« 2012年8月 | トップページ | 2012年10月 »

2012年9月30日 (日)

「アイアン・スカイ」 B級テイストの裏に、現代世界への皮肉あり

ナチが月から攻めてくる!
って内容を聞いただけで、B級の香り、トンデモ系のにおいがプンプン。
でも嫌いじゃないです、そういう香り(笑)。
B級であろうということで気軽に肩の力を抜いて観に行きましたが、意外や意外、気合い入った映像作りになっていましたね。
作品自体は狙ってB級にしている内容ではありましたが、映像はスチームパンク的な感じでけっこう凝っていましたね。
地球に攻めていくときに使用した宇宙船は、ヒンデンブルグ号のような飛行船型。
これは葉巻型にも見えなくもないわけで、地球上で目撃されたUFOはナチの宇宙船だったのか!的なトンデモ要素もあり。
そういえばナチの小型の宇宙船はアダムスキー型だったね。
あとB級SFと言ったら、金髪美女が定番ですが(言い切る)、本作もそれはしっかりと踏襲。
主人公とも言えるナチの美女レナーテ・リヒターを演じるのはユリア・ディーツェという女優さんですが、これがかなりきれいな方。
ナチの制服に金髪美女、萌える方も多いのではないでしょうか(ちょっと萌えた)。
眼福ですね。
ストーリーとは関係なく制服が脱げたり、胸の開いたコスプレチックな制服着たりと、サービスショット満載。
このあたりもB級ノリですね。

じゃ、ただのB級SF映画かというと、これまた意外に風刺的であったり、現代を皮肉っているようなところもあるインディペンデントな香りもある作品でもありました。
レテーナは生まれたときからの生粋のナチですが、彼女は素直な心の持ち主でそのプロパガンダを文字通り信じています。
どんな悪い政府でもプロパガンダで言っていることというのは、けっこう理想的なことを言っていたりするわけですね(この十数年の日本政府が言っていることを額面通り受け取ればかなり素晴らしい状態になっているわけで)。
なかなかな皮肉が効いているなと思ったのは、レテーナが心から信じてナチのプロパガンダを読み上げるのですが、その言葉をそのままアメリカの大統領が選挙戦で口にするわけです。
それなのにアメリカ国民はその言葉に感動し、大統領支持をするという。
ナチは全体主義国家で帝国主義でしたが、今のアメリカもそうではないかという痛烈な皮肉ですよね。
本作のアメリカ大統領はあからさまにサラ・ペイリンをモデルにしてますよね。
サラ・ペイリンと言ったら2008年大統領選の共和党の副大統領候補で、保守派で超タカ派と言われた人物。
今度の選挙で共和党が勝てばかなり保守的な感じになると思われ、本作で描かれているような「アメリカ is No1」的な政権になる可能性もあるわけです。
自分たちの国、第一で、他の国の人々はおかまいなしな態度は、ナチにも通じるところもあるわけで、ナチをダシにアメリカを皮肉っているわけですね。
この映画の制作国は、フィンランド、ドイツ、オーストラリアなので、アメリカへの皮肉は容赦なしです。
しかしドイツという国はナチをネタにこういう映画を作っちゃうところは凄いですね。
日本じゃ考えられないでしょう。
どうもこういう過去の話に誰も触れようとしないところが日本の良くないところかもしれない。
また世界の危機に主要国が集まって会議をするわけですが、それぞれが表面的には約束をしているけれど、裏では破っているようなところがあり、現在の国際政治を皮肉っていますよね。
北の某国も笑い者になっていましたし(ヨーロッパの人からは遠い国の話なのによく観察してますね)。

本作、表面的なB級テイストを味わうのもよし、その裏にある現代の世界への痛烈な皮肉にニヤリと笑うもよしの作品になっています。

にほんブログ村 映画ブログへ

| | コメント (4) | トラックバック (33)

2012年9月29日 (土)

「白雪姫と鏡の女王」 洗練されたインド映画のDNA

「スノーホワイト」に続いて、今年2作目の「白雪姫」映画です。
それぞれおとぎ話の白雪姫を新解釈で映画化していますが、「スノーホワイト」がダークで、シリアスなアクション作品としているのに対し、本作はきらびやかで、コメディ調であるのは対称的で面白いですね。
それでも白雪姫が守られるだけの存在ではないということと、おとぎ話では彼女を救う王子よりも敵役となる女王の存在感が強いというのは、両作品ともに共通していて、なるほど女性が自立している現代に作られた作品なのだなと思いました。
「スノーホワイト」のシャーリーズ・セロン、本作のジュリア・ロバーツは共に、本来主人公である白雪姫を食ってしまうほどの存在感を出していたのはさすがです。
本作の監督は「インモータルズ」のターセム・シン・ダンドワール。
彼の作品は独特のビジュアルテイストが特徴的ですが、本作でもそれは強く表れていました。
ターセムの作品はリアリズムのある映像を訴求するというのではないのですよね。
衣装やセットなどもリアリズムやナチュラルということではなく、舞台的に作り込まれている感じがします。
また役者の動きも同様でリアルというよりは、舞台的な感じがするのですよね。
美しい動きであったり、キメのようなものであったり、映画というよりはバレエやダンスの感覚に近いかもしれません。
ちょうど本作を観る前の予告で「シルク・ド・ソレイユ 3D」がかかっていたのですが、それを観たときターセムの作品と共通する感覚を感じました。
きらびやかで派手な衣装、優美な動き、何か通じるものがあるような気がするのですよね。
本作のエンディングはインド映画風のミュージカル仕立てで終わりました。
ターセムはインド出身なので、なるほどそういう血が映像にも表れているなと思いました。
よくよく考えるとインド映画というのは踊りあり歌ありで、ミュージカルシーンともなると映画というよりは舞台的な感じに見えるわけで、そういうインド映画のDNAみたいなものがターセムの中にもしっかりとあるのかなと思いました。
インド映画は全体的に野暮ったいところがありますが、それを究極的に洗練させていくとターセムの作品になっていくのかもしれません。

白雪姫を演じたリリー・コリンズは本作で初めて観ました。
最初のシーンから彼女は登場するわけですが、観て思ったのは「眉、太っ!」。
80年代かと思ってしまいましたよ。
最初は美女に見えなくて仕方がなかったのですが、観ていくうちに慣れていくもんですね(笑)。

あと個人的にツボだったのは、女王の部下のブライトン。
ワガママな女王に言われっぱなしで、文句も言えずにやりたくもないことをやらされてしまう。
結果、他の人からは嫌われたりして。
その上、ゴキブリにされたりしてね。
なんか中間管理職の悲哀を感じてしまいました。

