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2012年7月29日 (日)

「おおかみこどもの雨と雪」 子育ての喜びと寂しさと誇りと

「時をかける少女」「サマーウォーズ」の細田守監督の最新作です。
細田監督の「時をかける少女」は当初ミニシアターでかかっていましたが、その評価が口コミで伝わり半年に及ぶロングランとなりました。
続く「サマーウォーズ」も評価が高い作品ですよね。
SFやファンタジー的要素を持っているからか(または「ハウルの動く城」を当初監督することになっていたからか)、ポスト宮崎駿と言われることが多いですが、作風はかなり違いますよね。
宮崎駿監督はSFやファンタジー要素を用いながら、社会の課題や時代性といったものを描きますが、細田監督は同じような要素を使いながらも、あくまで誰しもが共感ができる日常を描きます。
「時をかける少女」では青春を、「サマーウォーズ」では家族を。
本作「おおかみこどもの雨と雪」では子育てを描きます。
「サマーウォーズ」は、監督ご自身が結婚をしたとき、奥様の実家にご挨拶に行ったとき大家族で、そこでの体験がきっかけになっていると何かで読みました。
本作も監督周囲で子育てをしている方を見て、発想したということです。
青春、家族、子育て、それはとてもありふれたものではあるのですが、それをファンタジー的要素を通して描くことにより、よりそれらを純粋に描くというのが細田流かなと思いました。

主人公、花は大学生のときに、運命の相手ともいうべき男性と巡り会います。
しかし彼は狼男であったのです。
それを知っても花は彼を愛し、やがて彼との間に二人の子供、雪と雨をもうけます。
しかし雨が生まれてすぐに彼は亡くなってしまいました。
花は女手ひとつで二人の子供を育てることになってしまったのです。
今の世は一世帯あたりの子供の人数も少なくなっているからか、とても教育に手をかけられているようです。
習い事、お受験・・・、子供自体がやりたいというわけではなく、親の都合や思いで手をかけられて育てられているようにも思います。
逆に虐待やネグレクトなど、手をかけない親の問題もあります。
そういうことに対し、花の子供たち育て方というのはとてもシンプル。
花は子供たちがすくすくとまっすぐに元気よく育つのを喜びを感じます。
親の都合がどうのというのではなく、あくまでも子供たちが自分のやりたいように生きていく手助けをしてあげるという育て方なのですね。
とてもシンプルな考えなのですが、実際にやるのはそうとうに難しい。
劇中でも花はいろいろと苦労をしますが、持ち前のポジティブさがそういった苦労も彼女にとっては喜びとさせているように見えます。
子育てというのはそもそもは子供の成長を喜ぶというシンプルなものなのかもしれません。
事情を複雑にしているのは、現代の社会なのでしょうか。
そして子育てというのはいつか終わりがあります。
子供たちは成長し、やがて自我を持ち、そして自分のやりたいことを選んでいく。
やがて子供たちが自分で生き方を選択することができるようにしてあげるというのが、もしかすると子育ての本質なのかもしれません。
雪は人間として生きていくことを選択しました。
そして雨は狼として生きていくことを選択しました。
どちらも子供たちの選択で、そしてそれを選ぶ覚悟ができるような心を持てるように花は育て上げることができたのですね。
そして子供たちが生き方を選んだとき、「巣立ち」の時がきます。
子供たちはそれぞれの道を歩むために親の元を旅立っていく。
それは親にとってはとても寂しいことではあるのだけれど、またある種の誇りを感じられる時かもしれません。
雨が花の元を去っていく時、花は「まだ何もしてあげられていない」と言います。
でも彼女は十分に子供たちにしてあげてきていて、それを子供たちは感じていたのだと思います。
本作は娘の雪の語りで進行していきますが、それは彼女(たぶん彼女もやがて母になる)が同じ女性であり母親である花への感謝が感じられるものとなっています。
また雨が花の元を去る時の先のセリフのあと、一度振り向きますが、その時の表情は「十分に育ててもらったよ」という感謝が感じられました。
子育てを実際にやっているかたはなかなかに苦労をされている方も多いかと思います。
けれど子供たちが立派に成長をしてくれたとき、その苦労も飛んでしまうような喜びを感じられるのかもしれないなと思いました。
子育てしてない自分が言うのもなんなのですが。

一番最初に書いたように、細田監督は普通の人が体験する日常的なありふれた出来事をファンタジーの要素でより純粋にその素晴らしさを語ることができる人であるなと改めて思いました。
ありふれた日常なのだけれど、そこにはそれぞれに人にとっての特別な喜びがある。
そういうことを再確認させてくれる作品を作っていますよね。

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「ダークナイト ライジング」 ヒーローはどこにでもいる

クリストファー・ノーランの「ダークナイト」3部作の最終作、「ダークナイト ライジング」がいよいよ公開しました。
ノーランの作品だけあって、いろいろと含蓄がある作品であるので、今回のレビューはちょっととりとめなく散文的になってしまうのはご容赦を。
原題は「THE DARK KNIGHT RISES」ですが、直訳すれば「ダークナイト、立つ」ということでしょう。
この「RISE」にはバットマンが沈黙を破り再び登場するということと、また後ほど触れますが今回の敵役ベインたち最下層の者が蜂起するという意味を持っているのでしょう(予告では「RISES」を革命と訳していましたね)。

