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2013年1月27日 (日)

本 「旅猫リポート」

有川浩さんの「空飛ぶ広報室」のレビューでは、「この時点において有川浩さんのひとつの集大成」と書いたのですが、本作については新しい方向性を見せようとしている作品と言えるような気がします。
キャラ立ちだったり、ベタ甘だったりするところは有川さんの特徴のひとつので、アニメ的、ライノベ的とも言えるわかりやすさに繋がったりします。
たぶん有川さんの作品は、小説慣れしていない方にも読みやすいものとなっていると思います。
しかしたぶんに多くのライノベが、わかりやすいキャラクター造形などになっていて、今までのアニメやマンガのパターンに陥ってなにも残らないものであるのに対して、有川作品はそういうところはないのですよね。
読みやすいのだけれど、なにかほんわりと暖かいものが残るというか。
有川作品には優しさというか、人を思いやる気持ちみたいなものを感じるんですよね。
本作はいわゆるキャラ立ち的なところはおさえつつも、有川さん特有のほんわりとした暖かさみたいなものを前面に出してきた感じがします。
そして今までにないところとしては「死」というものをけっこう真正面に捉えているということですね。
有川作品は基本的にハッピーに終わる感じがあるのですけれど、本作ではしっかりと「死」が描かれます。
物語の途中からそういう予感はあってザワザワした気持ちで読むのですが、有川さんの作品だから、うまくいくに違いないと思って読んでいったのですけれども。
でもその「死」は悲劇ではなくって。
本作主人公である猫、ナナといっしょに、読み進めるに従い、その「死」を受け入れられるようになっていくんですよね。
これはやはり有川さんならではのほんわりとした暖かさ。
表紙のデザインなどのイメージもあるんですけれど、有川さんの今までの作品がどちらかというとアニメ的な感触があったのに対し、本作はなんか童話的というんですかね、そんな感じがしました。
今までの作品で言うと「阪急電車」が一番感触が近いかな・・・。
有川さんらしくも、でも今までとは違う側面も感じた作品だと思いました。

「旅猫リポート」有川浩著 文藝春秋 ハードカバー ISBN978-4-16-381770-5

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「ストロベリーナイト(映画)」 彼女が抱える闇について

昨年オンエアされたテレビシリーズ「ストレベリーナイト」の劇場版です。
ドラマは誉田哲也さんの小説、姫川玲子シリーズ(「ソウルケイジ」「シンメトリー」)とそのサイドストーリーである「感染遊戯」を原作にしましたが、劇場版は「インビジブルレイン」を原作としています。
珍しく、原作の方を先に読んでいました。
物語の展開はほぼ原作と同様になっていますが、小説は主観視点で描かれていたので、登場人物の取り扱いはやや重みが変わっていますね。
大きく変わっていたのは菊田の取り扱いでしょうか。
原作はほとんど出番がないに等しい感じのため、姫川と牧田との関係を知らず、置いてきぼり感があったのが可哀想であったのですが、映画は逆に知ってしまったためにより可哀想な感じが・・・。
どちらにせよ、「インビジブルレイン」が映画になると知った時には菊田は可哀想になるのだろうなぁと思っていたのですけどね。
先ほども書いたように原作は姫川の主観視点があるので、彼女自身が牧田との関係の中で揺れ動くところが彼女の言葉で書かれているわけで、姫川の女としての側面もでていました。
映画では、男と女という間柄だけではなく、さらに心の奥底に闇を抱えるもの同士という点において互いに惹かれるというところがより強調されていたような気がします。
姫川にしても、牧田にしても、そして柳井にしても、暴力により己や家族を蹂躙され、地獄を見てきました。
その地獄の中で自分の心の中で育ってきてしまった闇の部分により、それぞれが死を選ぼうとしたり、復讐をしようとします。
その闇はとうてい地獄を知らない者には理解できない。
姫川は暴行の被害を受けたとき、そのとき連れ添ってくれた婦警によってその心を救われた。
自分を傷つけた者を殺したいという闇をかかえつつも、婦警の想いにより、姫川は留まり続けることができています。
姫川が抱える闇は、捜査への没入、暴走というエネルギーに転化されているわけです。
しかしそれは危ういバランスで立っているもので、今にもダークサイドに転げ落ちてしまいそうな危うさこそが姫川のキャラクターの魅力のひとつになっているのでしょう。
姫川が正義や真実に強くこだわるのは、そここそが自分がこちら側にいられる唯一のとっかかりであると感じているからでしょう。
牧田という男も闇を抱えるという点においては同じです。
しかし彼は向こう側に転げ落ちてしまった男なわけです。
けれど心の一部はこちら側にすこしひっかかっているのかもしれません。
己の闇におののき、その孤独に震えている気持ちが牧田の心にはあったのではないでしょうか。
だからこそ、自分と同じような闇を抱える柳井や姫川も自分と同じ側に来てほしいと願ったように思います。
本作の事件が、闇から闇へ葬り去られてしまったとしたら、もしかしたら姫川は向こう側に堕ちていったかもしれません。
婦警によって救われ、唯一のとっかかりであった正義・真実が失われてしまったとしたら。
姫川の上司であった和田課長による幕引きは原作通りではありましたが、彼の行動は警察という組織だけではなく、姫川の心も救ったのだと思います。
姫川へ憧れのような恋心のような気持ちをもっている菊田ですが、やはり彼は日なたを歩く男なんですね。
まっすぐで、一途で。
だからこそ姫川の本質には迫れない。
原作では姫川も菊田に対しては憎からずと思っているような感じはありますが、テレビドラマ・映画ではそのような感じというのはあまりありません。
これはテレビドラマ・映画は彼女の抱える闇の部分により迫ろうとしたからかもしれませんね。

ちなみに原作では和田課長と昵懇にしている記者(映画で質問した記者)のやり取りがありますが、これがけっこういいんですよ。
記者は質問をすることによって和田が失脚するのを知りつつ、和田自身により警察のため、真実のために質問するよう頼まれるんですよね。
映画はこれを和田と記者の一瞬のアイコンタクトで表現していて、すごいなと思いました。

あとテレビシリーズの映画化なのに、「劇場版」とか「THE MOVIE」といった言葉がタイトルに入ってきませんでしたね、この作品。
「インビジブルレイン」というタイトルの入れ方もテレビシリーズと同じで、劇場版だからということで事件を派手にするというのではなく、「ストロベリーナイト」というシリーズの中の一つのエピソードであるというスタンスが感じられました。

テレビシリーズ「ストロベリーナイト」の記事はこちら→
原作小説「インビジブルレイン」の記事はこちら→

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2013年1月26日 (土)

