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2012年8月26日 (日)

「仮面ライダーフォーゼ」 未来と可能性

「仮面ライダーフォーゼ」ですが、その姿を一番最初に雑誌で観た時は大いに驚きました。
今までも平成仮面ライダーはデザイン的にもかなりチャレンジをしたもの(「響鬼」や「W」等)がいくつかありましたが、その中でもかなり異質なものと言っていいでしょう。
顔がロケットのフォルムって・・・。
そして、その物語の題材は「学園もの」であり、そしてかつ「宇宙」だと言うことです。
仮面ライダーで「学園もの」という取り合わせにも驚きがありましたし、そしてまた仮面ライダーと「宇宙」というのも今までにない試みでした。
そもそも「学園もの」と「宇宙」の取り合わせというのは、仮面ライダーでなくてもそもそも相性がいいのかという・・・。
本作を担当した東映の塚田プロデューサーは、今までも「仮面ライダーW」では「探偵もの」というように、仮面ライダーというシリーズに今までにないエッセンスを取り込むことで成功してきました。
ですので突飛な取り合わせでしたが、シリーズが始まる前には不安はありませんでした。
どのようにこういった異質の題材を仮面ライダーとして調理してくれるのだろうという期待感のほうが高かったように思います。
さらには今回の「フォーゼ」についてはメイン監督を坂本浩一監督が務められました。
坂本監督は「仮面ライダーW」の劇場版を監督し、元々アクション畑の出身らしい、キレのいい演出で新風を仮面ライダーに注ぎました。
その坂本監督がメインでしたので、期待度が高まります。
あまり期待度が高いと、下手をするとがっかり度も高まるわけですが、「フォーゼ」についてはその心配は必要ありませんでした。
1話〜4話までをメインの坂本監督が撮るという異例のスタートで「フォーゼ」は始まりました(東映ではメイン監督はパイロットと呼ばれる1、2話を担当し、世界観を作り上げるのが普通)。
この4話までで、「フォーゼ」の方向性が明確化され、その後ぶれることなく1年間を走りきったように思います。
それほどまでにこの1〜4話の出来は良かった。
坂本監督は「フォーゼ」に関わる劇場版も2本撮ったので、テレビシリーズの方は何回か離脱しますが、それでも要所々々で監督をし、特に29〜32話(メテオ編のクライマックス)を再び4本連続で担当するというこれまた凄いことをやってのけ、そして最終の2話も担当しました。
まさに「フォーゼ」は坂本監督らしさが強く出たシリーズであったと思います。
もちろん他の監督の回も面白く、石田監督の「宇宙キターッ!」はやる度毎に派手になるとか、諸田監督はなぜかご本人が出演されサブキャラ(最終回にも登場)として定着してくるとか、いろいろ楽しいところがありました。
「ゴーバスターズ」がスタートしスーパー戦隊と監督入れ替えも起こったので、渡辺監督が久々ライダーを撮ったというのもよかったですね。

さて、冒頭で「学園もの」と「宇宙」という異質な題材がどのように調理されたかという点です。
最終回まで観終えたところで思ったのは、この「学園」と「宇宙」という題材は想像していたほど異質ではなかったということです。
この二つの題材は、「未来」と「可能性」という言葉で繋がります。
「学園」で登場するのはもちろん生徒たちです。
本作では天ノ川学園高校が舞台となり、その生徒たちが登場します。
高校生である彼らはそれぞれに将来への望みを持ち、また今の自分に対しての悩みを心に秘めています。
「仮面ライダーフォーゼ」という作品は彼ら生徒たちが、自分の望みや悩みに立ち向かい、そして自らの、または仲間の力を得て、成長していくという物語です。
1クール目ではレギュラーである仮面ライダー部のメンバーにスポットがあたっていましたが、それ以外の生徒たちについても一回限りの登場というわけではなく、その後が描かれることにより、着実に彼らが成長していっているということが伝わってきます。
成長していく彼らは「未来」への「可能性」を表しているのです。
そして「宇宙」。
「宇宙」というのは以前はまさに「未来」そのものでした。
アポロでアームストロング船長が月に降り立ったのはもう40年以上前。
その頃、人々はほどなく人は宇宙へ進出していくだろうというように思っていたと思います(ラスト2話で我望理事長の子供の頃が描かれたのは象徴的)。
しかしいつしかその「未来」は現実的な経済により、次第にその門が閉じられてきました。
経済的な理由から、日本ではなかなか宇宙開発への予算がとれずに先進国から遅れをとり、またアメリカでも同様の理由で民間への転換が図られています。
そういう状況の中、一昨年の「はやぶさ」プロジェクトの成功は、一般の人々が再び「宇宙」に目を向けるきっかけとなったのです。
アメリカでも月面基地の建設が計画されたり、その先には火星も視野に入れてきています。
再び「宇宙」は「未来」となり、そこへ至る「可能性」を持ち始めてきているのです。
異質だと思っていた「学園」と「宇宙」は、ひとりひとりの個人が、そして人類が「未来」に向かって成長していく「可能性」を持っているという点で共通であったのです。

「宇宙、無限のコズミックエナジーを秘めた神秘の世界。
 若者たちはアストロスイッチでその扉を開き、未来を作る。
 Space on Your Hand!
 その手で宇宙をつかめ!」

オープニングで流れるこのナレーションがまさに「未来」と「可能性」を表現しているのです。

そして「フォーゼ」を語る上で欠かせないキーワードが「友情」です。
「フォーゼ」が語る「未来」へは到底一人の力では到達することはできません。
これを「未来」=「宇宙」と語ることにより、「フォーゼ」はより明確にしています。
「未来」を作るということは一人の力でできるものではなく、皆の力を合わせなければいけない、それを「フォーゼ」という物語は語っているのです。
ですので、フォーゼの究極の敵となるのが、自らの力のみで宇宙へ行こうとする我望であるというのは必然なのです。
「未来」というものはテクノロジーが発達すれば手が届くようになるものでは決してなく、それは人々が気持ちをひとつにすることによりつかめるものなのですね。
そういうことは人は普通にわかっているのだと思います。
けれど実際の世の中は、自分さえよければという人(その究極が我望なわけです。名前も象徴的ですね)が多く、辟易とすることもあります。
ただそれが正しいとは誰も思っていない。
だからこそ「フォーゼ」という物語が、真正面に「友情」「友達」を描くことにより、人は心を打たれるのだと思います(僕もなんど泣かされたことか)。
「フォーゼ」が今までの仮面ライダーと大きく異なるのは、その力の源が「友情」すなわち「皆の力をあわせたもの」であるということですね(コズミックステイツはそれを象徴的に表しています)。
昭和の頃より、仮面ライダーというのは孤高であることがひとつのスタンダードな立ち位置でした。
改造人間であることの孤独、そして力を得たものとしての義務感で、彼らは戦いました。
孤高ゆえの力と言っていいでしょう。
しかし、フォーゼは異なります。
昭和ルックな学ランにリーゼントという出で立ちの主人公如月弦太朗は、「天高の連中全員と友達なる男だ」と宣言します。
弦太朗自身がひとり強いのではなく、彼は彼に力を貸してくれる仲間たちがあってこそ、彼は力を発揮することができる。
「友情」「仲間の力」こそがフォーゼの力の源泉であるという点が、今までのライダーとは異なるところだと思いました。
この如月弦太朗というキャラクターのぶれのなさというのが物語の軸になっていたと思います。
彼は人の良いところも、悪いところも含めて、受け入れる度量がある男でした。
こういった彼の軸は物語の頭から最後まで、終止ぶれることがありません。
平成仮面ライダーでは悩めるヒーローが描かれることが多かったですが、弦太朗は悩まない、ぶれない。
それが彼の強さといえば、強さでしょう。
複雑化している社会や人間関係が現実には多い中で、彼のシンプルな生き方というのはとても魅力的に見えました。

途中でオープニングナレーションに触れましたが、そういう点で「仮面ライダーフォーゼ」という作品は最初から最後までテーマにぶれがない作品だったのだと思います。
「学園」「宇宙」は異質なものと僕は思いましたが、オープニングナレーションを改めてしっかり聞いてみると、制作サイドは元々から意図した共通項を見いだしていたということがわかります。
弦太朗というキャラクターと同様に、一年間ぶれずにテーマを追い続けたスタッフに敬意を表したいと思います。

前作「仮面ライダーオーズ」の記事はこちら→

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「エイトレンジャー」 ほぼプロモーション映画

「○○レンジャー」とかいうタイトルだと、反射的に観に行こうと思ってしまうマニアな自分・・・。
しかし、ぶっちゃけ関ジャニ∞のプロモーション映画という感じですねぇ。
そもそもアイドル関係は疎いため、関ジャニ∞のメンバーもよく知らずに観に行ってしまいました。
顔を知っているのは、「ちょんまげぷりん」で主演の錦戸くんと、「ストロベリーナイト」に出ていた丸山くんくらいで、あとはほぼお初(だと思う)。
メンバーの人数を観たら7人なので、なんでエイトなの?と思ったのですが、お一人脱退していたのですね。
そもそも「エイトレンジャー」自体は、関ジャニ∞のコンサートの中での一つのコーナー(?)だったようです。
行ったことがないのでよくわからないですが。
ジャニーズ事務所の所属タレントはそれぞれのユニットで、メンバーにイメージカラーが決まっているのですよね。
「エイトレンジャー」というキャラクターはそれを踏まえたものなのでしょう(おそらく)。
あと本作を観に行った理由としては、「○○レンジャー」だったからということだけではなく、監督が堤幸彦さんだったからというのもあります。
堤監督は、好きな監督の一人です。
特に「TRICK」などは好きだなぁ。
堤監督は「TRICK」等、非常にエッジが効いた映像センスを持っている方ですが、そういう個性をを出さずに撮ることができる監督だと思います。
ある意味、器用な監督だと。
しかし、器用にやっているときの作品は、やはりらしさが感じられず、あまりいいものに感じられないことがあることがあります。
なんというか、さばいてるような感じがすると言いましょうか。
で、本作ですが、どちらかというとさばいている感が感じられる作品でした。
堤監督らしさはあまり感じられない。
小道具等で遊んでいるところは堤監督らしいのですけれどね。
その辺までということで。
アイドル映画の側面があるので、いろいろと制約があったとは思われますが・・・。
お話としては、それほど驚くようなところもない真っ当なストーリーでした。
最近のヒーローものは、アメリカにしても日本にしてもかなり凝っているストーリー展開をしているので、もの足りない感じがあります。
どちらかというと昭和時代を焼き直している感じがしますね。
かといってパロディというほど思い切っているわけではなく、やはりなぞっている印象は拭えません。
観に行った理由を二つほど最初に書きましたが、その視点でいくと満足いったものではなかったというのが正直な印象です。
関ジャニ∞のファンの方はご満足いただけると思われます。