前作「ダークナイト」では、ジョーカーの純粋な悪意が印象的でした。
ジョーカーがその行為により何かを得ようという目的意識がないことにより、バットマンは最後まで翻弄されるというところがありました。
ジョーカーを排除できても、その結果バットマンはトゥーフェースことハービー・デントを殺害したという汚名を着せられ、退場を余儀なくされたのです。
前作はヒース・レジャーの鬼気迫る演技もあり、バットマンよりもジョーカーのほうが存在感が出ている感がありましたが、本作は「ダークナイト」シリーズの最終作ということもあり、やはりバットマンの物語となっています。
本作でバットマンの敵役となるのがテロリスト、ベインです。
ベインはいろいろな意味でジョーカーと対称的な敵となっています。
ジョーカーに対してバットマンが思うように戦えなかったのは、彼の攻撃は肉体的というよりは、バットマンのアイデンティティをつく、精神的なものであったからだと言えます。
ベインはその外見からもわかるようにその攻撃は、より肉体的です。
後半の市庁舎前の乱闘でもわかるように、本作は前作よりも肉体性というものが強く出されていると思います。
バットマンというのは鍛えあげられた肉体と技で、無駄のない動きで的確に相手を倒していくというイメージがありますが、本作のベインにはそれは通用しません。
うなり声をあげながら戦うバットマンというのは初めてみたような気がします。
そしてベインはそのマッチョな外見の印象とは異なり、またかなりの頭脳派であり、目的意識を持って動いています。
ベインの目的はゴッサム・シティをある種の無政府状態にしようとすることです。
最下層を生きてきたベインらにとって、富める者が富み、貧しい者は貧しい者であり続けるという状態は、逆に覆さなければならないものであるのでしょう。
ベインについては本作でも地下のイメージが強く出されていますが、これは最下層の出身であることを表しています。
彼はその最下層の者たちを「RISE(蜂起する)」させ、社会を無政府状態にしようとするのです。
実はジョーカーも目的意識はないにせよゴッサム・シティを混乱・混沌に陥れようとしていました。
ベインが無政府状態を目指していることとの共通性が伺えます。
この混沌さは「インセプション」などノーラン作品に共通してみられるものであると言えますね。
バットマンはゴッサム・シティの守護者を任じていますが、彼が守っているものとは何なのでしょうか。
平和という言葉が劇中でも出てきますが、彼が守っているのはゴッサム・シティという街、社会の仕組み・秩序であるのかもしれません。
社会に秩序がある状態というのは少なからずヒエラルキーが存在します。
権力構造としても、貧富にしても上下関係というものは存在してしまう。
ヒエラルキーの上段・中段からすればその秩序は守ることは善ですが、最下層の人々からすれば固定化された秩序は悪に見えるかもしれません。
ブルース・ウェインという人物はそのヒエラルキーの最上段にいる人物ですが、それが社会秩序を守るためにバットマンとして命懸けで奉仕をしているわけです。
けれどその行為は最下層の者からすれば、自分たちを底に固定化しようとする行為に見えるかもしれません。
平和を守るバットマンですが、秩序を守ることによって「すべての」人々を守ることはできないという矛盾を持っています。
それをおそらくブルース・ウェインは感じていて、だからこそ恵まれない者への寄付ということを陰ながら行っているのでしょう。
バットマンという社会秩序を守るために戦うわけですが、そのために弱者を固定化してしまうという矛盾も孕んでいるわけですね。

本作は「ダークナイト」シリーズの最終作ということもあり、ノーランとしてバットマンという存在を総括するという意志が感じられました。
バットマンが他のアメコミヒーローと異なる最大の点があります。
それは彼が己の肉体と精神を鍛え、戦うヒーローであるということです。
クモに噛まれて特殊能力を身につけたわけではありません。
パワードスーツを身につけて戦うわけではありません(バットマンのスーツはパワーを出すのではなく、防御という役割)。
バットマン=ブルース・ウェインは、富豪であることを除けば、普通の人間なわけなのです。
彼をヒーローたらしめているのは、彼の中にある強い意志以外のなにものでもありません。
これは「ダークナイト」シリーズの1作目から強く語られている通りです。
社会のため、平和のためにあそこまで命をかけるという強い意志(やや強迫観念っぽい)が、常人離れをしているのです。
バットマンは鍛え上げられた肉体を持っていますが、それも強い意志があるからこそ成立しているわけですね。
強い意志については、本作でも地下の牢獄からの脱出の場面で描かれています。
しかし、強い意志を持っていはいますが、彼は普通の人間であることは変わりがありません。
逆に言えば普通の人間でも、己の中に強い意志があればバットマンのようにヒーロー足り得るということなのですね。
本作でバットマンが退場するとき「ヒーローはどこにでもいる」とゴードンに言います。
幼い頃に両親を殺されたブルース・ウェインにとって、そのときに出会ったゴードンは紛うことなきヒーローだったのでしょう。
正義を守ろうとする強い気持ち、そして優しさ、それがあれば特別な存在でなくとも誰でもヒーローになれるのです。
そして本作でバットマン=ブルース・ウェインは退場しますが、彼の意志を継ぐように、またゴッサム・シティを守る者も現れるのです。

