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2012年10月29日 (月)

「009 RE:CYBORG」 「神」についての認識の曖昧さ

石ノ森章太郎さんのあまりに有名な「サイボーグ009」の映画化です。
「009」という作品はなぜか「神」というテーマと相性がいい。
漫画では「天使編」や「神々との戦い編」、アニメでも「世界樹編」等がありましたよね。
本作もやはり「神」をテーマとしていて、「サイボーグ009」の久しぶりの映画化作品として、らしいテーマを選んできたと思います。
なぜ「サイボーグ009」は「神」との相性がいいのでしょうか。
考えてみるに、サイボーグとは人間が改造された存在なわけです(ロボットとかではないので念のため)。
ゼロゼロナンバーサイボーグもそれぞれに改造度合いが違いますが、人間である部分を持ちつつ、人間以上の存在なわけなんですね。
そういう点で彼らは、「人間」と「人間を越えた存在」の間にいると考えてよいわけです。
人間以上の力を持ちながら、心は人間のままであるので、彼らの中で苦悩が生じるわけですね(このあたりは「仮面ライダー」にも通じるものもあり、石ノ森章太郎さんらしいところです)。

さて、本作でも「神」が登場します。
世界各地で同時多発テロともいうべき事件が数々発生し、それについてゼロゼロナンバーサイボーグたちも調査をし始めました。
しかし、その犯人にはいかなる共通点をも見つけることはできません。
ただひとつ「彼の声を聞いた」という証言を除いては。
「彼の声」すなわち「神の声」ですね。
また008=ピュンマが考古学調査をしたときに、翼が生えた骸骨=「天使の化石」を発見します。
そしてその「天使の化石」を見た者の中に、やはり「彼の声」を聞いた者が現れます。
また記憶を封印され高校生として暮らしていた009=島村ジョーも「彼の声」を聞きました。

途中でハインリヒがえらく説明的に語っているので、こちらについてはネタバレでいきます。
人間はかつて「神」という概念を生み出しました。
これはおそらく自分の周囲にとりまく環境がどうしてこういう状態なのか、そして自分とはどのような存在であるのかを認識するための発明であったと言えるでしょう。
ハインリヒが語るピュンマの説によれば「神」という概念を生み出した脳こそが、「神」と呼べるかもしれないとのこと。
ここまでは、まだ、いい。
だとすると「神」というものはあくまでも観念的な存在であるわけです。
脳というハコは物理的に存在はしますが、ハード的な存在が「神」なのではなく、その中で生み出された観念こそが「神」なわけです。
「彼の声」を聞いたというのは、外からの声ではなく、内からの声、であると。
ただその内からの声に突き起こされて行動した結果が、どうしてタイミングを合わせたような同時多発の人類破滅の行動に繋がるのだろうか。
これについては一切説明がありません。
よしんば「神」という概念が、人類の無意識的な共通意識だとしても、このように都合良くタイミングが合うことは考えられない。
さらにはラストの状況でジョーとジェット=002が、なぜか助かる。
これについては何かしら実在的な力が作用しなければあり得ない。
それが何かについては本作ではぼんやりと「神」の存在がほのめかされますが、これは先ほどの観念的な「神」とは不整合を起こしているように思います。
また「天使の化石」について、神山監督はパンフレットで実際のものかもしれないし、モニュメントかもしれないと語っています。
個人的にはこのはっきりしなさがどうも腑に落ちないのです。
「天使の化石」がモニュメントで、観念的な「神」が人を滅ぼそうとすることに対し、抗った存在の象徴であるというのであれば、まだわかる(今回のジョーのように)。
しかし、それが実際にリアルに存在したかもしれないという話となると、やはり観念的な「神」という考えと合わない気がするのですよね。
エンディング後のラストで月の裏側にも「天使の化石」があるのも描かれますが、これもよくわからない。
人間が訪れていないのに、これは誰が作ったのか、誰なのか。
こういうものがあるとするならば、「神」は実在する(宇宙人でもなんでもいいんだが)ということにならないでしょうか。
これもやはり本作での観念的な「神」という考えと合わないように思います。
本作においては「神」をテーマにしながらもその扱いがやや曖昧で、そのため観ていて不整合が気になり、かなり気持ちが悪い。
先日読んだ「ふしぎなキリスト教」じゃないですが、日本人は絶対的な「神」というものに対してやはり認識が曖昧なのではないかと思ったりしました。
本作においてはへんに観念的な「神」というような考えをださずに、人間を超越した存在がいるっていうことのほうがよほどシンプルではなかったかと思いました。

あ、003=フランソワーズが大人っぽくなっていたのは良かったです。

「サイボーグ009」の昔の映画「サイボーグ009 超銀河伝説」の記事はこちら→

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「機動戦士ガンダムAGE」 世間的には評判はよろしくないが・・・

