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2013年5月26日 (日)

本 「遺体 -震災、津波の果てに-」

映画「遺体 明日への十日間」の原作になった石井光太さんのルポルタージュです。
石井さんは震災直後より、石巻に入り、その後、遺体安置所に関わる人々を丁寧に取材し、こちらの本を上梓したそうです。
映画のほうは役者が演じているだけあって、登場人物の心情がわかりやすく直接的に響いてくる感じがありマシス。
本著はやはりルポルタージュですので、ある意味引いた目線で、震災直後の石巻の人々を描きます。
あえて引いた目線であるのは、そこに著者の感情をのせてしまうと止めどなくそれが出てしまうことを恐れたからかもしれません。
映画よりも、本著でより強く感じたことがあります。
石巻市は震災後の津波により沿岸部が壊滅的に破壊されました。
しかし、山側のほうの半分は津波の被害を免れているのですね。
そしてその津波を逃れられた人々が、同じ石巻市で被害に遭われた方や、その遺族たちのケアをしたわけです。
ほんのすぐ先の街は破壊され、たまたま自分たちは助かっている。
その心情とはどのようなものでしょうか。
本著で描かれる人々は、それぞれの立場で懸命に自分たちができることをします。
それはたまたま助かった自分たちが、同じ故郷の人々に何かできることをしたいという気持ちの表れだったのかもしれません。
被災した人々が、より被災した人々を救うという活動がこのときの石巻ではされていたのですね。
映画では時間やストーリーの関係上オミットされていた方々についても、本著では描かれています。
多くの人が、亡くなった人々に対し自分が何ができるのか、ということを考えて行動を起こしていたのですね。
ただただ頭が下がる思いです。

映画「遺体 明日への十日間」の記事はこちら→

「遺体 -震災、津波の果てに-」石井光太著 新潮社 ハードカバー ISBN978-4-10-305453-5

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2013年5月25日 (土)

「探偵はBARにいる2 ススキノ大交差点」 ださかっこいい&テンション低っ

こちら一昨年に公開されてすぐに次回作の製作が決定した「探偵はBARにいる」の続編、いい感じに仕上がっています。
登場するキャラクターも、舞台も物語もいい具合にこなれてきた感じで、このシリーズのスタイルが確立できたかなと思います。
この作品のスタイルを形作っている中で、やはり大きな要素は主人公の"探偵”とその相棒の高田ですよね。
主人公の"探偵"、その生き様、信条はけっこうハードボイルドなんですけれど、状況によってはなぜか笑いをとるはめになってしまう絶妙なキャラクター造形がいいですね。
笑いがとれるのは"探偵"がスーパーで完璧な人物ではなくて、痛がるし、女には溺れるしといった人間味があるからなんでしょうね。
そんな人間味がありながらも、ハードボイルドに生きているところが、「ださかっこいい」という感じがします。
そのあたりの「ださかっこよさ」を演じる俳優として、大泉洋さんはぴったり。
あと僕が好きなキャラクターは相棒の高田なんですよね。
どんな追い込まれた状況であっても「テンション低っ!」て感じが、なんともいえない。
見た目は理系男子風なのに、むちゃくちゃ強いし。
やる気がなさそうにみえて、けっこう"探偵"のピンチを救っているしね。
演じる松田龍平さんもいい味出してます。
それぞれに味わいあるキャラクターが相棒で、この関係性がまたいいんですよね。
2+2じゃなくて、2×2になっているような感じで、バディものとして観ても楽しいです。
あと本シリーズの舞台となっているススキノという街もいい味をだしています。
前作を観たとき、昭和の香りがすると書きましたが、それを醸し出しているのはススキノという街なんだろうなと。
このシリーズはススキノのロケにこだわっているように思いますが、やはり街そのものが持つ雰囲気のようなものが本作の香りの基調になっているような気がします。
"探偵"のハードボイルドな生き方っていうのも平成の世にあっては古くさいものかもしれないのですが、ススキノという街にはマッチするような感じがします。
最初に書いたようにいい感じでシリーズとしてこなれてきた「探偵はBARにいる」。
次回作も期待したいところです。