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本 「ヒトリシズカ」

誉田哲也さんの作品は女性が主人公となることが比較的多いです。
「武士道」シリーズ、「柏木夏美」シリーズ、「姫川玲子」シリーズ、「ジウ」シリーズ等。
「武士道」シリーズ、「柏木夏美」シリーズでは女性のキラキラとした青春といったポジティブな側面が描かれますが、逆に「姫川玲子」シリーズや「ジウ」シリーズについては、ある種の女性の抱えた暗部というものに触れられます。
姫川玲子は高校生のとき暴行に合い、そういった犯罪に対しての憎しみにより、警察官になりました。
彼女は物語の中でも何度かそういう場面があるように、本当に犯罪者を「殺したい」と思うほどの瞬間があるわけですね。
彼女はその暗い感情をギリギリのところで押さえつけ、警察官として職務を全うしています。
「ジウ」の伊崎基子は姫川を一線をやや越えているところもありますが、それでも彼女は警察官の側にとどまっています。
女性は、男の暴力に対してはどうしても叶わないことが多い。
その被害にあった女性は、それに対しての怒りを抱え込むか、外に出すかしかない。
姫川の場合はその怒りをなんとかコントロールをし、警官という職業を通じて正しい手法で、その怒りを噴出させていると言っていいでしょう。
本作の主人公も、そういった怒りを内面に抱えている女性となるわけですが、その怒りの噴出が犯罪という形となっています。
そういう点ではこのキャラクターは姫川の裏と言ってもいいかもしれません。
そして本作がユニークであるのが、彼女がどのような人物であるのか、どのような怒りを抱えているか、それが連作短編の中で微かに感じるだけで、最後まで明らかになりません。
しかし、彼女はただ怒りのために暴走しているだけではないということも最後にはわかってきます。
それは彼女にとっても、読んでいる読者にとっても救いになるような気がします。

「ヒトリシズカ」誉田哲也著 双葉社 文庫 ISBN978-4-575-51493-3

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2012年8月25日 (土)

「るろうに剣心」 もうひとりの以蔵の物語

少年ジャンプに連載されベストセラーとなったコミック「るろうに剣心 -明治剣客浪漫譚-」の映画化作品です。
漫画がヒットしていたのは知ってはいましたが、例によって未読です。
舞台となる時代は明治の世となって10年ほど経ったとき。
幕末の動乱期が終わり、時代はようやく新しい時代へと移り変わっていく時代でした。
すでに廃刀令は出され、かつての身分秩序が崩れていく時代でもありました。
主人公はそういった明治の世をあてどなくさまよう浪人、緋村剣心。
彼は穏やかな性格からは想像できないほどに、剣の腕がたつ男です。
そして彼は幕末期には「人斬り抜刀斎」と呼ばれた暗殺者であり、幕府側の要人を数々闇討ちしたことにより、恐れられた人物でもありました。
彼は新しい世を作るために人の命を奪いましたが、それにより苦しむ人の姿を見、戊辰戦争で幕府側が倒れたことを期に、「不死の誓い(ころさずのちかい)」をたて、人を斬ることを自ら封印します。
彼が持つ刀は「逆刃刀(さかばとう)」と呼ばれ、本来の日本刀の刃の部分が峰となり、峰の部分が刃となっています。
普通にふるう場合は相手を斬ることはできず、逆に自らに刃が向いているという状態になり、この刀が剣心の「不死の誓い」を象徴しています。
「人斬り抜刀斎」という設定からは、幕末期に実際にいた「人斬り以蔵」こと岡田以蔵のことが思い浮かびます。
岡田以蔵は土佐藩出身で土佐勤王党に参加し、京都でやはり幕府側の要人を暗殺しました。
彼の場合はその後、幕府側に捕らえられ拷問の末、死を迎えるという運命となりました。
岡田以蔵は幕末期を題材にした様々な物語に登場しますが、暗殺を行ったということから非情な男、乱暴な男と描かれることが多かったように思います。
しかし、NHKの大河ドラマ「龍馬伝」では、今までとは異なる岡田以蔵像が描かれました。
どちらかと言えば気が弱く、剣の腕がたつことから尊敬する武市半平太に乞われ暗殺者となりますが、志のためとはいえ人を殺すことに悩む姿が描かれます。
この姿は、まさに本作の「人斬り抜刀斎」こと剣心に繋がるイメージです。
もしかすると「龍馬伝」の岡田以蔵像が、「るろうに剣心」の剣心のイメージから影響を受けているかもしれません。
その「龍馬伝」で岡田以蔵を演じていたのが、本作で剣心を演じた佐藤健さんでした。
そういう意味では本作の剣心は「龍馬伝」で以蔵が生き残ることができたとしたら、このようになったかもしれないという、もう一人の以蔵であるとも言えるかもしれません。
佐藤健さんと言えば初めて主役を務めた「仮面ライダー電王」が思い浮かびます。
「電王」で佐藤さんは野上良太郎という役を演じますが、この役はさまざまなキャラクターに憑依され、その性格が多重人格のように変わると難役でした。
佐藤さんはまだデビューしたてだったと思いますが、この難役をものの見事に演じてみて、その演技力に皆が非常に驚いたものです。
本作「るろうに剣心」では普段の剣心は穏やかですが、戦いの中で剣気がみなぎるときは「人斬り抜刀斎」となるほどにその雰囲気が変わります。
この落差は、剣心という男の中にふたりの人物がいるかのようです。
ここには「仮面ライダー電王」で佐藤健さんが見せた演技分けの真骨頂を観るようです。
そういう意味で本作「るろうに剣心」は佐藤健さんの今までの経験が存分に発揮された作品と言えるでしょう。
また本作で見所となるのは、今までに見たことがないタイプの剣劇ですね。
本作でみられる立ち回りは、伝統的な時代劇とはまったく異なるものとなっています。
目に留まらないほどにスピーディであり、トリッキーである動きは、今までの時代劇というよりは、香港のカンフーアクションに近いという感じがしました。
「マトリックス」が従来のハリウッドアクションに、カンフー映画のリズム、手法(ワイヤーアクション等)を取り入れて新感覚となったように、本作は時代劇がそれらを取り入れ進化したような感じを受けます。
佐藤健さんはもともとブレイクダンスをやっていたので運動神経がよいのでしょうか、スピードの速いアクションでもとても上手く見せてくれていたと思います。
監督は「龍馬伝」の演出を担当し、「ハゲタカ」の劇場版も手がけた大友啓史監督。
佐藤健さんとは「龍馬伝」つながりなわけですね。
佐藤さん以外にも「龍馬伝」繋がりの出演者は多く、香川照之さん、蒼井優さん、青木崇高さんなどが出演されています。
音楽も佐藤直紀さんで、曲の雰囲気は「龍馬伝」に似ていたような気がします。
このあたりからも本作が、別の世界の以蔵を描いたような感じがするところなのかもしれません。
物語はシンプルですが、佐藤健さんの演技や、観たことがない剣劇アクション等見せ所は多く、長尺の作品ではありますが、最後まで一気に見せきる力がある作品だと思いました。
ハリウッドのエンタメ作品もいいけれど、日本のエンタメ作品もいい仕事しているなと思いました。

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2012年8月19日 (日)

「バック・トゥ・ザ・フューチャー」 生涯の10本のうちのひとつ

「Virginia/ヴァージニア」を観に行こうと思い有楽町に向かったのですが、すでに席は完売。
2週間限定公開ですからね・・・、せめてヒューマントラスト有楽町はネットで券が買えるようにしてほしい。
当日劇場へ行って、無駄足に終わるのはけっこうショック。
何もせずに変えるのもなんなので、午前10時の映画祭で「バック・トゥ・ザ・フューチャー」をやっていたので、そちらに足を向けました。

「バック・トゥ・ザ・フューチャー」は生涯観た映画の中で10本選べと言われたら、必ず入ってくる作品です。
今までも何十回と観ましたが、飽きることがありません。
何度も観たのでセリフやカット割りまで覚えていたりするのですが、それでも飽きない。
ストーリーは今更説明する必要はないでしょう。
いわゆるタイムトラベルものですが、青春もの、コメディものとしての要素を含んでいます。
脚本はよく練り上げられていて、変なところがどこにも見当たりません。
細かい伏線がところどころに張られていますが、すべて計算されていて、見事に回収されています。
今観ると古い感じのするカット(カット割りでみせる)もあります。
それほどCGや合成などができない時代ですのでカット割りを工夫してみせているのですが、それはそれでとてもカッコいい。
気持ちよいリズムでカットを割っているので、テンポ良い感じに見えるのですよね。
学生の頃8mmで映画を撮ったとき、この作品のカットのマネを散々したものです。
マーティもドクも活き活きとしていて名コンビですし、ジョージのヘタレっぷり、ビフの憎々しさ、キャラクターもわかりやすくて、観ていてもストレスを感じません。
相変わらずデロリアンはかっこいいし。
そういえば学生の頃、映画か何かのプロモーションで撮影に使ったデロリアンが東京で展示されたことがありましたが、わざわざ観に行ったのを思い出しました。
この映画については語りだしたら止まらないので、作品についてはこのへんで。

本作が公開され、舞台となっているのは1985年。
作品の最後にマーティたちが30年後の未来へ旅立ちますが、それは2015年。
おっと、もう少しです。
「2001年宇宙の旅」の2001年を迎えたときも感慨深かったですが、2015年もそういう気分になるのでしょうね。
少なくともホバーカーはできてないし、大きくなる冷凍ピザもないでしょう・・・。
1985年のとき、映画の中で描かれる30年前の1955年はえらく古くさく見えたものですが、2015年の時のティーンが1985年の様子をみたら、やっぱり古くさく見えるのですかねぇ・・・。