「スノーホワイト」の記事はこちら→

にほんブログ村 映画ブログへ

| | コメント (8) | トラックバック (39)

2012年9月23日 (日)

「トゥームレイダー2」 冴えないね・・・

アンジェリーナ・ジョリーが演じるララ・クラフトを主役とするアクション映画「トゥームレイダー」の続編になります。
こちら劇場で観ていたのですが、ほとんど記憶に残っていない・・・。
北極がラストだっけ?と思っていたら、それは1作目でした。
このシリーズは女性版「インディ・ジョーンズ」的なところがありますが、アンジェリーナ・ジョリー以外に見所がありません。
1作目はまだララ・クラフトのアクションは見れた感じがありましたが、本作では凡庸な感じもしました。
ストーリーも驚きはなく、ララ・クラフト以外のキャラクターも魅力的な人物がいるわけでもなく、やはり記憶に残らないというのも、改めて観てみると納得してしまいます。
監督は1作目のサイモン・ウェストから、本作はヤン・デ・ポンに交替しています。
ヤン・デ・ポンは監督一作目の「スピード」は傑作だなと思いましたが、その後の作品はどうもいまいち。
「ツイスター」「スピード2」と冴えない感じでしたよね。
結局ヤン・デ・ポンは本作を最後に監督をしていないから、ハリウッドでの評価もあまり上がらなかったということでしょうか。
改めて観て、驚いたのはアンジェリーナ・ジョリーの相手役がジェラルド・バトラーであったこと。
ジェラルド・バトラーは「300」でブレイクする前ですよね。
本作が作られたのは2003年ですから、約10年前ということでジェラルド・バトラーも若い!
そういえば1作目も「007」のボンド役でブレイクしたダニエル・クレイグが相手役で出ていましたよね。
このシリーズ、これからブレイクするであろう男優を選定する目はあったということでしょうか。
その力を引き出しきれなかったのが、もったいないですね。

1作目「トゥームレイダー」の記事はこちら→

にほんブログ村 映画ブログへ

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2012年9月22日 (土)

「ロック・オブ・エイジズ」 80年代が青春時代!って方にオススメ

「シカゴ」以来、ミュージカル映画のファンになった僕、「ロック・オブ・エイジズ」をさっそく観に行ってきました。
ミュージカル映画が苦手な方は、突然劇中で歌いだすのが非現実的でなじめないとよく言いますが、そもそも映画なんて非現実的なものですからね。
そういうお約束って認めてしまえば、あとはノリノリに歌と曲とダンスに浸ってしまえるわけで、けっこう楽しいと思うんですけれどね。
本作の舞台となるのは、80年代のロサンゼルス。
ですので流れる曲も80年代のロックのヒット曲です。
本作のように既存の曲を使うミュージカルは、ジュークボックス・ミュージカルというのだそう。
なるほど・・・。
80年代というと、僕はちょうど学生の頃でしたが、ほとんど洋楽は聴いたことがなかったんですよね。
ですが、学生の頃は積極的に聴いていなかったものの、本作を観てけっこう知っている曲がいくつもあってとても楽しめました。
音楽というのは、時代の空気みたいなものなのか、その時代に生きているとどこからか耳に入ってくるんですよね。
80年代というのは、頑張れば上昇していけるっていう気分が残っている最後の時代なんですよね。
90年代以降は、全世界的にどうも先行きが怪しそうだという気分がでてくるわけで。
なので本作で流れる80年代のロックというのも大仰な感じがするし、今聴いたり見たりすると恥ずかしくなるところもあるわけですが、それでも聴けばそのときのノリのよさ、勢いのようななものを思いだしますね。
そういうところが、音楽が時代の空気たる所以なのかもしれません。
そんな空気感に合わせたのか、物語もかなりノリがよくトンでいるところもありましたが、それも80年代風っていうことで。
洋楽に無頓着な僕でも下記の曲は聞き覚えがあり、ノリノリで楽しめました。

「Paradise City」
「Jukebox Hero」
「Wanted Dead Or Alive」
「I Wanna Rock」
「Any Way You Want It」
「We Built This City」
「We're Not Gonna Take It」
「Rock You Like A Hurricane」

洋楽詳しくない僕でもこれだけ知っているメジャーな曲ばかりなので、80年代に洋楽にはまっていた方は楽しめるに違いありません。
特に予告編でもやっていた「We Built This City」と「We're Not Gonna Take It」の掛け合いシーンはよかったですね。
こちらのシーンのキャサリン・ゼタ=ジョーンズはいいです。
もともと顔の作りも派手な方なので、こういうミュージカルは似合いますね。
歌もダンスも上手ですしね。
あとはロックのカリスマ、ステイシー・ジャックスを演じたトム・クルーズ!
いい感じでしたよ。
トム・クルーズというと「ミッション・インポッシブル」のようなカッコいい役を一般的に思い浮かべる方も多いでしょうが、けっこうぶっ飛んだキャラクターを演じさせてもいいですよね。
「マグノリア」とか「トロピック・サンダー」とかもかなりいっちゃってましたし。
本作のステイシー・ジャックスみたいな役も彼は上手く演じてくれます。
ぶっ飛んだキャラクターの影にある繊細さみたいなものも本作は窺わせていましたし、このあたりはトム・クルーズならではでしょう。

音楽、あと時代の空気感、80年代に青春を過ごした方にはオススメな作品ですね。

にほんブログ村 映画ブログへ

| | コメント (6) | トラックバック (30)