「フラッシュ・ゴードン」 テッドとジョンが言うからさ〜

テッドとジョンが言うからさ〜、観ちゃったよ。
昨日観た映画「テッド」。
その中でやけにリスペクトされていた「フラッシュ・ゴードン」、懐かしくなってまた観ちゃいましたよ。
昨日の記事でも書いたんですが、DVD持っているので。
子供の頃ですら首を傾げてしまうような、御都合主義の塊、狙ったのかもしれないがずれまくっているデザインセンス、役者のあまりに芝居がかった演技など、なんというか「イタイ」んですよねぇ、これ。
また「なんでこの博士、なんでも知ってんの?」とか「シェイクスピアを暗唱していたから記憶を消されないなんて!?」とか、ツッコミどころも満載です。
イタさも含め、あまりにツッコミどころがあるので、また時々観てしまうという中毒性があるんですよね。
あと、中毒性があるのはクィーンの「フラッシュのテーマ」ですかね〜。
「テッド」でもかかっていましたが、「フラッシュ!アァ〜」ってやつです。
僕はクィーンというバンドの存在は「フラッシュ・ゴードン」で初めてしました(爆)。
高校生くらいになり洋楽好きな人にクィーンの話を聞くと、自分の中では「フラッシュ・ゴードンのバンドかぁ」と思っていましたよ(洋楽詳しくなかったので)。
つーか、よくクィーンはこの仕事受けたなぁ。
それともノリノリで受けたのかな。
ある意味、弾けている映画ではあるからね。
・・・・w。
あまり書くことないなぁ。
とりあえず、話のネタにはなるので、一度くらいはご覧になったらいかがでしょう?
面白くなくても文句言わないでね。
文句はテッドとジョンへ。

「テッド」の記事はこちら→

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本 「怪談の道」

浅見光彦シリーズの一作です。
作者の内田康夫さんはミステリーを書くとき、プロットをあまり決めずに書き始めるというように以前もあとがき等で書いていました。
物語の構成などがミステリーでは肝であるわけで、そういうことができるのはけっこうすごいことだと思います。
それでも内田作品では、プロットを考えないで書き始めたとは思えな程にピタリと最後がしっかりと納まる作品があります。
しかし、そのようなスタイルだとどうしても最後が辻褄合わせ的になってしまう作品もいくつか見受けられますね。
本作などはそういうものの一つ。
ラストの結末は、やや唐突感はありましたし、また犯人の決着のつけ方というのは浅見光彦シリーズでは「いつものパターン」であって、ちょっとまとめあげるために逃げた感がありますね。
ただいつもながら取材で得た情報を作品の中に織り込んでいく手腕はさすがと言えます。
小泉八雲については、本作の冒頭でその文章が引用で載せられていましたが、その文体の美しさから小泉八雲の作品は読んでみたくなりました。

「怪談の道」内田康夫著 角川書店 文庫 ISBN4-04-160746-9

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「テッド」 大人になったのび太だよ〜

「フラッシュ!!アァ〜〜」って、なんと「フラッシュ・ゴードン」推し。
「フラッシュ・ゴードン」なんて若い人は知らないのでは???
僕はもちろん知ってます、劇場で観たし。
「スター・ウォーズ」から始まったスペースオペラブームに乗っかって、80年に製作されましたが、子供心にも「何じゃこりゃ」とツッコミどころ満載でした。
でもこれがなかなか中毒性があり、ツッコミを入れるために観るという、不思議な魅力があったりするので、思い出したように観てしまう・・・(DVDを持っているのだぁ!)
というか、フラッシュ・ゴードンを演じていたサム・ジョーンズが登場したのはビックリした!
あのときジョンの頭の中で「フラッシュ!!アァ〜〜」が響き渡っていましたが、僕の頭の中でも響いてましたよ。
まさに出オチ。
他にも80年〜90年頃の映画のパロディや引用がたくさんあり、世代的にドンピシャだったの大いに笑わせていただきました。
彼女からしたら、自分の電話の着信音に「ダース・ベーダーのテーマ」があてられていたら、なんとも微妙ですよねぇ。
テッドが誘拐されて逃げるところに一瞬「レイダースのテーマ」が流れたりするので、「うふふ」となってしまいます。
監督はほとんど同じ世代ですから、観ていた映画が同じなのだろうなぁ。
ノラ・ジョーンズとか、ライアン・レイノルズとか、カメオで豪勢な使い方をしているのも「うふふ」ポイントですねぇ。

さて、本題。
この作品観終わって思ったことは、ジョンはまさに大人になったのび太だなぁと。
失敗しては反省し、また失敗しては反省し・・・、のび太が大人になった姿がまさにジョン。
でもってドラえもんがテッドなんですね。
ま、ドラえもんよりテッドはかなり性悪ですが。
でものび太にとってドラえもんがかけがえのない親友であるのと同じように、ジョンにとってもテッドは無二の親友。
自分のことをわかってくれていると思えるから、ずっとずっといっしょにいられると思うのです。
でもそういう心地よい関係でいると、ずっと大人になれないまま。
ジョンもそれはわかっていて、テッドと離れて暮らそうとします。
「ドラえもん」でもそういうエピソードがありましたよね。
有名なエピソードの「さようならドラえもん」とか。
大人にならなきゃとのび太もジョンも、親友と別れようと決心しますが、けれどそのことにより相棒の大切さに気づいていく。
テッドが動かなくなってがっくりきているジョンは、ドラえもんが未来に帰ってしまったときののび太にも重なります。
しかしその別れの決断により、のび太もジョンもちょっと大人になっていくという。
でものび太がやっぱりのび太であるように、ジョンもやっぱりジョンのままなんだろうなぁ。
ずっとロニーに怒られ続けているような気がします。

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2013年1月20日 (日)