前作「探偵はBARにいる」の記事はこちら→

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2013年5月19日 (日)

本 「幻想郵便局」

とても不思議な読みごこちの作品でした。
あの世とこの世の境目を舞台にした作品というのは、小説でも映画でもたくさんあります。
それこそ小説という表現形態が確立する以前から。
あの世というのは忌むべきものでもあったり、救いのある場所でもあったり、物語によってはいろいろですが、あの世とこの世の間には越えられない厳格な壁があります。
人というのは自分が死んだらどうなるかというのは心配ですし、また近しい人が亡くなった場合は死後どのようになっているのだろうかと気になるものです。
だからあの世を題材にした物語が多く作られるのでしょうね。
本作が不思議な読みごこちがあると書いたのは、そのあの世とこの世の境目にある領域、本作のタイトルにもなっている幻想郵便局の雰囲気がなんともいえず「ほあああん」としたのんびりとしたものであることなんですよね。
本作であの世の様子が描かれることはないのですが、あの世に行くということは、忌むべきところにいくというのではなく、また素晴らしいところに行くでもない感じがあるのです。
それこそ今までと変わりのない生活があの世でもおくられるのではないかという感じ。
あの世とこの世の間の境目がそれほど高くない感じ。
それだからか幻想郵便局には生きている人も訪れることがありますし、もちろん死んだ人も訪れる。
そのあたりのゆるさのようなものが「ほあああん」とした雰囲気に繋がっているのではないかなと。
あとがきで書いてあったのですが著者の堀川アサコさんは、死んだ人はそのまま消え去ってしまうのではないという想いがあるそうです。
その想いがこの作品にはとてもよく現れているような感じがしました。

「幻想郵便局」堀川アサコ著 講談社 文庫 ISBN978-4-06-277429-1

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2013年5月18日 (土)

「藁の楯 わらのたて」 言い訳

しかし、三池崇史監督の作品というのは、いつもいつも大きな熱量を持っているな、と思います。
サスペンスから恋愛から、時代劇から、なにやらかにやら・・・、ジャンルに囚われず、年に2、3本のハイペースで作品を生み出している。
こんなハイペースで作ると粗製濫造な感じになりそうな心配も出てくるのですが、どの作品も溢れんばかりの熱量を持っています。
その熱は、時には熱く、時には冷たく、そして明るく、暗く、だったりと違ったりするのですが、作品の持っている熱量が高いというのは共通しているように感じます。
本作「藁の楯 わらのたて」も最初から熱量高く、作品にかぶりつくように見入ってしまいました。
ほんとにこの監督は出し惜しみするということがないですよね。

幼女を暴行の上で殺害した凶悪犯、清丸。
彼が殺した子供の祖父である蜷川は彼を殺した者に10億円を支払うという広告を出す。
清丸は九州で出頭し、彼の身柄を送検するためにSP銘苅と白岩がその警護に着いた。
10億円という金に釣られ、清丸の命を狙うのは誰か。
警察官と言えども安心はできない。
そのような状況の中、銘苅と白岩らは無事に清丸を東京に移送できるのか・・・。
清丸はまるで同情の余地がないほどの凶悪犯。
自分が行ったことに対して全く反省の意志はありません。
それどころか、彼の思考回路は虫唾が走るほどに自己中心的です。
ですので観客のほとんどが「いっそ死んでくれたほうがよい」と思うでしょう。
そして本作で清丸の命を狙う人もそう思ったに違いがありません。
しかし、それは彼らが行動を起こした理由のひとつの側面でしかありません。
理由の大きなものはやはり金なのです。
金のために人を殺すというのは正しくないことであるのは自明です。
しかし、蜷川の広告はその正しくないことに、正当であるような「言い訳」をつけてしまったのです。
銘苅がある人物に対して劇中で言うように。
その「言い訳がましさ」が人間の弱さ、そして醜さのようなものを見せつけてくる感じがしました。
三池監督というのはこういうことに対して、彼として良いとか悪いとかいう意見は差し入れないのですよね。
ただそのような人間を熱量を持って描く。
ある種の妥協のなさがこの監督の真骨頂であると思います。