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2012年8月18日 (土)

本 「Think Simple -アップルを生み出す熱狂的哲学-」

本著は長年、広告代理店でアップルの広告に関わってきたケン・シードルが、アップル(特にスティーブ・ジョブズ)との仕事の中で目の当たりにしたかの企業の哲学についてまとめたものです。
タイトルに「Simple」とあるように、アップルの(というよりスティーブ・ジョブズ)の哲学はこの言葉に集約されいると言っていい。
本著はそれなりのボリュームがある本であるが、言っていることは「Simple」であるということをどのようにアップルが成し遂げてきたかとうことを繰り返し書いており、いたって内容は「Simple」です。
アップルの製品(MacやiPhone、iPad)やサービス(iTunes StoreやApple Store)に触れたことのある方ならば、アップルという企業が「Simple」で貫かれているということはわかるでしょう。
製品には他のPCや家電製品についてくるような分厚いマニュアルはありません。
分厚いマニュアルがなくとも、アップルの製品は直感的に使えるように「Simple」さを極めているからです。
Apple Storeは家電量販店のような派手派手なポスターや価格表でどこに目をやっていいかわからないことにはなっていません。
オシャレなテーブルに製品がディスプレイされているだけ、それに客は自由に触って試してもいい。
アップルに貫かれている「Simple」さはいろいろな面に見ることができます。
まずはプロダクトデザインや広告。
プロダクトデザインについては言わずもがな、広告については「Think Different」とうポスターが記憶にある方も多いでしょう.
世界を変えた偉人のモノクロの写真と「Think Different」というコピー、そしてアップルのロゴだけ。
製品の名前も写真もありません。
でもそれだけでアップルがやりたいことは伝わってきます。
僕もパッケージのデザインや、広告、Webなどに関わる仕事をしていますが、やはり経験上そのようなクリエイティブを作るにあたりいつも考えるのは「Simple」であること。
スーパーにならんでいるコモディティ商品のパッケージにはとってもいろいろなことが書いてあります。
でもその言葉をひとつひとつ読んでいる人なんているのでしょうか。
経験上、人はパッケージを見て一瞬に理解することは1つか、2つ。
それ以上のことを書いても、ただのノイズにしかならないのです。
下手をすると一番伝えたいことも伝わらなくなってしまう。
CMについても15秒で伝えられるのはせいぜい一つ。
でも世の中には15秒しゃべりっぱなしのCMがいかに多いことか。
視聴者がトイレタイムで立ち上がるのもわかります。
Webにおいてもクリエイターは一所懸命Flashでアニメーションを使ったムービーを作りますが、それを最後まで観る人はどのくらいいるでしょう(僕はスキップしてしまいます)。
本書は「Simple」に対して「複雑さ」を悪魔のように書いていますが、まさに多くの企業はこの悪魔に魅入られているのです。
正直、自分もすべて関わっている案件でこの「複雑さ」という悪魔に勝てているかというと、決してそんなことはなく、どちらかというか負け続けていると思うのですが、それでもやはり「Simple」さにはこだわっていきたい。
そして数少ない「Simple」さが勝った仕事は、やはりうまくいっているのですね。
またアップルの「Simple」さは社内の物事をきめるプロセスということにも貫かれています。
少人数精鋭のチームで彼らは仕事に挑む。
形式ばかりの会議は行わず、ピラミッド型の組織運営もしない。
そこそこの規模の企業(特に日本の企業)だと、物事を決めるのにいくつの会議を通過しなくてはいけないでしょうか。
その会議を通過していく中で、もともとエッジが効いていたアイデアが、牙を抜かれ、他の会社の数多の商品やサービスとあまり変わらなくなっていくという経験をした方も少なくないでしょう。
アップルにはそういうことはないわけですね。
僕も以前の組織では、いくつもの打ち合わせやプレゼンを経て、デザインや広告を通していきました。
その中で後から入ってきた方の意見で案が2転、3転するのもしばしば。
元々現場がやりたいと思っていたことが見る影もない状態になることもよくありました。
じゃ、いろんな人の意見を取り入れたデザインや広告が一般の人に受け入れられるかというと、それはすでに「複雑さ」の悪魔に見入られたものなので、一顧だにされないということもあったわけです。
今の組織は人数が少ない分、構造がフラットなため、日常的な会話の中でデザインや広告について話合いながら詰めていくことができています。
またなるべく「Simple」がいいという合意も基本的にあるので、あれもこれもということにはなりにくい(ないとは言いませんが)。
当然世の中に出すものですので、社内の合意プロセスはあるのですが、形式張ったものではありません。
お客様に「Simple」なメッセージが出せているほうではないかと思います。

本著に対する不満としては結果的に「ジョブズ万歳」となっているところです。
アップルの「Simple」さはジョブズのイニシアティブによってこそ成り立っていたともとれます。
じゃ、ジョブズ亡き後のアップルはどうなるのかと。
「Simple」さという考えはジョブズに限ったものではありません。
ジョブズほど徹底的にやるというのは確かに困難かもしれませんが、マーケティングに関わる人がそういう意識を持って仕事をすることはできます。
そういう中で物事をより「Simple」にしていく。
それが結果的にはお客様の満足に繋がっていくのだと思います。

「Think Simple -アップルを生み出す熱狂的哲学-」ケン・シードル著 NHK出版 ハードカバー ISBN978-4-14-081545-8

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2012年8月15日 (水)

「新参者」 すべてを見通す目

今年の1月に劇場で観た「麒麟の翼」に泣かされてしまい、元々のテレビドラマの方も気になってようやく観終えました。
「麒麟の翼」はミステリーものであるので、確かに誰が犯人かという謎解きの部分はもちろん重要なのですが、それよりも事件に関わった人々それぞれの心の奥底にある気持ちを解き明かしていくというところに見応えを感じました。
登場人物がそれぞれに誰かを思っていながらも、それをうまく相手に伝えられないもどかしさを持っています。
事件の謎が解き明かされていく過程で、人々の思いも解き明かされていきます。
主人公の加賀は事件だけでなく、その人々の思いを解くということが彼の信条なのですね。
テレビシリーズ「新参者」も同じように一つの事件が起こり、その謎を解き明かしていく中で、毎回登場する人々の思いが解き明かされていきます。

人は嘘をつく。
罪から逃れるため、懸命に生きるため。
嘘は真実の影。

これはドラマの冒頭で黒木メイサさんが読むナレーションです。
登場人物たちは誰かのことを思うがため、語らなかったり、嘘をついたりします。
その一つ一つを加賀は丁寧に解きほぐしていきます。
そして登場人物の伝えられない思いを明らかにし、その相手にその思いが伝わるようにします。
事件そのものは最終回の10話まで解決しないのですが、事件の謎を解き明かす過程の中で、加賀は人々の思いを解きほぐしていくのです。
オンエア時にも「泣けるミステリー」と言われていたようですが、確かに泣けます。
誰でも伝えられずに心の奥にしまっている思いがあるかと思います。
伝えられないからこそ、語らない、嘘をつく。
その思いに蓋をするために。
自分では開けられないその蓋を加賀はそっと開けてくれるのですね。
加賀を演じる阿部寛さんはまさに適役。
テレビシリーズを観てしまうと、加賀は阿部さんしかありえないと思います。
加賀は何も見逃さない。
ドラマの中でも、加賀がじっと見つめ続けるというシーンがいくつもあります。
加賀の目は、すべてを見通す目。
事件の証拠ではなく、加賀が観ているのは人々が隠したはずの思い。
その思いを加賀は見つめます。
加賀に見つめられると、おそらく人は「何もかもお見通しなのではないか」と思うのかもしれません。
その目は初めは不躾なものと感じられるかもしれません。
けれど、この人にならば秘密を明らかにしてもいいのではないかとも思えるのかもしれません。
この人の前だったらば、重い荷を下ろしてもいいのではないかと。
加賀はそういう気持ちにさせることができる不思議な男なのですよね。
魅力的なキャラクターだと思いました。
今度は「新参者」に続いて作られたスペシャルドラマの「赤い指」を観てみたいと思います。
また映画も「麒麟の翼」に続いて作ってくれないですかね。

「麒麟の翼~劇場版・新参者~」の記事はこちら→

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「アベンジャーズ」 ザ・アメリカ、ザ・ハリウッド

今年の夏はアメコミ映画の当たり年ということで、「アメイジング・スパイダーマン」、「ダークナイト ライジング」に続いて、満を持しての「アベンジャーズ」が公開です(観に行ったのは先行上映ですけど)。
1作目の「アイアンマン」後に企画がスタート、「インクレディブル・ハルク」、「アイアンマン2」、「マイティ・ソー」、「キャプテン・アメリカ/ザ・ファースト・アベンジャー」と次々とマーベルコミックのヒーローが映像化されていくなかで、いわゆるマーベル・ユニバースが構築されていきます。
本作はそれら作品に登場した世界観が異なるアメコミヒーローたちが、一同に会するというスペシャルな企画となっています。
世界観が異なるヒーローが一つの画面に登場するというのは、アメリカだけでなく日本でも最近多くみられています。
円谷プロ関係では今年「ウルトラマンサーガ」が公開され、世界観のことなるウルトラマンをひとつの物語として取り込みました(意外と出来がいい)。
また東映ではテレビシリーズで「仮面ライダーディケイド」、「海賊戦隊ゴーカイジャー」で世界観の異なるライダーやスーパー戦隊をクロスオーバーさせるという試みを行っており、そして今年はその究極ともいえる「仮面ライダー×スーパー戦隊 スーパーヒーロー大戦」という作品も公開しました。
また「海賊戦隊VS宇宙刑事ギャバン」も記憶に新しいところです。
ただ異なる世界観の作品のクロスオーバーという点でいうと、アメリカのマーベル・ユニバースの方がコミックのほうでは先んじて行われていました。