4クール(1年)にも及ぶ「機動戦士ガンダム」の新作シリーズです。
企画協力にはゲームメーカーであるレベルファイブ(「イナズマイレブン」「ダンボール戦記」等)が加わり、ゲームやコミックなどとのコラボレーションが図られました。
「機動戦士ガンダム」シリーズは熱烈なファンがいる一方、ニューエントリーが取りきれていないという悩みがあったようで、そのあたりの層でヒット作を出しているレベルファイブと取り組むこととしたのでしょう。
そのためか本作のキャラクター設定(絵柄)は、レベルファイブの他の作品と同様のテイストで、初見の時はあまりに「ガンダム」の雰囲気に合わないのではないかと危惧をしました。
子供っぽいわけですね。
初期はかなり「ガンダム」ファンからの批判はあったようです。
本作が意欲的に取り込んだ新しい設定は、1年にも及ぶシリーズであるということで、主人公が3代に渡って変わっていくということです。
フリット・アスノに始まり、その子アセム・アスノ、そしてまたその子キオ・アスノと3代に渡る物語が描かれます(フリット編、アセム編、キオ編がそれぞれ1クール、そして3世代が同時に描かれる3世代編が1クール)。
またタイトルにあるAGEの名をとったAGEシステムなるものがあり、これはガンダムの戦闘データを元にさらに強くなる武器やウェア(ガンダムのパーツ)を作り、ガンダム自体を進化させます。
これは最近の「仮面ライダー」にみられる「フォームチェンジ」のような感じで、バンダイ側の色気が感じられますね。
このように意欲的に新しい試みはいくつも盛り込まれていきましたが、最初の1クールめ「フリット編」と観たときはいかがなものかというのがありました。
新しい試みはしているものの、その基本線はファースト・ガンダムの焼き直しのような感じを受けました。
ファースト・ガンダムのニュータイプとほぼ同様の力として描かれるのが、本作ではXラウンダーというもの。
フリットはこの力を持ち、最初からガンダムを使いこなすことができます。
そしてまたフリットが惹かれる少女フリンもそのXラウンダーなのですが、その能力ゆえ、フリットの敵であるヴェイガン(このときはまだ正体不明)に利用され、命を散らします。
このあたりはアムロとララァを想起させるエピソードであります。
このフリット編は全体的にストーリー展開が早く、ややもすると御都合主義感がかなりあって、観ていても何か子供向けであるという感じがしました。
この作品がファースト・ガンダムを意識しているというのは他のいくつかのところからもうかがわれます。
2クールめの「アセム編」で登場する主人公のライバルとなるゼハートは、やはりシャアばりの仮面を身につけ戦闘をしますし。
そもそもガンダムのフォルムについては、「フリット編」のAGE-1は非常にシンプルでファースト・ガンダムを意識、「アセム編」のAGE-2はストライダー形態への変形などからZガンダムを感じさせます。
「キオ編」のAGE-3の全体的なごついフォルムはZZガンダムを髣髴とさせますし、最後のAGE-FXがファンネルの使いこなす様はνガンダムを思い浮かべさせますね。
このようにファースト・ガンダムにはじまる「宇宙世紀」シリーズを翻案しているようなところもあり、当初は少々オリジナル感を感じないというのが、本作でした。
ただ2クール目の「アセム編」から少々方向性が変化していきます。
アセムは、Xラウンダーであるフリットの子でありながら、その能力を持ち合わせていません。
偉大なパイロットである父親、そしてまた友人でもあるゼハートに対し、嫉妬・コンプレックスを持つアセムの姿はいままでとは違う新しさを感じました。
そして彼は生まれ持った能力ではなく、自分の努力によりそのスキルを増し、Xラウンダーとも戦える「スーパーパイロット」となるのです。
この立ち位置はその後の4クール目の「3世代編」にも生きてきます。
3クール目は「キオ編」でアセムの息子であるキオが主人公となります。
彼は祖父と同じくXラウンダーであり、中でもその力が強い少年です。
そして誰よりも心が優しい少年です。
彼は戦いの中、人が次々に倒れていく様を見、苦しみます。
「3世代編」ではフリット、アセム、キオの3人の考え方の違いが出て、話にドライブがかかります。
この「3世代編」はかなりおもしろかった。
大切な人(母やフリン)を失った悲しみを背景に、ヴェイガンへの復讐、その殲滅にとらわれたフリット、Xラウンダーではないということからか状況を俯瞰してみることができ地球とヴェイガンの戦力の均衡による平和を目指すアセム、敵であるヴェイガンへ人間としての共感を感じ戦わないようにするために戦うキオ。
それぞれの意志が物語の中で交錯します。
この「3世代編」の展開は当初より想定されたものかどうかはわかりませんが、結果的には「機動戦士ガンダムAGE」は3世代にも渡る戦いを大きな物語のうねりを持って描いたと思います。
当初の沈滞した感じから、うまく復活できたのではないでしょうか。
世間的に評判が芳しくないのはやはり1クール目の「フリット編」でかなりの脱落者が出たからだと思います。
ここでファンを引きつけられなかったのはやはりよろしくなかった。
しかしその後はうまく軌道修正をしてきたのではないかと個人的には思います。

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2012年10月28日 (日)

本 「ふしぎなキリスト教」

グローバリゼーションと言われて久しいですね。
このグローバリゼーションというのは、ぶっちゃけ西洋化と言ってもいいわけです。
20世紀から今世紀にかけて起こっているグローバリゼーションというのは、西洋文明が世界各国に広がっていったということです。
じゃ、西洋文明とは何なのかと。
その文明・文化の本質を理解するためには、その文化の基礎となるキリスト教という宗教への理解が必要になります。
しかし、そのキリスト教というのは、よくよく日本人には理解しにくい思想・宗教だったりするわけです。
キリスト教が一神教であることはほとんどの人は知っているにせよ、一神教ってそもそも何なのかということを説明できる人ってあまりいないんではないでしょうか(かくいう自分もその通り)。
本著は橋爪大三郎さんと、大澤真幸さんという二人の社会学者が対談というかたちでキリスト教の(日本人にとって)ふしぎなところをわかりやすく解説していきます。
わかりやすくと言っても、かなり濃密な内容なので、それなりに読むのはエネルギーがかかりますよ。

この本についてまとめるって言うのも僕の能力では難しいので、この本を読んでなるほどなと思ったことをちょっとだけ。
宗教と科学というとなんとなく対立した感じがしますよね。
キリスト教の原理主義(聖書に書いてあることを文字通り真実だとする主義)だと、進化論や天動説を否定するなんていう話もあるっていうのを聞いたこと方もいるかもしれません。
でも今の科学を生み出したのは、キリスト教文化なわけです。
なんでキリスト教文化から科学がでてきたか?
キリスト教の神(God)は世界を創り出した。
キリスト教に近いユダヤ教には律法があり、イスラム教にはコーランがあり、人々が従うべきルールが明確にされています。
しかしキリスト教にはない。
聖書があるじゃない?という方もいるかもしれませんが、聖書にはそういうルールは書いていません。
で、キリスト教の信者は何に従って生きるのかと(まさに迷える子羊状態なわけです)。
そういう中で、自然法という考えが出てきました。
神は世界を創った。
世界=自然を動かすルールを見つけ出すことができれば、それが神が提示したルールだと。
そして神が作った人間には理性が与えられている。
神が与えた理性を使えば、自然を司るルールが見つけられるはず。
それが自然科学の発祥なのですね。
自然科学自体は、そもそもキリスト教の神と対立するようなものではなかったわけですね。
むしろ神が創ったこの世界を人間がよりよく理解するために行っていることと考えてもいい。

ていったようなことがこちらの本にはたくさんたくさん書いてあります。
日本人がなぜキリスト教を理解しにくいかなどということなどもあり、目からウロコのようなところがあります。
しかし、先ほども書いたようにそれなりにエネルギーが要りますので、読むときは気合いを入れてみてください。

「ふしぎなキリスト教」橋爪大三郎×大澤真幸 講談社 新書 ISBN978-4-06-288100-5

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「宇宙刑事ギャバン THE MOVIE」 良さはそのままに、いい具合に抑制

今年は「宇宙刑事ギャバン」の放映30周年ということで、まさかの単品での映画化です。
2月の「海賊戦隊ゴーカイジャーVS宇宙刑事ギャバン」での久しぶりの登場も驚きでしたが、まさかピンでの映画化とはなんともファンとしては嬉しい限り。
最近の方は東映の特撮ものといったら「仮面ライダー」と「スーパー戦隊」しか知らないって方も多いのでは?
ところがどっこい、30年前に一世を風靡した「メタルヒーロー」シリーズがあったのです。
「メタルヒーロー」シリーズというのは正式名称ではなく、「宇宙刑事ギャバン」がヒットし、その後シリーズが作られるにあたり、そのメタリックなビジュアルが継承されていくのですが、それにちなんだ通称なのですね。
シルエットはシンプル、しかしそのメタリックな意匠は、それまでのヒーローにはまったくなかったもので、初めて「ギャバン」を観たときはインパクトを感じました。
ポール・ヴァーホーベンの「ロボコップ」のデザインは、「ギャバン」の影響を受けてますからねー。