どうせ死刑になるであろう凶悪犯を何故殺してはいけないのか。
それはそうすることにより社会システムが崩壊するからです。
蜷川のように金がある者が何をしてもかまわない(気持ちに同情の余地があっても)という状態は、いずれ弱い者が泣きを見る世の中になります。
だからこそ、法律があるわけでそれを守らなければならないのです。
しかし銘苅はそのようなことだからこそ、命をかけて清丸を守ったわけではないとも思います。
銘苅は心情的には十分に蜷川寄りの要素を持っていました。
しかし、その激情に身を任せたとき、それは自分自身のアイデンティティをも滅ぼしかねないという本能的な危機感があったのではないでしょうか。
清丸を殺したときに自分自身に対して「言い訳」をすることができたとしても、それは生きていく中で自分自身を必ず浸食していくだろうと思います。
彼の命を狙った警官にせよ、看護師にせよ、成功したときは、巨額の金が手に入り浮かれ、または正義を果たしたと胸を張るかもしれません。
しかしそれは自分ではない誰かの命を犠牲にしたものであるということは変わるわけではなく、それはやがて心を蝕むのではないかと思うのです。
そういう恐さを銘苅は感じていたのではないでしょうか。

大沢たかおさん、良いですね。
端正でクールなルックスですが、最近は「終の信託」や「ストロベリーナイト」のような敵役から本作のような役まで幅広く演じています。
クールさの中に熱さがあるような役柄というのが特に似合っています。
本作はまさに適役と言えるでしょう。
あと、清丸を演じていた藤原竜也さん。
この方も端正な顔立ちですが、こういうちょっといっちゃっている役とか、歪んだ役というのが非常に上手い。
松嶋菜々子さんの女SPもよかったな。
キャスティングは非常によいように感じました。

移送中に使用していた新幹線がオレンジ色だったので、西日本ではこういう色のも走っているんだーと思ったら、これは台湾の新幹線なのですね。
さすがに日本ではロケの許しがでなかったのか・・・。

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2013年5月11日 (土)

本 「ビブリア古書堂の事件手帖<2> -栞子さんと謎めく日常-

「ビブリア古書堂」シリーズの2作目です。
テレビドラマでも後半のヤマとなっていた栞子の母に姿が朧げに浮かび上がってくるのが、本作になりますね。
1作目はそれほどシリーズを意識したような構成でなかったように思いますが、本作では母親の謎あたりがその後の縦糸になるように意識されて構成されていますね。
2作目で次第に栞子のキャラクターも確立してきています。
小説の栞子は本に接しているときのイキイキとしていながらしっかりとした側面と、普段のオドオドとしておっとりとした側面の2面性がありますね。
原作の栞子のファンの方はその2面性というか、ギャップが良いのだろうなと(ギャップ萌え?)。
テレビドラマの方は、それほど2面性を持っている人物としては描かれておらず、どちらかと言えばしっかりとした側面の方を主としているように思えるので、原作のギャップがいいという人にはやはりドラマはちょっと違うということなのでしょうね。
本巻に収録されているエピソードでドラマでも取り上げられたのが「時計じかけのオレンジ」と「UTOPIA」でした。
「時計じかけのオレンジ」のエピソードは、ドラマはアレンジをしていてけっこう凝った作りになっていたと思います。
逆に「UTOPIA」はほぼドラマは原作に沿っていますね。
何を隠そう僕は子供頃からの藤子不二雄ファンで、コロコロコミックも創刊時より読んでいたんですよね。
あれはどこにやっちゃんだろう?
今持っていたらけっこうな価値になっていたのかな。
足塚不二夫が藤子不二雄のデビュー時の名前だったというのは聞いたことがあり、「UTOPIA」という作品もあることは知っていたのですが、読んだことがないのですよね。
これ一度読んでみたいものです。

第一作「ビブリア古書堂の事件手帖 -栞子さんと奇妙な客人たち-」の記事はこちら→
テレビドラマ「ビブリア古書堂の事件手帖」の記事はこちら→

「ビブリア古書堂の事件帖<2> -栞子さんと謎めく日常-」三上延著 メディアワークス 文庫 ISBN978-4-04-870824-1

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「県庁おもてなし課」 仕事してーよー!

