらしい感じにはなりましたけれどね。
作中で重要なキーになるブルー・インパルスの技の「バーティカル・キューピット」(空にハートを2機で描き、その真ん中を一直線にもう1機が貫く技)になっていますが、こちらが昨日放映の「空飛ぶ広報室」のドラマでしっかりと映し出されていて、「おー、これか!」と。
確かにこれでハートの矢がずれた位置にいったら笑いがでるでしょうね。

有川浩さんの自衛隊作品というのには、共通点があります。
自衛隊というのは、その特殊性から組織そのものについて語られることが多いです。
しかしそこで働いている人は、一人の人間であって、笑いもすれば泣きもする、もちろん恋愛だってする普通の人間なわけです。
それを自衛官という人間性がないひとつの職種ということだけで見ないというところが有川さんのポリシーなのでしょうね。
自衛官はその組織自体についていろいろ言う人が多い中で、その職についているわけで、普通の会社員よりもなんぼもその仕事に対する意識が高いのでしょう。
だって職業を言ったら引かれるわけですから。
そういう自分の仕事に対して誇りを持っている人々を描くというのが、有川作品に共通した大テーマではないかとやはり思うのです。

「ラブコメ今昔」有川浩著 角川書店 文庫 ISBN978-4-04-100330-5

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2013年6月16日 (日)

「俺俺」 アイデンティティの溶融

オレオレ詐欺(最近は「母さん助けて詐欺」となったらしいが、微妙なネーミングだね)をひょんなことからやってしまった主人公の均だが、それをきっかけに同じ顔で、考えることも似通っているもう一人の「俺」が現れます。
なんとも奇妙で不条理な物語を映画にしたのは、「時効警察」「インスタント沼」の三木聡監督。
「俺俺」は同題の小説を原作とする作品ですが、この不条理さは三木監督にはぴったりだと思いました。
俺は三人から、どんんどんと増殖していくわけですが、その理由・原因やら法則などは一言たりとも説明されません。
直接的な説明がない不条理な感じ、それでいてポスターやらなにやら画面に映るものに何かしらの意味があったりするというのは、三木監督の本領発揮というところでしょうか。

「俺が俺である」と思うということは自分で自分の自我を認識しているということ、つまりは自己のアイデンティティについて意識できているということでしょう。
自己のアイデンティティが認識できているからこそ、自分とは異なる他者も認識できるわけですよね。
自分と他者というのは、異なるエゴを持っているわけですから、様々な軋轢が生まれます。
社会の中で生きていく中で、そのエゴ同士の軋轢については、それぞれがうまくいくように調整するわけですが(空気を読んだり、大人になったり)、そういうことが面倒くさいと思うこともありますよね。
均と、他の俺(大樹とナオ)は、「俺」らの中でもより好みなどが似通っており、いっしょにいても気が楽というように互いに言っています。
確かに家族でも異なったエゴを持っているわけなので、同じ屋根の下で暮らしていても軋轢があります。
その軋轢そのものがないわけですから、居心地がいいに違いありません。
しかし、その「俺」らも三人以外にも様々な「俺」が登場してくるようになります。
それらの「俺」は三人ように好みが似通っているわけでもなく、顔がいっしょというくらいの「俺」も増えてきます。
もしかするとこれは均の中にある深層意識的なものが表れてきているのかもしれません。
瀬島という名の「俺」は破壊衝動だとか、溝ノ口はオタクの気を表しているとか。
そういう深層意識的のようなものも越え、さらにはなんでもありの「俺」が増えていきます。
これは均のアイデンティティというものが次第に崩壊しているというか、溶融してきているような状態なのかもしれません。
他者と自己の区別が次第にできなくなってきている状態なのでしょうか。
他者と自己の間の境界線がしだいになくなってきて、自分が自分であると認識できなくなっている状態・・・。
ただしこの作品ではこれが均の心の中で起こっている出来事であるという説明があるわけでもありません。
というより、「俺」たち同士は相互に認識しているし、社会も「俺」の増殖と削除を認識しているわけなので世界そのものが不条理におかしくなっている側面もあるわけです(メタ度を上げれば、それ自体、世界まるまる均の意識の中という考え方もできますが)。
ま、ぶっちゃけそういう面倒くさいところまでは設定しているとは思いませんけどね。
不条理さ自体を楽しむ、というところが三木さんの作品にはありますから。
不条理ということはそもそも説明ができないこと、理屈では納得しにくいことですからね。
その辺を深掘りするのは野暮というものかもしれません。
不条理さを楽しむということは、常識では説明ができないことを楽しむこと、つまりはそこにある不安感・不安定さを楽しむということなのでしょうね。

