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2012年11月26日 (月)

本 「動的平衡 -生命はなぜそこに宿るのか-」

著者は「生物と無生物のあいだ」の福岡伸一さんです。
福岡さんは生物学者ですが、非常に読みやすく理解しやすい文章を書く方ですね。
学者さんはややもすると専門的な話を専門語で語りがちですが、福岡さんは専門家ではない人に伝えるということに長けていると思います。
タイトルにある「動的均衡」というのは聞き慣れない言葉ですよね。
これは福岡さんが、生命とは何かという問いに対して持っている考え方になります。
「生命のメカニズム」といった言葉がありますが、これは生命を機械(メカニック)に例えているわけですね。
この言葉から連想されるイメージというのは、生命といくつかの部位や臓器からなっていて、それは細胞からできていて、そしてそれらの細胞は何種類かのたんぱく質で作られていて、といったものでしょう。
自動車がいくつかのパーツでできているというのと同じような感じですね。
生命が細胞で、そしてたんぱく質などでできているというのは物理的には間違ってはいません。
では、そのたんぱく質をパーフェクトに構成し、細胞を作っていったら、そこに生命は宿るのでしょうか。
福岡さんはそれでは生命にはならないと言います。
彼は、生命というものは部品で構成されたものという機械的なものではなく、ある「状態」であると言います。
生物のからだは日々、たんぱく質などの栄養を取り入れ、それを細胞の中に取り入れて、生命活動を継続しています。
アイソトープでマーキングしたアミノ酸を摂取し、カラダのどの部分で使われていたかを調べると、どこかの臓器に集中するのではなく、全身に行き渡っているとのことです。
これが意味をするのは、生命は日々生命に必要なアミノ酸などを吸収し、日々細胞のなかのアミノ酸をいれかえていっているということです。
一年前の自分のカラダはまったく同じものではなく、細胞を構成しているアミノ酸は入れ替えられているというわけですね。
これはさきほどのの機械のイメージとはまったく違います。
機械は一度セッティングされた部品は故障するまで入れ替わることはありません。
生命は日々、細胞を新陳代謝して更新していっているというわけです。
福岡さんはこれを「川の流れ」に例えます。
口から摂取された食べ物は、消化器で分解されてアミノ酸として吸収され、やがてどこかの細胞の一部となります。
しかし、それはずっとそこにとどまるわけではなく、また別のアミノ酸によって更新されそのアミノ酸は体外に排出されます。
そのアミノ酸は体外から体内に入り、ちょっと留まって、また体外に出て行く。
まさに「川の流れ」です。
こういう状態を福岡さんは「動的平衡」と言います。
「動的平衡」の生命観と機械的な生命観の大きな違いは「時間」の概念が入っているか、いないかです。
さきほども書いたように機械的なイメージで言うと、一度セッティングされた部品はなにもしなければそのまま。
時間の概念はありません。
「動的平衡」の考え方は「川の流れ」に例えられるように、生命を構成するアミノ酸は常に入れ替わっています。
常に入れ替わっているという状態には、時間の概念が入っています。
日々の更新作業を続けているその状態こそを「生命」であると福岡さんは言います。
なるほど、と思いました。
エントロピーは増大していくというのがこの世界の真理です。
秩序は無秩序へ。
安定から崩壊へ。
ずっと動き続ける機械はありません。
どこかで故障をする。
それはエントロピーが増大していくから。
しかし、生命はそれにも関わらず、一生命体として継続しています。
これはエントロピー増大にともないうまくいかなくなるよりも早く、自らのカラダをスクラップ&ビルドしているからです。
常に自分を構成している要素を更新していくことにより、エントロピーの増大に逆らっているのですね。
まさに自転車操業のようです。
しかし自転車は車輪が回っているからこそ安定して進めるとも言います。
止まっていたらすぐに倒れてしまいます。
倒れないようにずっと車輪を回して走り続けるというのが生命なのですね。
生命というのはすごいものです。
自分のカラダがとてもすごいものなのだと思えてきました。

「動的平衡 -生命はなぜそこに宿るのか-」福岡伸一著 草思社 ハードカバー ISBN978-4-86324-012-4

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2012年11月25日 (日)

「悪の教典」 邪魔なものは片付ける

「To Be Continued」って、続くの??

いやいや、緊張感がずっと続くので胃が痛くなりましたよ。
原作未読ですが、予告を観るだけで伊藤英明さん演じる蓮見がサイコパスで、どこからか殺戮に走るという展開はわかっているわけで。
それがどっからいくか、そして始まったらどこまでいくのかっていうところで、胃がキューキューしました。
どこまでいくかと言ったら、三池監督なので容赦なくけっこうなところまでいっちゃうので、こういうのが苦手ならば観ないほうがよいかもです。
ただ実際の描写としてはいわゆるグロになるところまではやっていない。
そういう描写自体が目的のスプラッタ映画とはここは違うところ。
そのものズバリは見せないのですが、そこにいたるところ、その結果は見せます。
観客が救ってほしいと思う人物に対しても、ずばりやってしまいます。
このあたりの容赦のなさが三池さんらしい。

本作を観ていてずっと緊張感を強いられるのは、その救いのない結果がすでにわかっているところでしょう。
いわゆるミステリーものでよくある、誰が犯人か、誰が殺されるのかというサスペンスでは、本作はありません。
予告で結果はほぼ語られています。
犯人は蓮見で、殺されるのは彼の生徒たち全員。
問題はいつそうなるか、ということ。
だからこそ物語が動き始めていくなかで、いつなるのか、いつなるのかと緊張感で胃がギューとなるわけです。
若者が理不尽に殺されていくという展開は、アメリカのスプラッタムービーにはよくあるものです(僕は苦手なので観ませんが)。
ジェイソンさんとか・・・。
それはそれで恐いのですが、どちらかというとその殺戮描写自体を楽しむといったところがあるかと思います。
「すごいことになっちゃってるよ〜」的な(僕はよくわからないですが)。
本作はさきほど書いたようにそういった描写自体が目的にはなっていません。
そういうスプラッタムービーでの殺戮者自体は実際ではどうでもい良いわけです。
描写自体が目的ですから。
だから殺戮者はマスクとかかぶったりしたキャラクターになっているわけですね。
でも本作においては、蓮見という男は見た目は普通の人間です。
それも優しそうで、包容力もありそうな。
しかし実際のところ、彼が何を感じて、何を考えているのかまったくわからないわけです。
人間の姿形をしているのに、まったく何を考えているかわからない人物に、理不尽に殺戮されていくわけです。
「わけわかんねぇよ!!」と生徒は叫びますが、そのわけのわかんなさが本作においての恐さ、緊張感なのでしょう。
なまじ人間の形をしているからこそ理解できそうに思えますが、実際はまったく理解ができない人物。
それが蓮見なのです。