アン・ハサウェイのキャットウーマンはよかったですね。
色っぽくって。
ゴーグルを上に上げている時に、それが猫耳に見えるってのはナイスなデザインです。
あと、ジョセフ・ゴードン=レヴィット演じる警察官のジョン・ブレイクのほんとの名前が「あれ」だったとは・・・。
なるほどね、これはこれで何か新しい作品が作れたりして。
さりげなくキリアン・マーフィ演じるクレインも登場。
スケアクロウ、しぶとい・・・。

前作「ダークナイト」の記事はこちら→

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2012年7月28日 (土)

本 「マンガの遺伝子」

日本のマンガについての著者の考察を書いた本ではあるのですが、それほど体系だっているわけでもなく、著者が思いついたことについてつらつらと書いている感じです。
こんなマンガもあるよ、あんなマンガもあるよ的な感じもあり、それほど深くもなく、読んでいてなるほどと感心するようなところもあまりありませんでした。
この著者は死ぬほどたくさんの量のマンガを読んでいるのだなぁと思いましたが。
本著の中でマンガについて考察はしていますが、それはマンガの表現の表層を比較し、分類し、時系列に並べているだけな感じもしました。
それはそれで大事なのですが、そこからもっと分析は深く入り込んでほしかった。
作者の思想とか、そのときの時代の流れの影響とか。
どちらかというかマンガ全体を捉えようとしたあまり、作品の分析はそれほど深く入るわけではなく、表面をさらっと撫でただけな印象です。
ですのでマンガ史全体の分析としてももの足りないし、キーとなる作品の分析としてももの足りないというどっちつかずの本になっている気がします。

「マンガの遺伝子」斎藤宣彦著 講談社 新書 ISBN978-4-06-288137-1

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2012年7月22日 (日)

「メリダとおそろしの森」 大人としての勇気

初めて予告を観たとき、「プリンセス」「魔法」「魔女」という要素が強く印象に残りました。
そのときは「ピクサーもディズニーっぽい映画を作るようになったのだなぁ」という、ちょっと残念な気持ちになったのです。
無論ディズニーのプリンセスものが面白くないわけではありません。
最近、ピクサーのクリエイターが関わるようになり、本家ディズニーの最近のプリンセスもの(「プリンセスと魔法のキス」「塔の上のラプンツェル」)も面白く仕上がっていました。
でも、ピクサー作品はピクサーとしての魅力があるので、わざわざティズニーのようにプリンセスものをやらなくても、というのが観る前の気持ちでした。
しかし、本作を観てみると、登場人物としては「プリンセス」が出てきていて、「魔法」や「魔女」も登場しますが、いわゆるプリンセスものではありません。
要素だけみるとおとぎ話的に感じますが、「魔女」も登場しますがいわゆる「悪い魔女」ではありませんし、タブー破りの物語でもなく、どちらかと言えば普遍的な親子の物語といえる作品となっていました。
このあたりは、なるほどピクサーらしさが出ていたかなと思います。

親というものは、自分がそれまで生きてきて経験したことをふまえて、子供を育てていくものです。
それは子供に幸せになってほしいから。
成功体験は同じように味わってほしいし、失敗体験は同じような苦労はさせたくないと思うわけです。
だからこそ「ああしなさい、こうしなさい」「あんなことはしちゃダメ」という言葉が出てくるわけですね。
本作の主人公メリダの母親エリノアも同じです。
でも子供からすると、そういうふうに言われることに反発を感じることも、誰もが10代に経験するで共感しますよね。
メリダもまさにそうで、ああせい、こうせいという母親に反発し、城を出て行ってしまうわけです。
彼女は分け入った森の中で出会った魔女に「自分の運命を変えたい」という願いをしました。
そしてその結果、メリダの母親エリノアがクマに変じてしまったのです。
クマとなってしまったエリノアはもういろんなことをメリダに言うことはできません。
そして二晩経つと、エリノアは本当のクマになってしまい、もう永遠に人には戻れなくなってしまうのです。
それはまさにエリノアという人間がいなくなってしまう、死んでしまうということと同じです。
確かにメリダは定められた運命から自由になれました。
けれどその自尊心のために大切な人を失うということを同時に行ってしまったわけです。
本作の原題は「Brave」です。
「Brave」=「勇気」ですね。
この「勇気」というのは自分の過ちを認め、それを正すために行動するという「勇気」であると思います。
いわばメリダは「若さゆえの過ち」で自分の自由のために、結果的になにかを犠牲にするということをしてしまいました。
けれど過ちは若いうちにはしてしまうもの。
そこから大人に成長できるというのは、その過ちに気づくこと、さらにはそれを正すために動くことができるということであると思うのです。
過ちを認めたくないという気持ちは誰でもあると思いますが、その気持ちを押さえて、正しく動けるのがやはり大人であると思います。
子供というのは、過ちを他人のせいにしたり、環境のせいにしたりしがちです。
過ちを自分に起因するものと認め、それを正す行動ができること、それが「大人としての勇気」なのだと思います。
「勇気」というのは、実はピクサーの作品に多かれ少なかれ共通しているテーマだったりします。
1作目の「カーズ」などは本作と共通点があるように思います(自分中心に物事を考えていたマックィーンとメリダ)。
本作はプレンセスものの要素を使いながら、やはりピクサーらしさを出した作品になっていたかと感じました。