あとこの「俺」の増殖が携帯電話から始まったというのも面白いなと思いました。
現代は携帯電話(スマホ)にはその人の付き合い関係やスケジュール、ライフログのようなものが一杯詰まっているわけです。
その人の本質そのものと言ってもいいくらいに。
作品の後半でどれが本当の「俺」なのかわからないくらいに混乱する状態になりますが、そのときも誰が本当の「俺」なのかを見るのに便利なのが、最初から彼が持っているスマホなんですね。
あれが彼のエゴを象徴しているアイテムのような気がしました。

登場してきた警察、総部警察と言っていましたね(「時効警察」ネタ)。
微妙に総武警察じゃないところでずらしてくるところも三木監督っぽい。

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本 「おどろきの中国」

タイトルだけ見ると「そこが変だよ日本人」じゃないですが、中国人の理解できない振る舞いなどをあげつらうような本に感じますが、さにあらず。
著者は新書としてはヒットをした「ふしぎなキリスト教」の大澤真幸さんと宮台真司さん、そして中国に詳しい橋爪大三郎さんですので、かなり中国という国と、中国人というものを深掘りした本となっています。
確かに日本人から見て中国人の行動というのは理解しがたいところがあります。
ただそれは中国人が変なのではなく、日本人と思考や行動のベースとなる文化や歴史が異なるためであるということと考えた方がいい。
「ふしぎなキリスト教」では日本人が理解しにくいキリスト教文化について書かれていましたが、この本と合わせて読むと日本人のほうが世界的には珍しいタイプの民族なのではないかと思ったりもします。
重要なのは「異なる」ということを前提に相手の価値観、考え方というものをなるべく理解しようとし、様々な交渉をするということなのでしょう。
この本はけっこう専門的なことが書かれているのでなかなか読むのもたいへんですし、自分でも理解し切っているわけではないのですが、なるほどと思ったことがあったので、ちょっとそのあたりに触れてみます。
中国というのは世界的にも早く統一国家(秦)が作られ、(ここが珍しいのですが)王朝が変わっても、中国という国の形(天に統治することを許可された皇帝)はほぼそのまま継承されてきました。
秦の前というのは春秋・戦国時代(孔子のいた時代)で、国が千々に乱れていました。
それは中原という平で行き来がしやすく、すなわち戦争もしやすいという地政学的な条件もあったかと思います。
何度も異民族に攻め込まれていますし。
ですので、中国という国はいつでも「戦時」であるという感覚がベースになっている。
対して日本は「平時」の期間が長く、ときおり「戦時」にはなりますが、「平時」がベース。
ですので中国はトップが強烈なリーダーシップがあり、実質的に物事を決める文化ですが、これは「戦時」の状況下にあるということだからでしょう。
日本は「平時」であるため、合議制というか誰の責任かわからない決め方になるというわけです。
その他にもこの本では中国と日本の文化や歴史に基づく考え方の違いについて様々な点で議論されています。
その違い、どちらが正しいというのではなく、それぞれにそういった背景を理解し合うということが大切なのでしょう。
日本人も中国人もそのあたりはまだまだできていない。
読んでいてなるほどと思うことが多くある本でありました。

「おどろきの中国」橋爪大三郎×大澤真幸×宮台真司著 講談社 新書 ISBN978-4-06-288182-1

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2013年6月15日 (土)

「G.I.ジョー バック2リベンジ」 あれ、主役じゃなかったの?