さて本作ですが、それぞれに主役をはれるほどのスーパーヒーローたちが一同に会するわけですから、なかなかに物語を作るのは難しいのではないかとも思っていました。
どのヒーローもちゃんと立っていなくてはいけないですからね。
しかし観てみれば、そのあたりはしっかりとポイントを立たせている作り方になっていると思いました。
日本のクロスオーバー作品もそうですが、こういう作品はファンへのご褒美みたいなところもあるわけですよね。
それぞれのヒーローたちがいっしょに戦う、そういった夢に見るような映像が観れるという。
ですのでこういう映画はそういった画を見せるということが重要であり、ストーリー時代はそれほど複雑なものはあまり必要がありません。
本作もストーリーだけを見ると、それほど捻ったところはなく、どちらかと言えば王道のヒーロー映画と言えるでしょう。
現在も公開しているDCの「ダークナイト ライジング」がバットマンの心の奥底を探求し、戦う意義とは何かということを問うていく非常に内省的な映画になっているのとは正反対で、本作については一言で言って派手、まさにハリウッド大作といった仕上がりになっています。
「ダークナイト ライジング」はアメリカのヒーローを扱っていながら、監督のクリストファー・ノーランを始め、イギリスのスタッフや俳優が多いためか、アメリカっぽくない作品になっていますが、「アベンジャーズ」はまさにザ・アメリカ、ザ・ハリウッドというテイストになっています。
「ダークナイト ライジング」も好きですが、本作のようなお祭り映画も好きですね。
本作のように個性的な登場人物が多いと、そのキャラクター説明に時間がかかり、話が停滞することが起こりやすいですが、本作について言えばそれぞれのキャラクターについては冒頭にあげた元の作品を観ているというのが前提となっています。
ですので、細かいことはあまり説明せず、いきなりロキら敵が襲いかかってきて、それからバトルが開始されます。
そこから全編戦いっぱなしという感じですね。
それぞれのキャラクターの悩みやらなにやらはそれぞれの本編で観てくれという感じで割り切っています。
ただしキャラクターの性格の不整合はオリジナルと比べて起こっていないのはさすがです。
アクションもド派手で見応えありますが、本作で特徴としてあげられるのはそれぞれのスーパーヒーロー同士の掛け合いです。
アイアンマン、キャプテン・アメリカ、ハルク、ソーなどそれぞれが個性的ですし、性格も能力もバックボーンも全然違うキャラクターです。
それぞれの違いが異なるために彼らの会話のやり取りがけっこうずれることが多く、そこにユーモアが生まれます。
このユーモアはアメコミファンであればあるほどクスッとするポイントで、このあたりのあっけらかんとした明るさが本作の大きな基調であると思います(このあたりは「ダークナイト ライジング」とは真反対)。
特にエンディングあとのワンシーンはね、おかしいですよ(最後まで席を立たないでね)。

本作についてはストーリーなどについて細かく書いてもしょうがないので、それぞれのヒーローについてちょっとづつ気になったことを書いてみます。
・キャプテン・アメリカ
 長い間氷付けで眠っていた彼は現代で目をさまし、再び戦いから人々を守ります。
 元々兵士であり、キャプテンでもあった彼は戦いの最中でも的確にメンバーに指示を与え、ややもすると個性的すぎるメンバーがバラバラになるのを見事に統率します。
 このあたりはキャプテン・アメリカのキャラクターをうまく出しているかなと。
 また第二次世界大戦を経験している彼は、兵士でありながらも戦争というものに対してネガティブであり、また自身がコスチュームにまとうスターズ&ストライプスへも不信のようなものを持っているように感じます。
 このあたりは原作コミックでも触れられていることなので、今後の彼の動向は要注目です。
・アイアンマン(トニー・スターク)
 大金持ちで知能が高く、そして遊び好きのトニー・スターク。
 組織などはまったく気にせず、わが道を往く感じは、キャプテン・アメリカとは真逆の性格なので、彼らは最初は対立します。
 しかし、互いにそれぞれの心にある人を守りたいという気持ちがあるということを理解し、彼らは共闘するようになります。
 このあたりは本作のキャラクター面での主軸の話になりますね。
・ハルク(ブルース・バナー)
 ご存知緑色の巨人。
 ロキが彼を非常に気にしていた理由は、制御不能に大暴れするからなのですかね?(ちょっとよくわからなかった)
 「インクレディブル・ハルク」ではエドワード・ノートンがバナーを演じていましたが、本作ではマーク・ラファロに代わりました。
 マーク・ラファロは意外にこの役、似合ってます。
 面持ちは知性的な感じがしますしね、なんとなくハルクと顔も似てます(エドワード・ノートンはあまりハルクになりそうな感じがしなかった)。
・ソー
 最近作られたばかりの作品なので、それほどオリジナルとの違和感はありませんでした。
 オリジナルよりはいろいろ経験を積んで性格は大人になったかな。
 なんせ神様なもので彼が本気出したら、他のヒーローはひとたまりもない感じもしますが、このあたりは演出でうまく見せていたかな。
・ブラック・ウィドウ(ナターシャ・ロマノフ)
 これはスカーレット・ヨハンソンにつきるでしょう。
 もう色っぽいので、目が釘付けです。
 彼女は他のヒーローとは違い、ただの普通の人なのですが、反射神経・運動能力が半端ありません。
 そういった力を使ったスピード感溢れるアクションは見応えありました。
・ホーク・アイ(クリント・バートン)
 本格登場は本作ですね。
 彼も普通の人なので、他の特殊能力者に比べてどうかと思ったりもしましたが、なかなかどうしてかっこいい。
 赤外線スコープ付きの弓、矢の先端を様々なバリエーションで付け替えて多彩な攻撃をするところは、魅せるアクションですね。
 パンフによれば、あの矢はアダマンチウム製とのこと。
 「X-MEN」との関係もあるか・・・?

マーベル関係でいうと次は「アイアンマン3」ということですね。
あと「アベンジャーズ」の続編もあるということです。
次は「X-MEN」チームとの合流はあるのでしょうか。
あと「スパイダーマン」はSONYだから厳しいかなと思ったら(本作は20世紀FOX)、ありと言う話も聞こえてきたりして。
今後気になるところです。

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2012年8月14日 (火)

「プロメテウス」 エピソードゼロ

監督のリドリー・スコットは「エイリアン」シリーズの一遍とは言っていないのですが、観れば明らかなように本作は「エイリアン」の前日譚と考えられるストーリーになっています(細かいところを観ていくと整合性がないところがあるので、完全な前日譚と言えないかもしれませんが)。
タイトルの「プロメテウス」は、本作で古代の遺跡から発見された導きにより未知の惑星に向かう宇宙船の船名ですが、ご存知の通りギリシャ神話の神の名前でもあります。
神話ではプロメテウスは人間に火を与えたとなっており、人間を文明化した神と言うことができるでしょう。
これはまさに本作の冒頭で描かれていた人類の起源となったと思われる巨人が、人類にとってのプロメテウスと言えるかもしれません。
予告では本作のテーマは「人類の起源」ということになっていますが、今書いたように人類の起源が何ものかということについては、物語の最初の方で明らかになります。

<ここから先はネタバレになります。ただネタバレ読んでも本作はあまり関係ないかも>

プロメテウス号に登場した乗組員がたどり着いた未知の惑星ですが、そこにある光景は「エイリアン」シリーズを観ている観客からすれば既視感のある光景でした。
探索チームが暗いトンネルを抜けた先にあるのは、人類の顔を模した巨大な像と、その前に無数に置かれている壺状のもの。
この壺状のものについては幾何学的な形をしますが、「エイリアン」シリーズを観ている人が思い浮かべるのは「卵」でしょう。
そしてその先にを探るとそこは「エイリアン」でミイラ化したスペース・ジョッキーが発見されたのと瓜二つの部屋となっていました。
そしてそこのコンピューターのメモリにはスペース・ジョッキーたちが最後を迎える時の様子が記録されており、さらには残された彼らの遺体から分析できるDNAを取り出すことに成功します。
そこから導きだされた結論は、彼らスペース・ジョッキーは人類と同一のDNAを持っているということ、つまりは人類の始祖であるということです。
このあたりの謎解きについてはえらく淡白に明かされます。
人類の起源を探るのがテーマというわりには、かなりあっさりと。
同時に何ものかが、科学者たちに襲いかかります。
これも「エイリアン」シリーズを観た方ににはおなじみのフェイスハガーのうような生き物に。
卵状の容器から生み出された生物は、人間の体の中に侵入し、その中で成長し進化します。
また唯一コールドスリープ状態で発見されたスペース・ジョッキーも人間たちを襲います。
フェイスハガーはスペース・ジョッキーが人類を滅ぼすために開発した生物兵器であり、それを生み出したため逆に彼らはフェイスハガーに襲われ滅ぼされたようです。
次々に襲われ命を落としていく乗組員たち。
そして主人公の女科学者も体内に未知の生物が巣食っていることに戦慄します。
このあたりは「エイリアン」「エイリアン2」で描かれていたことの繰り返しとも言えます。
ただ「エイリアン」ほどの恐怖感はなく、また「エイリアン2」ほどにアドレナリンがでるわけでもありません。
今観れば「エイリアン」は70年代の作品であり、特殊撮影の技術も今程は発達していませんでした。
でも「エイリアン」は予算も技術もない中で、限定空間、そして暗がりのなかで未知のものに襲われる恐怖を描くというアイデアを導きだしました(だから到着した惑星はずっと夜、風景を映さなくていいから)。
本作は技術も進化し、当時は描かれなかった惑星の様子も丹念に描かれます。
しかし、それでストーリーが面白くなっているかというとそうでもないし、恐怖感や高揚感のような感情の高まりがでてくるかというとそうでもない。
やはり「エイリアン」「エイリアン2」を越えるような印象は得られませんでした。
そして人類の起源はスペース・ジョッキーたちだということは判明しましたが、「なぜ彼らは人類を生み出したのか、そしてなぜ今度は人類を滅ぼそうとしたのか」という最大の謎については答えを明示しないまま物語は終わります。
物語的な新しさはなく、感情的なカタルシスもなく、また提起された謎も解決しない。
観終わった後も何かもやもやとした感じが残る作品でした。
どうしても「エイリアン」の前日譚を撮るために、物語を作ったという後付け感が拭いきれないのですね。
残された謎は次回作へのひっぱり?みたいな野暮なことも考えてしまったりして。