その蓮見という人物はどのような男なのでしょうか。
他への共感性がないというのは、冒頭でも語れることです。
共感性は他の人の気持ちがわかる、相手の立場にたって考えること。
それにより自分がしてほしくないことは他人にはしないといったような行動に繋がるわけです。
でもこれが蓮見にはないのですね。
あと、彼に特徴的なのは周囲のコントロール欲のようなものでしょう。
自分の思い通りに人を動かしたいというのが彼の行動に基盤になっているように思います。
支配欲というのは誰にでもあると思いますが、これが極端に出てくるのが蓮見です。
そしてそのコントロールから逸脱しようとする人物がでたとき、彼は邪魔だから消してしまえという風に考えるのですね。
そのように考えるのは、やはり共感性の欠如ゆえでしょう。
蓮見は、いわゆるシリアルキラー(殺人悦楽者)ではありません。
彼のアメリカ時代の相棒はそうだったようですが、蓮見自身も回想で言っているように、殺人自体に悦楽を感じているわけではないのですね。
彼が殺人を犯すのは、邪魔なものをどかすという感覚に近いのでしょう。
相手がモノであればどかす、壊す、捨てるというは、普通の人にもある感覚ですよね。
でも蓮見は相手が人であっても、どかす、壊す、捨てるという行為をするのです。
そこにはおそらく罪の意識はないのでしょう。
邪魔なものを(文字通り)片付けているだけと。
三池監督が「蓮見は世が世なら信長になっていたかもしれない」と言ったとのこと。
これはなるほどと思いました。
「鳴かぬなら、殺してしまえホトトギス」ですからね。
まさに信長も蓮見のような人物であったのかもしれません。

でもって、続くの???

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2012年11月24日 (土)

「人生の特等席」 変えられない、でも変えられる

原題は「Trouble With The Curve」。
ここで言う「Curve」は野球の変化球のカーブのことなのですが、直訳すると「カーブに関するやっかいなこと」とか「弱点はカーブ」とかになるのかと思いますが、これだとさっぱりわからないですよね。
映画を観終わると意味することはわかるのですが。
さぞかし邦題を考える担当の方は悩んだことでしょう。
邦題の「人生の特等席」は登場人物が劇中で口にするセリフの中にあるもの。
ま、無難なところでしょうね。

本作はクリント・イーストウッドの久しぶりの出演作になります。
「グラン・トリノ」以来でしょうか。
近年はクリントが演じる役は「頑固者のじいさん」なイメージがありますが、本作もその線です。
ベテランスカウトのガス(クリント・イーストウッド)はデータ野球が中心なっているアメリカの野球界にでは今となっては珍しい、選手をしっかりと観て、その直観でその才能を見極めるタイプ。
時流からは遅れているわけで、そろそろ引退かと周囲では囁かれています。
そしてまた寄る年波には勝てず、次第に目も不自由になってきています。
それを娘のミッキー(エイミー・アダムス)が心配しますが、この父娘、お互いになかなか素直に会話ができません。
ミッキーは幼い頃に親戚に預けられたことを、父に捨てられたということではないかと思っています。
そういうミッキーに対して、ガスは口数が少ない男で、しっかりと向き合っていません。
まさに頑固親父そのもの。
ミッキーはそういう父親をなじりますが、互いの気持ちはすれ違うばかり。
ふたりともお互いに相手を想っているのですが、それを素直に言葉や態度にだせないのですね。
ガスは「俺はいまさらもう変われない」と言います。
娘とのぎくしゃくとした距離感についてはよくないとは思っていても、なかなかそれを直すことができません。
彼としては、娘には自分とは違いスマートな世界で、自分を発揮してほしいと思っていたのでしょう。
だからミッキーの昇進はとても喜んでいるわけです。
けれど、期せずしてスカウトをしている間、ミッキーと過ごす中で、彼女が思いのほか自分が好きな野球のことを好きで、そしてとても似ているということをわかって、嬉しくもなったのだと思います。
またミッキーにしても、すれ違うばかりの父親との関係において、野球という共通の話題で通じ合うということを感じられたのだと思います。
両人が思っている以上に、ふたりは性格も似ていて、興味があることも似ています。
ガスが言うようになかなか自分の性格というものは変えられないものです。
でも相手との関係性は自分と相手の性格がわかれば、変えられる。
ガスもミッキーも一緒に過ごした数日の中で、お互いに理解ができたということなのでしょうね。

娘役のエイミー・アダムスは、前から何度か書いているように好きな女優さん。
いわゆるモデル系の女優さんのように、抜群にスタイルが言い訳でもなく(どちらかと言えばぽっちゃりか)、すごぶる美人さんというわけでもないんですけれどね。
彼女は笑顔がとてもいいなと思うんですよね。
あと格好も前半のピシッとスーツを着ているときよりは、後半のラフな感じのほうが似合う。
物語的にもこの変化はポイントではあったので、よいキャスティングであったと思いました。

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本 「玉村警部補の災難」

海堂尊さんの「白鳥・田口」シリーズのスピンオフというところでしょうか。
「ナイチンゲールの沈黙」から登場したデジタル・ハウンドドックこと加納警視正と、不本意ながらも彼の助手を務めることとなる玉村警部補が関わった事件、数編が収録されている中編集となります。
本編の白鳥もマイペースと言うか、他人を斟酌しない人物ではありますが、加納警視正もそれに負けず劣らず傍若無人。
振り回される玉村警部補が気の毒で、だからタイトルに「災難」とあるわけでしょう。
本作では4つ作品が収録されていますが、その間にはブレイクタイムのように田口と玉村の会話がはさまれているような体裁になっています。
それぞれ、白鳥、加納に振り回されている状態であり、この二人には何か共有できるものがあるのか、同時にため息をついたりするところが何かおかしいですね。
ラストの作品は、その後の桜宮サーガにも影響を与えるような感じもありました。
四国を舞台にした作品も書かれるかもしれないですね。
もう「ケルベロスの肖像」も出ていますし、さっさと読まないと。
海堂さんは書くペースが早いので、読むだけなのに置いていかれてしまいます。
本職もあるのに、すごいですよね。

「玉村警部補の災難」海堂尊著 宝島社 ハードカバー ISBN978-4-7966-8821-5

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2012年11月23日 (金)

「終の信託」 いろいろ考えさせられました

「尊厳死」を題材にしているのは予告からわかりました。
重いテーマだなと思い、これはしっかりと受け止められる状態で観ようと思っていたので、公開から時間が経ってしまいました。
「尊厳死」、難しい問題です。
意識もなく、栄養も呼吸も機械の力がなくては生きていられない。
家族や関係者が、そういう状態でも生きていてほしいと思う、というのは無理からぬことだと思います。
けれども本人からしたらどうなのか?
本作でも主人公の女性医師綾乃が言っていました。
外から見て意識がないように見えても、本人に意識がないとは言えないのではないかと。
ただ何も反応することができないのではないか。
本人は反応できず、意志も伝えることもできず、ただただ苦しみ続けているかもしれない。
確かにそういうことはあるのかもしれません。
もし自分がそういう状態であるとしたら、やはり苦しみから早く開放してくれと言いたくなるかもしれません。
しかし、それは伝えることができない・・・。
いわゆる植物状態になっていても、急性胃潰瘍になってしまうというのはけっこう衝撃でありました。
この胃潰瘍はストレス性であるわけで、患者が何かしら苦しみを感じているということなのでしょう。
そういうことがあるのであれば、苦しみから開放してあげたいと思うのも、これもまた無理からぬことのようにも思います。
ただパイプで繋いで生きながらえさせるというのは、綾乃が言うように家族が自分の親や夫の生命の火を消すという決断の責任から逃れようとするということかもしれません(酷な言い方ではありますが)。
その責任は非常に重く、それを負う人も、負わせる人も、そうとうに覚悟がいる話であるのでしょう。
それだからこそ「信託」、「信じて託する」ということなのですよね。
家族でも、医者でも信じて託せる人がいる状態にする。
生前より、自分と家族と医師でしっかりと話しておくことが大事なのでしょうね。
と、一般的な結論しか書けないのですが、もし自分の親がとか、もし自分が、となったりしたら、こういう冷静なことも言ってられないのでしょう。
だからこそ難しい、この問題は。