「特命戦隊ゴーバスターズVS海賊戦隊ゴーカイジャー THE MOVIE」 バランス感覚が非常に良い

今年のスーパー戦隊の「VSシリーズ」を観てきました。
元々「VSシリーズ」はビデオ・DVD向けのコンテンツでしたが、最近は劇場公開を最初から考えて作るようになりましたね。
夏のスーパー戦隊の映画はどうしても「仮面ライダー」のおまけ的な感じになってしまい尺も短い(30分くらい)ので、60分程度とはいえ倍ぐらいの長さなので見応えがでてきますね。
で、今年の「VSシリーズ」ですが、よく考えてみると前作の「ゴーカイジャー」と現役の「ゴーバスターズ」はけっこう戦隊の性格が真逆なんですよね。
「ゴーカイジャー」はマーベラス本人もそう言っていますが、地球を守るなんて気はさらさらなく、目の前の敵を倒していくだけ。
名前の通り、通り一遍の正義やらルールには縛られない、豪快さがあるわけですね。
対して「ゴーバスターズ」は、地球を守る使命に対し、非常に真面目なところがあります(それが仕事ですしね)。
まさに地球を守るプロフェッショナルな戦隊だと言えます。
個人的には「ゴーカイジャー」の豪放磊落なところ、物語も勢いがあるところが好きなんですよね。
その分現在オンエア中の「ゴーバスターズ」は結局いまいち乗り切れないところがありました。
ですので、この両者が対峙する「VSシリーズ」はどちらかというと「ゴーカイジャー」が「ゴーバスターズ」を食ってしまうかもと思ったりしていました。
しかし、観てみると「ゴーカイジャー」も「ゴーバスターズ」もそれぞれの「らしさ」が出ている極めてバランスのいい作品になっていました。
「幻のレンジャーキー」で、「ゴーカイジャー」や「ゴーバスターズ」がタイムスリップしてしまうなんていうぶっ飛んだ設定は、やはり「ゴーカイジャー」らしい。
「ゴーバスターズ」らしさはヒロムたち3人と、バディロイドの友情にスポットが当てているドラマ部分によくでていたと思います。
脚本がよくできていて、60分とは思えないほどの密度がありました。
アクションにしても「ゴーカイジャー」らしい豪快チェンジを交えた豪快な戦いっぷりと、「ゴーバスターズ」らしいスタイリッシュでスピード感あるアクションがうまく融合していたように思います。
これは「ゴーバスターズ」で新しいスタイルを提案した福沢アクション監督の力が大きいですかね。
福沢さんは「ゴーバスターズ」が初めてのアクション監督ですが、なにしろゴーカイレッドを演じていたわけですから「ゴーカイジャー」のことも知り尽くしていますよね。
演出的にも60分という尺で脚本が盛りだくさんだったので、ある意味かなり割り切った展開にしているのが小気味がいい感じがします。
柴崎監督は「仮面ライダーオーズ」の夏の劇場版、「ゴーバスターズ」の夏の劇場版の監督をしていますが、どちらも個人的には今ひとつな感じがあります。
「オーズ」は冗長な感じ、「ゴーバスターズ」はやや忙しい感じとバランス感がよくない感じがしていましたが、本作は非常にテンポ良くうまくまとまっていたと思います。
ビデオ用のコンテンツを劇場公開するのではなく、最初から劇場用に作っているというのも安っぽくない感じでいいかもしれません。

しかし、東映は特撮の劇場コンテンツをコンスタントに公開するという戦略になってきましたね。
2〜3月:スーパー戦隊の「VSシリーズ」
4〜5月:様々な実験的な試みを行う劇場版(「電王」の3週連続公開とか、ヒーロー大戦とか)
8〜9月:夏の「仮面ライダー」映画
12月〜1月:「仮面ライダー」のMOVIE大戦
これに「宇宙刑事ギャバン」が10〜11月くらいで定着すると初夏を除いて、ほぼ一年中東映特撮を劇場で流しているという・・・。
こういう特撮映画はファミリーと、大きなお友達が着実に入るという目算が立てられるので、東映的には非常に良いコンテンツではないでしょうか。
これは経営安定化につながり、すごく経営的センスがある感じがしますよね(これは東映撮影所長の白倉さんの考えではなかろうか)。

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本 「好かれる方法 -戦略的PRの発想-」

最近戦略的PRという言葉をマーケティング関連ではよく耳にします。
自分の仕事も広告だけに留まらず、広報・PRという領域にまで最近は広がっているので、手にしてみました。
正直、PR的業務に関わっている身からすると、この本からそれほど新しい発見はありません。
ただこの本が書かれたのが2006年ですので、その時点でいえば新しい話であったかもしれませんね。
それほどこの数年で戦略的PRというものが浸透してきたことがわかります。
浸透してきたとは言っても、一般的にはまだまだその理解が進んでいないことは確かです。
いまだに広告・宣伝と広報・PRというものがごっちゃになっている方は一般的には多いでしょう。
またマーケティング関連では最近は戦略的PR的に注目が集まっているので、広告などの手法がどうなのかということを言う方もいます。
実務でやっている者の意見としては、広告・宣伝と広報・PRというのは両方ともに重要なコミュニケーション手法であり、どちらがいいという話ではないということです。
すべてにおいてパーフェクトなコミュニケーション手法は残念ながらありません。
広告・宣伝の得手不得手、広報・PRの得手不得手というのがあって、それを理解して相互に補完しながら総体でお客様に伝えたいことを伝えるというのが正しい考え方であると思います。
ただし多くの企業は広告・宣伝を担う部署と、広報・PRを担う部署というのが別々の組織であることが多く、それらの活動がうまく連携をとれているとは言いがたいというのは事実でしょう。
今後のコミュニケーション戦略を考える上で、広告・宣伝と広報・PRを総合的な戦略をベースに、それぞれの得手不得手を理解した上で運用していくことが重要になってくるに違いありません。
広告・宣伝、広報・PRの双方に通じたコミュニケーション・マネージャー的な存在が必要になってくると思います。

「好かれる方法 -戦略的PRの発想-」矢島尚著 新潮社 文庫 ISBN978-4-10-610184-7

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2013年1月19日 (土)

「96時間/リベンジ」 オヤジ、頑張る、ふたたび

あの無敵の親父が帰ってきた!
ということで、リーアム・ニーソン主演の「96時間」の続編「96時間/リベンジ」を観てきました。
前作もかなり良かったのですが、本作もそのおもしろさを継承し、いい仕上がりになっています。
何と言ってもこの作品には、この手のアクション映画の常套句ではあるんですが、「息もつかせない」という言葉がぴったりですね。
リュック・ベッソンが脚本を書くアクション映画は、最近では珍しく、だいたい90分程度のものが多いんですよね。
この尺なのでストーリーをあまり複雑化しないというのが、彼の書く作品の特徴ですね。
ですので物足りなく感じる作品もあれば(「ロックアウト」とか)、本作のようにシンプルなことが良い方に働いてとてもスピード感が溢れる作品になったりもするんです。
本作は観ていて、ずっとアドレナリンでっぱなしというか、ずっとハラハラしている感じがありました。
アクション映画を観るときの興奮というのはやはりこれだよね、っていう感じがします。
今回監督に起用されたオリヴィエ・メガトンの演出もスゴかったです。
アクションシーンは凄まじく細かいカット割りをしていましたよね。
ほとんどカメラも動いていましたし。
中でもカーチェイスシーンのカット割りの細かさといったら!
それが作品のスピード感につながっていたように思います。
あとこのシリーズの魅力はそういった作品全体のアドレナリン溢れるスピード感だけではなく、リーアム・ニーソン演じる主人公のブライアン・ミルズのキャラクターにもありますよね。
元CIAの工作員で明晰な頭脳、冷徹な精神、頑強な肉体、そして武術やテクノロジーに通じる最強の男。
拉致をされているのに周囲の音や移動距離を覚え、さらには爆発音の伝わる速度の差(電波と音波)で位置を把握する明晰な頭脳。
敵は容赦なく始末する冷徹な精神。
近接戦闘であろうと、射撃であろうと無敵の強さで、そして様々なツールも使いこなす。
まさに無敵の男です。
そうでありながら、娘に対しては親バカっぷりを発揮。
このギャップがブライアンを数あるアクション映画の主人公たちとは違った強い印象を持たせるんでしょうね。
家族や自分が拉致されながらも一瞬たりとて冷静さを失わないのに、娘の運転免許の試験でハラハラするってのどうよって、ツッコミを入れたくなるブライアンがいいんですよね。
このブライアン・ミルズにリーアム・ニーソンがぴったりとはまっています。
本人も演じていて楽しいんじゃないかな。
あっという間の90分間で、久しぶりにアクション映画を観たぞ!って満足感をもちました。
こちらの作品、まだまだ続編作れますよね〜。
次は娘のウェディングのときに、旦那と一緒に拉致っていうのはどうでしょう。
当然のことながら救出に行くブライアンですが、旦那には「お前はいい」とか言って置いてきぼりをくらわす的な感じなどおもしろいかも。

