「さよならドビュッシー」 原作小説に対しての冒涜だ
そろそろ公開終了っぽいので慌てて観に行ってきました。
原作小説「さよならドビュッシー」はすでに読んでいました。
著者の中山七里さんは「さよならドビュッシー」と「カエル男殺人事件」を読んで、最後の最後のどんでん返しに仰天し、お気に入りのミステリー作家となりました。
その後も「さよならドビュッシー」のシリーズ作、「おやすみラフマニノフ」「さよならドビュッシー 前奏曲」を読みました。
ですので、この作品の驚くべきラストのどんでん返しの結末は知っているので、純粋に観れたわけではありません。
というよりもあの原作小説の驚きを映画ではどのように料理しているかというところが観賞のポイントでありました。
主演は橋本愛さんであることは映画化が発表されたときに知りましたが、このキャスティングはもともといいなと思っていました。
主人公の遙は奇跡的に火事から一人だけ生還し、その後持っていた夢を追いかけ苦しいリハビリを続けながらピアニストの道を目指します。
そんな彼女を何ものかが狙う、そして彼女自身もなにか大きな秘密を抱え込んでいる様子・・・。
遙という役には、なにか陰のようなものと、そして内に抱える切迫した想いのようなものが必要です。
そういう点で橋本愛さんはいいキャスティングだと思いましたし、観賞後も同様の感想です。
<ここから先は結末に触れるかもしれませんので、注意です>
では、この作品を評価するかというと。
まったく評価ができません。
劇中、本作の探偵役となる岬洋介が、遙がドビュッシーの曲を早く演奏し終わらせようとしたことに対し、「冒涜だ」と言う場面がありました。
正直、この映画も原作小説を冒涜しているぐらいに出来が悪い。
出来が悪い要因はいくつもあります。
まず役者の演技が全体的にレベルが低過ぎます。
特に重要な役である岬洋介を演じる清塚信也さんの演技が気の毒になるほど、拙い。
清塚さんは本職はピアニストなわけで、演技力云々をこの方にいうのは気の毒です。
これはこの方をキャスティングした側に問題があります。
この役を本職のピアニストにしなくてはいけない理由はまるでありません。
本職の俳優であれば、ピアニストらしく見せることはいくらでもできるでしょう。
清塚さんがピアノを弾き、それを長回しで見せるシーンが最初にありますが、彼がピアノを弾くシーンはこのくらい。
だったらうまく演出して、吹き替えでやってもいいでしょう。
岬洋介という役はクールな洞察力を持ちながらも、ピアノに対して熱い想いを持っている役です。
それは遙にも通じるもので、だからこそ彼らは信頼できるわけです。
ですので、ピアノを弾けるか弾けないかということよりも、その人物を演じれるか演じられないかというものが重要であるべきなのです。
途中で出てきた刑事役の方もひどかった。
岬と刑事が二人だけ登場して、事件の革新的な部分について話すシーンがありますが、キーな場面であるにも関わらず、あまりに学芸会的な演技で閉口してしまいました。
あと脚本もよろしくありません。
原作の真骨頂は大どんでん返しでありますが、遙が命を狙われ、それが家族の誰かかもしれないという緊張感というのも物語を読ませる力となっていました。
本作にはそのようなものが一切ないのですね。
映画では母親は遙の告白により真実を知り、自ら足を滑らし意識不明となります。
しかし原作では、母親が遙の正体に気づいたことを匂わせるシーンがいくつかあり、さらにはそれに遙も気づくというようになっています。
そして母親の「事故」にも遙自身がもっと強く関わるのです。
またお手伝いのみち子についても映画ではステレオタイプ的なお手伝いさんになっていますが、原作では違います。
もっと何を考えているかが読めない、遙へ敵意を持っていることだけはわかるという、作品全体の緊張感を上げる人物になっています。
原作シリーズでは「さよならドビュッシー 前奏曲」を読めばただのお手伝いさんな人物ではないことは瞭然です。
むろん映画と小説では同じようなことはできないのは承知していますが、それにしてもミステリーの根幹に関わる部分をよりつまらなくする方向に改変する脚本はいかがなものかと思います。
あと演出や編集が単調、無駄に長いなど文句はいろいろありますが、このあたりにいたします。
久しぶりに「金返せ」的な気分になりました。
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