本 「諸子百家 -儒家・墨家・道家・法家・兵家-」

中国の春秋〜戦国時代に興ったいくもの思想を総称して、諸子百家と言われます。
特に有名なのは、副題にもあるように儒家・墨家・道家・法家・兵家ですね。
儒家とは、孔子によって始まった思想で、その後孟子、荀子などを経て儒教思想として熟成されていきます。
儒教とは、一言で言えば「徳」により人の世を治めることについて考える思想ですね。
また政治への参加を目指すところで現世的な思想とも言えます。
墨家というのは、非攻・兼愛を説いた思想です。
戦国期という国と国、人と人が争う時代において、侵略戦争そのものを否定したユニークな考えです。
墨子に始まると言われるこの思想集団は、強国に攻められている国に何の報酬もなく協力し、攻城戦などを行いました。
戦国期が終わり、秦によリ統一されると彼らは姿を消していきます。
道家は老子に始まると言われ、儒家が現世的な思想であるのに対し、宇宙の成り立ちとは何かという哲学的な思索を行う思想です。
彼らが考える宇宙の基本原理は「道(タオ)」と呼ばれます。
法家は、韓非子に始まる考え方で聖人による徳の治世はそのような人物が登場しなければ成り立たないとし、法により治世をするという現代の法治の考え方をする人々です。
彼らの考えは統一王朝である秦の法治にも影響を与えたと言われています。
兵家とは孫子兵法が現代でも戦略・戦術論としても引き合いに出されるように、戦争についての思想となります。
彼らの思想は戦争そのものだけではなく、戦う前の謀略や情報戦なども重視しており、戦って勝つことよりも戦わずして勝つことのほうが良いと説きます。
こういった諸子百家の思想は日本の文化にも大きく影響を与えています。
それは故事成語などにも見られます。
先般「論語」についてはいくつか取り上げましたが、「五十歩百歩」という言葉は孔子の考えを引き継いだ孟子の言葉からきています。
「墨守」という言葉は「堅く守ること」という意味ですが、これは墨家の守る城の守りが非常に堅いことからです。
「胡蝶の夢」という話がありますが、これは道家の荘子の逸話から。
夢が現か、現が夢かという話ですが、これは自分の存在とは何なのかという哲学的な思索になりますね。
法家の思想から出てきた言葉としては「矛盾」があります。
これは法家が儒家を批判する時に使った話の中からきてます。
そして兵家については有名どころでは武田信玄も使った「風林火山」です。
「疾きこと風の如く、徐かなること林の如し、侵略すること火の如く、動かざること山の如し」。
これは孫子の中の言葉です。
このように諸子百家の思想というのは日本にも大きく影響を与えてきたものが多いのですね。
もちろん中国にもその思想は脈々と流れています。
先般の「論語入門」のときにも書きましたが、こういった思想を理解することは東アジア相互の理解を深める一助になると思います。
読んで面白かったのは、1990年代に春秋〜戦国時代の竹簡などが相次いで発見されていること。
それにより現代まで伝わっていた文書以外の事実もわかってきたようです。
これらの分析が進んでいけばより深いこれらの思想の理解が得られるかもしれません。

「諸子百家 -儒家・墨家・道家・法家・兵家-」湯浅邦弘著 中央公論新社 新書 ISBN978-4-12-101989-9

| | コメント (0) | トラックバック (0)

「最強のふたり」 信頼感と際どいジョーク

笑えて泣けるハートウォーミングなお話でした。
富豪のフィリップは事故で首から下が麻痺してしまい、日々の暮らしに介護が必要です。
そこで彼は介護者を雇っているわけですが、かなりのハードワークのためになかなか定着しません。
フィリップも介護者からの自分の状態への同情にやや辟易しているので、介護者に不機嫌な態度で接してしまい、それも定着しない理由のひとつ。
そのような中、応募してきたのがスラム街出身の黒人青年ドリス。
彼は元々介護をしようと思っていたわけではなく、ただ失業保険が欲しかっただけ。
なので面接のときも、フィリップへの同情などはまったく見せません。
その態度にフィリップが気になり、試用期間でドリスを雇い入れます。
ドリスは障害者であるフィリップを同情するわけでもなく、憐れむのでもなく、ほんとに普通の友人のようにフランクに接します。
彼がフィリップに対して言う障害者ジョークがなかなか際どいわけですが、それはドリスがフィリップを自分と変わりがない一人の等しい友人としてみているからこそ、言えるジョークだったりするのですね。
とても親しい友人同士ならば、ちょっと欠点をあげて笑いにしても、言うほうも言われるほうも笑える。
互いに笑える関係になっているというのは親しいということなのですよね。
これは本作に限ることではなく、普段の生活でもあることで。
同じことでも、深い知り合いでない人に言われるとカチンとくることも、心を許している相手に言われると軽いジョークとして受け流せてしまう。
ジョークって言うのは、お互いの信頼関係で成立しているのかもしれません。
自分が相手を傷つけるつもりで言っているわけではない、ということが相手に伝わっているからこそ際どいジョークは言えるのでしょう。
信頼があってこその気が置けないジョークとわけですね。
信頼しあえる関係性がない中で言われるジョークというのは、同じ言葉でもただの毒舌だったり、皮肉や揶揄といったような相手を傷つけるものになってしまうわけですね。
ただドリスについてはちょっと違っていて。
彼の場合は、あまり知らない段階でフィリップに際どいジョークを言います。
けれどドリスがそれを悪意を持って言っているのではないということは、彼の態度や表情を見ればわかるわけです。
悪意のない気の置けないジョークがあり、そこに人を区別しないというドリスの本質が伝わってくるからこそ、フィリップは彼を信頼したのでしょう。
ドリスの場合は気の置けないジョーク→信頼感の醸成となったわけです。
そういう点でドリスという役柄を演じる人には説得力がなければいけません。
人を区別しない天性に開けっぴろげな気持ちを持っている人物であると観客に感じさせなければ、この物語は崩壊します。
下手な人を配すると、ただの障害者をネタにして痛いジョークをとばす、いけ好かない青年に見えてしまいますから。
その点で、ドリスを演じたオマール・シーは適役だったと思います。
彼の開けっぴろげな態度、表情はドリスという人物の人柄を一目で観客に伝えることができたと思います。
オマール・シーを配役できたことが、本作の成功の大きな要因であると思いました。

ドリスのクラッシック解説が笑えました。
クラッシックというとありがたって聞かなければいけない感じがしてしまいますが、誰もがちょっと思っていることを素直にドリスが口にしていました。
ああいう誰もが思っていることをそのまんま口に出して言ってしまうというシーンは、これもドリスの開けっぴろげな性格を描くことに繋がっていたと思います。

にほんブログ村 映画ブログへ

| | コメント (12) | トラックバック (75)

2012年9月17日 (月)