冒頭に完全には前日譚と言えないかもしれないと言った点について。
「エイリアン」との不整合がある場面です。
「エイリアン」ではスペース・ジョッキーは、操作席に座っている状態でした。
本作では生き残りのスペース・ジョッキーはプロメテウス号で巨大なフェイスハガーに襲われ果てます。
ですので操作席は空席のはずなので、ここは不整合かなと思います。
もう一人生き残りがいたというのもあるかもしれませんけどね。
あとプロメテウス号の残骸がこの惑星にはあるわけで、その後の「エイリアン」「エイリアン2」で何も触れられていないのも不整合かなと。
「エイリアン」の場合は暗くてよく周りが見えなかった(笑)という解釈もあります。
「エイリアン2」ではウェイランド社がすでに隠蔽して片付けてしまっていたとも。
あと本作最後でスペース・ジョッキー体内を食い破って出てきた成長したエイリアンのようなものが現れます。
それが後にノストロモ号の乗組員を襲うエイリアンとなるという印象を残すラストになっています。
ただ「AVP」では現代の地球にエイリアンとプレデターがやってくるという展開なので、本作の時点で初めてエイリアンが生まれるというのも不整合が起きているように思います。
ま、「AVP」は別物だ!という解釈もありますが(爆)。
そもそも本作でプロメテウス号が行った惑星と、ノストロモ号が行った惑星が同じとは言及はされていないので、別の惑星だという考え方もありますね。
以上のようなことを「エイリアン」ファンが酒の肴の話のネタにするにはいい作品かもしれません。

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2012年8月13日 (月)

本 「感染遊戯」

誉田哲也さんの姫川玲子シリーズのスピンオフとなる作品です。
姫川は本作でちらりと登場しますが、物語は本編でおなじみの姫川の天敵であるガンテツ、姫川の元部下である葉山、そして「シンメトリー」の「過ぎた正義」に登場した倉田が中心となり物語は進みます。
本作は中編集の体裁になっており、ガンテツ、葉山、倉田はそれぞれ別の事件に関わるのですが、それが実際のところはある事件に通じているという構造になっており、本作全体としてひとつの物語として読むことができます。
本作はテレビドラマの「ストロベリーナイト」でも、1話分の原作として取り上げられています。
ドラマのほうは本作のような構造にはなっておらず、一つの事件としてだけの扱いになっています。
事件としては原作の小説のほうがよく練られており、また考えさせられるテーマを持っています。
本作で取り扱われる事件は、中央官庁の元官僚がネットに公開されてしまった個人情報を元にして殺害されていくという内容です。
この作品を読んで、てっきり実際に事件としてあった「元厚労省事務次官殺人事件」からヒントを得て、書かれたものだと思いました。
しかし、調べてみると本作が書かれたのは、実際の事件よりも前だったということで驚きました。
ある意味、本著はそういった事件が起こるということを予言していたとも言えるわけです。
この作品が提起している問題は2つだと思います。
一つは官僚のモラル低下(そもそもモラルが高い時があったのかどうか)。
民間企業で言えば、なにかおかしなことがあれば、それは会社の収益に関わり、そもそもの存在に影響を与えます。
会社がなくなれば、そこで働く個人も職を失うわけで、そこである程度のモラルは担保されるのです。
だからこそ民間は、ある種の自浄作用というものは持っているわけですね。
でも官僚の場合、役所がつぶれる、国がなくなるというのは基本的にないわけで、だからこそ切迫感がない。
自分で汗水たらして稼いだお金ではないから、無頓着になる。
すべてとは言いませんが、官僚は自分個人に影響を与えるような事態にはならないというような思い込みがあるような気がします。
その感覚と、民間で働く普通の人々の間には、大きな溝があり、それを自覚していないからこそ、さまざまな不祥事が繰り返されるのです。
本作で描かれる事件は、自分が仕事上でしたことが、自分個人に跳ね返ってくるということを、自覚せよということにも受け取れます。
もう一つは、個人情報の取り扱いの問題と、ネット上での感情の誘導の問題です。
ここまでネットが発達してきて問題となるのは個人情報の取り扱いです。
自分が知らないうちに、自分の情報がさらされていて、それが何かよからぬことに使われてしまう。
そしてそれが悪意と結びついたら・・・。
本作で描かれている事件というのは、それこそ実際起きてしまっているわけで、なにかおそろしさを感じます。
そしてウソ寒く感じてしまう大きな理由は、そうじゃない状態に社会全体はもう戻れないということです。
インターネットで情報を集めるという時代になり、そうじゃないときにはもう戻れない。
ウソ寒くても、そういう状態とうまくつき合っていかなければならないわけです。
でもよく考えてみると、昔は「お天道様が見ている」という言い方をして悪いことをしても、誰かが見ていていつかは罰せられるというような感じでいました。
でもいつしかそういう気持ちはなくなり、「誰も気づかなければいい」というような気分が蔓延してきたのではないでしょうか。
官僚に限らず、そういった気持ちは一般の人にもあるかもしれません。
しかし、ネットが発達した現在、「お天道様は見ていなくても、みんなが見ている」という状態になっているのかもしれません。
それを自覚をすれば、「誰も見てなければ・・・」というようなことも起こりにくくなるのではないかとも思ったりします。
良心を自分の外に求めるっていうのも寂しい限りなのですけれどね。

「感染遊戯」誉田哲也著 光文社 ハードカバー ISBN978-4-334-92748-6

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2012年8月12日 (日)

「桐島、部活やめるってよ」 それでも俺たちはこの世界で生きていかなければならないのだから

高校生くらいになると、幼い時のように無邪気に夢を見ることはできなくなってきます。
自分の能力(頭の良さ、運動力、性格その他もろもろ)というものを客観的にみることができるようになり、自分ができること、できないこということがわかってきてしまいます。
また自分と他の人間は決して同じ能力を持っているわけではなく、自分よりも優れている者がいるということにも気づきます。
いくら一所懸命やっても、いくら頑張っても敵わないことがある。
自分がどれだけできるのか、どれだけできないのか、それの見極めができないのに、自分の進むべき道を決めなくてはいけないというリミットは刻々と迫ってくる。
そういう無慈悲で理不尽な現実を肌で感じるようになるのが高校時代なのかもしれません。
本作の登場人物は大きく二つのグループにわけることができます。
それほど頑張らなくてもいろいろなことができてしまう生徒たち。
逆に頑張ってもなかなかうまくいかない生徒たち。
なかなかうまくいかない人の中の代表格というのが、神木隆之介さんが演じる前田ですね。
前田は映画部で好きな映画を撮っていますが、自分が撮りたいシナリオは顧問の先生に却下されたり、撮影し始めても撮影場所には運動部やら吹奏楽部やらの人間が入り込んでなかなか撮影をすることができない。
彼らに引け目を感じている前田は強く出ることができないのですね。
前田自身も将来映画監督になるなんて大それた夢を持っているわけではなく、そしてそんな才能がないのを自覚しています。
けれど、高校生である今、仲間たちといっしょに作品を作りたいと思っているのです。
なかなかうまくいかない生徒のひとりが吹奏楽部部長の沢島です。
彼女は吹奏楽部の部長だし、楽器も上手で、真面目そうで、ルックスもかわいい女の子です。
こう書くと沢島はできてしまう生徒たちのようですが、彼女は恋愛についてはうまくいかない生徒なのですね。
根っからの真面目な性格からか、憧れの男子生徒の菊池に対しては、ずっと遠くから見ているだけ。
菊池には彼女がすでにいることも沢島は知っているわけですね。
その彼女、沙奈は帰宅部でチャラチャラしたタイプの女の子です。
沢島からすれば、こんなに頑張っている自分に菊池が振り返ってくれないことがもどかしいし、沙奈に対して嫉妬もあったでしょう。
そしてそんな気持ちで吹奏楽部を引っ張っていけるのかという責任感でも苦しむわけです。
こんなに頑張っているのに、なんで・・・と。
またバレーボール部の風助、バトミントン部の実香も同じように頑張っても報われないもどかしさを感じているのです。
頑張らなくてもできてしまう生徒たちでは、帰宅部で大人っぽい魅力を持った梨紗がいます。
梨紗はタイトルに出ている桐島(彼はおそらくこの学校でなんでもできる生徒でNo1)の彼女という地位を持っています。
彼女からすると、部活で頑張っている生徒たちはちょっとカッコわるい存在に見えるのかもしれません。
けれど彼女も桐島の行動で、自分が顧みられないことにイライラを隠しきれません。
彼女がもしかすると思い通りにできなかった初めての経験をしているのかもしれません。
そして桐島の友人である菊池です。
彼も頭も良く、そして野球でもバスケでもなんでも簡単にできてしまうスポーツマンです。
当然のことながら、女子生徒からもモテるわけですね。
そういう恵まれた能力があり何でもできるからか、彼はなにかに熱中することができません。
できるからこそ一所懸命になるっていうことがわからないのかもしれません。
所属している野球部にも顔を出していない様子です。
彼自身も熱中できない自分というのを自覚してはいるようです。
ただ彼は、先輩の野球部のキャプテンが一人で叶わない夢のために黙々と素振りをしている様子を観た時や、また前田が映画に対する想いを熱く語るときに、何か心を揺り動かされることもあるようでした。
そして彼も親友だと思っていた桐島の行動に戸惑い、イライラとしてしまうのです。
彼も思い通りにならないということを経験したのです。
登場人物の中でひとり、この2つのグループに入っていないのが、バトミントン部のかすみでしょう。
彼女は能力的にはできる人ではあるとは思いますが、高校生にしては珍しくバランス感覚がよい子だと思います。
ある意味大人であり、ある意味冷めている、感じがする子だなと思いました。