ゴールデンウィーク明けから、仕事がかなり忙しい状態・・・。
忙しいだけでなく、いろいろと思うようにいかないこともあり、ちょっとイライラしているのも自分でもわかります。
今日は朝起きたら「体が重いな・・・」という感じだったので、映画を観に行くのも「どうしようかな・・・」と思ったりもしましたが、でもやはり大好きな有川浩さんの作品の映画化だし、ということで行ってきました。
結果的は、観に行ってよかった。
前向きな気持ちになれました。

錦戸亮さんが演じる主人公掛水が「仕事してーよー!」と言うセリフが予告でも流れていました。
このセリフに本作のエッセンスが込められている感じがしました。
仕事って、普通の会話だとネガティブなイメージありませんか?
「仕事で忙しくって」とか「嫌な仕事だなぁ」とか。
なんとなくやらされ感というか、義務感があったりとか、そんな感じ。
でも本来はそうじゃないんですよね。
人間、生まれてから死ぬまで仕事しないで生きていられるのは10代くらいまでと定年になってからくらいですし、人生の半分以上の期間は仕事しているわけですよね。
だからその仕事がやらされ感しかないものだったりすると、なんかとっても寂しい。
仕事って、生活費を稼ぐっていう目的だけではないとではないのですよね。
本作でも多紀(堀北真希さん)が「私、役に立っていますか?」って不安げに聞くシーンもありますが、誰かの役に立っていると自覚できるように仕事ができていると、とても充実感がありますよね。
社内の誰かが喜んでくれたり、お客さんが嬉しく思ってくれたり。
そういう風に誰かの役に立っていると思える仕事をしていきたいものです。
そのため必要なのは、やはり自分の仕事に「好きになること、自信を持つこと」なんですよね。
掛水の場合は、自分が高知県の良いところを人々に知ってもらうというのが仕事なわけなので、そのために必要なのは自分が住んでいる高知県をより好きなること。
好きになって、自分のやっている仕事に自信が持ててくると、「仕事してーよー!」という気持ちになるんですよね。
このときの「仕事」って言葉はとても前向きで建設的なイメージなんです。
こういう風に言えるときっていうのは、やらされ感のようなものはありません。
とてもポジティブ。
仕事は本来はこういった前向きさがあるべきですよね。
この半月ほど、ちょっと仕事関係で鬱々としていたところがあったのですが、ちょっと本作を観てやる気が出てきました。
掛水のように「仕事してーよー!」って言えるように仕事したいと思います。

原作の多紀ちゃんも猛烈にカワイイ感じな子でしたが、映画の方もその雰囲気でてましたね。
堀北真希さんは、個人的にはツボが違うタイプの女性なのですが、本作を観てたらギューとしたくなりましたよ(笑)。
原作のレビューでも書いていますが、僕は高知県は好きで過去に3回くらい言っていますね。
確かに交通の便は悪いところなので、マイカーをフェリーに乗っけて四国に上陸し、車で動き回ってましたね。
川でカヌーもしたし、沈下橋の近くでキャンプもしたし、ホエールウォッチングもしたし。
四万十川の源流のほうまで足を伸ばしたりしました。
ほんと、高知県は自然が一杯で見所がたくさんあるところなんですよ。
この映画観て魅力的なところだなと思ったら是非訪れてみてくださいね。

原作「県庁おもてなし課」の記事はこちら→

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2013年5月 6日 (月)

