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2013年4月29日 (月)

「仮面ライダー×スーパー戦隊×宇宙刑事 スーパーヒーロー大戦Z」 もう、すんごいことに

昨年の春に公開された「仮面ライダー×スーパー戦隊 スーパーヒーロー大戦」で、仮面ライダーとスーパー戦隊のコラボを行った東映ですが、今年はさらに昨年復活した宇宙刑事シリーズもコラボさせました。
半年くらい前の「宇宙刑事ギャバン」の映画のときの予告では「スーパーヒーロー大戦2」でしたが、「Z」になりましたね。
「ONE PEACE Z」や「ドラゴンボールZ」と、そして本作と最近の東映は「Z」づいてます。
あ、「ワールド・ウォーZ」もありますねー(笑)。
しかしこれだけヒーローが出てくるとけっこうたいへんなことに。
「ディケイド」や「ゴーカイジャー」からヒーローのコラボが定番化してきました。
その頃は、なぜ個別ヒーローが同じところにいるのかの理屈などを作っていましたが、「海賊戦隊ゴーカイジャーVS宇宙刑事ギャバン」、昨年の「スーパーヒーロー大戦」、「特命戦隊ゴーバスターズ」での「ギャバン」コラボを経て、もうそのあたりの理屈はどうでもいいや〜って感じになっていますよね(笑)。
どだいこれだけの物量になるとへんに辻褄合わせはもう無理だと思うので、観る方としても「ま、いいか」って感じです。
それでも個別に作品として成り立っているヒーローを一緒に描くわけですから、細かい理屈は抜きにしてもけっこうたいへんであるというのは想像に難くはありません。
これも脚本の米村正二さん、そして金田治監督の力技があればこそでしょうね。
米村さん、金田監督は昨年と同じで、このところこのコンビは春のお祭り系の担当であることが多いですよね。
メインどころは宇宙刑事シリーズからは「ギャバン」、仮面ライダーシリーズからは「ウィザード」、意外にもスーパー戦隊シリーズからは「ゴーバスターズ」でした。
スーパー戦隊は現役の「キョウリュウジャー」じゃなくて「ゴーバスターズ」なのですね。
あと今回の敵はスペースショッカーとその背後にいる宇宙犯罪組織マドー(以前の「宇宙刑事シャリバン」の敵組織)なのですが、メインは「シャリバン」ではなく「ギャバン」でした。
ヒーローたちがいっしょにいるというバックボーンについてはもう説明はないものの、それでも登場人物が多いため、それらを相互に絡ませるために脚本はパズルのようでした。
これは米村さん(または荒川さん)くらいしかできない芸当でしょう。
ま、絡ませるためのシナリオ構成など知らなくても、子供たちはヒーローがいっしょに戦っている場面が観れれば楽しいと思うのですけれどね。
確かに本作はそういうヒーローたちが絡むアクションシーンがかなり多かったと思います。
それでもってそれらのヒーローは戦いのスタイルが違うのですけれど、それらの違いがちゃんと描き分けられていたのは見事でした。
ギャバンは総合格闘技+テコンドーのような足技の実践系。
ウィザードはエクストリームマーシャルアーツをベースにした華麗で魅せる技。
ゴーバスターズは「ボーン・アイデンティティ」的な近接戦闘。
それぞれ特徴のあるアクションスタイルですが、これらの個性を出しながら描けていました。
さぞ現場はたいへんなことだったと思いますが、このあたりは金田監督の度量とスーツアクターの方々の技量が爆発していた感じがします。
ギャバン=十文字撃役の石垣佑磨さん、ゴーカイシルバー=伊狩凱役の池田純也さんは、映画やドラマでもけっこう素面でアクションができる人だと思っていましたが、今回もこの二人はそうとう素面でやっていました。
最近の東映の作品はコラボが進み、かなりエスカレーションを起こしていてお腹いっぱい気味なところもあるような気がしますが、ここまでくるとお腹いっぱいを通り越してハイテンションになりますねー。

以下は小ネタというか、いろんな遊びがあって楽しかったこと、嬉しかったこと。
・宇宙刑事3人の母船、ドルギラン(ギャバン)、グランドバース(シャリバン)、バビロス(シャイダー)のそろい踏み!
 シューティングフォーメーションをしたバビロスを、バトルバースフォーメーションしたグランドバースが持つ、というありそでなかった画が新鮮。
・メテオとスーパー1がいっしょに戦っていましたが、二人とも拳法使いですよね。
・金色繋がりで、ビーストとキョウリュウゴールドが共闘。
 それにかぶってくるJ(ゴーバスターズ)がおいしいよね。
・今回はすべての仮面ライダー、スーパー戦隊が登場するわけではありませんが、助っ人として何人か出てきます。
 観ていたときは気がつかなかったのですが、助っ人一波めは野獣系(アマゾンとかゲキレンジャーとか)で、二波めは宇宙系(フォーゼとかフラッシュマンとか)なのですね。
 これは「スペースショッカー」がショッカー怪人(獣モチーフ)×宇宙であることと連携させているのでしょうね。
・「フォーゼ」の劇場版に登場したイナズマンが再び登場し、フォーゼといっしょに戦います。
 イナズマンはフォーゼを「先生」と呼ぶので、この物語いつの時制だと一瞬気になりますが、「ま、いいか」と深いことを考えるのはやめました(爆)。
 サナギマンがボコられ、耐えて耐えた末に超力招来でイナズマンに二段変身するという懐かしいシーンを再現。
 これは嬉しい。
 ていうか「イナズマン」で一作観たいぞ。
・これまた「フォーゼ」の劇場版に登場したスカイダインとグランダインが再登場。
 なぜ復活したのかは説明なし(笑)。
 ギャバンとのくだりで、スカイダインとグランダインは改心して味方になるかと思いきや、最後まで敵で爆死。
 また復活するに違いない(爆)。
 そして次回作ではアクマイザーも出てくるに違いない。

物語が終わり、最後には次回予告的な映像が。
そこに現れたのはキカイダー!
次は「人造人間キカイダー」ですか〜。
ついでに「超人機メタルダー」もいっしょにお願いします(好きなのよ)。

昨年の「仮面ライダー×スーパー戦隊 スーパーヒーロー大戦」のレビューはこちら→

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「怪物くん(テレビドラマ)」 子供向け、大人向け、絶妙な匙加減