まったくの新作となる本作を観た印象ですが、いろんな意味でシンプルで、いい具合に抑制された作品になっていると思います。
これが「ギャバン」っぽい。
最近の東映の特撮、特に映画は「仮面ライダー」にしても「スーパー戦隊」にしても、かなりインフレーションが進んだお祭り映画になっています。
お祭り映画はそれはそれで楽しいのですけれど、「ギャバン」的にはどうかと思ったりもしてました。
「ギャバン」のスペシャルフォームとか出てきたら、どうしようかと心配したりもしたんですけれど、このあたりはちゃんと製作者もわかってくれてたようで。
お話はいたってシンプルでわかりやすい。
ただそのまんまだと今やる意味というのが見いだしにくいわけです。
そこで今回の主役は、かつてのギャバンである一条寺烈ではなく、新米宇宙刑事である十文字撃に変わっています。
ここで取り入れらた設定が「ギャバン」が宇宙刑事のコードネームであるということ。
代々、「ギャバン」という名が受け継がれていくということなのですね。
新しい主人公、十文字撃になることで、彼にまつわる物語が描かれていく。
それが新作である意味となります。
烈の場合はかつてのテレビシリーズで彼の物語が決着ついているわけで、その後に登場してもどうしても「海賊戦隊ゴーカイジャーVS宇宙刑事ギャバン」のように脇になってしまうわけですよね。
この「ギャバン」コードネーム化というアイデアは、これからもこのシリーズを続けていくことができることを意味しています。
東映的にはアイデアヒットでしょうね。
十文字撃を演じるのは石垣佑磨さん。
僕は知らなかったのですが、けっこうアクションもいける方ですね。
烈は当時JACに所属していた大葉健二さんがやっていたわけですから、テレビの「ギャバン」は素面でのアクションもかなりありました。
本作もけっこういろんな場面で石垣さんはアクションをやっています。
あとなんとなく風貌も若かりしときの大葉さんを髣髴させるところもあり、いい感じでした。
そしてまだまだ健在の大葉さん。
「海賊戦隊ゴーカイジャーVS宇宙刑事ギャバン」のときも書きましたが、この年でアクションがキレキレです。
すごいです。
大葉さんが登場すると、スクリーンを通してなんだか温度があがる感じがします。
撃が「蒸着」する「ギャバン」はType.Gと呼ばれるもので、オリジナルの「ギャバン」とは目や胸の色が違うのですよね。
でもフォルムはほとんど変わらない。
新作となると違いを出すために、どうしてもゴテゴテとしたくなるところをガマンしながらも、現代風にスタイリッシュにしている感じがして、好感がもてます。
「ディメンションボンバー」とか「スパイラルキック」とか「ギャバンダイナミック」とか、このあたりは継承してくれてるところは嬉しいところ。
「サイバリアーーン!」とか「電子星獣ドルーー!」とかもね。
あと「蒸着プロセスをもう一度見てみよう」もね。
萌え〜。
レーザーブレードのところでは、宙明サウンドも健在。
現代風にアレンジされてましたけどね。
あの音楽が流れると、やはり萌え〜。
あとコム長官もご健在でした。

もともと持っている良さはそのままにして変えない。
変えないほうがけっこう勇気がいると思うのですよね。
「仮面ライダー」や「スーパー戦隊」はインフレ化しているなかで、久しぶりに日本のヒーローらしいヒーローものを観たって感じがします。

シャリバンもシャイダーも出ていましたね。
シャイダーは好きだったんですけれど、本作に出てきたのは頭と体の大きさのバランスがいまいち。
ちょっとごつすぎ。
これがちょっと残念。

「海賊戦隊ゴーカイジャーVS宇宙刑事ギャバン」の記事はこちら→

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2012年10月27日 (土)

「エクスペンダブルズ2」 筋肉アベンジャーズ

一昨年の秋、公開されてヒットとなった「エクスペンダブルズ」の新作です。
前作「エクスペンダブルズ」はシルベスター・スタローン、ジェイソン・ステイサム、ジェット・リー、ミッキー・ロークに加えてブルース・ウィルスにアーノルド・シュワルツェネッガーと出演者が豪華!
80年代のアクション映画で燃えまくった世代的には観ないわけにはいきません。
これは筋肉アベンジャーズです。
筋肉祭りです!
わっしょい!わっしょい!
ということで前作も堪能させていただきましたが、シリーズ2作目となる本作はさらにスケールアップしてます。
前作の記事で「ヴァン・ダムも出てくればよかったのに」書きましたが、出てくれましたよ、ジャン=クロード・ヴァン・ダム!
それも悪役!おいしい役ぢゃないか!
健在ですよヘリコプターキック!
燃え〜。
対するスタローンasバーニー・ロスはボクシング・スタイル。
これはもろ「ロッキー」ですな。
二人のガチバトルは「ゴジラVSガメラ」「ウルトラマンVS仮面ライダー」的なイベント感がありますね。
わっしょい、わっしょい!
あとはチャック・ノリスも登場しました。
この方、ほとんどあの頃と雰囲気変わらないじゃないですか。
年をとらないんじゃなかろうか。
アメリカ「チャック・ノリス・ファクト」という話があるらしいです。
「チャック・ノリスは何でもできる。負けること以外は」(爆!)といったような。
ほぼ「神」扱いですね〜。
前作では登場したものの、チラリズム的な感じで少々欲求不満感があったブルース・ウィルスもアーノルド・シュワルツェネッガーも本作ではアクションシーンでバンバン銃を撃ってます。
いやいや、この2ショットもうヤバいから・・・。
シュワルツェネッガーも知事じゃなくなったから時間できたかな。
みなさんの期待通り「I'll be back」も言ってくれてるし(ほぼネタ扱いだよね)。
もう、この映画についてはストーリーのことなんか書きません。
筋肉祭りを楽しんでくださいませませ。
わっしょい、わっしょい!

本編始まる前の予告で「ゴーストライダー2」をやっていましたが、そこでなぜか「エクスペンダブルズ3」製作決定の文字が。
ニコラス・ケイジ出るの〜?
本作の監督サイモン・ウェストは「コン・エアー」撮りましたからね、そういうの繋がり?
「3」をやるとなれば、あの方に是非出ていただきたい。
そう、あの方、「沈黙」シリーズ(この日本だけのシリーズ名称はどうかと思うが)、スティーブン・セガール!
これは是非とも・・・。
前回も記事で書いたらヴァン・ダムが出てくれたしね!

