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2013年3月31日 (日)

本 「二流小説家」

売れない小説家、ハリー・ブロックはあるとき、刑務所に収監されて死刑を待っている連続殺人鬼ダリアン・クレイからある依頼を受けます。
彼の自叙伝を執筆できることになるわけですが、そのためには彼のために小説を書くことを条件とされます。
その小説を書くために取材を続けると、その相手が次々にダリアンの手口で殺害されていきます。
ダリアンは刑務所から一歩も出ていない。
これは別の犯人なのか、そうするとダリアンは無実なのか。
そしてハリー自体も何ものかに狙われる・・・。

書店を流していて、ふと目について手に取った作品です。
上川隆也さんで映画化されると帯にありました。
ダリアンの手口はかなり猟奇的で、読んでいるとけっこうしんどいところも。
これ、そのまま映画化するのかな?
主人公のハリーは自分自身で一流ではないという自覚がある人物。
そのため、なんというかやる気がない、はたまた自虐的である側面を持っている人物です。
そのあたりはミステリーにおいて結果的には探偵役となる役割になる人物としては珍しいかもしれません。
ミステリーとしても2転、3転するのでおもしろくないわけでもありません。
でも、個人的には、夢中になって読んだという感じにはなりませんでした。
やはり主人公のある種の冷めた感じというところが気になったのかもしれません。
そこが本作のミソではあるのですが、そもそもそこのところが自分の性にはあっていなかったのかな。

「二流小説家」デイヴィッド・ゴードン著 早川書房 文庫 ISBN978-4-15-179501-5

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2013年3月30日 (土)

「クラウド アトラス」 歯向かう者たち

登場人物のひとり、若き作曲家ロバート・フロビシャーが作曲するのが「クラウド アトラス 六重奏」。
六重奏とあるように、この映画では6つの時代・場面が渾然一体となって描かれます。
しかしその6つの物語は別ものでありながらも、重奏のごとく一つの曲(テーマ)を紡ぐかのように重ね合わされていきます。
そのテーマとは・・・.
6つの物語に共通している構造とは、人を支配しようとするモノ(者、社会的システム等)に対し、それに支配される者たちが抗うとものです。
1949年の奴隷貿易が行われている時代では、弁護士アダムは奴隷貿易の実情を目にし、またその奴隷の命を救い、また救われることにより、奴隷制度という社会的システムと、それを担う階級の権力者たちに対して抗おうとします。
1936年のロバート・フロビシャーは、自分の曲を自分のものにしようとする老いた作曲家ビビアン・エイズに反抗します。
エイズとフロビシャーの関係は師匠と弟子のようなものですが、搾取する側とされる側といった奴隷制度に似た関係性が見いだせます。
またフロビシャーはこの時代ではまだ社会的には忌みな存在であるホモセクシュアルであり、その点でも社会的弱者であったと言えるでしょう。
1973年では原発を巡る陰謀が描かれますが、石油を通じてエネルギー支配を続けようとする石油メジャーが支配を行うモノであり、その仕組みに気づいた記者や科学者たちが企業の放った殺し屋に命を狙われます。
女性記者ルイス・レイは果敢に原発に絡む陰謀を探り、企業に対して追求を行います。
2012年の現代は他の物語に比べコメディな感じもありますが、同じように支配される側とされる側の構造が見られます。
支配される側が老人介護施設の職員たちで、中でもヒューゴ・ウィービングが演じた女(!)看護師ノークすがその筆頭になります。
その施設から脱走を企てようとするのが、カペンディッシュら老人たちです。
これも支配する側へのささやかな反乱です。
そして未来の2144年のネオ・ソウル。
ソンミ451らクローン人間たちは(純粋な)人間に、労働力として支配されていました。
しかしそういった社会システムに対し、反政府組織が立ち上がろうとしていました。
ソンミ451はその組織のメンバーと恋に落ち、そしてクローンの実情を目撃することにより、やはり立ち上がるのです。
さらに未来の2321年、文明は崩壊し、人類は細々と生きていました。
孤島で原始時代さながらに生きている者、また文明を小規模ながら保ちながら生きていくもの。
この未来で登場人物たちを支配しているのは、まさに破滅への道を歩み始めてしまった地球の「運命」。
逃れられない運命の支配に、ザッカリーとメロニムはささやかながらも抵抗をするのです。
このように6つの時代で描かれるのは、圧倒的な支配力を持つ社会システムや人々に対し、被支配者がささやかながらも反抗を行うというものです。
その反抗は成功するものもあれば、失敗するものもある。
劇中でルイスがこう言います。
「なぜ人類は同じ過ちを繰り返すのか、何度も何度も」
まさにそれをこの物語では描いているのです。
社会を秩序だって運営するには、ある種の構造が必要になります。
しかしそれがどんどん洗練されていけばいくほどに、支配ー非支配という関係性が生まれてくるというのは歴史が表しているところです。
この支配ー非支配の関係性が極限までいくと、反乱・革命という事が起こり、社会システムが大きく変わります。
しかしその新しい社会システムもまたしだいに支配ー非支配の関係性を生み出していきます。
まさに人類はこれを繰り返しているわけです。
けれども支配ー非支配の関係性が強くなったとき、それに歯向かう者が出てくるのが人類でもあります。
それにより社会がさらに革新性をもったものになっていくのかもしれません。
6つの物語の多くで、支配側を演じていたのはヒューゴ・ウィービングでした。
ヒューゴ・ウィービングと言えば思い浮かべるのは、「マトリックス」のエージェント・スミスですが、まさに本作での彼はエージェント・スミスと同じ役回りと言っていいでしょう。
「マトリックス」もシステムに対しての人間の反乱の物語でした。
本作の共同監督は「マトリックス」のウォシャウスキー姉弟(兄弟ではない)であり、物語のテーマにおいて共通点が見いだせますね。
タイトルにある「アトラス」はギリシャ神話に登場する神「アトラース」からきているのでしょう。
「アトラース」の語源は「支える者」・「耐える者」・「歯向かう者」という意味ということです。
まさに本作の6つの物語で描かれるのは、支配に耐え、さらには歯向かう者たちを描いていました。
調べてみて納得した次第です。

本作3時間近くにおよぶ長尺、またウォシャウスキー姉弟とトム・ティクヴァの共同監督ということで、ちょっと観るのを躊躇してしまいました。
この3人の監督だと、下手をすると自己満足映画になる可能性もあるなと。
それを3時間見せられると苦しいかも、なんて。
また6つの時代の物語をまたぎながらということは知っていたので、けっこう最初から気合いを入れてみました。
最初のうちは6つの物語をまさに股にかけるようにカットが変わっていくので困惑しましたが、なんとなく上に書いたようなことが感じられてくると、その視点で観ていけたのでついていけました。
テーマに対しての青臭い感じもある姿勢と、やはり払拭し切れてはいない自己満足感はありつつも、3時間を見せ切った感はあり、集中力は途切れることなく最後まで観ることができました。

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2013年3月26日 (火)

「ジャックと天空の巨人」 正統的な冒険譚

ブライアン・シンガーによる、おとぎ話「ジャックと豆の木」の映画化作品です。
「ジャックと豆の木」は子供の頃読んだはずですが、あんまり細かいところを覚えていませんでした。
覚えているはジャックの家から豆の木が雲の上まで伸びていって・・・、ということくらい?
巨人が出てくることすら覚えていませんでした。
なのでブライアン・シンガーが映画化すると聞いたときは、けっこうしみじみとしたものを題材として選ぶなぁという印象でした。
おとぎ話の映画化作品って、「とても面白い!」てものもあまりありませんでしたし。
それでも観てみたら、なかなかどうして面白い冒険物語になっていました。
主人公のジャックは農民で日々の単調な生活を送っていますが、冒険に憧れを持っている若者です。
また王国のプリンセス、イザベルも過保護なお城の生活には飽き足らず、冒険をしたいと思っている女性でした。
ジャックが偶然、風変わりな豆を手に入れ、それの一粒が雨水に晒されて、瞬く間にニョキニョキと空にめがけて伸びていきます。
城から抜け出していたイザベルは豆の生長に巻き込まれ、空の彼方へ連れ去られていってしまったのです。
そこからジャックとイザベルの冒険が始まります。
本作はとてもテンポがよくできていると思いました。
最近はこういうおとぎ話の映画化だと現代人が納得するような解釈を映画の中でも入れるため、冗長になったりする傾向があります。
本作はそういったところがなく、冒険、冒険、また冒険といった感じで、おとぎ話や、昔の冒険映画を観ているようなワクワク感があります。
そういう点で正統な冒険ものという感じがしました。
プリンセスの救出、裏切り者の陰謀の阻止、巨人VS人間の戦いなど、それぞれお話にできそうなものを詰め込んでテンポが途切れることなく一気に見せるサービス精神が感じられました。
登場人物のドラマパートは最低限で、そのためステレオタイプのキャラクターの描き方とも言えなくものいないですが、わかりやすくテンポ良く見せるためだと思うのでそのあたりは気になりませんでした。
逆に安心して観れるようなところはありましたね。
キャスティングもそういうところがでていて、スタンリー・トゥッチの裏切り者の貴族とか、ユアン・マクレガーの忠誠心が高い騎士とか、わかりやすい。
この人はいい人、あの人は悪い人とわかりやすいので、素直に冒険譚を楽しむことができました。