まぁ、前作の内容もほとんど覚えていなかったんですけれどね。
パリでコンバットスーツ的なものを身につけてドカンドカンやっている印象しかなかったです。
そのときは脳みそをあんまり使わないでドンパチ楽しむ映画だと感じましたが。
ということで、ほとんど思い入れのないままにこちらを観賞。
予告で「G.I.ジョー全滅」と言っていたので、最初の展開はわかってはいましたが、前回主役のキャラクターをあっさり死亡させてしまう割り切りの良さ(?)に唖然。
「実は生きていた!」展開になるかと思いきや、最後までそのまま。
チャニング・テイタムはよくこの仕事受けましたねぇ。
では、予告で受けた印象通りブルース・ウィルスが主役なのかというと、そんなことは全然なくて、ほとんど「エクスペンダブルズ」の1作目のカメオ出演みたいなもの。
「これであの予告はないだろ〜」という感じ。
じゃ、主役は誰ということなのですが、やっぱりザ・ロックことドウェイン・ジョンソンなんですかね?
まさかイ・ビョンホンじゃないよね?
というくらいドラマの焦点がピンぼけな作品なわけです。
前作も御都合主義満載だったように記憶していますが、本作はさらに御都合主義度をパワーアップした感じです。
今どき珍しいくらいに。
ストームシャドーはあんなきっかけで過去を思い出しちゃうのとか、それでみんな納得しちゃうのとか、停止ボタン押しただけで攻撃衛星が爆発するか〜とか・・・。
言い出したらキリがないくらい。
ここまで御都合主義が徹底していれば気持ちいいくらいだ!みたいな。
ドンパチ的な満足感があったかというとその辺もちょっと微妙。
ヒマラヤ的なところでの立ち回りのシーンはちょっと面白かったけど、そのくらいかな。
また一週間くらい経ったら、ストーリーを忘れてしまうのだろうなあ。

前作「G.I.ジョー」の記事はこちら→

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本 「世界でいちばん長い写真」

誉田哲也さんの小説には、いくつかの系統があるように思います。
一つは姫宮玲子シリーズや「ジウ」などの警察小説系、そして「武士道」シリーズなどの青春小説系です。
前者については扱う事件は陰惨なものも多く、そして登場人物が、例えば姫宮にしても自身の中に大きな闇を抱えています。
その闇というのは、その登場人物(犯人なども)の過去の辛い体験に寄ることが多いのですね。
登場人物は過去の呪縛に囚われ、闇に包まれている。
かたや青春小説系はというと、どちらかというと未来であり、光=希望といったものを描くことが多い。
青春小説という題材からすれば当たり前と言えば当たり前なのですが、ひとりの小説家の中で、片や闇を、片や光をというように二つの系統が描かれるのは面白いことだと思います。
また誉田哲也さんの小説では、ひとつのスタイルがあります。
これは今までも触れてきたことですが「ジウ」や「武士道」シリーズ、「疾風ガール」シリーズでは、主人公級の登場人物が対照的な二人であることがあります。
この二人は性格も何も違うのですけれど、それが対照的に描かれることにより、闇と光といったものがひとつの作品の中で描かれています。
誉田哲也さんにおいてはこの対称性、もしくは二面性というものがひとつのテーマになっているのかもしれません。
そう考えると、この「世界でいちばん長い写真」というのは特異な作品であります。
まさに誉田哲也作品の中ではいちばんに前向きであり、光=未来である作品となっていると思います。
なんとなく過ごしていた日々の中で自分が熱中できるものを見つけていく、そしてそれが人に喜んでもらえることとなっていく、そういう少年を描いています。
誉田さんの作品は闇どっぷりのものもありますが、それと全く逆の傾向にある作品となっています。
読後感はさわやかですし、最後のほうはじんとするような爽やかな感動も味わえます。
これも誉田哲也なのだと、感じられる作品になっているかと思います。

「世界でいちばん長い写真」誉田哲也著 光文社 文庫 ISBN978-4-334-76485-2

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2013年6月 9日 (日)