本 「自己愛な人たち」

久しぶりに読んでいてしんどかった本です。
「自己愛」というのは、著者も書いているように多面的で捉えにくい。
この言葉からは、ある種の醜さ、歪さみたいなものを感じる人が多いのではないでしょうか。
これを著者はこのように記しています。
「自己愛はまず『はしたない』もので、しかし欠くわけにはいかないものである。早い話が性器や肛門みたいに人前では隠すべきものといった意識がある」
これは、なるほど言い得て妙だと思いました。
著者は卑しい「自己愛」と健全な「自己愛」があると言います。
「前者は傲慢や尊大や思い上がりや自己顕示や自惚れから成り、後者は余裕や『おおらかさ』や向上心や誇りといったものからなるように思われる」
と書いています。
この本では著者が今までに接してきた患者(著者は精神科医)や、様々な小説などの登場人物や作家自身に対して、「自己愛」が極端に肥大化した例が上げられています。
そういう人々に対して、著者はけっこう容赦なく精神分析をし、そしてそれが困った人々であることを辛辣に指摘します。
読んでいてしんどかったというのは、例で挙げられる人々のように極端ではないにせよ、自分自身にも同じような「自己愛」というものがあるという思いになったからです。
今まで生きてくる中で、時折自分の心の中にある卑しい「自己愛」のようなものを感じたりし、自己嫌悪に陥ったりすることもあったりしました。
ただその自己愛なり自己嫌悪(これも自己愛の変形)なりは、人前に出すものではなく、自分の中でなんとなく折り合いをつけてきたようなものです。
それをずばり指摘されているようなところもあり、読んでいてしんどい感じがしました。
著者の書く文章はかなり辛辣なところもあり、その点でもしんどいところがあります。
しかし、読んでいて途中でちょっと感じたのは、著者に対しての憤りのようなものです。
「そんなに辛辣に書いて、書いているあんたは何様だ!」的な。
しかし、それも卑しい「自己愛」が変形して攻撃的になっているようなものかもしれないと思い、また自己嫌悪になったり。
というような感じでしんどいものがありました。
ただこの本の「あとがき」で著者がこのように書いていました。
「本著は完成するまでに、予想外に時間を要した。難産だったのである。考えたり調べたりすることが大変だったこともさることながら、わたしが自分自身の自己愛を扱いあぐねているところが多分にあるので、しばしば執筆中に身につまされて足取りが重くなったのである」
なるほど、専門家の著者でも「自己愛」を扱いあぐねているのかと。
自分自身の中にある卑しい「自己愛」はもしかすると多くの人が、自分自身で自覚しているのかもしれません。
けれどそれが冒頭に挙げたように「はしたない」ものであるとするならば、それを他の人に開示することもないと考えられます。
だから自分以外の人は、卑しい「自己愛」から発する自己嫌悪のようなものは感じていないように見えないながらも、実は感じているのかもしれないと思ったりもしました。
またこのようにも書いています。
「多くの人にとっても、自分の中の嫌な部分を本書の中に見つけ出す可能性は高そうな気がする。マゾヒスティックなモードで読むのが一番正しい読み方だと思うが、そんなことをいまさらあとがきに記しても手遅れだろう」
まさにその通りの反応をした自分・・・。
最初に言ってほしかったという感はなくもありませんが、ちょっと救われた感じもあらず。
この本、読む方は著者が書いたようにマゾヒスティックなモードで読む方がよかろうと僕も思います。

「自己愛な人たち」春日武彦著 講談社 新書 ISBN978-4-06-288160-9

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2013年5月 5日 (日)