巨人はビル・ナイだったんですね〜。
エンドロールまで気づきませんでした。
しかし、本作で巨人が人間をパクッといくところは、コミックの「進撃の巨人」を思い浮かべましたよ。

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2013年3月25日 (月)

「ビブリア古書堂の事件手帖」 剛力さんの栞子はアリ

久しぶりに毎週放送を楽しみに待っているというドラマでした。
ブログのタイトルでは映画としていますが、映画を観ることと同じくらいに本を読むことが好き。
出かけるときは、文庫と雑誌を必ず持って出歩いています。
ですので、本を題材にしたミステリーということで興味を持って、観始めました。
もちろん原作本の存在は知っていましたが、ドラマが始まるまでは読んでいませんでした(ドラマを観始めてから1巻めを読みました)。
ですので、今回の記事はドラマ版についてのレビューとなります。

まずこのドラマを語る上で避けて通れないのはキャスティングでしょう。
主人公の古書店主、篠原栞子を演じるのは剛力彩芽さん。
原作のファンの方は、イメージが全然違う!と言う方も多いでしょうね。
僕も原作の1巻を読みましたが、イメージは違いますよね。
原作の栞子は五浦よりも年上の設定に対し、ドラマは年齢不詳ですが、年上って感じではないですよね。
あと原作の栞子のビジュアルイメージは、本のイラストの影響が強いと思いますが、長い黒髪で、やせているけれど巨乳(笑)。
剛力さんは短髪ですし、それほど胸が豊かってわけでもない(爆)。
そもそも剛力さんはヤマザキのランチパックのCMのように元気ってイメージが強く、栞子の清楚で人見知りな感じとは真逆のようにも思います。
そういうことでドラマは原作小説とイメージが違いすぎ!って言う方もいらっしゃるでしょう。
けれど僕はドラマから入りましたが、剛力さんの栞子はアリだなと思って観ていました。
僕も剛力さんは元気一杯なイメージだけがあって、それほど演技は上手いとは思っていませんでした。
けれど本作で今までとは違うイメージの役をやっていましたが、僕は非常に上手く演じていたと思うのですよね。
微妙な表情とかも上手く出していたと思います。
そして剛力さんが演じているからか、ドラマの栞子は原作よりも意志が強く、また行動力もあるように思いました。
これはテレビドラマという媒体だから動かざるを得なかったということもあるでしょうが、原作とは違う栞子を上手く作れていたと思います。
ドラマを観てから原作の1巻を読んだら、栞子がずっと病院のベットから動かないので、逆に驚きました。
また原作の栞子は本に関してと、そうじゃないときに、二面性を強く出している感じがありました。
小説、アニメだとこのギャップはありかと思いますが、ドラマだとこの二面性を出し過ぎるとややマンガくさくなってしまう。
ですので、ドラマの栞子は一貫して本に対して一途で、それに対して強い意志と行動力を持っている人物として描かれたように思います。
剛力さんの栞子に長く語ってしまいましたが、他の部分に目を向けてみましょう。
原作は本を題材にしたミステリーとして、とても面白いところに目を向けている作品だと思います。
各エピソードが、本好きにはたまらないネタに詰まっています。
そのネタを使いながら、ドラマ版はもっと登場人物に深みを与え、まさにドラマにしているんですね。
あと前半は栞子の本への執着、そして後半は母親との関係を縦軸にして1クールを一繋がりとしてうまく構成しているのもうまくできているなと思いました。
ドラマを観てから原作を読むと、ややライトノベル的な薄さみたいなものは感じました。
それは人物の描き方の浅さによるものだと思いますが、それをドラマ版は厚みを出していました。
ミステリー的な味付けについてもドラマ版の方がより凝って作っていたと思います。
人物の描き方、ミステリー的な味付けが思いのほかしっかりしていて毎回楽しみに観ることができました。
こう書くと、ドラマの方が良くて、原作ダメと言っているように思う方もいるかと思いますが、違います。
小説は、本を題材にしたミステリーという発想自体がとてもユニークだと思います。
ネタとなっている作品とそれに関わる謎の根幹も原作を元にしているわけで、それが面白いからこそドラマも面白くなったと思います。
ただし小説は小説という媒体、ドラマはテレビという媒体を使って伝えるわけであって、その媒体に合わせた表現方法になるべきです。
そういう点でドラマ版は原作の良さをうまくテレビという媒体に合わせて変換したと言えると思います。

そうそう。
上で書いたことと全然関係ないですが・・・。
ドラマに登場する藤波さんというキャラがけっこう好きで(ドラマのオリジナルかな)。
この人だけが突拍子もなくて、ある種のコメディパートを受け持っているわけですが、ドラマでのアクセントになっていたと思います。
藤波さんが出てくるとなにかニンマリしちゃうんですよね。

原作小説「ビブリア古書堂の事件帖 -栞子さんと奇妙な客人たち-」のレビューはこちら→

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2013年3月24日 (日)

「シュガー・ラッシュ」 ゲームをするワクワク、映画を観るワクワク

ディズニーはピクサーを買収してから、映画の質があがったと思います。
形としてはディズニーがピクサーを買ったということになりますが、ピクサーの作品作りの姿勢が、ディズニー本体にも良い影響を与えているのでしょう。
具体的にはピクサー出身であるジョン・ラセターがピクサーとディズニー両方のチーフ・クリエイティブ・オフィサーになったということが大きいのかなと思います。
ラセターはピクサーで社員が自由に意見を言い、また妥協をせずクリエイティブの質を上げることを行ってきました。
そういう姿勢がディズニーにも浸透したのでしょう。
もともとディズニーはクリエイターの質は高く、それが自由に表に出てくるようになったということかもしれません。
本作「シュガー・ラッシュ」はクリエイターがイキイキと映画を作っているという感じが伝わってくる楽しい映画でした。
色彩豊かでポップでキュート、躍動感があって。
まさにアニメーションの持っている力の本質をストレートに出した作品だと思います。

「シュガー・ラッシュ」の題材になっているのは「テレビゲーム」。
タイトルの「シュガー・ラッシュ」とはこの映画オリジナルのお菓子の国のレースゲームのこと。
この映画では、人間が見えないところで、実はゲームに登場するキャラクターたちは生命を持って生きています。
ゲームの悪役のサークルなどがあって、悪役たちでお互いの悩みを語り合うなんてこともしています。
本作は「トイ・ストーリー」のゲーム版と言われることもありますが、それは人が見えないところで架空のキャラクターが実は生きているっていう共通点からくるのでしょう。

テレビゲームと言えば、僕はまさにその発展とともに成長したと言っていいかもしれません。
小学生の頃がちょうどインベーダーゲームブームでした。
中学生の頃は「ゼビウス」とかナムコのゲームをゲームセンターでやっていて。
その後、浪人生のときがドラクエでしたかね、ちょうどファミコンブームの頃だったと思います。
社会人になる頃は「ストリートファイター」などの対戦ゲームが流行ったときでした。
最近はあまりゲームをすることはなくなりましたが・・・。
けれど、この映画はなんともノスタルジックさみたいなものを感じたんですね。
やはりこれは「トイ・ストーリー」に感じた感覚と似ているかもしれません。

本作では日本人としてもお馴染みのキャラクターがカメオで登場しています。
「パックマン」のお化け(?)とか、「ストリートファイター」のベガとか、「マリオブラザーズ」のクッパとか・・・。
ザンギエフも出てましたが、悪役扱いじゃかわいそうだろ、と突っ込みたくなりました(笑)。
主人公ラルフが登場するゲームは「フィックス・イット・フェリックス」というオリジナルのゲームです。
これは30周年を迎えるいうことで昔ながらの8ビット感溢れるゲームだというところが、なんかノスタルジックです。
主人公がそもそもノスタルジックさを持っているというのは、やはり「トイ・ストーリー」のウッディと共通しているかもしれません。
「フィックス・イット・フェリックス」には「ドンキーコング」とか「クレイジークライマー」というゲームの影響が伺えますね。
「クレイジークライマー」は好きなゲームだったんですよね(今考えるとけっこうシュールな設定だけど)。
このゲームの住人たちは8ビット感溢れる動き方(向きを変えるときぴょこっとした動きをする)をしたりするのが、芸が細かい。
対して最新鋭の主観視点シューティングゲーム(これもオリジナル)「ヒーローズ・デューティ」なども絡んできていますが、これは「Doom」のようなイメージですが、登場するキャラクターは高精彩で動きもスムーズ。
この辺りの描写の違いも細かいです。
30年経つゲームのキャラクターと最新鋭のゲームのキャラクターの交流が起こるというところもウッディとバズの関係を想起させますね。
本作のストーリーは王道の形ではありますが、だからこそ見ていても安心感がありますし、予定調和とは言え、ハッピーエンドに終わるのも気持ちがいい。
かつてコドモだった大人から、子供まで楽しめる作品になっていたと思います。
観終わって「ああ、楽しかった」と素直に言える作品でした。
ゲームをしていたときのワクワク感、映画を観ているときのワクワク感、そういうのがとても良く出ていました。
この安定感、ディズニーはピクサーと同質化してきている感じがしますね(いい意味で)。

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2013年3月23日 (土)