「オブリビオン」 独特の感覚、言うなれば滑空感

未来は見えないもの。
見えないものであるからこそ、見てみたい。
だから映画は、特にSF映画は未来を描いてきたのでしょう。

<ネタバレ的なものに触れます>

「メトロポリス」の煌びやかで、輝かしい未来都市。
「2001年宇宙の旅」の人を突き放したかのように、無駄なものは何もなく合理的に考えられた白い宇宙船。
「ブレードランナー」の湿っていて猥雑でごちゃごちゃと多様性のある街並。
それらはそれまで見たことのない未来を、人々に見せたという点で歴史に名を残したとも言えます。
また、それらは作られた時代や、そしてそのときの未来観も表した作品でもありました。
「2001年宇宙の旅」には科学によって人間性というものが次第に抑制されていくかもしれないという不安が垣間見えますし、「ブレードランナー」は世界がより多様的になり、カオス状態になっていく予感が感じられます。
「トロン」や「マトリックス」も来るべきサイバー時代への兆しを感じます。
これらの作品は、そのときの時代性、そして未来への予感を、目に見えるビジュアルとして、全く新しい形で表現してきたのですね(そしてその後の作品はそれらエポックメイキングな作品の影響を多大に受けたのはご存知の通り)。
本作を見て思ったのは、本作を撮ったジョセフ・コシンスキーという監督はそういう未来の予感をビジュアルにするセンスを持っているのではないかということです。
主人公ジャックが搭乗することで露出が多い「バブルシップ」という航空機の造形やそれらの見せ方には、他の人ではだせないセンスが感じられました。
この舟の名前にあるように球体を組み合わせたシンプルな造形は、今の文明とは隔絶した未来であることを感じさせます。
それは「マトリックス」以降のごちゃごちゃした感じのカオスのようなテクノロジーではなく、「2001年宇宙の旅」で感じたような未来的な未来のようなものを感じるのですね。
ゴチャゴチャしたテイストのテクノロジーによる世界観(そして夜のイメージ)は現在の混沌をそのまま延長線で引っ張った先にある感じがするのですが、シンプルな未来的な未来は、今の時代からすると隔絶感がある。
それは地球が滅びを経験したという点においての隔絶感と、実はそれは異星のテクノロジーを使っているからであるという隔絶感を表しているように思いました。
本作は「ブレードランナー」「マトリックス」的な未来観(カオス状態であることが人間的)ではなく、「2001年宇宙の旅」的な未来観(人間臭くはない極度なシンプルさ)を感じたのは、やはりデザインからでした。
ジャックを狙うこととなるドローンという兵器の形は、「2001年宇宙の旅」のポッドはその見た目から思い浮かべさせます。
ポッドはディスカバリー号の船員をコンピューターHALの指示により(比喩的ですが)襲います。
ドローンのデザインからは人間を襲うことを想起させるものがあり、これはドローンという兵器を作ったのは、人間ではないものであるということを言っているようにも思えました。
このように物語の世界観というものを、目に見えるデザインに落とし込める監督であると感じたのです。
コシンスキーは「トロン:レガシー」を撮っていて、そこでも優れたデザインセンスと映像感覚を見せてくれました。
この監督での独自の感覚が「滑空感」なんですね。
滑るように飛ぶ感覚。
この感覚、上手く表現できないですけれど「トロン:レガシー」にも「オブリビオン」にも共通していると思うのです。
この感覚が「ブレードランナー」「マトリックス」的なごちゃごちゃした閉塞感のある未来観とは違うものを提示しているように感じます。
考えてみると「2001年宇宙の旅」とも違う。
「2001年宇宙の旅」も別の意味での閉塞感がある。
「トロン:レガシー」は「ブレードランナー」「マトリックス」的な暗い世界ではありますが、「滑空感」により開放感は感じます。
本作もそう。
未来を描く映画というのは、最終的には混沌であったり、破滅であったり先細る感じがあるのですけれど、この監督の作品は未来が開ける可能性のようなものを感じさせてくれるんですよね。
ストーリーとしてもそういう終わり方をしていましたし。
この監督の作品、今後もチェックしていきたいと思います。

ずっと世界観の話をしてきましたが、ストーリーもたいへん面白い。
理念的な話し過ぎるわけではなく、単純にアクションSF映画としてみても満足できる出来になっていると思います。

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2013年6月 8日 (土)

「グランド・マスター」 確かにウォン・カーウァイの作品ではあるのだが・・・

「恋する惑星」や「マイ・ブルーベリー・ナイツ」など、他の誰とも違う独特の映像美を持つウォン・カーウァイがカンフー映画を撮るということを聞き、意外だと思いながらも、また期待したいとも思いました。
中国系の監督ではアン・リー(台湾)が「グリーン・ディスティニー」、チャン・イーモウ(中国)が「HERO」「LOVERS」で、その監督らしい個性のある映像美と、カンフーという武術の動きの美しさを新しいスタイルで提示していたので、ウォン・カーウァイはどのようなものを見せてくれるのかと思ったのです。
ウォン・カーウァイの映像は、彼のサインが入っているかのように個性的です。
光の使い方、色の使い方などは、他の監督とは明らかに違う。
そのセンスでカンフーを撮ったら、どのようになるのか・・・。
物語の中心となるイップ・マンをトニー・レオン、ゴン・ルオメイをチャン・ツィイーがキャスティングされていますが、この二人は演技だけでなく、今までの映画でもカンフーアクションの美しく演じていますので、さらに期待は高まります。
さて、本作を観ての印象ですが・・・。
確かに他の作品と同様に本作「グランド・マスター」は、ウォン・カーウァイの刻印が入った美しい映像を見せてくれます。
ただし美しいカンフーの動きが堪能できる作品であったかというとそうではないかと思いました。
さすがトニー・レオン、チャン・ツィイーの動きは激しいながらも、美しさを兼ね備えています。
その動きを観たいのに・・・。
やたらとカットを細かく切る、カメラが動きまくる、アップを多用する、等でその動きの美しさが味わえません。
カンフー映画ではなく、ウォン・カーウァイの映像を観るというスタンスであればよいのでしょうけれども。
彼は別にカンフー映画を撮ったわけではなく、題材としてカンフーを取り上げただけだと言うかもしれません。
ただ個人的には彼の映像美とカンフーの美しさが相乗効果で、今までにない美しさ期待していたのですよね。