先に中村義洋監督の劇場版のほうを観賞していました。
テレビドラマの方はけっこう視聴率も良かったということで、やっと観てみました。
映画のほうの印象だとけっこう子供向けのものかなと思っていました。
ま、子供にウケる作品だとは思いますが、「お子様向け」というだけではなくて大人が観ても観賞には堪えられるものになっていたと思います。
漫画と同じように、ドラマも怪物くんは怪物ランドの王子で、王になるための修行としてお供を3人連れて人間界にやってきています。
そこで出会ったのが、ウタコとヒロシの姉弟。
怪物くんは人間界でのいろいろな出来事を経験して、学び成長していくというのが本作の大きな流れになります。
そこで学ぶのは「友達」だったり、「お金」だったり、子供でも身近なこと。
でもそこで描かれているのは単に友達を大切にしようとか、お金は大事にしようとかそういうことではなくて。
お金にしても、人の強欲さのようなものもしっかり描いていて、そのマイナス面なども意外としっかりと描いています。
「お年寄りを大切にしよう」というのがテーマの回も、昨今の超高齢化社会の老人介護の課題を伺わせるようなところもあり、大人が観てもいろいろ考えさせられるようなところがありました(けっこうこの回は泣けた)。
とはいえ、基本線としては「子供向け」という線はしっかりと守っているので、深い課題などがわからない子供が観ても楽しめるようになっている匙加減は上手だと思いました。
これは偏に大野智さんが怪物くんというキャラクターをうまく料理したというところにあるかなと。
あの漫画の怪物くんを実写でそのままビジュアル的に完コピするのは難しいところはあったかと思います。
頭身違うし。
でもあの格好をして大野さんが演じると、なんだかあまり違和感はないのですよね。
仕草とか表情とかけっこうデフォルメしたものとしていましたが、似せようとして無理をしているという感じはありませんでした。
漫画そのままというよりは、大野さんとしての怪物くんのキャラクターを確立させたということなのでしょうね。
一通り観て、視聴率がとれて好評であったというのがわかるな、と感じる作品でありました。
まずこの企画を実際にやろうと決めた製作陣がすごいなと思いました。
普通に考えるとかなり無謀な企画であったのではないかな。

DVDの最終巻の最後にはテレビでやったスペシャル版も収録されていました。
こちらはどちらかというとギャグを前面に出したものでしたもので、教訓めいた話はなくけっこう漫画の雰囲気に近かったかなと。
その中でもベッキーさんが演じた怪子ちゃん(怪物くんのフィアンセ)がでてくる回がけっこうツボでした。
怪子ちゃんは原作にも出ていたと思いますが、あんまり記憶はなく。
ベッキーさんのハイテンションの演技っぷりがものすごく、それだけで笑ってしまいました。
まさにベッキー劇場という感じで、さすがの大野智さんも喰われていた感じがしました(笑)。

「映画 怪物くん」のレビューはこちら→

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2013年4月28日 (日)

「アイアンマン3」 鋼鉄の繭

この作品がトニー・スタークのモノローグで始まるのは意味がある。
「アイアンマン」というシリーズが人気作品となったのは、主人公トニー・スタークの人物造形(それとそれを演じるロバート・ダウニーJr.)に寄るところが大きいかと思います。
ヒーローでありながらも、実に人間臭いのがトニー・スタークなのですね。
スパイダーマンのように強い責任感を背負っているわけではない。
キャプテン・アメリカのように使命感を持っているわけでもない。
彼は他のヒーローほどに、自分の存在をかけてまで世界を守りたいという強い気持ちがあるわけではありません。
彼は世界を守るために戦いますが、それは彼の中では愛する者(ペッパー・ポッツ)を守りたいという気持ちによるところが強いかと思います。
このとてもプライベートな感情で戦うという点が、トニー・スタークを非常に人間臭いヒーローにしているのだと思います。
またトニー・スタークは非常な資産家であり、そして天才でもあります。
地球上でできないことはないというくらいに。
けれど、「アベンジャーズ」の戦いで、スタークは地球スケールでは考えられない敵と戦うこととなりました。
その戦いには勝利しましたが、本作ではスタークは心の病いを抱えることとなります。
それはそうでしょう。
できないことはないというほどに自信家であり、そして実際できていた人物が圧倒的な存在と相対したわけですから。
このように病んでしまうというところもまたトニー・スタークの人間臭さを出しているように思います。

第一作の「アイアンマン」で衝撃的であったのは、ラストでトニー・スターク本人がアイアンマンであるということを公にするということです。
ヒーローものというのは、ヒーローはその正体を隠すというのが定番でした(最近はアメリカでも日本でもその傾向が薄れていますが)。
わかりやすいところで例では同じ富豪繋がりで「ダークナイト」が挙げられます。
バットマン≠ブルース・ウェインですよね。
ブルースの場合は、バットマンのほうが彼の本質で、ブルース・ウェインはその本質を隠す偽装であると言えます。
この二重性が「ダークナイト」を奥深い作品としています。
しかし「アイアンマン」においては、アイアンマン=トニー・スタークなわけですね。
ではトニー・スタークという人物は、自信満々で自己顕示欲が強い富豪という一面性しかないかというと、実はそうではないのですね。
トニー・スタークの内側には、もう一つの面があるのですね。
本作「アイアンマン3」のラストのモノローグでスタークは「アイアンマンは繭であった」と語ります。
これは言い得て妙であったと思います。
アイアンマンはスタークにとって、内面にある本質的な彼を守る「鋼鉄の繭」であったのです。
その本質的な彼とは。
彼の内面性は「大人にならなかった男の子」と言えるような気がします。
人は成長するに従い「思うようにならないこと」と直面し、それにより大人になります。
けれどスタークの場合は、天才的な頭脳を持ち、そして資産もあるわけで、「思うようにならないこと」はなかったのではないでしょうか。
ですからずっと子供のままでいられた。
しかし「アベンジャーズ」の戦いで、彼の精神の中における「鋼鉄の繭」にはヒビが入ってしまった。
だから彼は内にこもるようになったのだと思います。
彼がアイアンマン作りに励むのは自分の好きなことに逃避したいという気持ちと、自分を守る「鋼鉄の繭」をより強化したいという思いがあったのではないかと。
今までのアイアンマンをディスプレイして飾っておくというところにも男の子っぽさを感じます。
あとスタークがペッパー・ポッツに惹かれるのも、子供のような気持ちによるものではないかと思います。
「アイアンマン」の物語には彼の母親の存在は感じられません。
なんとなく母親の手で育てられたような感じがしません。
ペッパー・ポッツという女性は、スタークが気まぐれで子供染みた行動をとってもそれを包容する力があります。
そこにスタークは母性のようなものを感じているような気がしてなりません。