本 「未曾有と想定外 -東日本大震災に学ぶ-」

本著は「失敗学」で知られ、また「原発事故調査・検証委員会」委員長を務めた畑村洋太郎さんの著書です。
「未曾有」と「想定外」、この言葉は東日本大震災の時に多く聞かれました。
「未曾有」とは曾てなかったこと、「想定外」は予想していた範囲以上であったということですね。
今回の地震で東北から関東を襲った大津波ですが、これは「未曾有」でありません。
なかでも三陸海岸は歴史をひも解いても何度も大津波に襲われたことがわかっています。
畑村さんによれば、三陸海岸には山側にいくつか石碑があり、そこにはその地点まで津波が来た、ここより下には家を造るなと記されているそうです。
津波に襲われた当時の人は子孫に対し、そのような警告をしたわけですが、それは忘れられてしまい、沿岸部まで家が造られていきました。
畑村さんは人は利便性を求めるものだから家を便利なところに建てるということをやめることは難しいだろう、ただし津波はいつかはくるものなので、そういうリスクがあることを忘れずに暮らさなくてはいけないと言います。
「未曾有」という言葉が多く使われたということは、人が曾ての災害を忘れてしまっていたということの証左かもしれません。
原発事故については「想定外」という言葉が多く使われました。
特に使っていたのは電力会社や政府だと思います。
ではその「想定」とはどのようなものだったのか。
その「想定」は国の定めた安全管理基準なわけですね。
原発はできた頃から反対も多く、そのため原子力を推進する側は「絶対に安全」と言い、そのために国は安全管理基準を定めました。
しかしいつからか「安全管理基準を守っていれば安全」というようになってしまったのですね。
それが「想定」の範囲内なわけです。
しかし、自然の力は人間の力や想像力を遙かに越えます。
様々な研究結果(津波の危険性や断層の問題は指摘されていた)などが出てきた場合は、安全管理基準も合わせて上げていく必要があるわけです。
今回の原発事故は管理者側にとっては「想定外」だったのかもしれませんが、そもそもの「想定」自体が非常に甘いものであったと考えられます。
この本を読んで、こういったことは災害だけに限らないなと思いました。
何年か前に仕事で大きなトラブルが発生しました。
それは当時は「未曾有」であり「想定外」であったものでした。
そのトラブルに対しては関係者が力を尽くし対応し解決したわけですが、あとで考えてみると「未曾有」ではありましたが「想定外」ではなかったと思います。
そういうこともありうるという「想定」をしていなかっただけなのですね。
起ってしまえば、ここが課題だったとわかるわけです。
そういう経験も踏まえ、マニュアルやフローなどを整備し日々の業務を行っていますし、また新しいことを行うときは様々な側面から検討を行うというクセがついてきています。
そういう意味で「想定」の範囲を広げるようになってきました。
もしさらに「想定外」のことが起こっても、何を最重要と考えるかというガイドが現メンバーには危機感とともに共通認識としてあるので対処できるでしょう。
けれども、自分も含め異動をしたりしたときにそこに残されるのはマニュアルや手順書だけになってしまってはいけません。
今はトラブルを経験している者が多くいるため危機感や恐ろしさが残っていますが、その経験がない者が多くなるにつれ、形骸化していく可能性があります。
そういったときにトラブルが起これば、そのときの人にとっては「未曾有」の出来事になってしまうのです。
災害やトラブルはいつか必ずやってきて、それを「未曾有」の出来事にしないために、知恵や経験といったソフト的なものも継承していかなければならないと改めて思いました。

「未曾有と想定外 -東日本大震災に学ぶ-」畑村洋太郎著 講談社 新書 ISBN978-4-06-288117-3

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「あぽやん~走る国際空港」 お仕事系、好きなんですよね

新野剛志さんの小説「あぽやん」「恋する空港 -あぽやん2-」を原作にしたテレビドラマです。
原作は既読でけっこう好きですね。
基本的にお仕事系はどれも好きなんですけれど。
ドラマは原作とほぼ同じ登場人物が出てきて、エピソードも原作のものを引用していますが、ストーリーは大きく変わっています。
ただキャラクターの性格などは原作に近く、ドラマ用に組み直したという感じですね。
主人公遠藤は伊藤敦史さん。
原作の遠藤はやや冷めている感じがありますが、それはよりはもっと熱く、一生懸命な感じが出ていました。
ドラマ的にはこのくらいの温度がいいかなと思います。
ツンケンしているセンダーの森尾は桐谷美玲さん、彼女はいい雰囲気出ていましたね。
とっつきにくいところとか。
その他のキャストもいい感じだったと思います。
枝元の山本裕典さんのみ原作とはだいぶイメージが違いましたけど。

最初に書きましたが、お仕事系は小説、ドラマ、映画を問わずけっこう好きなジャンルです。
一つはどんな仕事でも、外の人から見ると知らないことがたくさんあってそういうところに純粋に興味が引かれるということです。
本作では旅行会社の空港に常駐する社員センダーたちです。
旅行会社のツアーに参加したお客様を空港でお出迎えして、お送りする役割の仕事ですね。
たぶん海外旅行する方は接したことがあると思いますが、彼らの仕事の内容ってどのようなものか考えたか事はあまりないですよね。
そういう知らない仕事の内容(苦労も含め)というものを知ることができるというのが、こういうお仕事系ジャンルが好きな理由の一つなのかなと思います。
あとこういうジャンルが好きな理由は、多くの作品はその仕事に一所懸命の登場人物たちが出てくること。
その仕事が好きで、またその仕事の意義を感じて、仕事を懸命にやる姿というのに感動しちゃうんですよね。
仕事を生活するため、そのためのお金を稼ぐためと割り切っている方もいるかと思います。
けれどやはり人生の多くの時間を費やす仕事には、自分なりのやりがいを感じれたほうがいいはずだと思うんですよね。
仕事をしていれば、辛いこととか、逃げ出したいことっていうのも多々ありますが、そういうときこういうお仕事系の作品に接するとがんばろうと思えるんですよね。
本作で描かれるセンダーという仕事はあまり普段認識している人はいないと思います。
認識するときは、旅行のトラブルのときに文句を言う相手としてでしょう。
センダーの方たちは普段感謝をされることはあまりなく、クレームのときはとってもたいへんという仕事のような気がします。
けれどそれでもお客様が笑顔で旅立ってくれることに意義を感じている、だからこそ働ける。
主人公遠藤ははじめはその意義がわかりませんでしたが、その仕事を続けるに従って、自分の仕事の意義を感じ、好きになっていきます。
100人のうち99人はその仕事について何の関心がなくても、たった1人の人が「ありがとう」とか「行ってきます」と言ってくれるだけで、やりがいは出てくるものなのだと思います。
そういう言葉が聞きたくてやっているのではないでしょうか。
自分も仕事をしていて、実際のお客様と接するときがあります。
厳しいことを言われることもありますが、またとても喜んでくれる方もいらっしゃいます。
そういうお客様の言葉を聞くだけで、それまでの苦労はフッと飛んでいってしまうんですよね。
また、がんばろうという気分になる。
お仕事系の作品はそういう気分を思い出させてくれるジャンルです。
だから好きなんだと思います。

原作小説「あぽやん」の記事はこちら→
原作小説「恋する空港 -あぽやん2-」の記事はこちら→

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「フライト」 コントロールする

100人以上の乗員乗客を乗せた航空機が突如、制御不能になり、墜落の危機に。
それを機長ウィップがとっさの機転で背面飛行を行い、数人の犠牲者を出したとはいえ、飛行機を不時着させた。
ウィップは一躍英雄と讃えられますが、事故直後の検査によって彼の血液中にはアルコールと薬物反応がみられました。
彼は英雄なのか、犯罪者なのか・・・。
予告で語られたのはこういう内容でした。
ですので、てっきり真実を探るサスペンスかと思っていましたが、違いましたね。
違いましたが、人を描くということでは見応えがある作品だと思いました。
ウィップが実際に職務中にアルコールを摂取していて、また常習的にアルコールや薬物を摂取していたことがわかります。
彼はアル中であったわけです。
ウィップは以前からアルコールを摂取し過ぎることがあり、そのことで家族とも別れています。
そして事故後も何度かアルコール断ちをしようとしますが、しかしそれはいつも自ら破ってしまいます。
彼はパイロットという栄えある職務についており、また大人の男としても立派な佇まいのように振る舞います。
けれどその内面はひどく臆病な男であるということがわかります。
事故後もマスコミの前に現れないのは、人々に彼の嘘がバレるのを恐れるため。
自分が罪に問われることをさけるため、副操縦士やチーフパーサーの元を訪れ自分に不利な発言をしないかを探ろうとします。
そのときも彼は佇まいはいつもの通りで、体面を保とうという姿勢があります。
しかしそこにはときおり臆病さも伺え(このあたりのデンゼル・ワシントンの演技は見事)、彼の弱さを感じさせます。
先ほど書いたように彼は事故後、酒を断とうと何度もしますが、ことあるごとにそれを破ります。
それは心を許した女性ニコールが自分の元を離れようとしたときであったり、事故調査委員会が自分へ疑いの目を向けていると感じるときであったりと、ウィップがとても困難な状況に陥ったときなのですね。
彼は目の間にある困難な状況を自らが対処しようとするのではなく、そこから逃げるように酒を飲むのです。
彼が自宅にも帰らず、祖父の家、友人の家へと転々とするのは、彼が苦境に対して酒に逃げるということとリンクします。
同じように依存症であったニコールがカウンセリングに参加するときに演説者が言っていましたが、依存から抜けるには、自分の状況、つまりは依存症であるということを認識するということが大事です。
これは依存症だけではなく、自分の精神をコントロールするためには、自己を客観的に認識することが重要なのです。
ウィップはこれができなかった。
自分がやってしまったことを直視できず、それから逃げるためにさらに酒に溺れていく。
そういう自分を冷静に見ることができない弱さが彼にありました。
最後の公聴会でも追い込まれ、追い込まれて、自分の中にある最後の罪の意識のところで逃げられず、真実を述べたという感じがします。
彼はそれで初めて自分を客観的に見ることができるようになったのだと思います。
ウィップがトラブルに対処するために、背面飛行に移ろうとしたとき、こう言います。
「大丈夫、コントロールできる」
彼は大変な状況の中で冷静に飛行機の状態を認識したうえで、それに的確に対応することができました。
そのときの彼は機体を自分自身の体のように感じられたのかもしれません。
でも自分自身の体や心、環境は自分自身で思い通りになるわけではありません。
思い通りにならないからといって、そこから精神的に逃げようとするということが依存症なのかもしれません。
逃げても問題はなくなるわけではありません。
問題に対処するには、やはり自分自身を客観的に認識すること。
ウィップが飛行機に対してできたように。