「バイオハザードV リトリビューション」 テレビゲームの快楽感を映画で表現

ミラ・ジョヴォビッチ主演の人気シリーズ「バイオハザード」シリーズの5作目になります。
監督は1作目・4作目の監督であり、ミラ・ジョヴォビッチの旦那さんでもあるポール・W・S・アンダーソンです。
副題の「retribution」は聞き慣れない英語ですが、「(悪行などへの)報い」という意味らしいです。
悪行は言わずもがなのアンブレラ社の一連の行為でしょうから、「報い」とは本作のラストシーンのことですかね。
さて5作目まで続いている本シリーズ、ここまでくるとストーリーがどうのとか、登場人物の心情がどうのとか言ったようなことはどうでもいい感じです。
もともと荒唐無稽なお話ですし、そんなことを気にしたら、もうこのシリーズにはついていけません。
なんでもアリです。
本シリーズは超人じみたアリスが、バッタバッタとゾンビやワルモノをなぎ倒すところを堪能するというのが正しい見方でしょう。
本シリーズが始まったのは2002年でちょうど10年経ちますが、ミラ・ジョヴォビッチは相変わらずクールで美しいですし、そしてまた動く動く。
彼女のアクションシーンはまるでダンスを観ているかのように、華麗です。
前半の東京渋谷でのバトルの後半は、前作のような白バックの空間での戦闘になりますが、これは背景の無駄な要素を省いて、ミラの華麗な動きに注目させようという意図なのではないでしょうか。
「マトリックス」以来浸透したワイヤーアクションですが、吊っている感があってふわふわしたものが多いですが、ミラ・ジョヴォビッチはそういう感じがしないのですよね。
さて内容についてです。
本作を観ると既視感に囚われるような箇所がいくつかあります。
アリスがアンブレラ社に監禁されている様子は今までのいくつかのシーンでありました。
冒頭の一般家庭のような雰囲気の中で襲ってくるゾンビのあたりは1作目、渋谷のシーンなどは前作など。
本作のアリスは記憶をインプリンティングされたり、クローンが作られたりしているわけなので、何度も同じような場面を繰り返すというのは設定的にはありなんですけれどね。
この既視感について考えてみると、このシリーズはやはりテレビゲームの映画化作品なのだなと思い至りました。
本作で感じた既視感は、テレビゲームをやって何度か同じ場面をプレイしている感覚に近いのではないかと。
ゲームの「バイオハザード」などなんかはまさにそうなんですが、えらく強い敵が出てくると何度もその場面をやり直すわけですね。
レベルアップをしたり、アイテムや武器を手に入れながら、同じことをクリアするまでやり直す。
このリセットしてやり直すというゲームならではの感じを、本作では既視感のような感じで表現しているのかもしれないなと思ったわけです(読み過ぎかもしれないですが)。
本シリーズのアリスの無敵感(絶対ゾンビにはやられない感じ)も、ゲームで何度もレベルアップして最強装備をしてやり込んだキャラのような無敵感に通じる感じがします。
何度でも繰り返せる、負けない無敵感のようなものは、ゲームプレイヤーにとっての都合の良い感じであって、その快楽感をこの映画を持たせてくれるのかなと思いました。
アリスがここまでくるともう何でもこいといったような状態です。
ストーリーも都合の良い形で新たな設定をバンバン出せばよいのです。
映画としてのストーリー性を狙っているというよりは、ゲームを気持ちよくやるというような感覚を感じてもらうことが本作の狙いのような感じがしますので、「こんなのアリ?」なんて御都合主義の設定もバンバンやればよいのです。
このあたりはポール・W・S・アンダーソンは確信犯で振り切っている感じがしますね。
結局ラストはまたそのTウィルスをうたれて、また超人的な能力を身につけてしまったアリス。
目の前にはゾンビで満たされた世界。
まだまだこのシリーズ続きます。
ここまできたらアクションホラー映画の「寅さん」を目指してほしい。

そうそう、ポール・W・S・アンダーソンはジャパンへのリスペクトが強い人ですが、本作のアリスのコスチュームはやはり「GANTZ」ですよね。
彼は「GANTZ」(映画のほうじゃなくて、漫画のほう)をやりたいんじゃないかなー。
絶対彼の好みの作品だと思う。

前作「バイオハザードIV アフターライフ」の記事はこちら→

にほんブログ村 映画ブログへ

| | コメント (6) | トラックバック (44)

2012年9月16日 (日)

「天地明察」 宮﨑あおい論

冲方丁さんの小説「天地明察」が「おくりびと」の滝田洋一郎監督で映画となりました。
原作は未読ですが、冲方さんの作品は「マルドゥック・スクランブル」は読んでいました。
「マルドゥック・スクランブル」はサイバーパンク的な作品であったので、その冲方さんが時代ものを書いたということで驚きました。
映画も観たので、今度読んでみたいと思います。
本作は、江戸時代に初めて国産の暦を定めることに力を発揮した天文家安井算哲を描いています。
当時の日本は800年前に中国から取り入れた暦を使用していましたが、実際の観測結果とのずれが顕著になっていたときでした。
そのずれを正すため、安井算哲は長い時間をかけ大和暦(貞享暦)を完成させたのです。
算哲や、算法家関孝和が駆使するのが、日本独自の数学である和算です。
冒頭で算哲が神社の境内に張り出された絵馬の前で広げているのが、算木という和算の計算道具ですね。
以前「算法少女」という江戸時代の和算を題材にした小説を読んでいたので、このあたりはすんなりとはいれました。
問題が書かれている絵馬の話も実際にあったことで、「算法少女」でも取り上げられていました。
劇中ででていた問題もかなり高度な幾何学でありました。
作品としては面白くないわけではないですが、かといって今年の10本に入るほどかというとそれほどでもなく、という感じでしたね。
滝田洋一郎監督は、若い頃は別にして、最近は非常に手堅い作品作りをする方だと思います。
作品のテーマを理解し、うまく映画の形にできる。
なので外すこともあまりないですが、驚くこともそれほどないという感じがしますね。
映画を多く観る映画ファンからするとちょっともの足りなくもあります。

さて今回はちょっと映画そのものからは外れた話を。
こちらのブログでも何度か書いていますが、僕は宮﨑あおいさんのファンなので、本作については作品そのものにも興味がありましたが、あおいさん目当てというのも半分くらいありました。
いや、ほんと癒されます。
あんな奥さんいてくれたら、仕事頑張れますよね(しみじみ・・・)。
最近のあおいさんは、良妻という役回りが多いように思います。
作品としては「劒岳」「神様のカルテ」「ツレがうつになりまして」などがあげられます(「おおかみこどもの雨と雪」もいれてもいいかもしれない)。
夫のやりたいことを理解し、夫が挫けそうになった時も凛とし、笑顔でやさしく支えてくれる。
日本人の男性なら多くの人が理想と思う妻像を演じていますよね。
こんなことを言うと、多くの女性から「そんな奥さん、実際にはいないよ!」て言われてしまうかもしれませんが。
そこがポイントだったりします。
宮﨑あおいさんという女優は、リアルな女性らしさというところとは違う立ち位置にいる女優さんのように思うのですね。
このリアルな女性らしさというのは、女としての匂い立つような生々しさというようなことです。
セクシャルな感じと言ってもいいでしょう。
つまり彼女の女優としての存在が、生々しさのないフィクション的な感じがあるのです。
宮﨑あおいさんは今年で26歳ということですが、印象的にはそういう年であるようには見えません。
いわゆる女性の「性」、セクシャルさというものをあまり出していない女優であると思います。
多くの女優は、20代あたりから女性らしいセクシャルさ、色気というものを一つの武器としていきます。
このあたりは男性の観客にとってもまた女性の観客にとっても、ひとつの引きになります。
けれどこれは諸刃の刃的であり、美しさの一番のピークを過ぎた時に女優としてどう転進できるかが難しいところだったりするのですね(このあたりは「さくらん」や「ヘルタースケルター」のテーマであったりするわけです)。
しかし宮﨑あおいさんの場合はそうではなく、そもそもそういう色気のようなものでは勝負をしていない。
見た目が童顔であるということはあるのでしょうが、役選びとしてもそういったいわゆるセクシーさのある役を選んできていません。
そういう生々しさがないからこそ、フィクション的な「理想の妻」のような役を演じるのには最適な女優さんなのかもしれません。
これはけっこう珍しいのではないかと。
そういう姿勢がさきほど書いたような理想の女性像的なフィクション感みたいなものを身にまとっていているような気がするのですね。
こんなタイプの女優さんてあまりいないなと考えてみたのですが、一人、いました。
それは吉永小百合さんです。
彼女も多くの役を演じていますが、サユリストという名があるように、ひとつの理想的な女性像というものを体現してきた方だと思います。
そこにはやはりセクシャルさみたいなものは皆無で、だからこそ理想の女性のイメージというのを長い間もっていたのではないかと思ったりします。
そういう視点で、こんど公開される吉永小百合さんと宮﨑あおいさん共演の「北のカナリアたち」はまた興味深く観ることができるかもしれません。

