本 「ぼくらは都市を愛していた」
神林長平という作家は、以前より言葉もしくは情報というものについて非常に重きをおいて作品を書いてきています。
というより、この方の作家のテーマそのものと言ってもいいかもしれません。
そしてそれは何故人が人であるのかという問いに直結します。
人は自分の周囲にある世界を世界として認識し、そして自分の意識を自分として認識します。
世界を認識するには、世界の情報を受け取り、それを自分の脳内で認識することによってなされます。
また自分を意識するのは、自分が発する自己認識の言葉によるものでしょう。
つまりは世界も、自分も認識するには、情報や言葉というものが必要なわけです。
そうでなければ、認識できない。
認識できないものは存在するのかどうか実はわからない。
認識できなければ存在しないのと同じなのではないか。
神林作品においては、情報や言葉がある種の力(破壊力をもった兵器など)を持って描かれることが多いのですよね(「戦闘妖精 雪風」など)。
情報や言葉は目に見えないものではありますが、それ自体を破壊されると、人の世界認識をも危うくするものでもあるわけです。
その力をわかりやすくする表現するために、神林さんは情報や言葉について兵器などでメタファとして使っているように思います。
人は自分が受け取った情報でしか、世界を認識できない。
それが本作では二卵性双生児であった二人の姉弟が、それぞれが認識しているが異なり、しかしまた重なり合うトウキョウとして描かれます。
このあたりの描き方は神林作品の真骨頂というべきところ。
情報をある種の実在感のあるものとして描くのは、一頃のサイバーパンクや、「マトリックス」等の映画にもみられますが、神林長平さんの作品はそれらとはちょっと違う。
やはりそこには情報だけでなく、言葉というものがあるからなんでしょうね。
言葉というものには人の想いが入っている。
情報はただの世界認識のためのものですが、言葉となるとそこに人の解釈、想いがはいってくる。
その想いこそが人を人たらしめているものであり、その人が都市を駆動するエネルギーであるわけです。
都市は物理的なメカニックであるだけでなく、人の想いが集積するところ。
人の想いがなければ都市は駆動しない。
冒頭に書いたように、神林長平という作家は情報や言葉について書いてきた人です。
本作はその点において集大成的な感じを受けました。
決して読みやすい作品ではないのですが、そこには人への想いといったものが感じられる作品です。
「ぼくらは都市を愛していた」神林長平著 朝日新聞出版 ハードカバー ISBN978-4-02-250895-9
| 固定リンク
コメント