前作「96時間」のレビューはこちら→

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本 「恋する空港 -あぽやん2-」

こちらの作品、新野剛志さんの「あぽやん」の続編になります。
ちょうど今週からテレビドラマもスタートしましたね。
主人公の遠藤には伊藤淳史さんはイメージ合っているかなと思いました。
さてこちらの作品「恋する空港 -あぽやん2-」ですが。
前作では空港勤務になった遠藤がいくつものトラブルを経て、一人前の「あぽやん」として成長していく物語でした。
本作では遠藤は一人前のスーパーバイザーとして後輩の指導にあたります。
遠藤が後輩の枝元にスーパーバイザーの心得などを言うところがあったりすると、「成長したなぁ」としみじみ。
とはいいつつも、空港では様々なトラブルが勃発し、遠藤は駆け回ることになるのは変わりません。
前作は成長物語としての要素が強かったですが、本作ではタイトルにもある通り、恋愛がひとつの中心になります。
遠藤のお相手は、前作にも登場した同僚の森尾です。
なかなか二人の気持ちが通じ合わずもどかしい感じがするのは、恋愛ものならでは。

あと本作を読んで思ったのは、登場人物の温度感の低さなんですね。
遠藤にしても、森尾にしても表面的にはけっこう温度が低い。
仕事に関しての誇りにしても、また恋愛にしても想いは強いのですけれど、それが表に出てこない。
いわゆる「お仕事系」の小説や映画というのはその想いが溢れ出てくる感じがするのですけれど(例えば「踊る大捜査線」の青島とかね)、本作はそういう感じではないのですね。
それでも淡白というわけではなくて、強い想いは感じるわけです。
このあたり表面的には淡白に見えるっていうのは現代の若者の感じが出ているかもしれません。

前作「あぽやん」の記事はこちら→

「恋する空港 -あぽやん2-」新野剛志著 文藝春秋 文庫 ISBN978-4-16-779502-3

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2013年1月18日 (金)

「LOOPER/ルーパー」 なんとかバランスをとったかな

タイムトラベルものというのは、今までも幾多の作品が作られて、いくつものアイデアが披露されてきました。
ですので、観る方もありきたりのアイデアでは満足できないんですよね。
タイムトラベルもののアイデアで肝となるのが、タイムパラドックスですね。
タイムパラドックスで有名なのは「親殺しのパラドックス」というのがあります。
未来から子供がその親を殺したら、その子自身はどうなるか?
親が死んでいるわけだから、その子自身もいなくなるわけで、そうなると親殺し自体もなくなる・・・?のようなものです。
親殺しではないですが、親が結婚しなかったら自分は存在しないかも?というのが、有名な「バック・トゥ・ザ・フューチャー」のアイデアの肝なわけです。
「ターミネーター」などもそうですね。
さて本作はどのようなタイムトラベルに関するアイデアが盛り込まれているのでしょうか。
タイトルにある「ルーパー」と呼ばれる男たちは、未来から送り込まれる人間を殺すことにより報酬ももらっています。
30年後の未来では法律により殺人ができない状態になっていますが、闇の組織は消したい者がいるとその人物を過去に送り「ルーパー」に始末させているのです。
主人公ジョーもそういった「ルーパー」のひとりです。
ジョーがいつものように仕事をしようとしたとき、送り込まれた人物が。
それは30年後の自分(オールド・ジョー)であったのです。
オールド・ジョーはある目的を持って未来からやってきており、まんまとジョーから逃走します。
タイムパラドックスでは先ほどあげたように親殺しというのはよくありますが、自分殺しというおのは意外と珍しいかもしれません。
現在の自分と未来の自分が係わり合うことでいろいろな影響が出てきますが、このあたりの細かい設定がなかなかおもしろい。
ジョーの行動に変化が起こると、その影響を受けオールド・ジョーが体験した記憶自体が変化していってしまうということなどはなかなか興味深いアイデアです。
またジョーが怪我などをしてしまえば、その影響がオールド・ジョーにも出てくる。
ジョーのオールド・ジョーへのメッセージの仕方のアイデアなども面白いです。
またこれらのことによりオールド・ジョー、ジョーそれぞれに切迫感が出てくるんですね。
まずオールド・ジョーは。
1.自分の身を守らなくてはいけない(組織からも、そして若い自分自身からも)
2.さらには若い自分も守らなくてはいけない(若い自分が死ねば自分も消えるから。でも守る相手は自分を狙っている)
3.その上で未来で自分の妻を殺した組織のボスの若かりしときの人物を殺さなくてはいけない
そしてジョーは。
1.オールド・ジョーを殺さなくてはいけない(そうしないと組織に消されるから)
2.自分自身の身を守らなくてはいけない
そしてさらには「ループが閉じられる」ことに関わる人物と、それにまつわるパラドックスなどが物語に絡みます。
ですので、物語には主人公であるジョー、そしてオールド・ジョー、さらにはこのタイムパラドックスそのものの構造というようにポイントがいくつもあり、バランスをとるのがけっこう難儀な作りになっています。
割に上手くバランスはとっていたほうだとは思いますが、それでも後半はジョーの存在感がやや薄れてしまうなど匙加減に苦労した感じはしますね。
後半は突如「キャリー」少年に焦点が言ってしまい、話がどこかにいきそうなりましたが、最後の決断でやはりジョーの物語だったという幕引きになりました。
けっこう危ういバランスであったとは思います。
でも個人的にはオールド・ジョーのほうが葛藤や切迫感を感じているので、彼を中心に物語を作っても面白い物語ができそうな気がしました。
愛する者のために命をかけてきたのに、自分が動けば動くほど、その愛する者の記憶が薄れていってしまう・・・、なんか切ない物語ができそう。
ともあれ、なるほどというアイデアもあり、バランスもなんとか踏ん張った作品で敢闘賞といったところでしょう。

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2013年1月14日 (月)