結局、高校時代というものは、自分の能力も含め、さまざまな現実が目の前に突き付けられるという時代なのかもしれません。
その現実は、自分の力ではままならぬものであるということを自覚するのです。
じゃそういうままならぬものに対して、諦めてしまうのがよいかというとそうでもないわけですね。
上では上げませんでしたが帰宅部の男子生徒などは、頑張りすぎずある意味フワフワとしているわけですが、それ自体にちょっと不安を感じているようでもあります。
頑張ったからといって、必ずいい結果がついてくるわけではありません、
頑張ってもままならぬことのほうが多いくらい。
でもありきたりですが、その結果よりも、その過程の中に何か得るものがあるような気がします。
前田が強行した撮影の中で、見つけたとびきりのカットのように。
だからこそ頑張ってみる、あがいてみる。

「それでも俺たちはこの世界で生きていかなければならないのだから」

タイトルに出るだけで劇中に姿を現さない桐島。
彼は登場人物の話を総合すると、なんでもできて女子からも男子からも憧れられるほどの、スーパーな生徒のようです。
彼がとった行動は周囲からすれば、驚き以外の何ものでもないわけです。
けれどたぶん桐島本人からすれば、彼にしかわからない現実のままならぬことがあったのではないかと思います。
彼もそのままならぬものに対して、何か行動を起こさなければいけないと思ったのではないかなと感じました。

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本 「プリンセス・トヨトミ」

映画化もされた万城目学さんの「プリンセス・トヨトミ」を読みました。
小説と映画が大きく異なるのは、大阪に乗り込む会計検査院の鳥居とゲーンズブールの性別が逆になっているということですね。
映画では鳥居が女性(綾瀬はるかさん)で、ゲーンズブール(岡田将生さん)が男性。
小説では鳥居が男性、ゲーンズブールが男性になっています。
この性別チェンジは大きな意味がありますね。
映画は、大阪国に大きく関わる真田親子、そして会計検査院の松平について、父親と息子の関係にスポットが大きくあたっていました。
それに映画版ではゲーンズブールがなぜ事件に関わるのかが男性であるからこそ意味があるようになっています。
映画については、父親と息子というところにかなりフォーカスがあたっていたように思います。
こちら小説については、万城目学さんの他の作品と同様、ありえない設定を元にしたなじみがあるのだけど何か不思議な大阪が、様々なキャラクターを通して描かれます。
ここでは鳥居が万城目さんの作品にいつもいるような狂言回しのような役回りを与えられています。
こういう結果的にかき回してしまうキャラクターというのは、万城目さんの作品にはよく登場しますよね。映画では大阪国が立ち上がったとき、その参加者についてはほぼ触れられなかったと思いますが、小説ではそのあたりは丁寧に触れられています。
こういうことができるのは小説ならでは。
映画はこういうところは思い切って省いているため、逆にさきほど振れた真田親子や松平の父親・息子の関係にしっかりとフォーカスされているように感じました。
このあたり映画ではある程度テーマを明確にしてシャープにしようとする意図が伺われ、それは成功しているように思います。

映画「プリンセス トヨトミ」の記事はこちら→

「プリンセス・トヨトミ」万城目学著 文藝春秋 文庫 ISBN978-4-16-778802-5

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2012年8月11日 (土)

「ローマ法王の休日」 法王の結論

ローマ法王が亡くなった後に、次の法王を枢機卿たちが選ぶ会議のことを「コンクラーベ」というのを知っている方も多いでしょう。
ダン・ブラウン原作のトム・ハンクス主演の「天使と悪魔」でも題材になっていましたよね。
「コンクラーベ」は枢機卿の2/3の票がとれないと法王として選出されないという仕組みのため、数日間に及ぶこともあるそうです。
まさに「根比べ」ですね。
さて本作はその「コンクラーベ」で次期法王候補としては名前が通っていなかったメルヴィルが選ばれてしまったことから始まります。
メルヴィルは謙虚で真面目で、ガツガツした上昇志向などはない人物です。
この「コンクラーベ」の場面で驚いたのは、次期法王として下馬評が高かった他の枢機卿を含め、皆が法王に選ばれたくないと思っているという描写があったことです。
普通映画等では登場人物は上昇志向があり、まさに権力欲と言われるように、それが物語のドライブ力になっていることが多いです。
上昇志向は「他人を蹴落としてでも」といったマイナス面で描かれることも多いですが、「アメリカンドリーム」的な健全な上昇志向というのは基本的にみなポジティブな印象をうけるでしょう。
ですので、上昇志向というものは「あって当たり前」なものとして映画、そして現実世界でも思われていることが多いかもしれません。
しかし、ほんとに皆が上昇志向というものを持っているのでしょうか。
本作の「コンクラーベ」に挑む枢機卿たちはみなそういった上昇志向はありません。
というより法王職というものが、非常に責任が重く、とても背負いきれないものであると思っているのかもしれません。
確かに法王という職は、一度なってしまったら終身ですし、その発言はキリスト教界だけではなく、他宗教、そして政治等にも影響を与えてしまうものです。
その職についた人が背負う責任というのは計り知れないものです。
それが「死ぬまで」続くのです。
どこかの国の総理大臣のように途中で放り出すこともできないわけですね。
その重圧たるや・・・。
どちらかというと職種というよりは、天皇や王といったような「機関」としての機能を持っているのかもしれません。
天皇や王は生まれた頃からそうなるように教育されていますからそういった職(?)につく覚悟があるかと思いますし、また大統領や総理大臣といった職も自らの意志で立候補するわけですからやはり覚悟はあるわけです。
しかし本作の法王については、クラスの学級委員長のようにみなで押し付けあうような感じで、責任ある職を任じられてしまうわけです。
結果的に法王職は押し付けられるような形で、自分でも向いていないと思っているメルヴィルに渡ってきてしまいました。
しかし真面目なメルヴィルは選ばれたからこそ、それを受けなければいけないと初めは思いますが、信者の前でスピーチをする直前になると、自分にはできないと言って逃げ出してしまいます。
メルヴィルを診断する精神科医はかれにうつ病の症状があると言います。
これはすごくわかるのです。
出世競争と良くいわれるのは、皆が上昇志向があるというのが前提です。
でもほんとにみんなが上昇志向を持っているのでしょうか。
個人的には社長になりたいとか、偉くなりたいというのは、あまり持っていないのですよね。
どちらかというと自分の力が発揮できて、やりがいのある仕事をしたいと思うほうです。
この気持ちは偉くなりたいとかいう気持ちとは違うのですよね。
でも、以前自分の畑とまったく違う仕事をすることがありました。
別段自分から望んだわけでもなかったのですが、組織としてもそういう経験をして力をつけてほしいということを言われ、期待してくれるのならば応えなければいけないと思ったのですね。
けれどやはりやってみると自分のやりたいこととなにか違う。
でも受けたからにはやらなければいけない、でもなかなか周囲の期待に応えられない。
そういう悶々とした状態を続ける中でやはりメルヴィルと同じような状態になりました。
逃げ出している状態のとき、やはり考えたのは自分がほんとにやりたいことは何なのか、どうありたいのか、そしてどのようにすれば自分の力を最大限に発揮し会社に貢献できるのかといったことでした。
そのときに悩んだ末に自分なりのあり方というものは今では持つようになりました。
自分が持っているスキルを最大限に活かし、他の人では代われないほどにその能力を高めていくということ。
そうすることによって自分がやりたいことと周囲の期待をうまく摺り合わせるということができるようになったかなと思います。
だから、本作で最後にメルヴィルが出した彼の結論は、個人的には非常に共感性が高いものでした。
責任感だけで仕事をし続けることにはやはり無理があります。
個人の努力だけでは越えられないものがあるのです(越えられる人もいるかもしれませんが)。
責任感に加え、自分自身が活かせるような仕事でないとそれは長続きできないのです。
アメリカ映画を見慣れた方からすると、アメリカ的なハッピーエンドではないことに違和感を感じるものかもしれません。
けれど意外とこういった結論をだしたメルヴィルの勇気(あれは勇気だと思う)に頷く人も多いのではないかなと思ったりもします。

別の畑の仕事を経験したことは、結果的には今の自分のスキル・仕事に活かされていて、そのときは辛かったのですが、そういうことを進めてくれた上司と会社には今では感謝しています。

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「トータル・リコール(2012)」 SF設定の使い方が絶妙

アーノルド・シュワルツェネッガー主演、ポール・ヴァーホーベン監督のオリジナルの「トータル・リコール」が公開されたのは1990年。
今から22年前って、つい最近のような気がしましたが、そんなに経っているんですね。
原作はフィリップ・K・ディックの「模造記憶」の中の「追憶売ります」という短編です。
ヴァーホーベン版は、彼らしいヴァイオレントな描写もあるアクションSFとして仕上がっていますが、彼の他の作品によって好き嫌いがわかれるかなとは思います。
僕はヴァーフォーベンは個人的にはそれほど嫌いではないのですが、前半と後半の構成がいまいちでなんとなくまとまりがないという印象がありました。
ジェリー・ゴールドスミスのテーマ音楽は好きなんですけれどね!
本作はヴァーホーベン版と大きく設定が異なるところがありますが、大きな骨子は共通しています。
共通しているのは一般市民として暮らしている主人公が、リコール社の記憶書き込みサービスを利用したところ、自分が思っている自分と生活が実はほんとうではないということを疑い始めるというところですね。
これは「トータル・リコール」に限らず、フィリップ・K・ディックの作品に共通しているテーマではあるのですが、自分自身が存在するということへの疑念、自分の周りにある世界そのものに対する非現実感というものが根底に流れています。
ただ本作はそのあたりのテーマにぐっと入り込んでいく「スキャナー・ダークリー」とは違い、SF設定の一つの要素として扱っていると思います。