日本語吹き替え版で観たのですが、メリダを演じた大島優子さんはけっこう上手でしたね。
AKBのメンバーはあまり顔と名前が一致しないので、どの方かよくわからないのですが(苦笑)。

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2012年7月16日 (月)

「ラム・ダイアリー」 酔いどれ日記

ジャーナリスト、ハンター・S・トンプソンの原作を、親友であったジョニー・デップが製作・主演で映画化した作品です。
ニューヨークからプエルトリコにやってきたポール・ケンプ(ジョニー・デップ)は地元新聞で記者として働き始めます。
しかし、周りの記者を始めケンプも、日中から酒を呑み、ずっと酩酊状態でグダグダな感じ。
プエルトリコには北米から観光客も多数訪れますが、彼らはホテルから一歩も出ず、ボーリングやカジノ、買いものに明け暮れるように過ごします。
そういった観光客に対し、地元民は貧しい暮らしを余儀なくされ、巷には不穏なエネルギーが蓄積している感じがします。
またプエルトリコで事業を営むサンダーソンや軍の関係者、銀行などは新しいホテルの開発を計画し、そこでは詐欺まがいのことを行われているようです。
ホテルの開発は、地元に益をもたらすわけにしているわけではなく、彼らの欲を満たすために行われています。
そのような中、ケンプはサンダーソンと知り合い、ホテルの開発を記事等の側面射撃で援護するよう依頼されます。
そこでケンプはサンダーソンの愛人、シュノーに出会い、一目惚れをしてしまいます。
予告を観た感じだと、酒浸りのダメダメなジャーナリストが悪徳実業家に一矢報いたり、敵方の愛人との危険な恋みたいなところが、ポイントになる映画かと思いました。
しかし、観てみると、そのあたりは確かに描かれてはいるんですが、カタルシスに至るような感じがあまりありません。
ケンプや仲間の記者が昼間っから呑んでグダグダしているように、映画自体もなんかグダグダ感がありましたね。
ケンプはシュノーとの恋をきっかけに、彼女を救い出そうとしたり、正義に目覚めたりするかと思いきや、けっこう最後の最後まで行動を起こすわけではありません。
最後までいって自分が勤める新聞社の経営者がトンズラこいたときに至って、腰を上げるという感じ。
結局は彼が書いた記事は世に出ることもなく、そのため実業家たちはおそらく別段何か変わることなく、あのままホテルを作ったであろうし、恋愛についても最後のテロップでケンプとシュノーは結ばれた旨は書かれますが、そこにカタルシスがあるわけでもありません。
この最後まで高揚感のない感じなのは、狙ったものなのかどうか・・・。
狙ったものというのであれば、プエルトリコという熱帯の地域で、いくら正義といった熱い思いを持ったとしても、現地の湿気を含んだ重苦しい空気といっしょで、よどんでいて何も変わらないということが伝えたかったのかしらんとも思ったりして。
でもそういうわけではなく、結果的にグダグダになってしまったのだろうなと。
そういう意味で、映画のタイトルとおり、酔いどれ日記な感じの作品だと感じた次第です。

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2012年7月15日 (日)

本 「喪われた道」

内田康夫さんの浅見光彦シリーズの一作になります。
こちらは96年頃に発表されていますが、このあたりから内田さんの作品のタイトルは「○○○○殺人事件」のようなものから変わってきています。
それまでは旅情ミステリーというように言われてきましたが、少し方向性が変わってきたのかもしれません。
地方を舞台にしているということは変わりませんが、その地方の歴史や風土だけでなく、登場する人物の歴史や心情などへの比重が高まってきているようにも思えます。
もちろん、内田さんらしい読みやすさみたいなものはそのままですし、浅見光彦はいつまでも浅見光彦らしい(浅見光彦についてはほぼサザエさん状態になっていると言っていいでしょう)。
本作については「虚無僧」という存在がキーになっていますが、それは予想しない方向に展開していきます。
やはり舞台となった土地と人の因縁に結びついていく展開になりますが、それはやはり内田さんらしいところ。
最後の締めくくりはいつもの浅見光彦らしい感じなのですが、劇中で本人も言っているように彼の臆病さが出てくる締めくくりです。
この締めくくりはやや多用され気味なので、そのあたりはもう少し工夫が欲しいところだなと思いました。