にほんブログ村 映画ブログへ

| | コメント (4) | トラックバック (46)

2012年9月15日 (土)

「踊る大捜査線 THE FINAL 新たなる希望」 集大成にして原点回帰

みなさまご存知の「踊る大捜査線」の最終作となるのがこちら。
1997年にオンエアされた「踊る大捜査線」が画期的であったのは、それまでの刑事ドラマとは異なり、事件そのものを描くことよりも、捜査に関わる登場人物(湾岸署や本店の面々)を描くことに重点を置いていたということだと思います。
それらの青島や室井が胸に抱く熱い思いであったり、湾岸署メンバーの掛け合いのなんともいえないおかしさだったりといったような、キャラクターの魅力が作品の魅力になっていったというところが新しかったのだと思います。
ぶっちゃけ事件そのものは、そういったキャラクターを描くきっかけであったと言ってもよく、それが殺人事件である必要もなかったわけですね(ですのでテレビシリーズで起こる事件も様々)。
その後、国民的人気となり映画が作られ1作目が大ヒットします。
続く2作目、3作目はお祭りムービー的な楽しさはあったとは思いますが、事件も映画的にスケールアップ、そして複雑化してしまい、キャラクターの魅力を描くというところの要素が相対的に薄れた感もあります。
1作目の「踊る大捜査線 THE MOVIE(OD1)」は、青島ー室井を軸に、警察組織というものの課題を描いていて、とてもまとまっていたと思います。
今回、最終作である本作を観て感じたのは、テレビシリーズおよびOD1の時の感覚に原点回帰しようという狙いです。
まずは音楽がかなりテレビシリーズに近い印象を受けました。
あのテーマソングに始まり、織田裕二さんの歌う「Love Somebady」で終わる構成、劇中で流れるBGMも映画版としてアップグレードしたものではなく、テレビシリーズの時のオリジナルに近い感じがしました。
けっこう音楽というのは、空気感を感じさせるのに影響力があり、そのあたりが原点回帰をしようとしている印象に繋がったような気がします。
あとは、テレビシリーズからOD1で強く持っていた青島が持つ正義感、室井との間の信頼といったものを今回は強く出していたのも、原点回帰の印象に繋がったかと。
今回は犯人グループも彼らの正義を行おうと行動したわけですが、それがあるがゆえ、青島ー室井の正義がさらに強調され描かれたように思います。
つまり本作は元々のキャラクターを描く、特に青島の正義感、室井との信頼を描くというところにフォーカスするために、発生する事件が組み立てられている(きっかけとなっている)ように思いました。

<ここから先はネタバレっぽいので注意>

テレビシリーズより、青島は現場で人々を守り続け、そして室井は彼と同じ思いを持ちながら組織の上を目指すという、彼らの志を描いてきました。
その志はOD1で触れられたとおり、青島の師匠ともいえる和久さんとOD1で誘拐をされる吉田警視庁副総監との間でもあった志でもあったわけです。
和久さん、吉田副総監の志は道半ばであったわけですが、それは青島ー室井に引き継がれたと言っていいわけですね。
ですが、官僚組織というものは一人や二人の力ではそう簡単に変えられるものではありません。
それでも青島、室井はそれぞれの立場で、志を見失わずに少しずつでも変えていこうとしてきたわけです。
今回の事件の中心人物は「もう待てない」と言いました。
そのために過激な行動を行うわけですが、そこではやはり罪もない人が死んでいるわけです。
正義のため、大義のための犠牲ということなのかもしれませんが、それは青島らが考える正義とは異なるものなのですね。
青島の正義は目の前にいる困っている人を助けるという至極シンプルなものになっています。
難しいことは考えない。
困っている人を見つけたら、そこに走り寄って助けようとする。
なので本作では青島が走っているシーンが非常に多い。
人を守るため、まずは考えずに行動する、ということが青島の本質であり、それをわかりやすく表しているのが「走る」ということなのですね(そういえばテレビシリーズのエンディングも青島が走るシーンでした)。
走る青島を描くということはやはり原点回帰なのです。
事件の中心人物は、彼が考える病巣を一気に取り除く非常手段を行うことになります。
これは外科的手術によってがん細胞を取り除くような行為に思います。
それで組織は改善されるのでしょうか。
結果的には一時的には治ったとしても、もしかしたら別のがん細胞がでてくるかもしれない。
本来的には組織に属する人々の気持ち、それ自体を変えていかなくてはいけないのでしょう。
じわじわと漢方的に体質改善をしていくようなイメージで。
それには時間はかかります。
和久さんー吉田副総監の代でもできず、そして青島ー室井の代でもできないかもしれない。
でもそういった志を諦めずに続けていく、それが正しいことかもしれません。
最後に室井が言っていたように「信念を曲げないこと」が大事なのでしょう。
そして彼は若い刑事たちに「青島の背中を見ておけ」とも言いました。
室井は、青島とともになそうとしていることは自分たちの代ではやり終えられないとも感じているかもしれません。
ですが、確実に青島の周りの湾岸署のメンバー、また室井と同じ警察官僚である新城や沖田にもその思いは広がっているわけです。
いつかは帰られるかもしれない。
そういう思いが「新たなる希望」なのだろうと思いました。