「アイアンマン3」においても、スタークは大切な女性のために戦います。
しかし今までの作品とは違い、アイアンマンを使うことができずスタークが生身のままで戦うシーンも意外に多い。
そしてその戦いを通じて、自分が物理的にも精神的にも「鋼鉄の繭」に守られていた存在であったということに気がついたのかもしれません。
だからこそ、彼はラストで今までのアイアンマンをすべて爆破したのです。
自らを守る「鋼鉄の繭」を破り、その外に踏み出した。
言うなればトニー・スタークが、やっと大人になったということなのかもしれません。

しかし、このシリーズは今後どうなっていくのでしょうね。
アイアンマンがなくなってしまったということよりも、大人になったトニー・スタークっていうのが、キャラクターとして面白いものになるのでしょうか・・・(ま、ちゃんと考えているとは思いますけれど)。
心配と期待を持ちながら「アベンジャーズ2」を待ちたいと思います。

最近、マーベルでは恒例になってきたエンドロール後の寸劇。
モノローグの相手は、ハルクことブルース・バナーだったのですね。
そういや「ソー」の続編と「キャプテン・アメリカ」の続編も予告が流れました。
寸劇に出るだけで「ハルク」の続編はないのかしらん。
あと「ソー」の続編ではロキの姿も。
兄弟仲直りの巻なのかな?

「アイアンマン」のレビューはこちら→
「アイアンマン2」のレビューはこちら→
「アベンジャーズ」のレビューはこちら→

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本 「原発報道とメディア」

うむ、読み応えのある一冊でした。
タイトルを読んだときのイメージは原発報道そのものへの批判なのかなと思っていたのですが、そうではなく、この時代におけるジャーナリズム論というところまでも包含した内容となっていました。
原発の可否云々の個人的見解についてはこの記事では触れません。
ただ東日本大震災以降の原発に関する報道、そして人々の反応にはすこし違和感を感じていたのですが、本著はその違和感を明らかにしてくれたような気がします。
原発に関して言うと、絶対反対派(原発ゼロを言う人々)と原発容認派(原発がなければ日本は立ち行かないと言う人々、さすがに今は絶対安心だという人はいませんが)に大きく二分されているように見えますし、報道も助長している傾向があります。
また原発の危険性のみ多く語られていますが(特に実際の福島以外のところで)、避難することによる別のリスクもあるわけですね。
例えば、住み慣れた土地を離れ医療行為を十分に受けられないとか。
そういうことはあまり報道をされず、また一般の人々にも知られていません。
つまりは原発ゼロか、原発維持かという二者択一という問題では本来はない。
その間でリスクやメリットを議論し、それを修正しながら、最適解を見つけていくという作業が本来は必要なのです。
今は二者択一論が蔓延し、報道もそのような姿勢にたっています。
しかし、本来のジャーナリズムはそういうところ以外のところにも知ってもらわなければいけないこと(先の避難先での医療を不十分にしか受けられないことなど)をしっかりと伝えなければいけない。
ジャーナリズムは速報性という側面と、その事実の検証という行為の側面があります。
大きな事故のときは速報性が重視されますが、その事実の検証という行為がこの原発報道ではあまりされていない感じがあります。
危険性ばかりを強調し、その中には意外といい加減なデータに基づくものがあったり、偏った見方があったりしたりもします。
著者は可謬性(誤ったところを直していけること)という言葉を使い、その検証の重要性を説くのと同時に、そういうことを一般にも共有するべきと言います。
そしてまたマスコミュニケーションの課題に付いてもしてきます。
報道がセンセーショナルになりがちなのは(特にテレビ)は、マスメディアそのものが持つ、人々の興味関心が高い情報を発信するというそもそもの性質によるためです。
ですので、反応がよい(つまりは視聴率がとれる、部数がでる)という情報に収斂されていくわけです。
ではその対極にあるように思われるネットメディアはどうでしょう。
震災の時にTwitterが活躍したのはみなさんも知っていることだと思います。
現場からならではの速報性が今回の地震では機能しました。
しかし、これもみなさん知っているようにデマなども多くみられ、マスメディアでは一般的に行われている情報の確からしさ(あくまで確からしさなのですが)の検証は行われていません。
その点がひとつの課題です。
またGoogleなどの検索エンジンは、いわゆるマスメディアにあると言われる情報の偏向性(当局やスポンサーに都合の悪い情報は流さない)ということに対して、そうではないと言われています。
しかし著者はそれについては、マスメディアとそんなに変わらないと言っています。
Googleはその表示順は彼らのアルゴリズムのページラングという考え方で決まっています。
より人々に観られ、よりリンクされているページが上にくるという考えです。
これは人々が興味関心があるものを観やすくするという点においては、視聴率が高いもの、部数が売れるものを報道するという従来メディアを変わらないということです。
それを機械的にやっているか、人の手(編集者)がやっているかという違いなわけですね。
著者はジャーナリストはそういったメディアの特徴を理解した上でそれらを駆使していく必要があると言います。
そしてまたその視点の座は、冒頭に書いた二者択一という視点ではなく、可謬性を持ちつつ最適解をみつけていくまさに振り子のような作業をしていくべきだと。
これはなるほどと思いました。
重大な事故なので、一般の人もメディアも過剰に振り子が振れるということ自体はわかります。
けれどその中で、冷静な目を持ち、将来に向けて最適解を見つけていく作業というのが大事であると改めて思いました。

「原発報道とメディア」武田徹著 講談社 新書 ISBN978-4-06-288110-4

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2013年4月27日 (土)