本作はそれほど期待をして観に行ったわけではないのですが、思いのほかおもしろく、大きな拾い物だと思いました。
まず感心したのは本作の舞台についてのSF的な設定アイデアのおもしろさです。
僕は今までも何回か書いていますが、いいSF映画というのは、
1.SF設定にユニークさ・新しさのあるアイデアがあるということ
2.そのアイデアがどんなに突拍子がなくてもそれを前提とした社会が映画の中で構築されているということ
だと思っています。
1を満たす映画はいくつもあるのですが、2をできている作品は以外と少ない。
本作については新しいSFのアイデアが作品内の世界設定、そしてまた本作はアクション映画としてその設定がアクションにまで活かされているというところがよくできていると思ったところです。
ヴァーホーベン版は原作と同じように火星を舞台にしているのですが、本作では火星はまったく関係しません。
本作の設定では、世界的な化学戦争により地球のほとんどの場所が人が住めない状態になってしまいます。
人が住めるのは旧イギリスを中心としたブリテン連邦、そして旧オーストラリアを中心としたコロニーの2カ所になっています。
ブリテン連邦が支配者階級で、コロニーが被支配者階級となっていますが、これはヴァーホーベン版の地球と火星の関係と同様のものと考えていいでしょう。
この作品で冴えているのが、「フォール」という移動機械の設定です。
コロニーの住民は毎日、地球の裏側にあるブリテン連邦へ「通勤」して労働力を提供しているのです。
その移動手段が「フォール」。
これは地殻から地球の核近くを通り、そして反対側の地殻に到達する乗り物になります。
ようは地球の裏側まで通る穴を掘り、そこから地球の中心部に向かって「落下」し、核近辺をすぎたらその勢いで進み、逆の引力でブレーキがかかり丁度裏側の地表に出たところでストップすると乗り物です。
基本的にはただ落ちるだけなので、エコなのでしょうかね?
現実的に考えると摩擦やら空気抵抗やらで、ある程度の推進力がないと裏側までは到達しないような気もしますが、ま、そのあたりは映画だからということで。
この乗り物、地球の中心部を通るので、ちょうど中間で重力の方向が逆転するという設定になっています。
またコア近辺では無重力状態にもなります。
このあたりの重力反転、無重力状態になるという設定は後半でのアクションシーンにうまくとりいれられていて、このあたりは見応えのあるシーンになっていると思います。
またSFの設定が、映画の世界観、社会の描写にしっかりと反映されているなと思ったのが街の風景ですね。
この作品では人類の住める場所が極端に狭くなっているということがあります。
だからこそ連邦側のコロニーへの侵略という話に繋がっていくわけですが、街の風景にもこれは現れています。
連邦側にせよ、コロニー側にせよ、その街の風景は非常に高密度となっています。
ビルはニョキニョキと天高くそびえ、移動手段についても平面方向だけではなく、垂直方向への移動も多く使われます。
例えば、中盤に登場するホバーカーですが、これは通常の高速道路のような水平方向だけでなく、垂直方向への移動もあります。
また路線変更はインターチェンジのようにスペースを使う方法ではなく、90度移動などでスペースを節約します。
また道路については磁気の力でホバーカーを道路の裏側にも貼付けることにより、これもまたスペースを節約しています。
またこれもまた中盤に出てくる水平方向・垂直方向へ移動する3次元エレベーターの設定です。
これもスペースを無駄に使わない移動手段ということになるでしょう。
このように住む場所がないということで街の構造自体がなるべく無駄のないように設計されいるということが、ビジュアル的にも一目瞭然となっているのです。
この作品が優れているのは、SF設定を世界観としてビジュアルに反映しているというだけではなく、さらにはそれをアクション映画としてアクションシーンにうまくとりいれているということでしょう。
ホバーカーのチェイスシーンにしても、立体駆動であることをうまく取り入れた描写(道路の裏面走行→磁力オフによる落下などの3次元的なチェイス)になっています。
3次元エレベーターにしても、主人公とその追っ手のおいかけっこはその設定をフルにいかしたものでした。
前半のコロニーで自宅から主人公が脱出するシークエンスも街の立体感というものがうまく活かされていましたよね。
ということで、本作はユニークなSF設定のアイデア、それを活かした社会描写の巧みさ、そしてそれをうまく使ったアクションシーンということで、非常にうまく全体がまとめあげられているように思いました。
これぞSFアクション映画という感じになっています。
監督は「アンダーワールド」のレン・ワイズマンなので、アクションシーンもスピーディで見応えがあります。
妻であるケイト・ベッキンセールも主人公の敵役で出ていますが、「アンダーワールド」でならしたアクションをさらにパワーアップさせてみせてくれます。
あんな妻だったら怖いけど・・・(笑)。
あと、本作は過去のフィリップ・K・ディック原作作品へのオマージュもいくつかありますね。
コロニーの街並はやはり「ブレードランナー」のロスの雰囲気がありますし、コンピューター端末やホバーカーあたりは「マイノリティ・リポート」に通じるものを感じます。
また当然ヴァーホーベン版へのオマージュもありました。
主人公が連邦側への通関をする場面ですね。
ヴァーホーベン版はシュワルツェネッガーが、黄色い服を着た大きなオバちゃんに化けていたのがバレるというシーンがありました(印象的だったので覚えている方も多いはず)。
本作も同じようなシーンがあり、そこでは別の方法で主人公は通り抜けようとするのですが、主人公の前に並んでいるのはヴァーホーベン版に出ていたような黄色い服をきた大きなオバちゃんでした。
このあたりは遊び心でしょう。
ここで主人公が使った方法はまた後々話に絡んできたりしていて、このあたりに使い方も気が利いているなという感じがしました。
全体的にテンポもよく、構成もよく、期待していなかった割に、よい拾い物をしたなという満足感がある作品でした。

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2012年8月 5日 (日)

本 「さよならドビュッシー」

先日読んだ中山七里さんの「連続殺人鬼カエル男」があまりにおもしろかったので、同じ作者の「さよならドビュッシー」を読んでみました。
「さよならドビュッシー」と「連続殺人鬼カエル男(応募時は別のタイトル)」は同じ時期に「このミス」大賞に応募して、最終選考までこの2作品が残っていたということなのですね。
同じ賞で、同一作者の作品が2つ選考まで残るのは極めて珍しいとのことです。
一読した感じではこの2作品の作風はけっこう違います。
両作品ともにミステリーですが、本作は青春ものの要素を持っていて、「カエル男」の方はどちらかと言えばもっとダークで陰惨な要素を持っています。
一般的にどなたでも読みやすいのは本作のほうかもしれないですね。
一読しただけではけっこう違う作品ではありますが、同一作者ならではの共通点もあります。
まずはわかりやすいところで言えば、ラストのどんでん返しがものすごいこと。
それもどんでん返しが1回だけでなくて、2回と続く。
このどんでん返しの具合がキレ味が素晴らしい。
まるで柔道で一本が入ったかのようなキレ味です。
このあたりのどんでん返しのキレ味鋭さが共通しているところだと思います。
本作は1回目の「○○○○○(ある作品の名前、これを言ったらネタバレになるので伏せ字)」みたいだなーと思いましたが、さらにどんでん返しが続くので、驚くばかりでした。
あと共通している点をもう一つ。
それは世間についての考え方ですね。
本作では主人公は重度のやけどを負ってしまった女子高校生です。
彼女は全身を包帯でグルグル巻きにされ、世間一般的に見れば障碍者です。
彼女は、世間というのは自分と違うもの、理解できないものに対して、無視するか、攻撃するかという反応をとるということを知ります。
この世間の異質な者への攻撃性といったものは「連続殺人鬼カエル男」でも端々に見えることでした。
「さよならドビュッシー」と「連続殺人鬼カエル男」は作風は違いますが、そういった作者の共通性が感じられました。
処女作というのものには作者のその後のスタイルの基盤となるものがあるとよく言われます。
今後も中山七里さんの作品を読んで、そういったスタイルがあるのか見ていきたいと思います。

中山七里さん作品「連続殺人鬼カエル男」の記事はこちら→

「さよならドビュッシー」中山七里著 宝島社 文庫 ISBN978-4-7966-7992-3

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2012年8月 4日 (土)

「特命戦隊ゴーバスターズ THE MOVIE 東京エネタワーを守れ!」 まだまだ発展途上

現在36作品めのスーパー戦隊シリーズとして放映されている「特命戦隊ゴーバスターズ」の劇場版です。
昨年の「海賊戦隊ゴーカイジャー」は35作品目の記念作品としてかなりド派手なこととなっていましたが、「ゴーバスターズ」は新しい戦隊像を模索する意欲的な作品となっています。
名前からして久しぶりに「ジャー」が入っていない作品ですしね。
大きく今までと違うのは、怪人戦→怪人が倒され巨大メカ戦へという戦隊もののフォーマットを大きく変更しているところですね。
このあたりは大きなチャレンジを感じます。
正直、テレビシリーズではうまくいっている回とうまくいっていない回があるように思いますが、回を続ける中で、次第に新しいスタイルを築いてくると期待したいところです。
まだがっちりとスタイルができていない中での劇場版で、かつ戦隊は尺がかなり短いということもあり、本作は「ゴーバスターズ」としての新しいスタイルでの戦隊劇場版という感じはあまりなかったですね。
まだまだ発展途上という感じでしょうか。
どちらかといったらテレビシリーズの一エピソードという感じでした。
「ゴーカイジャー」がかなり派手な感じもありましたので、ちょっと地味な印象にはなってしまいましたね。
「ゴーバスターズ」が今までと大きく変わっているところでいうと、ひとつはアクション監督が変わっているというところがあります。
本作から、それまで戦隊のスーツアクターとして活躍されていた福沢博文さんがアクション監督をやっています。
作品が要求しているところだと思いますが、アクションについては今までの戦隊もの、そして仮面ライダーシリーズとは一味違う感じがします。
なんというか「ジェイソン・ボーン」っぽいんですよね。
「ボーン・アイデンティティ」で新しいアクションスタイルが出てきたように、今までの日本の特撮のアクションスタイルとはちょっと違う感じがいいなと。
ほんとは劇場版でももっとそのあたりが堪能できるとよかったんですけどね。
ゴーバスターズを演じている三人も、素面でもけっこう動ける感じがするので、そういうシーンがあったら嬉しかったかなと。
あと、あえて東京タワーっていうのは、ちょっとポイント。
みんなが「スカイツリー」って言っている中で、あえて「東京タワー」。
あえてノッポン(笑)。
あえて外してくるところがなんかよかったです。

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「仮面ライダーフォーゼ THE MOVIE みんなで宇宙キターッ!」 継続してこその友情