「喪われた道」内田康夫著 角川書店 文庫 ISBN4-04-160750-7

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「ネイビーシールズ」 現役隊員の演技力に驚き

そういえばチャーリー・シーン主演の「ネイビー・シールズ」という作品もありましたよね(もう内容を忘れてしまいましたが)。
ネイビーシールズ(Navy SEALs)というのはアメリカ海軍の特殊部隊のことです。
パキスタンでのビンラディン殺害の作戦を行った部隊ということで、知っている方も多いかもしれません。
映画で登場したのは、冒頭にあげたチャーリー・シーン主演の「ネイビー・シールズ」や、「アビス」「ザ・ロック」などがあります。
そういえば「アビス」も「ザ・ロック」も偶然にもマイケル・ビーンがシールズ隊長をやってますね。
「SEALs」のSEは「SEA(海)」、Aは「AIR(空)」、Lは「LAND(陸)」を意味していて、陸海空とあらゆる状況で特殊作戦を実行できる部隊であるということを表しています。
本作でも、空からパラシュート降下、海から潜水艇での侵入、もちろん陸上での戦闘等をこなしている隊員の姿が描かれます。
特殊部隊というと、映画の中でもけっこう出てきますが、陸軍のグリーンベレーやらデルタフォースやら、海軍のネイビーシールズやら、実際もいろいろあり、このあたりはどのように運用しているんでしょうか。
本作ではネイビーシールズを限りなくリアルに描くことを求めたということで実際の兵器が使われているんだそうです。
特徴的な無人偵察機は最近の映画でもよく登場しますが(「Black&White」で撃ち落とされちゃうやつ)、もっと小さな模型飛行機みたいなものもあるんですね。
あと河から急襲するための高速艇とか、陸上の戦車のように攻撃力がありそうで驚きました(このあたりはさすがは海軍ならでは)。
特殊部隊というと、「ランボー」「コマンドー」のようなマッチョなみたいな感じがしますが、けっこうハイテク機器を使いこなすインテリジェントな感じがしますね(「ランボー」や「コマンドー」はグリーンベレーだけど)。
そしてさらに本物志向が極められていて、本作で登場するシールズ隊員はすべて現役の隊員だそうです。
確かにそれぞれの隊員の動きも無駄がないし、チームとしての動きもすごくスムーズ。
そういうところも驚きましたが、何が驚いたって現役の隊員たちがえらく演技がうまいということ。
下手な役者より上手いんじゃなかろうか。
特に尋問を担当していた隊員は、俳優かと思ってしまいました(彼も現役隊員らしい)。
ぶっちゃけこの作品はシールズの活躍を描く映画なので、あまり深く人物描写を描こうという意志が制作側にあまりありません。
「シールズ、すげー」って思ってもらえればいいという感じでしょうね(広報映画的な要素もあるのかしらん)。
そういう割り切りがあるので、もたもたせずに小気味いい感じがありますね。
で、隊員たちが思いのほか演技ができるので、グダグダにもなっていないし。

こういう映画はミリタリー好きな人しか観ないのだろうと思っていたら、劇場は人は入っていましたね。
実は2週間前に観ようと思って行ったら、満席だったので断念したのでした。
けっこう世にはミリタリー好きな人が多いのかな。

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2012年7月14日 (土)

「フォーゼ」の映画に

夏の「仮面ライダーフォーゼ」の映画「仮面ライダーフォーゼTHE MOVIE みんなで宇宙キターッ!」に「宇宙鉄人キョーダイン」がリファインされて登場するというのは、報道されている通り。
もともとフォーゼのデザインが「キョーダイン」のスカイゼルに似ているなぁと初めて見たときから思っていたので、これはなるほどと納得。
しかし、雑誌記事を見ていて、ふと他にも隠し球があるのではないかと・・・。
夏の映画ではフォーゼと仮面ライダー部の面々が、宇宙鉄人たちとある衛星を巡って戦うということ。
その衛星のデザイン案を見て、あることを思いました。
「あれに似てる・・・」
映画に登場する衛星の名前は「XVⅡ(エックスブイツー)」。
しかーし、これをローマ数字にすると「X」は「10」で、「Ⅶ」は「7」。
つまり10+7で17、「ワンセブン」!
かつて東映が製作した「大鉄人ワンセブン」に登場するロボット、ワンセブンの「要塞形態」にこの衛星のデザインが似ているんですよね。
「宇宙鉄人キョーダイン」「大鉄人ワンセブン」、「鉄人」つながりもあります。
この「XVⅡ(エックスブイツー)」は変形をして、「ロボット形態になり大鉄人になる!」と大胆予想したいと思います。
最近、クロスオーバーをよく試みる東映だけに十分あるのではないかと・・・。

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2012年7月 8日 (日)

「崖っぷちの男」 タイトル買い

予告編と潔い邦題「崖っぷちの男」だけで興味を持ち、観てきました。
本で言ったら「タイトル買い」みたいなものですね。
英語のタイトルが「MAN ON A LEDGE」で、直訳したら「縁(へり)の上の男」なんですが、「崖っぷち」としたところが状況を説明しているだけでなく、男の追い込まれ具合のようなものも表現できていてナイスな邦題です。
「なぜ、ここに・・・?」っていう宣伝コピーも良かったです。