「図書館戦争(実写・2013)」 原作に忠実

有川浩さんの小説「図書館戦争」の実写映画化作品です。
有川さんと言えば、4-6クールで放映されている「空飛ぶ広報室」、本作「図書館戦争」、そしてもうすぐ公開の「県庁おもてなし課」と作品の映像化が続いていて、飛ぶ鳥を落とす勢いですよね。
こちらのブログを前から見ていただいている方はわかるかと思いますが、僕は有川さんの大ファンで、何度となく有川作品のレビューは書いています。
有川さんのファンになったきっかけはまさに「図書館戦争」でした。
ちょうどこのブログを始める少し前に手に取ってすぐにファンになってしまいました。
ですので、こちらのブログには2巻の「図書館内乱」からしかレビューはないのです。
有川さん自身もやはり「図書館戦争」でブレイクし、人気作家の仲間入りをしました。
「図書館戦争」は漫画化、アニメ化、アニメの映画化などを経て、とうとう実写化と相成りました(漫画のみ読んでません)。
実写化されるということを聞いたとき、一瞬ほんとにできるのか、できても原作の良さというのがちゃんと出せるのかというのが心配でした。
「図書館戦争」という作品は「メディア良化法」という架空の法律の設定に基づき、構築された世界です。
それは小説的なフィクションであるため、アニメまでは良いにしても、実写化されたとき嘘くさくならないかというのが一点。
それに戦闘シーンも当然あるわけで、スケールがない描かれ方をしてしまうと興ざめしてしまうのではないかという点。
あとは主人公笠原郁と、教官堂上篤のベタ甘恋愛模様を実際の俳優で演じると、とても恥ずかしい感じのものになるのではないかという点でした。
小説の「図書館戦争」という作品は、小説ありながらも漫画的、アニメ的なキャラ立ちをしていた作品で、それだからこそ多くの人に受け入れられたというところがあります。
ある種、漫画的、アニメ的に誇張されているわけですので、リアルな実写でそのキャラクターを表現するときにどのような着地点をするのか、原作のキャラクターのイメージを維持できるのかというのが課題であったと思います。
つまりキャスティングがポイントであったわけです。
そういう点で、今回の笠原を榮倉奈々さん、堂上を岡田准一さんにキャスティングしたのは良かったかなと思いました。
個人的には原作のキャラクターイメージを壊さない良いキャスティングだと思いました(榮倉さんのファンであるということもある(笑))。
榮倉さんは最近大人っぽい役もやっていますが、今回の雰囲気は初主演をしたドラマ「ダンドリ。」のとき演じた相川要のイメージに近く、それは笠原のイメージにも近くてマッチしていたと思います。
岡田准一さんも良かったですね。
ひさしぶりに「SP」の時のような岡田さんのアクションが観れてよかったです。
まさに日本の「ジェイソン・ボーン」!
その他のキャラクター、小牧の田中圭さん、柴崎の栗山千明さんもけっこうピッタリ。
手塚の福士蒼汰さんもフレッシュで良かったかな。
福士さんは「フォーゼ」でもかなり動けるところを見せていたので、もうちょいアクションあっても良かったかなとは思いましたが。
ストーリーはほぼ原作に忠実で、笠原が入隊してから、小田原攻防戦までを描きます。
アニメシリーズで言うと4話くらいまでかな。
茨城県展までやるかと思いましたが、そうするとかなり端折らなくてはいけないので懸命な判断だったと思います。
つまりはまだネタはあるわけで・・・。
「図書館戦争2」はあるのかも!(気が早い!)
心配していた戦闘シーンも、しっかりと描かれていましたね。
さすが「GANTZ」の佐藤監督です。
陸自がかなり協力していたようでヘリや車輛はほんものを使ってましたね。
「空飛ぶ広報室」では空自がかなり協力していますし、自衛隊にも有川浩ブランド強しというところでしょうか。
さきほど触れたように原作のイメージを壊さないように注意深く作っている感じがしました。
驚きはないと言ったらそれまでですが、原作ファンとしてはあのお話、あの雰囲気が好きなので、そのあたりを尊重して作ってくれたところは満足です。

それと原作でキーマンとなる稲嶺長官は本作では故人となっており、児玉清さんが写真で出演されていました。
児玉さんは有川さんの作品の解説などもされていて、有川さんとも親交があったということです。
有川さん曰く稲嶺長官は児玉さんのイメージで書いたということなので、別の人には演じてほしくなかったのでしょう。
原作での稲嶺長官の役回りは映画のオリジナルキャラクター仁科になっており、この役を演じていた石坂浩二さんも良かったと思いました。

アニメ「図書館戦争」のレビューはこちら→
アニメ劇場版「図書館戦争 革命のつばさ」のレビューはこちら→
原作シリーズ「図書館内乱」の記事はこちら→

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2013年4月26日 (金)

本 「トッカン vs 勤労商工会」

高殿円さんの「トッカン -特別国税徴収官-」の続編です。
京橋中央税務署の徴収官、主人公鈴宮深樹(上司につけられたあだ名はぐー子)の悪戦苦闘と成長の日々を描くお仕事系小説。
よく会話の中で「お役所的対応」と言われることがありますが、これはマニュアル的で杓子定規な対応のことを指しますよね。
お役所が発する「決まりですから」「法律ですから」という言葉は、相手の状況を斟酌しない感じがあります。
これは別段、役所に限ったことではなく、民間でもそういうような対応をする会社(または部署、または人)っていうのはいるものです。
個人的にはこの「お役所的対応」をする人とかはけっこう嫌いなのですが、ただそうしてしまうという理由もわからなくはありません。
個々の事情を斟酌していたら、かえってサービスの濃度が変わってしまい、不公平になるとか。
それぞれの細かい状況に関わっていたら、仕事が滞るとか。
これはすごくわかるんです。
でも、それが習い性のようになり、何を言われてもマニュアル的に対応してしまうというのはやはり問題だなとは思うのですよね。
問題な点というのは、サービスされる側にとってもそうなのですが、そのサービスをする側にとってもです。
いわゆる「お役所的」対応というのは、ただ単にマニュアルに従って対処しているだけなわけで、そこには仕事の達成感というのはあまりないのではないのかなと。
仕事はお給料をもらうためだけの労働だと割り切ってしまえばなんでもないのかもしれないですが、それではあまりにつまらないと思うのですよね(たくさんの時間をかけているわけですし)。
仕事には達成感のようなものはやはり必要だと思います。
「お役所的な」な対応は、サービスを提供をする側にとっても、その仕事を無味乾燥なものにしているような気がします。
主人公ぐー子も本作ではそのような悩みにぶつかります。
仕事をまかされているけれど、次々にいろんなことが起こる。
税金を滞納する人の事情はいろいろ。
その事情を斟酌すると、仕事がまわらない。
それをいつかしら「法律ですから」という一言で片付けてしまう。
けれどそれでいいのか、とぐー子は悩むわけですね。
その一言で片付けてしまった中に、ほんとに手助けできる人はいないのかとか。
このシリーズの主人公ぐー子(言いこめられて「ぐ・・・」と何も言えなくなることからつけられたあだ名)はけっこう悩み、足掻くんですよね。
決して他のお仕事系の小説より、それはスマートではない。
だけれどそのスマートじゃないところが、みんなが実際に仕事をしている中で日々悩むことに近いのではないかなと思ったりします。
悩んで、やって、失敗して、悩んで、やって、失敗して。
その繰り返しの中で少しずつ成長していく。
悩みもせず、やりもせず、だから失敗もしないのでは、そこには成長はないのですよね。
そう思うから、ぐー子にはシンパシーを感じるんです。