テレビシリーズの最終回までおよそ一ヶ月となった「仮面ライダーフォーゼ」の劇場版です。
監督は「フォーゼ」のメイン監督であり、生みの親の一人とも言える坂本浩一監督です。
坂本監督は最近の「仮面ライダー」の映画でも「仮面ライダーW FOREVER AtoZ/運命のガイアメモリ」、「仮面ライダー×仮面ライダー フォーゼ&オーズ MOVIE大戦 MEGA MAX」など傑作を作っている方なので、期待度高まります。
坂本監督の作品はかなり情報量が多いのですが、それを見せきってしまうパワーがあるのですよね。
テレビシリーズのほうがクライマックスに向けて物語が大きく動いていく中ですので、この時期の劇場版はなかなか難しい。
どうしても本筋とは異なるサイドストーリー的な話にならざるを得ないので、いかに盛り上げられるかが腕の見せ所となります。
その点「仮面ライダーW FOREVER AtoZ/運命のガイアメモリ」は成功していましたよね。
逆に昨年の「仮面ライダーオーズ WONDERFUL/将軍と21のコアメダル」はサイドストーリー過ぎてうまくいっていなかったように思います。
このうまくいった、いかなかったのポイントは、やはり作品そのものが持つテーマみたいなものを劇場版にも上手く持っていけたかということではないかと思います。
「W」の場合はキーワードとして「相棒」があげられると思いますが、このあたりをしっかりと出しつつ、劇場版としてのスペシャル感が出せていたかなと。
「オーズ」についてはスペシャル感、お祭り感はありましたが、「オーズ」の持つ作品テーマのようなものは劇場版は弱く、サイドストーリー以上のものにはならなかったように感じました。
今回の劇場版の「フォーゼ」については、劇場版としてのスペシャル感をしっかり出していました。
フォーゼの40個のアストロスイッチを使用しての、連続モジュールチェンジを見せきるというのは、それだけでスクリーンに釘付けになりました。
スイッチの連続使用があるというのは、雑誌の記事で知っていましたが、パラシュートスイッチとかメディカルスイッチは戦闘中は使いづらいだろうと思っていました。
うまくアクションの流れに織り込んでいきましたよね。
これができるのはアクションも監督することができる坂本監督ならではと思います。

仮面ライダーの面々がみんなで宇宙に行くという話は、やや強引感がある感じもしました。
「ロボットと友達になる」てのはさすがに強引だろうと。
あまりこのあたりを強く出し過ぎると、テレビシリーズで弦太朗がやっていること(学園のみんなと友達となる)が嘘くさく見えてしまうような気がしたのです。
学園のみんなと友達になるというのは、それだけで荒唐無稽な感じがあるのですが、それをやれそうだと思わせる力が弦太朗というキャラクターにはあり、それにより嘘くささみたいなものを払拭しているように思えるのですよね。
でも「オーズ」のようにお祭り感で終わらせずに最後には「友情」「絆」といった「フォーゼ」という作品が持っているテーマをしっかりと出したところで、テレビシリーズとの地続き感を出し、さらには感動もさえてくれました。
やはりジンときたのは、弦太朗を助けるために今まで彼が関わった人々が、彼のためにそれぞれが力を貸そうとするところ(40個のスイッチを押すシーン)です。
このシーンは「運命のガイアメモリ」で風都の人々の思いがWに力を与え、ゴールドエクストリームという最強フォームにさせた場面を思い起こさせます。
弦太朗が今までおせっかいとも言えるほどに友情を結んできたことにより、何人もの人が救われました。
弦太朗に救われた人々が、逆に彼を救う。
友情というのは互いに困難な時に力を貸せるような間柄になるということ。
そういった「フォーゼ」のテーマが本作にも強く現れていたと思います。
僕は以前「フォーゼ」が放映され始めた一ヶ月後くらいに、怪人として登場した生徒たちもその後も登場してくるだろうという記事を書きました。
「フォーゼ」という作品は「友情」をテーマにしています。
「友情」はそのときだけで終わるものではありません。
その場限りの「友情」はほんとの「友情」ではありません。
継続してこその「友情」。
だから本作においてテレビシリーズで関わった登場人物が登場し、弦太朗のためにスイッチを押すということはとても重要なことなのですね。
逆にこれがなかったらこの作品はただのお祭り映画で終わってしまっていたかもしれません。

とはいえ「仮面ライダー」の映画というのはお祭り的なところも楽しみの一つ。
以下では散文的にお祭り的に楽しかったことを書きます。
まずは「宇宙鉄人キョーダイン」ですね。
以前、「フォーゼ」が発表されたときにまるで「キョーダイン」のスカイゼルのようだと書いたのですが、まさにそのスカイゼル(本作ではスカイダイン)が登場するというのは、感慨深いですね。
オリジナルのようにスカイジェットと、グランカーになってくれるし。
このあたりはオールドファンへのサービスですよね。
オールドファンに向けたサービスと言えば、やはり「大鉄人17」でしょうか。
これまたこの前、「XVⅡ」は「17」のことではないかという記事を書きましたが、これは予感的中でした。
まさか劇中で「ブレイン」まで出てくるとは思いませんでしたが・・・。
仮面ライダー部の面々もアクションでも活躍。
美羽先輩のタンクトップ姿は「エイリアン」のリプリーみたいでしたよね(坂本監督なら意識しているはず!)。
隼も死亡フラグをたてつつもカッコよくやっていましたので、美羽と再びいい感じになれるのではないかと。
このあたりのちょっとした恋愛っぽい感情があるのは学園ものの要素を持つ「フォーゼ」ならではですよね。
恋愛的要素と言えば、流星と友子は、もう仮面ライダー部のみんなの公認の仲って感じなのですかね?
友子がさりげなくいつも流星のとなりにポジショニングしているんですよね。
このあたりの乙女っぽいところがある友子はけっこうかわいい。
賢吾もけっこうアクションしてましたが、体は大丈夫かと余計な心配をしたりもしました。

あと最後に恒例で登場した新ライダー「仮面ライダーウィザード」。
デザインを見たときは、けっこうシンプルだなと思いましたが、動いている姿を見るとけっこうカッコいい。
コートのような裾を払う仕草とか、ケレン味のある感じが、フォーゼとは違う感じがこれはこれでありかなと(「キバ」に通じるところもありますが)。
これはまた放送開始を期待しましょう。

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「The Lady アウンサンスーチー ひき裂かれた愛」 強い意志と深い愛

ビルマ(現ミャンマー)の民主化運動の象徴として、軍事政権から迫害を受けながらも、活動してきたアウンサンスーチー女史。
長い間自宅軟禁状態になっていましたが、2010年に開放、そして昨年彼女が率いるNLDが総選挙で勝ち、ミャンマーは一歩民主化に歩みを進めました。
アウンサンスーチーの名前は幾度も日本でも報道をされたため、ビルマの民主化活動家として僕も知っていましたが、知っていることは上記したようなことまでで、実際彼女の人となりについてはよくは知りませんでした。
恥ずかしながら、彼女がビルマで活動する前に、イギリス人と結婚し、イギリスで子供をもうけたということはこの映画で初めて知りました。
ずっとビルマで育ち暮らしてきた人だと思っていたのです。
アウンサンスーチーはビルマで民主化活動を始めましたが、父親で暗殺されたアウンサン将軍の娘であるということから当局に目を付けられ、その行動を監視されます。
アウンサン将軍は暗殺されたために、かえって民衆にとっては民主化の象徴となってしまったという反省から、軍事政権当局は彼女に対して強硬手段はとりません。
その代わりに自宅軟禁状態にしたり、イギリスにいる夫や子供との交流を妨げ、彼女の意志を挫こうとするわけです。
こういう事実を知ると、本作のサブタイトルである「ひき裂かれた愛」というのは的を射ているなと思います。
アウンサンスーチー女史は、イギリスに残した夫と子供を思い、いっしょに暮らしたいと思いつつも、ビルマ民衆の期待と彼女自身が感じる強い義務感を持ちビルマで活動を続けます。
そして夫のマイケルも彼女のそのような真摯な気持ちを理解し、離れて暮らす辛さを感じつつも、遠い地から彼女をサポートし続けるのです。
夫婦としてお互いに愛し合っていながらも、ビルマの民衆のために別々の場所で戦っているアウンサンスーチーとマイケル。
別の場所に引き裂かれていながらも、二人の気持ちは深く繋がっている。
そのような二人の気持ちの深さ、そしてビルマ民衆へ真摯に向き合う気持ちに素直にうたれました。
アウンサンスーチーという女性が、ここまで厳しい人生を歩んできたことを今まで知らなかったのですが、そういう状況の中でも、強い意志を貫き通した彼女の姿が神々しくも思えました。

そんなアウンサンスーチーを本作で演じたのはミシェル・ヨー。
シーンによっては本人じゃないかと思えるほどに、ミシェル・ヨーはアウンサンスーチーを見事に演じきったと思います。
特にハンスト後のやつれた面持ちは、今までも報道で何度か観たことのあるアウンサンスーチーに似ていて驚きました。
ミシェル・ヨーは元々は「007」にも出演したことのある香港のアクション女優ですが、本作では線の細い印象のアウンサンスーチーになりきっていたと思います。
ご本人も10年以上に渡る軟禁状態を経ても民主化への思いを持ち続けた人ですので、強い意志力をもっている方だと思うのですが、そんな強さが演じるミシェル・ヨーからも伝わってきました。
彼女は瞳の力が強いのですよね。
それがアウンサンスーチーの意志の力を表現しているように思いました。

アウンサンスーチーは自宅軟禁状態から開放され、ビルマも民主化へ歩み始めています。
でも彼女を支えていた夫のマイケルはそれを見届けることなく、ガンで世を去ってしまいました。
愛する夫を側で看取ることのできなかった彼女は、どれだけ無念であったでしょう。
でもそれで挫けることなく、彼女は強い意志を持ち続けました。
「ここで(イギリスに)帰ったら、マイケルと私の戦いが無駄になる」
と彼女は言いました。
民主化への活動を続ける強い意志の背景には、夫への深い愛もあったわけなのですね。
彼女の願いが叶い、ビルマがより人々が幸せに暮らせる国になってくれるように祈りたいと思います。

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