ニューヨークの高層ホテルの上階の窓の外の縁に、男が立っている。
すわ、自殺かと、集まる警察、消防、そして市民の野次馬たち。
その男、ニック・キャシディが、ニューヨークの注目を集める中、その近くで別の計画が進行していた・・・。

<ここから先はネタバレ>

こういうワンアイデアで勝負するような映画は嫌いじゃありません。
後半の展開等もスピーディで良かったのですが、もう少し面白くできるところもあったかな。
たぶん伏線の張り方がうまくないからというのと、設定がえらくざっくりしているところが良くないところかと。
ニックがやっていることは言わばブラフで、それに注目させることにより、別で進行させている計画を無事に成し遂げようというものです。
マジックなどのトリックで行われる手法ですね。
こういう映画は、こういうふうに思わせといて、実は・・・、みたいなことをやると俄然面白くなるのですが、そういうミスリードを誘うような仕掛けはあまりないのですよね。
ネタとしてはあるわけです。
ただそれを活かしきれていない脚本であり、演出だったかなと。
あと設定のざっくりさは気になる人が観ると、ちょっと厳しいところがあるかもしれません。
なんで彼らは、忍び込むビルの警備状況をあんなにも詳しく知ることができているのか。
また侵入者はほぼずぶの素人なわけで、ああいうミッションをやり遂げる自信が本当にあったのか。
そもそも計画のシナリオもけっこうアバウトなところがあったりするのだが、それでいいのか、などなど。
勢いで見せきっちゃうという考えだったのかもしれないですが、やっぱりちょっと気になりますね。
アイデア的にはもっと面白くなりそうなところもあったと思うので、ちょっと惜しいって感じがしました。

「アバター」で初めてサム・ワーシントンを観たせいか、どうも彼の長髪は似合わないと思ってしまいます。
「タイタンの逆襲」でも思ったのですけれど。
野暮ったい感じがするんですよねぇ。
まぁ、一介の元警官役だからいいのかもしれないですけれどね。

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2012年7月 7日 (土)

「臨場 劇場版」 残された者のために

人気ドラマ「臨場」の劇場版になります。
例によって原作小説も未読、ドラマも未見です。
最近このパターン多いですねー、テレビあまり観ないもので。

本作の主人公、倉石は警視庁の検視官です。
検視官とは変死体の状況捜査を行う司法捜査員のことらしいです。
言わば何百という死と向き合ってきた人なのですね。
彼の信条は「死体の声を聴く」、死者が伝えられないメッセージを根こそぎ拾ってあげるということを彼は常に考えています。

物語の冒頭で無差別通り魔事件が起こります。
4人が殺害され、その犯人は逮捕されますが、精神鑑定により心神喪失とされ、刑法第39条が適用されて無罪となりました。
そして、それから2年後、その事件に関わっていた弁護士と精神科医が殺害されます。
通り魔事件の被害者家族が、容疑者ではないかと疑われます。
しかし、事件はそのような簡単なものではなく、いくつもの他の案件が絡み、どのように物語が進んでいくのか予断が許さない展開でした。
犯人についてはこの人ではないかと類推されるものの、いろいろな人物が絡むため最後まで気を抜けません。

人と人を必ず分つものは、「死」です。
これは誰もが逃れられない。
まだ予期される死であるならば、まだいい。
残された時間の中で、去る者、残される者で何かしらのやり取りができるでしょうから。
けれども、それが突然であるならば。
去りゆく者の無念はもちろんですが、残された者のいたたまれなさといったらいかほどのものでしょうか。
昨日までそばにいた人がいなくなってしまう。
別れに先立ち、何かを言葉を交わすこともできない。
去っていった者は、幸せだったのか、不幸だったのか、楽しかったのか、辛かったのか。
それを聞きたくても、もう聞くことはできません。
残された者の辛さはそこにあります。
本作では、突然の死により愛する者を失った人々が登場します。
主人公、倉石もその一人。
彼は妻を無差別殺人で失い、それにより検視官の道を歩み始めた男です。
そして本作の冒頭の通り魔殺人事件で、娘を失った関本直子。
倉石の恩師である安永教授も、妻を自殺で失っています。
また物語に絡んでくる神奈川県警の巡査、浦部も息子を無実の罪を被されたうえでの自殺でなくしました。
彼らは、自分に問いかけるわけです。
失った愛する人がどう思っていたか。
自分が何か間違えてしまったのか。
そしてこれから自分はどうしていけばいいのか。
その疑問はなかなか解けるものではありません。
彼らはそれぞれあがきながら人生を生きていくという重荷を背負わされるのです。
そういう人がいるからこそ、倉石は死者のメッセージを根こそぎ拾おうとするのでしょう。
それにより、残された者の気持ちが幾ばくかでも軽くなることを願って。

