本 「動的平衡 -生命はなぜそこに宿るのか-」
著者は「生物と無生物のあいだ」の福岡伸一さんです。
福岡さんは生物学者ですが、非常に読みやすく理解しやすい文章を書く方ですね。
学者さんはややもすると専門的な話を専門語で語りがちですが、福岡さんは専門家ではない人に伝えるということに長けていると思います。
タイトルにある「動的均衡」というのは聞き慣れない言葉ですよね。
これは福岡さんが、生命とは何かという問いに対して持っている考え方になります。
「生命のメカニズム」といった言葉がありますが、これは生命を機械(メカニック)に例えているわけですね。
この言葉から連想されるイメージというのは、生命といくつかの部位や臓器からなっていて、それは細胞からできていて、そしてそれらの細胞は何種類かのたんぱく質で作られていて、といったものでしょう。
自動車がいくつかのパーツでできているというのと同じような感じですね。
生命が細胞で、そしてたんぱく質などでできているというのは物理的には間違ってはいません。
では、そのたんぱく質をパーフェクトに構成し、細胞を作っていったら、そこに生命は宿るのでしょうか。
福岡さんはそれでは生命にはならないと言います。
彼は、生命というものは部品で構成されたものという機械的なものではなく、ある「状態」であると言います。
生物のからだは日々、たんぱく質などの栄養を取り入れ、それを細胞の中に取り入れて、生命活動を継続しています。
アイソトープでマーキングしたアミノ酸を摂取し、カラダのどの部分で使われていたかを調べると、どこかの臓器に集中するのではなく、全身に行き渡っているとのことです。
これが意味をするのは、生命は日々生命に必要なアミノ酸などを吸収し、日々細胞のなかのアミノ酸をいれかえていっているということです。
一年前の自分のカラダはまったく同じものではなく、細胞を構成しているアミノ酸は入れ替えられているというわけですね。
これはさきほどのの機械のイメージとはまったく違います。
機械は一度セッティングされた部品は故障するまで入れ替わることはありません。
生命は日々、細胞を新陳代謝して更新していっているというわけです。
福岡さんはこれを「川の流れ」に例えます。
口から摂取された食べ物は、消化器で分解されてアミノ酸として吸収され、やがてどこかの細胞の一部となります。
しかし、それはずっとそこにとどまるわけではなく、また別のアミノ酸によって更新されそのアミノ酸は体外に排出されます。
そのアミノ酸は体外から体内に入り、ちょっと留まって、また体外に出て行く。
まさに「川の流れ」です。
こういう状態を福岡さんは「動的平衡」と言います。
「動的平衡」の生命観と機械的な生命観の大きな違いは「時間」の概念が入っているか、いないかです。
さきほども書いたように機械的なイメージで言うと、一度セッティングされた部品はなにもしなければそのまま。
時間の概念はありません。
「動的平衡」の考え方は「川の流れ」に例えられるように、生命を構成するアミノ酸は常に入れ替わっています。
常に入れ替わっているという状態には、時間の概念が入っています。
日々の更新作業を続けているその状態こそを「生命」であると福岡さんは言います。
なるほど、と思いました。
エントロピーは増大していくというのがこの世界の真理です。
秩序は無秩序へ。
安定から崩壊へ。
ずっと動き続ける機械はありません。
どこかで故障をする。
それはエントロピーが増大していくから。
しかし、生命はそれにも関わらず、一生命体として継続しています。
これはエントロピー増大にともないうまくいかなくなるよりも早く、自らのカラダをスクラップ&ビルドしているからです。
常に自分を構成している要素を更新していくことにより、エントロピーの増大に逆らっているのですね。
まさに自転車操業のようです。
しかし自転車は車輪が回っているからこそ安定して進めるとも言います。
止まっていたらすぐに倒れてしまいます。
倒れないようにずっと車輪を回して走り続けるというのが生命なのですね。
生命というのはすごいものです。
自分のカラダがとてもすごいものなのだと思えてきました。
「動的平衡 -生命はなぜそこに宿るのか-」福岡伸一著 草思社 ハードカバー ISBN978-4-86324-012-4
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