ここまで書いて、購入したパンフを開いたら、
「Flight :
 ・飛ぶこと
 ・逃走、逃亡、敗走」
と書いてありました。
なるほど、ダブルミーニングだったのですね。
深いです。

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2013年3月20日 (水)

本 「ダイナー」

知らない作家さんでしたが、いろんな書店で平積みになっていたので手を伸ばしました。
大藪春彦賞と日本冒険小説協会賞の受賞作品でもあるそうです。
タイトルに「ダイナー」とありますが、本作は客が殺し屋のみの特殊なアメリカンな食堂を舞台としています。
そこにあるきっかけで投げ込まれた女、オオバカナコ。
そのダイナーでウェイトレスをするように言われますが、訪れる客は歪んだ心理の殺し屋たち。
店の中で殺戮が行われるのもしばしば。
いつ無惨な死を迎えてもおかしくないその店でカナコは生き残れるのか・・・。

最初に言っておきますが、この作品、苦手な人は全然ダメだと思います。
けっこう、イタい、グロい描写が多いので、そういうのがダメな人にはお勧めしません。
かくいう僕もそうなのですが。
なので最初読み始めたときは「読むんじゃなかった・・・」と後悔の念に駆られました。
あとは描写が独特な方かなとも感じました。
イタい、グロいところ、また食べ物のうまさの表現は様々な比喩を使ってしつこいくらいに書き込みます。
しかし状況描写などはけっこう簡略されているので、人物がどこにいるとか、誰がどのセリフを言ったとかがわかりにくく「どういう状況?」となったりすることもありました。
そういうやや苦手な部分もありながらも、最後まで、それも一気に読んでしまったのは、その圧倒的なストーリーのパワーがあったからのように気がします。
舞台となるダイナーでは、シェフがこだわりのハンバーガーを出します。
そのハンバーガーはボリュームもあり、濃厚で、ただ食べ始めると止まらないほどのおいしさがあります。
そのハンバーガーと同じような印象を本作には感じました。
体に悪いと思いつつも食べてしまう、グロいなと思いつつも読んでしまう、みたいな。
あとがきで作者の平山夢明さんは読者を「やるなら徹底的にブン回してやりたい」と書いていました。
本が売れない時代に本を買ってくれる読者に対し、「グゥの根も出ないほど徹底的に小説世界に引き摺りこみ、窒息させるほど楽しませよう」という物語を書こうとしたということ。
その平山さんの思いを具現化している作品だと思いました。
平山さんの思い通りにブン回されて、引き摺りこまれました。

「ダイナー」平山夢明著 ポプラ社 文庫 ISBN978-4-591-13117-6

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「コドモ警察」 宴会の一発芸のような

昭和の香りただよう刑事たちが悪の組織の陰謀により特殊ガスを吸ってしまい、コドモになってしまった!
以上、終わり。
・・・終わるわけにはいかないか。
設定が面白そうだったので観てしまったが、ぜんぜんっ、面白くなかった。
コドモがデカをやるっていうギャップ(ボスの「なに〜!」とか)は最初はクスリと笑ったが、ワンパターンすぎて飽きる。
映画でやるほどのものかしらん、テレビの深夜ドラマがいいとこじゃないの〜と観ながら思っていたら、こちら、もともとは深夜ドラマ発なんですね。
ある意味納得なんですが、そのままのレベルで劇場版作るってのもどうなの?という感じでした。
なんというか宴会の一発芸のような感じ。
最初は思わず笑っちゃったんだけど、何度も見せられるとゲンナリしちゃうみたいな感じといいますか。
子役の演技の拙さ(これ、狙ってやっているのか、そうなっちゃたのかはよくわからないですが)、下足らずさ(ボスも自分ネタでセリフがありました)が、もう気になってしまってね。
勝地涼さんが出てくるとちょっと安心しちゃったりして。
演技がひとり普通で、観やすいなぁなんて。
今年のワーストに入ることはほぼ確定。
・・・もう、あまり書くことないなぁ。
以上、終わり!

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本 「陰陽師 -鳳凰ノ巻-」

夢枕獏さんの作品はその語り口が独特で好きなんですよね。
その語り口は今はなきソノラマ文庫の「キマイラ吼」シリーズの頃から変わらないと思います。
夢枕獏さんの文体はそのリズムがゆったりとしていて心地がよい。
「ほろほろと、桜が散っている。
ほろほろと、酒を飲んでいる。」
なんていういうような表現をしますが、「ほろほろと」という独特の形容詞の使い方や、またこの繰り返しによるリズムがなんとも言えず心地よいのですね。
本作のレギュラーの塔所人物は、主人公は稀代の陰陽師安倍晴明、そしてその友人の源博雅。
この二人が晴明の家の濡縁で酒を酌み交わす場面が必ずと言っていいほどに出てきます。
そこで二人は一言、二言会話をしながらゆるりと酒を飲むのです(ゆっくりとでもなく、ゆったりでもなく、ゆるりとというのが夢枕さんぽい)。
この場面は夢枕さんも好きなようなのですが、何とも言えず心地よいのですね(こればっかり)。
また「キマイラ吼」シリーズなどでもそうなのですが、敵と味方、本作でいうと晴明と蘆屋道満の間でも飄々としたやり取りがあります。
地位と生命をかけた戦いの間であるにもかかわらず、彼らにはあからさまな緊迫感はありません。
まさに戯れているというような感じなのですね。
この余裕さのようなものというのも夢枕獏さんの作品から感じるところです。
人の心の中にはどうしようもなく黒い部分があります。
その黒い部分が呪として現れる。
その呪もそもそも人が持っているものであるとして晴明は受け入れているような気がします。
夢枕獏さんも人や自然の条理として、人ひとりでは抗うことができない力というものをわかっているような気がします。
これを受け入れる、だからこそ余裕とも言えるようなゆったりとした心地よさが醸し出されているような気がします。
この文体はこの人しか書けないというようなものを持っている気がするのですね、夢枕獏さんは。

「陰陽師 -鳳凰ノ巻-」夢枕獏著 文藝春秋 文庫 ISBN4-16-752807-X

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2013年3月17日 (日)

「オズ はじまりの戦い」 終盤に出てくるサム・ライミらしさ

「スパイダーマン」のサム・ライミ監督によるファンタジー。
サム・ライミがファンタジーなんか撮るんだ〜、と思いましたが、以前は「死霊のはらわた」のサム・ライミがアメコミ撮るんだ〜と思っていたわけなので、まぁアリかなと。
そもそも「オズの魔法使い」は原作も映画も一切読んでも観てもいないので、全く先入観なしで観ました。
知っていたのはドロシーが「オズの国」に竜巻で飛ばされてしまうことくらい。
本作はオリジナルの「オズの魔法使い」に登場する魔法使いがどのように誕生したか、ということを描く前日譚となります。
前半から中盤にかけては、最近よく作られるファンタジーもののテイストを出ておらずやや退屈な感じがしました。
予告でも「『アリス・イン・ワンダーランド』のスタッフが!」とか宣伝文句にしていましたが、そのあたりのイメージがステレオタイプのように 感じたんですね。
音楽もダニー・エルフマンだったですし。
サム・ライミっぽいなと思ったのは物語が佳境になった頃ですね。
本作にはオズの国の三人の魔女姉妹が登場します。
長女のエヴァノラは実の父親を殺し、その王国を手に入れようとします。
次女のグリンダはその企みを知り、父の予言に従い、魔法使いの出現を待って王国に自由を取り戻そうとします。
そして末っ子のセオドラは、純真で世間知らずなお嬢様といった感じ。
このセオドラの行く末がサム・ライミっぽいなと思ったんですね。
セオドラはオズが王国で初めて出会った魔女。
オズにセオドラは惹かれますが、彼が誰にでも良い顔をしようとするペテン師であることを知り、悲しみに胸を焼かれます。
その思いに乗じて、長女エヴァノラの口に乗せられ、ある果実を食べたため、恨みのみに凝り固まった緑の魔女となってしまいます。
この緑の魔女に、「スパイダーマン」に敵役で登場するグリーン・ゴブリンとの共通性を感じたのでした。
グリーン・ゴブリンの正体はオズボーンと大企業の社長です。
彼は自社で開発した薬を服用することにより、人格が分裂し、その悪の人格がグリーン・ゴブリンとなったのでした。
この自分の中での善と悪の対立というのは、「スパイダーマン」シリーズにおいてサム・ライミが何度となく取り上げるテーマです。
3作目ではスパイダーマンであるピーター・パーカー自身が善と悪の心に引き裂かれます。
本作においてセオドラ=緑の魔女は、まさにサム・ライミが描き続けてきた題材そのもののように感じました。
また別の視点でも「スパイダーマン」との繋がりを感じました。
ピーター・パーカーは「大いなる力には大いなる責任が伴う」という叔父の言葉により、ヒーローとして人々を守ろうとします。
このまっすぐさというのは、ピーターが十代であり、まだまだ純真な心を持っているというところからきているような気がします。
バットマンほどねじれていないわけです(笑)。
本作の主人公オズは、そういう意味ではいい年の大人で、逆に大人だから拗くれている、斜にかまえて見ているというところがあったかもしれません。
けれどグリンダが指摘するようにオズの心の底にはそういった純真さはまだ残っていました。
それを素直に出すには年をとってしまっていたということかもしれません。
オズは王国でのいくつかの冒険を経ていく中で、自分自身が背負わなければいけない責任というものを認識し、そしてそれに対して真摯に向き合おうとするようになったのだと思います。
そういう視点で、本作のオズは「大人になってから力と責任を背負うことになったピーター・パーカー」とも見れるかなと思いました。
そういう見方をすると本作の後半はサム・ライミ監督作品として興味深いなと感じました。
しかし、やはり前半はタル過ぎますね・・・。