「私をスキーに連れてって」 とりあえず・・・・

本日の関東は最近には珍しく大雪。
久しぶりに雪が積もっていくのを眺めていたら、とりあえず「私をスキーに連れてって」を観てしまった。
公開した1987年はバブル経済真っ盛り、この映画の公開後スキーブームが巻き起こり、ゲレンデに多くの若者が集まったという現象が起こりました。
その頃は、リフトもスゴく並びましたよね。
今観ると別段優れた作品というわけではないのですが、時代を作ったというか、時代の空気を象徴した作品であることは間違いないでしょう。
公開当時は大学の浪人時代であったので、観たときは何か憧れのようなものはありましたねぇ(というか何故受験の直前なのに映画など観に行っていた?自分)。
試験は無事受かり大学生となった自分ですが、やはりスキーは行きましたよ。
お金が無かったので、新宿の高層ビルあたり(当時は都庁舎もなかったな)から出発する安〜いツアーバスで。
世の中のスキーブームもしばらく続きましたよ。
社会人になって数年くらいは毎年数回は行っていましたね。
今考えると病いのようなくらいに熱心に。
ちょうどスノーボードが流行り始めたくらいに自然と行かなくなりましたが。
久しぶりに本作を観て、なんか懐かしいアイテムも登場していました。
こういう映画でアイテムを登場させ購買意欲を高めるというのは、今ではありふれたマーケティング手法ではありますが、本作はそういうのの走りだったかもしれません。
主人公たちはゲレンデで連絡を取り合うのに無線を使っていましたが、これが当時カッコよく見えてね。
さすがに無線の免許は取らなかったのですが、その代わりにトランシーバーは買ったなぁ。
雪原を疾走するセリカGT-4もカッコよかった。
会社の先輩は憧れてGT-4買ってました(それも白の)。
しかし、今の技術があったらこの映画は成立しないですね。
当時は携帯電話すらなかったし、今だったら無線など使わずケータイで十分。
電話番号をメモで渡すなんてことも今はないですよねぇ。
主人公矢野のオフィスが度々出てきますが、「なんかスッキリしているなぁ」と思ったら、机の上にパソコンがない!
そういえば矢野は「検算」をしないでミスをして上司に怒られてましたっけ。
手計算だったのね、それは間違えるわ・・・。
「とりあえず」のカメラもでかいしね(「使い捨てカメラ」ですらなかった)。
今の若者が観たら、なんて思うでしょうね。
「なんでこんなめんどくさいことしてんの?」みたいな。
ま、これが25年(!)の歳月ってものです。
時代を感じると言えば、竹中直人さんの髪の毛がたくさんあってびっくり。
今の状態がイメージのデフォルトになっていたので、「フサフサしてんなぁ」と。
でも変わらないのが原田知世ちゃん(あえて「ちゃん」と呼ばせてもらいます)。
当時も可愛いなぁと思いましたが、今観ても可愛い。
清純さというか、透明感というか、そういう感じがあるんですよね。
でもって原田知世さんて25年経った今でも同じような可愛らしさがあるんです。
こういう風に可愛らしさをずっと持っている人っていうのも希有だなとは思いますね。

今日のはレビューっていうより思い出話ですな。

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本 「忍びの国」

「のぼうの城」の和田竜さんの時代物です。
和田さんは時代物しか書かないと言っているので、必ず時代物なのですが。
とりあげているのは、戦国時代の伊賀の乱と言われるもの。
その中でも第一次伊賀の乱と呼ばれるもので、織田信雄が伊賀に攻め入り、撃退されてしまった史実を元にしています。
「忍びの国」とは皆さんもよく知っている伊賀忍者の里、伊賀です。
戦国時代というのは、力をつけてきた地方の武士たちがそれぞれの地域で覇権を競い、やがて大きな領土を獲得していったという時代です。
しかし、伊賀という地方は特殊で、狭いエリアの中で66人もの地侍がいたと言われています。
それらの地侍は互いに戦い合っていたというから異常と言えば、異常です。
また伊賀は、忍術という特殊な技術を身につけた人間を、戦国の世の各地に言わば傭兵として貸し出し、それで金を得ていました。
そういった特殊事情の中で、伊賀に暮らす人々はおよそ人らしくない感覚を持っていた人々だと本著では描かれています。
情やら義理などは関係なく、すべてはおのれの身を守るため、そして金を得るために戦う。
それは肉親であっても。
主人公である忍者、無門はそういった伊賀忍者のパーソナリティを持ちつつも、惚れた女に頭が上がらないという極めて人間的なところを持ち合わせた人物です。
一般的な人としても、忍者としても捉えどころのない人物。
これはタイプは違うにしても、「のぼうの城」の長親に通じるところがあるような気がしました。
やはり「のぼうの城」の忍城と同様に、伊賀の国も滅びの道を歩むわけですが、その中で無門は大事なものを失い、初めて人間らしい気持ちになります。
また伊賀の国は滅びながらも、何人かの「人間ではない」ような感覚を持った人々は世に散らばったわけですね。
それがまた戦国の世をさらに混沌とさせることに繋がる予感も感じます。
僕は山田風太郎さんの忍法ものがけっこう好きでほとんど読んだのですが、本作は忍法ものとしても久しぶりの作品。
風太郎忍法帖ほど奇抜な技はないにしても、忍者らしい手練手管が繰り広げられ、そのあたりは楽しめました。

「忍びの国」和田竜著 新潮社 文庫 ISBN978-4-10-134977-0

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2013年1月13日 (日)

「映画 妖怪人間ベム」 そうか、イエスか

まったく観に行くつもりはなかったのですが、なんとはなしに。
テレビドラマも観ていませんでしたし、オリジナルのアニメも内容はほとんど知らなかったもので。
知っていたのは「早く人間になりた〜い」ってセリフだけ。
そういうことで全く期待値もなかったからか、観終わって持った印象はけっこう良くできているな、でした。

ベム、ベラ、ベロ(この名前も知ってた)の3人の妖怪人間は、ある博士の研究から生み出されました。
しかしその博士が急逝し、放置されたその研究途中の物質から3人は誕生したのです。
この3人は人間の善良な部分だけを持つ生命体であったわけです。
実はそのとき同じ物質から、別の生命体「名前の無い男」が生まれていました。
「名前の無い男」は言わば悪の塊であり、彼が(ベロの言う)「緑ドロドロ」を人間たちに注入すると、その人間は自身の悪の心を暴走させてしまいます。
テレビシリーズはそういった悪の心を暴走させた人間と、そしてその元となった「名前の無い男」との戦いが描かれていたようですね。
人間というものは、その中に善良な部分と悪の部分を両方合わせ持っているもの。
同じ人物が時にはとても親切であり、また別の時にはとても意地悪であるというのもよくあることです。
日々、内面で善の心と悪の心が葛藤しているのが、人間と言ってもいいかもしれません。
ですので、ベム、ベラ、ベロが「人間になる」ためには、人間が持っている悪の側面も持たなければいけないというわけですね。
「名前の無い男」が自身を取り込めと、ベムに言うのはそういう意味でしょう。
3人の妖怪人間は感情が高ぶると醜い姿に変貌します。
そのため映画の冒頭に描かれているように、人助けをしたとしても、その容貌のために助けた人間に迫害され、追われてしまうのです。
それでもベム、ベラ、ベロは人を助ける。
人の中にはそういった醜い心だけではなく、善良な心もあるということを知っているから。
終盤の場面で、人を救おうとするためにベムが「俺達が犠牲になる」という言葉を残し、醜い姿になって警官隊の前にいく場面がありました。
ああ、なるほど、この3人はイエス・キリスト的な存在なのかもしれないと思ったわけです。
彼らは醜い心を持った医薬メーカー社長を含め、彼ら自身が犠牲になることにより人を救いました。
これは人の原罪を背負うために自ら磔となったイエスを髣髴とさせます。
彼らがその醜い姿のために迫害されることも、イエスのイメージに繋がります。
そういえば彼らが「人間になる」ことができるための草が生えていた廃墟の鉄骨は十字架のような形をしていました。
これは制作者側にもそういったイメージがあったということでしょうね。