イップ・マン(葉問)は最近は映画の主人公として取り上げられることあり、知名度が上がってきましたよね。
彼はブルース・リーの師匠として有名ですが、彼が使っていた拳法が詠春拳。
動く距離を短く、腕を伸ばし切らずに打ち込むのが特徴の拳法です。
片やゴン・ルオメイが駆使するのが八卦掌。
拳ではなく掌で攻撃を加え、その足さばきは円を描くようです。
ひとくくりにカンフーと言いながらも、それぞれに個性的な二つの拳法は映像でもその違いがわかりますよね。
二つの拳法の対称的な個性は、それを駆使する拳法家イップ・マン、ゴン・ルオメイという二人の登場人物でも表れています。
南と北。
男と女。
ルオメイは代々拳法を継承している家の生まれであることに使命を感じ、しかしながら女であることでそれを次世代に伝え継承することができません。
家は兄弟子が継ぐこととなっていましたが、師匠である父を殺してしまったことにより、家はそして拳は奪われてしまう。
それを取り戻すことがルオメイの望みとなったのです。
しかしそれを成し遂げたとしても、女であるが故に伝えられない。
伝えたいと願いながらも、伝えられないというもどかしさをルオメイは持っています。
対してイップ・マンは詠春拳という拳法を極めながらも、それを自分の流派として伝承していくことに熱意を持ちません。
結局、流れてたどり着いた香港において、生活するために道場を開き、そこに人が集まり、詠春拳は広まっていくことになるのです。
彼の弟子の中に、前述のブルース・リー(彼は詠春拳に西洋の格闘技の要素を取り入れジークンドーとした)がおり、それにより詠春拳は世界に広がっていきます。
ルオメイは継承していきたいと思いながらもその想いを果たせず、そしてイップ・マンは歴史の荒波の中での偶然により彼の拳法は世に広まっていったのですね。
このようにこの二人の登場人物は対照的でありました。
そう考えると、もう一人登場する八極拳の使い手である一線天(カミソリ)の立ち位置がやや曖昧です。
ルオメイと絡むかと思いきや、ほぼすれ違うだけでありますし、イップ・マンとは出会いもしません。
それが歴史的事実なのかもしれないですが、物語としてこの人物を登場させた意味合いはよくわかりませんでした。

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本 「沈まぬ太陽」

映画を観た後に原作を読み始めましたが、なんだかんだと時間がかかってしまいました。
最近では珍しくインターミッションが入るほどに長かった映画は見応えありましたが、原作も読み応えのある作品となっています。
ご存知の通り「沈まぬ太陽」は国民航空という架空の航空会社を設定していますが、これは明らかに日本航空をモデルにしています。
主人公の恩地も、実際の労働組合委員長をモデルにしているということです。
本作では国民航空は、民営化を目前とし、そして多くの死傷者を出す航空事故を経ながらも、結局は変われなかった会社として描かれます。
組織防衛、もしくは自己防衛を考える経営者、社員たち。
彼らはサービスを生業とする企業でありながら、その思考には「お客様」という視点がほとんど感じられません。
なかには主人公の恩地のようにそのような視点を持っている人物が登場しますが、結局は巨大な企業の中では少数派であり、最後まで不遇の立場のまま終わるわけです。
この小説は、外部から乞われて会長としてやってきた国見(彼はカネボウの伊藤氏がモデル)の改革も様々な邪魔が入ったため頓挫し、恩地も再びアフリカへ左遷されるというところで終わります。
結局は良心を持った人々が負けてしまうという物語で、カタルシスというものはなく、こんなことは不条理であるという想いが残ります。
しかし、その後の現実の世界をみれば、そのようなことをやって、社会や国民が許すということはないということを証明しています。
日航はその後、民営化をしますが、その後も「親方日の丸」根性はなくなることがなく、結局は債務超過となり、一旦は破綻します。
日本航空というブランドは大きく傷つき、そして経営者も社員も、リストラなどの身を切るような改革を行わなければならなくなります。
この小説が描いている時代に、何か手を打つことができればこうはならなかったかもしれません。
日航破綻のニュースが流れたときは、「たいへんなことが起こった」という気持ちと、その反面「それみたことか」という思いを多くの人が思ったのではないでしょうか。
小説では得られなかったカタルシスを現実の世界で得たというか。
破綻後、日航はやはり関西の企業京セラから稲森氏を会長としてむかえ、再建を行います。
会社がなくなるという危機をむかえ、ようやく日航は様々な手を打つようになったのですね。
逆にそうなれなければわからないほどに、「お客様」目線が欠如していたということなのでしょう。
皮肉なことに、この物語で描かれている国見会長のモデルとなった伊藤氏の会社カネボウもその後、粉飾決済により会社がなくなっております(伊藤氏の時ではないですが)。
結局は会社のトップが、「お客様」よりも我が身を大事と考え始めたとき、会社は立ち行かなくなるのです。
トップがそう考えるようになれば、社員のモラルも著しく下がり、結局はお客様が離れていくのですね。
この小説は大きな課題をつきつけた大作であり、その課題の答えはその後の歴史が出しているという面白い作品となっています。
発表当時読んだ方も、今の時代に読んでみたら、また別の感想を持つかもしれません。