前作「トッカン -特別国税徴収官-」のレビューはこちら→

「トッカン vs 勤労商工会」高殿円著 早川書房 文庫 ISBN978-4-15-031097-4

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2013年4月20日 (土)

本 「鐘」

内田康夫さんの浅見光彦シリーズの一つですが、他の作品に比べるとけっこう厚め。
とは言いながら、このシリーズの特徴でもありますが、スルスルと読めるので、見た目の厚みほどは読むのはたいへんではありません。
良く言えばストレスなく読める、悪く言えば重みがないという感じでしょうか。
時折、作品中でも浅見は露悪的に事件にゲーム感覚で挑むと言ったりすることがありますが、本シリーズを読んでいるときはそういう感覚に近いように思います。
ミステリーなので当然、人が死んだりするわけですが、そこに何かずっしりとした重みがあるという感じではないのですよね。
人が持っている深い業とか、性(さが)を描くというタイプのミステリーではありません。
そういう点で読み応えがないとも言えるのですが、余暇にちょっとミステリーを楽しむというときにはふさわしいかもしれないです。
内田さんは最初にプロットを決めて書かないという珍しいタイプのミステリー作家ですが、そのためか作品によってはラストがなんとなく都合良く収められてしまっている感じがあったりします。
本作はちょっとそういう感じが出てましたね。
他の作品に比べ長かったのと、新聞での連載だったというところの影響がでているかもしれません。

「鐘」内田康夫著 角川書店 文庫 ISBN978-4-04-100239-1

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「ハッシュパピー バスタブ島の少女」 たくましく生きろ!

無名の監督、そして6歳の少女の主演であるにもかかわらず、アカデミー賞にノミネートとなって話題になった作品です。
主人公は邦題にもなっている幼い少女、ハッシュパピー。
彼女の世界は言うなれば、三重に破滅の危機に面しています。
まずは地球全体、南極の氷が解け、世界各地が水没の危機に面しているように思われます。
そしてハッシュパピーが暮らすバスタブ島。
沿岸部にあるこの島は、水没の危機にさらされています。
またハッシュパピーの父親は死に至る病いにかかっています。
幼い子にとって、親に守られている家こそが世界。
父親の死は、子供にとって世界の破滅にも等しいのです。
このように彼女をとりまく環境はとても厳しい。
けれど、父親はハッシュパピーに「Beast It!」と言います。
これは「むさぼれ!」という意味のようですが、「たくましく生きろ!」という彼の娘へのメッセージであると思いました。
劇中で、ハッシュパピーの先生が古代人の話をします。
古代人は野獣の恐怖に震えていたと。
しかし人間は震えていたわけではないのですよね。
その恐怖に立ち向かい、たくましく生き残ってきた。
世界が破滅に向かおうとしていても、人はたくましく生きることができる。
いや、たくましく生きなければならない。
物語に挿入される巨大なイノシシのような野獣。
これは南極の氷の中から現れたように描かれていますが、これが世界が滅びに向かっていること、その恐怖の象徴でしょう。
けれど幼い少女、ハッシュパピーは最後にその野獣に正面から立ち向かう。
滅びを前にしても、あきらめずたくましく生きようとする意志が彼女の目から伝わってきました。

野獣が巨大なイノシシのようであったこと、自分としては「Beast It!」を「たくましく生きろ!」というメッセージとして受け取ったことから、観終わったあとは「もののけ姫」のようであったなと思いました。
その後、パンフレットを観てみたら、解説では「風の谷のナウシカ」「崖の上のポニョ」との関連を指摘していました。
なるほど・・・なんとなく宮崎駿監督の影響が伺われるのかもしれません。
よく考えてみると宮崎監督の作品は世界が破滅にひんしていて、そういった状況の中でも少年少女がたくましく生きようとするというテーマが多いのですよね。
「未来少年コナン」しかり、「風の谷のナウシカ」しかり。
親を失う=子供にとっての世界の破滅という点では、「千と千尋の神隠し」も通じるところがあるように思います。
これもパンフレットによると、監督のベン・ザイトリンはアニメーション作家でもあるそう。
監督は宮崎作品の影響を受けているかなと思ったりもしました。

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本 「ひきこもれ -ひとりの時間をもつということ-」

吉本隆明さんの著作。
「ひきこもり」という言葉は、かなりネガティブなイメージがあります。
コミュニケート能力がない、社会との接点がない、何を考えているかわからない・・・。
なるべく人と交わるように、ひきこもっている人を社会へひっぱりだそうという取り組みもいくつかあります。
吉本さんは、「ひきこもり」の中でもほんとに病気の人は当然のことながら専門家に相談するべきと言っています。
ただ「ひきこもり」傾向がある人、どちらかというと孤独を好む人を社会と交わるようにいろいろとおせっかいをするのはいかがなものかということを言っています。
孤独を好む人というのは、黙々と自分がしたいことをやっている人が多く(例えば文章を書くなど)、そういうなかで技術を高め、また思索を行うことは悪いことではないだろうと。
生来孤独を好む人に無理矢理、その人が好む以上に社会と交わらなければいけないというのは、どうかということなのですね。
どちらかというと孤独を好むという点では自分もそういうところがあって。
あまり人と交わるような場に行くのは好きではないのです。
パーティとか合コンとか。
人見知りですしね。
かと言って家から一歩もでないということもなく。
毎日ちゃんと会社に行ってコミュニケートしてますし、ですので仕事で関わる人は僕がどちらかというと孤独を好むということを言うと、「何を上段言ってんの」というふうに言う方も多いんじゃないでしょうか。
休日もほとんど外出してますし。
吉本さんは孤独を好むけれども、寂しいという気持ちもあるので、そういうときは「銭湯」とか「祭り」に行くと書いてます。
これは非常によくわかったんですね。
大勢の人がいるのだけれど、そこで無理矢理コミュニケートする必要はない。
大勢の中にいながらも、孤独でもいられるって環境なのですね。
僕にとっては映画館などはそうなのかもしれません。
ひとりの時間をもつと、そこで自然といろいろと考えます。
こうやって文章を書きながら、考えたり。
こういう時間は大切にしたい。
無理矢理そういう時間を取られてしまうこと自体が、孤独を好む人からするとストレスなのですね。
また吉本さんは「社会を交わること」=「いいこと」という考えの偽善性みたいなものについても感じているようです。
この社会通念に皆が従わなければいけない=同質化ということへ吉本さんが感じる偽善性は、本著でも触れていますが、戦前・戦中・戦後を生きてきて社会の考え方がドラスティックに変化したことを目の当たりにしているからかもしれません。
「ひきこもり」=「悪いこと」ってほんとにそうなの?という吉本さんの社会通念に関する疑問提示の姿勢というのは、やはり社会が大きく変わったことを経験しているからこそなのかもしれません。