あとサム・ライミっぽい、「死霊のはらわた」的なドッキリカットは3Dには合っているかも。
隣のお客さんは何度ものけぞってました〜。

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本 「巡査の休日」

佐々木譲さんの「北海道警察」シリーズの第4作になります。
第1作の「笑う警官」は映画にもなったのでご存知の方も多いのではないでしょうか。
このシリーズはいわゆる「警察小説」に分類されるものだといえます。
日本では「探偵」のような役回りはこの現代社会においてリアリティがないためか、最近は警察官を主人公にしたミステリーのジャンルが確立してきています。
これを「警察小説」という事があります。
多くの警察小説では、その警察官の個性が際立ち、ヒーロー・ヒロイン然とすることが多いですが(例えば誉田哲也さんの姫川玲子シリーズとか)、「北海道警察」シリーズについてはそのような感じはありません。
1作目から警察内部の陰の部分を暴いていくという筋になっていますが、それに挑むのは佐伯や津久井、小島などの一介の巡査たちなのですね。
彼らは我々に近い感覚の正義に、警察官という職務に忠実にあろうと、行動をします。
ただ警察組織の一員として、同じ警察官の身を守ること、組織を守るこということへのジレンマも感じます。
このあたりは普通のサラリーマンの感覚にも通じるところではないでしょうか。
彼らは決してヒーローやヒロインではなく、職務に忠実に行動し、悩む我々の感覚に近い人々なのです。
そのあたりが共感性があるのでしょうね。
4作目の本作では佐伯、津久井、小島は別々の事件を追っています。
過去の事件とのしがらみ、新たに発生する事件、それらは別々に進行しているように見えながら最後には収斂されていきます。
いくつかミスリードを誘うようなところもあり、読み応えもあるかと思います。
タイトルに「巡査」とあるのは、やはり主人公たちが一介の現場の刑事であるということを表しているのでしょう、ヒーローやヒロインではなく。
そして事件が解決し、彼らが休日に一杯やる、ということ、これはやはり我々普通に仕事をする者が仕事のけりがついたときにやる一杯と同じで、彼らに共感性を持つことになるのですね。
このあたりはうまいなと思いました。

「巡査の休日」佐々木譲著 角川春樹事務所 文庫 ISBN978-4-7584-3554-3

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2013年3月16日 (土)

「プラチナデータ」 クールさが立つ

全国民のDNAデータをデータベースに登録し、それにより犯罪捜査を行う。
映画の冒頭にテストケースとして、児童誘拐殺人事件の犯人がこのDNA捜査により検挙される様子が描かれます。
そしてそれに加え、最近では多くの街頭に設置されるようになった防犯カメラ、また車の追跡に使うNシステムなどを統合し、強力な追跡力を持ったシステムが本作では登場します。
超管理社会のような恐い近未来なのですが、果たしてこういうことは本当に可能なのか。
本筋の映画の話をする前にちょっと考えてみます。

映画の中ではDNAデータにより、その人物の身体的な特徴、また性格のプロファイリングが行われます。
DNAにより身体的な特徴の傾向や、性格のプロファイリングが全くできないとは言いませんが、映画で描かれるほどの詳細な分析はすぐにはできないように思います。
まずDNAからその人物のプロファイリングを行えるようにするには、どの遺伝子が身体的特徴、性格的特徴に影響を与えるかということが明らかになっていなくてはいけません。
実際これを確かめるにはある遺伝子を破壊したマウス(ノックアウトマウス)と破壊していないマウスでどのような違いが表れるかということをひとつひとつ確かめていかなけばなりません。
ひとつの遺伝子の役割だけではなく、別の遺伝子との相互作用によって発現する特徴もあるはずですので、これを明らかにするのは相当に時間がかかるはずです。
ひとつひとつの遺伝子の機能を明らかにしてプロファイリングしていくという考え方とは別に、統計的なサプローチもあるかと思います。
このDNAデータと身体的・性格的特徴のサンプルデータを統計的に分析し、傾向をみるということですね。
これもサンプルデータを集めるのが相当にたいへんですので、かなり厳しい作業になると思います。
ですので、この作品で描かれるDNA捜査というものはしばらくはないかと。
安心ですね。
とはいえ、犯罪現場にあったDNAと照合する、いわゆるDNA鑑定は現在でも技術的にはできるわけです。
そのためのDNAは過去に犯罪歴などがない限りは政府にはないわけですが、本作で描かれるように秘密裏に集められたりすると非常に恐いものがあります。
また本作で描かれている監視カメラやNシステムは、最近の犯罪捜査で活躍していることは報道などでもよく取り上げられています。
現在は人力で確認しているようですが、どんどん発達している画像処理技術が反映されてくれば、本作のようにリアルタイムでの追跡などもできてしまうかもしれませんね。
これはこれでちょっと恐いです。

横道に外れてしまいましたが、さて本作についてです。
監督は「ハゲタカ」「龍馬伝」「るろうに剣心」などを手がけた大友啓史監督。
これらの作品はどれも好きなので、ハードルはけっこう上げていました。
大友監督の作品は、とてもどっしりと地に足に付いた印象もありながらも、キレ味鋭いシャープさがあるというイメージがあります。
本作もそういうイメージはしっかりと出ているのですよね。
ですが、どうも「るろうに剣心」のときにように手放しでいいと言うことができないのは何故なんだろう・・・?
ちょっと自分でもわからないのですけれども。
プラチナデータについてのサスペンスがけっこういろんな人が絡み複雑なので、観ていてそっちに気が回ってしまったからかな。
あと大友監督の作品は、シャープなのですが、人の汗というか、そういった生っぽいところを感じるイメージがあって、そこが他の監督にはない感じなのかなと思ったりしています(「ハゲタカ」とか「龍馬伝」とかは映像もそういう感じがありました)。
この生っぽさは荒唐無稽な物語でもリアルに感じさせるものだったりするので、そのあたりは「るろうに剣心」などは上手くできていたかなと。
本作はシャープさはでていますが、そういった生っぽい感じはなく、どっちかというとクールさが強くでていました。
テーマがテーマなので、クールさを前に出しているのかもしれないですが、どうしてもその分、リアルさが減りフィクション感が出てくる感じはしたのですね。
原作については未読です。
東野さんの作品は、けっこう人の情、弱さ、強さ、やさしさ等が描かれてジンとくるものが多いのですが、そういうのを期待していたところもあります。
本作は今までの東野さんの作品の映画のなかではやはりクールさが立っていたように感じました。
東野さんの作品は頭で考えるというよりは、心にズンとくる感じが良かったりするので、ちょっとそのあたりも自分が期待していたところとは違ったかもしれません。
作品としてニュートラルに観れば悪い作品ではないかもしれないのですが、ちょっと自分が期待していたところと違ったかなという感じでした。

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本 「愚者のエンドロール」

米澤穂信さんの「古典部」シリーズの第二作目です。
米澤さんの作品は今まで「インシテミル」と「氷菓」を読みました。
この方のミステリーというのは、トリックや密室などを使った正統なものが多い感じがします。
しかしだからといって古くさい、古典的というわけではありません。
トリックや密室などを使ったミステリーというのは今まで多くの作品が生み出されていて、それをミステリーファンは読んでいるわけですから、なかなか新たなものを生み出すのは難しい。
それがこういったミステリーのジャンルの作品が最近は少ない理由でしょう。
けれども米澤さんは過去のそういったミステリーというのをふまえた上で(逆に読者は知っているを逆手にとり)、トリックや密室などを使った作品を作っているのが見事だなと。
本作では叙述トリック(アガサ・クリスティーが生み出した)、はたまたコナン・ドイルのシャーロック・ホームズの一連の作品群などをうまく利用しながら、密室トリックを組み立てています。
このあたりミステリー作品をよく読んでいる人は、うまく過去の作品を活用していることに感心するのではないでしょうか。
そしてまた「古典部」シリーズというのは、ミステリーでありながら人は死にません。
読み心地は意外とライトな感じがあります。
そういう点でミステリー的なものが苦手な人でも読みやすい。
ミステリー好きな人も、初心者にも読んで満足できる作品になっていると思います。