前作「エクスペンダブルズ」の記事はこちら→

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2012年10月23日 (火)

本 「空飛ぶ広報室」

こちらの作品、この時点において有川浩さんのひとつの集大成と言ってもいいかもしれません。
有川浩さんのデビュー作「塩の街」、そして「空の中」「海の底」と続く一連の作品群は「自衛隊三部作」とも呼ばれます。
これらの作品に共通しているのは、自衛隊を通り一遍の正義の味方、もしくは無個性の組織として描くのではないといことです。
自衛隊という組織も人で構成されており、それらの人々はそれぞれの人生があるひとりの人であるということ。
恋愛もするし、凹んだりもする。
そして任務に対しての強い責任感も持っている。
普通に仕事をして生きている僕たちと同じ、という描き方をしているのですね。
しばらく有川さんは自衛隊にまつわる物語を書いてませんでしたが、本作では久しぶりに取り上げ、そのスタンスは昔のままでした。
また今回タイトルにある「広報室」については「県庁おもてなし課」でとりあげた広報というものを再度題材にしています。
これは有川さんとしては気になるテーマのようですね。
また他の作品でもこちらのテーマについては取り上げられそうな気がします。
このテーマについては後ほど、もう少し書きます。
そして有川さんの作品と言ったら「ベタ甘」な恋愛ですよね。
こちらも本作ではあいかわらず健在です。
主人公の空井、相手役のリカの関係は、今までの有川さんの作品に登場する主人公たちを髣髴させます。
「頭なでなで」などは有川節の真骨頂で、相変わらずの「ベタ甘」なのですが、これはこれで「甘いっ!!」ていいながらもパクついて食べちゃうケーキみたいな感じです(なんだこの例え)。
有川さんの作品で描かれる恋愛は、「甘え」が描かれるんですよね。
男も女もとても無防備になってしまうとき、「甘えられる」誰かが居てくれる、何を言うわけでもなく、側に寄り添ってくれる人がいるという心地よさみたいなものが有川さんの作品の恋愛には共通しています。
本作は主人公二人だけでなく、空幕広報室の他のメンバーのサイドストーリーなどもいくつか描かれていますが、このあたりは「図書館戦争」シリーズを思い浮かべてしまいますね。
サブのキャラクターも魅力的なところも有川さんらしい。
というようなことで、本作は今までの有川浩作品のいいところをギュッとまとめたような感じがしました。
そういう意味で、現時点での有川浩作品の集大成と思えました。

あと本作で取り上げられている「広報」という仕事についてちょっと書きます。
自分は入社以来ずっと「広告」という仕事をしてきましたが、最近すこしづつ「広報」にも関わるようになりました。
「広報」と「広告」って普通の人には区別がつきにくいですが、ちょっと違う(小さな会社だとこの機能を兼務していたりしますが)。
本作でなるほどと思ったのは、新米広報官の空井が、テレビ局の新人ディレクターであるリカ(彼女は自衛隊に対していいイメージを持っていなかった)に自衛隊のことを好きになってもらうようになってほしいと仕事をするということです。
「広告」は直接的に消費者、つまりはお客さんにアプローチするコミュニケーションする方法ですが、「広報」はメディアを通して間接的にアプローチします。
ここが決定的に違う。
つまり「広報」はお客さんに好きになってもらうことを考えるだけでなく、伝えてくれるメディアにも好きになってもらわなくてはいけないということなのです。
ここは組織と組織というのももちろんですが、お互いに人として信頼し合えるような関係を築けるかというのがポイントとなります。
このあたりの「広報」の基本と言ったようなことが、本作の物語の中には込められているのです。
ですので、本作は仕事で「広報」をやるようになった方にはぜひ読んでほしい。
広報マンとしての基本が書いてあるように思いました。

「空飛ぶ広報室」有川浩著 幻冬舎 ハードカバー ISBN978-4-344-02217-1

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2012年10月20日 (土)

本 「チヨ子」

こちら、宮部みゆきさんの中短編集です。
どの作品もとても宮部さんらしい作品になっています。
書かれた時期はまちまちのようですが、宮部さんらしいテーマがどれにも通じているような気がします。
何度もこちらの記事で書いていますが、宮部さんの作品にはどうしてもなくすことのできない悪というものが描かれます。
この悪ですが、よくよく読むと2種類あるのですね。
ひとつは良心をほとんど持たない、他人を傷つけることを何とも思わない絶対的な悪意を持つ登場人物がでてくるタイプのもの。
「模倣犯」などがそれになります。
もう一つは、根も葉もないうわさ話、中傷、いじめなど、それを行っている人は絶対的な悪意を持つ人々ではないというタイプ。
根も葉もないうわさ話をしている人は誰かを傷つけるということを意識していないのですね。
よくいじめの問題で、加害者は「いじめている意識はなかった」と言っていると報道されますが、この誰かを傷つけているという自覚がないというのは非常に問題なのです。
悪意がないからたちが悪い。
この中短編集はそういう悪意のない悪、そしてなくすことのできない悪による様々な出来事を描いています。
最後に収められている中編「聖痕」は、最近読んだ「英雄の書」にも繋がるテーマであるような気がしました。
こういうテーマなので重めの話が多いですが、中でも本のタイトルになっている「チヨ子」はファンタジーのテイストもあるいいお話で、ちょっとほっとします。
「チヨ子」宮部みゆき著 光文社 文庫 ISBN978-4-334-74969-9

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2012年10月15日 (月)

「鍵泥棒のメソッド」 恋のメソッド・アクティング

ようやく観てきました、内田けんじ監督の新作「鍵泥棒のメソッド」。
前作の「アフタースクール」は好きで、もう何回観たことか・・・。
邦画は内田けんじ監督にせよ、西川美和監督にせよ、若手がコンスタントに自分らしい作品を発表できているのでよいですね。
内田監督も西川監督も僕は好きなのですが、よく考えてみると全然雰囲気が違いますよね。
ご自身で脚本を書き、話がどういう結末を迎えるのか予想がつかないというのはお二人とも共通していると思うのですが、その結末の落とし方が違うのですよね。
西川監督の作品はどちらかというと、人間の暗いところに触れてモヤモヤとした感情残る感じなのですが、内田監督の場合は最後はなんか幸せな感じで終わらせます。
西川監督の作品は観る前にそれなりの覚悟をして観に行くのですが、内田監督の場合はそういう気負いのようなものはいらないですね。
安心して観に行けます。