後半、検察での塚原検事と綾乃のやり取りも考えさせられるところがありました。
観ている側からすると、綾乃と江木の信頼関係というのを知っているわけで、塚原検事がヒールに見えるかもしれません(僕自身もそうでした)。
けれど冷静に考えてみると、塚原検事の言っていることは法律的には正しいことなのですね。
綾乃が言うように、生と死の間はグラデーションのようなものなのかもしれません。
機械のようにオンとオフで切り替わるようなものではないのかもしれません。
だから何をもって、「死」とするかというのはやはり様々な議論を生むわけです。
心臓が止まったときか、脳の活動が停止したときか。
法律の観点からするとそれを曖昧な状態にするわけにはいかないのです。
なぜならば、そういうグレーゾーンを作ってしまうと、それを利用して犯罪を犯す者も現れる可能性があるからです。
尊厳死の定義を曖昧にすると、それを利用した殺人ということも考えうるわけです。
そうすると、実際生命はグラデーションかもしれないのですが、法律としてはどこかで線を引かざるをえない。
そしてその法律を厳密に運用しなければ、様々な問題が出てくるわけです。
そういう意味で塚原検事のスタンスというのは、法律を守っていくという立場においては、正しいものと言えるわけです。
この問題に限らず、法律というものはどこかでラインを引かなければいけないケースというのが多々あるわけです。
年収がいくら以上だったら税金いくらとか。
この境目にいる人もいるわけで、もしかするとちょっとの違いで割を食ってしまうかもしれません。
それでも法律は一定のラインを引かざるを得ない。
これもなかなかに難しい問題です。

もうひとつ。
検事としてのものの考え方という点では、塚原検事は間違っていないかもしれません。
それでも、取り調べの様子はやはりちょっと恐ろしさを感じました。
被疑者が容疑を認めたあと、裁判で証言を否認するということがあります。
僕はなぜ取り調べの時に、違うならば違うと言わなかったのかと思ったりもしていたのですが、本作を観てみるとそれもわからなくはないなと思いました。
検事は法律のプロ、それに対する被疑者は素人です。
その中でまくしたてられ、高圧的に接されたら、やってもいないことをやっていますと言ってしまいそうな気もします。
このあたりは周防監督の「それでもボクはやっていない」にも通じるものがありますね。
厚労省の村木局長が無罪になった事件がありますが、あれも検察が描いたストーリーに従って取り調べをしていったということが問題となりました。
まさに本作で描かれる調書の作り方はそれで、高圧的な物言いと法律的な知識で追い込み、サインをさせるというのはやはり問題があるでしょう。
警察や検察の取り調べの「見える化」が検討されていますが、本作で描かれるような場面があるのであれば、やはり何らかの手を打たなくてはいけないでしょう。

本作、観る前は「尊厳死」が最大のテーマと思っていましたが、それ以外にもいろいろと考えさせられるところがありました。
その答えは自分でもはっきりとすぐに出せるものではないですが、それについて考える機会を本作で得たような気がします。

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2012年11月18日 (日)

「黄金を抱いて翔べ」 燃えられる何かに賭ける

高村薫さんのデビュー小説を、井筒和幸監督で映画した作品です。
銀行の地下金庫に眠る金塊、これを奪取しようとする6人の男たちの物語。
映画の題材で金塊を奪取というと、綿密な計画に基づいた、ハラハラドキドキのサスペンスという趣のものが多いですよね。
しかし、本作における6人は計画は立ててはいるものの、それは少々荒っぽい。
綿密な計画というよりは、大きなバクチを打っているようなところがある。
けれども、彼らにとってはそれでいいのだ。
そもそも彼らの目的は、強奪する金塊そのもの自体ではないのかもしれません。
それぞれが自分自身を賭けられる何かを探しているように思いました。
リーダー的存在となる北川浩二(浅野忠信さん)は、愛する妻と子を持ち幸せな家庭を築いています。
そういう満ちたりた生き方をしていながらも、彼は金塊強奪を計画します。
幸せでありながらも、その生活に何か足りないと彼は感じていたのかもしれません。
自分が燃えられる何か、命を賭けられる何かを。
メンバーが揃った時に彼は「とにかく楽しくやる。俺は最新にはやるが、細かいのは好きじゃない」と言います。
この言葉からも彼が求めているのは金塊そのものではなく、そこにたどり着くための過程であることがわかります。
しかし、彼は自分を賭けてもいいという仕事によって、大きな代償を払わされることとなるのです。
北川の友人である幸田(妻夫木聡さん)は、「人に居ないところに行きたい」ということを願い、虚無的な心を持っている男です。
それは彼の幼い頃の体験によるものではあるのですが、この仕事でモモと友情にも似た感情を持つようになり、そしていつかは跳びたつことを夢見るようになったのではないでしょうか。
彼の虚無的な心に、燃えるような何かが灯ったように思いました。
そしてモモ(チャンミン)は、元北朝鮮の工作員であり、ずっと上の命令によって活動を続けてきました。
しかし、北からも命を狙われるようになり、皮肉にもそれで初めて自由になれたのです。
幸田に声をかけられ、初めて自分の意志で仕事をするということを彼は選びます。
彼も自分自身で何かを成し遂げるという燃えるものを見いだしたのだと思います。
北川の弟、春樹は拙いながらもギャンブルに溺れていた生活から何かを成し遂げるということに意味を見いだし、"じいちゃん”は最後まで明らかになりませんが、彼の心に秘めた思いでこの仕事に挑みます。
野田のみ仕事に関わる理由は金、でしたが。
6人のうちほとんどが、その結果そのものよりも、その過程において自分がどれだけ燃えられるか、自分を賭けられるようなことができるかということを本当の目的にしていたような感じがします。
男たるもの、何かに挑むときの高揚感といったものを感じるときがあります。
こういったことを感じる瞬間は、長い時間を生きることよりも、強い幸福感を感じることがあるかもしれません。
「俺は生きているぞ!」といったような。
おのれが生きていることを感じられる瞬間。
この瞬間が得られるならば、だらだらと続く人生を賭けてもいいと思う男がいるというのは、男としてはわからなくはないですね(自分でできるかは別ですが)。

浅野忠信さんはいつもと違った雰囲気で、こういうのもありだと思いました。
豪放磊落といった性格の北川は、浅野さんとしては珍しい役だとは思いましたが、とてもいい感じでした。
あと妻夫木聡さんも良いですね。
最近の妻夫木さんはどの作品もよい。
特に影のある役が多いですが、こういう雰囲気を出すいい役者さんになってきたかなと思います。
年齢的にも非常に脂がのってきている感じではないでしょうか。
今後も活躍に期待したいと思います。