古典部シリーズ第一作「氷菓」の記事はこちら→

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2013年3月14日 (木)

「ジャッジ・ドレッド(2012)」 「北斗の拳」的な爽快感

スタローンが主演した1995年の「ジャッジ・ドレッド」はとっても残念な出来でした。
マグニートーのようなヘルメットをかぶっているいるスタローンの姿がなんとも滑稽でしたし、お話もよくあるタイプのものでしたしね。
こちらがリメイクされると聞いたときはなんでいまさらと思いました。
とは言っても、シュワルツェネッガー主演の「トータル・リコール」をリメイク版は意外と面白かったですし、こちらももしかしたら、なんて思ったりもして。
タイミング合えば観に行こうかと思っていたのですが、公開している館も少なくなってきたのでようやく観に行ってきました。
スタローン版のことがあるので期待値を思いっきり低くしての観賞でしたが、意外や意外、けっこう楽しめました。

「ジャッジ・ドレッド」の原作はイギリスのコミックということです(アメコミかと思ってた)。
核戦争後の荒廃した地球で、人々は限られたエリアの中で超過密都市を作り生活しているというのが、本作の設定。
ま、よくある設定ではあります。
超過密都市であるので犯罪の発生数も多く、その取り締まり、裁判、刑の執行などが追いつかず、そのために生み出されたのが「ジャッジ」という職務の人々。
「ジャッジ」=判事なわけですが、今の判事と違うのは、「ジャッジ」は犯罪者を検挙し、その場で罪を確定、そして刑を決め、執行までしてしまうのです。
それにより犯罪をスピーディに処理していくということなのでしょう。
このあたりは冒頭で一気に説明されていきます。
本作は意外と楽しめたと書きましたが、こういった舞台設定は最低限、また主人公のジャッジ・ドレッドの心情などはまったく描かず、ドレッドが悪党どもにどんどん正義の鉄槌を下していくのを溜飲を下げる感じがよいのですね。
なんというか「北斗の拳」的な爽快感に近いかもしれません。
スタローン版にあったような陰謀やらなにやらのドラマなどもありません。
悪党どものビルに入ったところで閉じ込められてしまうので、援軍などもなくルーキーのバディと二人での孤軍奮闘で敵を次々に倒していくのがある種の快感です。
ルーキーのバディは、人の心理をよむことができるサイキックのアンダーソン(女性)。
このアンダーソンとのコンビが次第にしっくりいくところなんかはけっこう好きです。
アンダーソンのキャラクターは意外と効いていたかもしれません。
彼女がいないとただの正義のマッチョがひたすら敵を倒していくというだけになってしまったかもしれません。
すごく凝ったストーリーではないですが、アンダーソンのサイキック力や、登録した者しか使えない「ジャッジ」の専用銃などの小道具を、うまくストーリーに絡ませる作りなどは意外とうまいなと思いました。
全体的にテンポ良く飽きさせずに見せるなと思って観賞後監督名をチェックしたら、ピート・トラヴィスでした。
彼は「バンテージ・ポイント」でテンポ良くスリル感を出す手腕を見せてくれていますので、納得です。

しかし、主人公のジャッジ・ドレッドは最初から最後まで、あのヘルメットを脱ぎませんでしたね。
よくこういう役を受ける役者がいるなと思い、こちらも誰か確認しました。
J・J・エイブラムズの「スタートレック」で、ドクター・マッコイを演じていたカール・アーバンでした。
全然わからないですよ、アゴだけじゃ。
アンダーソンを演じてた女優さんもけっこうきれいでポイント高し。
ややエマ・ワトソン似でしたね。

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本 「クラウドの未来 -超集中と超分散の世界-」

「クラウド」という言葉が聞かれるようになり、数年でしょうか。
大ざっぱに言うとサーバー上にデータやアプリケーションを置き、いつでもどこでもそれらを使用できるようにするのがクラウドサービスになります。
僕が大学生の頃は、大学で大きなホストコンピューターがあり、そのコンピューターに計算をさせ、そのデータをクライアント側のコンピューターで引き取るというような時代でした(集中の時代)。
ホストコンピューターの負荷の問題もあって、使用するにも各学部などでスケジュールが組まれていたように記憶しています(今でも「京」などのスーパーコンピューターで気象現象のシュミレーションなどの大規模演算をするときはそうしていると思います)。
その後社会人になった頃、パーソナルコンピューターが普及しました。
パーソナルコンピューターの性能があがり、多くの情報処理が端末側でできるようになったのです。
わざわざホストコンピューターに演算を任せる必要がなくなったのですね。
これが分散の時代です。
しかしこれの問題はそのパーソナルコンピューター(データとアプリケーションが入っている)の前でなければ情報処理ができなくなったということなのですね。
そして現在は、クラウド上にデータとアプリケーションを置くことにより、いつでもどこでも情報処理が行える時代となっています。
データはクラウド上に集中させ、その利用は各端末でいつでもどこでも行える、これを著者は超集中と超分散と呼んでいます。
10年前くらいから言われているユビキタス社会というものが目の前に表れてきているんですね。
この超集中と超分散にはいくつかの条件があります。
集中する側のサーバーの処理能力の向上です。
これはアマゾン等各社が各地に大きなデーターセンターなどを建設しています。
そしてネットワークの高速化、特に無線での通信の高速化です。
これはLTEなどの普及により、急激に高速化が始まります。
そして端末側の進化、これはスマートフォンなどの普及によるところが大きいでしょう。
これらの課題が解決されていき、数年のうちに大きく生活が変わる可能性があります。
個人的には最近は映画のDVDを買うことが激減しました。
見たい映画は様々なクラウドサービス(iTunes StoreやHuluなど)でいつでもどこでも観れるようになてきたからです。
会社の仕事のスケジュールもオフィスのパソコンと、スマートフォンのデータがシンクロするので、紙の手帳を持ち歩くこともなくなりました。
個人の生活もさることながら、企業のビジネスモデルも大きく変わっていくと思われます。
ハードのデバイスや規格による囲い込み戦略(ソニーなどが好む戦略)はおそらく限界になるかと思います。
ユーザーはどの端末でも同じようにデータにアクセスすることができることを求めていくことになるでしょう。
プラットフォームでの囲い込み(アップルやフェイスブックなどの考え方)か、もしくはフルオープン(グーグルなどの考え方)になるでしょう。
これはどちらも善し悪しがあるので、どっちになるかは僕もわからないのですが、今の日本の企業のやり方ではちょっと厳しいかなと思います。
いずれにしてもこの数年で大きく生活が変化していくような気がします。

「クラウドの未来 -超集中と超分散の世界-」小池良次著 講談社 新書 ISBN978-4-06-288140-1

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2013年3月10日 (日)

「仮面ライダー響鬼」<平成仮面ライダー振り返り-Part6>

平成仮面ライダーを振り返ってみるこの企画、久しぶりにアップします。
前回の「剣(ブレイド)」の時も時間がかかったと書いたのですが、そのときでも実は半年しか空けておらず。
今回は2年半も空けてしまいました・・・。
誰もこの企画覚えていないのではないでしょうか。
もともと「ディケイド」オンエア中に始めた企画なのですけどね、もうそれから4作目の「ウィザード」ですから。