「ひきこもれ -ひとりの時間をもつということ-」吉本隆明著 大和書房 ハードカバー ISBN4-479-39095-2

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2013年4月19日 (金)

「ライジング・ドラゴン」 自分にとってのリアルヒーロー

「ジャッキー・チェン最後のアクション大作」と銘打たれたのが、本作。
日本でジャッキー・チェンブームとなった頃より、ファンである自分としては観に行かないわけにはいかない。
ちょうど小学生高学年から中学生くらいだったので、「酔拳」とか「蛇拳」とかのジャッキーのマネとかをしていたわけです。
子供の頃の自分のリアルヒーローであったわけですね。
それから30数年が経過し、ジャッキーも還暦寸前ということ。
それゆえ自分で監督し、思いっ切り自分の出自であるアクション映画を撮ったということでしょうか。
全編観終わって・・・。
やっぱ、ジャッキー、カッコいい!
リアルに僕にとってのヒーローですわ。
最初の全身ローラブレード状態でのアクションから見応えあり。
ジャッキー・チェンはそれまでの香港アクション映画を、というより世界のアクション映画を別次元に持っていった人だと思います。
それまでのカンフー映画は、伝統的なアクション、いつもと同じようなストーリー、日本のテレビ時代劇のような感じであったんですよね。
けれどジャッキーが自ら映画を作るようになってからは、それは変わりました。
その辺にあるようなさまざまな道具を使うトリッキーなアクション。
丁々発止の殺陣の中にも、笑いの要素を取り入れるセンス。
カンフーだけにとらわれず異種格闘技戦にも果敢に挑みます。
世界を股にかけてロケをし、また時代ものから未来ものまで幅広くチャレンジ。
ジャッキーの本質は、類いまれなチャレンジ精神、あふれるアイデアなのですよね。
冒頭のローラーブレードアクションなどはよくこんなことを思いつくなと思いました。
けれど同じようなアイデアを思いついても、これを自分でできるのはジャッキーくらいじゃないかなとも思ったりして。
オープニング以外にもジャッキーのアクションはどれも見応えあります。
無人島のシーン、敵のアジトでのシーン。
どこのアクションシーンをとってもアイデアがある。
溢れんばかりのジャッキーのサービス精神に感服してしまいます。
なかなか言葉では表せない。
観てみて!としか言えないなぁ。
年齢からすると「最後のアクション大作」になってしまうかもしれないのですが、でもできればジャッキーの大活躍はもっと観たい。
また「最後のアクション大作」って言ってもいいですから、ね。

映画を観た後、そのままジムの格闘技エクササイズへ。
気分はもうジャッキー・チェンになっていたのは言うまでもありません。
小学生の頃からまったく成長していない自分・・・(笑)。

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2013年4月14日 (日)

「舟を編む」 大海を渡る拠り所

言葉は海。
それは海の如く広く大きい。
ずっとそこにじっとあるように見えるけれども、海を作る海水は常に入れ替わるかのように移ろうもの。
人はコミュニケーションを行うときに、その広大な海を泳ぎ、渡る。
海を渡るときに拠り所となるのが、舟。
言葉の海を渡る時の拠り所が辞書である。
本作はその舟を何年もかけて作り上げた人々の物語。

予告を観たときは、辞書編集に携わる変わり者の主人公、馬締(松田龍平さん)と、香具矢(宮﨑あおいさん)の恋物語的なお話かと思っていたのです。
もちろんその要素はあるのですけれど、それは本筋ではないのでした。
冒頭に書いた舟=辞書を作る作業というのは、十数年もかかる大事業です。
まさに人生をかける仕事と言ってもいいかもしれません。
そしてその舟は一人の力でできるような代物ではなく、多くの人が関わり、多くの時間をかけて作られるのです。
それこそ大海を渡る舟がたった一人の力ではできないように。
馬締だけではなく、本作に登場する辞書を作ることに関わった人々の想いが、その舟には込められている。
一大事業であるその仕事に、自分の人生をかけてもいいと思った人々の想い。
加藤剛さんが演じる「大渡海」の監修者松本先生、一見チャラい男のように見えながらもその実は辞書への強い想いを持っている西岡(オダギリジョーさん)、それこそ会社人生すべてをかけた編集者荒木(小林薫さん)、その他関わった登場人物の想いがその一冊の舟に込められている。
一つの仕事にそういう強い想いをもって取り組めるというのは、しんどいながらも幸せな時間なのだなと思いました。
馬締の下宿先の叔母さんが言ったように。
周囲から変人扱いされている馬締は、何も感じていないとか、想いがないという人ではないのですよね。
というより強い想いはあって、それをうまく人には伝えられないだけ。
彼にも自分の気持ちを人に伝えたいという気持ちはたぶんあって、だからこそ言葉を扱う仕事を自分の一生の仕事と定めたのでしょう。

自分の感じたこと、考えたことを伝えたいっていう気持ちは誰にでもあるんではないかなと思ったりします。
少なくとも自分にはあって。
仕事もコミュニケーションに関わることをやっているし、こうやってブログなどをシコシコ書いているというのもたぶんそういうことから来ているのだと思ったりします。
でもなかなか感じたこと、思ったことを言葉にするのは難しい。
こうやって書いていてもなにかもどかしいことってあるのですよね。
自分の感じたことがそのまんま言葉になっているのか、そして人に伝わっているのか。
言葉って、ほんとに一言を変えただけでずいぶんと印象が変わってしまうことがありますね。
だから言葉って難しい。
けれどだから言葉って面白い。