売れない貧乏役者・桜井と、謎の殺し屋・コンドウ。
会うことのないはずの二人の運命が交錯した銭湯で、コンドウが浴場で頭を打ち記憶喪失に。
桜井はコンドウの鍵を盗んで、思いがけない大金を手に入れます。
しかしコンドウに成り済ました桜井に、手がけていた裏の仕事が舞い込み・・・。
かたや桜井となったコンドウは記憶喪失のまま桜井の生活をおくりますが、そこで婚活中の雑誌編集長香苗と出会います。
「アフタースクール」では時制を入れ替えたりして、巧みな脚本の構成をみせてくれた内田監督ですが、本作でもその構成力は健在です。
今回は時制の入れ替えはやっていませんが、代わりに役の入れ替えをやっているのですね。
正直「アフタースクール」ほど「やられた!」感はなかったのですが、様々なところに張ってある伏線が繋がっていく感じはさすがですね。
タイトルにある「メソッド」とはメソッド・アクティングのことでしょうか。
演技論は詳しくないのですが、メソッド・アクティングとは演技時の感情をより豊かにするかということ方法論のことのようです。
方法は幾人かの人が作っていて、例えば俳優自身の生活の中から感情を喚起させるとか、役と同じ状況・体験をすることにより感情がわき上がりやすくするとか、同じことを繰り返し演技することにより行動に自然と感情がついて出てきやすくするとかあるようです。
物語の途中で桜井とコンドウがここ一番の演技の練習をするところがありますが、このあたりはメソッド・アクティングの稽古みたいですよね。
メソッド・アクティングとは演技時の感情をより豊かにし、刺激を与えるために何をするかということと書きました。
桜井は元々感情が豊かな人物(軽くオバカ)として描かれてますし、コンドウはどちらかと言えば感情はあるもののそれを抑制することができる大人な感じがします。
主要人物で唯一感情の上げ下げがないのが、香苗なのですよね。
僕は本作のほんとうの主人公は香苗なのではないかと思ったりします。
香苗はたぶん小さい頃から几帳面で優等生的な子供であったのでしょう。
たぶん賢く物わかりもいい。
だから自分の感情を出すというのが苦手、というよりあまり感情の起伏がない女性なのですよね。
でもメソッド・アクティングじゃないですが、桜井とコンドウのドタバタに巻き込まれる中で、彼女はだんだんと自分の感情が刺激を与えられていったのだと思います。
たぶん桜井やコンドウたちと最後の仕掛けを行うようなことは以前じゃ考えられないかった。
頭でしっかりと考え、予定通り進めることが信条であったわけですから。
演じるということはそれまでの自分とは違う人物になるということ。
香苗は二人とのドタバタの中で、今までとは違う人間になれるメソッド・アクティングを自然と受けたのかもしれません。
最後の恋の「キュイーン」は良かったなぁ。
こういうところ内田監督はうまい。

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本 「ロード&ゴー」

最近、いわゆるお仕事小説を多く読んでいるような気がする。
「トッカン」は税務署職員、「消防女子」は消防士。
本作「ロード&ゴー」でスポットがあてられるのは救急隊員です。
こちらの作品を読んで初めて知ったのですが、消防車と救急車の台数っていうのは圧倒的に消防車のほうが多いんですね。
消防車はいろいろなケースに合わせて車輛が特殊化されているというのはあるようですが、やはり「消防署」というのは消防がメインであるから、どうしても救急車まで手が回らないというのが実情のようです。
救急に関しては現在、様々な問題がでています。
いわゆるたらい回し問題などもそうで、本作でもその問題については大きく触れられています。
これは行政側の問題ですが、利用者側の問題もあります。
救急車を呼ぶほどの病気や怪我ではないのに、タクシー代わりに救急車を読んでしまう市民が多くいるようです。
これが何が問題かと言うと、先に書いたように救急車の台数というのは限りがあり、軽症・軽傷の方に時間を取られている時に、別の重症・重傷の方に手が回らないということが起こっているようです。
こういう様々な問題がでているわけですから、市民の風当たりも強いわけで、消防隊員は本来の業務以外にもいろいろと気をつかわなければいけないようなのですね。
それはお仕事小説で取り上げられる仕事(多くは公務員が多い)に共通していることです。
市民の目線は厳しく、どちらかというと些細なことでもクレームとなってしまう。
なんとなく憎まれ役になっている感じもあり、その仕事をしている人もまいってしまうところもあるでしょう。
でも彼らがそういう仕事でも懸命にやっているのは、その仕事に誇りを持っているからなのですね。
多くのお仕事小説では、その仕事に対しての登場人物の誇りが描かれます。
本作も救急車の機関員生田、救急救命士の森らのそれぞれの誇りと仲間意識が熱く語られます。
いくつものトラブルを彼らは誇りと仲間意識で越えていくのです。
本作はそういう彼らの仕事への熱意を描くだけでなく、タイムリミットサスペンスの要素を持っています。
時間を決められ指定の病院まで行かないと救急車に取り付けられた爆弾が爆発してしまう。
犯人の一味に刺されてしまった救急隊隊長の命は助かるのか、救急車のガソリンは最後までもつのかなど、映画「スピード」ばりに次から次へとトラブルが巻き起こり、読んでいて飽きません。
そういったサスペンスを楽しみながら、誇りを持って仕事をしている救急隊員のことを考えてみたらいかがでしょうか。

「ロード&ゴー」日明恩著 双葉社 文庫 ISBN978-4-575-51521-3

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2012年10月14日 (日)

「幸せの教室」 生き方を学ぶ

劇場公開時に見逃していた一作。
それにしても最近「幸せのなんたら」って邦題の作品が多いですよね。
原題が「Larry Crowne」で主人公の名がそのままタイトルなので、悩やましかったとは思うのですけど、もう少し工夫が欲しいところです。
本作、その主人公ラリー・クラウン(トム・ハンクス)が勤めていたスーパーマーケットをクビになったところから始まります。
学歴がなかったことがその理由と言うことで、ラリーは一念発起して大学の学生になることとなります。
そこで出会う教師がメルセデス・テイノー(ジュリア・ロバーツ)。
彼女は私生活が散々で、そのため仕事にもなかなかやる気が出ないという状態です。
ラリーは学校で新しい友人たちと出会い、そして学んでいくことに楽しみを感じるようになっていきます。
そもそもラリーは解雇された身でありながら、学校に行って頑張ろうというわけですから、基本的にポジティブな性格なのでしょう。
悪い現状にクヨクヨするのではなく、それをきっかけとして前に進んでいこうというポジティブな考えが彼からは感じられますね。
ですので、本作は「Larry Crowne」というタイトルでありながら、彼の人生再発見というのがメインではないような気もします。
どちらかというと、彼に影響を受けメルセデスが自分の生き方を変えていくという話が本作の主軸であるように感じました。
彼女は生真面目で本来仕事は好きですが、夫との生活がうまくいっていないことに始終イライラとしています。
その生活を続けるということはよくないとは感じていながらも、一歩踏み出す勇気はなかったのだと思います。
しかし悪い状況であるにも関わらず、新しい出会いや学びを体験してイキイキと生きるラリーの姿を見ていくうちに、自分も現状を変えられそうだという勇気が出てきたのかもしれません。
今の環境を変えることは悪いことではない。
失うものもあるかもしれないけれど、新しく手に入るものもある。
一歩踏み出す勇気ということを、エリザベスは授業をしながら、教室で彼女自身も生き方を学んだのかもしれません。

最後があまりにラブ・ストーリーの「めでたし、めでたし」展開だったのが、ちょっと安易な感じもありました。
ここももう少し工夫が欲しかったな。

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本 「「ほどほど」で人生はうまくいく -モタさん流「仕事」「健康」「人間関係」のバランス論-」