ベム、ベラ、ベロを生み出した博士は人工的に人間を作ろうとしました。
それは完全なる人間を作ろうとしたらかもしれません。
人間というのは、そもそもが善と悪とがごちゃまぜな不完全な存在なわけですね。
ベム、ベラ、ベロは善の心を持ち、永遠に生きられる、そういう意味で人間よりも完全な人間であるかもしれません。
しかし彼らは「早く人間になりたい」と言います。
なぜ完全な彼らが不完全な人間になりたいと思うのでしょうか。
それは「孤独」なのかなと思いました。
彼らと同類であるのはあの3人だけ、それは永遠に増えもしない。
人というのは他人との関わりの中で生きていくもの。
彼らにはそれだけがありません。
3人が憧れるのはそういった人との関わりなのでしょう(本作でのベロとみちるのエピソードで象徴されるように)。
しかし多くの人間は彼らを迫害し、関わりを持つことができません。
彼らがそういったことに落胆しながらも絶望はしていません。
そして自分たちが関われなくても、自身を犠牲にして人々のそういった関わりを守ろうとするわけですね。
やはりこういったところにもイエスのイメージを感じてしまうのです。

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2013年1月 6日 (日)

本 「鎮火報」

昨年「ロード&ゴー」という作品を読んで面白かったので、同じ作者、日明恩(たちもりめぐみ)さんのこちらの作品「鎮火報」と読みました。
この作品は「ロード&ゴー」に登場する人物が出ているサイドストーリーになります(こっちが本流か)。
「ロード&ゴー」は「救急」の話でしたが、本作は「消防」の話です。
ちなみにタイトルにある「鎮火報」というのは、消防車が走っているときに「チーン、チーン、チーン」と鳴らす合図のことです。
火災現場に向かうときは「ウーウー」というサイレンですが、「チーン、チーン、チーン」というのは火事が消火し終わって帰署するときの合図ということです。
本作を読むまで、まったく僕はあの鐘の音の意味を知りませんでした。
なので「チーン、チーン、チーン」という音を聞いたら、「火事が消火できたんだ。消防士の方ご苦労様です」と思ってあげてください。
「鎮火報」のことを知らないという自分も含め、あまりに世間はこういうことに対して無関心なのですよね。
この「無関心」が本作品のテーマの一つであります。
この作品は、放火の犯人は?動機は?というミステリーの側面、また主人公大山の成長の青春物語の側面、消防士のお仕事ものの側面といろいろな側面があります。
これらの要素がどれも中途半端ではなくしっかり描かれていて、かつバランスもいい作品だなと思いました。
でもその中でもテーマとしてあるのが先ほどの「無関心」だと思いました。
自分が火事のときは思いっきり頼るのに、消防車がサイレンを鳴らして交差点に入っていくのに道を譲らず横断歩道を渡る人がけっこういます(僕も先日、見ました)。
どこかで消防車の到着を待っている人がいるかもしれないのに。
自分ごとじゃなければ、無関心。
というより想像力がないのでしょうね。
ちょっと考えれば、さきほど書いたようにどこかで誰かが消防車の到着を待っているということは思いつくと思うんですけれど。
本作では「無関心」については「消防」の話だけではなく、「不法滞在外国人」についても触れています。
というよりかなり大きなテーマとなっています。
こちらについても自分の都合のいいことしか考えない、他人に対しての「無関心」が描かれています。
本作を読むといろんなことに「自分は関係ないから」と言うことが罪深いなと思いました。
この作家さんはそれほど有名じゃないのですけれど、注目かなと。
それほど多作な方ではないようなのですけれどね。

「ロード&ゴー」の記事はこちら→

「鎮火報」日明恩著 双葉社 文庫 ISBN978-4-575-51393-6

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2013年1月 5日 (土)

本 「氷菓」

こちらの作品、初めて電子書籍で購入して読んだ作品になります。
基本的には、僕はやはり読みやすいので紙の本派なのですが、電子書籍も便利ではありますよね。
家ではiPad、外ではiPhoneで読むというも可能なので。
うっかり本を持つのを忘れてでかけてしまった、なんてときは便利です。

さて作品について。
作者は米澤穂信さんで、この方の作品は「インシテミル」を以前に読みました。
しっかりとトリックや仕掛けをようしたミステリーを書かれる方だなと思いました。
でも古典的というわけではなくて現代らしさもある作品でした。
さて本作はミステリーではありますが、人が死ぬわけでもなく、何かが盗まれるわけでもありません。
この作品の舞台となるのは高校で、主人公奉太郎たちが所属する「古典部」が中心になります。
「氷菓」に続いて同じ登場人物でシリーズ化されているので、通称このシリーズは「古典部」シリーズと呼ばれていますね。
本作は「古典部」そのものの謎を解き明かすのが主軸になります。
中身は章ごとに短編的な構成にもなっていて小さな謎を解き明かしつつ、最後には「古典部」の謎を解き明かすという流れになっています。
主人公奉太郎が探偵役となりますが、よくある探偵役が好奇心旺盛なのに対し、この主人公は基本的には何もしたくないという受け身スタイルであるのがユニークなところかもしれません。
この主人公にいろいろ謎を持ってくるのが、「古典部」の部長であるえるという少女になるのですが、彼女が好奇心の塊のようなタイプなのですね。
奉太郎は「省エネ」に生きることが心情のタイプで、部活などに熱く打ち込む生徒たちをやや冷ややかに見ている若いのに老成しているような感じの少年です。
そういう彼ですが、えるたちに引っ張られていくように謎に関わるようになり、そのような中で興味をもって関わっていくのも悪くないかなと思うようになるといった青春もの的な要素もありますね。
ミステリーも謎自体は人死になどがでるものではないのですが、謎解きなどはしっかりとした論理が作られています。
本作は一言で言うと青春ミステリーという感じでしょうか。
こちらの作品はアニメ化もされているようですね。
今度観てみようかな。

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2013年1月 4日 (金)