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「トラベラーズ 次元警察」 坂本監督の趣味爆発

大好きな坂本浩一監督の作品、1週間限定公開ということで初日に観てきました。
観に行ったらマスコミの方もいらっしゃる・・・、舞台挨拶付きだった!
ということで、監督と出演者の方々のトークが映画の前にありました。
そちらについては後ほど。
あと念のため。
今日の記事は、特撮にあまり興味がない方はまったく意味が分からない内容だと思われます(笑)。

坂本浩一監督と言えば、最近では「大怪獣バトル ウルトラ銀河伝説 THE MOVIE」や「仮面ライダーW」の劇場版の監督、また「仮面ライダーフォーゼ」のメイン監督、そして現在は「恐竜戦隊キョウリュウジャー」のメイン監督を務めている、現在の日本の特撮界において大きな役割を担っている方。
「ウルトラマン」「仮面ライダー」「スーパー戦隊」をすべて監督している方って他にいるんですかね?
元々は「スーパー戦隊」シリーズのアメリカ版「パワーレンジャー」シリーズをアメリカで撮っていて、その後、日本で活躍しているのは上に書いた通り。
ワイヤーアクションや、手数の多いスピード感あるアクションなど日本のアクションにも新風をよんだともいえますね。
主演を飾るのは長澤奈央さん、そしてそのバディ役で木下あゆ美さんという、坂本監督の二人のミューズ。
お二人は今までも坂本監督作品によく出演しています。
長澤さんは「忍風戦隊ハリケンジャー」でハリケンブルーを、木下さんは「特捜戦隊デカレンジャー」でデカイエローを演じています。
おそらく坂本監督はアメリカで「パワーレンジャー」を作っている時に日本のオリジナルの「ハリケンジャー」と「デカレンジャー」を観て、二人を見初めたのではないかと。
坂本監督が女優さんを起用する時のポイントは、美脚(笑)と体が動かせること。
美脚については今までの作品も、この作品も見てわかるように、脚なめカットが坂本監督は異様に多い。
僕もどちらかと言えば美脚好きなので、その点は共感しますです(爆)。
あと坂本監督は女優さんに限らず、出演者に素面(特撮ものでいう変身前の状態のこと)でのアクションを求めることが多いですよね。
なるべく吹き替えは使わずに、役者さんにアクションをやってもらう。
そのため坂本監督は体を動かせる役者さんを好みます。
その点でいうと、長澤奈央さんはまさに坂本監督好みの女優さんでしょう。
本作を観ればわかりますが、アクションシーンの多くをご本人がやられていますね。
ハイキック連打などは「フォーゼ」のゲスト出演のときにも見せていましたが、やはり見事です。
坂本監督が役者さんにアクションをしてもらうのは香港映画の影響ですかね。
ご本人はジャッキー・チェンが好きと発言していますが、ジャッキーもけっこう女優さんにアクションをさせましたよね。
アクションシーンで当てたところを、もう一度スローで再生するところなんかは香港映画風味が出ています。
今回はオール台湾ロケということ、背景も中華色があるので、よりそんな感じがしました。
セクシーカットもありーの、オイルでてらてらカットありーの、拷問シーンありーの、で思いっ切り坂本監督の趣味爆発な映画でした。
なかなかこれは日アサではできないですよね(笑)。
ある意味、ほんとに「良い子は見ちゃだめ」的な(爆)。
映画としては、オリジナルのSF的な脚本を映像化していますが、欲をいえばもう少しSF表現などはクオリティがあがっていると良かったかなと。
ただ予算的には厳しいところもあったでしょうし、その中で日本ではなく台湾でCGをやったりしたのは新たな試みだと思いました。
あと驚いたことが一つ。
悪役は島津健太郎さんという役者さんがやっています。
特撮ものとか、B級チックなアクションものでお顔は見かける方なのですが、初めてお名前を知ったのですが、この方アクションシーンをけっこうご自分で吹き替えなしでやっているんですよね。
ワンカットで実際に当ててるアクションとかやっているように見えました。
これを書く前にプロフィールを調べたら、特技が実践拳法、殺陣とありました。
なるほど、納得・・・。
万人ウケする作品だとは思いませんが、坂本監督ファンであるならば一見の価値はあるでしょう。

で、舞台挨拶の件。
最初に書いたように舞台挨拶があることを知らなかったので、けっこうびっくり。
わー、生坂本監督だ、長澤奈央さんだ、木下あゆ美さんだーと内心、盛り上がっておりました。
坂本監督の現場は明るいと言うのを本とかで書かれているのを読んだことがありますが、ほんとそういう感じがする方ですね。
長澤奈央さんはイメージ通り、ハリケンジャーの七海の雰囲気そのままな感じですね。
木下さんは役ではクールなイメージがありますが、雰囲気は逆でちょっと天然チックな感じがある雰囲気。
「フォーゼ」の劇場版で演じていた役の雰囲気に近いかも。
あと重要な役で、長澤さんと同じく「ハリケンジャー」出身の山本康平さんも出演していて、舞台挨拶をされていました。
挨拶の最後で、長澤さんと山本さん、そして坂本監督で「ハリケンジャー」の変身ポーズを決めていました。
「ハリケンジャー」の10周年作品も期待しておりますです。

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2013年4月13日 (土)

本 「ローカル線で行こう!」

久しぶりに読んだ真保裕一さんの本。
真保さんの作品だと「連鎖」「取引」などの通称「小役人シリーズ」などが好きですね。
「小役人シリーズ」は日頃僕らがよく知らない職業の登場人物を主役にし、それとミステリーをミックスするというスタイルでした。
よく知らない職業の中身についてかなり取材をし、それに関わる人々を描くというところは最近ジャンルとして確立してきている「お仕事系」の走りだったかもしれません。
最近のその手の作品よりはミステリー風味が入っている分、シリアスではありましたが。
その後、人の情愛とか、社会的にもシリアスなテーマの作品を多く手がけていましたが、本作は久しぶりにライトな感じのテイストの作品になっていました。
僕が読んだ真保さんの作品の中では「ダイスをころがせ!」に近いかな。
「デパートに行こう!」とテイストは似ているようですが、そちらのほうは未読です。
本作は最近の「お仕事系」の系統に近く、地方の第三セクターのローカル線の社員たちの奮闘記という話になります。
それに真保さんらしいミステリー的な要素がからみます。
とはいっても人が死ぬといった深刻な話ではありません。
最近の真保さんのシリアスさとは違い、ライトな感覚で書かれているのでスルスルと読める作品です。
読後感も爽やかですね。