さて今回取り上げる「仮面ライダー響鬼」ですが、ユニークな設定が多い平成仮面ライダーの中でも特にその特異性が際立っている作品であると言えます。
もともと「響鬼」は仮面ライダーシリーズとして立ち上げられたものではなく、いろいろと大人の事情で結果的に仮面ライダーとなったということは、本作の立ち上げ期に関わった片岡力さんの「仮面ライダー響鬼の事情」という本に詳しく書かれています。
まず表面的なところで「響鬼」が他の仮面ライダーと異なる点を上げてみましょう。
一番特徴的なのは、主人公ヒビキなどが鬼に変身するときに、「変身!」というキメ台詞を言わないというところですね。
もともとは仮面ライダーではない企画であったこと、当初のプロデューサーである高寺さんのリアリティへのこだわりがあったのではないかと僕は思っています。
ただこの「変身」という言葉は、子供たち向けの「なりきりグッズ」を売るには重要なものであるので、スポンサーサイド(バンダイ)から相当に抵抗があったのではないかと思われます。
また仮面ライダーであるのに響鬼はバイクに乗らない、デザインが仮面ライダーの特徴である複眼ではないということも表面的なところでは異色さがあるかと思います。
いろいろあったからか、後半では響鬼はバイクに乗るようになりますし、パワーアップしたフォームの響鬼紅、響鬼装甲では、デザイン処理で目のように見えるようになりました。
個人的には目のない響鬼のデザインはかっこよくて好きなのですけどね。
あと設定やストーリー的に異色であるのは、主人公の年齢設定が成熟した大人であったということが上げられます。
平成仮面ライダーは「龍騎」「555」「剣」と仮面ライダーに変身する青年の苦悩というものが大きなテーマでありました。
悩むヒーローというのは今ではアメコミなどでも定番であるわけですが、「響鬼」においては主人公は揺るぎない存在であるとして描かれています。
このあたりはプロデューサーの高寺さんのこだわりというか作家性のようなものが強く出ているような気がします。
本作には明日夢という少年が登場します。
劇中では彼が中学生から高校生になる間の期間が描かれます。
それは子供が社会に相対するようになり、今まで知らなかった現実というものに直面し、悩む時期であります。
本作では明日夢がそういうった現実に直面し、もがく中で彼が成長していく姿を描こうという意図が感じられました。
このテーマは同じ高寺さんプロデュースの「大魔神カノン」にもより強く表れています。
「クウガ」(これも高寺さんプロデュース)にしても、「響鬼」にしても、「カノン」にしても、主人公たちと敵対する存在というのは、「悪の組織」といったものでありません。
「クウガ」のグロンギ、「響鬼」の魔化魍、「カノン」のイパタダ、そのいずれも人を襲うものどもですが、それらの行動原理は人間にとっては理解できるものではなく、「悪の組織」のように壊滅させることもできません。
高寺プロデューサーの一連の作品における敵対するものというのは、実社会にあるどうしようもない壁を表しているものであると思います。
人生を生き、社会で働くとき、そこには不条理さややるせないことというのものはいくらでもあります。
それらをすべてなくすことなどはできはしない。
けれどそれなに負けてはいけない。
そういったものに立ち向かえる力を己自身が持てるようになるということが、大人になるということなのでしょう。
「クウガ」の五代や「響鬼」のヒビキはそういった大人の理想像であり、「響鬼」の明日夢、「カノン」のカノンは、そういった大人になるために頑張ろうとする子供たちなのですよね。
こういったメッセージ性というのが高寺作品には強くみられます。
高寺プロデューサーのインタビューなどを読むとそういったメッセージ性に強くこだわっているのがわかります。
もともと高寺さんは学生時代は円谷作品の初期のメッセージ性の高いものを好んでおり、東映作品(「仮面ライダー」や「スーパー戦隊」)については子供向けであり、あまりいい印象を持っていなかったと言っています。
そういう思いから生み出された「クウガ」は大人の観賞にも耐えうる新たな仮面ライダー像を打ち出したと思います。
そういう意味で高寺プロデューサーはとても作家性が強い方ではないかと思うのです。
「クウガ」の大ヒットを受け、平成仮面ライダーシリーズは現在にも続くシリーズとなるのですが、その流れを作ったのが「クウガ」の後を引き継いだ白倉プロデューサーでした。
個人的には白倉さんは映画会社の方としては珍しく、マーケティングというものを理解して作品を作っている方と思っています。
白倉作品は、パッと観ると派手で奇抜な設定を取り入れているものが多いですが、よくよくみると東映にとってドル箱シリーズとなった平成仮面ライダーシリーズをいかに永続的なものにするかということを考えているように思います。
いわば「仮面ライダー」を東映のブランドとして確立させようとしているように感じられます。
高寺さんの作家的な作品への取り組み、白倉さんのマーケッター的な取り組みは、どちらが正しいというものではないですが、違った方向性であることは間違いないでしょう。
このあたりが高寺さんが独自の道を歩み始めた理由じゃないかなと思ったりもします。
「響鬼」についてはシリーズ中盤で、メインの高寺プロデューサー降板、その後を白倉プロデューサーが引き継ぐということになりました。
その理由は門外漢である僕は想像することもできません。
当時この作品を観ていた自分は、それをかなり驚き、方向性が大きく変わることに懸念を持ちました。
前半のトーンはけっこう個人的には好きだったのです。
白倉さんになりメインライターも井上敏樹さんに代わり、井上節が出てきたあたりはちょっと違和感を感じたものです。
ただ時間をおいて改めて観てみると、思いのほか前半で掲げていたテーマを後半も受け継ごうという意志はみられるなと思いました。
確かに前半は話の進行が非常に遅い。
これは高寺作品に共通している傾向です。
このあたりを後半は改善し、お話のドライブ力をアップさせているように思いました。
その分、ややヒビキと明日夢の関係性というのが薄くなったのは否めないかなと思います。
高寺プロデューサーは子供へ、世の不条理へ立ち向かう勇気と力を持てと伝えたいと思っているのではないかと思います。
それが本作の特徴である、師匠と弟子という関係に表れていました。
ヒビキと明日夢、イブキとアキラ、ザンキとトドロキ、と三種三様の関係が描かれますが、一緒に歩むにせよ、別々の道を歩むにせよ、思いと力を持つこと、それも自分自身で鍛えることによって、というメッセージがは確実に弟子たちに伝わったと思います。

本「仮面ライダー響鬼の事情」の記事はこちら→
「仮面ライダークウガ」<平成仮面ライダー振り返り-Part1>の記事はこちら→
「仮面ライダーアギト」<平成仮面ライダー振り返り-Part2>の記事はこちら→
「仮面ライダー龍騎」<平成仮面ライダー振り返り-Part3>の記事はこちら→
「仮面ライダー555(ファイズ)」<平成仮面ライダー振り返り-Part4>の記事はこちら→
「仮面ライダー剣(ブレイド)」<平成仮面ライダー振り返り-Part5>の記事はこちら→

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2013年3月 9日 (土)

「ジャンゴ 繋がれざる者」 タランティーノ感ありつつも、いつもより見易い

クエンティン・タランティーノの初の西部劇。
マカロニ・ウェスタン大好きな感じは「キル・ビル」あたりでも出てましたが、タイトルの感じも彼のラブ感が出ていましたよね。
タランティーノの作品というのは、彼の映画へのラブがすごく込められるため、いろいろの要素がごっちゃリ入ったちょっとカオスな感じがあるんですよね。
「キル・ビル」とか「イングロリアス・バスターズ」とかはそういう感じがするのですが、個人的にはちょっと苦手であったりします。
そういう点で観ると今回の「ジャンゴ 繋がれざる者」はとても見易い。
ただタランティーノのカオス感が好きな方には少々食い足りない感があるかもしれません。
もちろん銃撃戦などでの血みどろ描写は、やはりタランティーノだなという感じはするのですけれどね。

本作を観てつくづくタランティーノは復讐話が好きなんだなと。
「ジャンゴ」も「キル・ビル」もそうだし、「イングロリアス・バスターズ」も復讐話と言えそうですしね。
虐げられた者が、牙をむくというところが共通しています。
虐げられ、虐げられ、虐げられて、その怒りが頂点に達したときに復讐が始まる。
そしてその復讐に道徳観のようなリミッターが効いていないというのも共通点ですね。
復讐する側は、相手に対してとことん容赦がない。
このあたりの容赦のなさがタランティーノが苦手な人の理由だったりするのかもしれないですが、リミッターを振り切っているあたりはある種の爽快感にも繋がっていたりするのもあったりします。
タランティーノの作品は振り切り感を不快に感じるか、爽快に感じるかで好きずきが大きく分かれるような感じがします。

印象的な役柄ドクター・シュルツを演じているのはクリストフ・ヴァルツ。
「イングロリアス・バスターズ」で世界的にブレイクして最近はいろいろな作品に出ていますが、けっこうクセのある役が多いですよね。
本作は主人公ジャンゴを開放し、彼の妻の捜索に手をかす歯科医師であり賞金稼ぎであるシュルツを演じています。
クセの多い役が多い方なので、いい人そうに見えてシュルツは最後のほうで暗い正体を出したりするのではなどと勘ぐっていましたが、最後までいい人でしたね。
これが一番驚きました。
このシュルツというキャラクターがいたから、いつものようなカオス感がなかったような感じもします。
というのもシュルツが一番現代人の差別に対する姿勢に近いものを持っている人物であり、彼の視点を通してこの作品の中で繰り広げられる出来事を観ることができたのだと思います。
そういう視点があるから本作はいつもの作品よりも見易いのでしょう。

あとサミュエル・L・ジャクソンの「怪演」も印象的でした。

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本 「UFOはもう来ない」

と学会会長でもあり、数々の小説もある山本弘さんの作品。
と学会とはいわゆる「トンデモ本」を品評する私的な団体です。
「トンデモ本」のネタの中でもUFOというのは大きなネタのひとつです。
そのUFOを真っ正面から題材に山本さんが挑んだのがこの作品です。
山本さんの作品はUFOとか怪獣とかいった「トンデモ」ネタを扱うことが多いですが、それに対してはかなり科学的な設定を作りリアリティをもった作品にしていますよね。
この作品もその姿勢は表れていて、本格的な異星人コンタクトものとなっています。
地球人がUFOやらエイリアンについて、様々な小説や映画などの作品、体験したというようなトンデモ話、またカルト系の教義などがありますが、それはやはり地球という文化で生まれ育った文化の延長線上の想像でしかないのですよね。
もし異星人がいたとして、彼らはまったく違った環境で育ったわけで、地球人が想像もできないような文化になっているはず。
その大きな文化の壁を越えられるのか、越えられないのかというのが本作の大きなテーマとなり、実は意外と大きな話であったりします。
この作品の中ではたびたびアーサー・C・クラークの「幼年期の終わり」という作品があげられます。
個人的にはこの作品はクラークの中でも最高傑作だと思っているのですが、この作品は地球人が進化し、地球という惑星の枠組みを越え、新たなステージへ登っていくことが描かれます(ですので、「幼年期の終わり」というタイトルがつけられているのです)。
本作も山本弘さんとしての地球人の「幼年期の終わり」の前章を描いているような気がします。
クラークの「幼年期の終わり」は異星人の導きがありつつ、地球人が新しいステージに登っていく様子が描かれています。
しかし山本さんとしては、地球人が幼年期を終わらせるためには、何か特別な外からの力によるものではなく、やはり地球人が自らの問題を自身の手で解決し、その上で新たな高みへ登っていかなければならないといったことを言いたいように感じました。
それを地球人ができるかできないか。
できたとき、地球人の幼年期が終わるのでしょう。