「レ・ミゼラブル(2012)」 与える、与えられる

昨年末より公開され、映画ブロガーさんの間でも昨年のランキングの中で評価が高かった大河ミュージカルを観てきました。
原作はフランスの文豪ヴィクトル・ユゴー、そして最近では舞台のミュージカルとして世界各地でロングランを続けています。
本作はこのミュージカル版をベースに作られています。
みなさんが評価されているのがわかる作品でした。
驚いたのは全編セリフがほぼ100%、歌になっていたということ。
ミュージカル映画というのは数あれど、普通の芝居の中にミュージカルシーンが入っているというものがほとんどです。
全編、歌で構成しているというのは最近では珍しいのではないでしょうか。
この思い切った大ミュージカル劇がとても素晴らしかったです。
最近のミュージカル映画というのは、よく考えてみると「歌とダンス」がセットのものが主流なんですよね。
歌はもちろんなのですが、どちらかというと「ダンス」で魅せるところがあるように感じます。
しかし本作ではほとんどダンス的なものはなく、「歌」で魅せる。
そして、本作は歌そのものを聞かせるということではありません。
本作における歌は、登場人物たちの心情、魂の叫びのようなものなのですね。
ジャン・バルジャンの苦悩、フォンテーヌの人生への絶望感、コゼットとマリウスの愛する想い・・・。
それら登場人物の想いのたけが歌われる。
これらの想いは普通の映画でいうと登場人物の内面の声、いわばモノローグになるような真情です。
それを歌い上げる。
そもそも歌というものは、想いをのせるものなんですよね。
最近は歌はどちらかといえばメロディーラインで聴くという感じですが、そもそもは想いを言葉にしそれに節をつけるというのが原点なわけですよね、和歌などもそうですけれども。
それを改めて確認した気がします。
想いがのった言葉、そしてそれをさらにのせる節(メロディー)。
メロディーも歌い方にも想いがのってるので言葉がわからなくても、想いが伝わってくるが素晴らしい。
要所々々で出てくるメインテーマのメロディは変わらないのですが、そのときの役者の歌い方でまったく真情が違って聞こえてくるのもミュージカルならではの素晴らしさだと思います。
登場人物の想いを表す歌ですから、全編が歌で構成されているというのも納得なわけです。
そうそう、ここはミュージカルならではという場面も上手く作られていたかなと。
それぞれの違った想いが重ね合わせて歌われるシーンです。
コゼットとマリウスが互いの想いを歌い上げるところにそれを見守らなくてはいけないエポニーヌの想いが重ねられる場面、またやはりコゼットとマリウスが愛を確信しあう歌にジャン・バルジャンがもうコゼットをマリウスに任せようと決心する想いを重ねるシーンなどです。
この想いを重ね合わせるというのは、普通の映画手法ではうまくできないところで、これはミュージカルならではだなと思ったところですね。
しかし歌もそれを歌い演じる役者がしっかりとしていないと興ざめになってしまうもの。
本作においてはヒュー・ジャックマン、ラッセル・クロウ、アン・ハサウェイ、アマンダ・セイフライド、エディ・レッドメイン、主要な役者が誰も申し分なくよかったですね。
特にフォンテーヌ役のアン・ハサウェイはお見事でした。

本作は超有名な物語なので、ストーリーはご存知の方が多いですよね。
ジャン・バルジャンが銀の燭台を盗む件は特に。
物語の舞台となっている時代はフランス革命のあと、ナポレオン独裁を経て、王政復古した時代です。
そして本作でも描かれているように民衆の不満が蓄積し、再び革命の兆しが見えてきています。
社会そのものが不安定で、そして価値観も大きく変遷している時代です。
そのような激動の時代の中で人々が生きていくのは、とても困難な時であったのでしょう。
生きていくためには、他人から奪っていかなくてはいけなかった弱肉強食の時代。
コゼットが預けられていた宿屋の主人たちなどはその典型ですよね。
そしてジャン・バルジャンもそうやって罪を犯したわけです。
しかし、人から奪うというのは、自分も何かを奪われることなのかもしれません。
人としての大事な部分を、誰から奪うことにより、だんだんと自分も奪われていく。
そしていきついた先は宿屋のような浅ましい状態なわけですね。
けれどジャン・バルジャンは司祭によってそれに気づいた。
そして、また、彼はコゼットというかけがえのない宝物に出会うことにより、気づくわけです。
与える、ということは与えられるということだと。
彼はコゼットを守り育て、彼の得たもの、そして愛情を彼女に与え続けます。
しかし彼は与えることによりもっと多くのものを得たのですよね。
それはコゼットからの愛情であったり、そしてまた自分自身が生きているということの意味合いといったものもそうかもしれません。
奪うことは、奪われること。
与えるということは、与えられること。
その真理に気づくことが自分の人生を意味あるものにするのかもしれません。
これは当時のフランスに限ったことではないのでしょう。
今の日本においても同じことが言えると思います。
格差社会といわれたり、世代間ギャップのようなこともあったり。
税金やらいろんなことも、何か奪われてる気分のようなものが、みんなにあったりする気もします。
さきほど書いたような真理というものに、それぞれが気づくということが大事だったりするかもしれません。

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2013年1月 3日 (木)

「トワイライト・サーガ/ブレイキング・ドーン Part2」 究極のお姫様物語

ここまで観たのだから最後まで観ないとな、ということで行ってきました「トワイライト・サーガ/ブレイキング・ドーン Part2」。
前作の「Part1」でとうとうヴァンパイアに転生したベラ。
そしてエドワードとの間にもうけた子、レネズミは「不滅の子」としてヴォルトゥーリ一族に狙われることとなります。

<ネタバレしますので、この先はご注意を>

「Part1」がずっとベラとエドワードがイチャイチャしていたのが、かったるくて、まどろこっしかったんですよね。
ま、このシリーズはずっとそうですが、特に前作はその傾向が強かったと思います。
それは主人公のベラが受け身的で逡巡しやすい性格であることにより、物語のドライブ力がないというのがあったかと思います。
しかし本作は彼女がヴァンパイアとなって特殊能力を身につけたからか、または子供ができてその子を守らなければならない母の気持ちがそうさせたのか、ベラがけっこう積極的な性格となっているのですよね(その分、エドワードの影がえらく薄くなっていますが)。
ベラのそういう変化によって物語のドライブ力は今までよりもでてきていたと思います。
最後のヴァンパイアVSヴァンパイア戦はそれなりに見応えありました。
本作のヴァンパイアはそれぞれが特殊能力を持っているという設定なので、このバトルはなんか「X-MEN」シリーズのX-MEN VS ブラザーフッドのような感じがしましたよ。
それなりに盛り上がって観ていたのですが、最後は「夢オチかよ〜」的な(正しくは夢オチじゃないけど、似たようなもの)のがっかり感が。
このへんのがっかり感はこのシリーズらしいと言えばらしい。
なんというか、ご都合主義で固められている感じがね。