映画「沈まぬ太陽」の記事はこちら→

「沈まぬ太陽(1) アフリカ篇(上)」山崎豊子著 新潮社 文庫 ISBN978-4-10-110426-3
「沈まぬ太陽(2) アフリカ篇(下)」山崎豊子著 新潮社 文庫 ISBN978-4-10-110427-0
「沈まぬ太陽(3) 御巣鷹山篇」山崎豊子著 新潮社 文庫 ISBN978-4-10-110428-7
「沈まぬ太陽(4) 会長室篇(上)」山崎豊子著 新潮社 文庫 ISBN978-4-10-110429-4
「沈まぬ太陽(5) 会長室篇(下)」山崎豊子著 新潮社 文庫 ISBN978-4-10-110430-0

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2013年6月 2日 (日)

「リアル〜完全なる首長竜の日〜」 償いと赦しと救い

原作である「完全なる首長竜の日」は「このミス」大賞を受賞したということで出版された時に読んでいました。
読んだときにこちらのブログでレビューも書いているのですが、今その記事を読むとそれほど感銘を受けた感じでもないですし、実際にほとんどそのストーリーを覚えていません。
現実と非現実が曖昧になりどちらか本当かわからなくなる・・・、「胡蝶の夢」、フィリップ・K・ディックの小説、またはノーランの「インセプション」的な印象だったというのだけを覚えていました。
ということで、本作については原作と比べてどうこうという視点での観賞ではなく、純粋にこの作品に対してという見方になります。
その見方でいくと、この作品はけっこう面白く、そして興味深く観れました。
小説を読んだときはそれほど強い印象を持った作品ではなかったですが、映画についてはよくできているなと思いました。

<ここから先はネタバレ・注意です>

小説と、映画と設定やストーリーは違っているようなのですが(どこが違うかわからないくらい小説の記憶がない)、そういった違いだけではなく、本作については映画ならではの力を巧みに使っているように思いました。
タイトルにあるように本作はリアル(現実)、そして非リアル(非現実)というもの、そしてそれが曖昧であるさまを題材としています。
小説というものは文字ですべて書かれているもので、読んでいる側が、書かれていることを脳内で補完しリアル化している状態ということができるかと思います。
例えば「椅子」と書かれていれば、それに特別な描写がない限りは、読み手はそれをその人の想像力で補っているわけです。
思い浮かべる「椅子」は読む人により違い、物語上重要でなければ、想像すらしないかもしれません。
そういう意味で小説という媒体は、非リアル的(非写実的?)であると言えるかと思います。
だからリアルか、非リアルか、その境目が曖昧であるという物語は、そもそもが書き手の描写の巧みさと読み手の想像力に頼るところがあるわけで、それがないとリアルだと思っていたものが実は非リアルであったという物語の驚きがもたらせないということになるかと思うのです。
個人的には原作の小説はそれが伝わらなかったということだったのだと思います。
しかし、映画という媒体は目に見えるものであり、小説よりもそのリアル性というものが特段に高まっています。
ですのでリアルであったものや出来事が実は非リアルであったということの驚きというものは、リアルであったと思っていたことに映像という説得力があるので、リアルであったものが非リアルであったという落差が小説よりもわかりやすく表現できるのかなと思いました。
また本作においてリアルと非リアルをつなぐキーアイテム的なものがいくつかでてきます(赤い旗であったり、首長竜であったり)。
それらも小説では言葉で説明をしなくてはいけないものですが、映像であればそれは印象深く登場させさえすれば、くどくどしたところもなく直感的に理解させることができるのかなと感じました。
このあたりの映像による直感的な理解というのは、本作のようにリアルと非リアルの境界面が曖昧になる、もしくは逆転するといった構造や(「インセプション」なども)や、入れ子構造になっている物語(「クラウド アトラス」などもそうか)に非常に向いているだろうと思いました。
小説はやはり書き手と読み手の力量に負うところが大きい(とはいえ映画も作り手の力量が相当必要ですが)。
そういう点で、映画という媒体の個性というか、力を感じさせてくれた作品でありました。