にほんブログ村 映画ブログへ

| | コメント (4) | トラックバック (48)

本 「消防女子!! -女性消防士・高柳蘭の誕生-」

先日読んだ「トッカン」もそうでしたが、いわゆる「お仕事系」小説になります。
最近は「お仕事系」、しかも女子版の作品が小説でもドラマ・映画などでも多いですよね。
本作の題材となるのは消防士。
「トッカン」の税務署職員もそうだし、警察官もそうですが、身近な割にそこで働く人々がどういうふうに仕事をしているとかはなかなか知らないもの。
そういう仕事ぶりを読むのは楽しいし、またそういうところで働く人も普通の人間であるわけで夢を持っていたり、悩みを抱えたりっていうのは、当然あるわけで、そういうのが伝わってくると親近感もわきますよね。
こういう「お仕事系」の作品が作られるきっかけとなったのは、おそらく現在劇場公開中でもある「踊る大捜査線」なのではないかなと思います。
あの作品は、それまでの刑事ものと違い、そこで働く人々をサラリーマン、OL的な普通の人々として描き、それでも自分の仕事に誇りをもつ一人の社会人として描いたところが新しかったかなと。
「踊る大捜査線」が現在までいくつもの「お仕事系」作品を生み出すきっかけとなったと思います。
さて本作が描くのは消防士、それも女性消防士です。
消防士という仕事は命も賭けることがあるほど危険であり、どちらかといえば男性的な職場。
そこで働く新米女性消防士を描きます。
「お仕事系」作品には「成長」という要素が組み込まれることが多く、社会に出て自分の仕事に誇りをもっていく過程が描かれますが、本作も同様です。
多少ミステリー的な要素も含む作品ですが、そのあたりはそれほど深くつっこむわけでもなく、さらりと読める感覚でした。
全体的な構成、ストーリーは少々もの足りないところもあるのですが、ライトな感じなので読みやすいです。
気分転換したいときとか、仕事で落ち込んでいるときとか、ちょっとがんばろうという気分になりたい時にはいい作品かもしれませんね。

「消防女子!! -女性消防士・高柳蘭の誕生-」佐藤青南著 宝島社 文庫 ISBN978-4-7966-9588-6

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2012年9月 9日 (日)

「赤い指」 まっすぐに目を見れるか

「麒麟の翼~劇場版・新参者~」を観て面白かったので、続いてテレビドラマシリーズの「新参者」を観賞、そして今回はドラマのスペシャル版を観ました。
作られた順は「新参者」→「赤い指」→「麒麟の翼」になります。
「ちなみに」物語の時系列としては「赤い指」→「新参者」→「麒麟の翼」です。
本作「赤い指」は、主人公加賀恭一郎が日本橋署に異動する前の練馬署の刑事であったときの話になります。
「新参者」シリーズがヒットしたのは、劇中でも語られているとおり、加賀恭一郎が事件を解決するだけでなく、それに関わった人々の気持ちも解きほぐすからでしょう。
「人は嘘をつく」というナレーションで物語は始まります。
それは自分のためであったり、人のためであったりします。
そういった人の気持ちを加賀は解きほぐすのです。
テレビシリーズの時からそうなのですが、加賀はなかでも事件に関わった家族の気持ちを解いていきます。
家族というのは最も近くにいる他人と言っていいかもしれません。
その本当の気持ちは家族だからこそ見えないということもあります。
それは「新参者」でもそうでしたし、「麒麟の翼」でもそうでした。
本作「赤い指」は特に家族というものに焦点があたっていたかと思います。
「赤い指」を観て、「麒麟の翼」との共通点を感じました。
それは親(大人)が子供に、何を教えるのかということです。
「麒麟の翼」ではある事故を起こしてしまった生徒たちに教師がその事件から逃れる術を教えてしまいます。
自分が起こしてしまったことに真摯に向き合うことを教えるのではなく、逃げることを教えてしまう。
それは子供たちへのためということもありますが、自分のためでもあるわけです。
大人は生きていく中で、自分の責任から逃れる術を身につけていってしまうのです。
「麒麟の翼」では冒頭に殺されてしまう青柳は息子に、言葉ではなく自分の行動で責任の取り方を教えようとします。
自分が行ってしまったことに対して、青柳は真摯に向き合うことを、教師はそれから逃れようとすることを、それぞれ教えてしまうわけですが、後者の罪深さを加賀は鋭く指摘しました。
そして本作「赤い指」でも同じ構造がみられます。
息子の犯罪を、息子のためと隠蔽しようとする夫婦。
彼らはそれをあろうことか、認知症となったと思われる自分たちの母親に罪を着せようとします。
夫婦は自分の息子を救うためと自分たちでも思おうとしていますが、それは自分たちのためでもあります。
そして彼らの行動が罪深いのは、将来に向けてです。
もしそれで彼らの息子が罪を逃れたとして、その息子はどう思うでしょうか。
悪いことをしても、それは逃れることができると。
まさに「麒麟の翼」で起こってしまったことが起こるかもしれないわけです。
夫婦の隠蔽の罪深さを指摘するのは加賀ではありますが、もう一人ある人物が言葉ではなく、行動でやはり彼らにそれをわかってもらおうとするのでした。
死体遺棄をした夫婦の夫の回想シーンがあります。
子供の頃、嘘をついたとき、母親から「まっすぐに目を見て言いなさい」と言われます。
まっすぐに目を見て言うこと、そのとき相手の気持ちも見えますし、そしてまた自分の気持ちも相手に見えてしまうのです。
だからこそ自分の本心を覚られたくないから、嘘をつくとき人は目をそらすのです。
まっすぐに目を見て話ができるようになる。
これは大人が子供に最低限教えなくてはいけないことなのかもしれません。
本作、そして「麒麟の翼」からそういうメッセージを感じました。

テレビドラマ「新参者」のレビューはこちら→
「麒麟の翼~劇場版・新参者~」のレビューはこちら→

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2012年9月 8日 (土)

「デンジャラス・ラン」 こだわっていたのはリアリティかな?