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本 「厭な小説(文庫版)」

久しぶりの京極夏彦さんの小説。
京極さんと言えば「京極堂」シリーズや「巷説百物語」シリーズが有名ですが、ちょっとキワモノ(失礼!)な小説もいくつか書いているのですよね。
「どすこい」「南極(人)」などはどちらかと言えば「笑い」の方向に舵を切った作品になります。
そして本作「厭な小説」はタイトル通り「イヤ〜な」読後感になるところを狙った作品群です。
タイトルだけで読むのに勇気がいるのですが、京極ファンとしては読まぬわけにはいかないだろうと手に取りました。
案の定、イヤ〜な読後感(笑)。
ただしこの感触というのは、この作品だけではなく「京極堂」シリーズなどでもあるものなのですよね。
作中の主人公の身に、すごく厭な不条理なことが降り掛かる。
そしてそれが延々に繰り返される。
ほんとうに厭なことの本質というのは、作中の短編「厭な家」でもあるように、ちょっとした厭なことで永遠に繰り返されるという不条理さにあります。
この不条理さというのは「京極堂」シリーズでもあることです。
「京極堂」シリーズでは、関口などが同じようにそういった妄想(本人にはリアリティがある)に悩まされるわけですが、基本的には京極堂によりそういった呪い(暗示)は祓われます。
そこに救いがあり、読者としても読後にほっとするような感じを受けるわけです。
本作については妄想だかなんだかわからない不条理なことが起こり、それが一切「解決されない」状態で終わるというところが「厭な」ところなのですね。
それがスーパーナチュラルなものであったり、自分の思い込み(妄想)であっても、その正体がわかれば「厭な」ことではなくなります。
不条理なものが不条理なもののままで延々と続くということに「厭な」ことの本質があるわけです。
この「厭な」ことの本質を京極さんは本著で定義したような感じがしますね。
こういう不条理(に思える)なことを説明できるようにすることで人間は安心感を得てきたのかもしれません。
古くはそれが神によるもの、妖怪によるものといったことだったり、今ではそれが科学なのかもしれません。
それでもまだよくわからないことというのがあって。
それが人にとっては「厭な」ものなのかもしれません。

「厭な小説(文庫版)」京極夏彦著 祥伝社 文庫 ISBN978-4-396-33783-4

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本 「テレビ局削減論」

自分が広告に関わる仕事をしているのになんなのだが、正直言ってプライベートではあまりテレビ(NHK、BSは除く)を観ません。
なぜならば、本著の帯に書いてあるように「つまんない番組」が多いから。
どの局を観ても、似たような番組ばかり、それを観ているくらいであれば、他のことをしたほうがよほどよいと思ってしまうわけです。
そう思っているのは自分だけではなく、だからこそこういうような内容の本が出版されるのでしょう。
「つまんない番組」「似たような番組」が作り続けられる理由はコストによる理由が大きいわけです。
以前のようになにもしなくても出稿の発注がくるのは今は昔、クライアントの各社広告費削減はここ暫く続いています。
それはそうです。
失われた20年と言われて久しく、クライアント企業はリストラやなにやら身を斬るようなコスト削減を続けています。
その中で莫大な費用がかかる広告費に手をいれないわけにはいけません。
しかしそのようなデフレスパイラルに突入し、品質を下げては、やはり消費者は購入してくれません。
ですので新たなコンセプト、技術革新を伴い、価値をあげた商品を発売していかなければいけないわけで、そこにメーカーは知恵を絞るわけです。
しかし翻ってテレビ局はどうか。
まずはコスト削減についてほんとうに真剣に取り組んでいるのか。
制作費コストがないというのはよく聞きますが、それは局からの「出し」を低くしようということですね。
そうなると制作プロダクション側は低コストで作らざるを得ず、おのずと番組の質が下がる。
質が下がれば、誰も観ない。
そうすると視聴率が下がり、出稿も減り、広告収入が減る。
まさにデフレスパイラル。
テレビ局局内でのコスト削減はほんとうにしっかりやれているのでしょうか。
相変わらずの高給料は変わらないようだし、他のメーカーが苦渋の決断で行っているリストラを実施というのも聞いたことがない。
外出しの部分を削るだけではまだまだ甘いのではないでしょうか。
本著でも書かれているのは、やはり番組そのものの質があがらなくてはいけないということです。
そのためのリソースが限られているのであれば、局数を減らし、番組数を減らし、質を向上させるということですね。
ま、メーカーでも合併などをし、そういうことをやりますから、そのようなアイデアはおかしくはないとは思います。
テレビに限らずメディア各社、そして広告代理店は消費者とダイレクトに商売をしていないせいか、メーカーからすると未だに浮世離れしているものの考え方をしている方が多いように思われます。
これ以上、質の低い番組が作られ続けることは、自らの存在意義すらも否定する結果になりかねない。
消費者はメディアに関わる人たちが思っている以上に賢いと思います。
見切った時の消費者の行動変化は早い。
そうなったとき、オタオタしないように今の内から手を打つべきだと思います。
メディア各社にはそういったほんとうの危機感を持ってもらいたい。

「テレビ局削減論」石光勝著 新潮社 新書 ISBN978-4-10-610449-7

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2012年11月17日 (土)

「ヱヴァンゲリヲン新劇場版:Q」 再びディスコミュニケーションへ

前作から3年半ぶりの公開となった「ヱヴァンゲリヲン新劇場版」の新作です。
初日の朝っぱらから観てきました。
観賞後、一気にこちらのレビューを書いたので、解釈しきれずこなれていないところ多々あるかもしれません。

当初は「序」「破」「急」の3部作と言われていましたが、3作目である本作が「急」→「Q」となり、次の最終作で完結となります。
なにゆえ「急」が「Q」なのか。
この「Q」は「Question」を表しているのでしょう。
ですので、本作はおそらく最終作へ向けた「問い」=「謎」の提示であり、その答えは劇中では何も明らかになっていません。