<ここから先はネタバレしてます>

僕がうたれたのは、直子のエピソードでした。
彼女の娘は、冒頭の通り魔事件で無惨にも殺されました。
直子は3年経ってもなお、なぜ娘が殺されてしまったこと、そして娘がどのように思い生きていたのか、さらには自分は娘をきちんと育てられていたのかという疑問に苛まれています。
彼女曰く、娘はちゃんとした子ではなかったということ。
高校も勝手に辞め、何を考えているのかわからなかった。
自分は育て方を間違っていたのではないか、それで娘は不幸だったのではないか。
いくら考えても答えはでるわけはありません。
けれど、観客である我々は、彼女の娘はちゃんとした子であったことを知っています。
彼女は事件のとき、子供を身を挺して守ろうとした母親を刺そうとした犯人に「止めて!」と言います。
逃げ出さなかった彼女も、犯人に刺され命を失ってしまうわけです。
彼女はちゃんとしていた子でした。
そういう子であったということを、苦しむ母親にも伝えてあげたいというもどかしさが観ていてずっとありました。
それがラストでしっかりと直子に伝わり、とても良かったと思いました。
これも倉石が根こそぎ拾ってあげた結果であったのでしょう。

残された者がやるべきことは懸命に生きること。
そして死にいく者がすべきことは、何かを残していくこと。
犯人はそれをどこかで間違った。
そして倉石は。
確実に彼らの後輩の心のなかに何かを残せていったと思います。

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本 「特高警察」

特高警察、これは正式には特別高等警察で、戦前から戦後間もなくGHQの人権宣言により廃止されるまで、存続していた警察の組織です。
この組織は「悪名高き」と言われるように、(これも悪法と言われる)治安維持法を運用し、スパイ活動や検閲、拷問等により、政府に反対する活動を封じ込めを行ってきました。
そもそもこの組織は「国体護持」のため、政府に対して反対意見をもつ組織や個人を取り締まるために作られました。
作られたのは明治後半ですが、まだまだ国家として不安定さがある明治政府が国の治安を安定化させるために必要としていたのはわからなくもありません(人権を無視するような行動は別ですが)。
元々は民主化運動に対して、その後共産主義などの左系、また国家主義者などの右系、さらには外国人(中国人、朝鮮人、ロシア人等)といったところまで取り締まりの範囲を広げていきます。
その後、治安維持法等が導入され、ある種の制限がなくなったことにより人権を迫害するような取り締まりを行うようになっていったのです。
そこの方便として、国体維持という考えがあり、このためには何事も許されるといった心理が特高警察にはあったようです。
戦後、GHQにより特高警察は解散させられますが、その後、朝鮮戦争勃発など世界的に東西対決が鮮明になるなか、アメリカの意向もあり、警察組織の中に公安部門が作られます。
この組織には、戦前の特高警察の人間も多く復帰しており、実際は脈々と特高警察的な思想(人権侵害的なものはないにしても)は受けつがれていると著者は書きます。

こういう公安組織というものは、ドラマや映画などでは謎の組織、得体の知れない組織として描かれることがありますよね。
実際に今でも公安組織はスパイの運営等はしています。
これは現在公開されている映画「外事警察」(外事課は公安警察の一部門)でも描かれている通りです。
あの映画の中でも住本は「国益」のためにと何度か言いますが、これは戦前の特高警察から続く思想そのものだと思います。
またこちらも現在公開されている「図書館戦争 革命のつばさ」で登場する良化隊という組織は「検閲」に特化していますが、国の考えと反する著作物を取り締まろうとする点でおいては、物語的には「悪役」として描かれます。
国や国民の生活をひっくり返すようなテロや戦争などは未然に防がなければなりません。
そういう意味で「外事警察」で描かれるように、こういった公安組織といったものは必要であるのでしょう。
外国や、対テロ組織に対しては、いわゆる「きれいごと」だけではすまない事象というのは数多くあると思われるからです。
ただだからといってそこに無制限に法律ギリギリ、時には超法規的な活動を認めるわけにはいかないと思います。
戦前の特高警察、または「図書館戦争」の良化隊のような方向に、力と思想をもった組織は振れていく危険性を孕んでいるからです。
組織の性質上、その活動を一般国民までオープンにすることもできないでしょう。
そうなるとその組織を運用する官僚、そして政治家には、「良識」といったものが求められるわけです。
こういった組織を直接監視することはできないにしても、官僚や政治家にはしっかりと国民が目を配っていかなければいけないのかもしれません。

「特高警察」萩野富士夫著 岩波書店 新書 ISBN978-4-00-431368-7

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2012年7月 6日 (金)

「ワン・デイ 23年のラブストーリー」 幸せなカップルはいっしょに観ちゃダメ

しっかり者で真面目、けれど自分に自信がもてないエマ。
ちょっとチャラ男なところもありながら、内面は傷つきやすさを持っているデクスター。
この二人が互いに惹かれながらも、すれ違い、そして寄り添ってきた23年の年月を、7/15という「ある日(ワン・デイ)」を切り取って描いたラブストーリーです。
予告を観て「ある日」だけで二人の人生を描くと言うのが、とても新しい試みだと思い、観に行ってきました。