著者の斎藤茂太さんは、ご存知の方もいるかもしれませんが歌人斎藤茂吉の息子さんになります。
斎藤茂吉は歌人として有名ですが、本業は精神科医でした。
斎藤茂太さんはその後を継ぎ、精神科医として亡くなるまで仕事を続け、多くの著作を書いた方です。
僕も一時期精神的に鬱の状態になったときがあり、そのとき斎藤茂太さんの本をいくつか読んで、救われた気持ちになりました。
タイトルにもあるようにモタ先生(斎藤茂太さんの通称)がいくつかの著作で言っているのは、「ほどほど」です。
精神的にまいってしまう人というのは比較的真面目で一所懸命な方が多いと言われます。
全力でがんばって、それでもどうにもならない状態になり、「もうダメかも・・・」となって心が挫けてしまうわけですね。
モタ先生は、そこまでがんばるのではなく、仕事も「ほどほど」にし趣味などや他の部分での楽しみを持つことにより、心を軽くすることが良いと言います。
僕は心が折れてしまう状態をこういうふうに考えています。
激しい運動をし続けると足がつるということがありますよね。
これにとてもよく似ているような気がします。
ギリギリになるまでがんばって動いて、もう動けないという状態になったとき、体は足がつるということで「これ以上動くな」と警告を与えているような気がします。
激しい運動でも適宜休憩をとってやっていたり、時折マッサージをしたりしながらやっていれば、足をつることはありません。
心も同じなのではないかと。
適度に休憩をとったり、心のマッサージ、つまりは趣味など自分の好きなことに時間を使うなどして「ほどほど」に生きるのが良いのではないかと思います。
そんな時間なんてないという人がいるかもしれませんが、そんなことはなかったりするんですよ。
以前は深夜残業や休日出勤などが常態化していた僕ですが、今はあまりそういうことはありません(皆無とは言いませんが)。
じゃ、仕事量が減っているかというとそういうことはなく、むしろ増えてます。
しかし仕事の仕方というのは工夫するところはいくつもあって、それをやっていけば時間はうまく捻出できるものです。
僕はモタ先生の言葉通り「ほどほど」をキーワードに、できるだけ自分が心のマッサージをできるようにする時間をとるようにしています。
昼間の仕事はより密度を高め効率的にし、夜や休日は自分の時間をとれるようにする。
上手くバランスをとることを心がけるのです。
自分なりのほど良いバランスが見つけられると、人生も過ごしやすいものになるのではないかと思います。

「「ほどほど」で人生はうまくいく -モタさん流「仕事」「健康」「人間関係」のバランス術-」斎藤茂太著 実業之日本社 ソフトカバー ISBN4-4-8-39571-4

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2012年10月13日 (土)

「ハンガー・ゲーム」 戦うヒロインについて

予告を観た時の印象は「バトル・ロワイヤル」×「バトルランナー」な感じかなというものでした。
本編を観終わった後の今でもその印象はそれほど間違っているものではなく、設定的にはそれほど新しいものではないと思います。
とはいえ観る前に思っていた二番煎じで退屈かもしれないという予想とは違い、2時間20分を越える長尺の作品の割に飽きさせられることなく、最後まで見せてくれたと思います。
それはジェニファー・ローレンスが演じるカットニスというヒロインに寄るところが大きいかなと思いました。
「戦うヒロイン」というのは「エイリアン」のリプリー以来、多くの映画に登場しているわけで、これ自体はやはり新しいものではありません。
しかし、よくよく「戦うヒロイン」ものを見直してみると、時期によって分けられるようにも思います。
「エイリアン」シリーズのリプリーや、「ターミネーター」のサラ・コナーは、「戦うヒロイン」の元祖ともいうべき存在ですが、彼女たちは女だてらに男並みの戦いをする「女マッチョ」なタイプと言うことができそうです。
彼女たちの戦い方は、多くの銃弾を使いパワーで押していくタイプであり、当時のシュワルツェネッガーやスタローンらのアクションと方向性は同じであると言えるでしょう。
最近だとミラ・ジョヴォビッチやケイト・ベッキンセールが演じる「戦うヒロイン」は「女マッチョ」というよりは、女性らしく華麗に美しく戦うというような路線のように感じます。
映画的にはビジュアル的に「魅せる戦い」ができるヒロインと言えるでしょう。
この2つのヒロイングループの大きな違いはビジュアル的な見え方、女性らしい美しさを出すかというところにあるかと思います。
ただし、彼女たちは自身を取り囲む現状を良しとせず、それらと戦い破壊しようというところは共通しています。
取り囲む現状とフルコンタクトで戦おうとする姿勢というのが共通しているのですね。
本作のカットニスというのは、ちょっと違っているように感じます。
ジェニファー・ローレンス自体がそれほどの美女ってわけではないので(失礼!)「魅せるヒロイン」グループではないのは当然として、かといって「女マッチョ」という感じもしません。
カットニスが送り込まれた戦いの場というのは、周りの環境、そしてルールが自分ではない他の誰かが決めたものです。
そしてそれらの環境・ルールというのは自分ではない誰かの意志により都合良く変えられてしまいます。
今までの「戦うヒロイン」が破壊しようとする環境自体にまったく手が出せないような状態にされているわけですね。
そんな状況の中で、ヒロインはどう戦うのか。
カットニスは本作では自分が置かれた環境自体を破壊しようということはみじんも思っていません。
彼女が考えるのは、ただ生き残るということだけ。
自分をとりかこむ環境自体に手を出せない中、彼女が行うのは環境への適応なのですね。
次々と変わる状況、ルール、それに合わせて、生き延びるために彼女は自分自身を適応させていきます。
ただしそのとき自分自身の根本を変化させているわけではありません。
根本にブレないものを持ちながらも、環境へ適応するというしなやかさをカットニスは持っているのですね。
本作、評価をしない方にはバトルが始まる前の前段が長過ぎるという意見もあるでしょう。
実はこの前段というのがカットニスが今までの「戦うヒロイン」とは違った側面を表してるところではないかなと思ったりもするのです。
カットニスはゲーム開始前に観客へアピールをすることがゲーム自体を有利に進めることができると理解します。
ですから彼女はドレスを着て、観客の前に立つということもするのです。
しかしそのときでも彼女らしさというものはなくしてはいません(審査の時に矢でリンゴを射たように)。
環境とフルコンタクトで戦うのではなく、環境の力を自分のものとして戦う、そういう柔軟性を持った強さというのを彼女は持っているように思いました。
ボクシングでの殴り合いの強さではなく、相手の力を使う合気道的な強さのようなイメージなんですよね。
カットニスは相手や環境を屈服させようとするわけではなく、しなやかに最後までただひたすらに生き延びるということを目指します。
このあたりは今までの「戦うヒロイン」よりもより女性らしいかもしれないと思いました。
本作最後に「2」が作られるという情報が流れました。
そのままカットニスが出るのかどうかわかりませんが、出た場合はどのような「戦うヒロイン」になっているのでしょうか。

相手役のピータを演じていた男の子は「テレビシアに架ける橋」の子だったのですね。
パンフ観て初めて知りました。
おっきくなったね・・・。
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本 「英雄の書」