前作の「破」については自分の中では非常に評価が高い作品です。
その評価については前作のレビューでも書いたのですが、シンジを含めたキャラクターたちが、「世界」や「人」とのコミュニケーションを前向きに捉えていこうとするポジティブさが感じられたからです。
テレビシリーズ、そして旧劇場版については、他とのコミュニケーションを閉じ、内へ内へとベクトルが向かい、内部へ崩壊していくようなところがありました。
その内へのベクトルは、世間というものと相対しなくてはいけない時期である10代にはありがちなものであるという点で、共感を呼ぶものではあると思います。
ただそこから実際には大人にならなければいけないなかで、「世界」や「人」と前向きに向かい合わなくてはいけなくなります。
他者との向き合いを拒否するというところで、旧劇場版は世界が崩壊していくという様を描かないわけにはいかなかったと思っています。
しかし、「破」については先も書いたようにほのかに「世界」をポジティブに捉えようとする予感を感じ、そこを僕は評価したのです。
ただ、本作「Q」だけ観ると、そのような予感はけっきょくは何も身を結ばず、ストーリーは大幅に変わったにせよ結果的にはテレビシリーズ、旧劇場版のテイストが再び強くなってきたような気がしました。
シンジは再び「世界」や「人」に対して、強い疎外感、孤独感を感じるようになっています。
あまりに様変わりした世界に対して戸惑い、そして皆から自分が敵視されることを嘆き、内へとベクトルが向かいます。
再び彼は「世界」と「人」とディスコミュニケーション状態となるのです。
そこに前作のようなポジティブさは感じられません。
本作でシンジと絡むカヲルだけには、シンジは心を許すことができ、コミュニケーションをとれます。
エヴァ13号機は複座であり、二人で乗るという設定からも、シンジとカヲルは一人の人間の裏表とみてよいかと思います。
前作のポジティブさを持ってやさしく前向きさを持つ人格がカヲルに反映され、「序」や旧作でおなじみのうじうじした内面にこもりがちな人格が本作のシンジに表れているように感じました。
カヲルがああいうことになることにより、残されたのはシンジのみ。
再び、彼は内へとこもっていくのでしょうか。
本作の時間は前作から14年経過していますが、シンジたちの姿は少年少女の姿のままです。
アスカはそれをエヴァの呪縛と言いましたが、それは永遠に10代でいるということを表し、それはすなわち大人への成長の拒否ということになるのかもしれません。
前作での成長への予感とは違ったベクトルになっているような感じがしました。
本作は3作目で、次回作がどのような方向になるのかはまるでわかりません。
できれば最終作はキャラクターたちに明るい未来が訪れる結末であることを願いたいと思います。

前作「ヱヴァンゲリヲン新劇場版:破」の記事はこちら→

<ここから先はネタバレアリ>

14年後の世界では、シンジをトリガーとしてサードインパクトが発生しています。
サードインパクトはネルフ本部の地下にあったリリスと使徒の接触によって引き起こされるということでした。
覚醒したエヴァ初号機はほぼ使徒と同じで、それがリリスと接触したことにより、サードインパクトが発生したということでしょうか。
崩れ去ったネルフ本部には頭のないリリスのカラダに槍が二本刺さっていました。
そしてゲンドウの部屋には巨大な綾波レイ(=ユイ)の頭部が打ち捨てられています。
このオブジェ的なものから、「Air/まごころを、きみに」のラストのサードインパクトと同様のことが「新劇場版」でも起こったといことを想像されます。
つまりは本作は「序」「破」新劇場版の流れと、「Air/まごころを、きみに」の長れを汲んでいるようにも見えるのです。
描かれなかった「Air/まごころを、きみに」のその後が描こうとされているのかもしれません。

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2012年11月11日 (日)

「シルク・ドゥ・ソレイユ3D 彼方からの物語」 肉体の軌跡の美しさと3D

シルク・ドゥ・ソレイユはご存知の方も多いでしょう。
「サルティンバンコ」とか「アレグレア」とか一時、かなり広告も入っていましたから。
シルク・ドゥ・ソレイユはカナダを本拠地とするエンターテイメント集団で、彼らのパフォーマンスは「ヌーヴォー・シルク(新サーカス)」と呼ばれるということです。
シルクってサーカスという意味なんですね。
シルク・ドゥ・ソレイユは「太陽のサーカス」ということでしょうか。
元々彼らのパフォーマンスの原点は大道芸やサーカスであったわけですが、特徴的なビジュアルと、大掛かりな舞台装置を使った演出、音楽との融合なども相まって芸術性の高いエンターテイメントとして名を馳せました。
僕自身は本物のシルク・ドゥ・ソレイユの公演は見たことがありません(テレビでちょろっと見たくらい)。
しかし、印象的なビジュアルなどのイメージはあったので、一度は観てみたいなと思っていたのです。
本作を観て、パフォーマーのアクロバティックな演技、煌びやかな衣装、大きく空間を使った演出などはやはり目をみはるものがありました。
なかでも、人の肉体というものはかくも美しいものなのかと感じました。
本作を観て思ったのは、人の肉体の美しさというのはその造形のみではないということです。
人の肉体自体は、古くはギリシャの彫刻などからも美しさを感じられるように、造形そのものが持つ美しさはもちろんあります。
しかし、シルク・ドゥ・ソレイユのパフォーマーの演技を観て思ったのは、造形美のみならず、その動きの美しさというのも確かにあるのではないかと思ったのです。
よくよく考えれば、古今東西のダンスや踊りといったものはその動き、所作の美しさを観るものであるのですね。
シルク・ドゥ・ソレイユのパフォーマーが着る衣装は色はかなり鮮やかですが、意外とそのラインはシンプルです。
これは肉体の造形美を見せるということに加え、その動きの美しさを見えやすくするものであるのかなと思いました。
シルク・ドゥ・ソレイユはリアルな公演を通してその演技を披露しているわけですが、今回映画というメディアを選んだのはどういう意味があるのでしょうか。
映画という媒体により、多くの人に観てもらいたいというのはあるでしょう。
しかし僕は肉体の動きの美しさを見せるには映画が優れているという判断はあったかなと思いました。
公演においてパフォーマーには動きの美しさを見せるという意図はあると思うのですよね。
演技を滑らかに、そしてゆっくりと行うのはその肉体の軌跡をよく見せようという狙いだと思います。
この映画ではかなり多くの場面でスローモーションが使われていました。
なかなかリアルの公演では、動きが速くて、そして観客から舞台の距離が遠くて、肉体の軌跡が生む美しさを見せられないという点を映画は解決してくれます。
目の前で演技を観れるように、いろんな角度から演技を観れるように、という点が映画の利点でしょう。
しかし映画の弱点はそれらがどうしても二次元という平面に固定されてしまうということなのですね。
シルク・ドゥ・ソレイユの公演の醍醐味の一つは、空間を大きく使った舞台装置と演出にあると思います。
この空間感というのが二次元では失われてしまう。
また先ほど取り上げた肉体が描く軌跡も平面的な動きではなく立体的なものであるわけです。
これも二次元では失われてしまいます。
シルク・ドゥ・ソレイユの魅力を伝えるため、映画が持つ弱点を克服する解決策が3Dであったのでしょう。
次第にそそり立っていく壁でのパフォーマンスがありましたが、あれなどは普通の2Dではそのスゴさは伝わりにくかったでしょう。

<ちょっと脱線>
あのパフォーマンスはかなり印象に残りました。
ああいう立体的な機動ができるのであれば、映画に活かせると面白いなと。
例えば今度映画化される漫画「進撃の巨人」ではロープを使った「立体機動」というのがありますが、これをあんな感じでやれるとスゴいのじゃないかな。
それだったら3Dでやっても面白いかもしれない。

閑話休題。
本作は3Dであることにより、空間の持つ存在感、肉体の軌跡の美しさというものを伝えようとしていたのだと思います。
この映画がジェームズ・キャメロンの肝いりですが、3Dの浸透を図る側としての狙いもこの点になると思うのですよね。
3D映画は昨今たくさん作られていますが、まさに玉石混合と言った状態です。
悪貨は良貨を駆逐するではないですが、あまり良くない作品が増えてくるのは、キャメロンとしても頭が痛いところであると思います。
その点において、キャメロンとしては3D映画を作る場合のポイントを指し示しているように思いました。
3D映画が優れている点は、その空間性の表現力であるのだと考えます。
大きな舞台装置での立体的なパフォーマンス、そして肉体の軌跡の美しさ、それは3D映画の得意とする空間性を見せるのには最適の素材であったように感じます。