<ここから先はネタバレあり>

あぁ、二人には幸せになってほしかった・・・。
これほどハッピーエンドを願った作品は、今までもあまりなかったです。
2006年の7月15日の問題のシーンで、僕は「あっ!」と声を出してしまいました。
ずっとすれ違っていたエマとデクスターがいっしょになれて、たった2年です。
あまりに早い別れでした。
でも観ていて、これは映画だから、エマはずっと病院で寝ていて、いつか目覚めて、二人は幸せな人生を送れましためでたしめでたしとなるはずだという思いもありました。
そうなってほしいと。
でも、2007年の7/15で荒んだデクスターの姿が描かれ、そしてその後2008年、2009年と7月15日は過ぎていきます。
僕は観ていて、さきほど書いたようにエマの事故のシーンでけっこうショックを受けてしまいました。
けどいつかエマは戻ってくるのではないかという思いも。
エマは死んでいないって。
でもエマは戻ってくることはなく、そして2011年の7/15をむかえ、エンディングに入りました。
それで、ああエマは死んでしまったんだと。
もう戻ってこないのだと受け入れたわけですね。
この2008年から2011年までを観ていたときの、ショック、信じられないという思い、切なさやるせなさ、そして最後には受け入れるということ。
これはまさにデクスターが、エマの死からたどった気持ちと同じなのだろうなと思いました。

エマとデクスターの二人は表面的にはタイプの違う人であったように見えますが、その本質、内面は似ているものを持っていたのだと思います。
二人の内面は自分自身への自信のなさであったのだと思います。
その自信は何か自分の中に欠けているものがあるということではなかったのかと。
その欠けているワンピースは、エマにとってのデクスターであり、デクスターにとってのエマであったのだと思います。
だからこそ二人は惹かれあったのでしょう。
でも、どちらかが相手を強く求めるとき、もう一人はそれに応じられる状況ではなかったりというすれ違いが起こります。
もしかして片方が自分に自信があり、相手を押し切る強さがあれば、もっと二人は早くからいっしょになれていたのかもしれません。
二人はともに相手を大切な人だと思っているから、それを失うのがおそろしかったのであったのかもしれません。
一線を越えてしまったあとに破局があって、それ以降相手がいない人生を選ぶことになるのであったら、ずっと友達のままのほうがいいと知らず知らずのうちに思ったのでしょう。
つき合ってから先にうまくいかないかもしれないと恐れて、つき合い始められないというのは、根本的に二人の自分自身に対する自信のなさがでているのだと思います。
それでも二人が勇気をもって互いに踏み出し、そして幸せな生活を初めて間もなくのあの事故。
運命というのは過酷なものだといっても、これはとても辛い結末でした。
デクスターに感情移入してしまっていたので、けっこう自分自身も観ていてダメージが・・・。
けっこう切ない気分で劇場を出ました。
そのため劇場の中に傘を忘れてきてしまいました(泣)。

この映画、ラブストーリーだからといって、幸せなカップルがいっしょに観に行くことはオススメしませんね。
切なくなるでしょうから。
二人が別々に観に行くといいかもしれません。
お互いの大切さを、再認識できるかもしれないから。

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2012年7月 1日 (日)

本 「決起! コロヨシ!!2」

三崎亜記さんの青春小説「コロヨシ!!」の続編です。
1作目のレビューの時にも書きましたが、三崎さんの作品の特徴というのは「日本っぽいのだけれど、根本的に何かが違う日本」という世界を構築して描くことがあげられます。
そういった根本的な違いを、絵空事っぽくせずにその世界として成立しうるほどに設定が考えられているというところが特徴なのですね。
しかし、実は三崎さんの作品ではその根本的な違いがある「日本」を舞台にし、そこで起こる出来事はその違いに基づき丁寧にシミュレートされているのですが、なぜそういった世界ができているのかという根本問題には踏み込まないのですね。
僕はそういうところが三崎さんらしいポイントであると思うのですが、それは人によっては読者に対して不親切だと感じることもあるかもしれません。
彼の作品がそれほど一般受けしない(少なくともベストセラーに入るという感じではない)というのはそういうところにあるかもしれません。
1作目の「コロヨシ!!」は三崎さんのある種のとっつきにくさを青春小説という形をとることにより、ずいぶんと一般的に手に取りやすくしています。
その続編となる本作では、このシリーズで語られる「掃除」とは何なのか、「居留地」「西域」というこの国の隣にある国はどういうところなのか、そもそも主人公たちはどんな運命に操られているのかという、1作目では深く語られなかったことについて書かれています。
そういう意味で本作は「コロヨシ!!」というシリーズの世界観の解説編といったところもあります。
個人的には元々の三崎さんのなぜこういう世界になっているかというところを端折ってしまっているところが、かえってリアリティを生んでいる(現実と違う世界にいるからこそ登場人物の人間性がでてくる)と思っているので、少々親切過ぎるかなとは思いました。
解説を上手くしようとするがために、辻褄合わせだったりご都合主義的な感じもしてしまったからです。
とはいえ、今までの三崎さんの作品に比べては格段に読みやすいのは間違いがありません。
手に取りやすい作品になったかと思います。
従来の三崎亜記ファンがどう反応するかはわからないですけれども。

1作目「コロヨシ!!」の記事はこちら→

「決起! コロヨシ!!2」三崎亜記著 角川書店 ハードカバー ISBN978-4-04-110092-9

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