長く姿を消していた元CIAの伝説のスパイがケープタウンに姿を現した。
そして彼を追う謎の男たち、さらにはCIAも動き始める・・・。
本作はデンゼル・ワシントンが伝説のスパイ、トビン・フロストを演じるスパイものです。
お話としては、CIAの内部にも内部から情報を漏らす者がいて、その正体は・・・?みたいな感じのスパイものとしてはありがちな展開ではあります。
このあたりは予想通りと言えば、予想通りで、ストーリーとして驚くというところはありませんでした。
本作のこだわりポイントをあげるとするならばリアリティでしょうか。
スパイものというと、アクションでみせる「007」シリーズや「ボーン」シリーズなどがありますが、どちらかというとスパイを題材にした活劇ですよね。
最近の作品でスパイをリアルに扱った作品としては「裏切りのサーカス」がありますが、あちらは活劇要素は皆無でした。
本作はスパイ活劇でありながらも、空気感などはなるべくリアリティを出すというところにこだわったのかなと思いました。
多くのシーンが手持ちのカメラでの撮影で、ドキュメンタリータッチを出していました。
こういう感じは「ハート・ロッカー」などで最近流行の手法ではありますが。
あとリアリティにこだわった部分としては舞台としてケープタウンを選んだところでしょうか。
ケープタウンは南アフリカ共和国の主要都市の一つです。
「007」などスパイ活劇は、画として映えるからでしょう、先進国の首都で派手なドンパチをかましたりしますが、実際のところ人の国で諜報組織が派手な行動をとるということはありえませんよね。
そういう観点でいうと、本作で舞台となったケープタウンなどはこういうことがあっても割とすんなり受け入れられてしまったりします。
本作でも描写として入ってましたが、ケープタウンなどのアフリカの都会ではスラム街などで多くの貧困層が暮らしています。
そこではやはり犯罪なども多発しているわけで。
ああいうドンパチがあっても、紛れてしまいそうな感じもあるわけです。
また治安組織である警察力もまだまだそれほど強くなく、国力としても先進国に対して政治的に働きかけにくいということからも、ありそうな感じを受けます。
こういうありそうな感じというリアリティさに本作はこだわったのかなと思いました。

デンゼル・ワシントンと行動を共にすることとなったCIA職員マットを演じたのはライアン・レイノルズ。
グリーン・ランタンの人ですね。
ライアンというと、ライアン・ゴズリングを思い浮かべてしまうんですが、このお二人、なんとなく顔の雰囲気が似てるような。
似てるというか、二人とも目の位置がけっこう顔の中心に寄っているんですよね。
なんとなくライアン・ゴズリングをふにゃと甘くするとライアン・レイノルズになるようなイメージです(なんだそりゃ)。

にほんブログ村 映画ブログへ

| | コメント (4) | トラックバック (50)

本 「おやすみラフマニノフ」

「さよならドビュッシー」「連続殺人鬼カエル男」の中山七里さんの作品です。
本作は「さよならドビュッシー」のシリーズになり、岬洋介というピアニストが探偵役となっています。
ミステリーのジャンルに入る小説だとは思いますが、「さよならドビュッシー」や「連続殺人鬼カエル男」よりはその要素はかなり弱い感じがします。
どちらかと言えば音楽青春小説という感じでしょうか。
漫画ではありますが「のだめカンタービレ」とかと近い感じがします(もちろん本作はミステリー要素が入っていますが)。
海堂尊さんの「田口・白鳥シリーズ」が「チーム・バチスタの栄光」はバリバリのミステリーであったのが、「ナイチンゲールの沈黙」ではミステリー要素がかなり薄まっていたというのと近い印象です。
先に読んだ二作がラストで大どんでん返しの連続で驚愕してしまいその印象が強い中、本作を読んだので、こちらについてはラストについてはややもの足りない印象は持ちました。
ただミステリーというよりは音楽青春小説としての狙いであるとするならば、これはこれでありなのかもしれません。
クラッシックはあまりよくわからないのですが、本作で取り上げられているラフマニノフの曲を知っている方が読むと曲のイメージに合わせた展開を楽しめるのかもしれません。

「さよならドビュッシー」のレビューはこちら→

「おやすみラフマニノフ」中山七里著 宝島社 文庫 ISBN978-4-7966-8582-5

| | コメント (0) | トラックバック (4)

2012年9月 2日 (日)

本 「論語入門」

「論語」とは言うまでもなく孔子とその弟子たちとの会話を、孔子の死後弟子たちがまとめたものです。
ですので、孔子自身の著書というわけではありません。
会話という体裁となっているため、実は孔子の人となりや考えといったものが「論語」では明確に浮かび上がってくるのです。
本著は「論語」の主だった条を抜き出して再構成し、孔子の人となりをわかりやすくまとめたまさに「入門」と呼べるものになっていると思います。
「論語」には興味があるけれど、いきなりは取っ付きにくいという方にはいい本だと思います。
ここからちょっと本著からは外れるのですが・・・。
日本人として生きていて、日常的に使う慣用句や格言の中にはけっこう「論語」が元というものがあるのですよね。
「切磋琢磨」とか「温故知新」とか・・・。
上を敬う、礼を重視する(最近は薄れてますが)という日本人の美徳というようなところにも。
そういう意味で日本の文化に「論語」の思想は大きく影響を与えているわけです。
そしてお隣の韓国と言えば、まさに儒教文化の国。
日本人以上に上下の礼などについては厳しい文化だったりするのです。
さらには中国は元々儒教発祥の地であるわけで。
その三国の文化の根底には儒教が流れていると言っても過言ではありません。
儒教というのは、相手への礼を重んじ、誠実に思いやりを持って接することを説きます。
しかし、昨今のこの三国のゴタゴタを見ていると、それぞれの国、そして国民の行動にはそのような礼や思いやりといったものは感じられません。
あの世で孔子は嘆いているのではないかなと思ったりします。
孔子が生きていたのは春秋戦国時代で、その昔周の時代にあった礼が失われ社会が混乱していた時期でした。
そういう状況下で、孔子は礼や、仁を説いたのですね。
1000年以上も経っているのに、人はまだ変われないのかと孔子の嘆く声が聞こえそうです。

「論語入門」井波律子著 岩波書店 新書 ISBN978-4-00-431366-3

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2012年9月 1日 (土)