宮部みゆきさんはRPGが好きというのは、ご本人もいろいろなところでおっしゃっていますね。

だからか「ブレイブ・ストーリー」「ドリームマスター」「ICO」などのファンタジー作品もいくつか発表しています(「ICO」はもろゲームの小説化です)。

僕は宮部みゆきさんの作品が大好きなのですが、どうもこれらのファンタジーものについてはそれほど面白いと思ったことがないのですよね。

おそらく舞台となっている世界などが、RPGなどのゲーム世界と同じステレオタイプな感じなので、そのあたりに宮部さんらしいオリジナリティが欲しいと思ったのだと思います。

本作「英雄の書」もファンタジー作品に分類される作品だと思いますが、こちらについてはとても面白く読めました。

RPG的な世界観はやはりあるのですが、それよりも宮部作品らしさのほうがかなり強く出ており、宮部ファンとしてはそのあたりが良かったなと感じました。

今までも書いてきましたが、宮部作品には絶対的な悪意というものが登場することが多いです。

この絶対的な悪意というものは弱者に対して攻撃をしてしまうこと、自分の望みや快楽だけを何よりも優先させてしまうことなどです。

本作でもその悪意の例としてあがっているのが「いじめ」です。

宮部作品の中でしばしば登場するこのような悪意というものに対して、宮部さんはおそらくなくなるものではないと考えていると思います。

悪は滅びる、というほど単純なものではないということですね。

絶対的な悪意はなくならない、ではそれに対してどのように対処するか。

見て見ぬ振りをするのか、・・・それではいけない。

そういった悪意に立ち向かう、勇気が必要であると宮部さんは言っていると思います。

宮部作品では、そういった悪意に立ち向かうのが、純粋な心を持った子供であることが多いですね。

本作の主人公友理子=ユーリもそういった一人です。

純粋な心を持つとはいえ、対するのは絶対的な悪意であり、そして自身は子供なわけです。

ユーリも打ちのめされ、挫けそうになりますが、その度毎に立ち上がり、悪意に立ち向かうわけです。

その向かい合おうとする勇気こそが大事なのですね。

昨今「いじめ」が問題になりますが、「いじめ」自体はもちろん問題ですが、それに対して気づかないようにしている周りの大人たち、友人たち、それもひとつの悪意なのですね。

自分だけが守られていればいいという。

それに立ち向かうことにより、自分も傷つくかもしれない。

でもそれに立ち向かう勇気こそが必要なのです。

そういった宮部作品に共通するテーマが色濃く出ている作品だと思いました。

「英雄の書<上>」宮部みゆき著 新潮社 文庫 ISBN978-4-10-136933-3
「英雄の書<下>」宮部みゆき著 新潮社 文庫 ISBN978-4-10-136934-1

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2012年10月 7日 (日)