「ラストスタンド」 ザ・シュワルツェネッガー、王道のアクション映画

アーノルド・シュワルツェネッガーが、カルフォルニア州知事から俳優に復帰してからの最初の主演作となったのが本作。
メキシコの麻薬王コルテスが脱走し、高速のスーパーカーで逃亡、FBIの追跡を振り切った。
彼が目指すのはメキシコとの国境の辺鄙な町ソマートン。
ソマートンの保安官を務めているのが、元ロサンゼルスの麻薬捜査官であったレイ(アーノルド・シュワルツェネッガー)。
レイとその仲間である副保安官たちがコルテスの国外脱出を防ぐため立ち上がった。
彼らはラストスタンド(最後の砦)となるのか・・・。
というのが本作のざっくりとしたあら筋なのですが、今時のアクション映画としては非常にシンプルなストーリーですね。
へんな捻りなどはなく、後半は銃撃戦&肉弾戦でのドンパチアクションになります。
このへんの感覚はまさにシュワルツェネッガーが活躍した80〜90年代のアクション映画を髣髴とさせるものがあって、彼が復帰第一作として選んだのはわからないわけではありません。
もともとシュワルツェネッガーは演技が達者なわけでもないわけで、余計な小細工をするのではなく、ストレートなアクション活劇に出たというのは正解かもしれないですね。
最近のアクション映画はワイヤーを使ったり、CGを使ったりして魅せるアクションをすることが多いのですが、本作は昔ながらのドンパチと肉弾戦です。
華麗にワイヤーで舞うシュワルツェネッガーなんて想像もつきませんから、こういう雰囲気の作品が合っているのでしょう。
ザ・シュワルツェネッガー的な感じがします。
ストーリーはストレートな分、最近のストーリーも凝ったアクション映画に比べると、すんごいおもしろいというわけではないのですけれど、たまにこういう映画を観るのもありかなと。
先ほども書いたように80〜90年のアクション映画を感じさせる懐かしさも感じます。
監督をしているのは韓国のキム・ジウン。
彼の作品は「グッド・バッド・ウィアード」くらいしか観ていません。
「グッド・・・」は韓国流のウェスタンで、けっこう個性的な印象を持ちましたが、本作はシュワルツェネッガー的な王道アクションムービーという感じなので、それほど監督の色のようなものを感じませんでした。
観終わった後、パンフレットを見て「キム・ジウンだったんだ、意外だな」と思ったくらい。
シュワルツェネッガーの復帰一作目ということで、あまり変なクセをださず、王道アクション映画にしようという狙いなのかな。

レイはソマートンの保安官(Sheriff)なのですが、日本人からするとけっこうわかりにくいですよね。
警察(Police)とどう違うの?とか。
他にもMarshal(これも保安官と訳されることが多い)あるし・・・。
アメリカは州ごとに法律が違っていて、エリアごとに治安組織も違うということですが、基本的に治安を守るということでは同じようなことをやっていると考えていいようなのですけれど、違うのはSheriffは住民の選挙で選ばれるということ。
住民からの人望もなければいけないということでしょうかね。
ちなみにFBI(連邦捜査局)は州をまたいだ犯罪を扱う組織になります。
ときどき映画の中で犯人が州を越えて犯罪を行うとFBIが出張ってくるというシーンが見られますよね。

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2013年5月 4日 (土)

「リンカーン」 理想高きリアリスト

リンカーンと聞くと、まず思い浮かぶのが有名なゲティスバーグ演説です。
「人民の、人民による、人民のための、政治」は民主主義を的確に言い表した言葉だと思います。
ですので、本作はてっきりこのゲティスバーグ演説がクライマックスになるのかと思っていたら、それ以降を描いた物語でした。
アメリカを二分した南北戦争もようやく北軍の勝利に帰結しそうになってきていた時、アメリカ議会は合衆国憲法の修正13条(奴隷制度の禁止)について論議を重ねていました。
しかし長引く戦争への嫌気から、奴隷制については妥協し、南軍と和解をしようという意見も出ていたのです。
このまま南軍が降伏してしまうと、奴隷制廃止の議論はうやむやになってしまうということで、リンカーンらは戦争終結を目指しながら、その前に修正13条を成立させようとします。
本作では普段のリンカーンは民衆とも親しく交わる穏やかな人物として描写されています。
しかし、奴隷制廃止という理想に向けての強い意志をもっている側面も持っています。
リンカーンが劇中で何度か声を荒げる場面があります。
それは彼の内面にある理想に対しての熱い思いが現れたシーンでした。
しかし、彼はただ理想に対して邁進するだけの男ではありません。
議会の多数派工作を行うために、さまざまな手段を使い、票固めを行っていく。
ここには老獪な政治家としてのリンカーンも現れています。
理想を抱きその実現に向けて進みながらも、現実的な手を打っていく。
ガチガチの理想主義者でもなく、また単なる妥協家でもなく、理想を持ったリアリストであるというのがリンカーンなのかもしれません。
リンカーンを演じたのダニエル・デイ=ルイス。
彼はいままでの作品でも演技派として類いまれなる存在感を出してきましたが、本作は彼の演技の真骨頂を堪能することができます。
書いてきたように本作のリンカーンは多面的であり、またかつ奥深い人物ですので、なかなかこれを演じきれる人はいないでしょう。
そういう点でダニエル・デイ=ルイスはまさにぴったりのキャスティングであったと思います。

