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2013年4月 6日 (土)

本 「道草」

こちらは夏目漱石の晩年の作品で、自叙伝のような作品と言われています。
本著の主人公である健三は漱石が自分自身を描いていると言えます。
この作品で描かれている健三の状況は漱石が「吾輩は猫である」を執筆していた頃の様子であるらしいですね。
この作品で漱石は、健三=自分自身を突き放して客観的に見ていますが、健三の人物像は好人物としては描写されてはいません。
健三の人物は、プライドが高く、その割に気が弱いところもあり、他人にごり押しされてしまうとそれを飲んでしまうところがあります。
しかも相手に従うこと自体に対して、自分としてなにかへ理屈をつけて、ごまかそうとするところもあります。
そしてそういうふうにごまかそうとしていること自体への漱石の自覚もあってそれに嫌気を感じ、健三という人物には批判的です。
また細君との関係に付いても、愛情は持っていないわけではないですが、それを言葉などに表すことはありません。
細君の健三への態度が冷たく感じるのも、細君への健三の思いやりのなさの裏返しなのですが、それに気づいていながらも、それを素直にすることができない。
また女は男にへりくだるものだという古来の考え方と、留学もした経験もあるなかでの進歩的な考え方の折り合いがつかず、口では進歩的なことを言いながらも、行動は旧態然としています。
これにも自覚はあって、それが漱石の健三の描写がネガティブになっているのだと思われます。
作品全体を通じて、健三は世の中をやや斜にかまえて見ていて、それに対してなにかしら言いたいことはあるようですが、実際には行動を起こさず、なにか流されている感があります。
批判はすれども、行動せずというようなところが健三にはあり、それが漱石自身の自己嫌悪感の表れと見ることができるでしょう。
実際、「吾輩は猫である」「坊っちゃん」など漱石の作品は世の中を斜にかまえて見ている感はあります。
そういうものを書きながらも、自分の周囲のことには何も手をつけることをせず、書くことに逃避していることを漱石は自覚していていて、それに自己嫌悪を感じていたのかもしれません。

僕は古典はそれほど多くは読まないのですが、夏目漱石の作品はなんだかんだと読んでいます。
なんで読むのかなと自分で思ったりするのですが、なんとなく漱石の性格と自分の性格が似ているのかもしれないとも思いました。
本作で漱石が描写する健三の人物像というのは、自分自身が自己嫌悪をするときに感じるものと似通っていて、読んでいて非常にイタいところをついてくるなと思いました。
もしかすると人は少なからずこういうところはあって、だからこそ漱石が長い間読まれているのかもしれませんが。
なかなか自分の性質のイタいところをまっすぐに見つめるというのは、なんとなくは感じていても普段なかなかできるものではありません。
漱石がこの作品を書いたのが晩年だというのも、やっと自分自身をしっかりと見ることができるようになったからとも言えるかもしれません。

「道草」夏目漱石著 新潮社 文庫

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