「UFOはもう来ない」山本弘著 PHP研究所 ハードカバー ISBN978-4-569-80914-4

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2013年3月 8日 (金)

「遺体 明日への十日間」 まだ2年、もう2年

観ている間、劇場で鼻をすする音が至る所でしていましたが、花粉症のシーズンになったからというわけではないのでしょう。
かくいう自分も鼻をすすっていたひとりでした。
もう少しで東日本大震災から2年。
2年が経ち、やはりこういう映画を観ると当時のことを生々しく思い出したりもするわけです。
脚本や演技や、作品の出来がどうこうということではなく、演技であり劇化された映画であるとはいえ、やはりあの震災に見舞われた方々の姿を観ると、心は動揺し、こみ上げてくるものがあるわけです。
まだ2年なのですね。
でも、東京で暮らしていると普段の生活は以前のように戻り、なんとなく日常が過ぎているようにも感じます。
もう2年も経ってしまっていて、次第に震災のことが風化し始めているようにも感じます。
そういった時期にこのような作品を作ることは意味があるように思います。

さきほど書いたように作品の出来がどうこうという評価は個人的にはなかなかしづらいなと思っています。
ですので、今回は作品を観て感じたことを、散文的に書いていこうと思います。
本作で描かれるのは、震災直後から急遽遺体安置所となった学校で働く人々です。
医者やボランティア、市の職員、葬儀社の社員、彼らも被災地で暮らしていた人々であり、災害から生命が助かった方たちです。
職務として遺体を取り扱う彼らは、未曾有の災害を前に声もでません。
なかでも若い市職員及川、そして優子は大きく動揺します。
及川は友人の行方が不明になり、まさに茫然自失の体となり仕事にも手がつかなくなります。
優子は遺体や遺族の方の姿を見て、「自分なんかが生きていいの?」と泣き崩れます。
彼らの姿にはリアリティを感じました。
若いがゆえに人生の経験が少なく、大きな出来事を受け止めきれない、そんな感じが伝わってきました。
もし自分がその場にいたら同じように何もできない状態になってしまったのではないかと思います。
医師の下泉、歯科医師の正木は、遺体の確認の作業を休むことなく続けます。
彼らがみる遺体の中には彼らの知り合いの姿もあり、彼らも動揺はしますが、亡くなった方のため、遺族のためにプロの責任感を持ってその仕事を淡々と続けるのです。
彼らの姿には大人を感じました。
そしてボランティアで遺体安置所を管理した相葉からは、起きてしまったこと自体にくよくよするのではなく、いかに前に進むのかという人としての大きさを感じました。
彼は「やるべし、やるべし」と口にしますが、大きな出来事に呆然とするより、床をきれいにすること、遺体を大切に扱うこと、そういった目の前にある些細だけど自分ができることを少しずつやっていくことで前に進むことができるということを知っているのですね。
そういった大人の姿を見て、誰かに言われるでもなく、自然に動き始める及川や優子の姿にじんときてしまいました。

相葉が「ここにあるのは死体じゃないですよ、ご遺体ですよ」と言う場面があります。
この言葉を聞いて、何か日本人の死生観のようなものを感じました。
死体という言葉にはとても「物体」という感じがするのですね。
でも「ご遺体」という言葉には人としての尊厳が感じられます。
遺された体、ということですよね。
映画「おくりびと」や、先日読んだ「エンジェルフライト」は、遺体を取り扱うお話でした。
日本人というものは遺体をとても丁寧に扱おうという民族なのだなと思います。
生きていた人へ敬意をはらい、その方の魂が肉体を離れても、遺された体を大切に扱うという気持ちがあるのかもしれません。
乱暴に扱うというのはそれをもう物体としてしか見ていないということ。
そこに人の尊厳を見るのであれば、おのずと丁寧に扱うわけですね。
遺体にお化粧をしたり、話しかけたりすることによって、生きているかのように扱う。
そういったことはその人が時間の中であるときだけ存在しただけというのではなく、その人の生が、生きている人の中で続いていくといったことに繋がるのかなと思ったりもしました。
そして生きている人の中でも故人が生きていると感じることにより、生きている人もよりよく前向きに生きていけるのではないかと思ったのですね。
そういった日本人の精神というのは、やはりとても良いものだと感じました。

ひどくとりとめのない話になりました、今回は。

監督と脚本と務めたのは君島良一さん。
君島さんというと「踊る大捜査線」のイメージが強いですが、監督される作品は意外と社会派なものが多いんですよね。
「容疑者 室井慎次」も「踊る」シリーズの中では社会派的な感じですし、「誰も守ってくれない」はまさに社会派という感じです。
本作は映画的にテクニカルにするのではなく、オーソドックスに淡々と撮っていた感じがします。
そういった姿勢に、大震災を映画化することに対する誠実さを感じました。

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2013年3月 4日 (月)

「牙狼<GARO>~蒼哭ノ魔竜~」 創作へのこだわり

「牙狼<GARO>」シリーズの最新の劇場版となります。
2011年10月〜2012年3月まで放映されていたテレビシリーズ「牙狼<GARO>〜MAKAISENKI〜」の直後の話になります。
「MAKAISENKI」はこのシリーズの集大成的なところもありましたので、本作は劇場版といっても番外編的な位置づけかもしれません。
主人公鋼牙の任務であるホラーを倒すことではなく、テレビシリーズのラストで出てきた「約束の地」での「嘆きの牙」の探索が描かれます。
本作の舞台はほぼこの「約束の地」となっており、背景の世界はCGなど特殊技術で作られたものとなります。
まさに雨宮監督のイマジネーションが爆発したという感じになっております。
ストーリーは「GARO」シリーズとしては特に驚くような工夫がされているわけではありません(どちらかと言えば退屈)。
どちらかと言えば、雨宮監督の創造性、創作力を観るという楽しみ方ではないでしょうか。
雨宮監督の作る世界観はもともと線が多い密度の高いものであったりします。
「GARO」シリーズ自体はけっこう暗闇が舞台であったりするので、映像として光と影の加減でその密度感を出していたように思います(予算の関係上作り込みしきれないので映せないといこともあったのではと思ったりもします)。
しかし本作は「約束の地」という舞台になり、基本的に明るい場所となって、その密度感を色彩で出そうとしているように感じました。
今までの「GARO」シリーズに」比べて色彩的な密度があるのですね。
このあたりは劇場版ならではのチャレンジとして意識的に取り組んでいるのかなと思いました。
ただややアングルなどがけっこう単調だったりするところもあったりして、このあたりも予算かなと。

お話は人間が作り出したモノたちが話の中心になってきます。
これは人間の創造性をテーマにした話でもあります。
雨宮監督は昔から独自のビジュアルセンスで様々な映像表現を行ってきました。
デザインやイラスト、映像を見れば、これは雨宮さんだとわかるほどの個性があるんですよね。
そして原作ものが多い昨今の映画、テレビ業界の中で、オリジナル作品を作り続けています。
こういうところに雨宮監督の創作へのこだわりがあるように感じられます。
この創作という行為自体を本作はテーマにしているように感じました。
オリジナルにこだわる雨宮監督としてのメッセージだったのではないのかなと思いました。

4月からは鋼牙に代わり新しい主人公で「GARO」シリーズが放映されるようですね。
どのようになるんでしょう。

「牙狼<GARO>〜MAKAISENKI〜」のレビューはこちら→

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本 「製鉄天使」

桜庭一樹さんの作品はこちらが初めて。
本作「製鉄天使」はハードカバーのときから、タイトルは気になっていたんですけれどね。
「GOSICK」や「伏」など今まで映像化された作品も多くある作家さんですよね。
読んでみた印象としては、文体というか、文章から受ける感覚に独特のものがあるように感じました。
一作なので本作だけのものかもしれず、なんとも言えないですが、なんというか疾風感、駆け抜けるような感じという印象を受けたんですね。
10代の青春を扱っているので、そういう感じがするのかもしれないんですが。
10代が持つ、荒々しさ、熱狂感というものが感じられます。
また主人公はその熱狂している瞬間というのが、いつかは終わるということを感じていて、そこからくる寂しさのようなものもあるんですよね。
この熱狂と寂しさといった逆方向の感覚が混じり合った独特の雰囲気を持っているように感じました。
一作読んで、この作家さん好き!ってなる感じではなかったのですが、不思議な興味を惹かれる感じがありました。
もう1作、この桜庭一樹さんの作品、読んでみようかな。

「製鉄天使」桜庭一樹著 東京創元社 文庫 ISBN978-4-488-472003-0

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