まさにタイミングがぴったりというか、日本でも急に憲法改正が政治の話題にあがっており、夏の参議院選挙の争点となってきそうです。
僕は憲法は未来永劫堅持しなくてはいけないものでなければならないとは思いませんが、しかし安易にそのときの政治家の思惑で変えていいものであるとも思いません。
アメリカ合衆国憲法は修正第13条だけでなく、何度か修正をされています。
本作で描かれていたようにアメリカでも憲法の修正には議会の2/3の賛成が必要のようです。
2/3というのはかなり高いハードルです。
与党だけではおそらくこれは無理で、野党の中からも賛成を得なければ成立させにくい。
だからこそ超党派の論議になるわけですし、国民的な議論が必要になるのです。
日本の憲法改正で今回争点になろうとしているのは96条、憲法の改正手続きについてです。
国会議員の2/3の賛成というハードルを過半数にしようと言っているのが、現首相です。
首相が目指しているのは、まずは改正手続きのハードルを下げて、その先に第9条の改正をしやすくしようということでしょう。
先ほど書いたように個人的には憲法が未来永劫そのままでなければならないとは思いません。
しかし、首相が第9条を変えたいと思うのであれば、それこそを議論し、そして国会議員の2/3、そして国民を説得し国民投票で指示を得ればいいと思うのです。
それをせずに改正手続きを変えてハードルを下げようというやり方が、姑息に見えてしょうがありません。
本作「リンカーン」では国家を二分する内戦、そして価値観を二分する奴隷制度という問題について、アメリカという国が議論をし、それで定められた手続きを経て民主的に憲法を修正したという事実が描かれます。
日本で憲法を改正するのであれば、このようにしっかりと議論をし、決めていくということが必要ではないでしょうか。
姑息な手段でハードルを下げるということではなしに。
本作でリンカーンが言っていたように、憲法の修正は、今生きている人々だけの問題ではなく、これから生まれてくる人に対しても関わる問題です。
国家の基盤となる法律なのですから、目の前の景気がどうこうという問題とは切り離してしっかりと議論を尽くされるべきものだと思います。

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2013年5月 3日 (金)

「L.A.ギャングストーリー」 ロサンゼルスの「アンタッチャブル」

太平洋戦争後、治安が悪化したロサンゼルスにおいて、裏世界を牛耳っていたのがミッキー・コーエンというギャング。
警察も裁判官も彼の息がかかっていて、誰も彼に歯向かうことができない。
それに抗うようにロス市警の中でも、その正義感とそして暴力性によりはみ出し者となっていたオマラ巡査部長を中心に「ギャングスター・スクワッド(Gangster Squad:原題)」が結成された。
彼らはまさにギャングにも引けを取らない暴力で、ミッキー・コーエンに肉薄していく・・・。