しかし、それでも映画が越えられない限界というのも確かにあるわけです。
それは舞台との共時性です。
目の前で行われているということが持つ圧倒的な力については映画は太刀打ちができません。
やはり一度はシルク・ドゥ・ソレイユの公演を観てみたいなと思った次第です。

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「北のカナリアたち」 罪の意識と憎しみの赦し

東映創立60周年記念の大作。
主人公の元教師を吉永小百合さん、その生徒役を若手の演技派、森山未来さん、宮﨑あおいさん、松田龍平さん、満島ひかりさんなどが固める豪華メンバーです。
この錚々たるメンバーを演出するのは阪本順治監督。
本作については珍しく、事前にほとんど情報を入れずに観賞しました(予告も内容がわからないようなものになっていましたし)。

<下記は極力ネタバレしないように書いていますが、でも未見の方は気をつけてね>

図書館を定年退職したはる(吉永小百合さん)の元にある日、刑事たちが訪れます。
刑事は、はるの最後の教え子のひとり、鈴木信人(森山未来さん)に殺人の容疑がかかっており、その行方を追っていると言います。
それを期に、はるは20年前にある事件をきっかけに離れた故郷を再び訪れます。
そして最後の教え子たち、6人をひとりづつを訪ね歩きます。
信人が起こした現在の事件、そして20年前にはると生徒たちに起こった事件については、物語の最初はほとんど明らかになっていません。
はるが教え子たちの元を訪れ、当時の話を聞いていくに従い、次第に現在の、そして過去の事件が明らかにされていきます。
このあたりはミステリー的な要素も感じます。
しかし事件そのものの事実が明らかになっていくことよりも、20年前からそして現在までも登場人物たちを縛る、罪の意識と憎しみといった気持ちがだんだんと明らかになっていくことにこの物語は重きをおいているように思いました。

はるが再会する生徒たちは、どの生徒も20年前の事件のことに関連して、罪の意識、もしくは憎しみを抱え、生きてきました。
真奈美(満島ひかりさん)、直樹(勝地涼さん)、結花(宮﨑あおいさん)は、それぞれが20年前の事件について罪の意識を感じていました。
20年前の事件とは結花が、はるや生徒たちで行ったBBQの時に結花が海に落ちてしまい、それを救おうとしたはるの夫、行夫(柴田恭平さん)が亡くなってしまったというものです。
その事件のきっかけを作ってしまったと真奈美や直樹、結花はずっと罪の意識を感じて生きてきました。
はるが彼らの元を訪れ、当時の事件の真相を語ることにより、彼らの罪の意識を軽くしようとします。
彼らは自分の罪の意識に赦しを得るのです。
また七重(小池栄子さん)、勇(松田龍平さん)はそれぞれに憎しみ・怒りを感じていました。
七重ははるに対して、勇ははるの夫に対して。
しかし七重も勇も大人になって、大人になってこそわかることを知り、また当時の状況がわかることにより、自分の憎しみ・怒りからも開放されます。
すなわち対象の相手を赦すことができるようになったのです。

無垢であった子供たちは澄んだ声で歌を歌うことができるカナリアでした。
しかし、20年前の事件をきっかけに、それぞれの心の内に罪の意識や憎しみを抱え、無垢ではいられなくなったのだと言えます。
歌えなくなったカナリアとなってしまったわけです。
それでも生徒の中でただ一人、信人だけは無垢さを持ち続けられた人物と言えます。
しかし悲しいことに、そういう彼が得たいものを失っていくばかりの人生となってしまったわけです。
でもそういう無垢であった信人だからこそ、彼の事件をきっかけに、生徒たちが再び心に赦しを得ることができたとも言えるかと思います。
そして、はる自身も、ずっと罪の意識を感じて生きてきました。
それは20年前の事件に関わることでもありました。
はるこそが一番に罪の意識を感じて生きてきたのだと思います。
はるが訪れることにより、生徒たちは赦しを得ますが、図らずも最後に信人によりはるは赦しを得ることができました。
登場人物たちはそれぞれがその心の内に、罪の意識や憎しみを抱え、それに人生を影響されていました。
そしてそれにより家族のように近かった人々が20年もの間、距離を置いて生きてきたのです。
信人の事件をきっかけにはるが生徒たちを訪れることにより、生徒たちそしてはる自身も赦しを得られたのです。

ラストの分校のシーンにおいて、再び生徒たちとはるが集い、子供の頃のように合唱をします。
歌えなかったカナリアが再びさえずることができるようになったのです。
それはすなわちそれぞれの心のなかにあったものから赦しを得たということなのでしょう。
赦しというものは自分だけではなんともなりません。
他の誰かから、あなたは生きていてほしいと言ってもらえることにより、赦しを得る。
他の誰かに、あなたには生きていてほしいと言うことにより、赦しを与える。
赦しは相身互いに施されるもの。
だから人は生きていける。
そういう気持ちになりました。

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2012年11月10日 (土)

本 「ハング」

誉田哲也さんの作品は大別すると2つに分けられると思います。
「武士道」シリーズなどの前向き感のある青春小説系。
そして「姫川玲子」シリーズや、「ジウ」シリーズのような、ダークな趣のある警察小説系。
本作は明らかに後者に属する作品になります。
誉田さんの作品では、人生に絶望するような出来事にあった登場人物が多く登場します。
特に犯人となる人物においては幼い頃などにかなり酷な仕打ちを受け、それにより人間のダークサイドへ精神が向かってしまった人物が多いです。
本作においても事件の核となる人物である馳もそういう人物のひとりでしょう。
また「姫川玲子」シリーズの姫川にしても、高校生の時に暴行を受け、心に深い傷を負っています。
姫川はそのときに面倒を見てくれた女性刑事の優しさにふれ、かろうじてダークサイドへ落ちることはなかったですが、心の中に深い闇を背負っているのは一連のシリーズのなかで語られているところです。
「ジウ」の美咲は心を開いた人物を目の前で殺されたりしていますが、それでもダークサイドに落ちることはありませんでした。
このように本田作品の主要人物はその人生に衝撃を与えるような出来事に直面し、そしてその事件により、闇の側に落ちる者、踏みとどまる者と分かれていきます。
本作の中心になる人物のひとりである津原もまさに魂を引き裂かれるような出来事に直面します。
今までの本田作品は登場人物が直面した過去の出来事は過去のフラッシュバックで描かれることが多く、物語のリアルタイムの中で描写されることはあまりなかったかと思います。
そういう意味では津原が直面することについては物語上のリアルタイムで描かれており、彼が対する出来事による心の叫びは苦しくなるほどに迫ってきます。
そして彼が闇の側に落ちていくか、それとも踏みとどまるか、それはこの物語では最終的には描かれていません。
もしかすると津原のその後、というのも誉田哲也さんは用意しているかもしれませんね。