「夢売るふたり」 愛の行く末

だいたい映画を観たあとすぐにレビューを書くのですが、本作はちょっと苦労しました。

自分の中で消化できなかったのですね。

しかし、つまらないわけではなく、面白い。

どのように話が展開していくかわからなかったという点で話に引き込まれました。

そもそも主人公のふたりが本心ではどのように考えているのか、感じているのかが、映画を観た直後はわからなかったかったわけです。

映画のレビューというのは登場人物を分析して、どのような意図でこのような人物が配置されているかというのを探るものですが、そういうようなことが通用しない。

特に松たか子さんが演じる里子と女性の真意というのが、わからないのですね。

もしかすると脚本を書いた西川監督もわからないかもしれない。

里子というキャラクターを配置したら、彼女がどんどん動き出してしまったという感じかもしれません。

それを映画は間近で映像として掬いとっている感じがしました。

本作が持つある種の生々しさは西川監督がそもそも持っているものですが、よりドキュメンタリーのような感覚を感じました。

貫也と里子は小料理店を営んでいた結婚10年の夫婦。

しかしその店は火事で焼失し、ふたりは再出発をしなくてはいけなくなりました。

そのとき、ひょんなきっかけからふたりは結婚詐欺を始めます。

貫也は見た目は別にいい男ではありませんが、根っから人がいいのか、心に寂しさを抱える女性の懐にすっと入っていきます。

真っ暗闇の中にいる女性は、貫也に希望を見いだすのでしょう、たちまち彼に入れこんでいくわけです。

この物語、一筋縄でいかないのが、貫也と里子が互いに持つ感情でしょう。

結婚を10年を経て、愛が覚め、打算と妥協でいっしょに暮らしている夫婦、っていうのであれば、まだわかりやすい。

そういう物語は今までもありました。

しかし、貫也と里子はおそらく互いに相手のことを好きだという気持ちを持っているのだと思います。

だからこそ、里子は貫也の浮気がバレたとき、とても怒ったわけです。

しかし、しかしです。

その後里子主導により、貫也に結婚詐欺を始めるわけです。

愛する夫が他の女を抱くことにより、お金を稼ぐことを妻が主導する。

この心理は何でしょう。

この映画は、その里子の心理の謎解きをするわけではありません。

前段で書いたように、映画は里子の行動を淡々と追っていきます。

観ている側はそれを観て、想像するしかありません。

弱気な夫を助けるためには、再びお店を開く資金がいる。

ただそのような資金はおいそれと簡単に用意できるものでもありません。

だからこその結婚詐欺であったのです。

里子は、夫が他の女を抱くということに耐えるということとの苦しみと引き換えに、夫の夢である店を開くための結婚詐欺を行ったのでしょうか。

ところどころ描写が入りつつも、明確な説明がなかった部分があります。

里子はどうも女性特有の病気になっていたのではないかと思われます。

ガンの本を読んでいたり、トイレでため息をついてみたり。

もしかすると夫婦の営みといったものもその病気のためにできていないかもしれません。

里子が自分で自分を慰めるシーンがありましたが、それを夫とそういったことがないことを表していたように思います。

里子は、妻としての役割を果たせていないという後ろめたさをもっていたのかもしれません。

そのため夫が他の女を抱くことにもじっと耐えたのではないかと。

夫はお金のために女を抱いているのであって、決して本気ではないということを免罪符にして。

しかし、貫也が本気で木下に情を移しそうになったとき、里子は感情が暴走しそうになります。

里子はあのときは、ほとんど冷静に考えることはできなかったでしょう。

自分が何を考えているか、里子自身もわからなかったのかもしれません。

貫也は自分ができの悪い夫であることを自覚しています。

そのため里子に貧乏くじをひかせてしまったのではなかったのではないかと悔やみます。

貫也も里子のことを愛しているのだと思います。

うまくいかない自分が唯一うまくいったのが、結婚詐欺。

それについては相手の女性を傷つけるし、また里子に対しても後ろめたさはある。

けれど貫也にとっては苦労をかけている里子に対して報いる唯一の方法であったわけです。

結婚詐欺は里子に対しての愛情の表れでもあるけれど、その行為が里子を大きく傷つけるものでもあったわけですが。

里子はたぶん結婚詐欺については自分の感情を封印するということにしたのだと思います。

だから里子は終止無表情だったり、作った笑顔をしている。

貫也はそういった里子がおそろしくもあったりするわけで、だからこそ木下のところへ逃げ込もうとしたわけです。

木下のところへ行く前に、貫也は里子の心理について「おまえはこうだ」と言うシーンがあります。

それはそれで説得力のある内容ではあったのですが、里子の心の本質ではなかったのではないかと思います。

だからこそ里子は自分のことをわかってくれていない貫也に怒りを感じたのでしょう。

結局、貫也は刑務所に入ります。

しかし里子はシャバにいることから、彼の罪は子供をかばった傷害罪であったのだろうと推察されます。

結婚詐欺については公にはされなかったのでしょう。

時が流れ、貫也がだました女性たちはそれぞれの時間が流れていきます。

大幸福というわけではないでしょうが、それぞれのたった一つの時間が流れています。

その中に、一瞬だけ輝きをもたらした貫也の入り込む余地はないのです。

里子はひとり北国の漁港で黙々と働いています。

彼女が働く港のかもめの声が聞こえます。

そしてそのかもめの声は貫也が入っている刑務所の中でも聞こえます。

そう、里子は貫也の入っている刑務所の近くで暮らしているのです。

貫也が刑期を終えて出てきたときに、彼を出迎えるのは里子のみなのでしょう。

里子がずっと貫也を愛し続けているというのはこのシーンで確信をしました。

それを全体に物語を振り返ってきたというのが、つらつらと書いてきたレビューです。

貫也にしても、里子にしてもお互いに愛情は感じているのですが、結婚詐欺を行い始めてから思いのすれ違いのようなことが起こりました。

けれどふたりの思いというのは結局はいろんなことがあっても変わらなかったということなのでしょうね。

里子役というのは難役であったと思いますが、松たか子さんは素晴らしかったですね。

「告白」の教師役もすごかったですが、本作でも存在感があります。

汚れ役に近いような役柄ですが、彼女が演じるとある種の生々しさを出しながらも、一線を越えないような品の良さがあります。

このバランスは他の女優さんじゃ、あまりないなと思いました。

阿部サダヲさんとふたりで、しっかりと芝居を魅せてくれる作品でした。

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2012年10月 6日 (土)

本 「詩的私的ジャック」

森博嗣さんの作品は「理系ミステリー」と言われることが多いですね。

それはトリックが論理的であったり、ミステリーを解き明かす探偵役の思考がロジカルであったりというのもあるかもしれません。

「理系ミステリー」という言葉が持ってる意味あいというのは、ある種の「ドライさ」であるかと思います。
論理的、ロジカルというのもその「ドライさ」に繋がっていますね。
ミステリーというものにおいて、事件が起こるきっかけとなるのは犯人側に殺意を抱くだけの感情があると言えます。
それはドロドロとした恨みや愛情であったり、また間違った正義感のような思想だったり。
殺人に至るまでに、犯人側の心に「熱」のようなものがあるわけです(最近多くの作品でみられる「異常者」による事件というのも、御しがたい行為への欲望があるわけでこれに入れていいでしょう)。
しかし、森博嗣さんの犯人にはそういう「熱」のようなものは感じられません。
乾いている、つまりは「ドライ」なのですね。
森博嗣さんの作品の犯人というのは科学者であることが多いのですが、実験の障害を取り除くといった感覚で、事件を起こすことが多いのです。
殺す相手の強い恨みといった感情がなかったりするのですね。
自分にとってやるべきことをなすために、邪魔だからと言ったような感じでしょうか。
そのあたりの犯人の思考が独特な「ドライさ」とういう感触を読む側にあたえ、それが「理系ミステリー」という言葉に表れているような気がします。
まさに本作はそういった森作品の面が強く出ているような気がします。
「詩的私的ジャック」森博嗣著 講談社 文庫 ISBN4-06-264706-0

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2012年10月 1日 (月)

本 「黒い悪魔」

作者の佐藤賢一さんはフランス史を題材にした小説を多く書いている小説家です。
影響を受けた作家として佐藤さんは「三銃士」で名高いアレクサンドル・デュマをあげています
佐藤さんの「褐色の文豪」はそのアレクサンドル・デュマ(大デュマ)をとりあげており、本作はその父親である同名のトマ=アレクサンドル・デュマというフランス革命時にフランスの将軍であった男を描き、また「象牙色の賢者」ではアレクサンドル・デュマの息子デュマ・フィス(「椿姫」を書いた)を題材にしています。
「黒い悪魔」「褐色の文豪」「象牙色の賢者」はデュマ家三代を描いている作品群となるわけですね。
三代揃ってアレクサンドル・デュマなのでややこしいので、本作の主人公はトマということで書きます。
「三銃士」は好きなのでもちろん大デュマのことは知っていましたが、彼が黒人とのクォーターであることは本作を読むまで知りませんでした。
つまり父親である本作の主人公トマ=デュマは黒人とのハーフなわけですね。
トマはカリブ海の生まれで、母親は奴隷、そしてその主人であるフランス貴族との間に生まれた私生児でした。
彼は父親に呼ばれ、フランスに渡り、その後軍人となります。
おりしもそのときはフランス革命が勃発したときでした。
彼はその血ゆえに差別を受けながらも、自由というものが叫ばれた革命の中で、その類いまれな身体能力と強い気持ちでメキメキと頭角を現していきます。
そういう彼を味方も敵も畏怖を込めて「黒い悪魔」と呼んだわけです。
フランス史が苦手な人は、まずフランス革命と呼ばれる時期、その政権を担うものたちが目まぐるしく交代していく展開についていくのが大変ということがあるかもしれません。
王政から共和制、共和制になってもその政権主体はドンドン変わっていきます。
それは今から言ったら内ゲバと言ってもいいような感じ。
それでナポレオンが登場しますが、また独裁制となり・・・と言ったようにかなり目まぐるしい。
これは日本の幕末期にも言えるのですが、社会が大きく変わるとき、すんなりと新しい体制に移行するのではなく、社会全体が産みの苦しみのようなものを味わっているような感じがします。
それが非常にわかりづらいわけですね。
本作の主人公であるトマ=デュマは、自分の出自ゆえに共和制というものに惹かれます。
その共和制そのものも目まぐるしく変わる政権側にいいように解釈され翻弄されるなか、彼の運命も翻弄されます。
それは怒濤のごとき人生であり、ドラマチックに描かれていきます。
彼の晩年、息子であるアレクサンドル・デュマは父親の若き日の話を聞きます。
トマ=デュマが初めて軍隊に入った時、黒い肌をした彼は入隊のその日に三人の上官とかけもちで決闘をするという話です。
これは「三銃士」を読んだ方はわかるように、物語の冒頭でダルタニアンが三銃士たち三人とかけもちで決闘するという場面をふまえています。
つまりはアレクサンドル・デュマは父親であるトマ=デュマの武勇伝に「三銃士」の着想を得たというわけです。
もちろんこれはフィクションですが、さすが「三銃士」が好きな佐藤賢一さん、気が利いたお話にしたてたなと思いました。

「黒い悪魔」佐藤賢一著 文藝春秋 文庫 ISBN978-4-16-777389-2

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