物語の2/3程度をしめる、浩市が敦美を救おうとしているリアル、それは実は浩市の脳内の非リアルな世界なのですが、これが非リアルであることはヒントがいくつか最初から提示はされていました。
浩市にとってのリアルな世界にフィロソフィカル・ゾンビが現れる、または敦美の書いた漫画の描写が見えると言ったことです。
敦美を担当している医師相原がセンシングの影響が幻視として現れると言いますが、それもまた浩市が脳内の世界をリアルであると保つための自分自身での説明なのですね。
このあたりの構成はよく練られているなと思いました。
浩市は幼い頃に体験し、自分の罪だと思ってしまった二つの出来事(モリオを救えなかったこと、島のリゾート開発)をずっと心の奥底に封じ込めてきました。
それを自覚することはなかったのですが、心の奥底では罪の意識を持っていたわけで、それが彼の行動(「ルーミイ」という漫画のテーマ)に影響を与えていた。
川へ落ちるという事故によりその罪が彼の意識内で顕在化し、それに捕われ彼はリアルな世界に戻れなくなったのでしょう。
戻るにはその罪を、彼自身が納得する形で償い、赦されなければならない。
そして彼はそれを自分の力だけで成し遂げることができなかったのですね。
そこにセンシングを通じて敦美が現れます。
彼女は彼の罪を理解し、そしてそれを赦し、そして救います。
浩市は罪を自覚し、償い、赦され、そして救われる。
ある意味、自分の意識を自覚する、心理療法でおける認知療法的なものであったのかもしれません。

小説「完全なる首長竜の日」の記事はこちら→

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本 「虚像の道化師 -ガリレオ7-」

現在テレビドラマで放映されている福山雅治さん主演の「ガリレオ」第2期の種本となっている作品になります。
第1期もそうですが、ミステリーの芯の部分以外のところはけっこうドラマの方は変えているので、あくまで種本という見方で別物と見た方がいいかなとは思います。
原作はだいたい湯川の旧友の草薙と組んだり、時折その後輩の内海と組んで事件を解決することが多いですよね(その二人以外のときもあります)。
テレビのほうは内海というキャラクターは原作とは全く別の性格になっていて、さらにドラマの第2期は内海に変わり
、岸谷という新人刑事が相棒となっているので、原作をかなり変えなくてはいけないわけにはいきませんよね。
小説の「ガリレオ」シリーズは、短編集の場合(「ガリレオ」や「予知夢」や本作等)のパターンと、長編のパターン(「容疑者Xの献身」「真夏の方程式」等)があります。
短編集の方は事件のトリックを物理学的なアプローチで解決するというアイデアが読ませどころ。
そして長編の方はより人間のドラマの部分を読ませるという感じで意識的に書き分けられているように感じます。
ですので、ドラマの「ガリレオ」と映画の「容疑者Xの献身」(ドラマのお約束のシーンである計算式書き始めるシーンなどがない)の作風がちょっと違うのは、そもそも現ザクの路線を踏襲していると言えます。
さて本作に収録されている作品は「幻惑す」「心聴る」「偽装う」「演技る」です。
4作とも今回の第2期でドラマになります。
「幻惑す」「心聴る」「偽装う」はすでに放映され、「演技る」は明日ですね。
小説の4作品の中では個人的には「演技る」が一番面白かったので明日は期待したいところ。
湯川の相手となるのが、女優で、その役を蒼井優さんがやるということで楽しみではあります。
原作の方は「7」に続いて、「8」も出ているんですよね。
そちらも読まなきゃ。