さて、本シリーズを最後まで観てちょっとヴァンパイアについて考えてみました。
ヴァンパイア(吸血鬼)というのはそもそもブラム・ストーカーの「ドラキュラ」からメジャーになり、そして映画化などもされました。
その頃のヴァンパイアというのは基本的に「モンスター」なんですよね。
人間から見て恐怖の対象という存在なわけです。
そして近年、海外でも日本でもヴァンパイアというのは小説や漫画、映画の格好の存在なのですが、そこで描かれるヴァンパイア像というのが、昔のような「モンスター」的ではなくなってきているのです。
どちらかというと永遠の命を得てしまい、そして人の血を吸いながら生き続けなくてはいけないという、悲劇的な存在というような描かれ方をしている傾向があったように思います。
恐怖の対象として物語れることから、ヴァンパイアの主観で描かれるようになってきたかと思います。
永遠に生きるというのは福音ではなく、逆に永遠に生き続けなければいけないという悲劇と捉えられることが多くなってきたと思います。
ヴァンパイアが登場した頃、80〜90年代以降、どちらにしてもヴァンパイアとは忌むべき存在であるというのが基本線であったかと思います。
そこで本作を観て思ったのですが、本作においてヴァンパイアというのは基本的にネガティブな存在ではなくポジティブな存在として描かれているのです。
エドワードについては最近までのヴァンパイア的な悲劇性を身にまとっているのですが、ベラについてはそういう感じはほとんどありません。
というよりベラはヴァンパイアになることについてはシリーズでずっと積極的であったんですよね。
近年のヴァンパイアの悲劇性というのは永遠に続く苦しみからだったと思うのですが、このシリーズ、特にベラにとってはヴァンパイアになるというのは「永遠に愛が続く」ということを意味しているので、実は悲劇でもなんでもないわけなのです。
この作品は「Forever」という言葉で終わりますが、これはネガティブな意味合いではなく、幸福感なんですよね。
ようは「王子様とお姫様はずっと幸せに暮らしましたとさ、めでたし、めでたし」ということなんです。
女の子が好きなおとぎ話の結末と同じなんですよね。
この「ずっと」が「永遠に」なわけですから、恋する女の子にとってはこれ以上の幸せはありません。
そう考えるとこのシリーズがティーンの女子に世界中で人気がでたというのもわかります。
究極のお姫様物語なんですよね、このシリーズは。
そういう点においてこのシリーズは徹底しているなと最後に思いました。

「トワイライト・サーガ/ブレイキング・ドーン Part1」の記事はこちら→

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本 「コーチングマネージメント」

一時期、こういうビジネス指南書的なものを買っていたのですが、結局あまり読まずに「積んどく」になっていたものの一冊です。
年末年始で時間があったので読んでみました。
この手の本を読まなくなったのは、けっこうな厚みの割に中身がそれほど密度がないこと。
小説や、他のノンフィクションに比べて圧倒的に密度がないのですよね。
書いてあることがつまらないとか間違っているというのではなく、読み応えがない。
これは書いている人が、プロの書き手じゃないということが大きいかもしれません。

この本のテーマはコーチング。
最近はこの言葉もポピュラーになってきました。
部下の指導という点で、興味がある方もいるかもしれません。
僕の上の世代くらいは、「あれやれこれやれ」と指示をしまくるか、何も教えず「俺の背中から学べ」的な感じか、ようなタイプの上司が多かったかと思います。
けれども今の時代そんなことだと誰もついてこないですし、そんなやり方はまず効率が悪い。
部下も含めてメンバーが自主的に動けるようにするほうが効率的なんですよね。
「あれやれこれやれ」のタイプは指導しているように見えますが、実際のところはこれはティーチング。
コーチングというのは、自主性を引き出し、課題意識を持たせて動けるようにすることです。
ま、この本はそういったことが延々と書いてあるので、内容は悪くはないですが、先に書いたように読み応えはありません。
あとスキル的なところもコーチングの場合は相手ありきのところもあるので、この本でも相手の話を聞いて、相手に応じてと書いてあるように、本で云々ということではないのですよね。
実際はコーチングする相手のことをしっかり聞いて理解をし、そして目標を設定できるように導くことなんです。
これはやはり実践で学ぶしかないかなとは思います。

「コーチングマネージメント」伊藤守著 ディスカバー ハードカバー ISBN4-88759-205-1

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「ジョーズ」 スピルバーグはやはりスゴい

新年早々、告白しよう。
映画ファンと言いながら、今の今までスピルバーグ御大の出世作「ジョーズ」をまともに観たことがなかったと。
いやテレビなどで放映されたときチラ見はしてたんですけれどね、どうも観る気がしなくって。
子供の頃、父親が初めて映画に連れてってくれたときに観た映画が「ジョーズ」のバッタもん映画の「タイガーシャーク」という映画で、子供心になんてつまんない映画だと思ったんですよ(なのでこんなマイナーな映画のタイトルを覚えている)。
そのためか、こういうアニマルパニック系の映画に拒否反応をもったからかもしれないです(しかし小学生の子供を連れて行く映画じゃないだろう・・・)。

で、ほぼ初めてということで通しで最後まで「ジョーズ」を観たわけですが。
面白いじゃん!(何をいまさら)
さすがスピルバーグがブレイクした作品なわけです。
この作品、全体は大きくわけて2つになると思います。
前半は姿見えぬ怪物に街が襲われるというアニマルパニック。
後半はブロディ、クイント、フーパーの3人の男が、巨大ホオジロザメに立ち向かうアクションサスペンスというところでしょうか。
前半、後半ともにそれぞれ巧みに作られていることがわかります。
前半は自分たちが何に襲われているかわからないということによる恐怖、パニックを描いています。
おそらくは予算、技術的な関係上、ホオジロザメは前半はほとんどその姿を見せません。
けれども見えないからこそ、そのおそろしさが伝わってくるんですよね。
このあたりは同じく予算がなかった「エイリアン」にも通じるところです。
超有名なジョン・ウィリアムズの「ジョーズのテーマ」、そしてここがスピルバーグの素晴らしいアイデアであるサメの「主観視点」。
冒頭からこの2つがミックスしておそろしさを盛り上げるわけです。
2人ほど襲われるのを見せられると、観客は次にこのテーマと主観視点が出てくると反射的に、「襲われる!」と思い込まされるんですね。
しかし、そのときは襲われないと。
「な〜んだ」と思っていると、次はガブリとやられて、観ている側は「えっ!」となるわけです。
その次は観ていると「でるか、でないか」疑心暗鬼になるという・・・。
このあたり、観客をコントロールしてしまうところはさすがスピルバーグです。
若いときからこれができるのだからすごいわけですね。
後半は、3人がサメと丁々発止のせめぎ合いをするというところが盛り上がります。
基本的に人間が戦う場所は海で、いわば「敵地」なわけですね。
それでもって人間が動ける場所は船の上だけ、そして使えるものは船に積んでいるものだけ。
というところでいうと、言わば「限定空間」の中で正体がわからない敵と戦うという、「ダイ・ハード」的な状況なわけです。
こちらが繰り出した手を相手のサメは全部返していって、人間側はより追い込まれていく・・・。
そこで限られた手の中で乾坤一擲の手を打つわけですが、そこまでが盛り上がる、盛り上がる。
どんどん追い込まれていく中での最後の手での逆転ですから盛り上がらないわけにはいかない。
また3人のキャラクターがそれぞれ個性が立っていて、このあたりの絡みもなかなか良いです。
登場人物が少ないのでより3人に焦点があたります。
昔の映画なので、現代の映画と違って長いプロローグやエンディングみたいなのがないので、このあたりもかえってシャープに感じます。
ホオジロザメのロボットが作り物っぽいのも時代を感じて味わい深いものがありました。
いまだったらCGですよね。
それだとああいう手触り感は感じないかも。
ライティングとか、カットの撮り方とかスピルバーグっぽい感じはこのときからすでに出ていますね。
才能が早熟な人なのですよね、スピルバーグ。
それを何十年も続けているというのが、やはりスゴい。

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