「ハング」誉田哲也著 中央公論新社 文庫 ISBN978-4-12-205693-0

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本 「「紫の女」殺人事件」

内田康夫さんの浅見光彦シリーズの一作になります。
このシリーズでは、探偵役である浅見光彦の活躍を、物語の中で「軽井沢のセンセ」こと内田康夫が小説にしているという設定になっています。
作者が小説の中に出てくる(同姓同名などを含める)のは、栗本薫さんの「ぼくら」シリーズなど意外と多い気がしますが、本作は最初のほうは浅見光彦すら出ず、内田センセの一人称で物語が進むという変わった構成になっています。
作者である内田康夫さん自身もあとがきで、本来の小説作法からいうと変わった構成と書いてらっしゃいました。
本作は内田康夫さんの作品らしく読みやすいミステリーであるというのは、他の浅見光彦シリーズと同様です。
今回は謎の一つとして「幽体離脱」という珍しい現象を取り扱っています。
「幽体離脱」とは臨死体験のひとつとして言われますが、死のうとしている自分をもう一人の自分がその様子を眺めるといったような現象ですね。
ミステリーで超常現象を扱うのはなかなかに難しい。
基本的にミステリーというのは論理だった構成で謎を解明しなくてはいけないわけで、そこに超常現象的なものが入ってくると論理が破綻してしまいます。
ですので当然のことながら本作でも「幽体離脱」については現実的な説明がなされていますが、その説明がシンプル、簡潔で、なるほどねというようなところがありました。
浅見光彦シリーズは旅情ミステリーとして分類されることもありますが、今回の舞台は伊豆の網代です。
読みやすい本なので旅行のお供になど気軽に楽しむにはいいと思います。

「「紫の女」殺人事件」内田康夫著 角川書店 文庫 ISBN978-4-04-160777-0

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2012年11月 4日 (日)

本 「悪夢の身代金」

木下半太さんの「悪夢」シリーズの最新作です。
最近、書くペースが早いような・・・。
前作の「悪夢のクローゼット」の記事の時、初期の作品の「悪夢のエレベーター」のような感じと書きました。
これは基本的にワンシチュエーションで繰り広げられるということと、一人称の語りが章ごとに登場人物が変わっていくことにより謎が次第に明らかになっていくという構造からでした。
そういう意味で言うと今回の「悪夢の身代金」は「悪夢の観覧車」に近い感じがしますね。
本作は一人称の語りが章ごとに変わっていき謎が明らかになっていくというところは同じですが、ワンシチュエーションではありません。
そういうところが「悪夢の観覧車」に近い感じがします。
最初はなんだかわけのわからない事件に巻き込まれた人物がいて、そのわけのわからない事件の本質が章ごとに変わる登場人物の一人称語りによって謎が明らかになっていいく。
本作でいうとクリスマスの日に大阪の梅田をミニスカサンタの格好をした女子高生が、身代金が詰まった白い大袋を担いで走るというシチュエーションが、わけのわからない事件。
身代金を運ばされている女子高生もなにがなんだかわからない。
なぜに、どうして?
こういう語り口は木下さんはうまいですね。
相変わらず最終章までかなり引き込んで読ませてくれます。
ただ最終章でいろいろ明らかになるのですが、ここら辺がやや強引なきらいも。
一気に伏線を片付けてはいるのですが、ちょっとね・・・。
とはいえ、エンターテインメント小説としては十分合格のラインを越えていると思います。

前作「悪夢のクローゼット」の記事はこちら→

「悪夢の身代金」木下半太著 幻冬舎 文庫 ISBN978-4-344-41924-7

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2012年11月 3日 (土)

「のぼうの城」 人の力と銭の力

和田竜さんの小説「のぼうの城」の映画化作品です。
こちらについては珍しく原作を先に読んでいました。
主人公、<のぼう>こと成田長親を演じるのは野村萬斎さん。
僕が原作を読んだときの印象だともうすこし大柄でがっしりしたイメージだったので、ちょっと意外な感じはあったのですが、中盤のハイライトである「田楽踊り」のシーンを観ると、やはり野村萬斎さんでよかったなと思いました。
飄々とした感じでありながら、時として目に力が入るところなどはさすがです。

豊臣秀吉がいわゆる「北条攻め」を行っているのと同じとき、長親が城代を務める関東北部の忍城は500名で、石田三成率いる2万の軍勢と戦います。
通常では到底敵わない状況でありながら、忍城は本城の小田原城が落ちる最後まで持ちこたえるのです。
攻め手である石田軍は、天下の兵と呼べるほどの大軍、そしてさらには銭の力(財力)にものを言わせた動員で堰を作り、忍城を水攻めにします。
しかし、忍城は耐えに耐え、さらには<のぼう>の奇策により、水攻めからも逃れるのです。
石田三成の銭の力に、対抗できたのは長親の人の力と言っていいでしょう。
人の力とは、カリスマ力と言ってもいい。
少ない人数でも、中心となる人物にまとめあげる力があれば、その力は元々の力の何倍にもあります。
一代で会社を大きくした経営者、混乱から国をまとめあげた政治家、劣勢から逆転した指揮官など、人の力(カリスマ力)を持っている人物がいます。
長親もそのような人物の一人であると言えます。
先に書いたような劣勢の中で、忍城の侍、そして農民たちをまとめあげ、敵に向かい合わせる力を持っているのです。
しかし、そのカリスマ力も使い方次第では危険な面もあります。
カリスマ力を悪い方向に使う人物も今までの歴史を見ても、多くいるのです。
ヒトラーなどもそうかもしれませんし、また麻原彰晃なんてのもそうかもしれません。
人を導く力がある人物が、間違った方向に人々をひっぱっていってしまうこともあるのです。
そういうことについて、本作の長親は自覚的であったと思います。
水攻めを破ろうと長親が決心をしたとき、彼は「悪人になる」と言います。
それは自分が持つ人の力(カリスマ力)を用いることにより、城内だけでなく城外の人々をも忍城のために働くようにしたわけです。
それにより、危険な目に合う人も多いでしょう。
死ぬ人も多いでるかもしれません。
それでも忍城の人々を助けるためにはその犠牲を払わなければならない。
そういう責任を自覚しているということが「悪人になる」という言葉に表れていたように思いました。
また人々への情を持ちながらも、また必要があれば非情にもなれるというところが長親にはあったかもしれません。
カリスマ力のある人は他の人々への影響力があることを自覚した時、そういう側面を持つのかもしれません。
ものの見方が上からの視線になると言いますか。
甲斐姫への扱いは、多くの人々の生命を犠牲にしたことにより自分だけが幸せになるわけにもいかないという気持ちもあったでしょうが、長親の非情な面も出たとも言えるかもしれません。
そういう点では敵軍の将であった本作の石田三成は、極めて人のよい常識人であるように見えました。
しかし常識人というのは世界を変えたりするようなことはできないのですよね・・・。
良い面、悪い面もありながらも、人を魅了する力を持っている人が世の中を変えたりするものです。

原作小説「のぼうの城」の記事はこちら→

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2012年11月 2日 (金)