「映画 ひみつのアッコちゃん」 意外にもまっすぐなお仕事ムービー

改めて言うことではないですが「ひみつのアッコちゃん」とは「おそ松くん」「天才バカボン」等で有名な漫画家、赤塚不二夫氏原作の少女漫画です。
何度かアニメにもなっているので、知っている方も多いでしょう。
特にアラフォー近辺の方々は。
かくいう自分もそうですが、やはり男の子なのでじっくり観た記憶はあまりありません。
しかし「テクマクマヤコン、テクマクマヤコン」や「ラミパスラミパス、ルルルルルー」といった魔法の呪文は覚えてますし、主題歌もしっかりと歌えたりします。
その「ひみつのアッコちゃん」がなぜか今この時に実写映画化となりましたので、とりあえず話のネタに観に行ってきました。
ポスターとかを見ると、アッコちゃん演じる綾瀬はるかさんと相手役の岡田将生さんのラブコメものかなと思ってましたが、その要素はちょっとあるにせよ、どちらかといったらいわゆる「お仕事もの」といった趣でした。
大人になって就職して仕事をし始めると、会社はいろんな面倒くさいことや、ややこしいことが多くて最初のうちは戸惑います。
しかしいつの間にやらそれに慣れ、そういうのが当たり前として働いているものです。
本作は、見かけは大人だけれど中身は子供のままのアッコちゃんが、会社で働く大人たちを子供の視点で見るという仕掛けとなっています。
僕自身、企業で、それもメーカーで働く身で、本作を観てみると突拍子もないというか、現実味がまったくないエピソードがあります。
株主総会の場面とか、最後の工場でのエピソードとかはご都合主義、ありえない感がたっぷり感じられます。
ま、ただ元々漫画ですからね、そのあたりは大目にみることにして。
思いのほかしっかりしているなと思ったは、メーカーで働く人々が持つべき理想というものをけっこうストレートに描いていたことです。
メーカーというのは製品を作り、それを欲しいと思っていただいたお客様にお買い上げいただくことにより、会社が存続しています。
企業ですので、当然売上・利益を稼ぎ会社を存続させなくてはいけないのですが、メーカーの一員として喜びを感じるというのはやはりお客様が自分の会社の製品を使っていただいて喜んでいただいたときなのですよね。
お客様に喜んでいただいてこそのメーカーなのですが、ややもするとそういうメーカーの挟持がないがしろにされることもあったりするわけです。
本作で描かれたような会社の危機的な局面は、そういうことがおこりやすい。
僕が働く業界全体で危機的な状況になったことが何回かありました。
そのとき自分が働く会社がすばらしいなと思ったのは、厳しい状況であってもお客様に安心して使っていただくことを第一義に皆が動いたのですね。
これは経営者から現場に至るまでがまさにそのように動いて困難を乗り越えました。
伝統的な会社なのですが、だからこその誇りというか、お客様が喜んで満足していただくというスタンスは決して崩さなかったのですね。
他社は、業界の危機状態の時に、嵐が過ぎ去るのを首をすくめて待っているようなスタンスの会社、そのときだけ聞き触りのよいことばかりを行ってその後はあまり積極的には動かない会社などがありました。
本作はエピソード自体は突拍子もない感じはありますが、そこに描かれているメーカーで働く人々が持つべき理想、挟持というものをまっすぐに描いているところには共感をしました。
企業で働き始め、それに慣れてきた時、あらためて子供の気持ちで自分のやっている仕事を見直してみるというのはいいことかもしれません。

にほんブログ村 映画ブログへ

| | コメント (2) | トラックバック (26)

本 「トッカン -特別国税徴収官-」

現在、日本テレビ系列でドラマ化されているようですが、例によって未見だったりします。
井上真央さんが主演ということですが、原作を読んでみると、けっこうキャスティング的には合っているのではないかなと思います。
タイトルにある「トッカン」とは特別国税徴収官を略した呼び方だそうです。
徴収官とは、税務署に所属し、税金を収めていない個人や事業者を周り、税金を支払うよう指導したり、差し押さえをしたりするという仕事だそうです。
映画「マルサの女」で有名になったマルサは(東京)国税局の査察部のことでより大規模な案件を扱いますが、各エリアの税務署はその地域の個人・事業者が対象。
「踊る大捜査線」での「本店(警視庁)」と「支店(所轄)」の関係に近いのかな。
本作は入局して間もない新米徴収官ぐー子(言いこめられるとぐっと言葉がつまることからきたあだ名)こと鈴宮深樹が、徴収官の仕事を通じて成長していくという、いわゆる「お仕事系」小説ですね。
このところずっと続く就職難で、今の若い人はどちらかというと大企業とか公務員とか安定的な仕事を希望する方が多いとのこと。
これはわかるんですよね。
せっかく苦労して就職しても、そこがつぶれたりしたら、また辛い就職活動をやり直し。
それは避けたいという気持ちはわかります。
そういう視点でみると公務員というのは、とても魅力的なわけですよね。
なにせつぶれない。
とりあえず就職できれば、その後は安泰というわけです。
けれども、昨今、公務員に対しての視線が冷たいというのも事実。
なんどとなく聞いてきた公務員の不祥事・・・、冷たくなるのも必然です。
かくいう僕は民間に勤めていますが、それこそ民間は売上を上げ、利益をあげるため、必死です。
コストダウンやらなにやら、絞ったぞうきんをさらに絞るということもするわけです。
そういう民間からみると、公務員のやり方はやはりヌルい。
また民間はお金をお支払いいただくお客様がいて、その存在が大きいわけですが、公務員はサービスを提供する相手より上の立場にいると思っている方が多いようにもみえるわけです。
そういうことから、公務員への視線はとても厳しい。
それでも多くの公務員の方は真面目に職務を行っていただいていると思いますが、視線が厳しいのは事実です。
ですので安定ということだけで公務員という職を選ぶと、その後に世間の風当たりの強さに悩んじゃったりする人も多いのではないでしょうか。
風当たりの強い公務員の中でも特に忌み嫌われるのは、税務署の、それも徴収官という仕事。
まさにお金をとっていく人たちなので、罵詈雑言を浴びせられるのも当たり前なわけです。
徴収官に税金を取られる人たちは脱税をしているわけなので、とられて当たり前なわけですが、それでもやはりとっていく人というのはイメージが悪くはなりますよね。
そういう嫌われる職業を選んでしまったぐー子が、その仕事の意義を感じ、やりがいを得ていく様子を描くのが本作です。
仕事というのは、安定とか高給とかいうことももちろん大事ですが、続けていくためにはその仕事にやりがいを自分が感じられるかどうかだと思います。
たいてい学生の頃は実際の業務などというものは想像以上のものではないわけで、職についてから実際の仕事を詳しく知るわけです。
「えー、想像していたのと全然違うー」という人は多いとは思いますが、違って当たり前。
僕なんかも今やっている仕事の内容は、就職したときは想像もつかなかったわけです。
けれどそういう実務を行っていく中で、自分なりにやりがいを見いだして、もっとこうしたほうがいいのではないかという自分の道みたいなものを見つけていくところに仕事の醍醐味があるわけです。
お給料がいい、安定しているっていうだけでは感じられない醍醐味ですね。
本著はお仕事エンタメ小説ですが、ぐー子が日々悩みよろめきながらも進んでいく様は、他の職に就いた若い人も通るであろう道と同じです。
よろめき進む中でぐー子がつかんでいったものというのは若い人は共感できるのではないでしょうか。
ドラマもDVDがでたら観てみようかな。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

« 2012年8月 | トップページ | 2012年10月 »