「虚像の道化師 -ガリレオ7-」東野圭吾著 文藝春秋 ソフトカバー ISBN978-4-16-381570-1

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2013年6月 1日 (土)

「中学生円山」 妄想とは

クドカンこと宮藤官九郎さんの監督作品、3作目になります(もちろん脚本も担当)。
前作の「少年メリケンサック」のときも思ったのですが、宮藤さんは監督としてはどうなんでしょう・・・?
本作も全体的に独特なグダグダ感がある感じがするのですよね。

お話としては宮藤さんらしいものになっていました。
彼の作品には、「大人になりきれない男」というのがよく出てきます。
これは「おまえ、いい加減大人になれよ」って周囲に言われちゃうようなタイプの男ですね。
バカみたいに好きなものに入れ込み、それほど社会性もなく、そんな自分をどうかと思ったりもしますが、結局ずっとそのまんまみたいな感じ。
今回の作品は「大人になりきれない男」ではなく、「大人になれるかどうかわからない中学生」、円山が主役になっています。
宮藤さんは本作でも草なぎ剛さんが扮する下井に「考えない大人になる位なら、死ぬまで中学生でいろ」と言わせています。
このセリフは宮藤さんが今までの作品でも言ってきた考えが最もストレートに表れているものに感じられました。
本作に登場する円山という中学生は妄想癖のある少年。
中学生の頃のエッチな妄想というのは、男子たるもの、誰しも経験があるものだと思うので、このあたりは男性はほとんどの人は共感というか、こそばゆい想いで観ることとなるかと思います。
そして中学生から、年をとり社会に出ることになると、社会のルールとか常識みたいなものが身に付いて、まあそういう枠組みの中で物事を考え、行動するようになるわけですね。
社会性を身につけるということは大事なことだと思いますし、また枠にとらわれすぎるのもよくないと思いますし、このあたりはいいバランスを探すということではないかと、個人的には思っています。
では、なぜ「中学生」という年頃は、妄想しがちな年頃なんでしょう?
小学生までの子供というのは生活圏というものが非常に狭い。
これも本作の中でちらっと触れられていますが、家族や学校、せいぜい家の周囲(本作でいえば団地)までが子供の生活圏。
そしてそれが子供にとっては世界そのものであると言えるのです。
遠く離れたアメリカやヨーロッパで何が起ころうと関係ないし、知らない人々が何かしても自分には影響しないと思う。
というよりそういうものは存在しないも同じなんですね。
子供にとって、手に触れられ目に見える生活圏がすなわち世界そのもの。
しかし、中学生になると手に触れられ目に見える生活圏の外に広く世界が広がり、多くの人がいるということがよりリアリティを持って感じられます。
しかし、大人ほどにその世界や社会、人々に対する認識があるわけではなく、自分の周囲に対する認識と、その外にある世界の知識の間に大きなギャップが存在しているのだと思います。
そのギャップを埋めるのがすなわち「妄想」なのではないかと。
まだ子供な少年である自分があって、けれど何年かさきには大人になるということは実感的になってくる(小学生にとって大人は遙か先の未来の感覚ですよね)。
その大人になるというイメージの中で最大かつ関心大なことが性的なことなわけです。
ただそこの部分は中学生レベルではまだまだ手に入れられる情報は少ない。
大人という存在に対して、自分がわかる情報のギャップを埋めるもの、それが妄想なのではないかと思ったりします。
これはエッチなことに関することではなくて。
社会に対してとか、世界に関しても、中学生の頃はそこに関心を持ち始めるころですが、しかしやはり情報としてはまだまだ理解し切れていないわけですね。
だからそこを埋めるために妄想的なことを考える。
それは短絡的であったり、ある種ステレオタイプてきなものであったりもします。
それは入ってくる情報がそのような具体性のかけるものであることが多いからだろうと思います。
そこにも実際の世界と中学生が実感できるものの間にはギャップがあって、それを想像力たくましく妄想で補完するのではないかと思います。
大人になり、世界自体がより現実味を持ちはじめ、それが自分の世界認識とほぼ等倍になったとき、ギャップはあまりなくなり妄想自体をしなくなるのでしょう。
それはややもすると世界自体の認識を矮小化し、自分のわかる世界と等倍にしてしまうということなのかもしれません。
それが宮藤さんの言う「考えない大人」なのかもしれないのですけれどね。
自分の世界認識よりもさらに大きな妄想を描くということは、実際の世界をさらに大きくする、未来を開いていくということなのかもしれません。

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