こうやって書いてみると、シカゴを舞台にし、マフィアの首領アル・カポネとエリオット・ネスの戦いを描いた「アンタッチャブル」が思い浮かびます。
組織には納まりきれない正義感をもった主人公が、同じようなはみ出し者を集め、巨大な力を持つ相手に戦いを挑むところはほぼ同じですよね。
本作の「ギャングスター・スクワッド」のメンバーたちの方がより暴力性が強い感じはしますが。
「アンタッチャブル」と言えば、主人公のケビン・コスナーのエリオット・ネスよりも、ロバート・デ・ニーロが演じたアル・カポネの存在感のほうが印象に残っています。
こういう作品の場合、やはり悪役側が徹底的に外道であるほうが、より主人公側が引き立ってくるのですね。
その点において、やはりデ・ニーロのアル・カポネは存在感がありました。
そして本作「L.A.ギャングストーリー」において、その立場にあるキャラクターこそがミッキー・コーエンとなります。
彼はロサンゼルスの影を象徴する人物であり、誰も手出しができない存在です。
冒頭のシーンからミッキーがまるで情け容赦のない人物であることが描かれ、人々にとっての恐怖の対象であることがわかります。
彼はまさにロサンゼルスにおけるアンタッチャブルであったわけです。
ミッキー・コーエンを演じていたのはショーン・ペン。
ショーン・ペンは、恐怖の対象であったミッキー・コーエンをとても存在感をもって演じていたと思います。
その存在感により、本作は求心力を持って物語を動かしていけたと思いました。
ただしやはりストーリーとしては「アンタッチャブル」を思い出させられ、ある種の既視感を持たざるを得なかったのは事実です。
「アンタッチャブル」はデ・ニーロの演技や、デ・パルマの映像センスなどの見所などがある名作であると思いますが、やはりそれと比較するとなるとまだまだという感じはしますね。
面白くなかったわけではありませんが、やはり比べるとね・・・、という感じです。

観終わってパンフレットを見て驚いたのは、監督の名前。
監督はルーベン・フライシャーで、彼が今まで撮った作品は「ゾンビランド」「ピザボーイ 史上最凶のご注文」。
「ゾンビランド」はけっこう楽しめた作品で、「ピザボーイ」は全くつまらなかった。
ただ本作はまったくこの2作品とはテイストが違うので、びっくりしたんですよね。

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本 「ケルベロスの肖像」

海堂尊さんの「田口・白鳥」シリーズの完結篇と銘打たれているのが、本作です。
「チーム・バチスタの栄光」からはじまり、その他のスピンアウト的な作品群を生み出され「桜宮サーガ」とも言われた海堂さんの作品群もひとつの区切りとなったのでしょうか。
「田口・白鳥」シリーズは最初の「チーム・バチスタの栄光」こそ「このミステリーがすごい」で賞をとったので、ミステリー作品だと思われますが、その後の作品は必ずしもミステリーという分野には分類できません(「アリアドネの弾丸」はミステリーっぽかったですが)。
そういう点からすると、この作品群は既存の枠に囚われない新たなジャンルを作ったような感じもします。
「イノセント・ゲリラの祝祭」などは関係者の思惑が入り乱れ、そのやり取りのの中で緊迫感を生み出すと言う会議室サスペンスというような感じでしたからね。
本作「ケルベロスの肖像」はそういう意味では会議室サスペンス的な要素、ミステリー的な要素を含んでおり、やはりシリーズの集大成的な趣があります。
また「桜宮サーガ」のひとつである「ブラックペアン1988」や「螺鈿迷宮」などで描かれた物語についてもひとつの決着をさせているところで、「桜宮サーガ」の区切りとなっている作品と位置づけられると思います。
主人公である田口先生については、けっこう驚きではありましたが、なるほどという納得感もありました。
このシリーズで描かれる医療というものは、海堂さんの本職としての問題意識が現れていると思います。
その集大成として、本作ではAIセンターが作られますが、しかしそれも・・・。
理想はありつつも、現実は一気に進まないというもどかしさのようなものが現れているのでしょうか。
本作品により「桜宮サーガ」は一端の区切りとなるのでしょうが、まだまだ続く要素はありますよね。
白鳥や、高階が田口先生をそのまま放っておくとも思えませんし(笑)。
また新たなる展開が「桜宮サーガで起こるとことを期待したいと思います。

「ケルベロスの肖像」海堂尊著 宝島社 ハードカバー ISBN978-4-7966-9858-0

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