「リンカーン/秘密の書」 二つの開放

ティム・バートン製作×「ウォンテッド」のティムール・ベクマンベトフ監督ということで宣伝されていた本作、ティム・バートン色は薄かったかな。
ヴァンパイアの南軍兵士のメイクが、ちょっとティム・バートンぽかったけど、そのくらい。
当然のことながら監督のベクマンベトフの色が強い作品となっていました。
スタイリッシュで舞踊を観ているような感じもするアクションの演出は、やはりベクマンベトフらしい。
ただ、あれだけ雰囲気の似たスローモーションの映像を見せられるとやや飽きてくるかなぁ。
それとキャラクターの描き方がやはり浅め、軽めなので、結果的に物語も盛り上がりに欠けるように思います。
敵味方問わず、もうちょっと深く描けば、もう一息よくなる気がします。
クライマックスは列車を舞台にしますが、「ウォンテッド」でも列車でのアクションありましたよね。
ベクマンベトフは鉄道好きなのかしらん。

さて、ヴァンパイアと言ったら、東西を問わず、映画、小説、漫画、アニメで取り上げられることが多い人気のモンスターです。
これはヴァンパイアは他のモンスターにはないものを持っているからでしょう。
ヴァンパイアはいろいろな作品で(本作もそうですが)、しばしば「制約から開放された」存在として描かれます。
ヴァンパイアの姿形はほぼ人間のままで、見た目はほぼ変わりません。
それは当たり前ですが、ヴァンパイアという存在がもともと人間であったからです。
人間は人間として生きることによって様々な制約があります。
例えば、「倫理」というもの。
人が人を殺してはいけないというのも倫理。
ヴァンパイアという存在は、人の血を吸わなければいけないわけで、自分が命を長らえるためにはこの倫理を犯さなくてはいけません。
そういう点でヴァンパイアは人の制約を越えています。
そして人間においておおきな制約は「限りある命」です。
これについてもヴァンパイアは制約から開放されています。
人と同じ姿をしていながらも、制約から開放されている存在、それがヴァンパイアです。
しかし倫理という制約から開放されるため、その性質は人間性といったものから離れ、結果的には獣性を持った存在になるわけです。
ヴァンパイアは人間が背負っている限界を超越しているということでは「進化」ともとれますが、その性質は獣性であり、そういう意味では「退化」しているとも言える存在です。
そういうアンビバレントなところが多くの作家が惹かれるところかもしれないですね。

本作でのリンカーンとヴァンパイアという組み合わせは意外な取り合わせでした。
リンカーンがヴァンパイア・ハンターであったというのは、おもしろい発想です。
ヴァンパイアの親玉であるアダムは何度かリンカーンに「支配から開放されよ」と言い、ヴァンパイア側になるように誘いをかけます。
しかし本作におけるヴァンパイアは南部にて奴隷を「食料源」として支配している存在です。
リンカーンは奴隷をヴァンパイアの支配から開放しようとするわけです。
つまり、
 ヴァンパイア側 「人間性」によって支配されている人間を開放し、ヴァンパイア(「獣性」)へ
 人間(リンカーン) ヴァンパイア(「獣性」)によって支配されている奴隷を解放し、人間(「人間性」)へ
という二つの「開放」の構図があるわけです。
「人間性→獣性」という開放と、「獣性→人間性」という開放。
どっちも「開放」ではあるのですよね。
このあたりの発想はおもしろいなと思いました。

そういうおもしろさはありつつも、映画としてはキャラクターの掘り下げが少ないために、物語としては少々薄っぺらくなってしまったのが残念なところです。

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2012年11月 1日 (木)

「アルゴ」 国のため、正義のためというより

1979年に起きた在イラン米国大使館占拠事件というのは歴史的にみても、エポックな出来事でした。
ひとつには冷戦時代を通じて各国への影響力が強大になってきたアメリカが意外にも脆いところをみせてしまったというのがひとつあります。
二大大国の争いという冷戦下において、大規模な戦力を持たないとアメリカには対抗できないと世界が思っていたときに、この事件を解決できないということを世界に露呈してしまいました。
この事件が、その後の大規模な武力衝突ではなく、テロ行為によってアメリカへの対抗するという流れを作ったかもしれません。
本作は在イラン米国大使館占拠事件に伴う、もうひとつの大使館員の救出劇を描いています。
占拠事件発生時、6人の大使館員が脱出し、カナダ大使の私邸に逃げ込みました。
しかし、そこからはどこへも移動することはできません。
その存在が革命政府に知られれば殺されてしまう可能性があり、また大使館の人質の生命にも影響を与えかねません。
その救出作戦が隠密裏に国務省・CIAで計画されました。
それは「アルゴ」という偽SF映画をでっち上げ、そのロケハンでカナダ人映画スタッフがイランに入国したとし、6人が偽のパスポートを受け取り映画スタッフとして、空港から脱出するというもの。
これだけ聞くと、「ほんまかいな」と思うような作戦。
けれど実際にこの作戦は行われてたということです。
こういう作戦の内容だけ聞くとコメディタッチのものになってしまうかなとか、人質救出作戦というとエンタメちっくな派手なものになっているかなと思ったりしましたが、そういうのとは違った風味に作品になっていました。
監督は主演も務めるベン・アフレック。
「ザ・タウン」も本作もそうですが、最近のベン・アフレックは映画制作者として抑制された渋めのスタイルを作り始めているような気がします。
一時期俳優としては迷走していた感じがしますが、最近はいい感じで年を重ねてきたような気がします。
俳優兼監督ということで「ポスト・イーストウッド」とも呼ばれるようになってきているようですが(スタイルは違いますけど)、それもわかるように思います。
本作でいうと前半は抑制しすぎてやや退屈なとこともありましたが、後半脱出の前日あたりからは引き込まれる感じがしましたね。
ベン・アフレックが演じるのがCIAのエージェントで本作戦の立案者でもあり、実行者でもあるトニー・メンデスです。
本作でいいなと思ったのは、本国からの作戦中止命令を受けてメンデスが一夜逡巡し、それでも作戦実行の決心をするところ。
メンデスという役はセリフも少なく、エージェントらしく感情をあまり出しません。
それでも彼が作戦実行を決めた理由は伝わってきました。
アメリカとしての正義を実行するとか、そういうことではないのですね。
メンデスは彼が救出しようとする6人と、脱出のための準備をしてきました。
最初は無謀な作戦に懐疑的であった6人もメンデスを信頼し、そのための準備を懸命にやる。
彼らとメンデスの間に強い信頼感が育まれたのですね。
だからメンデスは国のため、正義のためというより、彼からの信頼を裏切れないということで、作戦実行を決意します。
このあたりの描き方が良かったなあと。
メンデスの上司ジャック・オドネル(ブライアン・クランストン←最近露出が多いなぁ)も中止命令もやむなく受けていましたが、メンデスが動きだしたのを知り、本国でもそれを助けるために必死にフォローをします。
国のため、正義のため、といったメンツのような抽象的なもののためではなく、名前も顔もわかっている実在的な存在であるこの人たちを助けたいという気持ちで彼らは動きます。
抽象的なものではなく、実在する人のために働くというところが、何かリアリティがあってよかったです。
ベン・アフレックという監督は、決して大きな出来事を取り扱うのではなく、主人公が手に届く範囲にある、その人にとってリアルな範囲にあるものを描くということにこだわっているのかもしれません。

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