「ローカル線で行こう!」真保裕一著 講談社 文庫 ISBN978-4-06-218217-1

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2013年4月 7日 (日)

「推理作家ポー 最期の5日間」 ミステリー好きのための

劇場で見逃したので、レンタルで観賞。
主人公は「モルグ街の殺人」などの作品がよく知られる、かの有名なエドガー・アラン・ポー。
彼は推理小説というジャンルを作った作家として知られています。
日本の推理小説作家江戸川乱歩の名は、エドガー・アラン・ポーをもじってつけられたというのは有名な話です。
僕はけっこう推理小説を読む方で、江戸川乱歩やコナン・ドイルあたりまではけっこう読んでいます。
ただ「モルグ街の殺人」など有名な作品でもポーの小説はまだ読んだことがないのです。
もちろん名前は知ってはいますが、その人となりもよく知りませんでした。
1849年にボルティモアで瀕死の状態で発見され、そのとき「レイノルズ」という意味不明の言葉を遺し、そして死亡したということも。
なぜ彼はボルティモアにいたのか、「レイノルズ」という言葉(名前)は何を指しているのかということは明らかにされず、その死は謎に包まれているようです。
本作は、その実際のポーの死で遺された謎を解き明かす内容となっています。
ということなので、この作品はポーの人となり、そしてその死の謎を知っている人が観ると、「なるほど、そう解釈したか」というように楽しめたのだろうなと思いました。
残念ながら、僕はあまり知らなかったので、その辺を楽しめなかったのが残念なところでした。
公開も終わっているのでネタバレさせちゃいますが、犯人はポーのファンでもある、新聞社の活字組工レイノルズ。
彼は作品をあまり発表しなくなったポーに作品を書かせるため、また自分の行為が彼の作品に反映されるということへの欲望のために、ポーの作品にちなんだ連続殺人事件を起こします。
作家等有名人への愛情が高まるあまり、彼らに対してストーキング的な行為に及ぶというのは、「ミザリー」「ザ・ファン」などの恐怖小説の定番の形式ですね。
また書き物にあわせて殺人事件が起こるというのもかなりの定番。
アガサ・クリスティーや横溝正史の作品でも歌に合わせて殺人事件が起こるということが描かれています。
そういう点で本作は推理ものの王道中の王道であると言っていいでしょう。
また「レイノルズ」は犯人の名前そのもので、それこそがポーのダイイング・メッセージでした。
ダイイング・メッセージということも推理小説ではよくでてくるキーワード。
また最初の殺人事件が起こるのもポーの小説でも描かれている密室殺人事件です。
このあたりの設定なども推理ものの定番です。
ミステリー好きにとっては定番の設定の中に、そのミステリーの開祖であるエドガー・アラン・ポーがいるというのが、興味深いところかもしれないですね。
ですので、本作はミステリー好き、なかでもポーの作品に触れたことのある人向けの作品なのかもしれません。
そうそう、この作品の原題の「The Raven」はポーの代表的な詩である「大鴉(The Raven)」と同じ。
作品中でも各所に鴉のモチーフが出てきました。
このあたりもポーに関してマニアックなところが出ていましたね。

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2013年4月 6日 (土)

本 「道草」

こちらは夏目漱石の晩年の作品で、自叙伝のような作品と言われています。
本著の主人公である健三は漱石が自分自身を描いていると言えます。
この作品で描かれている健三の状況は漱石が「吾輩は猫である」を執筆していた頃の様子であるらしいですね。
この作品で漱石は、健三=自分自身を突き放して客観的に見ていますが、健三の人物像は好人物としては描写されてはいません。
健三の人物は、プライドが高く、その割に気が弱いところもあり、他人にごり押しされてしまうとそれを飲んでしまうところがあります。
しかも相手に従うこと自体に対して、自分としてなにかへ理屈をつけて、ごまかそうとするところもあります。
そしてそういうふうにごまかそうとしていること自体への漱石の自覚もあってそれに嫌気を感じ、健三という人物には批判的です。
また細君との関係に付いても、愛情は持っていないわけではないですが、それを言葉などに表すことはありません。
細君の健三への態度が冷たく感じるのも、細君への健三の思いやりのなさの裏返しなのですが、それに気づいていながらも、それを素直にすることができない。
また女は男にへりくだるものだという古来の考え方と、留学もした経験もあるなかでの進歩的な考え方の折り合いがつかず、口では進歩的なことを言いながらも、行動は旧態然としています。
これにも自覚はあって、それが漱石の健三の描写がネガティブになっているのだと思われます。
作品全体を通じて、健三は世の中をやや斜にかまえて見ていて、それに対してなにかしら言いたいことはあるようですが、実際には行動を起こさず、なにか流されている感があります。
批判はすれども、行動せずというようなところが健三にはあり、それが漱石自身の自己嫌悪感の表れと見ることができるでしょう。
実際、「吾輩は猫である」「坊っちゃん」など漱石の作品は世の中を斜にかまえて見ている感はあります。
そういうものを書きながらも、自分の周囲のことには何も手をつけることをせず、書くことに逃避していることを漱石は自覚していていて、それに自己嫌悪を感じていたのかもしれません。

僕は古典はそれほど多くは読まないのですが、夏目漱石の作品はなんだかんだと読んでいます。
なんで読むのかなと自分で思ったりするのですが、なんとなく漱石の性格と自分の性格が似ているのかもしれないとも思いました。
本作で漱石が描写する健三の人物像というのは、自分自身が自己嫌悪をするときに感じるものと似通っていて、読んでいて非常にイタいところをついてくるなと思いました。
もしかすると人は少なからずこういうところはあって、だからこそ漱石が長い間読まれているのかもしれませんが。
なかなか自分の性質のイタいところをまっすぐに見つめるというのは、なんとなくは感じていても普段なかなかできるものではありません。
漱石がこの作品を書いたのが晩年だというのも、やっと自分自身をしっかりと見ることができるようになったからとも言えるかもしれません。

「道草」夏目漱石著 新潮社 文庫

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